枯菊の影
寺田寅彦



 少し肺炎の徴候が見えるようだからよく御注意なさい、いずれ今夜もう一遍いっぺん見に来ますからと云い置いて医者は帰ってしまった。

 妻は枕元の火鉢の傍で縫いかけの子供の春着を膝へのせたまま、向うの唐紙からかみ更紗さらさ模様をボンヤリ見詰めて何か考えていたが、思い出したように、針を動かし始める。唐縮緬とうちりめんの袖には咲き乱れた春の花車が染め出されている。嬢やはと聞くと、さっきから昼寝と答えたきり、元の無言に帰る。火鉢の鉄瓶の単調なかすかな音を立てているのだけが、何だか心強いような感じを起させる。眼瞼まぶたに蔽いかかって来る氷袋を直しながら、障子のガラス越しに小春の空を見る。透明な光は天地に充ちてそよとの風もない。門の垣根の外には近所の子供が二、三人集まって、声高こわだかに何か云っているが、その声が遠くのように聞える。枕につけた片方の耳の奥では、動脈の漲る音が高く明らかに鳴っている。

 また肺炎かと思う。これまで既に二度、同じ病気にかかった時分の事も思い出す。始めての時はまだ小学時代の事で、大方の事は忘れて仕舞った。病気の苦しみなどはまるきり忘れてしまって、ただ病気の時に嬉しかったような事だけが、順序もなく浮んで来る。いったい自分は両親にとっては掛け替えのない独り子で、我儘わがままにばかり育ったが、病気となると一層の我儘で手が付けられなかったそうである。薬でもなかなか大人おとなしくのまぬ。これを飲んだらあれを買ってやるからと云ったような事で、枕元には玩具おもちゃや絵本がうずたかくなっていた。少しくなる頃はもう外へ遊びに出ようとする、それを引き止めるための玩具がまた増した。これが例になって、その後はなんでも少し金目のかかるような欲しい物は、病気の時にねだる事にした。病気を種に親をゆするような事を覚えたのはあの時だったと思うと、親の顔が今更になつかしい。二度目に罹った時は中学校を出て高等学校に移った明けの春であった。始めての他郷の空で、某病院の二階のゴワゴワする寝台に寝ながら窓の桜の朧月を見た時はさすがに心細いと思った。ちょうど二学期の試験のすぐ前であったが、忙しい中から同郷の友達等が入り代り見舞に来てくれ、みんなしない身銭みぜにを切って菓子だの果物だのと持って来ては、医員に叱られるような大きな声で愉快な話をして慰めてくれた。あの時の事を今から考えてみると、あるいは自分の生涯の中で最も幸福な時だったかも知れぬと思う。憎まれ児世にはびこると云うことわざの裏を云えば、身体が丈夫で、智恵があって、金があって、世間を闊歩するために生れたような人は、友情の籠った林檎りんごをかじって笑いながら泣くような事のあるのを知らずにしまうかも知れない。あの頃自分は愛読していた書物などの影響から、人間は別になんにもしなくても、平和に綺麗に一生を過せばそれでよいと云ったような考えが漠然と出来ていたので、病気で試験を休もうが、落第しようが、そんな事は一向心配しなかった。むしろ病気で身体が弱くなって、学問など出来ぬようになれば、それだけ自分の夢みているような無為むいの生涯に近づくのではあるまいかと考えたりした。田舎に少しばかりの田地があるから、それを生計のしろとして慰みに花でも作り、余裕があれば好きな本でも買って読む。朝一遍いっぺん田を見廻って、帰るとうちの温かい牛乳がのめるし、読書に飽きたら花に水でもやってピアノでも鳴らす。誰れに恐れる事もへつらう事も入らぬ、唯我独尊ゆいがどくそんの生涯で愉快だろうと夢のような呑気のんきな事を真面目に考えていた。それで肺炎から結核になろうと、なるまいと、そんな事は念頭にも置かなかった。肺炎は必ずなおるときまったわけでもなし、一つ間違えば死ぬだろうに、あの時は不思議に死と云う事は少しも考えなかったようである。自分は夭死ようしするのだなと思った事はあったが、死が恐ろしくてそう思ったのではない。夭死と云う事が、何だか一種の美しい事のような心持がしたし、またその時考えていた死と云うものは、有が無になるような大事件ではなく、ただ花が散ってその代りに若葉の出るようなほんのちょっとした変り目で、人が死んでも心はそこらの野の花になって咲いているような事を考えていた。こんな心持であったから、多少の病苦はあったにもかかわらず、心は不思議なくらい愉快であった。呑気にあせらずよく養生したためか、あの後はからだがかえって前よりは良くなった。そして医者や友達の勧めるがまま運動を始めた。テニスもやった、自転車も稽古した。食物でも肉類などはあまり好きでなかったのが運動をやり出してから、なんでも好きになり、酒もあの頃から少し飲めるようになった。前には人前に出るとじきにはにかんだりしたのが、校友会で下手へたな独唱を平気でするようになった。なんだか自分の性情にまで、著しい変化の起った事は、自分でもよくわかったし、友達などもそう云っていた。しかし、それはただ表面に現われた性行の変りに過ぎぬので、生れ付き消極的な性質は何処どこまでも変らぬ。それでなければ今頃こんな消極的な俗吏になって、毎日同じような消極的な仕事を不思議とも思わずやっている筈はないかも知れぬ。いったい自分は法科などへはいってこんな俗吏になろうと云うような考えは毛頭なかった。中学校に居た頃、先では何になるつもりかなどとよく人に聞かれた事はあったが、何になる積りだか、そんな事はまだ考えていなかった。もし考えたら何もなるものが無くて困ったかも知れぬ。官吏はどうかと云った人もあったが、役人と云うものは始めからいやだった。訳もわからないで無暗むやみに威張り散らすのが御役人だと思っていた。郵便局のやといや、税務署の受附などに、時おり権突けんつくを食わせられる度に、ますますいやになった。それから軍人も嫌であった。その頃始めて国の聯隊が出来て、兵隊や将校の姿が物珍しく、剣や勲章の目につくうちは好かったが、だんだん厭な事が子供の目に見えて来た。日曜に村の煮売屋などの二階から、大勢兵隊が赤い顔を出して、近辺の娘でも下を通りかかると、好的好的ホオテホオテなどと冷かしたり、グズグズに酔って二、三人も手を引き合うて狭い田舎道を傍若無人に歩いたりするのが、非常に不愉快な感じを起させた。兵隊はいやなものでも、将校と云うものはいいものだろうと思っていたが、いつか練兵場で練兵するのを見ていたら、若い将校が一人の兵隊をつかまえて、何か声高にののしっていた。その言葉使いの野卑で憎らしかったには、傍で聞いている子供心にもカッと腹が立った。その時ばかりは兵隊が可哀相で、反身そりみになった士官の胸倉へ飛び付いてやろうかと思った。それ以来軍人と云うものはすべてあんなものかと云うような単純な考えが頭に沁みて今でも消えぬ。こんな訳だから、学校でも軍人希望の者などとはどうしても肌が合わぬ、そう云う連中から弱虫党と目指されて、行軍や演習の時など、ずいぶん意地悪くいじめられたものだ。実際弱虫の泣虫にはちがいなかったが、それでも曲った事や無法な事に負かされるのは大嫌いであった。無理の圧迫がはげしい時には弱虫の本性を現してすぐ泣き出すが、負けぬ魂だけは弱い体躯を駆って軍人党と挌闘かくとうをやらせた。意気地いくじなく泣きながらも死力を出して、何処でも手当り次第に引っかき噛みつくのであった。喧嘩を慰みと思っている軍人党と、一生懸命の弱虫との挌闘にはたいてい利口な軍人の方が手を引く。これはどちらが勝ってどちらが負けたのだか、今考えても判らない。

 ウトウトこんな事を考えていたが、気がついてみると垣の外ではさっきの子供等がまだ大きな声で歌ったりわめいたりしている。年かさらしいのが何か大将ぶって指揮している。こんなのもおおかた軍人党になるだろうと思って、過ぎたわが小半生の影が垣の外にちらつくように思う。突然向うの家の板塀へ何かっつけた音がしたと思うと一斉に駆け出してそれきり何処かへ行ってしまった。たこのうなりがブンブンと聞えている。熱は追々高くなるらしい。口が乾いて舌が上顎に貼り付く。少し眠りたいと思うて寝返りをすると、額の氷袋の氷がカチカチと鳴って袋は額をはなれる。まだ傍で針を使うていた妻はそれを当てなおしながら気分を問う。一片の旨い氷を口に入れてもらう。

 もう何事も考えまいと思ったが、熱のために乱れた頭にはさっきまで考えていたような事がうるさく附きまとうて来る。そして脳が過敏になっているためか、不断はまるで忘れていたような事まで思い出して来る。自分は子供の時から絵が好きで、美しい絵を見れば欲しい、美しい物を見れば画いてみたい、新聞雑誌の挿画でも何でも彩色してみたい。彩色と云っても絵具は雌黄しおう藍墨あいずみ代赭たいしゃくらいよりしかなかったが、いつか伯父が東京博覧会の土産に水彩絵具を買って来てくれた時は、嬉しくて幾晩も枕元へ置いて寝て、目が覚めるや否や大急ぎで蓋をあけて、しばしば絵具を検査した。夕焼けの雲の色、霜枯れの野の色を見ては、どうしたらあんな色が出来るだろうと、それが一つの胸を轟かすような望みであった。伯父は画かきになったらどうだと云った事がある。自分も中学に居た頃父にその事を話して、絵を習わせてくれぬかと願った事がしばしばある。その度に父はいつでもこう云っていた。俺はおまえの行末の志望については少しも干渉せぬ。附け焼刃と云うものは何にもならぬものである。何でも自分の好いた方、気に向いた事をやるが得策だ。しかし絵はそればかりを職業として、それで生活しようと云うにはあまりに不利なものである。せっかく腕は立派でも、衣食に追われて画くようでは、よい絵は出来ず、第一絵に気品がなくなる。何でもいいが、外にも少し立派に衣食の得らるるような事を修めて、傍ら自分の慰み半分絵をかく事にしたらどうか。衣食足った人の道楽に画いたものは下手でも自然の気品があって尊いものだ。とこう云うのである。自分もなるほどと思ってその方はあきらめたが、さらば何をやって身を立てるかと考えても、やっと中学を出ようと云う自分に、どんな事が最も好いか分り兼ねた。工科は数学が要るそうだからやめた。医科は死骸を解剖すると聞いたから断った。そして父の云うままに進まぬながら法科へはいって政治をやった。父は附け焼刃はせぬ〳〵と思いながら、ついに独り子に附け焼刃の政治科を修めさせた事になる。しかしこれは恐らく誰の罪でもあるまい。自分はこの事を考えると、何よりも年老いた父に気の毒だ。せっかく一身を立てさせようと思えばこそ、祖先伝来の田地を減らしてまで学資を給してくれた父を、まあ失望させたような有様で、草深い田舎にこの年まで燻ぶらせているかと思うと、何となく悲しい心持になってしまうのだ。三十にしてなお俗吏なりと云うような句があったと思うが、自分の今は正にそれである。今年の文官試験にも残念ながら落第してしまった。課長の処へ挨拶に行ったら、仕方がないまたやるさと云ってくれた。自分もそう思った。去年の試験にしくじった時もやはり仕方がないと思ったが、その時の仕方がないと今度のとは少し心持が違う。去年のは何処か快活な、希望の力の籠った「仕方がない」であったが、今度のにはもう弱い失望の嘆声が少し加わったように思われる。自分ながら心細い。

 四、五日前役所で忘年会の廻状がまわった。会費は年末賞与の三プロセント、ただし賞与なかりし者は金弐円也とあった。自分は試験の準備でだいぶ役所も休んだために、賞与は受けなかったが、廻状の但し書が妙に可笑おかしかったからつい出掛ける気になって出席した。少し酒を過ごしての帰り途で寒気がしたが、あの時はもう既に病に罹っていたのだ。帰って寝たら熱が出てそれきり起きられぬ。医者は流行性でたいした事はないと云っていたが、今日来た時は妙に丁寧に胸を叩いたり聞いたりして首をひねってとうとうあんなことを云って帰った。いよいよ肺炎だろうか。そう思うとなんだか呼吸が苦しいようである。熱はだんだん上がるらしい。天井を見ると非常に遠く見える。耳が絶えず鳴っている。傍に坐った妻の顔が小さく遠い処に居るようで、その顔色が妙に蒼く濁って見える。妻は氷袋を気にして時々さわってみるが、始終無言である。子供はまだよく寝ているか音もせぬ。何となく淋しい。人には遠く離れた広間の真中に、しんとして寝ているような心持である。表の通りでは砂利をかんで勢いよく駈ける人車じんしゃ矢声やごえも聞える。晴れきった空からは、かすかな、そして長閑のどかな世間のどよめきが聞えて来る。それを自分だけが陰気な穴の中で聞いているような気がする。何処か遊びに行ってみたい。行かれぬのでなおそう思う。田端たばた辺りでも好い。広々した畑地に霜解けを踏んで、冬枯れの木立の上に高い蒼空を流れる雲でも見ながら、あてもなく歩いていたいと思う。いつもは毎日一日役所の殺風景な薄暗い部屋にのみ籠っているし、日曜と云っても余計な調べ物や内職の飜訳などに追われて、こんな事を考えた事も少ないが、病んで寝てみると、急に戸外のうららかな光が恋しくて胸をくすぐられるようである。早くなおりたい。なおったらみんなを連れて一日くらい遊びに行こう。いつ治るだろう。無論治る事はきっと治ると思ってみたが、ふっと二、三年前肺炎で死んだ姪の事を思い出す。姪は死ぬる少し前まで、わたしが治ったら何処へ行くとか、何を買うとか、よくそんな事を云っていたので、死んでからはみんなでそのことを云ってよく泣いた。肺炎は容易ならぬ病気だと思うと、姪の美しく熱にほてった、いまわの面影がありあり見える。しかし自分は死にたくても死なれぬ。もしもの事があったら老い衰えた両親や妻子はどうなるのだと思うと満身の血潮は一時に頭に漲る。悶え苦しさに覚えず唸り声を出すと、妻は驚いてさし覗いたが急いで勝手の方へ行って氷を取りかえて来た。一時に氷が増してよく冷えると見えて、少し心が落付いたが、次第に昇る熱のために、纏まった意識の力は弱くなり、それにつれて恐ろしい熱病の幻像はもう眼の前に押寄せて来る。いつの間にか自分と云うものが二人に別れる。二人ではあるがどちらも自分である。元来一つであるべきものが無理に二つに引きわけられ、それが一緒になろう〳〵と悶え苦しむようでもあり、また別れよう〳〵とするのを恐ろしい力で一つにしよう〳〵と責め付けられるようでもある。その苦しみはとても名状が出来ぬ。やっとその始末が付いたと思うと今度は手とも足とも胸とも云わず、綿のように柔らかい、しかも鉛のように重いもので、しっかり抑え付けられる。藻掻もがきたくても体は一寸も動かぬ。そのうちに自分のからだは深い深い地の底へ静かに何処までもと運ばれて行く。もう苦しくはないが、ただ非常に心細い。いつの間にか暗い何もない穴のような処へ来ている。自分の外には何物もない。何の物音も聞えぬ。耳に響くはただ身を焼く熱に湧く血の音と、せわしい自分の呼吸のみである。何者とも知れぬ権威の命令で、自分は未来永劫えいごうこの闇の中に封じ込められてしまったのだと思う。世界の尽きる時が来ても、一寸もこの闇の外に踏み出すことは出来ぬ。そしていつまで経っても、死ぬと云うことは許されない。浮世の花の香もせぬ常闇とこやみの国に永劫生きて、ただ名ばかりに生きていなければならぬかと思うと、何とも知れぬ恐ろしさにからだがすくむ。生涯の出来事や光景が、稲妻のように一時に脳裏に閃いたと思うとそれは消えて、身をめぐる闇は深さも奥行も知れぬ。どうかしてを逃れ出たい。今一度小春の日光を見ればそれでよい。霜解け道を踏んで白雲を見ればそれでよい。恐ろしい闇、恐ろしい命と身を悶えた拍子に、氷袋がすべって眼がさめた。怖ろしい夢は破れて平和な静かな冬の日影は斜に障子にさしている。縁に出した花瓶の枯菊の影がうら淋しくうつって、今日も静かに暮れかかっている。発汗剤のききめか、漂うような満身の汗を、妻は乾いたタオルで拭うてくれた時、勝手の方から何も知らぬ子供がカタコトと唐紙からかみをあけて半分顔を出してにこにこした。その時自分は張りつめた心が一時にゆるむような気がして心淋しく笑ったが、眼からは涙が力なくこぼれ落ちた。

(明治四十年二月『ホトトギス』)

底本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店

   1996(平成8)年125日発行

底本の親本:「寺田寅彦全集 第一巻」岩波書店

   1985(昭和60)年75日第3刷発行

初出:「ホトトギス 第十巻第五号」

   1907(明治40)年21日発行

※初出時の署名は「寅彦」です。

入力:Nana ohbe

校正:松永正敏

2004年324日作成

2016年225日修正

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