歸國
田山花袋



         一


 一行は樹立の深く生茂つた處から、岩の多い、勾配の高い折れ曲つた羊齒の路を喘ぎ喘ぎ登つて行つた。ちびと綽名をつけられた背の低い男が一番先に立つて、それから常公、政公、眇目の平公、子供を負つた女もあれば、木の根に縋り付いて呼吸をきらして登つて行く女もある。年寄もあれば、若い者もある。一行總て十五六人、誰も皆な重さうに荷物を負つて手には折つた木の枝を杖にしてゐた。

 十月の初めは、山にはもう霜が置いた。風も寒かつた。昨日の朝などは、温度が俄かに下つて、山の奧には白く雪が見え、谷から汲んで來たバケツの水は薄く氷つた。つく呼吸は朝の空氣を透して其處此處に白く見えた。かれ等は山から山へと長い間を越えて來たことを思つた。

 彼等は其處此處で一緒になつた。かれ等は初めから多人数ではなかつたのである。今から一月前には、眇目の平公とその嚊と常公とが一緒に歩いてゐた。かれ等は晝間は普通の人間と少しも變らぬやうにして里に出て、さゝらや椀の木地や蜂の巣などを賣つた。『さゝら入りまへんか。』かう言つて、かれ等は農家の軒から軒へと歩いた。それは大抵山に添つたり谷に臨んだりしてゐるやうな村里で、それから一二里と隔てた町や都會へは、かれ等は滅多に出て行かなかつた。老人が留守を守つてゐる農家、鷄犬の聲の穩かにきこえる村落、賣るものがなくなるとかれ等は平氣で乞食になつた。時に馬鈴薯の一桶や甘藷の一包を盜むこと位はかれ等は何とも思つてゐなかつた。

『また、山窩奴が來やがつたんべ。』

 村の人達は、常に馴れて知つてゐるので、別に怪しみもしなかつた。

 鋸、鉈、鉋、小刀、小鋏、さういふものをかれ等は皆な一人々々持つてゐた。それも普通里で大工が使ふやうな大きなものではなく、屈折自由な、それでゐて切味の非常に鋭利なものであつた。かれ等は賣るものがなくなると、官林であらうが、民有林であらうが、さういふことには頓着なく、自分に都合の好い木材を切り倒して、必要な部分だけを切り取つて、そしてさつさと山から山へと移つて行つた。

 かれ等は材料のあるところをよく知つてゐた。見事な竹で蔽はれてゐる谷、美しい樹木の青々と繁つてゐる谷、さういふところでかれ等は三日四日を費した。ある里に近い山では、男は宿泊地に殘つて、木地を拵へたりさゝらを造つたりしてゐる間に、女は二人三人揃つて、それを持つて、近いあたりの里を賣つて歩いた。

 かれ等の行く處には、小さな轆轤を店の傍に備へて、終日椀や盆の製造に忙殺されてゐる家などもあれば、下駄屋の看板をかゝげて、亭主がせつせと仕事場で鉋を使つてゐる家などもあつた。

『これや高けいや。』

『高いもんかな。山坂越えて骨折つて持つて來るだで。さうして呉れや、この前も、さうだつたでな。』

『お前ち等のは、元がいらねえだで、いくら安くつても間に合ふべい?』

 こんなことを笑ひながら言ふと、

『何うしてな、この頃ぢやな、お上が喧しいだで、とても駄目だな、皆な、元を出して買はねえぢや木の片一つありやしねえ。えらい時世だ。』

『うそ、こけ。』

『まア、それぢや、かうして置くべい。それなら好かんべ。また、來年、買つて貰ふだでな。好かんべ、それで……。』

『丁度にして置け。』

『丁度? それはひどいや。そんな眞似すれや、小言言はれるア。』

『誰に? お方にか?』

 かう言つて笑つて、『お方ア、山さゐるんか。』

『ゐねえし、もう。』

『露にぬれてもお方は山で待つてゐる! かな。』

『あほらしい。』

 女はかう言つて笑つた。汚ない扮裝をしてるけれど、中には色の白い髪の濃い女などもあつた。時には不思議にして、かれ等の生活や故郷などを根掘り葉掘り聞くものなどもあつた。『さうかな。先祖から代々さういふ事してゐるのかな。餘程ゐるのかな。仲間は千人も二千人も? ふん、そんなにゐるのかな。そして日本中を山から山へと股にかけて歩いてゐるんだな。面白いな。ふん、會津の方まで行くのか。そして故郷は何處だな。』

 しかし、男にしても女にしても、かれ等の群は、滅多にその生活や故郷や祖先を語らなかつた。かれ等は訊かれると、唯薄氣味わるく笑つてばかりゐた。それにかれ等に關しての傳説は、一層普通の民とかれ等との間を隔てた。里の人達は言つた。『あいつ等はそつとして置くに限るぞよ。生中、あいつ等のことを聞かうとしたり、あいつ等の中に入つて行かうとすると、えらい目に逢ふぞよ。あいつ等の仲間は昔から堅い約束があつて、少しでも仲間のことを世間に洩らした奴は、成敗されて了ふといふことだし、里の人でも、あいつ等のことを餘りよく知つてゐると、何んな目に逢ふかわからんぞ。そつとしておけよ。それに限るぞ。』


         二


 平公と嚊とはある谷間で十日ほど過した。それは丁度夏も終りになつて、蟲の聲などの靜かに聞える頃であつた。毎日續いて雨が降つて薄い小さいテントからは雨滴が佗しく落ちた。二月三月精出して働いて、里に木地やさゝらを賣つて來たので、金も米も不自由しないほどかれ等は貯へて持つてゐた。平公は狹いテントの隅に形ばかりの仕事場を拵へて、終日長く木を切つたり削つたりしてゐた。木の葉や木の枝を澤山に取つて來てテントの上に置いても、それでも雨はぽた〳〵と洩れた。平公の頭の髪は半ば濡れてゐた。

『しけて、しやうがねえな。』

『ほんまに……もう止まずかと思ふが。』かう言つた若い嚊の髪の毛も矢張り雨滴で濡れて光つてゐた。平公は去年までは獨身であつた。毎年獨りか、でなければ、仲間の一人二人と山から山へと仕事をしながら放浪の生活を送つた。平公は去年の冬の初めの歸國を思ひ起した。一年に一度、國では結婚をするために同種族のものが全國から集まつて來るのが例になつてゐた。

 彼方此方に散つたその種族の人達──さういふ人達は年頃になつた人達の結婚を祝ふために、遠いところから一度は必らず遙々その故郷へ歸つて行くのであつた、去年の冬、平公は其處で今の嚊を貰つた。

『また、ぢき、冬になるな。』

『ほんまに……』

『いつまでぐづ〴〵してもをられねえぜ。』

『それにしても、早う天氣さなれば好いと思ふだ。』

 鍋一つ、バケツ二つ、水を汲むにも、飯を炊くにも、物を洗ふにも、すべて皆これで間に合はせた。土を掘つた竈には、藤蔓で鍋がかけてあつた。濡れた木は容易に燃えなかつた。

 烟は湧くやうに低く地を這つた。

『けぶいな。』

『でも、濡れてるだで、燃えねえ。』

 顏を竈に押附けるやうにして若い嚊は吹いた。火はやがてぱッと燃え上つた。

『何だな、煑てるんは?』

『芋だがな。』

 さうかと言ふ顏をして、平公はまた仕事に取かゝつた。それは二三日前、一里ほど里に下りて行つたところにあつた山畑からそッと取つて來た里芋であつた。一しきり盛んに降つた雨は、やがて小降りになつたが、今度は霧が一間先も見えない位に深く立罩めて、あたりは唯白く茫と打渡されて見えた。何處かで山鳩が啼く聲がした。

 若い嚊は鍋の蓋を取つて、箸をさして見て、それを平公の方へと持つて行つた。鹽を袋の中から一つまみ出して來た。

『食はねえかえ?』

『うん……。』

『これは旨かんべいよ。』

『さうだな。』

 平公はそれを一つつまんで、鹽をつけてむしや〳〵食つた。

『里のは、旨いや。』

『さうだな。』

 若い嚊も二つ三つ食つたが、深い霧の處々切れて晴れて行くのを見て、『好い鹽梅だ。晴れつかも知んねえ。』

『さうだな。』

 かう言つたが、『今の中、水汲んで來やれな。又、降ると困るぞ。』

『さうだな。』

 若い嚊はぐづ〴〵してゐたが、やがてバケツを二つ天秤棒代りの木の杖にかけて、手拭で頬かむりをして、そのまゝ霧を衝いて出て行つた。雨はまだチラ〳〵落ちてゐた。

 二三町行つた谷合に、綺麗な水が流れてゐるのを若い嚊はよく知つてゐた。かの女は平公と夫婦にならない以前にも、親に伴れられたり、仲間の女に伴れられたりして、二度も三度も此處に來て泊つた。ある夏の初めに來た時には、其處から草花の見事に咲いた高原を通つて、さゝらを持つて、大勢して里の方へ出て行つた。

 露の深い草の中を通つて、崖のやうになつた處を少し下りると、ちよろちよろと水の流れる音がして、下流の岩に碎けるのが白く見え出して來た。やがて川の岸に下り立つた若い嚊は、バケツを石と瀬の間に入れて、水の一杯になるのを待つた。

 一つを持上げて、又一つを入れた。

 ふとガサガサと草を分けて來るものの氣勢がして、山猪か、でなければ鹿か、熊はまだ出るわけはないと思つたが、そのまゝぢつと音のする方を見た。かの女は鋭利な鎌を腰にさしてゐた。

 突然草の中から人の姿が現はれた。

『オ。』

『これは──』

 顏見合せて二人は一緒に聲をあげた。やがて、『常やんぢやねえか。誰かと思つた。俺ア熊かと思つた。』

『ヤア、まんさんか。』

 かう言つて常と呼ばれた男は近寄つて來て、『好いところで逢つた。平さん、一緒かな。』

『ゐたつけ。』

『好い處で逢つた。……里で食つちやつてな。俺ア大急ぎで、遁げて來ただが、えらい眼に逢つた。』

『さうけえ。』

 常公は矢張バケツと鍋とを負うてゐた。テント代りにする桐油を上から着てゐるが、帽子がないので、頭髪はびつしより濡れて額にくつゝいてゐた。

 水の滿ちたバケツをかついで、常公と並んで歩きながら、

『何うしただえ?』

『えらい眼に逢つたぞな、里で、……まア、これでやつと安心した。』

『何かしたんべ?』

『うん……。』

 あとは言はずに、二人はテントの張つてある方へと來た。仕事をしてゐた平公は、話聲が聞えるので、不思議にして、手をとゞめて其方を見たが、嚊と一緒に桐油を着た男が歩いて來るので、其まゝ立上つて外へ出た。

『ヤア、常公か、めづらしいな。』

『今、其處で逢つたでな……俺ア、びつくりしたよ。』若い嚊は、かう言ひながらバケツをテントの入口に下した。

『何うした、常?』

『何うしたにも、何にも、えらい眼に逢つた。』

『矢張、此處等にゐたか?』

『里へ行つたでな。』

『さうか、里へ行つてたか。……まア入れヤ……』

 で、常公は負つて來た荷物を下して、そのまゝテントの中へ入つて行つた。

『寒かつたんべ。』

『寒いより何より、えらく降られてな。』かう言つたが、『おめいさ、此處にゐるとは知らなんだ……いつ來ただ?』

『もう、十日になるア。』

『いゝ仕事があるかな。』

『なんの。』

 若い嚊が火を燃したり何かする傍で、常は濡れた衣を乾かした。そして、途切れ途切れに、自分のやつて來たことを相手に話した。常は五六人の仲間と、木曾の山の中を通つて、針の木の方まで行つた。何うも旨いことがない。里に近いやうなところは、警察がやかましかつたり、木材がなかつたりして、仕事が出來ない。さうかと言つて、あまり山の中では、折角、好い木があつても、それを里へ持つて行くのに不便だ。仕方がないので、烟硝を買つて來て、穴蜂の巣を取つたり、川へ下りて、岩魚や鰍を取つたりしたが、何うも思はしくない。で、針の木で皆とわかれて、一人になつて里へ出た。或町では乞食をした。ある村では畠のものを盜んで一里も追ひかけられた。それからある處では石灰の取れる山に工夫になつて行つて、そこで一月ほど働いた。

『何うしてぼやされた?』

 かう訊かれても、常はぐづ〳〵してゐるので、

『あまつ子にかゝつたんべ?』

『…………。』

『あまつ子にかゝつちや、里ぢや、ぼやされるア。』

『なアにな、俺もわりんさ。』常はかう言つて、『何うせ里にやゐられねえ。山へつツ走らうと思つてゐただでな。つい出來心でな。』

『工夫をしてたか?』

『いや、それからはいろんなことをしただ。工夫を一月して、それからまた乞食をして、町の中を荒して歩いて、四五日前に、この下の村さ來たゞ。里はもうよく〳〵厭だ。今日山へ來ようか明日山へ突走らうかと思つてゐたゞ。停車場があらアな。あそこから山へ出て來ると、畠にひとりあまつ子が出て働いてゐる。綺麗なあまつ子だ。ふと、ひよんな氣になつた。……おめいさ、それも無理はあんめい、女ツ子の肌なんて、今年は一度だツて出會さねえんだからな。』かう言ひかけて常は笑つた。

『で、かゝつたんか?』

『さうよ。旨くやつたんよ。ところがそれが知れてな。昨日、一日、あの雨の中を逐ひ廻されて、それからやつとの思ひで此方へと入つて來た。』

『おまはりも出て來たかや?』

『出て來たにも何にも……』

『それやいかんな。此處まで來やしねえか。』

『この雨だから、此處までは來めいがな。』

『なんともわかんねえぞよ。』

 平公はいくらか不安になつたといふ風で、『あまつ子にかゝるのはわりいぞよ。おめつちも、だから、もう上さん持てツて言ふんだ。』考へて、『大丈夫かな、來やしねえかえ、此處はまだ里に近いでな。』

『大丈夫だんべ。』

『でも、安心なんねえな。この向うの山越せや、大丈夫だがな。』

 俄かに平公は不安心になつて來た。飛んでもねえ奴に入つて來られたとも思つた。平公は明るくなつて來た空とまだ餘り遲くない日射とを見た。幸ひに此處には仕事はもう澤山に溜つてゐなかつた。四日ほど前に嚊と二人で里に下りて、仕事したものを米と金とに代へて來た。

『天氣も上りさうだで、向うまで行かうかや?』

『これから?』

 若い嚊は眼を睜つて、

『でも、此處にゐちや、危ねえからな。』

『ぢや、おらつち一人行くべいか。』かう言つて常は立上つた。

『おめい、獨り行つたツて、おまはりが此處に來ちや駄目だアな。何アに好い。行くべい、行くべい。此處にや、もう用はねえだでな。』決心したやうに、『何アに、二里とちよつとだ。今、行けや、日のある中に向うへ行き着けるだ。』

 で、平公は急いで出發の準備に取懸つた。山から山へと放浪して行くかれ等の生活は、いざと言へば極めて單純なものであつた。鍋、バケツ、鉈、鉞、鋸、さういふものも、箱に入れると、小さい包になつて了つた。樹に結びつけたテントを外して、夫れを小さくたゝんで、平公と若い嚊とはそれを適度にわけて負つた。

『氣の毒だつたな。』

 かう何遍となく常公は言つた。

『何アに、何うせ、もう、明日か明後日は向うに行かうと思つてゐたんだ。』

 雨はまた少し降つて來た。しかしかれ等は別にそれを苦にするといふでもなかつた。かれ等の立つた跡には、鉋屑と、竈と、燒火の跡とが殘つた。切り倒した木も縱横に散ばつてゐた。

 かれ等が高原の草原から羊腸とした坂路にかゝる時には、それでも雨は晴れて、白い或は灰色の雲が渦まくやうに峯から峯へと湧き上つてゐた。雲の間からは、大きな深い紫色をした山が見えたりかくれたりしてゐた。名も知らない鳥が向うの山裾の深林の中で鳴いてゐた。


         三


 其處に三日ほどゐて、それから三人は又別の方へと移つて行つた。それでも常公は工夫になつて働いた時に貯めた金をまだいくらか持つてゐたので、金を出して、平公から米を分けて貰つた。

 矢張、里に近いところでなければ、仕事をして、それを買つて貰ふことが出來なかつた。で、かれ等は前の山とは正反對の山の裾の處に來て、桐油を張つて五六日其處で暮した。秋はもういつかやつて來てゐた。山で取れるものには、初茸、松茸、しめじ、まひ茸などがあつた。しかしそれも時の間になくなつて、日が照つたり雨が降つたりしてゐる間に、朝晩は持つてゐた着物でも寒い位になつた。平公夫婦は、常公を山に置いては、さゝらだの木地だのを持つて里の方へ出かけて行つた。

 ある日は大祭日か何かで、里では、國旗が學校や役場やその他の民家の軒にかゝげられて、酒に醉つて赤い顏をした人達が彼方此方を歩いてゐた。ある木地屋では、平公夫婦は酒や蕎麥を御馳走になつた。お金の澤山に取れた時には、かれ等は白鳥に一杯地酒を買つて、それを山に持つて來たりした。

 常公はいつも獨りで別に桐油を樹間にかけた。かれは木地をつくるよりも、蜂を取つたり、岩魚を取つたりする方が得意で、岩魚は燒き串にさして、そして里へ持つて行つた。

『もう、冬が近づいた。國に歸るのももうぢきだ。』

 かう言つて、平公は常公の桐油を訪ねた。この冬は是非嚊を持つやうに平公は勸めた。『一人で稼ぎに出るのと、二人で出るのとでは、大變な違ひだぞな。何しても二人だと樂みで好いだ。この冬に、うんと好いのをさがして、早く祝儀をする方が好い。』かう言ふかと思ふと、『でも、この冬は俺は樂しみがねえな。嚊のない時分には、一年一度國に歸るのが、何より樂しみだつたものだがなア。』

『でも、皆なに逢へるから、樂みでねえこともあんめい。』

『それはさうだがな。』

 一年一度の同種族の會合、そこに集つて來る大勢の人々、彼方此方から持つて來るめづらしい御馳走、あの時の宴會の歡樂は、言葉にも言ひ盡すことが出來なかつた。大勢の若い娘達、それを其の日其の夜は何處に伴れて行つても差支なかつた。樹間に幾つとなくかけられた桐油小屋、バケツの中に一杯滿された酒、年寄も若者も一緒になつて賑はしく歌を唄つて躍つた。

 彼處に五日、此處に三日といふやうにして、かれ等は次第に國の方へと近づきつゝ放浪して行つた。峯から峯、谷から谷、林から林と移つて行くかれ等は、ある宿泊地で、最初に、三人づれの同種族と一緒になつた。

 老いた婦に若夫婦、その若夫婦は今年二つになる子供をつれてゐた。その群を最初常公が發見した。

『何うも、あそこに桐油があるかしら?』

『何處に……』

『そら、あの山の陰の林の中に。』

『あれやさうかしら?』

 若い平公の嚊は、かう言つて始めは本當にしなかつたが、漸くそれは同じ種族の群であるといふことがわかつた。で、此方からも行けば向うからも來た。その群は始め十五人で、一昨年、遠い會津の山奧から南部の方へと入つて行つたが、昨年はたうとう國に歸ることが出來ず、日光の奧で年を迎へて、それから、上州から信州の方へと段々出て來たといふことであつた。艱難も多かつたらしく、その中のある群とは、會津でわかれ、南部でわかれ、最後に上州でわかれた。『今年は何うしてもな、一度、國に歸るべい思つてな。』かうその老婦は話した。

 老婦は一つの位牌を肌身離さずに持つてゐた。それは一昨年同じく國を出て、途中で死に別れた一人息子の位牌であつた。老婦は涙ながらにその話をした。『會津から南部に行く途中だつたけな。急に、病氣になつてな、吐くやら反すやら、里のお醫者にもかゝる間もなくて、つい、死んで行つて了つたがな。平生丈夫ぢやつたで、こんなことがあらうとは夢にも思はなかつたで、俺ア、一時氣拔けのやうになつて了つたゞ。それでも、皆なは氣の毒だと言うて、えらく力になつて呉れしやつた。』かう言つた老婦の眼には、ある山から下りて行つた森に圍まれた寺や、本堂や、珠數を繰つた人の好ささうな老僧や、山の上の火葬の夜のさまなどが、今も歴々と映つて見えた。

『これに骨が入つてゐるのだよ。』

 かう言つて老婦はその持つてゐる小さな瓶を平公と常公に見せた。

 かれ等は何んな遠い山の中で死んでも、決してその屍を異郷に葬ることはしなかつた。かれ等はさういふ不幸に出會すと、山の上で、木を集めて、それを火葬にして、いつも骨を遠くその故郷へ持つて來て埋めた。そこにはかれ等の祖先がゐた。古い系統と古い歴史とを持つたかれ等の寺があつた。

『まだ、若いだんべ。』

『二十七だよ。』

『まだ、上さんも持たずか?』

『今度歸つたら、嚊でも持たせべい思つてゐたゞよ。』

『可哀想なことをしたよな。』

 老婦は涙を流した。利益の多い遠征ではあつたが、またそれだけ艱難の多い旅であつた。老婦は木の多い山、産物の豐富な山、淳良な氣風の里の話をすると共に、危い崖、恐ろしい猛獸、凄しい山海嘯の話などをした。其地方では恐ろしいのは警官ではなくして自然そのものであつた。日光の山奧などには、いくら伐つても伐り盡せないほどの木材があつた。そこにある山奧の温泉は、川一面が湯で、上州でわかれた群の一人がその前の絶壁から落ちて怪我をした創傷を一日か二日で治したといふことがあつた。熊や猪などにも度々出會つた。

 かれ等はしかしかうした長い遠征をも決して辛いとは思つてゐなかつた。幼い頃から親に連れられ、仲間に伴はれて、草を枕に、露を衾に平氣で過して來た習慣は、全くかれ等をして原始の自然に馴れ親しませた。それにかれ等の血には放浪の血が長い間の歴史を持つて流れてゐた。

『此處まで來れや、もう、國へ歸つたも同じだな。』

 などと若い夫婦も言つた。夫婦はかなりに多く金を貯蓄して來た。かれ等も矢張、冬の會合のことを樂みにしてゐた。親にも逢へれば同胞にも逢へると思つてゐた。馴れてゐる故もあらうが、南部の山の險しいのに比べては、此方は平地のやうだなどと言つてゐた。

 其處にかれ等は一週間ほどゐた。平公夫婦の毎日里の方へ下りて行くのに引替へて、遠くから來た方の人達は、多くは山で遊んで暮した。

 平公夫婦の里に行つてゐる間に、ある日、里の人達らしい男が二人此方へとやつて來た。その時は別に何も言はずに歸つて行つたが、そのあくる日に、白い服を着て、劍を下げた人達が草鞋ばきで、二人三人までやつて來た。

『貴樣達は何處から來た。』

『…………』

『山の向うや此方でわるいことをしたのは、貴樣達だらう?』

『…………』

 かれ等は一番多くかういふ人達を恐れた。そしてかういふ人達は、きまつて、かれ等に籍の所在地を聞いた。しかしかれ等はさういふものを何處にも持つてゐなかつた。強ひて詰問されると、かれ等はかれ等の頭領から持たせられた木地屋の古い證書の冩しのやうなものを出して見せた。それは七八百年も前の政廳から公に許可されたやうなもので、麗々しく昔の役人達の名と書判とがそこに見られた。全國の山林の木は伐つても差支ないといふやうな文句がそこに書かれてあつた。

 白い服を着た人達も、要領を得ないかれ等種族を何うすることも出來なかつた。徳川幕府の潰れたのも、明治の維新になつたのも、京都から東京へ都が遷つたのも、日清戰役があつたのも、日露戰爭があつたのも、軍艦が出來たのも、飛行機が出來たのも、何も彼も知らないやうなかれ等の種族には、何を言つて聞かせても效がなかつた。後には、警官達も持餘して、唯一刻も早く、自分の受持つ管内からかれ等を立去らしめることをのみ心がけた。

『一刻も早く立去れ。』

『…………』

『わかつたか。』

『…………』

 翌日は、其處を去つて、かれ等は別なところへと移つた。一しきり雨の時節が通り過ぎると、今度は秋の美しい晴れた日が毎日續いた。重なり合つた山は、くつきりと線を碧空に劃して、破濤のやうに連りわたつた山嶺は、遠く廣く展開されて見えた。木の葉は紅葉して、朝日夕日は美しくこれを照し、月は銀のやうな光をあたりに漂はせた。谷川の囁くやうな響は微かに下に下に聞えた。

 鹿の鳴音が笛のやうに聞えた。

 それは廣い高原のやうなところであつた。草藪と林と落葉松とが廣くつゞいて、熊笹が一面に生え茂つた。ある日、夕日が西の山陰に沈んだ頃、平公はふとその廣い野原を越して、誰か五六人一緒に此方にやつて來るのを見た。後に負つた荷物と、杖と、桐油とは、矢張その同じ種族のものであるといふことを思はせた。

『おーい。』

『おーい。』

 呼び且つ答ふる聲がこだまに響いてきこえた。


         四


 一行は賑やかになつた。其處にも此處にもテントが張られて、若い娘や子供がバケツを下げて、水汲みにと谷川の方へ下りて行つた。後から來た群は、西の方の大きな山脈に添つて、崖を渉つたり谷を越えたりしてやつて來た。種族の中でも聞えた老人が一人ゐて、その孫娘やら息子やら仲間やらが一緒になつて來た。老人は宿泊地の所在、水の所在、路程の遠近などをそらで知つてゐた。かれは幼い頃から一生を山で暮した。南部の奧へも行けば、九州の果てまでも行つた。よく若者をその周圍に集めて、彼方此方の山の話や、處々で遭難した冒險談などをしてきかせた。

 孫娘は二人あつた。姉をあぐりと言ひ、妹を小菊と言つた。あぐりは二十歳、小菊は十八歳、何方もこの冬には相應な夫を持たせて、一人前の山捗ぎをさせる筈になつてゐた。娘達の元氣に笑ふ聲は、山裾の遠いテントから常に洩れてきこえた。

 平公は常公に言つた。『何うだな。あのあまつ子は?』

『うむ……』

 常公はにやにや笑つてゐた。

 傍にゐた平公の嚊は、『妹の方が好がんべ。容色も好いし、氣立も好いや。それに肥つてるアな。』

『あはゝ。』

 平公も常公も笑つた。

『でもな、もつと好いのがあるかも知んねえでな。』

『ほんまに……』

『好いのを選る方が好いがな。あんまり選ると、終ひには、相手がなくなるぜや。俺の嚊のやうなものでも、お方にして見りや好いもんだぞな。』

『まア、行つてからだ。國にや好いのが來よるぞ。』

 などと常公は言つた。かれはもうこの冬こそは必ずすぐれた氣に入つた相手を得なければならぬと思つてゐた。

 里に下りて行く路などで、何うかすると、常公はその孫娘達と一緒になつた。姉も妹も襤褸を着て、さゝらやたわしを背負つて尻を高くはしより上げて、後になり先になりして岨道を歩いた。

『をんさん(おぢいさん)おつかねえかよ。』

 姉も妹も笑ひながら頭を振つた。

『おつかなくねえけりや、俺らんとこへ來うな。』

『…………』

『來ねえ?』

 わざと調戯ふやうにして、『來れや、荊棘でも何でも負うぞな。三年一生懸命になつて働くぞな。南部へ伴れて行くぞ。』

『俺ア、なるべいか。』

 などと姉娘は笑つた。

『そんなこと言ふけど、好いのがあるんだんべ、ちやんと約束して置いたんべ、歸つて來るのを待つてるんだんべ。』

『さうかも知れねえよ。』

『當てゝ見べいか?』

『見さつしやい。』

 こんなことを言ひながら三人は縺れながら歩いた。娘達は一緒に行つた朋輩の一人二人が町で誘惑されて行方不明になつた話などをした。『何處へ行つたか、いくらさがしてもわかんねえだ。男でも拵らへて突走つたんだんべいがて言ふこんだ。』

『お女郎にでも賣られたんべ。』

『お女郎に、俺アもなるかや。綺麗だな、お女郎は──』妹を顧みて、『いゝ着物を着て、見ただけでも俺は吃驚したゞよ。金はくれるし、男は好き次第だつて言ふしな、山捗ぎなぞより何ぼ好いか?』

『ほんまにな。』

『雨にぬれなくつても好いし、働かなくつて好いしな。』

 常公は言つた。『でもな、山を出ると、好いことはねえや。』

 町へ出た娘達の話などを姉妹は胸に思ひ浮べずには居られなかつた。中には、一度出て行つた山に謝罪して再び戻つて來るものなどもあつた。町には好いこともあれば、怖ろしいことも澤山にあつた。昔、朋輩であつた娘の一人が其處から彼處へと賣られて、辛い〳〵世を送つてゐるのにひよつくりある處で出會つたことなどを娘達は思ひ起してゐた。『矢張り、山が好い。』姉も妹もこんなことを思ひながら歩いた。

 雨に濡れたり坂路を歩いたりするのは辛いけれど、時にはまた樂しい面白いことも山にはあつた。蕨、山牛蒡、山獨活、春は一面に霞が棚引いて、鶯やカツコ鳥が好い聲をして啼いた。谷には綺麗な水が流れ、山には美しい花が咲いた。生れたばかりの子供を負つて、やさしい力強い亭主と二人で、誰もゐない山の中を其處から此處へと放浪して歩く興味を娘達はをり〳〵頭に繰返した。

 老人のテントへは若い人達がよく遊びに出かけた。老人がせつせと木地をつくつてゐる傍で若い人達は娘と種々な話などをした。ある夜、姉が眼を覺してゐると、テントの外には、誰か人が來たやうな氣勢がした。ガサ〳〵と草をわける音がして、つゞいてある相圖の音がした。姉はじつとしてゐた。と、急に、妹の小菊は、そつと立つて、靜かにテントの外へと出て行くのが見えた。星が美しく空にかゞやいてゐた。

 あくる日、姉のあぐりは訊いた。

『昨夜何處へ行つたかや?』

 妹は吃驚したやうな顏の表情をしたが、『何故や?』

『だつて、行つたんべや?』

『何處へも行きやしねえ。俺ア。ちやんと、姉つ子の傍に寢てたがな。』

『さうかや。』

『何でそんなこと訊くだべや?』

『さうかや、それぢや、夢だつたかな。』かう言つて、姉は默つた。姉はその後は何も言はなかつた。

『おつさん。早う國へ歸りたいな。』かう言つて姉は涙を流した。

『この孫は、まア、何うしたんだんべ。國に歸りていなんて……。イヤでも、この冬には歸るだア。そして今年こそ、好い婿どん、取つてやんべいな。せつせと稼げよな、好い兒ぢやで。』

『…………』

『もうぢきだアな。此處に十日ゐて、それから、あそこに三日、あそこに七日、そしてあの大きな山を越しさへすりや、國はもう見えるだで。』

 などと言つて老人は慰めた。

 山の氣象は日に〳〵寒くなりつゝあつた。落葉はガサ〳〵と風に吹かれて飛んだ。落葉松は黄葉して、霜を帶びた下草は皆枯れて見えた。奧山は、早くも、雪が白くかゝつた。

 ある日は凄じい凩が山をも撼かすばかりに吹いた。木の葉も皆散り〴〵に、草は薙倒され、谷川の音は吠えるやうに聞えた。聳え立ち、重なり合つた山々には雲もかゝらず、黄色い冬近い日影が廣い高原を淋しく照らした。姉娘のあぐりは、ひとりさびしくこの吹きあるゝ凩の中を、祖父の造つた木地を負つて、里へ通ふ岨道を下りて行つた。


         五


 ある處からある處へと行く途中で、一行はまた向うの山脈の中から出て來た一群の人達と落ち合つた。群の頭領の老人は、此方の老人と路の角で立つて話した。

『ヤ、無事かや。』

『おぬしも無事かや。』

 此方の老人は、ぞろ〳〵とあとについて來る群を見渡して、『かなりに大勢だな。』

『おう、こんな大勢になつたぢや。作の組と、政の組とに、向うで出逢つたでな……。おぬしは何處から來た?』かう言つたが、南部に行つて去年歸らなかつた老婦達の群の中に雜つてゐるのを見て、『おう、おぬしも歸つて來たぢやな。去年は歸らねえし、たよりはなし、何うかしたかと思つて案じてゐたがや。』

 また見廻して、

『息子はな?』

『死んだがや。』

 老婦の眼からは見る〳〵涙が流れた。

 彼方の老人の頭領と老婦とは、長い間立つて話した。頭領の點頭いたり、眼をしばたゝいたりするのが此方から見えた。『さうかや、氣の毒なことをしたなア。若い好い息子ぢやつたに……それから、他の衆は何うしたな?』

『上州でわかれたが、もう其處等に來てゐべいよ。』

『さうかな。』

 二人は猶立つて話した。

 この群は二組三組其處此處で落合つたゞけに、息子達も娘達も夫婦連も子供達も非常に多かつた。誰れも皆鍋と道具とバケツとを負つて、木の枝の杖をついてゐた。

『まア、無事で好かつたな。』

『おめいさん達も。』

『うんと、貯めて來たかな。』

『何うしやんして。』

 こんな會話が其處にも此處にも起つた。

 常公や平公の仲の好い友達などもその群の中にゐた。貞公と言ふ男は、『えらい目に逢つたぞや。熊にも逢へばサアベルにも逢つてな。ある處ぢや、もう、既でのことで、牢の中へ打込まれる處だつたぞ。』などと言つて話した。『おつかア、腹ア減つた、腹ア減つた!』かう子供達は母親をせがんだ。それにも拘らず、母親達は平氣で路の角の木の根に腰をかけて話した。

『おつかア、おつかア、腹が減つた!』

『煩せい餓鬼だな。』

 かう言つたが、母親の一人は、甘藷の茹でたのを一本出して子供にやつた。と彼方からも此方からも小さい手が五本も六本も出て、煩さくまつはり附いて來た。中には自分の貰つた甘藷を取られてべそをかいてゐるのもあつた。ある者は泣き立てた。

『それ!』

 母親は五六本其處に投げてやつた。

 其處にも此處にも人達は腰を下して休んだ。或は木の根元、或は藪の中、或は小川の畔、中には足を投出して寢轉んでゐるものもあれば、渇を醫すべく口を川の水に押當てゝゐるものもあつた。娘達は皆な赤い脚半を穿いてゐた。

 午後の日影は鮮かにかうした一群の上を照した。日に燒けた顏、土に塗れた着物、荒れた唇、蓬ろなす髪、長く生えた鬚、さういふものが到るところにあつた。若い娘と若い男達は、後の林の木立の中深く入つて行つた。

 繰返して語られるのは、長い間の旅の艱難と、辛勞と、その折々についてのめづらしい物語とであつた。逢うての喜悦、別れての悲哀は、矢張かういふ放浪者の群にもあつた。それに、後から合した群は、大きな山脈を越えて、海近くまで行つたので、めづらしい物語を澤山に澤山に持つてゐた。

 二人の老人はかうした群から少し離れて斜坂になつた草藪のところに腰をかけて話してゐた。主として彼方此方で別れた連中の話が問題になつてゐた。

『もう、此處等近くに來てると思ふがな。』

『來てるに違ひねえ。』

『まア、仕方がねえ。向うに行つて、一日二日待つて見るだ。成だけ、一緒になつて歸つて行く方が好いで……』

『ほんまぢや……』

『紋十郎の組は何うしたんべ。何處でも、ちつとも、奴の組の衆には出會はさなかつたがな、……お前は何うぢやつた。』

『俺も知らねえ。』

『何處か遠くへでも行つたかな。』

『さうかも知んねえ。』

 一時間ほどして、一行は出發の準備に取りかゝつた。相圖につれて、一行は皆な其處此處から集つて來た。誰も彼も荷物を負つた。七八歳になる子供まで皆な小さな包を負はせられた。

 一行はもう三十人近くなつてゐた。先に行くものもあれば、後からつゞくのもある。勞れた足を引摺るやうにしてゐるものもあれば、さつさと元氣よく先に立つて行くものもある。路は高原から林の中に入り杜の中からまた高原へと出て行つた。

 此處等はもう里からは遠く離れてゐた。里の樵夫も、此處までは入つて來たやうな路はなかつた。谷川の音が何處か遠くで咽ぶやうにきこえた。

 一行の最後を、常公とその妹娘とが並んで歩いて行つた。山坂にかゝると、常公は娘を後から押すやうにした。二人は一行の姿の見えるか見えない位のところを歩いてゐた。

『ちよつくら休むべい。』

 かう言つては二人は路傍の木の根に腰をかけた。

『姉さん、泣いたゞ、……姉さんにわるいでな。』

『よく言ふでな、俺が……』

『でも姉さん一人ぼつちになつて了つてな。それが、何よりわりい……』

『何か言つたか。』

『何にも言はねえ。』

『でも、知つちやゐるな。』

『知つてるともな……』

『でも仕方がねえや、かうなつたんだで……。唯、おんさんが怖いな。』

『…………』

 暫くしてから、『皆なにはぐれるとわるいで、もう行くべいや。』

『大丈夫だ。』

『でもな……』

『俺ア、路、知つてゐるだで、大丈夫だよ。あとから行くべい。』

『でも、さむしいや。』

『さむしいもんか、この俺がついてゐる。』

 ぐいと抱き緊めるやうに男がすると、

『厭、厭……』

『いやなことがあるもんか。……昨夜だッて來たぢやねえか。』

『でも、厭……』

 常公はそれにも拘らず、手籠にでもするやうにしつかり抱きついて、『な、來年はな、うんと稼ぐべいな。一緒に、會津から南部まで行くべい。そしてうんと金貯めて來べいな。可愛い奴ぢやな。』

『あほらしい。』

 娘はにこりと笑つて見せた。

『行くべいよ、もう……』

『さア行くべ。』

 で、二人は立上つた。見ると、一行は林をぬけて、山坂へかゝつたらしく、羊膓とした路を彼方此方とたどつて行くさまが手に取るやうに見えた。山が午後の晴れた空に鮮かに美しく聳えてゐた。


         六


 故郷近くなつても、一行は急ぐやうな樣子を見せなかつた。其處に一日、彼處に一日といふ風にして、テントを張つては、ゆつくりと泊つて行つた。

 金を貯めて來たものは、山で一日遊んでゐるけれど、大抵な人達は、材料のあるところでは、竹や木を切つて來て仕事をした。そして一里二里位あるところを里へと出かけた。

 大勢になつてからは、かうした山の中に、こんな賑かな光景があるかと思はれるやうな状態が毎夜續いた。誰の心も、歸國を前にして、樂しい思ひに滿ちあふれてゐた。常公に限らず、若い人達は、やがて來るべき結婚の期節を皆な頭に繰返してゐた。樹の枝から枝へと並べて張つたテントは、丁度庇を並べた町家のやうに見えた。バケツを下げて水を汲みに行く娘、そこらを面白さうにかけずり廻つてゐる子供達、里から歸つて來る人達は、大抵大きな徳利に酒を滿して持つて來た。

 渡鳥がもう群を成して山から山へとやつて來た。それを獲るために、老人連はかねて準備して置いた網を山の峯の上へと持つて行つて張つた。そこに若者はをりをり訪ねて行つたりした。

『おんさん獲れるかね。』

 老人は默つて其處に置いてある網のついた籠を指した。つぐみが澤山に澤山にその中に入つてゐた。見てゐる中に、一羽二羽飛んで來てはかゝつた。

 ある谷合では、鹿が二疋も三疋もゐるのを發見した。群の中に生憎鳥銃を持つたものがなかつたので山刀を振翳したり、木の根を持つたりして人々はそれを追ひ廻した。子供連もあとから飛んでついて行つた。女達も皆なテントの中から出て來た。ワアイといふ聲が一しきり谷のこだまにひゞいてきこえた。

『取れたかや?』向うから走つて來る男を取卷いて女達が訊いた。

『取れた、取れた、大きいだよ。』

 五六人の若者達は、やがて木の根に結へた大きな鹿をワイワイ言ひながらかついでやつて來た。

『成程大きいな。これは大きい。』などと傍に寄つて來た老人の一人は言つた。やがて刀はある若者に依つてとられた。そこに横へられた鹿は、やがて腹から割かれた、女や子供は大勢その周圍を取卷いて見てゐた。

 肉は彼方此方のテントへ洩れなく分配された。頭領のゐるテントでは、やがてそれを肴に樂しい面白い酒宴が始められた。石油を彼方此方から集めて來て、小さな三分のランプを點して、大きな鍋で、その肉は煑られた。茶碗に一杯に波々と注いだ酒、地酒ではあるが、それでもかれ等を醉はせるには十分だ。やがて昔から傳へられた山の唄などが唄はれた。

『俺アの若い時分には、こゝらでも、かういふ鹿や猪は澤山にゐたもんだがな。今ぢや、もう滅多にやゐねえ。こんなに大きいのはめづらしいや。それと言ふのも、山が開けたからぢや。今ぢやもう此處等には、好い木さへなくなつた。それから思ふと、昔は好かつた。何をしようが、今のやうにやかましく咎められるやうなことはねえし、鳥でも獸でも澤山にゐたし、里に下りて行つたツてサアベルなんかにおどかされるやうなこともねえ……。近い山ぢやもう旨いことはねえだ。』老人達はかう言つて、昔の山の話をした。

 そこの谷合から高原へ出て、それからまた山を越した一行は、漸く故郷を去ること餘り遠くないあたりまで來てゐた。あるところでは、三日ほど雨に降りつゞけられて、佗しくテントの中に蹲踞つて暮した。其處では、かれ等は雨を犯して此方へやつて來た群と落合ふことが出來た。

 ある時は、途中で日が暮れて、大きな峠を越えて行かなければならなかつた。それは山から山を越して、遠くに、町、村、野、更に遠くに海を見るといふやうなところであつた。割合に、かれ等は町や里近くへと出て來てゐた。わるい路を辛うじて峠へ登りついた一行は、下に遠く町家の灯のついてゐるのを見た。山と山との峽から見える町は、中でもことに灯が美しかつた。突然遠くの暗い闇の野を、灯の長くつゞいたものゝ動くのを見た。

『汽車!』

『それ、汽車が行く……』

 一行は皆な其方を見た。ひろい野には、長蛇のやうな汽車が徐かに動いて行くのであつた。『汽車! 汽車。』かう言つて、皆な其方の方を眺めた。

 そこから一里ほど行つた宿泊地に着いて、その夜は一行は慌たゞしくテントを吊つて寢たが、夜の明けた時には、山を越し野を越して、遙かに碧い渺茫とした海の繪のやうに展開されてあるのを見た。島の連つた彼方には白帆が靜かにあやつり人形のやうに動いた。

 これはもう故郷の近い徴であつた。故郷を出て三日路、其處でかれ等はいつもこの遠い海の光を見て、それから深い深い際限のない山の中に入つて行くのであつた。『海が見える……海が見える……。』かう言つた人達の胸には、やがて來る一年一度の歸國の宴が樂しく歴々と描かれてゐた。

 もう人達は落附いて仕事をしてゐられなくなつた。若者も娘達も夫婦連も、皆な一齊に、一刻も早く歸國を望んだ。

 しかし一行はまだ其處で後れたある一つの群を待たなければならなかつた。それは木曾の方の山に入つて行つた人達で、其處まで行つたならば、その人達はもう先に其處に行つてゐて此方の來るのを遲いと言つてゐるだらうと思つて來たのであつた。『何してゐるんだんべ。』かう誰も彼も言つた。

『まだ遲いでねえから、ゆつくら、此處等で遊んで行くが好い。此處まで來ればもう國に歸つたも同じだでな。』

『ほんにな。』

 人達は遠い山の中にゐて、何遍この海の見える宿泊地を夢に見たか知れなかつた。南部に行つて一年歸つて來なかつた老婦は、息子のことを思ひ出したと見えて堪らないといふやうにして涙を流してゐた。

 その宿泊地から山に入つて行かうとするところには、地藏尊が一つさびしさうにして立つてゐた。それはかれ等山に行くものの常に道路の平安を祈るところで、そこは大きい小さい石が常に澤山に供へられてあつた。老婦の息子も、矢張一昨年此處で石を供へて行つた。

『何うしてもあきらめられねえ。』

『さうだんべなあ。』平公の若い嚊はさも同情に堪へないやうにして言つた。

『俺ア、あの時、一緒に死んで了へば好かつた。』

『でもな、國へ行けば、娘衆もあるしな、親類もあんべいし……死んだものをいくら考へたッて仕方がねえだでな。』

『俺ア何うすべいな。』老婦は猶も泣いた。

 それは三日目の午後五時すぎであつた。山はすつかり晴れて、後の山に白い雲が一片かゝつてゐるばかり、襞といふ襞、谷といふ谷はすべて一目に見渡された。ふと、ある男が叫び出した。

『來た! 來た!』

 續いて三人も四人も叫んだ。『來た! 來た! 木曾の衆が來た!』

 その叫聲はそれからそれへと瞬く間に傳はつて行つた。『來た! 來た!』總ての人達は唄か何ぞを唄ふやうにして、調子を取つて踊り上つた。

 山の襞に添うた羊膓とした路、それを桐油を着た十五六人の同勢が並んで此方へ下りて來るのが夕日を帶びて明かに見えた。林にかくれ、岩角にあらはれ、再び隱れ再び現はれて、次第に此方へ此方へと近づいて下りて來た。山裾の林の葉は既に落ちて、熊笹の葉がガサガサと鳴つた。

 若者を先に立てゝ、老人達は林の角まで迎へに行つた。

『お無事ぢやつたか?』

『お無事か?』

 かういふ言葉は、頭領と頭領との間に取換された。

『いつ來さしやつた? もつと早く來べい思つたが、病人があつたでな。』

『さうか、道理で遲いと思つた。誰だ? 病人は?』

『國の野郎だ。』

『それはいかんぢやつたな。もう好いか。』

『もう大事ない。』

 愈々明日は出發と言ふので、其夜は其處でも此處でも酒宴が始まつた。若い男と若い娘とは彼方此方と戯れて歩いた。テントは山裾の林を賑やかにした。

 滯在なしの三日路の樂しい旅はやがてその翌日から始まつた。最初の日は雨、次の日はからりと晴れたが、思ひもかけないほどの寒さで、山の雪は既に近くかれ等の路に迫つて來てゐた。しかしかれ等の樂しい心を曇らせるものは何もなかつた。子供達まで、明日は國に歸れると言ふので勇み勇んで嶮しい高い山路を登つた。

 三日目の午後には、かれ等の部落の見えるある峠の上へと一行は近づきつゝあつた。足の達者なものは、我先にと山路を走つて、一散にその峠の上へと登つて行つた。三人四人五人、手を擧げて叫んでゐるのが下から仰いで見られた。誰ももうじつとしては居られなかつた。女達子供達も老人達も一散につづいて驅け上つた。歡呼の聲は一時峠の空氣を震はせた。かれ等の眼下には、白いテントが林から林へと一面に張られてあるのが見えた。

底本:「定本 花袋全集 第七巻」臨川書店

   1993(平成5)年1010日復刻版発行

底本の親本:「定本 花袋全集 第七巻」内外書籍

   1936(昭和11)年816日初版発行

※底本9714行目に見る「網のついた籠を指した。」の「指」は、底本の親本初版で判読が困難なほど欠けており、これを覆刻した底本でも同様の状態にありました。複数の底本と底本の親本を見比べ、文脈からの推測も交えて、このファイルでは当該箇所に「指」を入れました。

※「羊腸」と「羊膓」の混在は、底本のママとしました。

※濁点の有無に統一性を欠く「くの字点」の用法は、底本のママとしました。

入力:もんむー

校正:松永正敏

2002年58日作成

2006年72日修正

青空文庫作成ファイル:

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