泣虫小僧
林芙美子



       一


 閻魔蟋蟀えんまこおろぎが二匹、重なるようにして這いまわっている。

 啓吉は、草の繁った小暗いところまで行って、離れたまま対峙たいじしている蟋蟀たちの容子ようすをじいっと見ていた。小さい雄が触角を伸ばして、太った雌の胴体に触れると、すぐ尻を向けて、りいりい……と優しく羽根を鳴らし始めた。その雄の、羽根を擦り合せている音は、まるで小声で女を呼ぶような、甘くて物悲しいものであったが、蟋蟀の雄には、それが何ともいえない愛撫の声なのであろう、りいりい……と鳴く雄の声を聴くと、太った艶々しい雌は、のそのそと雄の背中に這いあがって行った。太ったバッタのような雌は、前脚を草の根に支えて、からだの調子を計っていたが、やがて、二匹共ぜんまいの振動よりも早い運動を始め出した。

 つくねんと土いじりしながらそれを視ていた啓吉は、吃驚びっくりした気持ちから、おぼろげな胸のとどろきを感じた。

 雄は目に消えてしまいそうな小さい白い玉を、運動の止まった雌の横腹へ提灯ちょうちんのようにくっつけてしまうと、雌はすぐ土の上へ転び降りて、泥の上を這いずりながら、尻についた一粒の玉を何度か振りおとしそうに歩いた。すると小さい雄は、まるでその玉の番人か何かのように、暴れまわる雌の脚を叱るようにつつくのであった。

 啓吉は、なんとなく秘密な愉しさを発見したように、その蟋蟀の上から、小さい植木鉢を伏せて置いた。

 空はまぶしいほど澄み透って、遠くまでよく晴れている。光った土の上へ飛白かすりのように落葉が乾いて散らかっていたが、啓吉は植木鉢を伏せたままんやりしていた。

 呆んやりしたのはぐらぐらと四囲が暗くなるようなめまいを感じるからだ。どこかでピアノが鳴り始めた。いい音色で木の葉の舞い落ちてゆくような爽やかさが啓吉の肌に浸みて来るのであったが、啓吉は少しも愉しくはなかった。

 ぐらぐらとした暗さの中で、啓吉は不図ふと母親の処へよくやって来る男の顔を思い浮べた。その男の顔は、目が大きくて、鼻の頭が脂肪で何時もぎらぎらしている様な顔であった。

 啓吉が一番嫌いなのは、平気で母親に向って、「おいおい」と呼び捨てにすることや、けしからんことには、啓吉を「小僧小僧」といったり、全く、この男については何ともいいようのない胸悪さを持っていた。

「啓ちゃん!」

「…………」

「啓ちゃんてばッ、まだ泣いてンのかい?」

「…………」

「しぶとい子供だねえ、そんなとこに呆んやりしてないで、さっさと井戸端でお顔でも拭いていらっしゃい! ええ?」

 母親の貞子は、そういって、ゆがんだ雨戸をがらがらと閉ざし始めた。啓吉は黙ったまま井戸端へまわったが、ポンプを押すのもかったるくて、ポンプにもたれたままさっきの蟋蟀のことを思い浮べていた。絵本を見るような動物の世界を、啓吉は不思議な程に愉しく思い、どこからかガラス鉢を盗んで、あの二匹の蟋蟀を飼ってやろうかと思った。

に角、素敵に面白いからなア……」

 と、ニヤリと笑うと、急に思いついたように、ギイコギイコポンプを押し始めた。

「啓ちゃん! 早くなさいよ、渋谷のおうちへ行くのよ……」

 母親の貞子が、華やかな黄いろい帯を締めて、白い洋服の礼子の手をひいて裏口へまわって来た。


       二


「あんたみたいなひとは、本当にお父様のお墓の中へでも行ってしまうといいんだよ! 何時でも牡蠣かきみたいな白目をむいて一寸どうかすれば、奉公人みたいな泣方をしてさア……ええ? どうしてそんななのかねえ、おじさんだって可愛がれないじゃないか……」

 啓吉は知らん顔で母親の後から歩いていた。礼子は母親に抱かれたままで色んなひとりごとを言っている。

「さア、礼子ちゃん、ブウブウに乗りましょうね、自動車よ……」

 啓吉は、どの家にも庭があって、花を植えている家や、鶏を飼っている家や、木を植えている家などを、珍しそうに眺めて歩いた。何しろこの一帯は、垣根の貧弱な家が多いので、小道から一目で、色々な家の庭が見られた。

 日曜日なので、庭や空地などでは、啓吉の学校友達が沢山遊んでいた。啓吉は、その遊び友達の間を、髪を縮らせた若い母親と歩いていることが恥かしくて、大勢のいる遊び場を通るたび、冷汗の出るような縮まりようで歩いた。

「啓ちゃん!」

「うん?」

「何さ、そのお返事は……あのねえ、渋谷の叔母さんとこへ、四五日、啓ちゃんおあずけしとくんだけど、いいでしょ?」

「学校お休みするの?」

「ああ四五日お休みしたって、啓ちゃんはよく出来るんだから、すぐ追いつくわよ。叔母さんとこでおとなしく出来るウ?」

「ああ」

「叔母さんが色んな事聞いても、判ンないっていっとくのよ。──お前は莫迦ばかなところがあるから、すぐおしゃべりしてしまいそうだけど、いい? 判った?」

「ああ」

「ああって本当に御返事してンの? 煮えたンだか煮えないンだか訳がわからないよ、啓ちゃんのお返事は……」

 小道をはずれると、新開地らしい、道の広い新しい町があって、自動車がひっきりなしに走っていた。啓吉には三和土たたきの道が、まるで河のように広く見える。

「さあさ、自動車よ、礼ちゃん眠っちゃ駄目よ、重いじゃないのさア」

 啓吉が見上げると、母親の腕の中で、礼子が頭をがくんとおとしていた。耳朶みみたぶ生毛うぶげが光っていて、唇が花のように薄紅く濡れている。啓吉とは似ても似つかない程、母親に似て愛らしかった。──貞子は、小奇麗な自動車を止めた。ふわふわしたクッションに腰を掛けると、半洋袴ズボンの啓吉は、泥に汚れた自分の脚を、母親に気取られないようにしては、唾でそっとしめした。

「いいお天気ねえ、運転手さん! 横浜までドライブしたら、どの位で行くの?」

 髪を奇麗に分けた、衿足えりあしの白い運転手が、

「四五円でしょうね」

 と、いった。

「そう、安いものね」

 金もない癖に、貞子は飛んでもないおひゃらかしをよく言うのであったが、いまも、片方の手はたもとへ入れて、心の中で、とぼしい財布の中から、一つ二つ三つ四つと穴のあいた拾銭玉を数えて、残りは、電車で帰る切符代がやっとだとわかると、先きは先きといった気持ちで、走る町を眺めながら、どんな口上で啓吉をあずけたものかと、もうそれが億劫おっくうで仕方がなかったのだ。

「いつか、叔母さんと行ったお風呂屋があるね」

 啓吉が吃驚びっくりするような大きな声で言った。

「運転手さん! この辺でいいのよ」

 自動車がぎいと急停車すると、よろよろと啓吉は母親の膝へたおれかかった。


       三


 コロッケ屋と花屋の路地を這入はいると、突き当りが叔母の寛子の家で、溝板どぶいたの上に立つと、台所で何を煮ているのか判る程浅い家である。

 入口のコロッケ屋は馬鈴薯の山ばかり目立って、肉片がぶらさがっているのをかつて見たことがない程貧弱な構えで、啓吉が最初に寛子の家へあずけられた時、六ツで拾銭というコロッケをよくここへ買わされにやられたものであったが、揚鍋が小さいので、六ツ揚げて貰うには中々骨であった。

 右側の花屋は、これは中々盛大で、薔薇ばら百合ゆりやカアネーションのような、お邸好みの花はなかったが、菊の盛りになれば、一握り五銭位の小菊が、その辺の二階住いや、喫茶店や、下宿の学生達に中々よく売れて行った。寛子も花が好きで、一寸した小銭が出来ると、花屋へ出掛けては半日も話しこんで、見事な雁来紅はげいとうを何本もせしめて来ることがある。

 貞子は、この貧しい妹に、自動車から降りるところは見せたくなかったのであろう。風呂屋の前で自動車を降りると、すっかり眠ってしまった礼子をかかえて、花屋とコロッケ屋の小さい路地を曲った。

「いる?」

「あら、いらっしゃい! こぶつきで御入来か……」

「相変らず瘤つきさ、勘三さんいるの?」

「ううん、朝がた、あんまりお天気がいいからって、今日のようなお天気なら雑誌記者も機嫌がいいに違いないって原稿背負って行ったンだけど……」

「まア、背負って?」

「あの人が原稿売りに行く格好ったら、背負ってるって方が当ってるわよ、こう猫背でさア、背中の方へまで原稿詰めこんで、私一度でいいから、うちのひとがどんな格好で原稿ってものを売りつけてンのか見て見たいわ。一遍にあいその尽きるような風なんだろうと思うンだけど……」

「そんな事いうもンじゃないわよ。昨日や今日一緒になッたンじゃなし、子供もあってさ……」

 二階が六畳一間、階下が四畳半に二畳の小さい構えであったが、道具というものは、寛子の鏡台位のもので、勘三の机でさえも、原稿用紙が載っていないと、すぐ茶餉台ちゃぶたいに持って降りられる程な、抽斗ひきだしのない子供机で、兎に角何もない。

「お茶れましょうかね」

「おやおや珍しい、瓦斯も電気も御健在ね」

莫迦ばかにしたもンじゃないわ、この間、一寸大金が這入ってさ……」

「へえ、何時のこと、それ?」

 貞子は礼子を寝かしつけると、取っておきの電車代をそっとつまんで、

「啓ちゃんバットを一つ買っていらっしゃい。解ってるでしょ?」

 と、いった。

 啓吉は銅貨を七ツ握って表へ出て行った。

 硝子戸を開けると、チンドン屋のおはら節が聴えて来る。

「啓吉! 後、きちんと閉めて行くのよッ」

 啓吉は、もう路地を抜けて走っていた。

「仕様がないね」

 そう言って、貞子は、瀬戸火鉢の小さい火種をかきあつめたが、寛子が茶を淹れて来ると、

「あのね、また、お願いがあるンだけど……」

 と、からだをもんで、その話を切り出した。

 寛子は、押入れの中から、子供の伸一郎の小さい布団を出すと、

「姉さんのまたか」

 といった顔つきで、寝ている礼子へそれを掛けてやった。


       四


 啓吉は賑やかな町へ来た事がうれしかった。路地を抜けると、食物の匂いのする商店が肩を擦り合うようにして並んでいる。豆レコードを売っている店では、始終唱歌が鳴っているし、赤や緑の広告ビラが何枚も貰えた。ピカピカした陳列箱が家ごとに並んでいて、頭でっかちで目の突き出た自分の小さい姿が写るのが恥ずかしかった。

 掌では七ツの銅貨が汗ばんでいる。これで硝子壺は買えないかな。不図ふとそんなことを考えて硝子屋の前に立ったが、どの正札も高い。やけくそで、ぴょんぴょんと片脚で溝を飛んで煙草屋へ這入はいると、

「おおい啓ちゃん!」

 と、呼ぶ者があった。

 例の癖で、白目をぎょろりとさせて振り返ると、猫背の叔父さんが立っている。

「母さんと来たのかい?」

「ああさっき」

「何、煙草かい?」

「うん」

 勘三は如何にも草疲くたびれきったように、埃のかぶった頭髪をかきあげて、

「いいお天気だがなア」

 とつぶやく。思わず啓吉は空を見上げたが、晴々しい黄昏たそがれで、き初めた町の灯が水ですすいだように鮮かであった。

「煙草一本おくれよ」

「ああ」

 小さい啓吉が煙草を差し出すと、勘三は丁寧に銀紙を破って、新しい煙草に火をつけた。

「叔父さん歩いて来たの?」

「ああ歩いて帰ったンだよ」

「遠いンだろう? 東京駅の方へ行ったの?」

「うん、色んなところへ行ったさ」

「面白かった?」

「面白かった? か、面白いもンか、どこも大入満員でさ、叔父さんの這入ってゆく余地は一寸もないンだよ」

「ふん。割引まで待てば空くンだろう?」

「腹がへって割引まで待てやせんよ。そんなに待ったらミイラにならア……」

 勘三は煙草をうまそうにふうと吐くと、啓吉の大きな顔をおさえて、

「叔父さんが金でもはいったら、一つ何を啓坊に買ってやろうか?」

 と言った。

「本当に、お金がはいったら買ってくれる?」

「ああ買ってやるとも、きんつばでも大福でもさ」

「そんな、女の子の好くようなもン厭だ」

「おンやこの野郎生意気だぞ! そいじゃ何がいいンだ?」

「あのね、あの硝子の平ぺったい壺が要るンだけど……」

「硝子の壺? 金魚でも飼うのかい?」

「…………」

「ま、いい、そんなもンなら安い御用だ。叔父さんが立派な奴を買ってやるよ」

 コロッケ屋では、馬臭い油の匂いがしている。勘三が三尺帯をぐっとさげると腹がぐりぐり鳴った。啓吉はあおむいて、

「叔父さんのお腹よく泣くんだねえ」

 と笑った。

「ふん、誰かみたいだね。叔母さん何か御馳走ごちそうしてなかったかい?」

「知らないよ」

「そうか、ま、兎に角七八里歩いたンだから腹も泣くさ……」

 チンドン屋が、啓吉達の横をくぐって、抜け道のお稲荷いなりさんの宮の中へ這入って行った。


       五


「やア、お帰りッ……どんなだった?」

「駄目だよ……」

「だからさ、記者の頭って晴雨にかかわらないから、そンなものを背負って行ったって駄目なものは駄目よ。第一、私が読んだって面白くないンだもの……」

「あんまり人の前で本当のこというなよおい!」

 寛子は二階からぎくしゃくした茶餉台を持って降りて、濡れ拭布ふきんでごしごし拭くと、茶碗をならべ始めた。

「もう御飯?」

「ええこの人が坐れば御飯よ。どうせ歩きくたびれて、腹の皮が背中へ張りついてるンだから……」

「無茶ばっかりいってるよ。……あ、そいで、さっきの事二三日すれば目鼻がつくんだけど、啓坊をひとつ、あずかってくんないかしら、けっして迷惑かけやしないし、明日にでもなったら、少し位とどけられるから……」

「うん、その話ねえ、姉妹争いするの厭だけど、お互いに所帯を持ってるンじゃないの? 始めてなら兎に角、度々の事だし、私達も近々ここを追っ払われそうだし……」

「たった二三日よ、二三日したらお店を開くのだから、貴女にも手伝いに来て貰えるし……」

「ええだけど、いまさら私が頬紅つけて紅茶運びも出来なかろうし、本当いえば、姉さんの話当にならないンだから……」

「信用がないのねえ、……勘三さん、一つ啓坊二三日あずかって戴けません? 一生のお願いだけど……」

 勘三は、唇紅の濃い姉の姿をさっきからじろじろ眺めていた。心のうちで、三十にもなれば後家も中々辛いだろうと、変に同情してしまっている。

「ま、姉さんが、それでうまく行くんなら置いてらっしゃい」

 と、言うより仕方がなかった。

 眠っている礼子を背負って、姉の貞子が電車賃も借りずに帰って行くと、寛子は、わっと声をたてて泣いた。

「あんなひとってありゃアしない! 自分の勝手の時ばかり子をあずけに来てッ、貴方がなめられているからじゃないのウ」

「何もなめられてやしないよ。女房の姉さんじゃないか、どうしても駄目ですとはいいきれないよ」

「莫迦にされてンのよッ!」

「莫迦にされたっていいじゃないかッ、泣く奴があるか、莫迦ッ! 早く飯にしろッ」

 勘三はふところから色々な原稿の束を出すと、一枚を引き破ってばりッと鼻をかんだ。啓吉は小さくなってそれを見ていた。伸一郎は遊びに行っているのかな、早く帰らないのかなと、じいっと坐ったまますすりたい鼻もようすすらないでいる。

 四人も姉妹がいて、どれも命細々長らえている生活なのかと思うと、寛子は台所をしていても、はアと溜息が出た。

「ま、仕方がないよ、いまに俺だってこの状態じゃいないし、根気でゆくより仕様がないよ。何しろ文士志望が五万人ってンだから、骨も折れるさ……」

「そんな呑気のんきな事いってられないわよ。伸ちゃんだって来年から学校だし、土方でも何でもして働いてくれた方がよっぽどうれしいわ。本当に!」

 勘三は大の字になった。啓吉は益々固くなって、散らかっている煙草の銀紙をひろった。

「伸ちゃん! 御飯よウ、伸公ッ」

 台所の硝子戸が開いて、癇高い声で、寛子が子供を呼んでいる。


       六


 雨がしょぼしょぼ降って薄暗い。一足飛びに冬が来たような陽気だ。

「貴方あずかるといったのだから、貴方がこの子を始末して下さい」

 それが喧嘩の原因で、勘三はまた原稿を懐にして、

「じゃア、お前の気に入るように、啓坊をお菅君の所へでも置いて来るよ」

 と勘三は啓吉を連れて渋谷駅から省線に乗ったのであった。坊主憎けりゃ袈裟けさまでという言葉にうなずきながら、電車に揺られていても、勘三は何も彼も面白くなかった。

「おい啓坊! 中の叔母さんのとこへ行ってもおとなしくしてるンだぞ、ええ?」

「うん」

「啓坊の母さんがなってないから、まるで啓ちゃんが宿無し猫みたいじゃないか、ううん?」

「…………」

「さて、叔父さんは雑誌社へ寄って、叔母さんの務め先に電話を掛けてやるから、叔父さんが出て来るまで、外で待ってるンだよ」

 有楽町で降りて、銀座裏の雑誌社まで歩くと、啓吉のズックの運動靴は、水でびたびたして来た。赤や緑の服を着た珍しい女達が通っている。

「大きな町だろう?」

「…………」

 雑誌社の前へ来ると、勘三は啓吉に雨傘を高くかかげさして、身じまいをなおすと、一つの原稿を封筒へ入れて、

「じゃ傘さして待ってな、あっちこっち行くンじゃないよ、すぐ出て来るから……」

 馬に乗ったような意気込みで、扉を開けて這入って行ったが、勘三がビルディングの中へ消えてしまうと、啓吉は寒さと心細さで、何度すすっても鼻水がこぼれた。ここから、母親のそばまではもう帰れない程遠いのではないかと思った。舗道の三和土たたきへ当る雨が、ねあがって、啓吉の裾へ当って来る。傘が大きいので、啓吉の姿が見えない程低く見えた。

 街には昼間から灯がついていて、人力車が一台ゆるゆる走っていた。ラジオが聴える。がちゃがちゃした音楽だった。

「まだかな」

 啓吉は悄気しょげて大きな傘をブランブラン振った。

「おい啓坊!」

 啓吉はほっとして傘を持ちあげてビルディングの玄関にいる勘三のそばへ傘を持って走った。

「ここも大入満員だ」

「どんな人がいるの?」

「叔父さんみたいな立派な人が沢山いるンだよ」

「…………」

 啓吉が黙っているので、勘三も黙ったままぽつぽつ歩いた。「さてどこへ行くか」勘三は不図立ち停まって、封筒から原稿を出すと、新しい原稿を出して、その封筒へ入れ替えた。

「今度は新聞社だ」

「新聞社?」

「ああ」

 いよいよ啓吉の靴は重くなった。裸の脚ががたがた震えた。マークのはいった旗をつけた新聞社の自動車が、幾台も並んでいる所へ出た。勘三はそこで物馴れた容子でのこのこ階段をあがって行った。啓吉は草臥くたびれてしまって、入口の石段に傘をすぼめて腰をかけた。雨がにわかにひどくなった。自動車の旗がべろんと濡れさがっている。舗道は雨で叩きあげられて乳色に煙をあげていたが、新聞社の自動車が一台一台どっかへ滑って行くと、啓吉の目の前に小さい女のハンドバッグが陽に濡れて叩かれているのが見えた。


       七


 兎に角、二人はそっと濠端の方へ歩いて行った。

 雨は益々ひどくなって、勘三の差しかけている蝙蝠こうもり傘が雨にザンザン叩かれている。ペンキ塗りの空家になったガレージの前へ来ると、

「啓ちゃん! それ出して御覧よ」と、勘三が立ちどまった。

「誰も来てないかい?」

「うん、誰も来てないよ」

 啓吉が蝙蝠傘を差しかけると、裾をたくしあげた勘三は啓吉の拾った青いハンドバッグを開いてみた。啓吉は背伸びをして、叔父の手元を見上げている。

「はいっているかい?」

「まてよ……」

 青いハンドバッグの中には、沢崎澄子という名刺が二三枚這入っていた。汚れたパフのついた和製のコンパクトが一つ、においは中々いい。練紅、櫛、散薬のようなもの。ダンテ魔術団のマッチ、男の名刺が四五枚、紅のついたハンカチが一枚、茶皮の財布には、五銭玉が二つ、外にハトロンの封筒が財布の背中に入っていたが、これには拾円札が一枚はいっていて、封筒には「童話稿料」と書いてあった。

「はア、こりゃ、叔父さんみたいな人が落としたンだよ……」

 沢崎澄子といえばちょくちょく聞いたことのある名前だ──。勘三は、ハトロンの封筒から拾円札を引っぱり出したが、不図あきらめたように、その拾円札をハトロンの封筒の中へしまいこんで、

「ううん」

 と呻ってしまった。

「ねえ、それ拾ったって僕のもんじゃないンだろう?」

「そうさ、この女のひとだって困ってるだろうから、届けてあげなくちゃアねえ……」

 名刺の裏を見ると、渋谷区はたヶ谷本町としてあった。勘三は、不図、寛子と所帯を持った頃の三四年前の幡ヶ谷のアパートの事を思いだすのだ。芝居裏のような歪んだ梯子段はしごだんをあがって、とっつきの三畳の間を月五円で借りていたが、その頃は学校の出たてでまだ貧乏しても希望があったが、子供が出来て六年にもなり、自分の書くものが一銭にもならないとなると、海の真中へ乗りだしてしまったような茫然とした気持ちで、どうにも方法がつかない。

「まま乗り出したこっちゃい! ええッ、どうにかなりますわい」

「女のひとンところへ届けに行くの?」

「ああ届けてやることにしよう。まア、待てよ、叔母さんのところへ電話かけて見なくちゃア……」

 勘三は、そう言って、青いハンドバッグの財布の中から五銭玉一つ出して、ガレージのそばの自動電話へ這入って行った。

「もしもし……お菅さん? ねえ、厄介なことなンだ。そうさ。家庭争議を起しちまって、それも啓坊の事なンだけど、君ンところで二三日預かってくンないかねえ……ん、そりゃア困るなア、じゃおれんさんの所へ置いとくか、ん、新所帯しんじょたいで気の毒だけど、何しろ意地を曲げてしまって、啓坊は可哀想だけど、姉さんがどうしても憎いっていうんだ。──だらしがないンでねえ、あのひとも……」

 勘三が自動電話から出てくると、啓吉が白目を張りあげて大粒の涙を溜めていた。

「心細がらなくったっていいよ、中の叔母さんは事務所の連中と明日はハイキングだっていうんだ。だから小さい叔母さんとこへこれから行ってみよう」

「…………」

「大丈夫だよ、──何だ男の子の癖に」

「ねえ、僕、お母さんとこへ帰りたいや!」

 啓吉はそういって、自動電話の後へ回り、雨に濡れたまま声も立てずに泣き出した。


       八


 蓮子は十七歳の夏、姉の寛子の所をたよって上京して来ると、すぐ姉の良人、松山勘三の友人瀬良三石と結婚してしまって、三人の姉達に呆れた女だと叱られてしまった。で、それっきりこの半年ばかり、どの姉達にも御無沙汰してしまって、三石と夫婦気取りで、その日その日をおくっていたのだ。

 瀬良三石は、洋画家で、毎年帝展へ二三枚は絵を運ぶのであったが、落選の憂き目を見ること度々で、当選したのは、七八年前に軍鶏しゃもの群を描いてパスしたと言っているが、これとても当にはならない。当人はヴァンドンゲンを愛していて、青色の人物をよく描くのだが、勘三に言わせると「空家に住む人物」だと酷評するので、三石は、十七歳の蓮子をかっぱらうと同時に、勘三の所へはちっともやって来なくなった。


「啓坊、泣く奴があるか。お前のお母さんもだらしがないけど、お前もだらしがないぞッ」

 勘三は、ひどくきっ腹で、二三軒回った新聞社が駄目だったし、雨は土砂どしゃ降りの吹き流しと来てるし、懐は一文なしのからっけつと、朝から御承知のすけで出て来ているのだ。で、背に腹はかえられぬのてつを踏んで、有楽町のガード横丁まで引っかえして来ると、小八というおでん屋へ這入った。

「仕方がないさ、飯でも食べて、蓮子叔母さんとこへ行く事にしようや」

 そういって、始めは遠慮っぽく蒟蒻こんにゃくや、がんもどきのたぐいをつっついていたのであったが、根が好きな酒だ。鼻の先きでプンプン匂わされては、

「ええい」

 と気合の一つもかけたくなろう。何時の間にか、勘三の前には徳利が四本も並び、四囲は暗くなった。

「何よウびくびくしてンだい! ええ啓坊! 大丈夫だよ。相手はいくらヴァンドンゲンでも、高が落選画家だッ、叔父さんが連れて行けば、四の五のいわさんよ、ええ? あんなサロン絵描きを崇拝するから、三石はついに三石なんだ……おおい酒だ!」

 勘三はいささか酒乱の相がある。

 啓吉は、最早、母が遠くなったと泣くどころではなかった。躯中に鐘を打つような動悸どうきがして来た。

「叔父さんお家へ帰ろうよッ」

「ううん、判った判った、お家もよかろう。女房も伸ちゃんもよかろう。が、さてだね──人生はそんなびくびくしたもンじゃないよ。ええ? 活発に歩かンけりゃいかん。ねえねえさんや……」

 おでん屋の若い女主人は、唇元へ手をあててただおほおほ笑っている。

「どうだい? 啓坊、お前みたいなものは、出世出来ンぞ! 何だ! びくびくして、秀吉と蜂須賀小六の話を知らんのかねえ……」

 勘三は懐から原稿の束を出すと、一つ一つ題を読みあげていった。

「一、へそ問答、二、風や海や空、三、瘰癧るいれきのある人生、四、不格好な女、五、鍛冶屋かじや同士の耳打話と、どうだい、どれだって面白そうじゃないか、それなのに、これが一本の酒手にもならんというのだから不思議だよ……」

 卓子には徳利が七本になった。

 啓吉と同じ位の厚化粧した女の子が、「唄わして頂戴よ、お客さん」と這入って来た。啓吉は、吃驚して勘三をつついた。

「ああいくらでも唄いな。人生唄いたいだらけだ。どら俺が一つ唄ってやろう……」


風と波とにさそわれて

今日も原稿書いてます

酒も飲めない原稿を

風と波とにだまされて……


 啓吉は、立ち上って一人で戸外へ出て行った。


       九


 ──この車庫二階尺八教習所・都山流水上隆山──一台も自動車の這入っていないガレージの横に、ペンキ塗りのこんな看板が出ている。

 鍵の抜けたピアノのようながらんとした車庫の中へ這入ると、ドスンドスンと跫音あしおとが天井へ響く。

「おい、小僧! 待ってな、いいかい」

 啓吉は泥まみれな足で、車庫の入口につっ立っていた。酔っぱらいの叔父さんなんかどうでもいいや、俺は発明家になってやるんだから、そう力んでいても、看板の上の五燭の電灯がまるで、一つ目小僧のようで、啓吉の胸の中は鳴るような動悸がしている。

「おい! 小僧ッ、馬穴ばけつをやるから足を洗って その鉄梯子から上って来な」

 ガレージの隅がほのあかるくなった。そこから鉄梯子がさがっていて、小さい馬穴が紐にぶらさがって降りて来た。啓吉は尺八を吹く男の、大きな下駄を持って、水道のそばへ行った。黒い駄犬が啓吉にもつれついて来た。

 小僧小僧だなんて、大人になったら大学へ行くんだのに莫迦ばかにしてらア、啓吉は、よく母親のところへやって来る「小僧小僧」と呼び捨てにする男の事を思い出した。俺は小僧に見えるのかな。厭だなア、二階へ上ったら名前を言ってやろう……啓吉は、雑巾で足を拭いて、鉄梯子を上って行った。啓吉が二階へ上って行くと、暗い三和土の上でいっとき黒犬が降りて来いと甘えて吠えていた。

 尺八教習所といっても、部屋の隅には布団が三四人分も重ねてあり、七輪だの、茶碗だの、古机などが雑居している。

「腹はどうだね?」

「…………」

「ええ? 遠慮はいらないンだよ」

「…………」

「おや! 小僧は何時の間におしになったンだ?」

「田崎、啓吉ってね、いうんだよ」

「ああそうか。ま、名乗りはどうでもいいや、これから飯の支度だ。その辺にごろごろしてな」

 隆山は新聞紙を丸めて、七輪の中へそれを入れ、手攫てづかみで炭をその上に乗せマッチを擦った。机の上には尺八の譜本のようなものが一二冊載っていたが、ハヒハヒチレツロ……などと、啓吉にはさっぱり面白くない。女気がないと見え、四囲は鼠の巣のようで、天井には雨漏りの跡の汚点しみだらけだ。

「おい! 鮭で茶漬はどうだい?」

 濡れた新聞包みの中から、鮭の切身が二切出て来た。隆山は指で摘まんで、七輪の炭火の上に、じかにそれをあてて茶碗を畳の上に並べ始めた。──啓吉は叔母達の生活を貧乏だとは思っていたが、まだまだこの方がひどいような気がした。この部屋の主人は教習所の尺八指南だけでは食ってゆけないらしく、時々、酒場の多い街裏を流して歩いてゆくのであろう。

「明日は鱈腹たらふく飯を食って、お母さんとこへ帰ってきゃいいよ。なア、おい、中野の駅まで行けば道が判るのかい?」

 啓吉はうなずいた。

 酔っぱらった叔父をおでん屋へのこして来たままどこを歩いたのか、尺八を吹く男に拾われてこんなところへ来たのさえ不思議で仕方がない。礼子ちゃんは寝てるかな。母さんも眠ってるだろう……啓吉は、あの男と母親が、愉しそうに笑いあっているのではないかと思うと、自分が余計者のようで不図涙が出た。

「おい、ほら鮭が焼けたぜ」

 いっぱい飯の盛られた飯茶碗を胸の辺へかかえ上げると押入の方で蟋蟀こおろぎがりいい……と鳴き始めた。

「ああッ」

 啓吉はごくんと飯の塊を飲み込み、植木鉢の下に伏せた、雌を呼ぶ蟋蟀の物哀しい声を何気なく思い出した。


       十


 飯を食べた。布団の中へもぐり込んだ。

 深夜になると、何台も自動車が帰って来るようで、ギイッと階下の車庫の中へ滑り込む自動車のブレーキの音がしていた。啓吉は色々な夢を見た。

「この子は薄目を開けて眠るので気味が悪いわ」

 と、男が泊ってゆく度、母親が弁解していたが、薄目を開けて寝ると、眠っていても声をたてる事がある。

 朝になって啓吉は目覚めて見ると、夢に見たものが、部屋いっぱい散らかっていた。自分のそばには運転手や助手達が三四人も大鼾おおいびきで寝ていた。隆山は寝床に腹這ったまま手紙のようなものを書いている。

「どうだ! ゆんべは寝られたかい?」

「…………」

「中野まで送ってゆくかな。安心しな」

「ねえ、ここはどこ?」

「ここか、ここは神田美土代町みとしろちょうさ……」

 手紙を書き終ると、隆山は厚い唇で封をしめして、「さて、これで田舎の神さんも御安心だ」と、立ちあがるなり、裏の小窓を開け、尿を二階から飛ばした。

 寝ていた啓吉にはその小窓がよく見えた。雲の去来を見ていると、啓吉は、雲が一つ一つ生きているように思えた。

「なぜ、雲は浮いたり走ったりするの?」

「雲かい? さア、煙だから軽いンだろう……」

 啓吉は学校へ行って先生に訊くに限ると思った。陽が当っていい天気のせいか、啓吉は革の匂いのするランドセルが懐しくなった。

「僕、やっぱりねえ、渋谷の叔母さんとこへ帰ろう……」

「渋谷? よし来た。どこだって送ってってやるよ。どうせ昼間は遊びだもの……」

 隆山は袂の底を小銭でちゃらちゃら音させながら、啓吉を連れて表通りへ出た。啓吉は、濡れた靴が気持ち悪かったが、四囲が爽かなので、じき忘れて歩いた。二人は電車通りにある一膳めし屋に這入った。まず壁に──朝飯定食八銭──と出ているのが啓吉に読めた。

「定食二人前くンなッ」

 隆山が意勢よく呶鳴った。

 その定食という奴が若布わかめの味噌汁にうずら豆に新香と飯で、隆山は啓吉の飯を少しへずると、まるで馬のように音をたてて食べた。

「小僧! 美味びみか?」

「…………」

 啓吉は只目で合点うなずいた。合点きながら、返事をしいられる事が何となく厭だった。だが飯も味噌汁も啓吉には美味うまい。うずら豆の甘いのは、長い間甘いものを口にしない啓吉にとって、天国へ登るような美味さであった。

 飯屋を出て、すぐ市電へ乗った。隆山は心のうちで尺八でも吹いているのか、こつりこつり首で拍手を取っている。

 窓外を見ている啓吉の目の中に段々記憶のある町が走って来る。──渋谷の終点で降りると、隆山は陽向ひなたに目をしょぼしょぼさせて、

「じゃ、さよならするぜ。覚えてるかい? 覚えてたら、又遊びにおいでよ……」

 といった。啓吉は吃驚したような顔をして隆山を見上げた。「遊びにお出でよ」と親切なことをいってくれたのは、大人でこの男が始めてであったから──。

「ああ」

 啓吉は有難うをいいたかったのだが、何となくそれがいえないで走り出した。

 花屋がある。コロッケ屋がある。啓吉はその路地へ片足でぴょんぴょん溝板を踏んで這入って行った。突き当りの二階の手摺てすりには、伸一郎を抱いて背を向けた勘三が、つくねんとしている。

「只今」

 と格子を開けると呆れたような寛子が、

「まア、厭な子だねえ、人にさんざ心配させて……貴方! 啓ちゃん帰って来ましたよッ」

 と、ほっとした容子で二階へ呶鳴った。


       十一


田の麦は足穂たりほうなだれ

いばらには紅き果熟し

小河には木の葉みちたり

いかにおもうわかきおみなよ


「ああいかにおもう、野崎澄子よ、か……」

 勘三は、拾ったハンドバッグの中から、匂いのいいコンパクトを出して、鼻にあてながら、ストルムの詩をうたった。妻にはない若い女の匂いだ。伸一郎はぽかんとして父親の容子を見ている。

「貴方ン! 啓ちゃん帰って来ましたよッ」

 わしく上って来そうな寛子の声だ。勘三は、矢庭にハンドバッグを懐へしまった。何時も原稿の束をしまいつけているので、ふくれた懐も目立たない。

「へえ! 昨夜はどこへ泊ったンだ? 新聞社のところから急にいなくなったじゃないかッ」

 勘三は目玉をパチパチさせて階下へ降りて来るなり、啓吉に合図をする。で、啓吉は、叔父と別れてからの話をしなければならない。

「へえ、随分親切な人もあるもンね。尺八を吹く人なのかい?」

「…………」

他人ひと様だってそンな親切なお方があるンだのに、手前エはどうだ。血のつながった甥じゃアないかよ。ええ? それをさア、姉きへ意地を張って、方々へ預けようとするから、こんな間違いがおきるンだ」

「そンなことはどうでもいいわ……何も、啓坊がいなくなったからって、酒を呑んでへべれけになって帰る事はないでしょう……あとで、どうなのか、啓ちゃんに聞いてみますよ、怪しいもンだからねえ」

「余計なことを訊かなくてもいいよ。子供は天真なのだからね……」

「へへッだ! ──だって、啓ちゃんは動物園へ連れてってやっても、猿同士がおんぶしあってる事ちゃんと識ってて、顔をあからめるンですもの、もう天真じゃないわよ」

「莫迦ッ! 場所を考えて言えよ。──早く啓坊に飯でも食べさせてやりッ」

「白ばくれて、何ですかッ、私が何にも知らないと思って……皆知ってますよ」

「知ってたらなおいいじゃないか、俺が虎になって帰ったからって、何も手前エが知ってるッて威張るこたアないだろう………」

「兎に角いいわよ、後で啓吉に訊いてみますからねえ……」

「啓吉! こんな莫迦な、叔母さんに余計なことをいうと承知しないよ。いいかい、ええ? そのかわり叔父さんが金魚鉢買ってやるよ、欲しいっていったろう……」

「まア、そンな金あったら、伸ちゃんの襟衣シャツを買ってやりますよ。啓吉啓吉なンて何ですか! 弱味があるンでしょう? ──本当に、死んだ義兄さんそっくりで、ふくろうみたいな目玉……啓ちゃんには罪はないけど、厭になっちゃうわ……」

「あ、あ、秋日和あきびよりで、菅公なぞはハイキングとしゃれてるのに、朝から夫婦喧嘩か、こっちが厭になるよ。──伸ちゃんもお出でッ、襯衣買ってやるよ」

 勘三は、寛子の容子をうかがっている啓吉の頭を押して伸一郎を背負うと、どんどん路地の外へ出て行った。

「いいかい、叔母さんに何でも黙ってンだよ」

「…………」

「おい、こら、判ったのか、判らンのか?」

「うン、でも、あのお金を使っちゃったんだろう?」

「ううんいいんだよ。叔父さん明日は沢山お金が這入るンだから返しに行くよ。解ったろう……」

 硝子屋の前には、青色で染めた硝子鉢が出ていた。啓吉はそれを指でおさえて、

「これがいい」

 といった。


       十二


 金魚鉢は青くて、薄く透けていて、空へ持ちあげると雲が写っている。啓吉には素晴らしい硝子の壺だ。啓吉はそれを覗き眼鏡にして、拡ろがった空を見ながら、

「ねえ、空はどうしてあんなに青いの?」

「空かい?」

「うん」

「さア、何かで空の青いことを読んだが……大気の中にいる微粒子ってものがさ、水蒸気になってさ、その微粒子の沢山な量が、むくむく重なると、あンなに青い空になるンだと……」

「微粒子って青いものなの?」

「面倒だな、叔父さんだって、本当は覚えてやしないよ。微粒子ってのはねえ……ほら、海の水だってすくってみると青くないけど、どっさりだと青くなるじゃないか、ねえ、お前のその鼻水もそうだよ……」

 啓吉はずるりと鼻汁をすすった。

「さアて、金魚鉢買ったら洋品屋にまわって、伸公の襯衣シャツを買ってやらなくちゃ、叔母さん怒るからねえ」

「あの青い袋のお金で買うの?」

「余計なことをいわンでもいいよ。叔父さんがちゃんと明日は持って行くンだから……」

 伸一郎は蜂の腹のようなだんだらの襯衣を買ってもらった。

「さア、伸公、ずいずいずっころばしを唄って帰ろうや」

 啓吉達が勇んで路地の中へ帰って行くと、寛子は開けっぱなしの玄関に立っていて、気味の悪い程な機嫌のいい顔でニコニコ笑ってつっ立っていた。

「貴方!」

「何だッ」

 勘三は故意に強い顔をして見せた。

「貴方ッ、三百円三百円……三百円よ」

「何のことだ、周章あわてくさって、ええ?」

「懸賞が当ったのよ」

「ホウ……どこだい?」

「まア、呑気だ。そんなに方々心当りがあるの?」

「余計なことをいいなさんな。亭主を何時も莫迦にばかりしているから亭主だって、方々へ心当りをつけとくンさ……」

 勘三は寛子から手紙を受取ると、そそくさと二階へ上り、すぐに支度をして降りて来た。

「また、昨夜みたいに、へべれけになって帰っちゃ困りますよ。いい? 家賃だって今月は少しかためて払わないじゃ、追っ払われそうだし、判りましたか?」

「あああだ、君の顔をみると、家賃の請求書に見えて仕方がないよ。ま、兎に角、俺の留守には、支那蕎麦そばの十杯も食べて呑気に待っていなさい。ええ?」

 勘三が元気よく、往来へ出て行くと、寛子は落ちつきのない容子で、鏡台の前に坐った。化粧水も髪油もとうの昔に空っぽだ。ああ早く三百円にお目にかかってあれもこれも……ねえ伸ちゃんといいたい気持ちで、寛子が振り返ると、啓吉も伸一郎も、裏の貧弱なさわらの垣根の下で、盛んに泥をこねかえしている。

「伸ちゃん! あんまり、ばばっちいことしちゃ駄目よッ」

 玄関を開け拡げておくと、小さい鏡の中へまで、路地の上の空が写って見える。──啓吉が女の子だったら、女中がわりにでも置いてやるのだけれど、……何にしても三百円は大金だ。寛子は油気のないばさばさした髪に櫛をとおしながら、昨夜持って帰った、女持ちの青いハンドバッグが気にかかって仕方がなかった。

一寸ちょっと見せてよ」

 と言ったら、周章あわててしまいこんでしまったけれど……寛子は思い出したように急に立ちあがると、泥いじりしている啓吉へ、

「啓ちゃん、一寸お出で、一寸でいいの……」

 と、裏口から啓吉を呼びたてた。


       十三


 星の奇麗な晩で、頭の芯が痛くなる程、啓吉は二階からあおむいて空を眺めた。

 階下では、ハイキングに行った中の叔母の菅子が、野菊や赤い実のついた木の枝を土産みやげにして、寛子と話しこんでいる。

「電気つけて……」

 伸一郎が、つまらなくなったのか、手摺てすりから離れると、啓吉に電気をつけてとせがんだ。机は茶餉台がわりに階下へ降りているので、踏台になるものが何もない。

「うん、電気よか、星の方がピカピカしているよ、伸ちゃん、僕がアメリカを見せてやるからお出でよ……」

「アメリカ」

「ああとてもよく見えるよ、明るくて国旗がいっぱい出ててさ……」

 啓吉が、伸一郎の腋の方へ手をまわしてかかえ上げると、伸一郎の胸の動悸がことこと激しく鳴っている。

「怖いかい」

「うん」

「怖かないよ……」

 かかえ上げると、伸一郎が手摺に足をふんばったので、大きな音をたててどすんと、二人とも尻餅をついた。

「何、おいたしてるのッ! どすんどすん暴れて、埃がおちて来るじゃないのウ」

 啓吉は首を縮めた。伸一郎はわざと、足を畳に投げつけた。啓吉は吃驚して、伸一郎の上へ馬乗りになったが、暗い闇のなかで、伸一郎の顔の上へ、自分の顔を持って行くと、乳くさい息が、微風のように啓吉の咽喉へ吹いて来た。啓吉は遠いものを探しあてたように、伸一郎の唇の上へ、自分の額を押しつけた。

「ぐりぐり坊主、ぐりぐり坊主……」

 と、小さい声でささやきながら、啓吉は、伸一郎の腋の下をくすぐった。擽ぐりながら、二人はころころ転げまわった。啓吉は冷たい畳の上を伸一郎と転がりながら、あくびまじりに涙が溢れた。

「おい! おいたしてると、きかないよッ」

 二階の梯子段の上から、寛子の顔が生首のように覗いた。階下では、菅子の優しい声で、

「子供だもの放っときなさいよ」

 と、姉をたしなめている、ぽつんとした声がきこえる。

「真暗だね? 眠いンなら、二人とも降りていらっしゃい。その辺をばらばらにしていると叔父さんに叱られるよ」

 啓吉はまた首を縮めた。

 階下では、菅子が、牡丹色ぼたんいろのジャケツに黒のジャアジイのスカートをはいて、横坐りになったままで、

「そりゃ勿論、姉さんがだらしがないのさ、だけど、女ってものは三十になったって、あンたのいうような、そンな分別なンてつかないと思うわ。しかも、五年も一人でいたンですもの、子供なンかかまってられないと思うの……」

「母性愛なンてものはなくなるかしら?」

「母性愛? 冗談じゃないわ、そンなことはあンたみたいに御亭主のある人のいうことさ、──あンなにまだ若づくりで、むちむちしてンですもの、苦労してる気持ち判るわよ……」

「おやおや一人者の癖して、よく三十女の気持ちがお判りになりますねえ?」

「判るも判らないも、本当の事よ。蓮ちゃんだって、そうだわ。たった十七だけど、あんなになって、子供の癖にいっぱしの女房気取りで、……一番、あンたを莫迦にしている位よ」

「へえ、私を莫迦に? 何時逢ったの?」

「ううん、一寸尋ねて来たンだけど……まるきり変ってしまってねえ、苦労はしてるらしいけど、一人者のあたしの方が、よっぽど羨ましかったわよ」


       十四


 九時が打った。

 勘三はまだ帰らなかった。あつらえた支那蕎麦が本当に十杯ばかりも並んだ。

「こんなに御馳走になって済まないわ」

「何いってンのよ、さア、伸公も啓ちゃんもたンとお上りよ」

 啓吉は茶碗をかかえ上げて、湯気で頬を濡らしながら、青いハンドバッグの事を知らないで押し通した事に気がひけながら、蕎麦を食べた。小さい電気の下に、四ツの大きな影が部屋いっぱいに重なりあって、いっとき静かに蕎麦の音をさせていたが、寛子が思い出したように、

「あンたも、蓮ちゃんを羨ましがらないで、早く結婚したらいいじゃないの?」

「うふッ……何を思い出してンの、さ、私は私よ。いまにもっともよき人を選んでね」

とうがたってはお終いだから……」

「まア、有難う! 三人のいい見本がありますから、せいぜい利巧に立ちまわるわ……」

「莫迦! ところで考えてるンだけど、四人のうちで私が一番貧乏性かも知れないわね。──酒呑みで、呑気そうで浮気者の亭主をかかえてさ、おまけに、呆んやりした子供をぶらさげてて、一生に一度、あンたみたいに、安香水でもいいからふりかけて見たいよ本当に……」

「皮肉ねえ……」

「ん、そ、そうじゃないさ、つくづく亭主ってもの持ってみて、女ってものの利巧さかげんがよく判ったのよ」

「だって、義兄さんは、あれで芯はしっかりしているわ、啓坊のお父さんみたいだと困るじゃないの? あれもいけない、これもいけないっていうから、義兄さんが亡くなっちゃうと、姉さんはいっぺんに若返って、娘のやりなおしみたい甘くなっちまってさ……」

「結局、早稲わせ晩稲おくても駄目で、あンたみたいなのがいいってことでしょ」

「あら、厭だア、冗談でしょ。私だって情熱があれば、蓮ちゃんのてつを踏む位何でもないけれど……職業なンか持ってると、そうそう男のひと一と目見て、一途いちずにやれないからなの、──でもそろそろ本当は困ってンのよ。二十四にもなって、別に処女を大事にしてるってのじゃないけど、いまさらその辺へ一寸安々捨てられもしないし……」

「もてあましている?」

「全く、本当にそうなのホホ……」

「厭なお菅ちゃんだ……。ところで、父さん、どうしたんだろう? 遅いわねえ」

 伸一郎は、早、寛子の膝を枕に眠りこけている。隣家では時計が十時を打った。

「昨日も電話があったけど、ねえ、本当に困るンなら、私が明日連れてって、姉さんの容子、どんな風か見てこようか?」

「拝むわ、そうしてよ、何だか虫が……」

 好かないと言おうとしたが、啓吉が、痩せた影をしょんぼり壁に張りつけさせて、叔母達の話を聞いているので流石さすがに寛子も言葉を濁した。


「啓坊が一番苦労するね」

 菅子が、そういって立ちあがった。朽葉色の靴下が細っそりしていて、啓吉の目に美しく写った。

「じゃ、そろそろ帰ろう……啓坊連れてきましょうか?」

「頼むわ」

 寛子は、襯衣のない啓吉が風邪かぜを引くといけないといって、勘三の縮んだ夏襯衣を、啓吉の下着に着せてやった。

「さア、子供のうちは、何でもいいッと、じゃ、二三日してまた来ます。義兄さんによろしく。大金が這入ったら、それこそ安香水でも買ってね」

 小麦色の合いの外套を引っかけた菅子の後から、啓吉は、眠た気な目をして、

「さよなら」

 といって戸外へ出た。路地には風が出ていた。


       十五


 風が出ていて、啓吉は、歩くのがおっくうであったが、菅子の後から眠むそうにひょこひょこ歩いた。

 渋谷から六つ目だかの高田の馬場で降りると、菅子のアパートは線路の見える河岸に建っていた。アパートといっても、板造りの二階建で、もうかなり歴史のある構えだ。

「啓ちゃんは、一等誰が好き?」

「…………」

「よう、誰? いって御覧よ」

 菅子は赤いスリッパにはきかえて、埃のざらついた梯子段を上りながら、下から上って来る啓吉に尋ねた。

「ええ?」

「母アさん……」

「へえ……そうかねえ」

 菅子はくりくりした顎の先を部屋の鍵で軽く叩きながら、母と子の愛情は、どんなに粗暴であっても、固くつながっているものだと、少しばかり感心しながら、

「啓ちゃんのお母さんは、礼子ちゃんばかり可愛がるじゃないの?」

 と言った。

「…………」

 啓吉は、応える言葉がないのか黙っていたが、思い出したように、小さい口笛を吹き始めた。

 四人の姉妹のうち、菅子だけは学問が好きで、田舎の女学校も出ていたし、長い間、貞子の家も手伝っていて、姉の結婚生活には軽い失望も感じる程、しっかり者だった。

 貞子の家庭や、寛子の家庭の容子を見ても、自分が早々と結婚するには当らないような気持ちを持っていたし、よし、結婚したところで、満足な答えは出て来そうもない、不思議な算術のような男女の間を、菅子は年齢を重ねているだけに、危険に感じて来ているのであった。「誰が好きか」といえば、母親が好きだと率直に啓吉はいったが、はて、自分は、故郷を捨てて出て来ているし、両親はとっくの昔に亡くなっていたし、何となく色々な男の顔も浮かんで来たが、心寒い淋しさばかりで、好きで仕様のない顔というものが浮んで来ない。

「もう、そろそろ寒くなるわね」

 部屋へ這入ってスイッチをひねると、菅子の牡丹色のジャケツが啓吉の目に奇麗にうつった。母の貞子に連れられて昼間二三度は来た事があったが、夜更けて来たのは初めてで、啓吉は、寛子の家よりは気軽なものを感じ、貧しいながらもちゃんと食ってだけはゆける菅子の部屋の温かさに、啓吉は急に、黙って寝転んでしまいたいような愉しさになった。

 菅子は、啓吉の母親に一番よく似ていて、牡丹色のジャケツをぬぐと、広い胸が北国の女らしく乳色にさえざえしていた。啓吉はまぶしいものを見るように、畳へ腹ばって、散らかっている婦人雑誌を眺め出したが、

「啓ちゃん、ここのボタンをはずして、ううん?」

 洗濯したてのスリップの背中の釦が固く釦穴にしがみついていて離れないので、不意にしゃがみ込んで啓吉の前に、白く光った背中を持って来た。若い叔母の何でもないしぐさに啓吉も何でもない気持ちで躯を起したけれども、妙に脣のあたりが歪んで指先きが震えた。大人のような表情にもなり得る。菅子には、子供のそんな表情なんか見えない。兎に角「好きなひと」にこだわってしまって、事務所の男の連中を考えても見たが、どの男達も、「ねえ」と向うから手を差し出して来れば、恥じらった格好だけはしてみせる位、どの顔もそう嫌いではない。躯は受粉を待っている九分咲きの花のようなもので、菅子は、啓吉の冷たい指が背中にひやひやする度、気の遠くなるようなもの思いに心が走って行った。

 戸外の風が段々風脚が強くなった。


       十六


 不図ふと、啓吉が目を覚ますと、叔母はまだよく眠っていた。脣の隙間から、白い前歯が覗いている。啓吉は、朝の部屋のなかをひとわたりぐるりと見渡して、また叔母の背中へくっついて眠って見たが、急に母親の匂いが浮んで来た。菅子のむき出した肩のあたりに顎をもたせかけると、母親に逢いたくなって、粒々な涙が、みひらいた目から湧くように溢れた。

 祭日なのか、花火が遠くで弾けていた。

「中橋さん! 中橋さんお客様ですよッ」

 アパートの管理人が、扉をノックしている。啓吉は、すぐ涙を拭いた。菅子は吃驚びっくり人形のように起きあがると、浴衣の寝巻きのまま扉を開けに立った。叔母が出ていった布団の中はぬくぬくして気持ちがいい。

「なアんだ、吃驚するじゃないのッ、何? 朝っぱらから……」

「誰かお客様?」

「お客様? ああお客様よ、いいひと……」

「へえ! 珍しい……」

「莫迦にしてる。だから、不良少女だっていうのさ」

「もういいわよ。不良不良って、どっちが不良さ……部屋へ這入っていいの?」

 蓮子が尋ねて来たのだ。菅子は荒神山の杉の木のような乱れた髪のままで一間のカーテンを開けた。風が静まっている。省線電車が、郊外の方へ向って、いっぱいふくらんではしっている。

「何だッ、啓ちゃんか……」

 啓吉は布団から頭を出して、蓮子に薄く笑って見せた。

「お菅ちゃんは相変らず堅人だ……」

唐変木とうへんぼくっていうンだろう?」

「いいや──この頃、やっぱりお菅ちゃんみたいなのがよくなったわ」

「三石氏、どうなの? 可愛がられて貧乏すンのいいじゃないか。手鍋をさげて奥山住いってこともある……」

「厭よッ! 可愛がってなンかくれやしないわ、初めのうちだけ……」

「御馳走さま……」

「だめよ、冷やかしちゃア……今年こそは何とか入選させて……少し落ちつきたいっていってるのよ……」

「実際、三石夫妻と来たら、空家ばっかり探してるじゃないか、で、また、お引越しで、このアパート世話しろってンじゃないの? まっぴらよ」

「ひどいわ。姉妹の居るところへおかしくて越せますかッ、……って力んでみたところで仕方がないけれど、本当は、私、三石の所を逃げて来たの……」

「まア!」

「本当よ」

「おどかしちゃ厭だよ、ええ? 後で涼しい顔するンだろう?」

「厭だわ、そンなのじゃないわ。ねえ、落ちつきたいっていうから、私、少しの間だけど、カフェーに勤めたりして、随分つくしたンだけど……留守の間に、別れた奥さんと逢引きなンかしてるんですものねえ」

 啓吉は長い間の習慣で、起き上ると、布団をきちんとたたんだ。二人の叔母の話をそれとなく耳に入れていたが、よくは判らない。只、寛子によく似ている蓮子の顔が、妙に老人臭くなってしまって、菅子の方が七ツも年上なのに、ひどく艶々している。啓吉は、よく喋る叔母達を見ていた。

「さア、ま、いいから、湯がわいたらさ、紅茶でもれて手伝いなさい」

 菅子は鏡台の前に坐って髪をとかし始めた。

「そいで、今度こそ決心したの……」

 そういって蓮子は、瓦斯ガスのそばへ行って紅茶を淹れながら、思い出したように、

「男ってわかンないわ」

 といった。

「そンなに早く男が解っているくせにね……」

 菅子が櫛を持った手を叩いて、くっくっ笑い出した。


       十七


 啓吉が、菅子や蓮子に連れられて、花火のポンポン昇っている戸外へ出たのは昼ちかくであった。

「何も、別れた奥さんに逢っていたからって、怪しいってもンじゃないでしょ、ねえ夫婦になって、一々腹を立ててちゃ仕方がない」

「そりゃア、お菅ちゃんが結婚してみないからだわ、前の奥さんに逢ってて腹を立てない女ってないわよ」

「そうかねえ……」

 各々、蓮子にしても、寛子にしても自分の御亭主をいっぱし浮気者に考えているだけ、天下泰平なのだと、酔いどれの勘三や、空家ばかり探し歩いている人のいい三石の事を思い出すと、何となく心細い気もする。

「少々はほかの女のひとにも何とか言われるんでなきゃ、御亭主にしては張合いがないだろう……」

 菅子が一矢放った。蓮子は驚いたように唇を開けた。人妻になったとは言っても根が十七歳の少女だ。黙りこんでしまった。

 省線で中野の駅へ降りると、電信隊の横の桜が大分葉を振り落していて、秋空が大きく拡がっている。啓吉にはそれがなつかしかった。

 今日は学校が休みなのだろう、広場で、学校友達が群れて遊んでいる。時々遠くの群の中から、「田崎君!」と子供達が啓吉を呼んだりした。

 啓吉はあかくなりながら、それでも懐かしそうに、叔母達の後から振り返ってはニヤリと笑ってみせた。どこの庭にも菊の花が咲いていて、

「郊外も此処はいいわね」

 と蓮子が言うと、菅子は靴の先きで小石を蹴りながら、

「ここだって市内だよ」

 と言った。

 啓吉は吾家へ、四日振りに帰って来たのだけれども、まるで一年も見なかったような、遠い距離を感じるのであった。

 急いで玄関を開けると、

「おや、一人かい?」

 と言って、濡れ手拭を持った母親が出て来た。風呂から帰ったばかりと見えて、えりのあたりがほんのり白くなっている。啓吉は帰って来た事を叱られそうな、おずおずした目で、

「ううん」

 と言った。

「まア、あンた達なの……金魚のうんこみたいにぞろぞろして……」

 玄関には、大きな男の下駄がぬいであった。風呂からあがりたてで桜ン坊のように赤くなった礼子が奥から走って来た。

 貞子は、玄関へつっ立ったまま妹達へ上がれとも言わない。

「寛子姉さんがね、啓坊を連れてって、容子を訊いてくれって言うもんで……」

「そう、じゃ、啓吉置いてらっしゃい、何も、容子なんかあンた達に話す事ないじゃないのさ……」

「怒ってンの?」

 菅子が急にむっとして言った。

「怒ってやしないけど、連れに行くまで置いてくれてもいいじゃないの……姉妹甲斐がいもないねえ」

「何よういってンのウ、湯帰りか何かでのんびりしててさ、自分の子供を妹の所帯へあずけっぱなしで……何もねえ、容子を訊くってのは、男のひとが居るのか居ないのかをさぐりに来たンじゃないわよ」

「まア、いいわよお菅ちゃん!」

 蓮子が急におろおろした。

「放っといてよお蓮ちゃん! いうだけはいわなくちゃア、ええ? 昨夜は啓坊は私のところで泊るし、その前の晩は、神田の尺八を吹く人の家に世話になったりして、寛子姉さんとこだって、二晩もあずかってさ、夫婦喧嘩までおっぱじめたりしたのよ……そんな邪魔な子だったら孤児院にでもやったらいいでしょう!」

 啓吉は貝のように固くなった。


       十八


 叔母達がぷりぷりして帰って行くと、

「啓吉!」

 と、母親の怒声が頭の上で破れた。上目で見上げると、針金のように剃りあげた眉を吊りあげて、貞子が障子に凭れている。

「お前のような子供はどっかへ行ってしまうといいんだ。一つとしてろくなこたアありゃアしない。──お母さんをいじめりゃいい気持ちなんだろう! ええ? そうなンでしょ……」

 啓吉は黙ってうなだれていた。しまいには首が痛くなってしまった。足元を蟻の大群がつっ切って行っている。蟻のお引越しかな、啓吉はそう思いながら、痛い首をそっと下へ降ろしかけると、

「莫迦!」と、いって、横面がじいんとするほどはりたおされた。

「ええ? どこまで図々ずうずうしい子なンだ! 親が何かいっているのに、地面ばっかり見つめてさ……母さん、お前のような白ッ子みたいに呆けた子なンか捨てっちまうよッ」

 柔かい素足が、玄関の大きい下駄の上に降りたかと思うと、啓吉は猫の仔のように衿首をつかまれたまま引きずられて、三和土たたきの上へずどんと転んでしまった。転ぶと同時に、思いがけない大声が出て、涙がほとばしるように溢れた。貞子も、啓吉の大声に吃驚したのか、一寸ギクッとしたかたちであったが、格子をぴしッと閉めると、泣いている啓吉を引き起して、

「大きななりして莫迦だね、もういいよ。帰されたもの仕方がないじゃないかね。本当に莫迦で仕様がないよ……さ、お靴をぬいでお上り、ええ?」

 遠くで子供達の歌声が聞えて来る。家の横のポプラの落葉が、格子戸の硝子にばらばらと当って墜ちてゆく。

 声をあげて泣いていると、百のお喋りをしたよりも胸がすっとして、啓吉は呆れてつっ立っている母の足元で、甘えるように、おおんおおんと声をたてて泣いた。

「どうしたンだ?」

 茶の間から、鼻の頭がぎらぎらしている男が出て来た。その後から、妹の礼子が、

「お兄ちゃん泣いてるよ」

 と、走って男の手へつかまった。

「大きい癖に、から、意気地がなくてねえ……」

 流石に、貞子も気がとがめたのか、「ああ」と溜息をついて上へ上った。

「おい、小僧! さ、泣き止めてッ、ええ? 手でも洗って、礼ちゃんと遊んでお出でよ」

 啓吉は泣く事に草臥くたびれたけれども、声をたてることは気持ちのいいことなので止めなかった。不思議なことに声を立てていると、涙があとからあとから溢れ出て来る。

「まア、いいわ、放っときよ……」

 貞子は、男にそう言われると、渋々奥へ這入って行ったが、礼子だけは、

「兄ちゃん、泣かなくてもいいよ」

 と大きな下駄をはいて、啓吉のそばへしゃがんだ。啓吉はうるさいよといった格好でにらみつけた。

「莫迦野郎!」

 啓吉がそっと礼子の身体を押した。両手に五銭玉を一つずつ握っていた礼子は、ぐらぐらする拍子に、その五銭玉二ツを三和土の上へ投げ散らした。

 啓吉はそれを足で蹴った。

「厭よッ! 厭だアよッてば……」

 礼子が立ちあがって頬をしかめそうになると、啓吉は、矢庭やにわにその五銭白銅を拾って、がらがらと格子を開けて戸外へ出て行った。

「兄ちゃアん! 莫迦ヤロッ!」

 礼子が地団駄じだんだを踏んで啓吉よりも高い声をあげて泣きたてた。


       十九


 どっかで野球でもしているのか、カアンと球を打つ空鳴りがしている。啓吉は久し振りにランドセールを肩にして勇んで歩いた。

 校門をくぐると、校庭の蔓薔薇つるばらなどは虫食いだらけの裸になってしまって、木という木はおおかた葉を振り落していた。

 ピアノの音が聴えてくる。教室に這入ると、女の子達はてんでに宿題のリヤ王物語を読んでいた。啓吉の学年は三級もあって、転校者の多い級だけ男女混合であった。副級長の饗庭あえば芳子という美しい娘が、啓吉を見てにこにこ立ちあがって来た。

「田崎さん、随分お休みなすったのね、今日は試験があンのよ……第十四課のリヤ王物語ね、あれを読まされるのよ……」

 啓吉ははにかんで、ランドセールを降ろすと、さっそく読本を出して見た。まだ鐘が鳴らないので教室は動物園のようににぎやかだった。

「田崎君! どっか行ったのウ?」

「この間ねえ、飯能はんのうへ遠足だったンだよ……」

 男の子達も、啓吉のそばへ集って来た。

 啓吉は級長だったので、留守の間の事を、面白そうにがやがやとお喋りに来るのだ。

「ねえ、そいから先生がお変りンなったの、女の先生よ。とてもいい先生なのよ……」

「西内先生は?」

「神戸の方へいらっしたンですって……」

 女の子達に身近く囲まれると、啓吉は赧くなってポケットに両手をつっこんだ。突然ひょうきんな田口七郎兵衛という酒屋の子供が、

「第十四課、リヤ王物語、リヤ王はもう八十の坂を越えた生れつき烈しい気性の上に、年とともに老の気短さが加わってちょっとした事にも怒り易くなっていた。それに近来はめっきり元気が衰えて、もう政務にもたえられなくなって来た。王にはゴリネル、リガン、コルデリヤという三人娘があった……」

 と、自慢そうに朗読を始めた。すると、副級長の饗庭芳子が、

「ああら違うわよッ、ゴリネルじゃないでしょ? ゴネリルにリガンにコーデリヤでしょ。田口さんは早口だから駄目だわ」

「へッ! だ。生意気いってらア、ゴリネルだっていいんだよだ。早く読んじまえば判りゃしないさ……」

「まア、憎らしい、私、違いますって、松本先生に申しあげるからいいわ……」

「女の癖に何だい! 生意気な、白目の大将が好きなンだろう」

「しどいわねえ、ええいいわよ! いいわよオだ……何ですかねえ?」

 啓吉は美しい副級長に覗きこまれると、とまどいした鳩みたいに目をぱちくりさせた。

 あっちこっちの机が段々賑やかになって来て、各々音読を始め出したが、田口七郎兵衛は復習が積んでいるのか白雲頭を振り立てて大きい声を振りあげて読んだ。

「……怒りと失望と後悔とに身も魂もくだけ果てた王は、我にもあらず荒野の末にさまよい出た。その夜は風雨にともなって雷鳴電光ものすさまじい夜であったッ……」

「何? ちょっと、自慢そうに、声だけたててンのよ。意味なンかわかりゃしないのよ、このひと……」

 饗庭芳子が、舌を出して田口七郎兵衛をからかった。

「何だとッ! もう一遍いってみろッ、今宵の虎徹こてつは血に飢えている、目に物見せてくれるぞッ!」

 と言うが早いか、飛鳥のように、饗庭芳子に飛びついて行ったが、机が邪魔で、田口七郎兵衛はついに机の上に泥靴のまま立ち上った。丁度、校庭では始業の鐘が、ガランガランと涼しく鳴り始めている。


       二十


 朝礼の体操も終って、校長先生の訓話が始まる頃、葉のまばらになった校庭の桜の梢に、もずがきゃっきゃっといった鳴声で呼びたてた。もずは、木のてっぺんで鳴く鳥だと啓吉は誰かに教わったことがあった。よくみていると、初秋に飛んで来るみそさざいが、ちょん、ちちちっと気ぜわしく飛びはねているが、死んだ田舎の祖母が、「みそさざいが来ると、雪が降るだよ」と言った事を思い出して、秋はいいなア、と啓吉は思わず空を見上げた。

「おい、外見よそみをしてはいかん!」

 背中で手を組んでいる体操の教師が、後からやって来て啓吉の後頸をつついた。皆、くすくすと笑った。啓吉は赤くなってうつむいた。

 朝礼が済むと、啓吉は自分の級の先頭に立って教室に這入って行った。

 びゅうびゅう口笛を吹く者や、唱歌をうたう者、読本と首っ引きの者、復習をしてなかったと、泣きそうになっている者や、まるで教室は豆がぜたようだ。啓吉は気が弱くて、

「静粛!」

 という声がかけられなかったのだが、不意に副級長の饗庭芳子が、

「皆さん! 静粛にして下さいッ!」

 と呶鳴った。

 一寸の間静かになったが、誰かが隅の方で、

「凄げえなア」

 と感嘆の声をもらすと、津浪のように皆がどっと笑い出した。とりとめようもない程、笑い声が続いた。啓吉は、益々小さくなった。田口七郎兵衛は教壇に上って、

 ──静カニセヨ──

 と白墨で黒板に書いた。すると、また笑い声がもり返って来て、風呂屋のように机を叩いて唄うものが出て来た。

 女生徒達の方では、

「困るわねえ、男の生徒ってきらいだわ……」

 とぐちぐちこぼし始めたが、やがて、饗庭芳子は何を思ったのか、つかつかと教壇に上って、

 ──男のセイトキライ──

 と書いた。

 窓が開いて、ひときわ空が高く澄んでいるせいか、黄いろいジャケツを着た饗庭芳子は、輝くように美しく見えた。ガラス越しに、頭髪が繻子しゅすのように光っている。

 饗庭芳子が教壇から降りようとすると、田口七郎兵衛が教壇へどんどん上って行って、

 ──オンナノセイトスキ──

 と書いた。皆どっと笑った。

「あら、先生よッ!」

「先生がいらっしたよ、饗庭さん早くウ!」

 扉がすうっと開いた。

 田口七郎兵衛は矢庭に黒板消しをつかんだが間にあわなかった。饗庭芳子はそっと机に帰った。

 啓吉は立ちあがると、

「起立!」

 と号令をかけた。

 白雲頭の田口七郎兵衛は黒板消しを持ったまま不動のしせいをとった。

 無雑作に衿元で髪をつかねた色の白い先生は、黒板の字を見ると、急に顔を赧めて、

「貴方がこんないたずらを書いたの?」

 と田口七郎兵衛に訊いた。

 田口七郎兵衛は悄気しょげてしまって黙っていた。先生は、また──男のセイトキライ──と書かれている方を見て微笑しながら、

「さア、その黒板消しを先生にお返して、席におつきなさい」

 と、静かに教壇に上って行った。啓吉には、新しい先生がひどく神々しく見える。田口七郎兵衛は頭をすぼめて降りて行ったが、七郎兵衛が席につくと、啓吉は大きい声で、

「着席!」と号令した。

「貴方が級長さんですか?」

 啓吉は赧くなってうなずいた。先生は、黒板の方へ向くと、まず饗庭芳子の書いた──男のセイトキライ──から静かに消して行った。


       二十一


「復習して来ましたか?」

 先生は黒板を消し終ると、机の上の本をパラパラと繰って、

「饗庭さん、第十四課の六十六頁を開けて、四行目から読んでみて下さい」

 饗庭芳子は立ちあがると声を張りあげて、

「今日はお前たちに一つ聞いてみたい事がある。お前たちのうちで誰が一番この父を大事に思ってくれるか。わしはそれが知りたいのだ。ず姉のゴネリルからいってみよ。と尋ねた。……」

 張りのあるいい声で、啓吉はうっとりと聴きとれていた。何時か、饗庭芳子が、学芸会の席で、鎌倉を暗誦して読みあげたことがあったが、実にいい声であった。


由比の浜辺を右に見て

雪の下道過行けば

八幡宮の御やしろ


 のあたりなどは、彼女の得意のところらしく、啓吉はいまでも饗庭芳子の振袖姿を思い出すのだ。

「はア、そこンところで次に級長さんに読んで貰いましょう。級長さんは、何ていうお名前?」

「…………」

 啓吉が赧くなっていると、饗庭芳子が、大人びた物いいで、

「田崎啓吉さんておっしゃいます」

 と言った。

「そう、田崎さん、ではその七十二頁の、饗庭さんの次から読んで御覧なさい……」

 すると立ちあがった啓吉は、すっかり周章あわてて、何行目だったろうと、七十二頁を繰ったが、やたらに、「王は男泣きに泣いた」というところだけが目にはいって来た。

 誰か後の方で、

「怒りと失望と後悔と……」

 と、いってくれている。啓吉は益々うろたえてしまった。どの行を見ても、「怒りと失望と」の活字がないのだ。

「田崎さんはお休みになったのですね。じゃ、外の方に読んで貰いましょう……」

 啓吉はそっと席へついた。脇へ汗がにじんだ。一番前にいる近眼の中原という子が立って読んだ。

「怒りと失望と後悔とに身も魂もくだけた王は……」

 読本へ目を据えると、ちゃんと自分の正面へその活字が並んでいる。そっと目を上げると、先生は目を閉じて立っていた。啓吉は、一遍も復習しなくても、すらすら読めて行った。まごまごした自分が口惜くやしかった。

「はいッ、そのくらいで、少し書取りでもしてみましょうか?」

 先生は、皆に雑記帳を出させた。

「御本はみんな伏せてしまって、ようござんすか、リヤ王はもう八十の坂を越えた……」

 甘い声であった。大勢の鉛筆の音がすっすっと走っている。

「姉二人は既に、ですよ、既にさる貴族にし、妹はかねてフランスのきさきになることにきまっていた……」

 しんと静まり返った廊下をこつこつ誰か歩いて来ている。

 扉が開くと、小使いのお爺さんが、

「先生、この組に田崎啓吉という子供さんはおりますかな?」

 と尋ねた。

「田崎? ああ級長さんでしょう、いますよ」

 鉛筆の音が止まった。啓吉はどきりとした。

「一寸お母さんが、急用があるそうでなア、周章てて来ていなさるで……」

「そう、じゃそっと行ってらっしゃい」

 先生は立ち上った啓吉の肩を押して、扉の出口へ連れて行った。啓吉が出て行くと、先生はまた声を張り上げて、

「領地をゆずる日に、王は娘たちを面前に呼んで……」

 と愉しそうに朗読するのであった。


       二十二


 学校へなんぞ来た事のない母親が、何の用事でわざわざ啓吉を尋ねて来たのか、啓吉は不安で仕方がなかった。

 小使い部屋では貞子が、大火鉢にしゃがみ込んであたっていた。

「まア、お使いだてして、本当に済みません」

 小使いに世辞をいうと、貞子はすぐ立ちあがって、

「啓ちゃん、一寸」

 と、啓吉を、外へ連れ出した。校庭では二組ばかりの体操があった。ポプラの樹の下に来ると、貞子は白い封筒を出して、

「ねえ、お母さまね、暫くの間だけど、九州へ行って来なくちゃならなくなったの。おじさん、御商売が駄目になってしまってねえ、とても、大変なのよ。それで、一寸の間だけれど、この手紙持って、寛子叔母様のところへ行っているの、伸ちゃんのお守りをしてあげて、少しの間だからおとなしく待っていらっしゃい、判った? ええ」

「…………」

「今度は啓ちゃん、連れてゆけないのよ。ねえ……」

「遠いの?」

「ああ遠いの、だけどすぐに帰って来るから……この手紙大事なのよ、いい?」

 啓吉はうなずいた。貞子は流石にしょんぼりしている啓吉を見ると、何となく心痛いものを感じたが、

「じゃ、お教室へ行ってらっしゃい。母さんが、いいものを啓ちゃんに送ってあげようね」

「学校、またお休みすンの?」

「さア、叔母様に相談して、あの近くの学校へ行くようにしてもいいでしょ」

「帰れっていわない?」

「帰れっていったかい?」

「ううん、いわないけど……」

「それ御覧、大丈夫だよ、それで勘三叔父さんは、啓ちゃんと仲良しだものねえ」

 体操の組では綱引きが始まった。オーエス、オーエスと叫び声があがっている。

 貞子が帰って行くと、啓吉は白い封筒を襯衣のポケットへ入れて教室へ帰って来たが、教室ではリヤ王が劇に組まれて、饗庭芳子が、男の声でリヤ王を演じていた。饗庭芳子のリヤ王があんまりうまいので、啓吉が教室へ這入って来ても誰も振りむかなかった。

 先生は陽がしまになって流れ込んでいる窓に凭れて、目をつぶって対話に聴きとれている。

 休みの鐘が高く鳴り響いた。

「先生、田口さんいけませんのよッ」

「さア、鐘が鳴りましたからおしまいにしましょう。では、この次に、リヤ王の対話を空で出来るようによく復習していらっしゃい。それから、書取りもおさらいして来るンですよ」

 先生が、はかまをさばいて教壇へ歩んで行くと、啓吉は、

「起立!」

 といって立ち上った。

「礼」

 誰か、くすくす笑って首をさげているようだったが、礼が済んでも先生は、つっ立ったまま出て行かなかった。

「田崎さんと、饗庭さんと一寸残って下さい、あとは外へ出て遊ぶこと……」

 啓吉と饗庭芳子とが残った。先生は椅子を引き寄せて腰かけながら、

「さア、こっちへいらっしゃい! 先生が変ると、皆の気持ちがゆるむものですけれど、貴方たちは級長さんと副級長さんですから、先生を助けてしっかりして下さらないといけませんよ。饗庭さんも、副級長さんでしょ。黒板なンかにいたずらしないように……」

 啓吉も饗庭芳子も赧くなった。


       二十三


「田崎さんのお家から、何の御用でいらっしゃったの?」

 と先生が、啓吉の襯衣の釦をはめてやりながら訊いた。

「…………」

 啓吉は黙っていた。優しい先生に、自分の家庭の話をする事は面倒でもあったし、可愛らしい饗庭芳子がくりくりした目をして微笑しているので、何と返事をしていいか判らなかった。

「どなたか御病気?」

「いいえ──」

「級長さんは随分おとなしいのね」

 そういって先生が立ちあがると啓吉は、またこの先生にも嫌われてしまったような、淋しい気持ちになりながら、自分の机へ行ってぽつんと腰を掛けた。饗庭芳子は先生の袴へもつれるようにくっつきながら先生と一緒に廊下へ出て行ってしまったが、明らかに、啓吉は、自分の孤独さを感じるのであった。運動場では、マリのように子供達がはずんでいる。

 啓吉は落ちつかなかった。──啓吉は正午の時間になると、先生へ黙って、ランドセールを背負ったまま裏門から外へ出て行った。早く帰って、どんなにしてでも九州とかいう、遠い土地へ連れて行って貰おうと思ったのだ。もう心の中では「母アさん、母アさん」と泣き声をあげていた。

 檜葉ひばの垣根に添って這入って行くと、家の中が森としているのが啓吉によく判った。啓吉は裏口へ回って見た。雨戸が閉ざされている。節穴から覗いてみたが、中は真暗だった。啓吉は庭へ立ったまま途方に暮れてしまったが、自分の影が一寸法師のように垂直に落ちているそばに、何時かの植木鉢が目についた。コツンと足で蹴ると、ごろごろと植木鉢が転んで行って、その跡には雌の蟋蟀がしなびたようになって這っていた。小さい雄は、植木鉢の穴からでも逃げたのであろう。啓吉はしゃがんで、乾物のようになった雌を取り上げると、一本一本ぴくぴくしている脚をむしってみた。

「母アさアん!」

 返事がなかった。

「母アさんてばア……」

 四囲が森としているので、声は自分の体中へ降りかかって来た。

 大きい声で、再び啓吉は、

「母アさん!」

 と呼んでみたが、声が咽喉につかえて、熱いものが目のふちに溢れ出て来た。本当に皆で九州へ行ってしまったのに違いない。啓吉は、ランドセールにしまいこんだ白い手紙の事を想いだすと、いよいよ自分一人捨てられてしまったような悲しさになった。

 小さな風が吹くたび、からからと木の葉が散って来て、誰もいないとなると、自分の家が大変小さく見える。

 啓吉は腹が空いたので、ランドセールから弁当を出してくつぬぎ石に腰を掛けて弁当を開いた。弁当の中には、啓吉の好きな鮭がはいっていたが、珍しい事に茄で玉子が薄く切って入れてあった。

 その玉子を見ると、母親は自分を置いて行く事にきめていたのに違いなかったのだと、また、新しく涙があふれた。

 弁当が終ると、啓吉は井戸端へ回って、ポンプを押しながら、水の出口へ唇をつけてごくごく飲んだ。水を飲んでいると、まだその辺で、「啓吉!」と母親が呼んでくれそうな気がして、母親が始終つかったポンプ押しの握るところを、そっといでみた。冷い金物の匂いがするきりで母親の匂いはしなかった。啓吉はランドセールを肩にすると、夏の初めにやって来る若布わかめ売りの子供のような気がして、何だか物語りの中の少年のように考えられ出して来た。


       二十四


 省線で、啓吉が渋谷の駅へ降りると、改札口を出て行く勘三の姿が目に止まった。勘三は花模様の羽織を着た若い女の連れがあった。

「叔父さん!」

 啓吉は走って行ったが、勘三は女の人と熱心に何か話しているらしく、振り返りもしないでずんずん歩いて行った。啓吉は改札口で切符を返して小走りに追ってみたが、ランドセールが、がらがら音がするので、きまりが悪くなって立ち止まったりした。

 だが、大きな甘栗屋の曲り角まで来ると、連れの女の方がひたと歩みを止めてしまった。勘三は、暗い顔をして時々地面を見たり遠くを眺めたりしている。

 呼び止めていいのか、悪いのか、啓吉はおずおずしたが、勘三と道連れになって叔母の家へ行けば、何となく這入りいいような気がした。

「叔父さアん!」

 それでも、啓吉の声が小さいのかまだ聞えないようだ。やがて、勘三と連れの女は、横町へ曲ってレコードの鳴っている喫茶店へ這入って行った。扉の中から奇麗な音色が流れて来た。

 啓吉は待っていてやろうと思った。で、叔父達の出て来る間、ラジオ店の前へ、呆んやり立って見た。電気の笠や電気アイロンや、電気時計の飾ってある陳列窓の中は啓吉にとって愉しいものばかりで、見ているはしから色々の空想が湧いた。

 店の前には小さいラジオが据えてあって、経済ニュースのようなものを放送していた。店の中には誰もいない容子だった。啓吉は、そっと、ラジオを手でさすって見た。どこに音が貯えてあるのか不思議だったし、まるで噴き井戸から無限に溢れる音のように、ラジオはよくおしゃべりしている。

 黒いスイッチが三ツついていた。一ツを捻ってみた。声が柔かくなった。真中のスイッチを捻ってみた。80だの90だのと数字が変って行く度に、声に波がついた。啓吉は面白くてたまらなかった。最後に残ったスイッチを捻ると声がはたと止んだ。啓吉は周章てて、そのスイッチを返し一番初めに捻ったスイッチを巻いて見たが、自分でおどろく程な、大きな濁音だらけで、啓吉には手のほどこしようもない。狼狽の面持ちで、三つのスイッチを、あっちこっち捻ってみたが、音は出鱈目でたらめで、店の中から、吃驚したような声をたてて、

「馬鹿野郎!」と、頭の禿げた電気屋が飛び出して来た。

 啓吉は横町へ隠れたが、電気屋はまだ追っかけて来た。啓吉は、たまらなくなって、叔父達のいる喫茶店の中へ飛び込んで行った。

 勘三は頬杖をついていたが、啓吉がランドセールを背負った格好で飛び込んで来たので、驚いて立ちあがった。

「どうしたンだ? 叔母さんと来たのかい?」

「いいや……」

「どうしたンだ?」

「ラジオ屋で悪戯いたずらして叱られたンだよ」

「──どうしてこンなとこへ来たンだ?」

「駅んとこで、めっけたから、呼んだンだけど判らなかったンだよ……待ってたの……」

「そいで、ラジオ屋冷やかしてたンだな」

 勘三は、「ああ吃驚した」といった顔つきで、腰を降ろしたが、

「沢崎さん、さっきの話、不快に思わないで下さい」

 といった。沢崎といわれた女は、ニッコリして、

「まア、この方が、あのハンドバッグを拾って下さいましたの? よくお出来になるらしいのね」

 と、自分の前にあった菓子を包んで、啓吉の汚れた手にそっと持たせてくれた。


       二十五


 沢崎という女のひとと別れて、勘三と二人で歩き出すと勘三は、

「あああ」

 と溜息をついて、

「啓吉、いまの女のひと好きか?」

 と、尋ねた。

「…………」

「どうだ、感じのいいひとだろう、ええ?」

「うん」

「叔母さんに、女のひとと歩いていたなンて、そんな事をいっちゃ駄目だよ」

「ああ」

 啓吉は、菓子をくれた女のひとが、ハンドバッグをおとしたひとだったのだなと思った。非常に気取っているようなひとだと思った。勘三はまるで、浮腰のようなふわふわした歩き方をしていたが、不図、

「叔母さんへお使いで来たのかい?」

 と尋ねた。お使いと尋ねられると、啓吉は九州へ行くといって学校へやって来た母親を想い出して、胸が痛くなった。白い手紙と五拾銭玉一ツ貰ったが、その白い手紙や五拾銭玉を貰ったために、母親とは一生逢えないような気がするのであった。

「ねえ、母さんは九州へ行くっていったンだぜ。学校から早く帰ってみたンだけど、家内じゅう留守なのだもの……」

「へえ、九州へ行くって? 何時?」

「もう、行っちゃったンだよ」

 啓吉は背中のランドセールを降ろして、母からの白い手紙を出して、叔父へ渡した。

「……そうか、ま、いいや」

 勘三は封を開いて、中から手紙を抜き出したが、その手紙の中には拾円札が一枚折り込んであった。

「啓吉、お母さんは本当に九州へ行ったらしいよ……」

「……九州って遠いの?」

「ああとても遠いよ。長崎ってところだ。知ってるかい?」

「ああ港のあるところだろう?」

「そうだ」

 啓吉は、地図の上でさえも遠い長崎という土地を心に描いて、はるばるとしたものを感じた。

「新しい父ちゃんと、礼子ちゃんと……」

 勘三が何気なく言いかけると、啓吉は、手の甲で目をこすり始めた。

「莫迦野郎! 泣く奴があるか。啓坊はよく出来るンじゃないか。ええ? 元気を出して、一つ、うんと勉強して、皆を吃驚びっくりさせてやれよ……」


波と風とにさそわれて

今日も原稿書いている……


 啓吉が、ひどく悄気しょげているのを見て、勇気づけてやろうと思ったのか、勘三が鼻唄まじりにうたい出したのだが、啓吉は、涙よりもひどいしゃっくりが出て困った。

「そンなに淋しがるな、ええ? 叔父さんだって、なんじゃ、もんじゃだ。判るかい? 面白いだろう。淋し淋しっていうンだ。しっかりしろ!」

 しっかりしろといわれても、中々しゃっくりは止まらなかった。

「変なしゃっくりだなア、ぐっと息を呑み込んで御覧よ。ぐっと大きく……」

 コロッケ屋と花屋の前へ来てもしゃっくりが止まらなかった。勘三の家では伸一郎が万歳をして迎えてくれた。

「まア、啓吉、また来たのかい?」

 前掛で濡れ手を拭きながら出て来た寛子は、目立って鮮かな頬紅をつけていた。

「姉さんはとうとう都おちだぜ」

「都おち?」

「落ちゆく先きは九州相良さがらとか何とかいわなかったかね。──とうとう、水商売が身につかずさ、九州へ行っていったい何をするのかねえ……」


       二十六


「だけど、それは本当でしょうか?」

「本当にも何にも、ほら、これを見て御覧よ。ええ? 拾円札封入してあります。よろしくお願いしますさ。姉さんにすれば、啓坊だって可愛いさ、腹を痛めて産んだ子供だものねえ……」

「可愛いければ何も……」

「連れて行けばいいっていうんだろう。だけど、姉さんにすれば身は一つさ、子供だって可愛いが、連れ添ってみれば御亭主も可愛いとなったら、君はどうする?」

「いくら新しい良人がいいったって、子供は離しませんよ」

「それは、まともな事だよ。だけど、良人がその子供を嫌がったら困るじゃないか」

「そんな無理をいう良人は持ちませんよ」

「そうか、そうすると、さしずめ、俺は無理をいわぬ、いい御亭主だな」

「何ですか、少しばかり懸賞金貰ったと思って厭に鼻息が荒くて……」

「まだ三百円貰えなかったことにこだわっているのだろう? 新しい雑誌社だもの、五拾円でも貰えれば、もって幸福とせにゃならん」

「ああ厭だ厭だ……」

 寛子は、啓吉の方へ見向きもしないで、台所の方へ降りて行った。

 啓吉は所在がないので、梯子段の上り口に腰を降ろして爪を噛んでいたが相変らずしゃっくりは止まらない。

 勘三は、勘三でまた腹這いになって、

「俺だって、こんな生活は厭々なンだ」

 と大きい声で呶鳴った。

「そうでしょう……貴方が厭だってことは、この二三日、私によく判っていますよッ」

「大きな口を利くなッ」

「そんな事をおっしゃるけれども、ちゃんと判るンですから……貴方の気持ちなんて……」

「うん、それで、頬紅なンぞつけてきげんとっているんだな?」

「あら厭だ、若い女に言うような冗談はいわないで下さい!」

「冗談か、ま、女って奴は、都合のいいようにばっかり理屈をくっつけたがる、奇妙なもンだ。──啓吉! 出てお出でッ」

 啓吉は、さっとして立ちあがった。

 寛子は、頬をふるわせて坐り込んでいたが、啓吉が、障子の陰から呆んやり出て来ると「何ですかッ、啓吉啓吉といってさ」と、跫音あしおと荒く、二階へとんとん上って行った。

 叔父のそばへつっ立っていると不思議にしゃっくりが止まった。

「叔母さんはよく怒るねえ」

「僕が来たからだろう?」

 勘三は愕いたような目をして、啓吉を見上げたが、

「心配するな、叔父さんが後にひかえている。──子供のくせに、ええ? 心細がる奴があるかッ」

「…………」

「ああ、叔父さんだって、まごまごしちゃいられないんだ。啓坊も叔父さんもうんと勉強してさ、ねえ、──そこの煙草を取ってくれよ」

 啓吉は銀紙のはみ出たバットを部屋の隅から取って来てやった。

「九州って遠いの?」

「九州か、そりゃッ遠いさ……行きたいか?」

「…………」

「母さんが一番いいんだろう……」

「だって、あのおじさんのいない時には、母さん、うんと僕たち、可愛いがるよ」

「いまに、礼子ちゃんと帰って来るさ、待てるだろう?」

 啓吉は心の中で、「どこで待てばいいか」と訊きたかった。


       二十七


 啓吉は伸一郎を守りしながら、誰にも愛されないで、叔父の散らかしている本ばかりを読んで暮らした。

 アンデルセンの絵なき絵本という本は、そっと自分のランドセールに隠してしまった位すきであった。

 絵なき絵本を読むと、飛んでもない連想が湧いて、遠い長崎に行った母親を尋ねて行きたくなった。──長崎へ行くには、不思議な色々な道があるのに違いないと思った。


 学校で、木のてっぺんにもずが鳴いていた時のように、よく晴れた朝であった。

 啓吉は、勝手をしている叔母や、朝寝をしている叔父達に黙って、ランドセールを背負ったままほつほつ西への道へ向って歩いた。

 アドバルウンが、月のような色をして昇っている。啓吉は歩きながら、段々心細くなって来たが、それでも引きかえす気持ちはなかった。

 ただ、啓吉の心をかすめてゆくものは、学校の庭の景色や伸一郎が壊してしまった硝子の壺の事や、ガレージの二階の尺八吹きの部屋のありさまなどで、肉親の事と言えば、やっぱり、母だけが泣きたい程、なつかしいのであった。

 空が青くって奇麗だ。

 自分の前へ進んで行く、柱のように長い自分の影を踏んで、啓吉は、学校へ行く時のようにランドセールをゆすぶりながら歩いた。

「おおいッ! あッ、あぶないッ」

 誰かが啓吉の後から突き飛ばした。啓吉はよろよろ二三歩前へつんのめったが、前額部をがあんと道へ打つけたと思うと、後はそのまま、暫く何も覚えがなかった。

 目の上に海のような空所が見える。血の筋が渦巻きのような模様を造って色々に描かれて行った。

「おおい!」

 誰かが呼んでいるようだ。後からわにのような黒いものが啓吉の背中を突きとばした。啓吉は、痛くて痛くて耐えられなかった。自分のまわりに、色々な顔の人間達が、手をつないで、

「しっかり、しっかり」

 と、勢いをつけてくれている。

 だがわにの口が、ガリガリ音をたてて啓吉の肉のなかに食い込まれると、

「痛いよう!」

 啓吉は、思わずうなり声をあげた。

 自分のうなり声に、思わず瞼をあけると、白い部屋の真ん中に、啓吉は横になっていた。アンデルセンの物語りのなかのように、小さいながら清潔な部屋で、月のような若い看護婦が二人も、啓吉の枕元に立っていた。

 枕元には海のように青い空だけ見える窓が一つあった。

「痛いですか?」

 脣の奇麗な看護婦が訊いた。啓吉は顔をゆがめようとしたが、頭には包帯が巻いてあるらしく、顔が歪まなかった。

 手も足も、動かせば、すぐずきんずきんと頭に響いた。看護婦達が、枕元で、窓の下を見て話しあっている。

「運がよかったのねえ、ランドセールが身代りに、まるでおせんべいみたいだったンですって……」

 啓吉は、菓子の銀紙にする、鉛を積んだトラックにはねとばされたのであった。

 啓吉は、うつらうつら薄目のままでまた深い眠りにおちたが、頭の中に、唄のような柔かい風が吹きこんで、蝶々も小鳥も、鰐も、草花も、太陽も、啓吉の夢のなかで、絵具が溶けるように、水のようなものの中にそれが拡がって行った。

(昭和九年十月二十三日─十一月二十一日 東京朝日新聞)

底本:「日本文学全集20 林芙美子集 」河出書房新社

   1966(昭和41)年23日発行

入力:林 幸雄

校正:小林繁雄

2003年88日作成

青空文庫作成ファイル:

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