一燈
太宰治



 芸術家というものは、つくづく困った種族である。鳥籠とりかご一つを、必死にかかえて、うろうろしている。その鳥籠を取りあげられたら、彼は舌をんで死ぬだろう。なるべくなら、取りあげないで、ほしいのである。

 誰だって、それは、考えている。何とかして、明るく生きたいと精一ぱいに努めている。昔から、芸術の一等品というものは、つねに世の人に希望を与え、こらえて生きて行く力を貸してくれるものに、きまっていた。私たちの、すべての努力は、その一等品を創る事にのみ向けられていたはずだ。至難の事業である。けれども、何とかして、そこに、到達したい。右往も左往も出来ない窮極の場所に坐って、私たちは、その事に努めていた筈である。それを続けて行くより他は無い。持物は、神から貰った鳥籠一つだけである。つねに、それだけである。

 大君のにこそ、とは日本のひと全部の、ひそかな祈願の筈である。さして行く笠置かさぎの山、とおおせられては、藤原季房ならずとも、泣き伏すにきまっている。あまりの事に、はにかんで、言えないだけなのである。わかり切った事である。鳴かぬほたるは、何とかと言うではないか。これだけ言ってさえも、なんだか、ひどく残念な気がするのである。

 けれども、いまは、はにかんでばかりも居られない。黙って、まごついて、それ故に、非国民などと言われては、これ以上に残念の事は無い。たまったものでない。私は、私の流儀で、この機会に貧者一燈を、更にはっきり、ともして置きます。

 八年前の話である。神田の宿の薄暗い一室で、私は兄に、ひどく叱られていた。昭和八年十二月二十三日の夕暮の事である。私は、その翌年の春、大学を卒業する筈になっていたのだが、試験には一つも出席せず、卒業論文も提出せず、てんで卒業の見込みの無い事が、田舎いなかの長兄に見破られ、神田の、兄の定宿に呼びつけられて、それこそ目の玉が飛び出る程に激しく叱られていたのである。癇癖かんぺきの強い兄である。こんな場合は、目前の、間抜けた弟の一挙手一投足、ことごとくが気にいらなくなってしまうのである。私が両膝をそろえて、きちんと坐り、火鉢から余程はなれて震えていると、

「なんだ。おまえは、大臣の前にでも坐っているつもりなのか。」と言って、機嫌が悪い。

 あまり卑下していても、いけないのである。それでは、と膝を崩して、やや顔を上げ、少し笑って見せると、こんどは、横着おうちゃくな奴だと言って叱られる。これはならぬと、あわてて膝を固くして、うなだれると、意気地が無いと言って叱られる。どんなにしても、だめであった。私は、私自身を持て余した。兄の怒りは、つのる一方である。

 かすかに、表の街路のほうから、人のざわめきが聞えて来る。しばらくして、宿の廊下が、急にどたばた騒がしくなり、女中さんたちのささやき、低い笑声も聞える。私は、兄の叱咤しったの言よりも、そのほうに、そっと耳をすましていた。ふっと一言、聴取出来た。私は、敢然かんぜんと顔を挙げ、

提燈ちょうちん行列です。」と兄に報告した。

 兄は一瞬、へんな顔をした。とたんに、群集のバンザイが、部屋の障子しょうじが破れるばかりに強く響いた。

 皇太子殿下、昭和八年十二月二十三日御誕生。その、国を挙げてのよろこびの日に、私ひとりは、先刻から兄に叱られ、私は二重に悲しく、やりきれなくていたのである。兄は、落ちつき払って、卓上電話を取り上げ、帳場に、自動車を言いつけた。私は、しめた、と思った。

 兄は、けれども少しも笑わずに顔をそむけ、立ち上ってドテラを脱ぎ、ひとりで外出の仕度をはじめた。

「街へ出て見よう。」

「はあ。」ずるい弟は、しんから嬉しかった。

 街は、暮れかけていた。兄は、自動車の窓から、街の奉祝の有様を、むさぼるように眺めていた。国旗の洪水である。おさえにおさえて、どっと爆発した歓喜の情が、よくわかるのである。バンザイ以外に、表現が無い。しばらくして兄は、

「よかった!」と一言、小さい声でつぶやいて、深く肩で息をした。それから、そっと眼鏡めがねをはずした。

 私は、危く噴き出しそうになった。大正十四年、私が中学校三年の時、照宮さまがお生まれになった。そのころは、私も学校の成績が悪くなかったので、この兄の一ばんのお気に入りであった。父に早く死なれたので、兄と私の関係は、父子のようなものであった。私は冬季休暇で、生家に帰り、あによめと、つい先日の御誕生のことを話し合い、どういうものだか涙が出て困ったという述懐じゅっかいに於て一致した。あの時、私は床屋にいて散髪の最中であったのだが、知らせの花火の音を聞いているうちに我慢出来なくなり、非常に困ったのである。嫂も、あの時、針仕事をしていたのだそうであるが、花火の音を聞いたら、針仕事を続けることが出来なくなって、困ってしまったそうである。兄は、私たちの述懐を傍で聞いていて、

「おれは、泣かなかった。」と強がったのである。

「そうでしょうか。」

「そうかなあ。」嫂も、私も、てんで信用しなかった。

「泣きませんでした。」兄は、笑いながら主張した。

 その兄が、いま、そっと眼鏡をはずしたのである。私は噴き出しそうなのをこらえて、顔をそむけ、見ない振りをした。

 兄は、京橋の手前で、自動車から降りた。

 銀座は、たいへんな人出であった。逢う人、逢う人、みんなにこにこ笑っている。

「よかった。日本は、もう、これでいいのだよ。よかった。」と兄は、ほとんど一歩毎に呟いて、ひとり首肯うなずき、先刻の怒りは、残りなく失念してしまっている様子であった。ずるい弟は、全く蘇生の思いで、その兄の後を、足が地につかぬ感じで、ぴょんぴょん附いて歩いた。

 A新聞社の前では、大勢の人が立ちどまり、ちらちら光って走る電光ニュウスの片仮名を一字一字、小さい声をたてて読んでいる。兄も、私も、その人ごみのうしろに永いこと立ちどまり、繰り返し繰り返しつづられる同じ文章を、何度でも飽きずに読むのである。

 とうとう兄は、銀座裏の、おでんやに入った。兄は私にも酒を、すすめた。

「よかった。これで、もう、いいのだ。」兄は、そう言ってハンケチで顔の汗を、やたらに拭いた。

 おでんやでも、大騒ぎであった。モオニングの紳士が、ひどくいい機嫌ではいって来て、

「やあ、諸君、おめでとう!」と言った。

 兄も笑顔で、その紳士を迎えた。その紳士は、御誕生のことを聞くや、すぐさまモオニングを着て、近所にお礼まわりに歩いたというのである。

「お礼まわりは、へんですね。」と私は、兄に小声で言ったら、兄は酒を噴き出した。

 日本全国、どんな山奥の村でも、いまごろは国旗を建て皆にこにこしながら提燈行列をして、バンザイを叫んでいるのだろうと思ったら、私は、その有様が眼に見えるようで、その遠い小さい美しさに、うっとりした。

「皇室典範に拠れば、──」と、れいの紳士が大声で言いはじめた。

「皇室典範とは、また、大きく出たじゃないか。」こんどは兄が、私に小声で言って、心の底から嬉しそうに笑いむせんだ。

 そのおでんやを出て、また、別のところへ行き、私たちは、その夜おそくまで、奉祝の上機嫌な市民の中を、もまれて歩いた。提燈行列の火の波が、幾組も幾組も、私たちの目の前を、ゆらゆら通過した。兄は、ついに、群集と共にバンザイを叫んだ。あんなに浮かれた兄を、見た事が無い。

 あのように純一な、こだわらず、蒼穹そうきゅうにもとどく程の全国民の歓喜と感謝の声を聞く事は、これからは、なかなかむずかしいだろうと思われる。願わくは、いま一度。誰に言われずとも、しばらくは、辛抱しんぼうせずばなるまい。

底本:「太宰治全集3」ちくま文庫、筑摩書房

   1988(昭和63)年1025日第1刷発行

底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房

   1975(昭和50)年6月~1976(昭和51)年6月刊行

入力:柴田卓治

校正:渥美浩子

2000年427日公開

2005年1024日修正

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