牛肉と馬鈴薯
国木田独歩



 明治倶楽部クラブとて芝区桜田本郷町のお堀辺ほりばたに西洋づくりの余り立派ではないが、それでも可なりの建物があった、建物は今でもある、しかし持主が代って、今では明治倶楽部その者はなくなってしまった。

 この倶楽部がだ繁盛していた頃のことである、ある年の冬の夜、珍らしくも二階の食堂に燈火あかりいていて、時々おりおり高く笑う声が外面そとに漏れていた。元来いったいこの倶楽部は夜分人の集っていることは少ないので、ストーブの煙は平常いつも昼間ばかり立ちのぼっているのである。

 しかるに八時は先刻さっき打っても人々は未だなかなか散じそうな様子も見えない。人力車くるまが六台玄関の横に並んでいたが、車夫どもは皆な勝手の方で例の一六勝負最中らしい。

 すると一人の男、外套がいとうえりを立てて中折帽なかおれぼう面深まぶかかぶったのが、真暗まっくらな中からひょっくり現われて、いきなり手荒く呼鈴よびりんを押した。

 内から戸がくと、

「竹内君は来ておいでですかね」と低い声の沈重おちついた調子でたずねた。

「ハア、お出で御座います、貴様あなたは?」と片眼の細顔の、和服を着た受付が丁寧に言った。

「これを」といだした名刺には五号活字で岡本誠夫せいふとしてあるばかり、何の肩書もない。受付はそれを受取り急いで二階に上ってったが間もなく降りて来て

「どうぞ此方こちらへ」と案内した、導かれて二階へ上ると、煖炉ストーブさかんいていたので、ムッとする程あったかい。煖炉ストーブの前には三人、他の三人は少し離れて椅子に寄っている。かたわら卓子テーブルにウイスキーのびんのっていてこっぷの飲み干したるもあり、いだままのもあり、人々はい加減に酒がわっていたのである。

 岡本の姿を見るや竹内はって、元気よく

「まアこれへ掛け給え」とひとつの椅子をすすめた。

 岡本は容易に坐にかない。見廻すとそのうちの五人は兼て一面識位はある人であるが、一人、色の白い中肉の品のい紳士は未だ見識みしらぬ人である。竹内はそれと気がつき、

「ウン貴様あなたは未だこの方を御存知ないだろう、紹介しましょう、この方は上村君かみむらさんと言って北海道炭鉱会社の社員の方です、上村君、この方は僕の極くふる朋友ともだちで岡本君……」

 と未だ言いおわらぬに上村と呼ばれし紳士は快活な調子で

「ヤ、初めて……お書きになった物は常に拝見していますので……今後御懇意に……」

 岡本はだ「どうかお心安く」と言ったぎり黙って了った。そして椅子にった。

「サアその先を……」と綿貫わたぬきという背の低い、真黒の頬髭ほおひげはやしている紳士が言った。

「そうだ! 上村君、それから?」と井山いやまという眼のしょぼしょぼした頭髪あたまのけの薄い、痩方やせがたの紳士が促した。

「イヤ岡本君が見えたから急にりにくくなったハハハハ」と炭鉱会社の紳士は少しにかんだような笑方をした。

「何ですか?」

 岡本は竹内に問うた。

「イヤ至極面白いんだ、何かの話の具合で我々の人生観を話すことになってね、まアいて居給え名論卓説、滾々こんこんとして尽きずだから」

「ナニ最早もう大概吐き尽したんですよ、貴様あなたは我々俗物党と違がって真物ほんものなんだから、さいわい貴様あなたのを聞きましょう、ね諸君!」

 と上村は逃げかけた。

「いけないいけない、ず君の説をえ給え!」

「是非承わりたいものです」と岡本はウイスキーを一杯、下にも置かないで飲み干した。

「僕のは岡本さんの説とは恐らく正反対だろうと思うんでね、要之つまり、理想と実際は一致しない、到底一致しない……」

「ヒヤヒヤ」と井山が調子を取った。

「果して一致しないとならば、理想に従うよりも実際に服するのが僕の理想だというのです」

「ただそれだけですか」と岡本は第二の杯を手にしてうなるように言った。

「だってねエ、理想はべられませんものを!」と言った上村の顔はうさぎのようであった。

「ハハハハビフテキじゃアあるまいし!」と竹内は大口を開けて笑った。

いやビフテキです、実際はビフテキです、スチューです」

「オムレツかね!」と今まで黙って半分眠りかけていた、真紅まっかな顔をしている松木、坐中で一番年の若そうな紳士が真面目まじめで言った。

「ハッハッハッハッ」と一坐が噴飯ふきだした。

「イヤ笑いごとじゃアないよ」と上村は少し躍起やっきになって、

「例えてみればそんなものなんで、理想に従がえばいもばかしっていなきゃアならない。ことによると馬鈴薯いもも喰えないことになる。諸君は牛肉と馬鈴薯いもとどっちがい?」

「牛肉が可いねエ!」と松木は又た眠むそうな声で真面目に言った。

「然しビフテキに馬鈴薯いも附属物つきものだよ」と頬髭ほおひげの紳士が得意らしく言った。

「そうですとも! 理想はすなわち実際の附属物つきものなんだ! 馬鈴薯いもまるきり無いと困る、しかし馬鈴薯ばかりじゃア全く閉口する!」

 と言って、上村はやや満足したらしく岡本の顔を見た。

「だって北海道は馬鈴薯じゃがいもが名物だって言うじゃアありませんか」と岡本は平気でたずねた。

「その馬鈴薯なんです、僕はその馬鈴薯には散々ひどい目にったんです。ね、竹内君は御存知ですが僕はこう見えても同志社のふるい卒業生なんで、矢張やはりその頃は熱心なアーメンの仲間で、言い換ゆれば大々的馬鈴薯党だったんです!」

「君が?」とさも不審そうな顔色かおつきで井山がしょぼしょぼまなこを見張った。

「何も不思議は無いサ、その頃はウラ若いんだからね、岡本君はお幾歳いくつかしらんが、僕が同志社を出たのは二十二でした。十三年も昔なんです。それはお目に掛けたいほど熱心なる馬鈴薯党でしたがね、学校に居る時分から僕は北海道と聞くと、ぞくぞくするほどれていたもんで、清教徒ピュリタンもって任じていたのだからたまらない!」

「大変な清教徒ピュリタンだ!」と松木が又た口を入れたのを、上村は一寸ちょっあごで止めて、ウイスキーをめながら

「断然このけがれたる内地を去って、北海道自由の天地に投じようと思いましたね」と言った時、岡本は凝然じっと上村の顔を見た。

「そしてやたらに北海道の話を聞いて歩いたもんだ。伝道師のうちに北海道へって来たという者があると直ぐ話を聴きに出掛けましたよ。ところが又先方はうまいことを話して聞かすんです。やれ自然ネーチュールがどうだの、石狩川いしかりがわは洋々とした流れだの、見渡すかぎり森又た森だの、堪ったもんじゃアない! 僕は全然すっかりまいッちまいました。そこで僕は色々と聞きあつめたことを総合して如此こんなふうな想像を描いていたもんだ。……先ず僕が自己の額に汗して森を開き林を倒し、そしてこれに小豆あずきく、……」

「その百姓が見たかったねエハッハッハッハッハッハッ」と竹内は笑いだした。

「イヤ実地ったのサ、まア待ち給え、追い追い其処そこへ行くから……、その内にだんだんと田園が出来て来る、おも馬鈴薯じゃがいもを作る、馬鈴薯さえ有りゃア喰うに困らん……」

「ソラ馬鈴薯が出た!」と松木は又た口を入れた。

「其処で田園の中央まんなかに家がある、構造はきわめて粗末だが一見米国風に出来ている、新英洲ニューイングランド殖民地時代そのままという風に出来ている、屋根がこう急勾配きゅうこうばいになって物々しい煙突が横の方に一ツ。窓を幾個いくつ附けたものかと僕は非常に気をんだことがあったッけ……」

「そして真個ほんとにその家が出来たのかね」と井山は又しょぼしょぼまなこを見張った。

「イヤこれは京都に居た時の想像だよ、窓で気を揉んだのは……そうだそうだ若王寺にゃくおうじへ散歩に往って帰る時だった!」

「それからどうしました?」と岡本は真面目で促がした。

「それから北の方へ防風林を一区劃くかく、なるべくは林を多く取って置くことにしました。それから水の澄み渡った小川がこの防風林の右の方からうねり出て屋敷の前を流れる。無論この川で家鴨あひる鵞鳥がちょうがその紫の羽や真白な背を浮べてるんですよ。この川に三寸厚サの一枚板で橋がかっている。これに欄干を附けたものか附けないものかと色々工夫したが矢張り附けないほうが自然だというんで附けないことにさだめました……まア構造はこんなものですが、僕の想像はこれで満足しなかったのだ……先ず冬になると……」

「ちょッとお話の途中ですが、貴様あなたはその『冬』というおんにかぶれやアしませんでしたか?」と岡本はたずねた。

 上村は驚ろいた顔色をして

「貴様はどうしてそれを御存知です、これは面白い! さすが貴様は馬鈴薯党だ! 冬と聞いては全くたまりませんでしたよ、何だかその冬すなわち自由というような気がしましてねエ! それに僕は例の熱心なるアーメンでしょうクリスマス万歳の仲間でしょう、クリスマスと来るとどうしても雪がイヤという程降って、軒から棒のような氷柱つららが下っていないとうそのようでしてねエ。だから僕は北海道の冬というよりか冬則ち北海道という感が有ったのです。北海道の話をきいても『冬になると……』とこういわれると、身体からだがこうぶるぶるッとなったものです。それで例の想像にもです、冬になると雪が全然すっかり家を埋めてしまう、そして夜は窓硝子まどガラスから赤い火影ほかげがチラチラとれる、折り折り風がゴーッと吹いて来て林のこずえから雪がばたばたとちる、牛部屋でホルスタイン種の牝牛めうしがモーッとうなる!」

「君は詩人だ!」と叫けんで床を靴でけったものがある。これは近藤といって岡本がこの部屋に入って来てのちも一ごんを発しないで、だウイスキーと首引くびっぴきをしていた背の高い、一癖あるべき顔構つらがまえをした男である。

「ねエ岡本君!」と言い足した。岡本はただ、黙言だまっ首肯うなずいたばかりであった。

「詩人? そうサ、僕はその頃は詩人サ、『山々かす入合いりあいの』ていうグレーのチャルチャードの飜訳ほんやくを愛読して自分で作ってみたものだアね、今日こんにちの新体詩人から見ると僕は先輩だアね」

「僕も新体詩なら作ったことがあるよ」と松木が今度は少し乗地のりじになって言った。

「ナーニ僕だって二ツ三ツやったものサ」と井山が負けぬ気になって真面目で言った。

「綿貫君、君はどうだね?」と竹内が訊ねた。

「イヤお恥しいことだが僕は御存知の女気おんなけのない通り詩人気は全くなかった、『権利義務』で一貫して了った、どうだろう僕は余程俗骨が発達してるとみえる!」と綿貫は頭をなでてみた。

「イヤ僕こそはなはだお恥しい話だがこれで矢張りやったものだ、そして何かの雑誌に二ツ三ツ載せたことがあるんだ! ハッハッハッハッハッ」

「ハッハッハッハッハッ」と一同が噴飯ふきだして了った。

「そうすると諸君は皆詩人の古手なんだね、ハッハッハッハッハッ奇談々々!」と綿貫が叫んだ。

「そうか、諸君もやったのか、驚ろいた、その昔はみんな馬鈴薯党なんだね」と上村はおおいに面目を施こしたという顔色かおつき

「お話の先を願いたいものです」と岡本は上村を促がした。

「そうだ、先をやり給え!」と近藤はほとんど命令するように言った。

よろしい! それから僕は卒業するや一年ばかり東京でマゴマゴしていたが、断然と北海道へ行ったその時の心持といったら無いね、何だかこう馬鹿野郎! というような心持がしてねエ、上野の停車場ステーションで汽車へ乗って、ピューッと汽笛が鳴って汽車が動きだすと僕は窓から頭を出して東京の方へ向いてつばきを吐きかけたもんだ。そして何とも言えないうれしさがこみ上げて来て人知れずハンケチで涙をいたよ真実ほんとに!」

一寸ちょっと君、一寸と『馬鹿野郎!』というような心持というのが僕には了解が出来ないが……そのどういうんだね?」と権利義務の綿貫が真面目で訊ねた。

だ東京の奴等やつらを言ったのサ、名利みょうり汲々きゅうきゅうとしているその醜態ざまは何だ! 馬鹿野郎! 乃公おれを見ろ! という心持サ」と上村もまた真面目で註解ちゅうかいを加えた。

「それから道行みちゆきは抜にして、ともかく無事に北海道は札幌へ着いた、馬鈴薯の本場へ着いた。そして苦もなく十万坪の土地が手に入った。サアこれからだ、所謂いわゆる額に汗するのはこれからだというんでただちに着手したねエ。もっとも僕と最初から理想を一にしている友人、今は矢張やっぱり僕と同じ会社へ出ているがね、それと二人で開墾事業に取掛ったのだ、そら、竹内君知っておるだろう梶原かじわら信太郎のことサ……」

「ウン梶原君が!? あれが矢張やっぱり馬鈴薯だったのか、今じゃア豚のようにふとってるじゃアないか」と竹内も驚いたようである。

「そうサ、今じゃア鬼のようなつらをして、血のたれるビフテキを二口に喰って了うんだ。ところが先生僕と比較するとはじめから利口であったねエ、二月ばかりも辛棒していたろうか、ある日こんな馬鹿気たことは断然よそうという動議を提出した、その議論は何も自からこんな思をして隠者になる必要はない自然と戦うよりかむしろ世間と格闘しようじゃアないか、馬鈴薯よりか牛肉の方が滋養分が多いというんだ。僕はその時おおいに反対した、君すなら止せ、僕は一人でもやると力味りきんだ。すると先生やるなら勝手にやり給え、君もも少しすると悟るだろう、要するに理想は空想だ、痴人の夢だ、なんて捨台辞すてぜりふを吐いて直ぐって了った。取残された僕は力味りきんではみたものの内内ないない心細かった、それでも小作人の一人二人を相手にその後、三月ばかり辛棒したねエ。えらいだろう!」

「馬鹿なんサ!」と近藤がしかるように言った。

「馬鹿? 馬鹿たア酷だ! 今から見れば大馬鹿サ、然しその時は全く豪かったよ」

矢張やっぱり馬鹿サ、初から君なんかの柄にないんだ、北海道で馬鈴薯ばかりくおうなんていう柄じゃアないんだ、それを知らないで三月も辛棒するなア馬鹿としか言えない!」

「馬鹿なら馬鹿でもよろしいとして、君のいう『柄にない』ということは次第に悟って来たんだ。難有ありがたいことには僕に馬鈴薯の品質がらが無かったのだ。其処そこで夏も過ぎて楽しみにしていた『冬』という例の奴が漸次だんだん近づいて来た、その露払つゆはらいが秋、第一秋からして思ったよりか感心しなかったのサ、しんとした林の上をパラパラと時雨しぐれて来る、日の光が何となく薄いような気持がする、話相手はなしサ食うものは一粒幾価いくらと言いそうな米を少しばかりと例の馬の鈴、寝るところは木の皮を壁に代用した掘立小屋」

「それは貴様あなた覚悟の前だったでしょう!」と岡本が口を入れた。

「其処ですよ、理想よりか実際のいほうが可いというのは。覚悟はしていたものの矢張やはり余り感服しませんでしたねエ。第一、それじゃアせますもの」

 上村は言って杯で一寸と口を湿しめして

「僕は痩せようとは思っていなかった!」

「ハッハッハッハッハッハッ」と一同みんな笑いだした。

「そこで僕はつくづく考えた、なるほど梶原の奴の言った通りだ、馬鹿げきっている、止そうッというんで止しちまったが、あれであの冬を過ごしたら僕はしんでいたね」

「其処でどういうんです、貴様の目下もっかのお説は?」と岡本はあざけるような、真面目な風で言った。

「だから馬鈴薯には懲々こりごりしましたというんです。何でも今は実際主義で、金が取れて美味うまいものが喰えて、こうやって諸君と煖炉ストーブにあたって酒を飲んで、勝手な熱を吹き合う、腹がすいたら牛肉を食う……」

「ヒヤヒヤ僕も同説だ、忠君愛国だってなんだって牛肉と両立しないことはない、それが両立しないというなら両立さすことが出来ないんだ、其奴そいつが馬鹿なんだ」と綿貫は大に敦圉いきまいた。

「僕は違うねエ!」と近藤は叫んだ、そして煖炉を後に椅子へ馬乗になった。すごい光を帯びた眼で坐中を見廻しながら

「僕は馬鈴薯党でもない、牛肉党でもない! 上村君なんかは最初、馬鈴薯党で後に牛肉党に変節したのだ、即ち薄志弱行だ、要するに諸君は詩人だ、詩人の堕落したのだ、だから無暗むやみと鼻をぴくぴくさしてうしこげにおいいであるく、その醜体ざまったらない!」

「オイオイ、他人ひとを悪口する前に先ず自家の所信を吐くべしだ。君は何の堕落なんだ」と上村が切り込んだ。

「堕落? 堕落たア高い処から低い処へ落ちたことだろう、僕はさいわいにして最初から高い処に居ないからそんな外見みっともないことはしないんだ! 君なんかは主義で馬鈴薯を喰ったのだ、きで喰ったのじゃアない、だから牛肉にえたのだ、僕なんかは嗜きで牛肉を喰うのだ、だから最初から、餓えぬ代り今だってがつがつしない、……」

「一向要領を得ない!」と上村が叫けんだ。近藤はただちに何ごとをか言い出さんと身構をした時、給使きゅうじの一人がつかつかと近藤のそばに来てその耳に附いて何ごとをかささやいた。すると

「近藤は、この近藤はシカク寛大なる主人ではない、と言ってくれ!」と怒鳴った。

「何だ?」と坐中の一人が驚いて聞いた。

「ナニ、車夫の野郎、又た博奕ばくちに敗けたから少し貸してくれろと言うんだ。……要領を得ないたア何だ! 大に要領を得ているじゃアないか、君等は牛肉党なんだ、牛肉主義なんだ、僕のは牛肉が最初から嗜きなんだ、主義でもヘチマでもない!」

「大に賛成ですなア」としずか沈重おちついた声で言った者がある。

「賛成でしょう!」と近藤はにやり笑って岡本の顔を見た。

「至極賛成ですなア、主義でないと言うことは至極賛成ですなア、世の中の主義って言う奴ほど愚なものはない」と岡本はそのえした眼光を座上に放った。

「その説を承たまわろう、是非願いたい!」と近藤はその四角なあごを突き出した。

「君は何方どちらなんです、牛といも、エ、薯でしょう?」と上村は知った顔に岡本の説をいざのうた。

「僕も矢張、牛肉党に非ず、馬鈴薯党にあらずですなア、然し近藤君のように牛肉がきとも決っていないんです。勿論もちろん例の主義という手製料理は大嫌だいきらいですが、さりとて肉とかいもとかいう嗜好しこうにも従うことが出来ません」

「それじゃア何だろう?」と井山がそのもっともらしいしょぼしょぼまなこをぱちつかした。

「何でもないんです、比喩ひゆして露骨に申しますが、僕はこれぞという理想を奉ずることも出来ず、それならって俗に和して肉慾をみたして以て我生足れりとすることも出来ないのです、出来ないのです、ないのではないので、実をいうと何方どちらでも可いから決めて了ったらと思うけれど何という因果か今以てった一つ、不思議な願を持ているからそのために何方どちらとも得決えきめないでいます」

「何だね、その不思議な願と言うのは?」と近藤は例のしつけるような言振いいぶりで問うた。

「一口には言えない」

「まさかおおかみの丸焼で一杯飲みたいという洒落しゃれでもなかろう?」

「まずそんなことです。……実は僕、或少女むすめ懸想けそうしたことがあります」と岡本は真面目で語りいだした。

「愉快々々、談愈々いよいよ佳境にって来たぞ、それからッ?」と若い松木は椅子を煖炉ストーブの方へ引寄た。

「少しはなし突然だしぬけですがね、まず僕の不思議の願というのを話すにはこの辺から初めましょう。その少女むすめはなかなかの美人でした」

「ヨウ! ヨウ!」と松木は躍上おどりあがらんばかりに喜こんだ。

「どちらかと言えば丸顔の色のくっきり白い、肩つきの按排あんばいは西洋婦人のように肉附がくってしかもなだらかで、眼は少し眠むいような風の、パチリとはしないが物思に沈んでるという気味があるこの眼に愛嬌あいきょうを含めて凝然じっ睇視みつめられるなら大概の鉄腸漢も軟化しますなア。ところで僕は容易にやられて了ったのです。最初その女を見た時は別にそうも思っていなかったが、一度が二度、三度目位から変に引つけられるような気がして、妙にその女のことが気になって来ました。それでも僕は未だラブしたとは思いませんでしたねえ。

「或日僕がその女の家へ行きますと、両親は不在でだ女中とその少女むすめいもとの十二になるのと三人ぎりでした。すると少女むすめ身体からだの具合が少し悪いと言ってふさいで、奥の間にひとり、つくねんと座っていましたが、低い声で唱歌をやっているのを僕は縁辺えんがわに腰をかけたままいていました。

『お栄さん僕はそんな声を聴かされると何だか哀れっぽくなってたまりません』と思わず口に出しますと

小妹わたくし何故なぜこんな世の中に生きているのか解らないのよ』と少女むすめがさもさもたよりなさそうに言いました、僕にはこれが大哲学者の厭世論えんせいろんにもまさって真実らしく聞えたが、その先は詳わしく言わないでも了解わかりましょう。

「二人はたちまち恋の奴隷やっことなって了ったのです。僕はその時初めて恋の楽しさとかなしさとを知りました、二月ばかりというものはまるで夢のように過ぎましたが、その中の出来事の一二ひとつふたつ安価やすくない幕をはなすと先ずこんなこともありましたっケ、

ある日午後五時頃から友人夫婦の洋行する送別会に出席しましたが僕の恋人も母に伴われて出席しました。会は非常な盛会で、中には伯爵家はくしゃくけの令嬢なども見えていましたが夜の十時頃ようやく散会になり僕はホテルから芝山内しばさんない少女むすめの宅まで、月がいから歩るいて送ることにして母と三人ぶらぶらとって来ると、途々みちみち母は口をきわめて洋行夫婦をしきりうらやましそうなことを言っていましたが、その言葉の中には自分の娘の余り出世間しゅっせけん的傾向を有しているのを残念がる意味があって、かかる傾向を有するも要するにその交際する友にると言わぬばかりの文句すら交えたので、僕と肩を寄せて歩るいていた娘は、僕の手を強く握りました、それで僕も握りかえした、これが母へ対するはかない反抗であったのです。

「それから山内の森の中へ来ると、月が木間このまから蒼然そうぜんたる光をもらして一段の趣を加えていたが、母は我々より五歩いつあしばかり先を歩るいていました。夜はけて人の通行ゆききまれになっていたから四辺あたりきわめて静に僕の靴の音、二人の下駄の響ばかり物々しゅう反響していたが、先刻さっきの母の言草いいぐさが胸にこたえているので僕も娘も無言、母も急に真面目まじめくさって黙って歩るいていました。

「森影暗く月の光をさえぎった所へ来たと思うと少女むすめ卒然いきなり僕に抱きつかんばかりに寄添って

貴様あなた母の言葉を気にして小妹わたくしを見捨ては不可いけませんよ』とささやき、その手を僕の肩にかけるが早いか僕の左のほおにべたり熱いものが触て一種、花にもまさる香が鼻先をかすめました。突然明い所へ出ると、少女むすめの両眼には涙が一ぱい含んでいて、その顔色は物凄ものすごいほど蒼白あおじろかったが、ひとつは月の光を浴びたからでも有りましょう、何しろ僕はこれを見ると同時に一種の寒気さむけを覚えてこわいともかなしいとも言いようのない思が胸につかえてちょうど、鉛のかたまりが胸をしつけるように感じました。

「その夜、門口かどぐちまで送り、母なる人が一寸ちょっと上って茶を飲めと勧めたを辞し自宅へと帰路にきましたが、或むずかしなぞをかけられ、それを解くと自分の運命の悲痛がことごと了解わかりでもするといったような心持がして、決して比喩ひゆじゃアない、確にそういう心持がして、気になってならない。そこで直ぐは帰らず山内のむしい所をってぶらぶら歩るき、何時いつの間にか、丸山の上に出ましたから、ベンチに腰をかけて暫時しばら凝然じっと品川の沖の空をながめていました。

『もしかあの女は遠からず死ぬるのじゃアあるまいか』という一念がいなずまのように僕の心中最も暗き底にひらめいたと思うと僕は思わずおどり上がりました。そして其所そこらを夢中で往きつもどりつ地を見つめたまま歩るいて『決してそんなことはない』『断じてない』と、魔をしっするかのように言ってみたが、魔は決して去らない、僕はおりおり足を止めて地を凝視みつめていると、蒼白あおじろ少女むすめの顔がありありと眼先に現われて来る、どうしてもその顔色がこの世のものでないことを示している。

ついに僕は心を静めて今夜十分眠る方がい、全く自分の迷だと決心して丸山を下りかけました、すると更に僕を惑乱さする出来事にぶつかりました。というのはのぼる時は少も気がつかなかったが路傍みちばたにある木の枝から人がぶら下っていたことです。驚きましたねエ、僕は頭から冷水ひやみずをかけられたように感じて、其所そこに突立って了いました。

「それでも勇気を鼓して近づいてみると女でした、無論その顔は見えないが、路にぬぎ捨てある下駄を見ると年若の女ということが分る……僕は一切夢中で紅葉館こうようかんの方から山内へ下りると突当つきあたりにあるあの交番までけつけてその由を告げました……」

「その女が君の恋していた少女むすめであったというのですかね」と近藤は冷ややかに言た。

「それではまるで小説ですが、幸に小説にはなりませんでした。

「翌々日の新聞を見ると年は十九、兵士と通じて懐胎したのが兵士には国に帰ってしまわれ、身の処置に窮して自殺したものらしいと書いてありました、ともかく僕はその夜ほとんど眠りませんでした。

かしくしたもので、その翌日少女むすめの顔を見ると平常ふだんに変っていない、そしてそのうっとりした眼にえみを含んで迎えられると、前夜からの心の苦悩は霧のように消えて了いました。それから又一月ばかりは何のこともなく、ただうれしい楽しいことばかりで……」

「なるほどこれはお安価やすくないぞ」と綿貫が床をって言った。

「まア黙ってきたまえ、それから」と松木は至極真面目まじめになった。

其先さきを僕が言おうか、こうでしょう、最後おしまいにその少女むすめ欠伸あくび一つして、それで神聖なる恋が最後おしまいになった、そうでしょう?」と近藤も何故なぜか真面目で言った。

「ハッハッハッハッハッハッ」と二三人が噴飯ふきだして了った。

「イヤ少なくとも僕の恋はそうであった」と近藤は言い足した。

「君でも恋なんていうことを知っているのかね」これは井山の柄にない言草。

「岡本君の談話はなしの途中だが僕の恋を話そうか? 一分間で言える、僕と或少女むすめと乙ななかになった、二人は無我夢中で面白い月日を送った、三月目に女が欠伸一つした、二人は分れた、これだけサ。要するにたれの恋でもこれが大切おおぎりだよ、女という動物は三月たつと十人が十人、きて了う、夫婦なら仕方がないから結合くっついている。然しそれは女が欠伸を噛殺かみころしてその日を送っているに過ぎない、どうです君はそう思いませんか?」

「そうかも知れません、然し僕のは幸にその欠伸までに達しませんでした、先を聴いて下さい。

「僕もその頃、上村さんのお話と同様、北海道熱のはげしいのにかかっていました、実をいうと今でも北海道の生活は好かろうと思っています。それで僕も色々と想像を描いていたので、それを恋人と語るのが何よりのたのしみでした、矢張上村君の亜米利加アメリカ風の家は僕も大判の洋紙へ鉛筆で図取ずどりまでしました。しかし少し違うのは冬の夜の窓からちらちらと燈火あかりを見せるばかりでない、折り折り楽しそうな笑声、澄んだ声で歌う女の唱歌を響かしたかったのです、……」

「だって僕は相手が無かったのですもの」と上村が情けなそうに言ったので、どっとみんなが笑った。

「君が馬鈴薯じゃがいも党を変節したのも、一はそのせいだろう」と綿貫が言った。

「イヤそれは嘘言うそだ、上村君にもし相手があったら北海道の土をふまぬ先に変節していただろうと思う、女と言うやつが到底馬鈴薯主義を実行しるもんじゃアない。先天的のビフテキ党だ、ちょうど僕のようなんだ。女はいも嗜好きなんていうのはうそサ!」と近藤が怒鳴るように言った。その最後の一句で又た皆がどっと笑った。

「それで二人は」と岡本が平気で語りだしたので漸々ようよう静まった。

「二人は将来の生活地を北海道と決めていまして、相談も漸く熟したので僕は一先ひとまず故郷くにに帰り、親族にたくしてあった山林田畑をことごとく売り飛ばし、その資金で新開墾地を北海道に作ろうと、十日間位のつもりで国に帰ったのが、親族の故障やら代価の不折合ふおりあいやらで思わず二十日もかかりました。 すると或日少女むすめの母から電報が来ました、驚いて取る物も取あえず帰京してみると、少女むすめ最早もう死んでいました」

「死んで?」と松木は叫けんだ。

「そうです、それで僕のすべての希望が悉く水のあわとなって了いました」と岡本の言葉が未だ終らぬうち近藤は左の如く言った、それがまるで演説口調、

「イヤどうも面白い恋愛談ラブだんを聴かされ我等一同感謝の至にえません、さりながらです、僕は岡本君の為めにその恋人の死を祝します、祝すというが不穏当ならば喜びます、ひそかに喜びます、むしろ喜びます、かえって喜びます、もしもその少女むすめにして死ななんだならばです、その結果の悲惨なる、必ず死の悲惨に増すものが有ったに違いないと信ずる」

 とまではすこぶる真面目であったが、自分でも少し可笑おかしくなって来たか急に調子を変え、声を低うし笑味えみを含ませて、

「何となれば、女は欠伸あくびをしますから……およそ欠伸に数種ある、その中もっとも悲むべく憎くむきの欠伸が二種ある、一は生命にみたる欠伸、一は恋愛に倦みたる欠伸、生命に倦みたる欠伸は男子の特色、恋愛に倦みたる欠伸は女子にょしの天性、一は最も悲しむべく、一は尤も憎むべきものである」

 と少し真面目な口調に返り、

すなわ女子にょしは生命に倦むということは殆どない、年若い女が時々そんな様子を見せることがある、然しそれは恋に渇しているより生ずる変態たるに過ぎない、さいわいにしてその恋を得る、その後幾年月かは至極楽しそうだ、真に楽しそうだ、恐らくたのしみという字の全意義はかかる女子にょしの境遇において尽されているだろう。然し忽ちうんで了う、則ち恋に倦でしまう、女子にょしの恋に倦だ奴ほど始末にいけないものは決してほかにあるまい、僕はこれを憎むべきものと言ったが実は寧ろあわれむべきものである、ところが男子はそうでない、往々にして生命そのものに倦むことがある、かかる場合に恋に出遇であう時は初めて一方の活路を得る。そこで全き心をささげて恋の火中に投ずるに至るのである。かかる場合にあっては恋則ち男子の生命である」

 と言って岡本を顧み、

「ね、そうでしょう。どうです僕の説は穿うがっているでしょう」

「一向に要領を得ない!」と松木が叫けんだ。

「ハッハッハッハッ要領を得ない? 実は僕も余り要領を得ていないのだ、ただ今のように言ってみたいので。どうです岡本君、だから僕は思うんだ君が馬鈴薯党でもなくビフテキ党でもなくだ一の不思議なる願を持っているということは、死んだ少女むすめいたいというんでしょう」

ノー!」と一声叫けんで岡本は椅子をった。彼は最早もう余程よほど酔っていた。

ノーと先ず一語を下して置きます。諸君にしてもし僕の不思議なる願というのを聴いてくれるならはなしましょう」

「諸君は知らないが僕は是非聴く」と近藤は腕を振った。衆皆みんなは唯だ黙って岡本の顔を見ていたが松木と竹内は真面目まじめで、綿貫と井山と上村は笑味えみを含んで。

「それではノーの一語を今一度叫けんで置きます。

「なるほど僕は近藤さんのおさっしの通り恋愛によって一方の活路を開いた男の一人である。であるから少女むすめの死は僕に取ての大打撃、ほとんすべての希望は破壊し去ったことは先程申上げた通りです、もし例の返魂香はんごんこうとかいう価物しろものがあるなら僕は二三百きん買い入れたい。どうか少女むすめを今一度僕の手に返したい。僕の一念ここに至ると身も世もあられぬ思がします。僕は平気で白状しますが幾度いくたび僕は少女むすめを思うて泣いたでしょう。幾度その名を呼で大空を仰いだでしょう。実にあの少女むすめの今一度この世に生き返って来ることは僕の願です。

「しかし、これが僕の不思議なる願ではない。僕の真実の願ではない。僕はまだまだおおいなる願、深い願、熱心なる願をもっています。この願さえかなえば少女むすめは復活しないでもよろしい。復活して僕の面前で僕を売ってもよろしい。少女むすめが僕の面前で赤い舌を出して冷笑しても宜しい。

あしたに道を聞かばゆうべに死すとも可なりというのと僕の願とは大に意義を異にしているけれど、その心持は同じです。僕はこの願がかなわん位なら今から百年生きていても何のやくにも立ない、一向うれしくない、寧ろ苦しゅう思います。

「全世界の人悉くこの願をもっていないでも宜しい、僕ひとりこの願を追います、僕がこの願を追うたが為めにその為めに強盗罪を犯すに至ても僕は悔いない、殺人、放火、何でもかまいません、もし鬼ありて僕に保証するに、なんじの妻を与えよ我これをかんせん爾の子を与えよ我これをくらわんしからば我は爾に爾の願をかなわしめんと言えば僕は雀躍じゃくやくして妻あらば妻、子あらば子を鬼に与えます」

「こいつは面白い、早くその願というものを聞きたいもんだ!」と綿貫がそのひげを力任かせにひいて叫けんだ。

「今に申します。諸君は今日こんにちのようなグラグラ政府には飽きられただろうと思う、そこでビスマークとカブールとグラッドストンと豊太閤ほうたいこうみたような人間をつきまぜてひとつ鋼鉄のような政府をつくり、思切った政治をやってみたいという希望があるに相違ない、僕も実にそういう願を以ています、しかし僕の不思議なる願はこれでもない。

「聖人になりたい、君子になりたい、慈悲の本尊になりたい、基督クリスト釈迦しゃか孔子こうしのような人になりたい、真実ほんとにそうなりたい。しかしもし僕のこの不思議なる願が叶わないで以て、そうなるならば、僕は一向聖人にも神の子にもなりたくありません。

「山林の生活! と言ったばかりで僕の血は沸きます。すなわち僕をして北海道を思わしめたのもこれです。僕は折り折り郊外を散歩しますが、この頃の冬の空晴れて、遠く地平線の上に国境をめぐる連山の雪をいただいているのを見ると、直ぐ僕の血は波立ちます。たまらなくなる! 然しです、僕の一念ひとたびかの願に触れると、こんなことは何でもなくなる。もし僕の願さえ叶うなら紅塵こうじん三千丈の都会に車夫となっていてもよろしい。

「宇宙は不思議だとか、人生は不思議だとか。天地創生の本源は何だとか、やかましい議論があります。科学と哲学と宗教とはこれを研究し闡明せんめいし、そして安心立命りゅうめいの地をその上に置こうともがいている、僕も大哲学者になりたい、ダルウィン跣足はだしというほどの大科学者になりたい。もしくは大宗教家になりたい。しかし僕の願というのはこれでもない。もし僕の願が叶わないで以て、大哲学者になったなら僕は自分を冷笑し自分のつらに『いつわり』の一字を烙印らくいんします」

「何だね、早く言いたまえその願というやつを!」と松木はもどかしそうに言った。

「言いましょう、喫驚びっくりしちゃアいけませんぞ」

「早く早く!」

 岡本は静に

喫驚びっくりしたいというのが僕の願なんです」

「何だ! 馬鹿々々しい!」

「何のこった!」

落語おとしばなしか!」

 人々は投げだすように言ったが、近藤のみは黙言だまって岡本の説明を待ているらしい。

「こういう句があります、

Awake, poor troubled sleeper: shake off

thy torpid night-mare dream.

即ち僕の願とは夢魔むまを振い落したいことです!」

「何のことだか解らない!」と綿貫はつぶやくように言った。

「宇宙の不思議を知りたいという願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願です!」

愈々いよいよ以てなぞのようだ!」と今度は井山がその顔をつるりとでた。

「死の秘密を知りたいという願ではない、死ちょう事実に驚きたいという願です!」

「イクラでも君勝手に驚けばいじゃアないか、何でもないことだ!」と綿貫はあざけるように言った。

「必ずしも信仰そのものは僕の願ではない、信仰無くしては片時たりともやすんずるあたわざるほどにこの宇宙人生の秘義に悩まされんことが僕の願であります」

「なるほどこいつは益々ますます解りにくいぞ」と松木はつぶやいて岡本の顔を穴のあくほど凝視みつめている。

「寧ろこの使用つかい古るした葡萄ぶどうのような眼球めのたまえぐり出したいのが僕の願です!」と岡本は思わず卓を打った。

「愉快々々!」と近藤は思わず声を揚げた。

「オルムスの大会で王侯の威武に屈しなかったルーテルのきもいたく思わない、彼が十九歳の時学友アレキシスの雷死を眼前まのあたりて死そのものの秘義に驚いたその心こそ僕の欲するところであります。

「勝手に驚けと言われました綿貫さんは。勝手に驚けとは至極面白い言葉である、然し決して勝手に驚けないのです。

「僕の恋人は死ました。この世から消えてなくなりました。僕は全然恋の奴隷やっこであったからかの少女むすめに死なれて僕の心は掻乱かきみだされてたことは非常であった。しかし僕の悲痛は恋の相手のなくなったが為の悲痛である。死ちょう冷刻れいこくなる事実を直視することは出来なかった。即ち恋ほど人心を支配するものはない、その恋よりも更に幾倍の力を人心の上に加うるものがあることが知られます。

いわ習慣カストムの力です。

Our birth is but asleep and forgetting.

 この句の通りです。僕等は生れてこの天地の間に来る、無我無心の小児こどもの時から種々な事に出遇であう、毎日太陽を見る、毎夜星を仰ぐ、ここにおいてかこの不可思議なる天地も一向不可思議でなくなる。生も死も、宇宙万般の現象も尋常茶番となって了う。哲学でそうろうの科学で御座るのと言って、自分は天地の外にたっているかの態度を以てこの宇宙を取扱う。

Full soon thy soul shall have her earthly freight,

And custom lie upon thee with a weight,

Heavy as frost, and deep almost as life !

 この通りです、この通りです!

「即ち僕の願はどうにかしてこの霜をはたき落さんことであります。どうにかしてこの古び果てた習慣カストムの圧力からがれて、驚異の念を以てこの宇宙に俯仰介立ふぎょうかいりつしたいのです。その結果がビフテキ主義となろうが、馬鈴薯じゃがいも主義となろうが、厭世えんせいの徒となってこの生命をのろおうが、決して頓着とんじゃくしない!

「結果は頓着しません、源因げんいんを虚偽に置きたくない。習慣の上に立つ遊戯的研究の上に前提を置きたくない。

「ヤレ月の光が美だとか花のゆうべが何だとか、星の夜は何だとか、要するに滔々とうとうたる詩人の文字もんじは、あれは道楽です。彼等は決して本物を見てはいない、まぼろしを見ているのです、習慣の眼が作るところのまぼろしを見ているに過ぎません。感情の遊戯です。哲学でも宗教でも、その本尊は知らぬことその末代の末流に至ては悉くそうです。

「僕の知人にこう言った人があります。吾とは何ぞや⦅What am I ?⦆なんちょう馬鹿な問を発して自からくるしむものがあるが到底知れないことは如何いかにしても知れるもんでない、とこう言って嘲笑ちょうしょうらした人があります。世間並からいうとその通りです、然しこの問は必ずしもその答を求むるが為めに発した問ではない。実にこの天地に於けるこの我ちょうものの如何にも不思議なることを痛感して自然に発したる心霊の叫である。この問その物が心霊の真面目なる声である。これをあざけるのはその心霊の麻痺まひを白状するのである。僕の願はむしろ、どうにかしてこの問を心から発したいのであります。ところがなかなかこの問は口から出ても心からは出ません。

「我何処いずくよりきたり、我何処にかく、よく言う言葉であるが、矢張りこの問を発せざらんと欲して発せざるを得ない人の心から宗教の泉は流れ出るので、詩でもそうです、だからその以外は悉く遊戯です虚偽です。

「もうしましょう! 無益だめです、無益だめです、いくら言っても無益だめです。……アア疲労くたびれた! しかし最後に一ごんしますがね、僕は人間を二種に区別したい、いわく驚く人、曰く平気な人……」

「僕は何方どちらへ属するのだろう!」と松木は笑いながら問うた。

「無論、平気な人に属します、ここに居る七人は皆な平気の平三へいざの種類に属します。イヤ世界十幾億万人のうち、平気な人でないものが幾人ありましょうか、詩人、哲学者、科学者、宗教家、学者でも、政治家でも、大概は皆な平気で理窟りくつを言ったり、悟り顔をしたり、泣いたりしているのです。僕は昨夜ひとつの夢を見ました。

「死んだ夢を見ました。死んで暗い道をひとりでとぼとぼ辿たどって行きながら思わず『マサカしのうとは思わなかった!』と叫びました。全くです、全く僕は叫びました。

「そこで僕は思うんです、百人が百人、現在、人の葬式に列したり、親に死なれたり子に死れたりしても、矢張り自分の死んだあと、地獄の門でマサカ自分が死うとは思わなかったと叫んで鬼に笑われる仲間でしょう。ハッハッハッハッハッハッハッハッ」

「人に驚かしてもらえばしゃっくりが止るそうだが、何も平気で居て牛肉がえるのに好んで喫驚びっくりしたいというのも物数奇ものずきだねハハハハ」と綿貫はその太い腹をかかえた。

「イヤ僕も喫驚びっくりしたいと言うけれど、矢張り単にそう言うだけですよハハハハ」

だ言うだけかアハハハハ」

「唯だ言うだけのことか、ヒヒヒヒ」

「そうか! 唯だお願い申してみる位なんですねハッハッハッハッ」

「矢張り道楽でさアハッハッハハッ」と岡本は一所いっしょに笑ったが、近藤は岡本の顔に言う可からざる苦痛の色を見て取った。

底本:新潮文庫『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』

   1970(昭和45)年530日発行

入力:八木正三

校正:LUNA CAT

1998年523日公開

2011年523日修正

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