死せる魂
または チチコフの遍歴 第一部 第一分冊
MYORTVUIE DUSHI(МЕРТВЫЕ ДУШИ)
ニコライ・ゴーゴリ Nikolai Vasilievitch Gogolj(Николай Васильевич Гоголь)
平井肇訳



第一章


 県庁所在地のNNというまちる旅館の門へ、弾機ばねつきのかなり綺麗な小型の半蓋馬車ブリーチカが乗りこんで来た。それは退職の陸軍中佐か二等大尉、乃至ないしは百人ぐらいの農奴のうどを持っている地主といった、まあ一口に言えば、中流どころの紳士と呼ばれるような独身者ひとりものがよく乗りまわしている型の馬車で。それには紳士がひとり乗っていたが、それは別に好男子でもないかわりに醜男ぶおとこでもなく、ふとりすぎてもいなければせすぎてもいず、また年配も、けているとはいえないが、さりとてあまり若い方でもなかった。この紳士が乗りこんで来たからとて、まちには何の騒ぎも起こらねば、別に変った出来ごとも持ちあがらなかった。ただわずかに、旅館の向い側にある居酒屋の入口に立っていた露助ろすけの百姓が二人、ぼそぼそと蔭口かげぐちをきいただけで、それも、乗っている紳士のことよりも、馬車の方が問題になったのである。『おい、どうだい、』と、一人がもう一人の方に向って言った。『てえした車でねえか! ひょっと、あの車でモスクワまで行くとしたら、行きつけるだか、行きつけねえだか、さあ、おめえどう思う?』──『行きつけるともさ。』と、相手が答えた。──『だが、カザンまであ、行かれめえと思うだが?』──『うん、カザンまであ、行かれねえだよ。』と、また相手が答えた。これでその話にもけりがついてしまったのである。あ、それからまだ、馬車が旅館の間近までやって来た時、一人の若い男と擦れ違った。その男は、おそろしく細くて短かい綾織木綿あやおりもめんの白ズボンをはいて、なかなかった燕尾服をていたが、下からは、青銅のピストル型の飾りのついたトゥーラ製の留針ピンを挿したシャツの胸当むねあてが覗いていた。この若い男は振り返って馬車を一目ひとめながめたが、風で吹っ飛ばされそうになった無縁帽カルツーズを片手でおさえると、そのまま志す方へすたすたと歩きだした。

 馬車が中庭へ入ると、宿屋の下男というか、それともロシアの旅館や料亭で一般に呼ばれているように給仕ポロウォイというか、とにかく、おっそろしくてきぱきして、あまりせわしなく動きまわるので一体どんな顔附かおつきをしているのか、見分けもつかないような男が飛び出して、紳士を出迎えた。その男はひょろ長いからだに、襟が後頭部までもかぶさりそうな、長い半木綿のフロックコートをていたが、片手にナプキンを掛けたまま素早すばやく駆け出して、さっと髪を揺りあげるように一揖いちゆうするや否や、木造の廊下づたいに、そそくさと紳士を二階の有り合わせの部屋へ案内して行った。それは至極しごくありふれた部屋であった。というのは、第一、旅館そのものが、くありふれたものであったからだ。つまり県庁の所在地などによくある旅館で、なるほど一昼夜にち二ルーブリも払えば、旅客は静かな部屋をあてがわれるけれど、部屋の四隅よすみからはまるで杏子あんずのような油虫がぞろぞろと顔を覗け、隣りの部屋へ通じる扉口はいつも箪笥たんすで塞いではあるが、そのお隣りには決まって泊り客があって、これが又ひどく無口で物静かな癖に並はずれて好奇心が強く、新来の客の一挙一動に興味をもって聴耳ききみみを立てていようといった塩梅あんばいである。この旅館のおもてつきが又、いかにもその内部にふさわしく、無闇に間口ばかり広い二階だてで、一階の外壁は漆喰しっくいも塗らないで赤黒い煉瓦がき出しになっているが、もともと汚ならしい煉瓦が烈しい天候の変化に逢って一層くろずんでいる。二階の方は、相も変らぬ黄色のペンキで塗ってあり、階下には、馬の頸圏くびきだの、細引ほそびきだの、環麺麭バランカだのを売っている店が並んでいる。その並びの一番はずれの、店というよりは一つの窓に、赤銅あかがねのサモワールと並んで、そのサモワールそっくりの赤銅いろの顔をした蜜湯スビデニ屋が控えておるが、その顔に漆黒の顎鬚さえ生えていなければ、遠目にはてっきりサモワールが二つ窓に並んでいるとしか見えない。

 新来の客が、あてがわれた部屋を検分している間に、身のまわりの荷物が運びこまれた。真先まっさきに来たのは白い革の旅行鞄トランクで、それがあちこちり剥けているところは、旅に出たのは今度が初めてではないぞといわんばかりだ。旅行鞄トランクを運びこんで来たのは、馭者のセリファンと従僕のペトゥルーシカとで、セリファンの方は毛皮外套がいとうた背丈の短い男だが、ペトゥルーシカの方は、まだ三十そこそこの若者で、どうやら旦那のおさがりらしく、いいかげん著古きふるされた、だぶだぶのフロックを著こんだ、おそろしく鼻と唇の大きい、見たところ少しけんのある男だ。旅行鞄トランクについで、木目もくめ白樺で象嵌ぞうがんをほどこしたマホガニイの手箱だの、長靴の型木だの、青い紙に包んだ鶏の丸焼だのが持ちこまれた。こうした物をすっかり運びこんでしまうと、馭者のセリファンは厩舎きゅうしゃの方へ馬の始末をしに行き、従僕のペトゥルーシカは、まるで犬小舎いぬごやのような、いやに薄暗い小さな控室ひかえしつのなかを取りかたづけはじめたが、そこへはもう既に自分の外套といっしょに、彼特有の変な臭いまでちゃんと持ちこんでいた。その臭いは、後から運びこまれた従僕向きの七つ道具の入っている袋からもプンプン臭っていた。彼はその小部屋の壁際に、窮屈そうな三本脚の寝台をえつけて、その上へ、こちこちのまるで揚煎餅あげせんべいのように薄っぺらな、また恐らくは揚煎餅のように脂じみた、小っぽけな、どうやら蒲団らしい代物しろものをかぶせたが、それは宿屋の主人からうまく借り出して来たしなである。

 こうして召使たちが大騒ぎをして、いろいろの始末をつけている間に、紳士は食堂へ出かけて行った。その食堂という奴が抑々そもそもどんなものであるかは、およそ旅をする程の人なら誰でもよく知っている。つまり例によって例の如く、油性塗料を塗った壁は上の方が煙草の煙でくすみ、下の方は種々雑多な旅客の背中にこすられて、てかてか光っていようといった塩梅だが、旅客というよりもむしろ、土地の商人仲間の方が多い──というのは、いちの立つ日には、きまって商人仲間が六人づれ七人づれでへやって来ては、お茶をおきまりの二杯ずつ飲んで行くからである。それから、型の如く煤けた天井と、同じく煤けたシャンデリアで、それにはカットグラスが沢山ぶらさがっていて、給仕が型の如く、海辺につどう鳥の数ほどおびただしい茶碗を載せた盆を、大胆に振り廻しながら擦りきれた油布の上を駈けまわるたんびに、跳ねあがったり、ちりんちりん音を立てたりする。また壁じゅうには、型どおりの油絵が幾つもけ並べてある。つまり何もかもが何処どこにでもあるのと同じ調子で、ただ一つちがうのは、中の一枚の絵に描かれた水精ニンフが、おそらく読者もついぞこれまでに見たことがないだろうと思われるような、すばらしく大きな乳房をもっているぐらいのものである。もっとも、こういった変態は、誰がいつ何処から我がロシア帝国にもたらしたのか見当もつかない。さまざまな歴史画の中にもしばしば発見されるが、どうかすると、我が帝国の顕官連けんかんれんや美術愛好者たちがイタリアへ行った際、案内人にそそのかされて買いこんできた絵の中にさえもちょいちょい見受けられる。紳士は被っていた無縁帽カルツーズをぬぎすてると、虹色の毛編けあみ頸巻くびまきを解いた──こういう頸巻は、女房持ちの男には、細君が手ずから編んで、ちゃんと巻き方まで教えてくれるものだが、独身者には一体、誰がそんなことをしてくれるやら、作者にはさっぱり分らないから、何とも申し上げ兼ねるが、とにかく、作者はまだ一度もそんな頸巻など巻いた覚えがないので。さて頸巻を解くと、紳士は食事を言いつけた。で、こういう宿屋ではお定まりのいろんな料理、例えば、わざわざ不時の客にそなえて幾週間もしまってあった渦巻型の肉饅頭を添えた玉菜汁シチイだとか、豌豆えんどうをあしらった脳味噌だとか、キャベツを添えた腸詰だとか、去勢鶏ブリャルカ焙肉あぶりにくだとか、胡瓜きゅうり塩漬しおづけだとか、お望み次第、いつ何時なんどきでも用意の出来ている、今もいう甘ったるい渦巻型の肉饅頭だとか──そう言った料理の、暖めなおしたのや冷たいままのがぎと運ばれる間に彼は宿屋の下男、つまり給仕ポロウォイをつかまえて、この宿屋は前には誰が経営していたのか、今は誰が持っているのか、収益はよほど多いのかとか、お前たちの主人は酷い悪党じゃないのかというような、つまらないことをいろいろ問いただした。それに対して給仕は型の如く、『ええもう、旦那、ひどい悪党でございますよ!』と相槌を打ったものだ。近頃では文明開化のヨーロッパと同じように文明開化のロシア帝国でも、旅館で食事をしたためるのに、何か給仕と話をするか、時には面白そうに彼等をからかいでもしながらでないと、とんと物が美味しく食べられないという変った御仁ごじんがざらにあるもので。とはいえ、この新来の客は、そういったくだらない質問ばかり並べたわけではない。彼は、このまちにいる県知事は誰だとか、裁判所長は誰だとか、検事は誰だとかいうようなことを、おそろしく綿密に訊ねた──つまり、おもだった役人のことは、一人残らず訊きもらさなかったのである。が、なお一層こまごまと、まんざら無関心でもなさそうな調子で、目ぼしい地主たちのことを訊ねた──誰々だれだれは農奴を幾人もっていて、まちからどのくらい離れたところに住んでいるか、どんな性質の男で、市へは余程たびたび出て来るのか、などということを根掘り葉掘り訊ねた。それからまた、この地方の状態をいろいろと丹念に訊いた──この県下に何か病気はなかったか、つまり流行性の熱病とか、猛烈なマラリヤとか、天然痘といった風なものが流行はやらなかったかなどということを、どうも矢張やはりただの好奇心とは思われないような身の入れ方で根掘り葉掘り質問したものだ。紳士の態度には、何処となくいかついところがあって、はなむのにもおそろしく大きな音をたてる。一体どうしてやらかすのか分らないが、彼の鼻はまるで喇叭らっぱのような音をたてるのだ。一見この何の罪もなさそうな仕草によって、彼は旅館の給仕から多大の尊敬をち得たものだ。で、給仕はその音を聞くたんびに、髪の毛を振りあげるようにして、一層シャンと直立不動の姿勢をとり、遥かの高みから会釈えしゃくをしながら、『何か御用でございましょうか?』と訊ねたものである。食事がすむと、紳士は珈琲を一杯のみほしてから、長椅子にどっかり腰をおろし、背中にクッションをあてがったが、それがまたロシアの宿屋のクッションというやつは中身にふんわりと弾力のある毛のかわりに、まるで煉瓦屑か小石のようなものが詰めこんである。やがてのことに、欠伸が出はじめたので、彼は自分の部屋へ案内するように言いつけて部屋へもどると、いきなり横になって、ちょうど二時間ばかり眠った。こうして一休みしてから、旅館の給仕の求めるままに、しかるべく警察へ届けるため、一枚の紙きれに官等や姓名などを書いて渡した。給仕は階段を降りながら、その紙きれに書いてある次ぎのような文字をたどたどしく拾い読みした。『六等官パーウェル・イワーノヴィッチ・チチコフ。地主、私用のための旅行』と。給仕がまだそれを一字々々拾い読みしている間に、パーウェル・イワーノヴィッチ・チチコフは市内見物に出かけて行ったが、このまちが他の県庁所在地に比べて少しも劣っていないところを見て、どうやら満足がいったらしい。石造家屋の黄いろい塗料はまぶしく眼を射、木造家屋の鼠いろの塗料はつつましやかにくすんで見えた。家屋は一階建のも、二階建のもあり、また、地方の建築師の考えでは素晴すばらしく美しいものとされている、相も変らぬ中二階つきの、一階半建というやつもあった。こうした家々が、ところによっては野原のようにだだっぴろい通りとはてしもない木柵もくさくの間にぽつんぽつんと立っており、ところによっては蝟集かたまってごちゃごちゃと立てこんでいた。そういうところでは人間ひとの動きが目に立って、一層活気があふれていた。ほとんど雨に晒されてしまったような、輪型固麺麭クレンデリや長靴の絵を描いた看板が眼についた。また青いズボンの絵を描いてワルシャワの裁縫師何某なにがしというような名前を掲げているのもあった。無縁帽と海軍帽の絵を描いて、『外国人*1ワシーリイ・フョードルフ』と名乗りをあげている店もあった。また二人の男が玉突をやっている絵看板もあったが、その男たちには、ちょうど我が国の劇場で、よく大詰の幕に出る客人に扮した役者がているような燕尾服が著せてあった。その競技者たちは、キューを握った手を少し後ろへひいて、立った今ピョンと一つ跳躍したばかりだと言わんばかりに、足を斜にかまえて、玉に狙いをつけているところである。こうした絵の下には必らず『これ即ち当店なり』と書き添えてある。また無雑作に通りへテーブルを据えつけて、胡桃くるみだの、石鹸だの、石鹸そっくりの生薑しょうが餅だのを売っているところもあれば、丸々とふとった魚にフォークを突きさした絵看板を出した煮売にうり屋もあった。中でも一番多く眼につくのは、今でこそ『酒場』という簡単な文字に変ってしまったけれど、その頃はまだ帝室の紋章たる*2双頭の鷲を看板につけていたのがきたなくくすんでしまったやつである。鋪道は到るところ、でこぼこしていた。彼は公園もちょっと覗いてみたが、そこには細いひょろひょろした木が、まだ根も碌々ろくろく張っていないらしく、下の方に三角形に突支棒つっかいぼうを組んで植えてあるだけで、その突支棒がまた恐ろしく奇麗に緑いろのペンキで塗りたててある。それでも、こんな葦の背丈ほどもないような木立のことも、何かで町にイルミネーションの施されたことが新聞に出た折には、『市当局の配慮により、我が市は今や、樹木の鬱蒼うっそう繁茂はんもせる公園によって飾られ、炎暑のこうにも清涼の気を満喫しるに至れり。』とか、また、『市民の胸の感激にあふれて打ちふるえ、市長閣下に対する感謝の涙潸然さんぜんとしてくだるを見るは誠にいじらしき限りなり。』などと書き立てられたものである。で、彼は巡査をつかまえて、教会へはどう行くのが一番ちかいか、官庁へはどう、知事のやしきへはどうといった風に、詳しく道を訊ねてから、市の中央を流れている河を見に行った。その途中で木の柱に貼りつけてある芝居のビラを一枚はぎとった。それは宿へ帰ってゆっくり見るためである。また、板敷きの歩道を歩いて行く見目みめうるわしい一人の婦人を、しげしげと見送った。お仕着しきせの軍服をきて、手に小さい包みを持った少年が婦人のお供について行った。彼はその場所の様子を一層はっきり憶えておこうとでもするように、わたり四方を見まわしておいて、まっすぐに宿へ帰ると、給仕にちょっとからだをささえられながら階段を登って、さっさと自分の部屋へ入ってしまった。お茶を一杯のんでから、テーブルにむかって腰をおろすなり、蝋燭を持って来させて、例のビラをポケットから取りだしたが、それを蝋燭の灯に近づけると、右の眼をちょっとしばたたくようにしながら読みにかかった。別段そのビラにはたいしたことは書かれていなかった──*3コツェブーの芝居がかかっていて、ロールの役をポプリョーヴィンが、コーラの役をジャブロワ嬢がやるというだけで、その他の役者は一向いっこう名もない手合てあいばかりであった。それでも彼は残る隈なくそれに眼をとおして、平土間の料金まで調べあげ、おまけに、このビラは県の印刷部で刷ったものだということまで確かめた。それから裏にも何か出ていないかと思って、引っくり返して見たが、何も書いてなかったので、眼をこすって、ビラをきちんと畳むと、それを自分の手箱の中へしまいこんだ。彼には何でも手あたり次第にこの手箱へしまいこむ癖があった。さてこの日は、こうしの冷肉を一皿とクワス一本をたいらげてから、広大無辺な我がロシア帝国の地方によっては、よく言い草にされている、いわゆる『ふいごのような大鼾おおいびき』をかいて寝こんでしまうことで、どうやら幕になったらしい。

 あくる日はまる一日じゅう、諸方しょほうの訪問についやされた。新来の旅人はずこのまちのお歴々がたを訪問した。初めに県知事に敬意を表した。知事はチチコフと同様に、あまり肥ってもいなければ痩せてもいない人物で、頸にアンナ十字章をかけていたが、まだその上に、近く星大授章を貰うことになっているという噂であった。その癖、大のお人好しで、時には自分でしゃきれに刺繍をしていたりさえした。それから副知事のところへ顔を出し、検事のところへ行き、裁判所長のところ、警察部長のところ、徴税代弁人のところ、官営工場監督官のところ……いや、これ以上一々かぞえあげていた日には、世上せじょうの有力者を一人残らず網羅することになって、とてもできない相談だから、残念ながらこの辺でやめるが、とにかくこの旅人は、訪問ということにかけて異常な活躍を示したと言っても差支えなく、彼は医務局の監督から市の建設技師にまで敬意を表しに伺候しこうしたのである。それでもまだ、誰か訪問すべき人は残っていないかと考えながら、長いこと馬車のなかにすわっていたが、もうこれ以上、官吏らしいものはまちにいなかった。こうした有力者たちとの談合のあいだに、彼は実に手際よく、その一人々々に取り入ってしまった。先ず知事にはそれとなしに、この県へ入るとまるで天国へ来たようで、道路という道路は到るところビロードを敷きつめたようだ、それにこういう賢明な粒よりのお歴々を任用している当局はまことに絶大な賞讃に値するなどとほのめかした。また警察部長には、市の巡査のことで何かたっぷりとお世辞を振りまき、副知事と裁判所長に対しては、二人ともまだ五等官に過ぎなかったのに、談話のあいだに二度までもわざと間違えて『閣下』と呼んだものだから、それがひどく彼等の御意ぎょいにかなった。結果として、知事は早速その晩、自分の家の夜会に御来臨に預りたいと招待するし、他の役人連もそれぞれ、或る者は午餐ごさんに、或る者はボストン骨牌カルタに、また或る者はお茶に招くという始末であった。

 この旅人は自分自身の身の上については、多く語ることをどうやら避けているらしく、話すにしてもひどく控え目がちな、どっちつかずの御座形おざなりで、そんな場合にはいつも判でしたように、自分は世間的には誠につまらぬ蛆虫同様の者で、人様からかれこれ心配していただくほどの人間ではないとか、これまでにはずいぶん辛い目にもあい、職責上、正義のためには忍びがたきをも忍び、自分の生命を狙うような敵をも多く持ったとか、しかし今はもう安穏に余世よせいを送りたいと思って、安住の地をもとめているとか、図らずもこの市へやって来たので、何はさて一流のお歴々がたに敬意を表するのを第一の義務だと存じましてなどと述べたてるだけであった。で、さっそく知事の夜会へ出席することを怠らなかったこの新来の人物について、市の人々が知り得たのは以上が全部であった。ところで、その夜会に出席する支度に彼はたっぷり二時間のもかかったが、この際彼が身じまいに払った入念さ加減は、ちょっと他に類のないものであった。食後に少し午睡ごすいをとった後、洗面の用意を命じた彼は、両方の頬を代る代る、中から舌でつっぱりながら、おそろしく長いこと石鹸で磨き立てたが、やがて給仕の肩からタオルをとると、相手の鼻のさきでまず二度ばかりブルルっと鼻を鳴らしてから、耳の後ろから手始めに、その丸々した顔をまんべんなく拭きあげた。それから鏡に向って胸当をつけ、鼻の孔からのぞいていた鼻毛を二本ひっこ抜くと、間髪を入れず、ピカピカ光る蔓苔桃つるこけももいろの燕尾服をけていた。こんな風にして身装みなりをととのえると、彼は自分の馬車に乗りこんで、まばらに灯影ほかげのさしている家々の窓の光りに照らされて、うっすらと見える涯しもなくだだっ広い通りを揺られて行った。知事の邸はしかし、まるで舞踏会でもあるように煌々こうこうと灯りがついていた。角燈ランタンをつけた軽馬車が幾台も並んでおり、玄関前には二人の憲兵が立っていて、遠くの方では馭者の喚き声が聞こえている──つまり、何もかもが注文どおり備わっていた訳だ。大広間へ足を踏み入れると、ランプや、蝋燭や、婦人連の衣裳が余りにもキラキラと光り輝いていたので、一瞬間チチコフは眼をそばめずにはいられなかった。何もかもがふんだんに光りを浴びていた。黒い燕尾服があちこちに、塊まりになったり離ればなれになったりして、ちらちらしながら揺れ動いていた──それはちょうど、夏も七月の暑い日盛ひざかりに開けはなった窓の前で、年とった女中頭が真白に輝いている精製糖せいせいとうの棒を打ち砕いて、キラキラする破片かけらにしているとき、その上をまいまい飛び回っている蠅のようだ。子供たちは皆そのまわりに集まって、槌を振りあげる女中頭の強張こわばった手の動きを、面白そうに見まもっている。ところが、軽い空気かぜに乗った蠅の空軍くうぐんは、さもわれがおに、遠慮会釈なく舞いこんで来て、老婆が視力の鈍い上に、太陽の光りに悩まされているのをいいことにして、この美味い御馳走の上に、あるいは一匹ずつ離ればなれに、或はぎっしり塊まってたかり寄る。そうでなくても、往く先々で美味しい御馳走にありつくことの出来る豊饒な夏に飽満ほうまんした蠅どもは、別にそれを食べるのが目的ではなく、ただおのれを誇示せんがために砂糖の塊まりの上を往ったり来たりして、前肢なり後肢なりの片方の肢で他の肢をこすったり、その肢で自分のはねの下を掻いたり、二本とも前肢を伸ばして自分の頭をこすったりして、ここでくるりと向きを変えると、また何処かへ飛び去ってゆくが、再びうるさい大軍となって飛来するのである。チチコフはひとわたりぐるりを見まわす暇もなく、はやくも知事に腕をつかまれていた。そして早速、知事夫人に紹介された。新来の客はこんな場合にも決してまごつくようなことはなかった。彼は官等のあまり高くもなければ低くもない中年の紳士として、きわめて妥当なお世辞を言った。それぞれ相手を決めた幾組もの踊りの組が、一同を壁ぎわへ押しつめた時、彼は両手を後ろに組んだまま、二三分のあいだ非常に注意ぶかくその連中を眺めまわした。大概の婦人連は立派な流行の衣裳をつけていたが、中にはせいぜい県庁所在地の田舎町で手に入る程度の品で間に合わせている向きもあった。男の連中は、何処でも同じように、ここでも二つの種類に分れていて、その一方は痩形の連中で、この手合いは絶えず婦人のまわりに付き纏い、中でも二三の者に至っては、ちょっとペテルブルグっと区別がつかない位で、非常に凝って気のきいた型に頬髯をととのえているか、さもなければつるつるに剃りあげた体裁のいい卵形の顔をしていて、無遠慮に婦人連の側へ割りこんだり、フランス語で話したり、女どもを笑わせたりするところは、ペテルブルグに於けると変りがなかった。もう一方の手合いといえば、よく肥った連中か、さもなければチチコフと同じような、つまりあまり肥ってもいなければ、そうかと言って決して痩せてもいない連中で。この手合いは反対に、婦人連を横目で見やりながら後ずさりをして、知事の従僕が何処かへ緑いろの骨牌カルタ台を出さないかと、あたりを見まわしながら、そればかり狙っている。この連中の顔は、肥えて丸々していて、中には疣の出来たのもあり、また薄痘痕うすあばたのもある。髪の毛は、前髪を立てたり捲髪まきがみにしているのもなければ、フランス人の所謂いわゆる⦅なに構うもんか⦆といった流儀のもなく、一様に短かく刈りこんでいるか、さもなければぴったりと撫でつけている、従って顔の輪郭かたちが一層ずんぐりしていかつく見える。これがこの市の尊敬すべき役人連であった。ああ この世の中では、痩形やせがたの連中よりも肥りじしの連中の方が確かに上手に物事をやり遂げてゆく。痩形の連中というものは、どちらかといえば、せいぜい嘱託ぐらいの勤めにありつくか、それともただ名目だけの役を当てがわれて、あちらへペタペタこちらへペタペタと、頓と尻が落ち着かず、妙にその存在がふわふわしていて、吹けば飛びそうで頼りないこと夥しい。肥った連中はそこへ行くと決して傍系的な地位などには止どまっていないで、いつも重要な直属の地位を占め、そこに坐ったが最後、がっちりと腰を落ちつけて構えこんでしまうから、むしろ椅子の方で悲鳴をあげてへたばってしまうけれど、彼等自身は敢てビクともすることではない。彼等はけばけばした外見が嫌いで、ている燕尾服も痩せた連中のほど上手な仕立ではないが、その代り金箱の中にはお宝が唸っているのだ。痩形の連中は、三年もすれば一人残らず農奴を借金の抵当かたに入れてしまうが、肥り肉の方は泰然と構えていながら、いつの間にか──何処か町はずれに、細君の名前で買った家がひょっこりあらわれる。また他の町はずれに別の家が建つ。それから市の近在の小村が手に入り、次いで地所や山林の完備した立派な村が我がものになる。やがてのことに肥った男は神と国家への奉公を終え、世間的な尊敬をち得て目出たく職を退くと、田舎へひっこんで地主になる──つまり、押しも押されもせぬロシアの旦那衆として納まり、お客好きの地主となって、後生ごしょう安楽に余生を送ることになる。ところがその死後には、またもや痩形の相続人が現われて、ロシアの習慣にたがわず、たちまちにして親爺の全財産を撒き散らしてしまうのである。チチコフが一同を眺めまわしながら、ざっとこんなようなことを胸に浮かべていたことはいながたい。その結果、彼はついに肥った連中の仲間へ入ったが、そこには、既に彼の見知りごしの人物が、殆んど全部そろっていた。真黒な濃い眉をした検事は、まるで『おい、君、あちらの部屋へ行こう、ちょっと話があるから』とでも言うように、左の眼で絶えずめくばせをしているような癖がある。けれどこの男は、至極真面目まじめなむっつり屋なのだ。郵便局長は背丈のちんちくりんな男だが、しかし頓智があって、なかなかの哲学者だ。裁判所長は非常に思慮分別しりょふんべつのある愛嬌者あいきょうものだ──こういった連中がみな、チチコフを古い知合いのように歓迎した。それに対して彼は、ちょっと気取った会釈をしたが、それでも一々嬉しそうな顔つきをすることは決して忘れなかった。その場で彼は、ひどく愛想がよくて腰の低い地主のマニーロフや、見たところいささかがさつなソバケーヴィッチと知合いになったが、このソバケーヴィッチは、しょっぱなから彼の足をふんづけておいて、『やあ、御免なさい。』と言ったものだ。さっそくヴィストの札を押しつけられたので、彼は相も変らず慇懃にお辞儀をして、それを引き受けた。彼等は緑いろのテーブルにむかって陣取ると、そのまま晩餐の出るまで腰をあげなかった。何か真剣な仕事に身を入れるといつもそうであるように、会話ははたと跡絶えてしまった。郵便局長は非常に口達者な男であったが、その郵便局長ですら、骨牌の札を手に取ると同時に、その顔に仔細しさいらしい表情を浮かべて、上唇を下唇でかくしたまま、勝負がつづいている間じゅう、その容子ようすを変えなかった。彼は絵札を出す時には、片手でトンとテーブルを叩いて、それがクイーンなら『さあ行け、老耄おいぼれの梵妻ぼんさいめ!』またキングなら『行っちまえ、タンボフ県の土百姓め!』などと捨台詞すてぜりふを言ったものだ。そうすると裁判所長がこんなことを言った。『じゃあ、僕がそいつの髭っ面をこう切ってくれるわさ! その女の髭っ面もこう切ってな!』時にはまた、札がテーブルへ叩きつけられるたんびに、『えい! るかそるかだ、他にないからダイヤと行こう!』などと掛声がかけられる、そうかと思うと、簡単に『そら、ハートだ! ハートの虫っ喰いだ! スペ公だ!』とか、『スペード野郎だ! スペードあまだ! スペっ子だ!』とか、また、もっと簡単に『スペだ!』と呶鳴どなったりする。これは、この仲間うちで各々おのおのの札につけ替えた名前である。一勝負かたづくと、例によって例の如く、かなり騒々しく議論を闘わした。わが新来の客も同じように議論に加わったけれど、ひどく要領がよかったので、一同は、この男は議論をしながら、それでいて気持きもちの好い科白せりふを使うわいと思った。彼は決して、『おいでなすったね』などとは言わないで、『はあ、そうおやりになるのですね、ではこのツーはひとつ切らせて頂きますよ』などといった調子である。何事かを自分の敵に一層よく納得させようと思うと、そのたんびに彼はエナメルをかけた銀の嗅煙草入かぎたばこいれを相手の前へ差し出した。その底には、香りをよくするために、菫の花が二つ入れてあるのが眼についた。特にこの旅人は、前に述べた地主のマニーロフとソバケーヴィッチに注意を向けていた。彼は早速、裁判所長と郵便局長をちょっと傍らへよんで、二人の身の上を訊きただした。彼の持ちかけた若干の質問から、このお客のはらには単なる好奇心ではなく、何か下心があるのだということがうなずかれた。というのは、彼はまず何より真先に、二人がそれぞれどのくらい農奴を持っているか、また領地はどんな状態に置かれているか、などということを、根掘り葉掘り訊ねてから、初めて、名前や父称を訊いたからである。彼はたちまちのうちにこの二人をすっかり俘虜とりこにしてしまった。地主のマニーロフは、まだ決してそれほどの年配ではなく、砂糖のように甘ったるい眼つきをしていて、笑うたんびにその眼を糸のように細くする男であったが、このお客にすっかり夢中になってしまった。彼はとても長いことチチコフの手を握りしめながら、とても熱心に、是非いちど自分の村へも御来駕ごらいがえいを賜りたいと懇願した。その村は彼の言うところによれば市の関門からほんの十五露里ヴェルストしか離れていないとのことである。それに対してチチコフは、非常に鄭重に頭をさげ、心をこめて相手の手を握り返しながら、自分は大喜びでそのお招きに応ずるばかりでなく、貴村を訪問するのを最も神聖な義務と考えるなどと答えた。またソバケーヴィッチも、これは極めてあっさりと、『僕の方へもどうぞ』と言って、途方もなく大きな靴をはいた足でがたりと足擦あしずりをしたものだが、だんだん豪傑というものが影をひそめてきた当節では、いかなロシアにも、こんな図体の靴に合う足が果してあるかどうか疑わしい位だ。

 翌る日、チチコフは警察部長のところの午餐と夜会に招かれ、午後の三時からヴィストをやり出して、夜中の二時まで勝負をつづけた。そのかん、ここで地主のノズドゥリョフと知合いになったが、それは年のころ三十ぐらいの、すばしっこい元気者で、二言か三言、口をきいただけでもう、『君、君』と言うようになった。警察部長や検事に対しても、ノズドゥリョフはやはり『君、君』で、極めてざっくばらんに振舞ふるまっていた。けれど賭の大きい勝負が始まると、警察部長も検事も非常に注意ぶかく彼の取り札を見張り、この男の出す札にいちいち眼を配っていた。その翌日、チチコフは裁判所長のところで一夕いっせきを過ごしたが、この人はお客に接するのに少し垢じみた寛衣へやぎていた。しかもそのお客の中には何でも婦人が二人もまじっていたのだ。ついでチチコフは副知事の家の夜会に出席したり、徴税代弁人の家の大午餐会に出たり、検事の家のささやかな、とはいえ金のかかった午餐に招かれたり、市長の催しにかかる、これも殆んど午餐に等しいようなお茶の会によばれたりした。一口にいえば、彼は一時間として家にじっとしていることが出来ず、宿へは、ただ寝に帰るだけであった。この新来の客は、どんな場合にも決してまごつくようなことがなく、いかにも世故に長けた人間であるというじつを身をもって示した。どんな話題が出ても、いつでもそれに巧くばつを合わせることが出来た。例えば馬の飼育が話題にのぼれば、彼は馬の飼育について話し、優良な犬の話が出れば、それにも極めて剴切がいせつな意見を述べ、県本金庫の手で行われた審査について議論がはじまれば、裁判上のからくりにもまんざら無智でないことを示し、玉突の話が出れば、玉突の話でも決してへまなことは言わなかった。慈善のことが話題にのぼると、慈善についても実に立派な意見を述べて、あまつさえ眼頭めがしらに涙さえ浮かべたものだ。燗酒のつくり方について話が出たら、燗酒のこつをちゃんと知っており、税関の役人や監視人の話になると、まるで自分自身が税関役人か監視人ででもあったような塩梅に、そういう連中の噂をしたものだ。しかも刮目かつもくに値するのは、必らずこういう話を一種厳粛な調子で包み、その場にふさわしい態度を保つ心得のあったことである。彼の話し声は高すぎもしなければ、低すぎもしない、ちょうど頃あいの声であった。一言にしていえば、どちらへ向けても、彼は実に申し分のない人間であった。役人たちはこの新らしい人物の出現に、一人残らず好感を抱いた。知事は彼のことを、誠に心掛けの好い男だと言い、検事は──道理をわきまえた男だと評し、憲兵大佐は──学者だと褒め、裁判所長は──なかなか物知りで、尊敬すべき人物だと持ちあげ、警察部長は──尊敬すべくまた愛すべき男だと讃え、警察部長の細君は──とても優しくて、愛想のいい方だと言った。滅多めったに人のことを好く言わないソバケーヴィッチですら、まちからかなりおそくなって帰宅すると、すっかり着物をぬいで、痩せ萎びた細君の横へ入って床につくなり、こう言って話しかけたものだ。『なあ、お前、きょうは知事んとこの夜会へ出たし、部長んとこで昼飯を食ったがな、パーウェル・イワーノヴィッチ・チチコフっていう六等官と知合いになったよ。まったく気持の好い男さ!』それに対して奥方は『ふん!』と答えて、良人おっとを足で小突いた。

 こういった我らの客にとって誠に悦ばしい評判が、市じゅうにひろまって、それは、この客のある奇怪な本性と、企らみというか、それとも田舎でよくいう『やまこ』というやつが、殆んど全市を疑惑のどん底へ突き落とすに至るまで、ずっと続いたのであるが、その経緯いきさつについては、もなく読者の探知するところとなろう。

*1 ワシーリイ・フョードルフ これは明らかに純然たるロシア名前であるのに、特に『外国人』と称しているところが滑稽である。

*2 双頭の鷲のついた看板 当時、酒類は政府の専売となっており、酒場よりの収入が帝室の歳費に繰り入れられていたため、酒場の看板に帝室の紋章がつけてあったのである。

*3 コツェプー アウグスト・フリードリッヒ・フェルジナンド(1761-1819)ドイツの劇作家。十七世紀末と十八世紀初頭の二期に亘りロシアに在住し、後にウィーンの帝室劇作家となったが、間諜の嫌疑によって死刑に処せられた。


第二章


 旅の紳士は、もう一週間以上もこのまちに逗留して、夜会だの午餐会だのといって方々へ出歩きながら、まあいわば、面白おかしく時を過ごした。そこで今度はいよいよ訪問の鉾先を市外に向けて、かねての約束を果すために地主のマニーロフやソバケーヴィッチを訊ねることにした。こう彼が肚を決めてのは、どうやら他にもっと肝腎かんじんな理由があってのことらしい──もっと真剣で、切実な問題が……。それは、しかし読者にこのさきを一通り辛抱して読んでいただければ、やがてだんだん分って来るはずである。とにかくこの物語はすこぶる長くて、しかも華々しい大団円に近づくに随い、いよいよますます大規模になって行くものとご承知ねがいたい。さて、馭者のセリファンは、朝早く例の半蓋馬車ブリーチカに馬をつけるように言いつけられた。ペトゥルーシカは宿に残って部屋と旅行鞄トランクの番をしておれとの命令だ。ここで、本篇の主人公に仕えている、この二人の農奴を読者に紹介しておくのも、あながち余計なことではあるまい。無論、こんな連中はそれほど重要な人物ではなくて、いわば二流、或は三流どころに過ぎず、この叙事詩の主なる発展や動機が決して彼等に由来するのではないのだから、ところどころで言及するにしても、極くあっさりあしらっておけばよい訳であるが、しかし作者わたしは万事につけて几帳面なことが非常に好きで、この点では元来ロシア人であるにも拘らず、ドイツ人のように綿密でありたいと希うのである。と言ったところで大して時間も場所も費えることではない。それは、読者が既に御承知のこと、つまりペトゥルーシカが旦那のおさがりの、少々ゆるすぎる羊羹色のフロックコートをており、こういう階級の人間には得てありがちな、おそろしく大きな鼻と唇を持っているということに、ほんの少しばかり附け足せばよいからである。彼の性質は、口数が多いというよりはむしろしんねりむっつりの方で、常に教養を高めようという誠に殊勝な心掛けさえもっていた。つまり、それは書物を読むのが好きなことであるが、もっともその内容の如何いかんなどはちっとも問題にしなかった。恋に落ちた主人公の波瀾曲折の物語であろうと、単なる初等読本であろうと、乃至は祈祷書であろうと、彼にとっては全く何の変りもなかった──どんなものでも同じように注意を払って読んだ。で、もし彼に化学の本をあてがったとしても、やはりそれを拒みはしなかっただろう。読む本の内容よりも、むしろ何かものを読んでいるということ、更に的確にいえば、ものを読んでいる経過が好きなので、なるほど字というものが寄り集まると何かしらきっと言葉が出来あがるが、時にはそれが何のことだかさっぱり分らないわいと言った具合である。読書は大概、控室で、寝台の蒲団の上に寝そべってやったもので、その結果、蒲団がまるで煎餅のように固い薄っぺらなものになってしまったのである。この読書に対する熱情のほかに、この男にはもう二つ習性くせがあって、それが別の二つの特徴をなしていた。それは、着物をぬがないで、のみのまま、例のフロックコートのままで寝ることと、妙に世帯染しょたいじみたような一種独特な臭いのする特別な雰囲気を始終身のまわりに漂わせていることで、それがために彼が何処かに自分の寝台を据えつけるなり、外套だの身のまわりの品だのを持ちこんだが最後、たといそれまでは人気ひとけのなかったき部屋でも、たちまち十年も前から人の住んでいた部屋のようになるのであった。チチコフはおそろしく潔癖で、時には気難かしいくらいの男であったから、朝などその臭いがプーンと爽々すがすがしい鼻を見舞うと、たちまち眉をしかめて、首を横に振り振り、こう言ったものである。『おい、どうも堪らなくお前は汗臭いぞ。銭湯へでも行けばいいのに。』それに対してペトゥルーシカは返辞へんじ一つしないで、壁にかかっている主人の燕尾服にブラシを掛けるとか、ただちょっとそこいらを片づけるとか、さっさと何か仕事に取りかかったものである。こうして黙りこんでいる時には、いったい彼は何を考えているのだろうか? 恐らく肚の中ではこんなことを呟やいていたのかもしれない。『だがね、お前様だって、ずいぶんお目出たいやな、よくもまあきもしねえで、おんなじことを繰り返し繰り返し、四十遍も言ってなさるだ……』だが、主人から訓戒を与えられる時、下男というものが一体どんなことを考えているか、それは神様にだって分るものではない。だから、ペトゥルーシカについても、ずさしあたりこの位のことしか言えない訳である。ところで馭者のセリファンとくると、これとはまるで別な人間で……。だが作者は、こういつまでも読者諸子をこんな下等な人物の相手に引きとめておいては、はなはだ気がとがめる。というのは、これまでの経験から、読者というものが下層階級の人間と知合いになることを余り悦ばないことをよく知っているからだ。ロシア人という奴は兎角とかくそうで、自分より一級でも位の上の人間には、躍起やっきになって接近したがり、伯爵や公爵にちょっと会釈でもして貰える方が、仲間同士のどんなに親密な友情より嬉しいのだから仕方がない。作者は本篇の主人公がかつかつ六等官に過ぎないということが既に気懸きがかりなのである。七等官あたりなら、まだしも彼と相識ちかづきになってくれるかも知れないが、もう勅任官ちょくにんかんの位をち得たほどの人物だったら、おそらく、誰でも自分の足許あしもとに這いつくばうものに向って傲然として投げつける、あの侮蔑に充ちた眼差まなざしをなげることだろう。いや、まかり間違えば、作者にとっては全くもって致命的な、黙殺という憂目うきめに逢うかも知れないのである。しかし、それやこれやが如何いかに辛くても、やはり主人公のことに話を戻さなければなるまい。で、もう前の晩に必要な指図を与えておいたチチコフは、あくる朝とても早く眼を覚ますと、さっそく顔を洗い、水をしませた海綿で頭の天辺てっぺんから足の爪先までからだをよくぬぐった──これは日曜日にだけすることであったが、ちょうどその日が日曜に当っていたのである──それから頬が本物の繻子しゅすのようにすべすべして光沢つやの出るまで丹念に顔をあたり、まずピカピカ光る蔓苔桃つるこけももいろの燕尾服をた上へ大きな熊の毛皮の裏をつけた外套を引っかけて、旅館の給仕に、或は右側から、或は左側から腕をとられながら階段を降りて、例の半蓋馬車ブリーチカに乗りこんだ。ガラガラと音をたてながら、馬車は旅館の門をくぐって通りへ出た。通りすがりの坊さんが帽子をり、汚れたシャツを著た子供が四五人、一様に手を差し出して、『旦那、孤児みなしごに何かやっておくんな!』とせがむ。その中の一人がしつこく馬車の後ろの馬丁ばてい台に乗っかって来るのを見つけた馭者が、いきなりそれを鞭でひっぱたいた。馬車は石ころに跳ねあがりながら駈けて行った。だんだらに塗った関門の柵が遥か彼方に見え出すと、これでようやく、他のあらゆる苦痛の終りと同じく、有難いことに、間もなく敷石道がしまいになることが分り、それからもう二三度、馬車の車体にかなりひどく頭をぶつけた挙句あげく、やっとチチコフは柔らかい土の上へ運び出されたのであった。市を後にすると同時に、例によって例の如く両方の道端に、やれ丘がある、樅林もみばやしがある、小松林こまつばやしの背の低いのやまばらなのがある、焼け残りの老木の幹がある、石楠しゃくなげがあるといったような、およそ愚にもつかぬ有象無象の描写にかからなければならないのだ。紐のようにだらだらと長い部落にもさしかかった。その家々が、まるで古い薪を積みかさねて灰いろの屋根を被せたような恰好で、その屋根の下には、よく壁に掛けてある手拭てぬぐいの刺繍模様みたいに、木で彫刻をした装飾がついている。羊の毛皮の外套を著た二三人の百姓が、門の前の腰掛こしかけに坐って、申し合わせたように欠伸をしている。上の窓からはちきれそうな顔をして、乳房をぎゅっとつつんだ百姓女が覗いておれば、下の窓からは、仔牛が顔をのぞけたり、豚がめく滅法めっぽう鼻面はなづらだけ突きだしている。要するに陳腐な光景である。チチコフは十五露里ヴェルストの里程標をとおり過ぎながら、マニーロフの言葉によると、この辺に彼の村がある筈だと思った。けれど十六露里ヴェルストの里程標もまたたく間にとおり過ぎてしまったのに、村らしいものはいっこう眼につかなかった。で、もしそこへ二人の百姓が来あわせなかったら、彼は満足に目的地へ達することが出来たかどうか、ちょっと怪しいものであった。『ザマニロフカ村はまだ遠いかね?』という質問に対して、二人の百姓は帽子をったが、その中の一人で、少し利口そうに見える、楔形の顎鬚を生やしたのが、『ザマニロフカじゃごぜえめすめえ、おおかたマニロフカでごぜえましょう?』と答えた。

「そうさ、そのマニロフカだよ。」

「マニロフカですかね! それなら、このままもう一露里ヴェルストばかり行かっしゃると、ちょうど右手にあたりますだよ。」

「右手かい?」と、馭者が鸚鵡返おうむがえしに念をおした。

「右手だよ。」と、百姓が答えた。「そう行けばマニロフカへ出られるだよ。だが、ザマニロフカなんちゅう村はこけえらにゃねえだ。あの村はそうぶだ、つまりそこの地名がマニロフカちゅうだ。ザマニロフカなんちゅうところは、こけえらにゃとんとねえだ。で、そこへ行くちゅうとな、真直まっすぐに、山の上に、石造りの二階建が見えるだ。それが地主様のお邸で、つまりそこに旦那が住んでござるだよ。そこが、お前さんのいわっしゃるマニロフカで。だが、ザマニロフカなんちゅう村はこけえらにゃありもしねえし、あったためしもねえだよ。」

 マニロフカを探しもとめて馬車は駈けだした。二露里ほど走ると、村道へれる曲り角へ来たが、それからまた二露里どころか、三露里も、四露里も走ったけれど、その石造りの二階建なんてものは、さっぱり見当みあたらなかった。ここでチチコフは、友達から十五露里ほどだと言ってその村へ招待されたら、てっきりそこまでは三十露里もあるのだ、ということを想いだした。マニロフカはその位置の関係から、訪ねる人も至って少なかった。地主やかたは一つだけぽつねんと四方を見晴らして立っていた。つまり高台の上にあって、風があり次第、どちらからでも吹きさらしになっていたのである。その邸のある丘陵の斜面は、きれいに刈りこんだ芝生におおわれていた。そこには、紫丁香花むらさきはしどいや黄いろい針金雀児はりえにしだの株を植えこんだ、イギリス風の花壇が二つ三つ散在し、五六本の白樺がそこここに小さい木立となって、細かい葉をつけた疎らな木梢こずえをもたげている。その中の二本の木蔭には、青い木の柱に平べったい緑いろの円屋根まるやねをつけた四阿あずまやが見え、それには『静思庵せいしあん』と銘がうってある。その少し下には、青い浮草で蔽われた池があるが、しかしこれは、ロシアの地主連が持っているイギリス式の庭園には別に珍しいものではない。この丘のふもとや、また一部はその斜面さかにかけて、灰色っぽい丸太造りの百姓家がべた一面に黒々と群がっていた。我々の主人公は、どういう理由わけか知らないが、それを一目見るなりその戸数をかぞえはじめ、二百軒以上あることを確かめた。家と家との間には一本として樹木らしいものも青いものの姿も見られなかった。到るところ、見えるものはただ小屋組こやぐみの丸太ばかりであった。その光景に生気をそえるように、二人の百姓女が、絵に描いたように着物をまくりあげ、くるりと裾を端折はしょって、膝まで水につかりながら、二本の木の竿に結びつけた破れた曳網ひきあみをひっぱって池の中を歩いていた。網には蝲蛄ざりがにが二匹ひっかかっていたし、鯉も一尾網の中で光っていた。女たちは、どうやら喧嘩でもしているらしく、何かしきりにいがみあっている。そこから少し片側へよったところに、松の林が妙にくすんだような青さでくろずんでいた。天気具合までが、まったくお誂えむきで、その日はからりと晴れているのでもなければ、曇っているでもない、一種の明るい灰いろを帯びていた。こういった色合いは、あの、ふだんは至っておとなしいが日曜だと酔っぱらう連中を見受ける衛戍兵えいじゅへいている古い軍服によくあるものだ。画面を補うために、雄鶏も一羽ちゃんと登場していた。いわゆる天候の変化の予言者であるが、こいつは、言わずと知れた恋の意趣から他の雄鶏どものくちばしにかかって、頭に脳味噌がとびだすほどの傷を負わされていたが、平気なもので、大きな声を張りあげてときをつくり、あまつさえ古蓆ふるむしろのように引きむしられたはねでバタバタと羽搏はばたきをやらかしていた。邸に近づきながらチチコフは、入口のポーチの上に他ならぬ主人あるじの姿を見つけた。マニーロフは緑いろのシャロンおりのフロックコートを著て突っ立ったまま、眼の上にひさしこしらえるような恰好に片手を額にかざして、乗りこんで来る馬車の正体を見届けようとしていた。半蓋馬車ブリーチカがポーチに近づくにつれて彼の眼はだんだん嬉しそうになり、相好そうごうが次第に崩れて行った。

「パーウェル・イワーノヴィッチ!」と、彼はチチコフが半蓋馬車ブリーチカから降りたった時、とうとう叫び声をあげた。「それでもまあ、よく手前どものことを憶えていて下さいましたねえ!」

 二人の友人同士が非常に力をこめて接吻を交わしてから、マニーロフはお客を部屋の中へしょうじ入れた。二人が玄関から控室を通って食堂へと抜けて行くだけの間では、少し時間が足りないけれど、何とかその暇を利用して、この家の主人あるじについて少しばかり語ってみようと思う。しかし作者は、こういった企てが甚だ困難であることをここで告白しなければならない。もっと大人物の描写をするのだったら、ずっとその方が楽で、それならただもう縦横無尽に絵具えのぐを画布へなすりつけてからに──黒い、射るような眼と、垂れさがった眉と、しわの深く刻まれた額と、肩に投げかけられた真黒かまたは燃えるような緋のマント──そういったものを描きさえすれば、肖像はちゃんと出来あがる。ところが世の中には、どれもこれも似たりよったりの顔をしているくせによくよく見ると実に微妙な特徴を多くそなえた人物がざらにあるもので──こういう人物の肖像を描く段になると、なかなかおいそれとはゆかない。何しろ、そのデリケートな、殆んど眼にもとまらないような特色が残りなく自分の眼前がんぜん髣髴ほうふつとして浮かびあがるまでは、じっと精神を緊張させていなければならず、しかもあまり探求に凝って過敏になった眼というものは、とかく見当違いな深入りをするものだからである。

 マニーロフが一体どんな性格の男であったかは、神より他には何とも言うことが出来ないだろう。世間には、諺にもあるとおり、⦅都の名士でもなければ、村のどん百姓でもない、どっちつかずの中ぶらりん⦆という尊称であまねく知られている人種がある。マニーロフも多分、この仲間に入れるべき人物だろう。見たところ風采も堂々としており、顔だちにも気持の好いところがあるけれど、どうもその気持の好さには、ちと砂糖が利きすぎているようだ。又その素振そぶりや物腰ものごしには何かしら相手の好意と知遇におもねるようなところがある。彼が笑うととてもチャーミングで、髪は薄色で、眼は蒼かった。この男と話を始めると、最初は誰でも、『なんて気持のいい善良な人だろう!』と言わずにはいられない。ところが次ぎの瞬間には、何も言うことがなくなり、それから今度は、『ちぇっ、まるで得体えたいの分らぬ男だ!』と言って引き退さがるより他はない。引き退らずにいたものなら、きっと死ぬほど退屈な思いをさせられるに違いない。誰だって自分の気にさわるようなことを言われたなら、少しは生気のある、時には横柄おうへいな口さえきくものであるが、この男から、そんな思いきった言葉を期待することは断じて出来ない。人間にはそれぞれ情熱というものがある。或る人は、それをボルゾイ犬に傾注する。また或る人は自分が大の音楽通で、どんな深遠な妙所でも聴き分けることが出来ると思い込む。そうかと思うと、恐ろしく巧者ぶった飯の食い方をしたがる人もあり、また自分に宛がわれた役割よりほんのちょっぴりでも上の役を演じたがる人がある。また或る人はずっとけちな望みしか抱いておらず、せめて侍従武官と一緒に散歩でもしているところを自分の友達や知合いや、赤の他人にまで見せびらかしてやりたいなどと寝床の中で夢想する。或る人はまた、ダイヤの一か二の札を威勢よく打ち出してやろうなどという飛んでもない野心でうずうずしているような手を授かっており、そうかと思うと或る人の手は、ともすれば得手勝手えてかってを通そうとして、駅長や馭者の頭上へ飛んでゆく。──要するに、誰でも皆めいめい自分の個性を発揮したがるものだが、マニーロフには全然そんなところがなかった。家では口数もあまりきかず、大抵たいてい、何か考えこんで物思いにふけっているが、一体何をそんなに考えているのか、そいつは神様にだって分ることじゃない。農事にたずさわっているなどとは、間違っても言うことが出来ない。第一、野良へなど出かけた例しが一遍もないのだ。それでも、どうやら仕事の方で勝手にかたがついてゆくようだ。管理人が『旦那様、これこれこういう風にしたらよろしいでしょう』と言えば、『うん、それも悪くなかろうね』と答えながら、いつも煙管をすぱすぱやっているが、煙草は彼がまだ軍隊に勤めていて、誰よりも温和で、思いやりが深くて、教養のある士官だと思われていた頃からいなれていたのだ。『うん、まったくそれも悪くなかろうね』と彼は繰り返す。百姓がやって来て、頭を掻きながら、『旦那様、済みましねえが、仕事を休ましておくんなせえ、税金を稼ぎに行きてえだから。』と言えば、『ああいいとも』と、いつも例の煙管をスパスパやりながら許しを与えるが、その百姓が酒を喰らいにゆくのだなどとは、夢にも考えたことがない。時おり彼はポーチの上から庭や池を眺めながら、ひとつ地下道をつくって家から真直ぐに行かれるようにしたらいいとか、池の上に石橋を架けて、その両側に屋台店をひらき、そこへ商人あきんどを坐らせて、百姓に入用な細々こまごました雑貨でも売らせるようにしたら素敵すてきだなどと言ったりする。そんな時、彼の眼はひときわ甘ったるくなり、顔にはさも満足らしい表情が浮かんだものだ。しかし、こうした計画はただ口先だけで、いつもそれなりになってしまうのだ。彼の書斎には、一冊の本が四六時中、十四頁目のところにしおりをはさんだまま置いてあったが、それを彼はもう二年越し読んでいるのである。彼の家では、いつもきまって何かしら欠けていた。例えば客間には素晴らしい家具が並んでいて、それには定めし高い金をかけたらしい、いき絹布けんぷが張ってあった。ところが二脚の安楽椅子には、その布が足りなかったと見えて、粗い麻布を張っただけで並べてある。もっとも主人は、この数年間というもの、お客のあるたんびに、『その椅子にはお掛けになっちゃいけませんよ、実はまだ仕上げが出来ておりませんので。』と、前もって断わりをいった。また或る部屋には全然家具らしいものが具えてなかった。ほんとうは、新婚早々、細君にむかって『ねえお前、明日にもこの部屋に、たとえ一時しのぎにでも、家具を入れることにしようね』などと言ったものだ。晩になると、くすんだ青銅で三人の美の女神をかたどり、しゃれた真珠貝の火除ひよけをつけた、非常に優美な燭台がテーブルの上へ出されたが、それと並べて、脚がびっこで、一方へ傾き、おまけに蝋燭のかすが一面にこびりついた、粗末ながらくた同様の銅の燭台が置いてあっても、主人をはじめ、主婦も、召使たちも、一向それを異としない。彼の細君はといえば……、ところでこの夫婦は互いに満足しきっているのだ。二人が結婚生活に入ってからもうかれこれ八年の余にもなるのに、今だにどちらか一人が相手のところへ、そっと林檎の一切れだの、金平糖こんぺいとうだの、胡桃だのを持って来て、水も漏らさぬ愛情を表わす、とろけるような甘ったるい声で、『さ、ああんと口をおあきなさい、美味しいものを入れてあげますから』と言う。そうすると、いうまでもなく、相手の口はいともしおらしく開けられたものだ。誕生日などには、例えばビーズ刺繍の小楊枝入こようじいれといった風な、相手の思いもかけぬような贈物おくりものが用意される。又これは始終あることだが、二人が長椅子に掛けている時など、よく不意に、いったい何がきっかけになるのかまるで見当がつかないけれど、一方が煙管を手から離すと、片方も、その時手すさびにしていた仕事を傍らへ押しやって、二人は身も心も溶け入るような、長い長い接吻を交わしたもので、しかもその長いことといったら、細巻の葉巻なら一本は楽にみ終ることが出来るくらい続くのである。要するに、円満な夫婦とはこんなものだといわんばかりであった。勿論こんな長ったらしい接吻や、相手を吃驚びっくりさせるような贈物に耽っていること以外に、家の中には他の用事がざらにあったり、またいろんなわずらわしい問題が次々と起こってもくるのだ。例えば、どうして台所では、ああ無闇矢鱈むやみやたらに料理をこしらえるのか? どうして蔵の中があんなにからになっているのか? どうして女中頭はああ手癖てくせが悪いのか? どうして下男どもはあんなに不潔で、いつも酔っぱらってばかりいるのか? どうして召使たちはあんなにだらしなく、どいつもこいつも寝てばかりいて起きている間はいつも悪戯わるさばかりしているのか? といったようなことだ。しかし、こんなことはみな甚だ低級な問題だが、一方マニーロワ夫人は、実に立派な教育を受けた御婦人ときている。ところで、立派な教育というやつは周知の如く寄宿女学校で授かるもので、その寄宿女学校ではこれまた周知のとおり、三つの主なる題目が婦徳ふとくの基礎となっている。第一にフランス語で、これは家庭生活の幸福のために欠くべからざるもの、第二はピアノで、これは良人に愉快な時を過ごさせるため、そして最後に、ようやく本来の家事、つまり巾着きんちゃくやその他いろんな贈物を拵えることが挙げられている。もっともも、その教授法に種々の改善や変更の施されることが、ことに現今に於いては甚だしく、これは主として、その寄宿学校を経営してござる女の校長先生の常識と伎倆によって左右されるものである。で、或る寄宿学校ではピアノを第一にし、それからフランス語、そして最後に家事という順序でやっているところもある。またどうかすると家事、つまり贈物の手芸を第一に置き、次ぎにフランス語、最後にピアノというやり方のところもある。とにかく、いろんな方式がある訳だ。ところで、もう一つ、こんなことを指摘するのも妨げにはなるまい、つまりマニーロワ夫人は……だが、正直なところ、どうも御婦人がたについてかれこれ申しあげるのは甚だもって心許こころもと無い次第で、それに、もうそろそろ我々の主人公たちのことに戻らなければなるまい、というのは、もう二三分の間、二人は客間の扉口の前に立ったまま、互いに先を譲りあっているからである。

「どうかまあ、そんな御斟酌ごしんしゃくには及びませんよ。手前は後から入らせて頂きますから。」と、チチコフが言うのである。

「いや、それあいけませんよ、パーウェル・イワーノヴィッチ、あなたはお客さまですもの。」そう言いながら、マニーロフが片手で扉口を指さした。

「まあ、まあ、そんなにっしゃらないで、どうかお先へ。」とチチコフが言った。

「いや、何と仰っしゃっても、あなたのような実に気持のいい、お偉いお客さまを差しおいて私風情ふぜいがお先に立つなんて、断じて出来ることじゃありませんよ。」

「どうしてまた、手前が偉いなんて?……さあ、どうかお通りください!」

「まあ、とにかく、あなたからおきへ。」

「これは又、どうしてでしょうね?」

「どうもこうもあるもんですか、さあ!」と、気持の好い笑を含みながらマニーロフが言った。

 結局、二人はからだを捩じ向けて一緒に扉口へ入ったので、互いに少し揉みあったものだ。

「では一つ、家内を紹介させて頂きましょう。」と、マニーロフが言った。「ね、お前! これがパーウェル・イワーノヴィッチさんだよ!」

 チチコフはマニーロフと入口でお辞儀ばかりしあっていたので、それまで少しも気がつかなかったが、この時はじめて一人の婦人の姿をみとめた。なかなか美人で、顔に相応しい服装をしていた。白っぽい絹布の寛衣ガウンが彼女に大変よく似合っていた。っそりした可愛らしい手が、何か持っていたものを急いでテーブルの上へなげ捨てると、四隅よすみに刺繍のついたバチスト麻のハンカチを握りしめた。彼女は腰かけていた長椅子から立ちあがった。チチコフはまんざら悪くもなさそうな面持おももちで、彼女の差し出した小さい手に口を近づけた。マニーロワ夫人は、少し甘えたような口調で、御来訪にあずかってとても嬉しい、殊に主人などはあなたのお噂をしない日は一日としてなかったなどと言った。

「そうなんですよ。」と、マニーロフもそれに相槌を打った。「もう毎日のように彼女これが訊くのです。⦅どうして、あなたのお友達はいらっして下さらないのでしょう?⦆ってね。で、⦅まあ待っておいで、今においでになるから⦆と、いつもなだめていたのですよ。ところが、とうとう望みが叶って、お訪ねにあずかった訳です。まったくこんな嬉しいことはありません──まるで五月祭りか……盆と正月が一緒に来たような気持ですよ……。」

 とうとう話が盆と正月が一緒に来たなどというところまで発展しては、流石さすがのチチコフも少々てれてしまって、自分は大して名声を博している人間でもなければ、どれだけ立派な官等をもつ者でもないと、慎ましやかに弁解した。

「いや、あなたにはどちらもおありです。」と、マニーロフが相も変らぬ気色のいい微笑をたたえながら遮った。「どちらもおありです。いや、それ以上ですよ。」

まちはいかがでして?」と、マニーロワが口を出した。「御愉快にお過ごしになりまして?」

「たいへん立派なまちです、素晴らしいまちですよ。」と、チチコフが答えた。「とても愉快に過ごしました。なにしろ社交界の方々が至って御親切ですからね。」

「あの知事さんをどうお思いになりまして?」と、マニーロワが訊ねた。

「いや、まったく見あげた、また実に愛想のいい人物でしょう?」と、マニーロフが言い足した。

「まったく仰せのとおりで。」と、チチコフが言った。「この上もなく立派な方ですね。それに、御職掌ごしょくしょうがぴったり板についていますよ! ああいう人がもっと沢山あるといいんですがねえ。」

「ほんとに、どうしてああ誰彼だれかれなしに寄せつけながら、その癖、自分の振舞いにちゃんと節度を保つことが出来るのでしょうね。」マニーロフはにこにこ笑いながら、そう言い足したが、まるで耳の後ろをそっとくすぐられる時の猫のように、いかにも満足らしく、糸のように目を細くしたものだ。

「実に親切で気持の好い人ですねえ。」と、チチコフはつづけた。「それに何という器用な人でしょう! まったく私には思いもよらなかったことですが、あの方は御自分で実に上手にいろんな絽刺ろざしをされるんですからねえ! お手製の財布を見せて貰いましたがね、あんなに巧く刺繍ぬいの出来る人は、御婦人がたにも滅多にありませんよ。」

「それから副知事も、なかなか好い人じゃありませんか?」と、マニーロフはまたしても眼をちょっと瞬いて、言った。

「いや、実に立派な方です。」と、チチコフが答えた。

「それじゃあ、あの警察部長をどうお思いになりますか? まったく気持のいい人間じゃありませんか?」

「非常に気持のいい人です、それに実に利口で、博学な方です! 私はあの人のところで、検事や裁判所長といっしょに、三番鶏さんばんどりの鳴く頃までヴィストをやりましたよ。実に、実に立派な人です!」

「では、あの警察部長の奥さんを、どう御覧になりまして?」と、マニーロワが口をはさんだ。「ほんとにお優しい方でございましょう?」

「ああ、あれは私の知っているかぎりの、最も立派な御婦人の一人ですよ。」と、チチコフが答えた。

 それに次いで、裁判所長や郵便局長が話題にのぼった。こんな具合に、市の役人は殆んど一人残らず品定めをされたが、結局どれもこれも皆この上もなく立派な人物ばかりだということになった。

「あなた方は始終、村でお暮らしになっていらっしゃるのですか?」と、やっと今度はチチコフの方から質問した。

「主に村にいますがね、」と、マニーロフが答えた。「でも、時には教育のある人たちに逢うためにまちへも出かけますよ。いつも井の中に閉じこもっていては、野暮くさくなりますからね。」

「いかにも御尤ごもっともで。」とチチコフが肯いた。

「それあもっとも、」と、マニーロフは言葉をついで、「近所に好い友達でもあって、例えば、何かこう、世辞愛想や立派な応対ぶりの話をしたり、精神を目覚すような学問の話などの出来る相手でもあれば、また格別ですがね。それこそ、いわば天へも昇る心持こころもちになって……。」ここで彼は何かまだ言いたそうであったが、少し法螺ほらを吹きすぎたのに気がついて、ただ宙に手を一つ振っただけで、こう言葉をつづけた。「そうなれば、無論、田舎の侘住わびずまいも、これでなかなか面白いものでしょうがね。ところが、そんな話し相手が頓とないのです……。で、時々*1『祖国の子』を読むぐらいが関の山ですよ。」

 成程、静かな田舎にひっこんで、自然の風物を楽しみに、時々なにか本でもひもとく……といった生活ほど愉快なものは決してあるものでないと、チチコフは、すっかりそれに賛同した。

「だが、しかしです、」と、マニーロフが言い足した。「共に興懐きょうかいを分つような友人がなかったとしたら……。」

「いや、まったくです、まさに仰っしゃるとおりです!」と、チチコフが口を挟む。「しろがねも黄金も玉も何かせんです! ⦅金を持つより、善き友を持て⦆と或る賢人もおしえていますからね。」

「そうですよ、パーウェル・イワーノヴィッチ、」と、マニーロフはその顔に、ただ甘ったるいというだけではなく、世故にたけた如才ない医者が甘くさえしてやれば患者が悦ぶと思って矢鱈に甘味をつける水薬同様、しつこいと言ってもいいほどの表情を浮かべて言うのだ。「いい友達に対すると、なにかこう、一種、精神的な喜びを感じますからねえ……。例えば現に今、図らずもこうして、あなたとお話をしながら愉快な御意見を拝聴していますと、まったく世にも稀な、模範的といってもいいような幸福を覚えますからねえ……。」

「とんでもない、愉快な意見だなどと仰っしゃられては恐縮です……私はまったく詰らない、これっきりの人間ですからね。」と、チチコフが答えた。

「いや、どうしてどうして、パーウェル・イワーノヴィッチ! 腹蔵なく言わせて頂けば、私はあなたがそなえておいでになる値打ねうちの、せめて何割かを身につけることが出来るなら、この身代の半分くらい、悦んで投げ出しますよ!……」

「ところがその反対で、私の方ではまた、あなたこそ、この上もなくお偉い……。」

 ここへもし召使が入って来て、食事の用意が出来たことを知らせなかったなら、この二人の友の心の丈の浴びせ合いが一体どうけりがついたかは、誰にもちょっと見当がつくまい。

「それでは、どうぞ。」と、マニーロフが立ち上った。

「どうかまあ、とてもとても豪勢なお邸や都で出るような料理はございませんけれど、それは幾重にもお許しを願って、ほんの粗末なロシア式の玉菜汁シチイだけですが、まあ、心のこもっているのが取柄とりえでしてね。さあ、どうぞ。」

 そこでまた二人は、どちらがきに食堂へ入るかということで、暫らく言い争っていたが、とうとうチチコフが横向よこむきになって入って行った。

 食堂にはもう、二人の男の子が待っていた。マニーロフの子供で、どちらも食卓につらなることは許されても、まだ高い子供椅子に掛けさせられるといった年頃だ。それに附き添っていた家庭教師は、にっこり微笑を含んで恭しくお辞儀をした。主婦が受持うけもちのスープ鉢の前に坐り、客が主人と主婦との間に坐らされると、召使が子供たちの頸にナプキンを捲きつけた。

「実に可愛らしいお子さんたちですね!」と、チチコフが子供をちらと眺めて言った。「お幾つですか?」

「上のが八つで、下のはやっと昨日、六つになりましたの。」と、マニーロワが答えた。

「フェミストクリュス!」と、マニーロフが、召使の捲きつけたナプキンが顎に引っかかっているのを一心にずそうとしている上の子に向って声をかけた。チチコフは、マニーロフがどういう訳かユスなどという語尾をつけて呼んだ、そのギリシャ人くさい名前を耳にすると、ちょっと吃驚びっくりして眉を釣りあげた。が、直ぐにまた急いでいつもの顔にかえった。

「フェミストクリュス、さあ言って御覧、フランスで一番いいまちはどこだっけね?」

 これを聞くと家庭教師は、全身の注意をフェミストクリュスに集注して、今にも真向まっこうから跳りかからんばかりの気勢を示したが、フェミストクリュスが『パリ』と答えたので、やっと安心して、首を頷けた。

「それじゃあ、このロシアで一番いいまちは?」と、マニーロフがまた訊いた。

 家庭教師は又しても全身を緊張させた。

「ペテルブルグ。」と、フェミストクリュスが答えた。

「それから、もう一つは?」

「モスクワ。」と、フェミストクリュスが答えた。

「いや、お利口お利口!」と、それに対してチチコフが言った。「それにしても、まあどうです……」とここで彼は、さも驚いたような顔をマニーロフ夫妻に向けて続けた。「こんなお年で、よくそんな智恵がおありなんですねえ。いや、まったく、このお子さんは屹度きっと、素晴らしいものにおなりですよ!」

「いや、まだまだあなたはこいつのことをよく御存じないんですよ!」と、マニーロフが答えた。「こいつは、なかなか頓智のいいやつでしてね。その小さい方のアルキッドは、あまりはしっこくありませんがね。こいつときたら、何かもう、甲虫かぶとむし黄金虫こがねむしでも見つけようものなら、たちまち眼玉をキョロキョロさせましてね、直ぐにそれを追かけまわして、もう夢中になってしまうんですよ。こいつは一つ外交官にしてやろうと思ってますんで。フェミストクリュス!」と、彼はまた上の子の方へ向って、語をついだ。「どうだ、大使になりたかないかい?」

「なりたい。」そう、フェミストクリュスは、麺麭パンをむしゃむしゃやりながら、首を左右にゆすぶって答えた。

 丁度ちょうどその時、後ろに立っていた召使が、未来の大使の鼻を急いで拭いた、拭いてくれたからよかったが、でなかったら、とんだものが一雫ひとしずく、スープの中へ落ちるところであった。食卓では平穏な生活の喜びについて談話が進められていたが、時々それをさえぎって、主婦が市の劇場や俳優の話を持ち出した。家庭教師は、しきりに話し合っている人達の顔に注意を払いながら、彼等が笑いそうだなと思うと、いち早く自分も口をあいて、骨身おしまず一緒に笑ったものだ。よほどこの男は、恩義に感じ易い人間だと見えて、そんな風にしてまで主人の知遇に報いようとしているらしかった。それでも一度だけ彼は険しい顔をして、自分と相向あいむかいに坐っている子供たちをっと睨みながら食卓を厳しく叩いた。それはまったく機宜きぎに適した処置であった。というのは、フェミストクリュスがアルキッドの耳に咬みついたため、アルキッドが眼をくしゃくしゃにして、口をあけて、さも情けなさそうな様子で、今にもわっと泣き出しそうだったからだ。が、しかし泣き出せば屹度、折角の御馳走も取りあげられてしまうと思ったので、口をもとのようにして、涙ながらに羊の骨をがりがりしゃぶりはじめたが、骨が両方の頬っぺたにさわってべたべたに脂だらけになった。

 主婦はもう、何度も何度もチチコフに向って、『あなたは何にも召しあがって下さらないじゃありませんか。ほんとに少しっきりしかお取り下さいませんで。』などと言った。そのたんびに、チチコフはこう答えたものだ。『いや、大変御馳走さまでした。もう満腹いっぱいなんです。愉快なお話が何よりの御馳走ですからね。』

 一同はやがて食卓をはなれた。マニーロフは殊のほか満足らしく、お客の背中へ手をまわして、そのまま客間へ案内しようとしたが、その時、不意にお客がひどく意味深長な顔附をして、実は或る重要な問題についてちょっとお話ししたいことがあるのだが、と言い出したのである。

「それでは一つ、書斎の方へ御供おともいたしましょう。」そう言ってマニーロフは、青々した森に向って窓のついているあまり大きくもない一室へと客を導いた。「これが私の隠れ家です。」と、マニーロフが言った。

「気持の好いお部屋ですね。」とチチコフは、さっとあたりを見まわしてから言った。それはまったく、気持の悪い部屋ではなかった。壁は、ちょっと灰色がかったそらいろの塗料で塗ってあり、小椅子が四脚に、安楽椅子が一脚、それにテーブルが一脚あって、その上には、先刻もちょっと述べたとおり、栞をはさんだままの書物と、何か書きちらした紙が数枚のっていた。けれど、何より一番多く眼につくのは煙草であった。それはいろんな風にして置いてあって、紙袋へ入ったのもあれば、また剥きだしにテーブルの上に山と積まれたのもある。両方の窓の上には又、煙管から叩き出した灰の山が、さぞ苦心して並べたように、整然たる列をなして並んでいる。どうやら主人は時々ひまつぶしにこんなことをしているものらしい。

「どうか、こちらの安楽椅子にお掛け下さい。」と、マニーロフが言った。「この方が少しはお楽ですから。」

「なに、私はこの小椅子に掛けさせて頂きましょう。」

「いや、どうかそう仰っしゃらずに。」と、マニーロフは微笑を浮かべながら言った。「手前どもでは、この安楽椅子がお客さま用ときめてありますのでな、否でも応でも、お掛けになって下さらなきゃなりませんよ。」

 チチコフは腰をおろした。

「煙草を一服いかがですか。」

「いや、不調法ぶちょうほうでして。」と、チチコフは愛想よく、さも残念そうな面持で答えた。

「どうしてですか?」とマニーロフも、やはり残念そうな顔をして、愛想よく訊ねた。

「飲みなれないものですから、こわいんですよ。なんでも、煙草を飲むと痩せると言うじゃありませんか。」

「失礼ですが、そいつは偏見というものですよ、私にいわせると、むしろ、煙管パイプたばこはかぎ煙草などよりずっと身体に良いくらいですよ。私の連隊に中尉が一人おりましてね、これは実に立派な、また教養の高い男でしたが、この男ときたら、食事中ぐらいならまだしも、尾籠びろうな話ですがその、何処へ行っても、煙管を口から離したことがなかったものですよ。それが今ではもう四十を越していますが、お蔭なことに、この上もなく達者でおりますからねえ。」

 チチコフは、成程そういうこともあり得ることで、この世には、どんな該博な知識をもってしても説明のつかないようなことが間々見うけられるものだ、と言った。

「ところで、何はさて一つお願いがあるのですが……。」こう彼は、何か変な、もしくは殆んど変に聞こえるような調子の声で切りだしたが、どうしたものか直ぐそれに次いで、ちらと後ろを振り返った。マニーロフも、やはりどういうわけか後ろを振りむいた。「あなたは、もうよほど前に*2戸口ここう調査名簿をお出しになりましたので?」

左様さようさ、もう随分になりますねえ、と言うより、殆んど憶えがないくらいですよ。」

「それ以来、余程あなたのところでは農奴が死にましたでしょうか?」

「さあ、ちょっと分りかねますが、それは一つ管理人に訊ねてみる必要があると思います。おうい、だれか! 管理人を呼んでこい。今日はたしか来ているはずだから。」

 やがて管理人が現われた。それは年のころ四十前後の、顎鬚をきれいに剃って、フロックコートをた、見たところ非常に気楽な生活を送っているらしい男であった。というのは、その顔がいやにぶくぶくとふとり、黄ばんだ皮膚の色と小さな二つの眼とは、彼が羽根蒲団や羽根枕の寝心地のよさを、知りすぎるほどよく知っていることを示していたからだ。また、普通お抱えの管理人がするだけの出世は、もうしてしまったということが、一目でそれと頷かれた──つまり、初め自家うちにいる間は、ただちょっと読み書きの出来る小伜に過ぎなかったのが、やがてお邸の奥様お気に入りの女中頭でアガーシュカとか何とかという女と夫婦いっしょになって、自分は倉番になり、そのうち何時いつか管理人になってしまったのである。管理人になってからは、いうまでもなくすべての管理人と同じように振舞って、村で小金でもためていそうな連中とは互いに交際ゆききをしたり、子供の名附親になったりするが、貧乏人からは特定の小作料を勝手に増額してじゃんじゃん取りたてる。朝は八時すぎに眼をさまし、サモワールの沸くのを待ってお茶を飲むのである。

「ねえ、おい、この前に戸口名簿を出してから、うちの村では農奴はどのくらい死んだだろうね?」

「さあ、どのくらいと仰っしゃいますんで? なんでもハア、あれから随分と死にましただよ。」こう言った途端に吃逆しゃっくりが一つ出たので、管理人はまるで蓋でもするように、片手でちょっと口を塞いだ。

「うん、そうだろう、実は俺もそう思ってね。」と、マニーロフは相槌を打って、「まったく、よほど沢山死んでるね!」こう言って、今度はチチコフの方へ向き直りながら、つけ加えた。「確かにかなり多勢、死んでおりますよ。」

「例えば、どのくらいの数で?」と、チチコフが訊ねた。

「そうだ、数はどのくらいだい?」と、マニーロフが質問を取り次いだ。

「さあ、数がどのくらいだと仰っしゃいますんで? 幾人いくたり死んだか、そいつあちょっくら分りかねますだよ。誰もそんなもの、勘定かんじょうしたことがありましねえだから。」

「成程ね、」とマニーロフはまたチチコフの方へ向き直って、「私も、死んでるにはかなり死んでると思いますが、果して幾人死んでいるやら、それは皆目わかりませんねえ。」

「君、それを一つ調べてくれませんか。」と、チチコフが言った。「そして全部、名前を書きあげた詳しい表を作ってみて貰いたいんだが。」

「そうだ、一人のこらずだよ。」とマニーロフがつけたした。

 管理人は、『かしこまりました!』と答えて、出て行った。

「して、一体どういう理由わけで、そんなものが御入用なんです?」と、管理人の出て行った後でマニーロフが訊ねた。

 この質問がいささか客を当惑させたらしく、そのおもてには何かこう、緊張した表情が浮かび、それがために彼はちょっと顔をあからめたほどで、──どうも言葉では言いにくいことを口にしようとする時の緊張であった。果せるかな、マニーロフが耳にしたのは、ついぞこれまで人間の耳に囁かれたこともないような奇怪きわまる話であった。

「どういう理由わけでと仰っしゃるのですか? その理由わけというのは、こうなんです。つまり、農奴を買いたいと思いまして……。」チチコフはそれだけ言ったまま、吃ってしまって、後がつづかなかった。

「しかし、なんですか、」と、マニーロフが言った。「一体どういう風にして買おうと仰っしゃるんで、つまり土地も一緒にですか、それとも、単に何処かへ移住させるという目的で、つまり土地とは別のお話なんですか?」

「いや、手前はその、あたりまえの農奴が欲しい訳ではないんでして。」と、チチコフは言った。「実は死んだのが望みなんで……。」

「なんですって? いや御免ください……どうも私は耳が少し遠いもんですからね、何か奇態きたいなお言葉を耳にしたように思いますが……。」

「いや、手前が手に入れたいと思いますのは、死んだ農奴で、しかし戸口名簿の上では、まだ生きてることになっているもののことでして。」と、チチコフが言った。

 マニーロフはそれを聞くと、思わず長い羅宇らおにすげた大煙管を床におとして、口をぽかんとあけたが、そのまま数分間のあいだはいた口もふさがらなかった。あれほど親交の悦びを論じあった二人の友は、じっと向きあったまま、ちょうど昔よく、どこの家でも鏡の両側に相向いにかけてあった二枚の肖像画のように、互いに穴のあくほど相手の顔を見つめ合っていた。とうとうマニーロフは煙管をひろいあげて、下から相手の顔を見あげながら、この男は冗談を言ってるのではなかろうか、相手の口許くちもとに微笑の影でも浮かんでおりはしないかと、それを発見しようと骨折ったが、それらしいところは微塵もなく、それどころか反対に相手の顔はいつもより真面目に見えるくらいであった。それから今度は、もしやこの客はどうかして不意に気でも違ったのではないかと思って、こわごわその顔をじっと見まもったが、相手の眼はしかし飽くまで澄みきったもので、狂人の眼の中にちらつく、あの異様な、落着きのない閃めきなどは露ほどもなく、どこからどこまでもきちんとして、少しも乱れたところがなかった。一体どうしたらいいのか、何と言ったものかと、幾ら考えてもマニーロフは、ただ残りの煙を口から糸のように細く吐き出すより他はなかった。

「で私に、そういう実際には生きていないけれど、法律的にはまだ生きておることになっている農奴を、売却とか、譲渡とか、それとも何か、これがいいとお考えになる形式で、一つお譲りねがえないかと思うのですが、如何いかがでしょう?」

 マニーロフはしかし、すっかり狼狽して、当惑のあまり、ただ相手の顔をきょときょとと見つめるばかりであった。

「何か、ひどく御迷惑のようですね?」と、チチコフが言った。

「手前が?……いいえ、そうじゃありませんよ。」と、マニーロフは弁解した。「ただ、どうもよく肚へ入らないのです……いや御免なさい……手前は無論、いわばあなたの一挙一動に現われているような、そういう立派な教育はうけておりませんものですから、どうもそういう高尚な言いまわし方が頓と出来ませんので……恐らくそれには……つまり、今あなたの仰っしゃったお話には……何か裏があるのでしょう……屹度あなたは言葉づかいを美しくするために、そんな風に仰っしゃったのでしょう?」

「いいえ、」と、チチコフは直ぐに応酬した。「そうじゃありませんよ。手前は全くありのままを申しあげているのです、つまり、ほんとに死んだ農奴のことを申しあげているのですよ。」

 マニーロフは全く当惑してしまった。彼は何か言わなければならない、何か訊かなければならないとは思ったが、いったい何を訊いたものやら、さっぱり見当もつかなかった。とどのつまり彼はまた煙を吐きだしただけであったが、今度は口からではなく鼻の孔からであった。

「で、もしお差支えがなかったら、さっそく売買登記の手続きをして頂きたいのですが。」と、チチコフが言った。

「え、死んだ農奴の売買登記ですって?」

「いえ、そうじゃありませんよ!」とチチコフが言った。「証書面には、ちゃんと戸口調査簿に載っているとおり、生きていることにして置くのです。手前は何事でも民法に背くようなことはしない習慣でしてね。もっともそのために勤務中にもずいぶん辛い思いをいたしましたが、いや御免なさい、手前にとって義務は神聖で、法律──いや法律の前では手も足も出ませんよ。」

 この最後の一句はマニーロフの気にいったけれど、肝腎の話の意味は、やはりどうしても理解のみこめなかった。そこで彼は、返事をする代りに、精いっぱい煙管を吸いにかかった、それがためにしまいには煙管が笛のように唸り声を立てた位であった。まるで彼は、このような前代未聞の話にいての何らかの意見を、その煙管から吸い出そうとでもしたものらしいが、いたずらに雁首が唸るだけであった。

「あなたはひょっと、何か胡乱うろんだとお思いになっているのじゃありませんか?」

「おや、飛んでもない、決して決して! 私は別段そういう風なことを、つまり、あなたのことをとやかくと批評がましく申す筋合すじあいは更々さらさらないのです。しかし、そう言っては何ですが、この計画といいますか、それとも、取引といった方が当っているかもしれませんが──つまり、その取引が、民法の規定に抵触し、ひいては将来のロシアの方針と両立しないようなことになりはしないかと思うんですがね?」

 ここでマニーロフは、首で妙な素振りをしてから、顔の隅々から、きっと結んだ唇にまで、恐ろしく深刻な表情を浮かべ、ひどく意味ありげにチチコフの顔を見つめたが、恐らくこんな表情はよほど賢い大臣かなんかが、それも極めて解決の困難な問題にでもぶつかった折に面へ現わす以外には、ちょっと人間の顔には見られないものであった。

 しかしチチコフは事もなげに、こういう風な計画、もしくは取引は、決して民法の規定に抵触したり、将来のロシアの方針と矛盾するものではないと断言して、それからちょっと間をおいて、国庫は正当な租税を徴収することが出来るから、かえって利益を得るくらいだと言い足した。

「あなたはそうお考えになるのですねえ?……」

「手前は善いことだと思いますよ。」

「それが善いことだとすれば、話は別です。私は何もかれこれ言うことはありませんよ。」マニーロフはそう言って、すっかり安心してしまった。

「そうすれば、あとはもう値段を取りきめるだけですね……。」

「何が値段です?」マニーロフはまたそう言って、ちょっと言葉を跡切らした。「あなたは、そんな、いずれにしてもこの世にいない農奴に対して私が代金などを取るとお思いになるんですか? あなたがたとえそんな、いわば突飛とっぴなことをお考えになるにしても、私は無償ただでそんなものは差しあげますよ。それに登記だって、費用はこちらで持ちますよ。」

 ここでもしも、こうしたマニーロフの言葉を聞いて、客が異常な満足の情に駆られたことを書きもらしたなら、この事件の記述者はどんな非難をこうむっても仕方があるまい。チチコフが如何いかに沈着で思慮深い人間であったにしても、流石にこの時ばかりは、今にも山羊のようにピョンピョン跳ねあがりそうであった。これは誰でも知っているとおり、歓喜の絶頂に於いてのみ起こる現象である。彼が安楽椅子の上で無闇にからだをねじまわしたものだから、座褥クッションの表の毛織の布が引き裂けたほどであった。マニーロフの方も、すこし飽気あっけにとられた形で相手の顔を眺めていた。感謝の念に駆られたお客が、その場でお礼の百万遍をならべたてたので、主人はいよいよ面喰らって顔を真赤にしてしまい、しきりにかぶりをふって否定の意を示し、しまいには、そんなことは全く何でもありません、私はすっかりあなたに惹きつけられてしまったから、どうかして、その心持を現わしたいと思ったまでであるが、しかし、どちらにしても既に死んでしまっている農奴などはまったく塵芥も同様ですからね、とまで言った。

「なんのなんの、決して塵芥どころじゃありませんよ。」と、チチコフは相手の手を握りしめながら言った。

 ここで彼は非常に深い吐息をついた。どうやら彼は心情の吐露に駆りたてられたらしく、思いいれたっぷりに、とうとうこんなことを言いだした。『いや、その一見塵芥のようなもので、この親戚も身寄りもない人間がどんなに助かるか、それがあなたに分って頂かれましたらなあ! まったく私は実にいろいろな目にあって来たのですよ。まるで荒波に揉まれる小舟みたいなものでした……。ああ、どんなに私が圧制や迫害を忍んで来たことでしょう、どんな苦杯をめて来たでしょう! それも何のためでしょう? みんな、私が正義を守ったからです、良心に恥じたくなかったからです、よるべない寡婦や哀れな孤児に手を貸そうとしたからなのです!……』ここで彼はハンカチをだして、あふれ落ちる涙を押えたほどであった。

 マニーロフはすっかり感動してしまった。二人の友は暫しのあいだ互いに手と手を取りあって無言のまま、涙ぐんだ互いの眼にじっと見いったものである。マニーロフは我等の主人公の手を金輪際はなすまいとして、熱心に握りつづけていたので、こちらはどうしてそれを振りほどいたらいいのか、さっぱり分らなかった位だ。それでも、ようやくのことに、その手をそっと引っこめると、彼は売買登記は一刻も早く済ました方がいいから、もしマニーロフが自身でまちへ出かけてくれれば、なお結構であると言った。つづいて、帽子をとって、いとまを告げにかかった。

「ええ? もうお帰りになるんですって?」マニーロフは急に我れに返ると、殆んどびっくりしたように訊ねた。

 ちょうどその時、マニーロワ夫人が書斎へ入って来た。

「リザーニカ、」と、マニーロフがいささか悲しそうな顔つきをしながら、「パーウェル・イワーノヴィッチは、もうお帰りになるんだとさ!」

「屹度パーウェル・イワーノヴィッチには、あたしたちではお退屈なんでございましょうよ。」と、マニーロワが答えた。

「奥さん! ここに、」と、チチコフが言った。「そら、ここにですよ。」そう言いながら、彼は片手を心臓の上にあてて、「そうです、ここに、私があなた方と御一緒に過ごした楽しい想い出がずっと、いつまでも残ります! どうか信じて下さい、あなた方と御一緒に、たとえ同じ家ではなくても、せめて最寄りのお隣り同士としてでも住むことが出来ましたなら、私にとって、それ以上の幸福はありませんよ。」

「まったくねえ、パーウェル・イワーノヴィッチ、」と、相手の考えに有頂天になって、マニーロフが言った。「実際、そんな風に、御一緒に一つ屋根の下で暮らしたり、または楡の木の木蔭かなんかで、何かこう哲学上の議論でもしたり、瞑想に耽ることが出来たら、まったく素晴らしいでしょうにね!……」

「ああ、それこそもう、天国ですよ!」と、チチコフは吐息をついて、言った。「ではおいとまします、奥さん!」と、マニーロワの手に口を近づけながら続けた。「それから、私の最も尊敬している友よ、さようなら! どうか、お願いした件をお忘れにならないようにね!」

「ああ、大丈夫ですとも!」と、マニーロフが答えた。「私は二日以上あなたをほうってはおきませんよ。」

 三人は食堂へ出た。

「さようなら、可愛い坊っちゃん方!」とチチコフは、鼻も手もなくなった木製の驃騎兵ひょうきへいを持って遊んでいたアルキッドとフェミストクリュスを見つけて、言った。「さようなら、坊っちゃん方。今度は、何もお土産を持って来なくて御免なさい。だって小父おじさんは、ほんとうを言うとあなた方のいらっしゃることは知らなかったのだからね。でも、この次ぎ来る時には屹度もって来ますよ。あんたには、サーベルを持ってこようね。サーベルらない?」

「欲しいや。」と、フェミストクリュスが答えた。

「そして、あんたには太鼓をね。太鼓がいいでしょう?」と、チチコフはアルキッドの方へ身をかがめて、言葉をついだ。

「ちゃいこ。」とアルキッドは、首を垂れて囁やくように答えた。

「よろしい、じゃ、太鼓を持って来ましょうね。とても素敵な太鼓をね! こんな風に、叩くといつも、トゥルルッル……ルッ……トゥラタッタ……タッタッタッって鳴るやつをね。さようなら、坊っちゃん! さようなら!」こう言うと、彼はアルキッドの頭に接吻して、マニーロフと細君の方へ顔を向けてちょっと笑ったが、それは普通、子供の両親に向って、まったく子供の望みって罪のないものですねと言うかわりにする笑顔であった。

「これあ、少しお待ちになった方がいいですよ、パーウェル・イワーノヴィッチ!」と、一同がもうポーチへ出た時、マニーロフが言った。「御覧なさい、あんな雲が出て来ましたよ。」

「いや、あれしきの雲は大したことありませんよ。」とチチコフが答えた。

「ときに、ソバケーヴィッチのところへいらっしゃる道は御存じですか?」

「あ、それをお訊ねしようと思っていたところです。」

「じゃあ、さっそく、お宅の馭者に話しておきましょう。」そう言ってマニーロフは、馭者にその道順を話したが、それがやはり実に丁寧な言葉で、一度などは馭者に向って『あなた』などと言ったものだ。

 馭者は、曲り角を二つ通り越して、三つ目で横へ折れるのだと教えられて、『はい、気いつけますだ、旦那様。』と言った。そこでチチコフは出かけたが、それを見送ってこの家の主人たちはいつまでもお辞儀をしたり、爪先だちになって、ハンカチを振ったりしていた。

 マニーロフは長いことポーチに突っ立ったまま、だんだん遠ざかってゆく半蓋馬車ブリーチカを見送っていた。それがもうすっかり見えなくなってからも、彼はやはり煙管をスパスパやりながら立っていた。それでもとうとうしまいに部屋の中へ入ると、椅子に腰をおろして、いささかでも客に満足を与えたことを心で喜びながら、いろいろと物思いに耽った。やがて彼の想いは、いつの間にやら他の問題に移って、しまいには飛んでもないところへ落ちて行った。彼は友情生活の幸福を思い、何処か河のほとりで友人と共に住んだらどんなに好いだろうと考え、ついには、その河に橋をかけ、モスクワまでも見えるような高い高い望楼ぼうろうのついた宏壮こうそうな邸宅を構え、そこで毎晩、爽々すがすがしい外気を浴びながらお茶を飲んだり、何か愉快な問題について論じあう、それからまた、チチコフと一緒に立派な箱馬車に乗って何かの会合へ出かけてゆき、気持の好い応対ぶりで一同をすっかり俘虜とりこにしてしまう、やがて、彼等のそうした細やかな友情が叡聞えいぶんに達して、二人は勅任官の位を授けられるといった塩梅に、それからそれへと空想の糸が伸びて、ついには自分でも何が何やらさっぱり訳が分らなくなってしまった。が、チチコフの例の奇怪な頼みごとが不意に彼の空想を破った。それは幾ら考えても、どうもよく肚へ入らなかった。ああではないか、こうではないかと、いくら頭の中で考えてみても、さっぱり合点がてんがゆかず、しょうことなしに彼は煙草ばかりプカプカかしながら、夕飯までずっとそこに坐りこんでいた。

*1 祖国の子 一八一二年より満四十年間にわたり、ペテルブルクで発行されていた文学・政治・歴史の綜合雑誌。

*2 戸口調査名簿 ピョートル大帝によって一七二二年に創始され、一八六〇年までに十回にわたって行われた一種の国税調査に、その都度つど地主から政府に提出した農奴数の届書とどけしょをいう。


第三章


 一方チチコフは、もう大分まえに本街道へ出て、駈けてゆく半蓋馬車ブリーチカの中で、すっかり好い気持になっていた。彼の嗜好と性癖の主なる対象が何であるかは既に前章ではっきり分っている。従って彼がたちまちそれに身も魂も打ち込んでしまっていたからとて、少しも不思議ではない。その顔附から見て、彼の予測や見積りや思案は、どうやら上々の首尾であったらしい、それというのも一々その思いが絶えず満足そうな北叟笑ほくそえみの跡を残してゆくからである。こんな風に彼は物思いに耽っていたので、マニーロフ家の召使連の接待もてなしにすっかり好い御機嫌になっていた馭者が、右側に繋がれた連銭葦毛れんせんあしげ測馬わきうまに、なかなか穿うがった小言を浴びせていることにも、いっこう気がつかなかった。栗毛の轅馬なかうまや、何でもさる議員から手に入れたというので『議員』と呼ばれているもう一頭の測馬が眼にさも得意そうな色さえ浮かべて一生懸命に力を入れているのに、連銭栗毛はとても狡いやつで、いかにも曳いているような恰好をしているだけであった。『ずるけろ、ずるけろ! 手前がずるをすれば、そら、おれもこうして仕返しをしてやるぞ!』セリファンはこう叫びながら半身をおこして、その怠け者にピシリと一鞭ひとむちくらわせた。『自分の務めちうものを忘れるでねえだぞ、このひょうろく玉め! 栗毛を見な──奴あ見上げた馬で、ちゃんと自分の務めを果しているだ。そいでおらの方でも、奴にゃあ一桝ひとますがとこ余計に麦をれてやらあな、だって見上げたやつだもの。議員の奴もどうして、感心な馬だ……。こら、こら! なんだって耳を振りゃあがるだ? この馬鹿者め、おらが言うことをよく聴きくされえ! 手前みてえな田吾作野郎にゃ悪いこたあ教えねえだ。ちょっ、何処へい出しゃあがるだ!』ここで彼は又もやピシリと一鞭喰らわせて、こう言い足した。『えい、この野蛮人め! 忌々いまいましいボナパルトめ!』それから今度は、三頭全体に向って、『えい、この野郎ども!』と呶鳴って、それぞれ同じように鞭をくれたが、それはもはや罰としてではなく、どれにも自分が満足していることを示すためであった。こういう褒美ほうびを与えておいて、彼はまたしても連銭葦毛に向ってしゃべった。『手前は自分のやったことを誤魔化せると思ってるちうのか。いんにゃ、おぬしも褒めてもらいてえと思うだら真実まっとうな生き方をせにゃ駄目だぞ。おいらが今寄ってきた地主さまの家の衆は、みんな立派な衆ばかりだったでねえか。立派な衆とだら、おら喜んで話もするだしよ、立派な衆とだら、いつでも友達になるだ、心安い仲間同士にもなるだ。おら、立派な衆とだら、すすんで一緒にお茶を飲んだり、物を食ったりするだ。立派な人間はな、みんなが敬まってくれるだよ。家の旦那さまだってそうでねえか、みんながああたてまつるちうのもな、ええか、あれは旦那さまが国家くにのお役をちゃんと勤めあげさっした奏任官そうにんかんさまだからだぞ……。』

 セリファンはこんな風に理窟をこねながら、しまいには途方もなく脱線したことを呟やいていた。で、もしもチチコフが耳を澄ましていたならば、いろいろ彼自身の内輪のことをこまごまと聴かされたことだろう。が、彼は彼で自分の考えごとに夢中になっていたので、激しい雷鳴が一つガラガラっと来た時、初めて我れに返って、ようやくあたりを見まわした程である。見れば空一面に、すっかり叢雲むらくもがたちこめて、埃っぽい駅路は大粒の雨滴に叩かれていた。ところが、雷鳴がもう一つ、前のよりも激しく間近で鳴りはためくと共に、雨は急に、桶でもひっくりかえしたようにざっとばかり降り出した。初め横なぐりに来た雨脚あまあしは、半蓋馬車ブリーチカの車体の片側を打つかと思うと次ぎには反対側にまわり、それから今度は上から真直ぐに降りつけて、真面まともに馬車の上をざんざん叩いて、ついには飛沫しぶきがチチコフの顔にまではねかかった。で、仕方なしに彼は、革の前蔽いをおろしたが、それには沿道の景色を眺めるための小さい丸窓が二ついていた。それを下ろしながら彼はセリファンに向って、もっとはやくやれと呶鳴った。おしゃべりの途中で腰を折られたセリファンも、同じように成程これはぐずぐずしている場合でないと気がついて、さっそく馭者台の下から何やら灰色の羅紗の襤褸ぼろをひっぱりだして袖をとおし、しっかり手綱をつかむなり、彼のお説教を聞きながら好い気持に疲れてよたよたと脚を運んでいた三頭だての馬を、呶鳴りつけた。ところがセリファンは、いったい曲り角を二つ通り過ぎたのか三つ通り過ぎたのか、さっぱり憶えがなかった。頭をひねってやっと少しばかり途中のことを思い出して見ると、どうもうっかり通り過ぎてしまった曲り角が、ずいぶん沢山あったような気もする。露助という奴は、いざという時になると、お先きまっくらに何でもさっさとやっつけてしまうものだが、セリファンも次ぎの四つ角へ来ると、いきなり右へ曲って、『えい、野郎ども、しっかり頼むぜ!』こう叫ぶなり、その道を行けば一体どこへ出るのやら、そんなことはてんで考えもしないで、どんどん馬を駈けさせてしまったのである。

 だが、雨はなかなか止みそうにもない。道にたまっている土埃は見る見る泥濘に変って、馬どもには馬車を曳くのが刻一刻と難儀になって来る。チチコフには、こういつまでもソバケーヴィッチの村の見えないのが、そろそろ心配になりだした。彼の心づもりでは、もうとっくに着いている頃でなければならなかった。あたりを見まわしてみたが、もう真暗で、一寸先きも見えないくらいである。

「セリファン!」と、彼はとうとう馬車から半身を乗りだして声をかけた。

「何ですかね、旦那?」とセリファンが答えた。

「ちょっと見てみな、そのへんに村は見えないかい?」

「村なんて、旦那、からっきし見えましねえだよ!」そう言った後でセリファンは、鞭を振りながら、歌とも何とも見当のつかぬ、何処までいってもきりのないような、ひどく長ったらしいものを唄いだした。その中には、ロシアの津々浦々、到るところで、馬を励ましたり、急き立てたりする時に浴びせる、いろんな掛声だの、滅多矢鱈めったやたらな、あらゆるののしりり声だのが取り入れてあった。彼はそんな具合にして、しまいには馬を『秘書官』などと呼んだりした。

 そうこうするうちにチチコフは、馬車が前後左右に揺れて、自分のからだがあちこちにひどくぶつかるのに気がついた。どうもこれは馬車が道をずれて、すっかり耕やされた畠の中へ乗りこんだらしいと感づいた。どうやらセリファンも、それと気がついたらしいが、一向そんなことは口に出さなかった。

「こら、馬鹿野郎、貴様はいったい何処をほっつきまわってるんだ?」と、チチコフが言った。

「だちうて、旦那、どうもしょうがありましねえだよ、なにせこねえな時刻で、鞭の先も見えねえような真暗闇じゃあね!」彼がそう言った途端に、馬車がひどく傾いたので、チチコフは思わず両手で箱に取りすがった。この時はじめて彼は、セリファンが酔っぱらっていることに気がついた。

「えい、支えないか、支えないか、ひっくりかえってしまうじゃないか!」と彼はセリファンに向って呶鳴りつけた。

「なんの、旦那、ひっくりけえしたりなんぞしませんよ。」とセリファンが言った。「ひっくりけえすなんて、よくねえこんで、それあわっしもよく知ってまさあね。金輪際ひっくりけえしたりなぞしましねえだよ。」そう言ってから、彼は少しずつ馬車の方向むきを変えはじめたが、あちらこちらへ向け直しているうちに、とうとう馬車が横倒しにひっくりかえってしまった。チチコフはいきなり泥濘の中へ四つん這いになってつんのめった。セリファンはそれでも直ぐに馬をとめた。もっとも馬の方もへとへとになっていたのだから、とめなくても自然に立ちどまったことだろう。この思いもかけぬ出来事にセリファンはすっかり仰天してしまった。彼は馭者台から降りるなり両手を腰につがえたまま、ぼんやり馬車の前に突立っていた。その間じゅう主人は、泥濘の中をのたうちまわって、そこから這いだそうとして一生懸命になってもがいていたが、しばらく考えてから、『ちょっ、ほんとうにひっくりかえりゃあがったな!』と呟やいた。

「貴様は、靴直しみたいに酔っぱらってるんだな!」と、チチコフが言った。

「なんの、旦那、どうしてわっしが酔っぱらってなどいるもんですかい! 喰らい酔うなんて、よくねえこんだちうことは、ちゃんと心得てまさあね。ただ、友達とちょっとべえ世間話をしただけでね。なにせ立派な人間とだら話ぐれえしたってええこんだし──そうしたところで別に悪いことはねえだからね──それにちっとべえ一緒に肴をつまんだだけで。肴をつまむちうことは何も恥かしいこんでねえだ、立派な人間とだら一緒に一口やるのも別に悪いことってねえでがすからね。」

「この前、貴様が酔っぱらった時、おれが何と言った? あん? もう忘れたのか?」と、チチコフが言った。

「いんにぇ、旦那様、どうしてそれを忘れてよいものですか? わっしはちゃんともう、自分の務めはわきまえていますだ。酔っぱらうのはよくねえこんだちうことは百も承知でさあね。ただ立派な人間と、ちっとべえ世間話をしただけで、それも、つまりその……。」

「ようし、おれが貴様をうんとひっぱたいて、立派な人間と話をする仕方を思い知らせてくれるぞ!」

「どうなりと、それあ旦那のお心まかせでがすよ。」とセリファンは、すべてを観念して答えた。「ひっぱたくだら、ひっぱたいておくんなせえ、わっしにゃあ何も文句はありましねえだ。それだけの理由わけがあるだら、ひっぱたいて悪い筈あねえでがしょう? それあもう、旦那様のお心まかせのこんだからね。とかく百姓ちうものは増長し易いものだから、ピシピシひっぱたいてやんなくちゃあなんねえでがすよ。ちゃんと秩序しまりをつけておかにゃなんねえだからね。それだけの理由わけがあるだら、どうぞひっぱたいておくんなせえ、どうしてひっぱたかねえだね?」

 こういう屁理窟に何と答えたものやら、主人はまるで言葉を知らなかった。けれど丁度その時運命の神が彼に憐みを垂れる気になったらしく、遠くから犬の吠声なきごえが聞こえて来たのだ。喜んだチチコフは、すぐに馬を駆り立てよと言いつけた。ロシアの馭者という奴は、眼がきかなくても感がいい。それで時には眼をつぶったまま全速力で馬車を走らせても、必らず何処かへ辿り着くのである。で、セリファンはまるで盲ら滅法に、村の方角へ一目散いちもくさんに馬を駈けさせたものだから、とうとう馬車のながえが柵にぶつかって、それ以上はもう一歩も先へ進めなくなるまで、馬をとめることが出来なかった位だ。チチコフは、篠突しのつく雨の濃いとばりを透して、何か屋根に似たものをちらと認めることが出来た。そこで、セリファンをやって門を探させたが、もしこれが門番がわりに猛犬ががんばっていて、思わず指で耳に栓をしなければならないほどワンワンと人の来た時に吠えたてるロシアでなかったなら、彼は屹度いい加減手間どったに違いない。が、やがて一つの小窓から灯りがさして、ぼうっとけむったような光りが柵を照らして、我等の旅人に門の所在を示した。セリファンが門をたたきだすと、間もなく耳門くぐりがあいて、上っ張りでも頭から被ったらしい人の姿がにゅっと現われて、しわがれた女の声で『誰だね、門を敲いてるのは? 何を騒いでるだね?』と言うのを主従は耳にした。

「旅のものだよ、小母おばさん、一晩とめて貰いたいんでね。」と、チチコフが声をかけた。

「ちょっ、なんたら遠慮のないお人だね、」と老婆が言った。「えらい時刻ときにやって来たものだて! ここは宿屋じゃありましねえで、女地主の邸だがね。」

「だって、しょうがないじゃないか、小母さん? 道に迷ってしまったのだよ。こんな晩にまさか野宿も出来ないからさ。」

「そうさね、暗さは暗し、お天気は悪いし。」と、セリファンが傍から口を出した。

「黙っとれ、馬鹿野郎!」とチチコフが叱った。

「いったい、お前さんがたはどういうお方だね?」と、老婆が訊ねた。

「貴族だよ、小母さん。」

 この⦅貴族⦆という言葉に、老婆も少し考え直したらしい。『ちょっとお待ちなせえまし、奥様に申しあげて見るだから。』そう言ったかと思うと、二分ばかりして今度は角燈を手にさげて戻って来た。門が開かれた。そしてもう一つの窓にも灯りがついた。馬車は庭へ入って、あまり大きくない家の前で停ったが、どんな家だか暗いのでよく分らなかった。ただその一端が、窓から漏れる光りに照らし出されたのと、その家の前に、同じ光りがまともに射している水溜りのあるのが見えただけだ。雨はやかましく板屋根を敲きながら、さざめく小川のように傍らの天水桶へ流れ落ちている。そのかん、一方では犬どもがありとあらゆる声を振りしぼって吠え立てていた。一匹のやつは首を天へ向けて、何かそれに対して給金でも貰っているように一生懸命に、長く声を引き伸ばしながら吠えた。すると次ぎのが早速後をうけて、まるで寺男のようにうたい出す。その間にまじって、まだ仔犬らしい奴のせわしないソプラノが、これは郵便馬車の鈴のように甲高く響きわたる。最後にそのすべてを完成ととのえるように、どうやら老犬らしい奴のバスが、こいつは犬としてもよほど声量をたっぷり恵まれているらしく、音楽会が最高潮に達したおりの、歌手のコントラバスみたいに凄まじい声を立てたものだ。テノールの奴らが出来るだけ高い調子を出そうものと、足を爪だてて懸命に声を張りあげ、また他のどの犬もこの犬も、みんな首を仰向けて咽喉を振りしぼっているのに、こいつ一匹だけは鬚ぼうぼうの顎を頸飾くびかざりの中へすっこめて、しゃがんだまま、地面じべたにつきそうなくらい身を伏せて、そこからくだんの声を立てているのだが、その物凄い声には窓ガラスがビリビリと震える位だ。こういう音楽的な犬の吠声を聞いただけでも、この村が相当なものであることは予測にかたくなかったが、びしょ濡れになって、寒さに凍えている我等の主人公は、ただもう寝床のことより他は何も考えなかった。馬車がまだしっかり停り切るのも待たないで、入口の階段へ跳び降りた彼は、よろよろとして、もう少しでころぶところだった。ポーチへまた一人、前のよりは少し若いけれど、大変よく似た女があらわれた。その女が彼を部屋の中へ案内した。チチコフはチラと辺りを一瞥しただけであった。部屋には鳥か何かの絵がけてあり、古ぼけた縞の壁紙が張りめぐらされて、窓と窓の間には、木の葉でぐるりを捲いた形のくすんだ枠にはめた古風な小さい鏡が二つ三つかかっていて、どの鏡の後ろにも、手紙だの、古い一組の骨牌カルタ札だの、靴下だのといったものが押しこんである。それから文字盤に花を描いた懸時計かけどけい……それ以上は、もう欲にも得にも一々注意して見る元気がない。彼は誰かに蜂蜜でも眼になすりつけられたように、瞼と瞼がくっつきあうような気がした。暫らくすると女主人が入って来た。かなり老年の婦人で、急いで被ったらしい頭巾ずきんをつけて、頸にフランネルのきれを捲いていた。それはよく凶作のおりだの、何か損害を受けた時に、直ぐ泣きだしたり、いつも不景気らしく首を少し傾げている癖に、箪笥の抽匣ひきだしにあちこち分けてしまってある幾つもの縞の財布には、それぞれ少しずつ小金を貯めているといったささやかな女地主の婆さんの一人で。まずその財布の一つには一ルーブリ銀貨ばかりが貯められ、次ぎのには五十カペーカ銀貨ばかり、その次ぎのには二十五カペーカ銀貨ばかり貯めてあるのだが、他からちょっと見ただけでは、箪笥の中には、下着だの、寝巻だの、糸の玉だの、ほどいた婦人外套だのの他には何もしまってないように見える。その婦人外套もお祭りにいろんな煎餅菓子を焼くおり、どうかして不断着ふだんぎを焼き切ってしまうか、または自然にぼろぼろになってしまった暁には、いずれ着物に仕立てかえられるのである。けれど不断着が焼けこけもせず、自然にぼろぼろになりもしなければ、倹約家しまつやの婆さんのことだから、外套はほどいたままで何時いつまでもしまっておくことだろう、そして、しまいには、遺言によって、いろんな他のがらくたと一緒に、復従姉妹またいとこの姪あたりの手へ渡るのが落ちであろう。

 チチコフは、思いもよらぬ御迷惑をかけて申訳もうしわけないと陳謝した。『いいえ、構いませんよ!』と、女主人が言った。『それでもまあ、んだ晩においでになりましたもので! ひどい荒れと吹きりじゃございませんか……。こんな道中をなすった後では、さぞ何か召しあがりたいことでしょうが、何分この時刻では支度も出来ませんのでね。』

 この時、女主人の言葉を遮って、不意にシャーという奇態な音がしはじめたので、客はぎょっとした。それはまるで部屋じゅうを蛇がいまわっているような音であった。けれど眼をあげて見て彼はほっとした。というのは、懸時計が今まさに鳴り出そうとしているのだと気がついたからである。その音が間もなく咽喉を鳴らすような音に代ると、やがて、ありったけの力をこめて時計は二時を打った。まるで、破れた瓶を棒で敲くような音であった。後はまたチクタクと振子が落ちつき払って左右に振りつづけた。

 チチコフは女主人に礼を述べて、自分は何も欲しくはないから、どうか御心配くださるな、だが寝床さえ拝借できればいうことはないと言った。それからただ念のために、自分は一体どこへ迷いこんでしまったのか、又ここからソバケーヴィッチという地主のところへはよほど道程があるだろうかと訊ねた。それに対して老婆は、ついぞそんな名前は聞いたこともないし、そんな地主は全然ないと答えた。

「が、少なくともマニーロフは御存じでしょう?」とチチコフが言った。

「そのマニーロフさんて、どういう方で?」

「地主ですよ、奥さん。」

「さあ、一向きかない名前ですねえ、ここいらにそんな地主はありませんよ。」

「じゃあ、他にどんな地主がありますかね?」

「ボブロフだの、スウィニインだの、カナパチエフだの、ハルパキンだの、トレパキンだの、プレシャコフだのという人達ですよ。」

「それはみんな、よっぽどの大地主なんですか?」

「いいえ、あなた、大して大地主というほどの人はいませんよ。せいぜい農奴の二十人か三十人も持っているのが関の山で、百人と持っている者はありゃしませんよ。」

 チチコフは、飛んでもない僻地へきちへ迷いこんだものだと気がついた。

「では、その、市まではよほど遠いんでしょうかねえ?」

「さあ、六十露里ぐらいのものですかね。それにしても、なんにも差しあげるものがなくってほんとにお気の毒ですよ! せめて、あんたさん、お茶なと召しあがりませんかね?」

「有難うございます、奥さん。ただもう、寝床の他には、なんにも要りませんので。」

「ほんとにねえ、こんなお天気に道中をなすった後じゃ、よくおやすみになるのが何より肝腎ですからね。それじゃあ、あんたさん、この長椅子の上で横におなりなさいませ。これ、フェチニヤ、羽根蒲団と枕と敷布を持っておいで、ほんとに、何という悪い天気になったものでございましょうね、ひどい雷鳴かみなりさまで──わたしは一晩じゅう聖像みぞうにお燈明とうみょうをあげていたんですよ。あれまあお前さま、まるで野豚のように、背中から脇腹が泥だらけじゃありませんかね、何処でそんなにお汚しなすったので?」

「お蔭で着物を汚しただけで済みましたが、危なく肋骨あばらぼねを折ってしまうところでしたよ。」

「おやおや、それは飛んでもないことでしたねえ! では、何かで背中をお拭きにならなくってもようございますか?」

「いや、どうも。その御心配には及びませんよ。ですがお宅の女中さんに、この着物を乾かして泥を落しておいて頂きましょうかな。」

「分ったね、フェチニヤ!」と女主人は、さっき灯りを持ってポーチへ出てきた女の方を向いて言ったが、その女は早くもそこへ羽根蒲団を運びこんで、両脇をパタパタ敲きながら、部屋じゅうに濛々もうもう和毛にこげをたちあがらせていた。「お前、この方の外套とお召物めしものをあちらへ持って行ってね、ず初めに、亡くなった旦那様によくそうしてあげたように、火で乾かしてから、刷毛をかけて、はたいておくんだよ。」

かしこまりました、奥さま!」とフェチニヤは、羽根蒲団の上に敷布をかけ終ると、枕をそこにおきながら、言った。

「さあ、お前さま、寝床の用意が出来ましたよ。」と女主人が言った。「では御免蒙りますよ、ゆっくりおやすみなさいませ! それから何か他に御用はありませんか? ひょっとお前さま、寝しなに誰かに踵を揉ませる習慣くせがありなさるんじゃありませんかね? 亡くなった良人やどは、どうしないとどうしても寝つかれなかったものですよ。」

 しかし客は、踵を揉んで貰うことは断わった。女主人が出て行くや否や、彼は急いで着物を脱ぎすてて、上着から下着にいたるまで、そっくり衣裳をフェチニヤの手に渡した。するとフェチニヤも、ではお寝みなさいませと言って、びしょ濡れの衣裳をかかえながら出て行った。一人になった客は、さも満足げに、殆んど天井につかえそうなほどうずたかくりあがった寝床を見やった。この通りフェチニヤは、羽根蒲団を敲くことにかけての名人であった。彼が椅子を足台にして、その寝床へ這いあがると、今度はからだが床にとどきそうなほど凹んで、その重みで縫目からはみだした和毛が、部屋の四方八方へ飛び散った。灯りを消して、更紗さらさの懸蒲団を引っ被ると、蝦のように躯を曲げて、すぐさま寝入ってしまった。翌る朝、彼が眼を醒ましたのは、もうかなり遅かった。窓越しに太陽が彼の顔へ真面まともに照りつけ、昨夜ゆうべは壁や天井にとまって静かに寝ていた蠅が今や彼に向って総攻撃を開始していた。一匹は彼の唇にとまり、また一匹は耳にとまっていた。もう一匹のやつは、彼の眼にとまってやろうと隙を狙っていたが、ついうっかり鼻の孔の入口へとまったものだから、チチコフが夢うつつでそれを鼻の中へ吸いこんで、思わずひどいくさめをした──それが原因となって彼はようやく眼を醒ましたのであった。部屋を一渡ひとわたり見まわした彼は壁に懸っているのが鳥の絵ばかりではないことに気がついた。その中には、*1クトゥーゾフ将軍の肖像や、*2パーウェル・ペトローヴィッチ時代の服によくある袖口を赤く刺繍した制服をている一人の老人の油絵が懸っていた。時計が又シャーという音を立ててから十時を打った。丁度その時扉口からチラと女の顔が覗いたが、すぐに隠れてしまった。というのは、なるべく具合よく寝ようと思ってチチコフは、まるっきりぱだかになっていたからである。その覗いた顔が彼にはどうも見覚えがあるように思われた。いったい誰だったのだろうと、彼はとつおいつ考えた挙句、やっとこの家の女主人であることを想い出した。彼はシャツを著た。着物はもうちゃんと乾かして、きれいにして、寝床の傍に置いてあった。着物をきおわると鏡に近づいて、彼はもう一度そこでくさめをしたが、その音があまり大きかったので、丁度その時、窓の下へ寄って来た七面鳥がだしぬけに、その奇態な自分の言葉でもって、何か恐ろしく早口にチチコフに囁やいた──もっともその窓は地面とすれすれなくらい低かったのだが──どうやらそれは『やあ、御機嫌さん』と挨拶をしたものらしい。それに対してチチコフは馬鹿野郎と呶鳴った。窓際へ近よって、彼は目前の景色を眺めはじめた。窓から見おろしたところは、さながら鶏舎とりごやかんがあった。少なくとも、その窓の下の狭い庭はあらゆる家禽かきんや家畜で一杯になっていた。七面鳥や牝鶏が数えきれないほどいた。その間を一羽の牡鶏が、鶏冠とさかを振り振り、まるで聴耳でも立てるように時々首を横へ向けながら規則ただしい足どりで歩きまわっていた。そこには家族づれの牝豚も一匹いたが、その牝豚は塵芥ごみの山をほじくり返しながら、ついでに雛っこを一羽食ってしまった。そしてやっこさん、そんなことには一向頓着なく、あとはガツガツと西瓜の皮を食いつづけていた。この鶏舎といってもいいくらいの小さな庭は板塀で区切ってあって、板塀の向うには、甘藍キャベツや、葱や、馬鈴薯や、甜菜てんさいや、その他いろんな自家用の野菜のつくってある広々とした菜園がつづいていた。その菜園には処々に林檎その他の果樹が植えてあって、それにはかささぎや雀を防ぐための網がかぶせてあるが、殊に雀は、雲でも垂れさがって来るような大群をなして、あちらこちらへ渡り移っていた。雀の群をおどすために、長い竿のさきに両手をひろげた案山子が、何本もたてられていた。その中の一つには、この家の女主人の古い頭巾がかぶせてあった。菜園の向うにはずっと、てんでんばらばらに百姓家が建ちならんでおり、きちんとした家並にはなっていなかったけれど、チチコフの観察したところでは、それらは村民の暮らし向きの悪くないことを示していた。というのは、いずれもちゃんちゃんと手入れが行きとどいていたからで、古くなった屋根板は克明に新らしいのと取り換えてあり、門の傾いているような家は何処にも見当らなかった。そればかりか、屋根のある百姓の物置小屋には、まだ殆んど真新らしい、取って置きの荷馬車が一台、ところによっては二台も備えてあるのが眼についた。『この婆さんの村もまんざら馬鹿にしたもんじゃないぞ。』こう呟やくと、彼は早速この家の女主人といろいろ話しあって、もっと近しくなろうと肚をきめた。彼は今しがた女主人が顔を出した扉の隙間からちょっと覗いてみて、彼女がお茶のテーブルに坐っているのを見とどけると、ニコニコと如何にも愛想のいい顔つきで、そこへ入って行った。

「おや、お早うございます。よくお寝みになれましたかね?」女主人は椅子から腰を浮かしながら言った。彼女は昨夜ゆうべよりもいい服装なりをして、黒っぽい着物をきていたが、頭巾はもう被っていなかった。けれど、頸にはやはり何か巻きつけていた。

「ええ、よくやすませて貰いましたよ。」チチコフはそう言いながら、安楽椅子に腰をおろして、「貴方は如何でしたか、奥さん?」

「どうも、妾はよく眠られませんのでね。」

「どうしてですか?」

「不眠症なんですよ。しじゅう腰が痛みましてね、それに脚が、この膝節くるぶしの上んところが疼々ずきずきするのですよ。」

「なあに、そりゃじきに癒りますよ、奥さん。何も御心配になることはありませんよ。」

「どうか癒ってくれればいいと思いますわい。それで妾は豚の脂をつけたり、テレピン油をぬったりしてみたのですがね。それはそうと、お茶は何を入れて召しあがりますかね? この罎には果実酒が入っておりますが。」

「悪くありませんな、奥さん。その果実酒とかを頂きましょう。」

 読者は、チチコフが如何にも愛想よくはしていたけれど、マニーロフを相手にした時よりはずっと自由に話して、少しも固くなっていないことに、とっくに気づかれたことと思う。ここで一言しておかねばならないのは、我々ロシア人がまだ外国人に及ばない点が多少あるにしても、応待の上手な点では、遥かに彼等を追い抜いていることである。ロシア人のさまざまな応接の機微と軽妙さは、ちょっと数えあげることが出来ない位だ。フランス人やドイツ人にはとてもその特異性や使いわけをのみこむことも理解することも出来はしない。彼等は同じ声と同じ言葉で、百万長者にでも、けちな煙草商人にでも話しかける──勿論、前者に対しては、それ相応に内心でペコペコしているには違いないのだが。ところがロシア人になると大違いだ。ロシア人の中には、相手が農奴を二百人もっている地主と、三百人もっている地主とでは、話し方をすっかり変え、三百人もっている地主と、五百人もっている地主とでは、又まるで違った話し方をし、五百人もっている地主と、八百人もっている地主とでは、これまた別な話し方をするといった名人がいる。つまり、こうして百万までのぼって行く間にも、それぞれ微細な差異をつけて話すことが出来るのである。例えばここに事務局があるとする──いやここではない、何処か世界の涯の国にだ。その事務局に、局長があるとする。その局長が下僚に向ってどっしり構えているところをちょっと見給みたまえ──それこそ怖ろしくなって、言葉も出ない位だ。威厳といい、上品ぶったところといい……やっこさんの顔に何ひとつ不足しているものがあるだろうか? 絵筆をとって肖像を描いたら、*3プロメシュースだ。手もなくプロメシュースそっくりだ! 鷲のように辺りを睥睨へいげいしながら、軽快な足どりで悠然と歩きまわってござる。ところが、この他ならぬ鷲が一歩その部屋を出て、自分の上役の部屋へ近づくと、たちまち鷓鴣しゃこのようになってしまい、書類を小脇にかかえたまま、鞠躬如きっきゅうじょとして伺候しこうするのだ。社交界へ出たり、夜会へ出席しても、もし下役の者ばかりなら、プロメシュースは依然としてプロメシュースでいるが、ちょっとでも自分より上役の者が居合わせたが最後、このプロメシュース先生、たちまち、*4オヴィディアスでも思いつくことの出来ないような、ひどい変り方をする──蠅だ、いや蠅よりも更に小さい、砂粒ぐらいにちぢこまってしまうのだ! 『いや、あれはイワン・ペトローヴィッチじゃない。』こう、諸君は彼を見ながら言うだろう。『イワン・ペトローヴィッチはもっと背が高いのに、この男は小柄こがらで痩せっぽだ。あの人なら太いバスの大きな声で話して、決して笑ったりなぞしないが、一体この男は何だろう、まるで小鳥のように小さな声で喋りながら、しょっちゅう笑ってばかりいるじゃないか』と。ところが傍へ寄ってよくよく見れば、確かにイワン・ペトローヴィッチなのだ!『へへえ!』と諸君は内心で魂消たまげるだろう……。だが、しかし我々は、もうそろそろ本篇の登場人物の方へ戻るとしよう。で、チチコフは前述の如く、全然遠慮をしないことに決めたので、お茶の入った茶碗を手に取ると、早速それに果実酒を注ぎこんで、こんな風に話を持ち出したのである。

阿母おばさん、あなたは大変いい村をお持ちですねえ。農奴はどの位おありなんですか?」

「農奴は、かれこれ八十人ぐらいのものですがね、」と、女主人が言った。「因果と、この頃は災難つづきでしてね、去年なんぞの不作ときたら、おっ魂消たまげるくらいでしたよ。」

「それでも、見たところ百姓たちは元気そうで、家並もしっかりしているじゃありませんか。失礼ですが、ときに御苗字はなんと仰っしゃいますか? 昨夜は放心ぼんやりしてしまっていて……何しろ、あんな真夜中にやって来たものですから……。」

「十等官の寡婦ごけで、コローボチカといいますんで。」

「どうも有難うございました。で、御名前と御父称は?」

「ナスターシャ・ペトローヴナと申しますよ。」

「ナスターシャ・ペトローヴナ? いいお名前ですね──ナスターシャ・ペトローヴナ。私の親身の叔母で、母の妹なんですが、やはりナスターシャ・ペトローヴナというんですよ。」

「それで、あなたのお名前は何と仰っしゃいますかね?」と、女地主が訊いた。「あんたさん、ひょっとお役人じゃございませんかね?」

「いいえ、阿母さん。」と、チチコフは薄笑いを浮かべて、答えた。「決して役人なんかじゃありませんよ。ただ商用で旅をしているだけです。」

「それじゃ、あんたは仲買商人でしょう! それあ惜しいことをしましたね、妾はただの商人あきんどに蜂蜜をほんとに安く売ってしまったのです。あんたに買って頂いたらよかったのに。」

「いや、蜂蜜は買いませんよ。」

「じゃあ、何か他の品で? 麻ですかね? ところが、生憎と今、麻もほんの少ししかなくて、せいぜい半*5プードもありますかね。」

「いや、阿母さん、私が買うのは、もっと他の品ですよ。どうです、あなたの村では、農奴は死んでいませんかね?」

「死にましたとも、あんたさん、十八人も死にましたよ!」と老婆は、溜息をついて、答えた。「それも、死んだのは、みんな申し分のない、働き盛りの者ばかりですよ。もっともそれから、生まれるには生まれましたがね、そんなものが何になるもんですか? みんな小魚ざこばかりでね。それだのに役人がやって来ては、人頭税を払えって言いますだよ。農奴は死んでしまっているのに税金だけは生きているとおりに取りたてるのですよ。つい先週も、鍛冶屋が一人、焼けておっにましたがね、なかなか立派な腕前の鍛冶屋で、錠前屋の仕事まで心得ておる男でしたがね。」

「じゃあ、この村に火事があったのですか、阿母さん?」

「いいえ、お蔭とまだそんな災難は見ずにいますがね。火事なんぞだったら、尚更、堪ったものじゃありませんが、実は、お前さま、その鍛冶屋はひとりでに焼けておっんだのですよ。あんまり度外ずれな酒飲みだったもんで、お腹のなかに火がついたとでもいうのでしょうよ、口から青い焔が噴き出しましてね、そのまま、だんだんからだただれて、しまいには炭のように真っ黒になってしまいましただよ。ほんとに腕の達者な鍛冶屋でしたが! お蔭で今じゃもう、妾は馬車で出かける訳にもゆかないのですよ、馬の蹄鉄かなぐつを打つ者がありませんのでね。」

「何事も神様のお思召ぼしめしですよ、阿母さん!」とチチコフは、溜息を一つついてから言った。「神様の御心に逆らうようなことを言ってはなりませんよ……。じゃあ、それを一つ私に譲って下さいな、ナスターシャ・ペトローヴナ!」

「それって、あんたさん、一体なにをですかね?」

「つまりその、死んだ農奴を残らずですよ。」

「一体どうしますだね、そんなものを譲るって?」

「どうもこうもありませんよ。なんなら、売って頂いてもいいんです。ちゃんと代金だいは払いますよ。」

「どうもね? とんとお話の意味わけが分りませんよ。まさか、土の中からそんなものを掘り出そうと仰っしゃるのじゃないでしょうねえ?」

 チチコフは、老婆がとんでもない勘違いをしていることに気がついたので、事の次第をよく会得させる必要があると考えた。そこで手短かに、この譲渡もしくは売買は、単に証書面だけのことで、しかも農奴を生きているものとして記載するだけだと説明した。

「そうしてお前さま、そんなものを何になさるだね?」と、老婆は彼の顔をまじまじと見詰めながら訊ねた。

「それは私の勝手ですよ。」

「でも、それはみんな死んでるのですよ。」

「生きていると誰が言いましたね? 死んでいればこそ、あなたには損なんでしょう──そんなもののために、みすみす税金を払ったりなんかしてさ。で、私がそれを買い取って、面倒やついえを無くして差しあげようと言ってるんですよ。分りましたかね? そんな厄介ばらいをして差しあげるばかりか、まだおまけに、こちらから十五ルーブリさしあげようというんです。どうです納得が行ったでしょう?」

「どうも、とんと妾にゃ分らない、」と、女主人が休み休み言った。「ついぞこれまで、死んだ農奴なんて売ったことがありませんもの。」

「当り前です! そんなものを誰ぞにお売りになったら、それこそ奇怪な話ですよ。それとも、実際、そんなものが何か役に立つとでも思っておいでですかね?」

「なんのなんの、そうは思いませんよ? そんなものが何の役に立つもんですか? 役に立つことは少しもありませんよ。ただ、どうも腑に落ちないのは、それが死んでしまっていることですよ。」

⦅うん、どうして、なかなかの頑固女だわい!⦆と、チチコフは肚の中で考えた。「いいですかね、阿母さん! まあよく考えて御覧なさいよ。あなたはみすみす損をしながら、そんなもののために税金を払ってなさるんでしょう、生きているものとして……。」

「ああ、阿父おとっつぁん、もうそれは言わないで下さい!」と、女地主はすぐ話につりこまれて、「つい二週間まえに百五十ルーブリの余も払わされて、おまけに役人に心附までしたのですよ。」

「それ御覧なさい、阿母さん! だから、せめてそんな役人への賄賂だけでも、しないで済む工夫をしたらどうです、今夜、その分は私が払うことになるのですからね。──あなたじゃない、私が払うのですよ。納税の義務は残らず私が引き受けるのです。そのうえ、登記も自腹を切って済まそうというのですよ。分りましたかね?」

 老婆は考えこんでしまった。なるほど、この取引は確かに有利らしいが、ただどうもあんまり突飛で先例のない話なので、何かこの仲買人に騙されているのではないかと、そろそろ心配になりだした。それに第一、この男は、どこの馬の骨とも分らず、しかもあんな真夜中にやって来たりしたのだから。

「それじゃあ、阿母さん、一つ手を拍つことにしてはどうだね?」とチチコフが言った。

「だかねえ、お前さま、妾ゃついぞこれまで死人を売ったことなんてありませんからさ。それあ、生きてるのなら、二年前にもプロトポポフに売ってやりましたがね──一人百ルーブリずつで女中を二人ね、そして大変喜ばれたものですよ、なにせ、とても申し分のない働きもんになって、ナプキンのきれまで自分で織るって言いますだよ。」

「いや、そんな生きた者のことじゃありませんよ、そんなものは、どうでもいいんで! 私の訊いているのは、死んだ奴のことですよ。」

「実のところ、初めてのことだから、なんか損になるのじゃないかと、どうもそれが心配になりましてね。ひょっとしたら、お前さまは妾を騙していなさるので、それがその……もっと値のいいもんじゃないかと思いましてね。」

「まあ、よくお聴きなさい、阿母さん……ええ、何という人だろう! どうしてそんなものに値があるんです? 積っても御覧なさい。屍灰はいじゃありませんか。ね、いいですか? それは屍灰はいにすぎないんですよ。どんな役に立たない、の代物、例えば、そこいらに落ちている襤褸ぼろっきれみたいな物でも、値段がありますよ──襤褸だって紙工場へ売れますからね。ところが死んだ農奴ばかりは、からっきし何の役にも立ちませんからね。それとも、何か役に立つとでも仰っしゃるんですか?」

「それあもう、ほんとにそうですよ。まったく、何の役にもたちゃしませんがね。ただ、どうも一つだけ肚へ入らないのは、死人を一体どうするのかということですよ。」

⦅えい、くそ、なんて物分りの悪い婆あだろう!⦆とチチコフは、そろそろ堪忍袋のを切らせながら、肚の中で呟やいた。⦅どうして、ちょっとやそっとで説き伏せられたもんじゃない! すっかり汗をかかしゃあがって、この糞婆め!⦆彼は、ポケットからハンカチを取り出して、ほんとに額ににじみ出た汗を拭きはじめた。だが、チチコフが腹を立てるのは間違っていた。もっと偉い人物や、お上の役人の間にすら、どうかするとこのコローボチカと一体いっていなのがあるものだ。そういう連中は、噛んでふくめるように言い聞かせても、とんと納得させることが出来ず、どんなに明々白々な論拠をって臨んでも、まるで暖簾のれんと腕押しをすると同じで、さっぱり手ごたえがないのだ。で、チチコフは汗を拭くと、今度は何か別の方面から相手を口説きおとすことが出来ないものか、一つ試してみようと決心した。『ねえ、阿母さん、』と彼は言葉を改めて、「それでは私の言うことを故意わざと理解しようとなさらないのか、それとも何か口から出まかせに、かれこれ言いなさるんだね……。私はあなたに金子かねを差しあげるのですよ、紙幣で十五ルーブリという金子かねを──分りますかね? 金子かねですよ。往来で見つかる代物じゃありませんよ。じゃあ一つお訊ねしますが、蜂蜜は幾らでお売りになりましたね?」

「プードあたり十二ルーブリでね。」

「嘘をおしゃい、阿母さん。十二ルーブリになんて売れるものですか。」

「ほんとですよ、十二ルーブリで売りましたよ。」

「まあ、それならそれとして、よござんすかね? それは蜂蜜です。それだけ貯めるには、恐らく一年の間、あれやこれやと心配や苦労をして面倒を見たんでしょう──あちこち持ちまわったり、蜂を餓死させたり、長の冬じゅう土室つちむろへかこってやったりしてさ。ところが、死んだ農奴は所詮この世のものじゃありませんからね。別に何の手数がかかった訳でもなし、そいつらがこの世を去って、あなたの家計に損失を招いたのも神様の思召です。さて蜂蜜では、さんざん苦労をしたり骨を折ったりして、やっと十二ルーブリお取りになりましたが、今度は何の苦労もなしに、素手すででもって、あなたは十二ルーブリどころか、十五ルーブリ、それも銀貨ではなく、手の切れるような青紙幣あおざつで受け取れるのですよ。」これほど有力な説得に会っては流石の老婆も今度は降参するに違いないと、チチコフは殆んどそれを疑わなかった。

「成程ね、」と、女地主が答えた。「なにせ妾は、世間知らずの寡婦ごけのことだからね! いっそ、もう少し待ってみますわい、ひょっとしたら、もっと他の商人あきんどがやって来るかもしれませんからもう一度値をあたってみることにして。」

「馬、馬鹿な、阿母さん! そんなことをいうのは恥ですよ! まあ、何を仰っしゃるのか、よく考えて御覧なさい! いったい誰がそんなものを買いますかね? 第一、そんなものが何の役に立ちますかね?」

「でも、どんなことで、家事むきに入用いりようなことがあるかもしれませんからね……」と老婆は答えたが、言葉の途中で、口をぽかんとあけたまま、相手が何と答えるかと、殆んどびくびくしながら、客の顔を見まもった。

「なに、死人を家事むきに使うって! こりゃ驚いた! じゃあ、夜分、雀おどしに菜園はたけにでも立てておこうってんですかね?」

「ああ、桑原々々くわばらくわばら! 何という怖ろしいことを言いなさるだね!」と、老婆は十字を切った。

「それじゃあ、一体、とっておいて何に使おうってんだね? それに、こつだの墓だのは、もとのまま、こちらに残るんですよ。取引は証書面だけのことですからねえ。さあどうです? どうするんです? 何とか返事だけでもして下さいよ。」

 老婆はまた考えこんでしまった。

「何を考えてるんですか、ナスターシャ・ペトローヴナ?」

「ほんとに、どうしていいやら分らないんでね。いっそのこと、麻を買って貰いましょうかね。」

「麻が一体どうしたっていうんです? 飛んでもない、私は全然別のものをお願いしてるのに麻などを押しつけなさるんですか! 麻は麻で、またこの次ぎ来ますからね、その時に頂きましょう。どうしますかね、ナスターシャ・ペトローヴナ?」

「それがねえ、どうも、まるで聞いたこともないような、おかしな商いだもんでね!」

 ここでチチコフは、すっかり堪忍袋の緒をきらしてしまい、腹立ちまぎれに椅子を床に叩きつけざま、悪魔を引合いに出して老婆を罵った。

 その言葉に、女地主はすっかり慄え上ってしまった。「ああ、どうぞそんな怖ろしいことを仰っしゃらないで、鶴亀々々つるかめつるかめ!」と、彼女は真蒼になって喚いた。「つい一昨日おとといの晩も悪魔の夢を見ましたが、寝しなにお祈りをした後で、ふと思いついて骨牌カルタで運だめしなどしたので、たしかにその罰で、神様があんな悪魔をおつかわしになっただね。それあ、見るのも穢らわしい姿で、牡牛の角より長い角の生えた奴でしたよ。」

「ええ、お前さんなんぞ、そんな悪魔の十匹も夢に見なかったのが不思議なくらいさ。私はね、ただキリスト教徒としての博愛心から、あんたのためを思って言い出したまでのことさ。可哀想な寡婦ごけさんが胸も潰れる思いをしながら、貧苦にあえいでいる有様を見かねてさ……。えい、もう構うこっちゃない、とっととくたばってしまうがいい、お前さんの持村むらも一緒に滅びてしまうがいいんだ……」

「まあ! お前さまは、」と老婆は、怖る怖る相手の顔を見つめながら言った。「なんて酷い言葉づかいをなさるだね!」

「いや、お前さんにはもう何にもいう言葉がない! まあ、せいぜいよく言って、お前さんはちょうど乾草ほしくさの上に寝ていながら、自分でそれを食うでもなければ他人に食わせもしない番犬みたいなものだからね。まだお前さんから、いろんな農産物を買うつもりだったけれど、仕方がない、私は政府おかみ御用達ごようたしも務めていますからね……。」ここで彼は、別に何の目的あてもなしに、ほんのちょっと嘘を吐いたのだが、それが思わぬ効果を表わした。御用達という言葉が、強くナスターシャ・ペトローヴナの心を動かした。少なくとも彼女は、殆んどもう哀願するような声で言いだした。「どうして、そんなにぷりぷり腹を立てなさるだね? お前さまがそんな短気な方だと初めから分っていたなら、決してかれこれ言うのじゃなかったんですよ。」

「何も怒ることなんざありませんよ! 中身のない玉子にも劣る、つまらないことで、腹を立てる私じゃありませんからね!」

「じゃあ、そういうことにして、お紙幣さつで十五ルーブリいただいて手離すことにしますよ! ただね、あんたさん、その御用達の話ですがね、裸麦はだかむぎの粉だの、蕎麦粉そばこだの、挽割麦ひきわりむぎだの、または屠殺ころした家畜だのをお買い上げになる時は、どうぞ妾に恥をかかせないで下さいよ。」

「いいとも阿母さん、恥をかかせやしませんよ。」彼はそう言いながらも、三筋みすじになって顔を流れる汗を手で拭きはらった。それから老婆に向って、まちに誰か代人なり、または知合いで、登記の手続てつづきやその他必要なことを全部委任することの出来る人はないかと聞きただした。『ありますとも! 祭司長のキリール神父とは懇意で、その息子さんが裁判所に勤めておりますだよ。』と、コローボチカが言った。そこでチチコフはその人に宛てて委任状を書いてくれと頼んで、余計な手数をはぶくために、自分で文案を考えたりしたほどであった。

⦅この人がもし、うちの麦粉や家畜をずっと政府おかみの御用に買いあげてくれることになれば、ほんとに有難いよ。⦆と、コローボチカはその間に、ひとりで考えた。⦅この人を巧くまるめこんでおかなくちゃなるまいて。そうそう、昨夜ゆうべ捏粉ねりこがまだ残っていた筈だから、フェチニヤに言いつけて、あれで薄焼ブリンを焼かせよう。それから、あっさり卵だけ入れたパイを焼くのも悪くないて。うちでは、あれをとても上手に焼くし、それに大して手間も暇もかからないから。⦆そこで女主人は、パイを焼こうという考えをさっそく実行に移すために部屋を出ていったが、どうやらそれに、うちの台所で出来た他の品をあしらうつもりらしかった。一方チチコフは、自分の手箱から必要な書類を取り出すため、ゆうべ一夜を過ごした客間へ引っ返した。客間はうの昔に、すっかり片づけられ、例の豪勢な羽根蒲団も姿を消して、長椅子の前には卓布クロスを掛けたテーブルが据えてあった。その上へ手箱を持ちあげたまま、彼は暫らく息を休めた。というのは、まるで川へでもはまったように、からだじゅう汗だくになったような気持で、身につけているものは、シャツから靴下に至るまで、残らずびしょ濡れになっていたからだ。⦅ちぇっ、あの糞婆め、手を焼かせやあがって!⦆と、彼は少し休んでから呟やいた。そして手箱をあけた。ところで、読者の中には定めし、手箱の構造から内部の仕組しくみまで知りたいと思うほど、実に物好きな御仁ごじんがおられることと思う。よろしい、その望みを叶えて進ぜて悪かろう筈はない。さてそこで内部の仕組だが、先ずいちばん真中に石鹸箱があって、その向うに剃刀を入れる狭い仕切りが六つ七つある。それから、砂函とインキ壺を入れる正方形の枡穴があって、その二つの枡穴の中間には、ペンや封蝋などといった細長い物を入れる長方形の溝がりぬいてある。それからまた、小物をいれる、蓋のあるのや蓋のない、いろんな仕切りがあって、訪問用や葬式用の名刺や芝居の切符などが、ちゃんと心憶えにしまってある。このいろんな仕切りのついた上置うわおきをそっくり取りのけると、その下には半切の用紙がぎっしり詰まっており、手箱の横腹には金子かねを入れておく、小さな秘密の抽匣ひきだしがついている。それはいつも、引き出すと同時に大急ぎで押しこまれてしまうため、一体どのくらい金子かねしまってあるのやら、確かなことは分らなかった。チチコフは、すぐさま仕事に取りかかり、先ず鵞ペンを削って、書きはじめた。丁度そこへ女主人が入って来た。

「あんたさん、いい手箱をお持ちですねえ。」と彼女は、傍へ腰かけながら言った。「おおかたモスクワでお買いになったのでしょう?」

「ええ、モスクワでね。」と、チチコフは書きものを続けながら答えた。

「それあ、ちゃんと知っていましたよ。何でもあちらの物は出来がよろしいからね。一昨年おととしも妾の妹があちらから子供の防寒靴を持って来ましたがね、品が丈夫なもんで、いまだに履いていますだよ。おやまあ、お前さま、どれだけ証券用紙を持っておいでなさるだね!」と彼女は手箱の中を覗きこみながら、言葉をつづけた。実際そこには証券用紙がたくさん入っていた。「それ、一枚でもいいから、頂かれませんかね! うちには、そういうのがありませんのでね、お上へ請願書を出すような時、ほんとに困るのですよ。」

 チチコフは彼女に、この用紙はそういう種類のものではなく、登記の手続に用いるものだから請願書には使えないと説明した。けれど彼女を宥めるために、一ルーブリもする用紙を一枚やった。彼は委任状を書きあげると、老婆に署名をさせて、農奴の名簿の抄本うつしを貰いたいと言った。ところが、この女地主の手許てもとには、そんな名簿の書附かきつけなどは何ひとつなく、彼女は殆んど全部そらで憶えていた。そこでさっそく彼は、老婆に一々その名前をあげさせることにした。その中の百姓の名前や、殊にその綽名あだなに、ちょっと面喰らうようなのがあったので、彼はそれを聞くたんびに、ひと先ず筆をひかえてから、やっと書きにかかるのであった。中でも、⦅おけかまわずのピョートル・サヴェーリエフ⦆というのを聞いて殊に驚いた。彼は思わず、『こいつは長ったらしいなあ!』と呟やいた。もう一つのは、名前に⦅牝牛の煉瓦⦆という附録つけたりを頂戴しており、また簡単に⦅車のイワン⦆と呼ばれているものもあった。ようやく書きあげると、彼は少し鼻をふくらませて空気いきを吸ったが、ふと何かバタで焼いたものらしい、美味うまそうな匂いがプーンとした。

「どうぞ一つおつまみなすって。」と女主人が言った。チチコフが振りかえって見ると、いつの間にか、きのこだの、肉饅頭だの、早焼麺麭パンだの、パイだの、薄焼ブリンだの、いろんな物を入れた厚焼レピョーシカ、例えば葱を入れたり、芥子を入れたり、凝乳を入れたり、石斑魚うぐいを入れたり、その他あらゆる混ぜものをした厚焼レピョーシカが、テーブルの上にうずたかく盛りあげてあった。

「これは玉子入りのあっさりしたピローグでござんすよ!」と女主人が言った。

 で、チチコフはそのあっさりした玉子入りのピローグに手をつけて、いきなり半分のも食ってから、それを褒めそやした。実際ピローグそのものも美味うまかったが、殊に老婆を相手に、すったもんだの一芝居うった挙句なので、一入ひとしお美味しく思われたのである。

薄焼ブリンは如何で?」と女主人がすすめた。

 それに答える代りに、チチコフは薄焼ブリンを三枚いっしょに丸めて、それに溶かしたバタをべっとりまぶして口の中へ押しこむなり、ナプキンで唇と手を拭った。それを三度ほど繰りかえしてから女主人に向って、自分の馬車を用意させてくれと頼んだ。ナスターシャ・ペトローヴナは、早速フェチニヤをやって命令を伝えさせたが、それと同時に、もっと薄焼ブリンの熱いのを持ってくるように言いつけた。

「阿母さん、お宅の薄焼ブリンは、大変おいしいですね。」とチチコフは、新らしく持ち出された焼きたてのに手をつけながら、言った。

「ええ、うちじゃ、これを焼くのが自慢でしてね。」と女主人が言った。「ただ残念なことに麦が不作で、粉の出来がかんばしくのうて……。それはそうと、お前さま、どうしてそんなにお急ぎになるんで?」と彼女は、チチコフが縁無帽カルツーズを手に取ったのを見て、言った。「まだ馬車の支度も出来てやしませんよ。」

「なあに、阿母さん、支度はすぐ出来ますよ。私の馭者は、馬をつけるのが早いからね。」

「そいじゃあ、どうか、御用達の節にはお忘れにならないで下さいよ。」

「忘れませんとも、忘れませんとも。」とチチコフは、玄関へ出ながら言った。

「それから豚脂ラードは買って頂けませんかね?」と女主人は、その後を追いながら言った。

「どうして買わないことがあるもんですか? 買いますとも、ただ、今じゃなく後でね。」

*6十二日節の時分には豚脂ラードも出来ますからね。」

「ええ、買いますとも、買いますとも。何でも買いますよ、その豚脂ラードもね。」

「おおかた、鳥の羽毛はねなんかも要ることがあるのでしょう。*7大齎期フィリポフキの時分になると、うちにも鳥の羽毛はねがたまりますよ。」

「ようござんすとも、ようござんすとも。」とチチコフが言った。

「それ御覧なさい、お前さま、まだ馬車の支度は出来てやしませんに。」こう女主人は二人がポーチへ出た時に言った。

「いや、もう直ぐ出来ますよ。ところで、本街道へ出るにはどう行ったらいいか、ひとつ教えて下さらんか。」

「さあ、どう教えてしんぜたものかね?」と、女主人が言った。「口で話すのは、ちょっと難かしいんですよ、矢鱈に曲り角があるもんですからね。いっそ、あまっ子を道案内につけてあげましょう。お前さまの馬車には、馭者台にその子を乗っける場所ぐらいおありでしょうがね?」

「それあ、無論ありますよ。」

「じゃあ、あまっ子を一人つけてあげましょう。その子は、道をよく知っていますからね。ただ、いいかね、お前さま、その子を連れて行ってしまわないで下さいよ。前にも一人、商人あきんどにつれて行かれてしまいましたからね。」

 チチコフが、決してそんなことはしないと保証すると、コローボチカはやっと安心して、屋敷うちにあるいろんなものを見まわしはじめた。ちょうど倉の中から、蜂蜜を木の鉢に入れて持ち出した女中頭をじろりと眺めたり、門口へ顔を出した百姓に一瞥をくれたりして、だんだん、家事上のことに心を移していった。だが、どうしてこういつまでもコローボチカのことなどに関わっていることがあろう? コローボチカだろうが、マニーロフだろうが、乃至は農事上のことであろうが、農事以外のことであろうが──そんなことはあっさり片づけておけばいいのだ! この世で不思議と思われるのはこんなものではない。どんな面白そうなものでも、少しゆっくりその前にたたずんでいると、たちまち悲惨なものに変ってしまい、果ては何とも言いようのない思いが胸に浮かんで来るのだ。恐らく諸君はこんなことまで考え出すかも知れない。⦅待てよ、果してこのコローボチカという婆さんは、人文開化の涯しない段階の、それほど低いところに立っているのだろうか? 又この婆さんと、あの厳めしい壁に取りかこまれて、鋳鉄ちゅうてつの階段や、ピカピカ光る真鍮や、マホガニイや、絨毯で飾られた豪奢ごうしゃな邸宅の中で、読みかけの本に向って欠伸をしながら、誰か気のきいた訪問客でもやって来ないかと待ち侘びているような女性との間に、果してそれほどの大きな懸隔けんかくがあるだろうか? えてそういう女性は、自分の智慧をひけらかしたり、うけ売りの思想を吹聴したりする場所ところばかり狙っているのだが──その思想も流行の法則どおり、ほんの一週間ぐらい市を風靡するに過ぎない思想で、それも、邸の中や、御本人が農事にかけて無智なため恐ろしく乱脈を極めている領地が一体どうなっているかというような問題とは、およそ縁の遠い、やれフランスでは今どんな政治的変動が起きかかっているの、最近のカトリック教はどんな傾向をとっているのといったようなことばかりなのだ。だが、そんなことは、どうでもいいじゃないか! 何だってこんな話を持ち出さねばならないのだろう? しかし何の気がかりもない、陽気でのんびりした気持の真只中へ、どうしてこんな、それとはまるで別な、変てこな気分が不意に浮かんで来るのだろう? まだ、すっかりこちらの顔から笑いの影が消え去らぬうちに、はやくも、同じ人々の間におりながら、まるで自分が別人のようになってしまい、顔にはもう別な影がさしているのだ……。⦆

「そら、馬車が来ましたよ、そら、馬車が!」とチチコフは、ようやく自分の半蓋馬車ブリーチカがこちらへやって来るのを見ながら、叫んだ。「馬鹿野郎、何をそんなにぐずぐずしていたんだ? 貴様はまだ昨日の酔いがすっかり醒めきらないんだな?」

 セリファンは、それには何の返事もしなかった。

「じゃあ、阿母さん、さようなら! ところで、その女の子ってのは何処にいるんです?」

「これ、ペラゲヤや!」と女地主は、ポーチの近くに立っていた十一ぐらいの女の子に向って声をかけた。その女の子は手染てぞめの着物をきて、裸足のままだったが、新らしい泥をべっとりつけた足は、遠くから見ると長靴ばきのように見えた。「この旦那に道を教えてあげるんだよ。」

 セリファンはその女の子に手を貸して、馭者台へ引っぱりあげてやったが、彼女は旦那の乗る踏段へ片足をかけて、先ずそこを泥だらけにしておいて、ようやく上へ這いあがると、セリファンの傍にをしめた。次いでチチコフが踏段に足をかけると、重みで馬車はちょっと右側へ傾いたが、やがて席につくと、『さあ、これでよしと! じゃあ、阿母さん、さようなら!』と言った。馬は駈けだした。

 セリファンは途中ずっと気難かしい顔をしていたが、それと同時に自分の役目には非常に注意を払っていた。これは、何か失敗しくじったり、酔っぱらったりした後で、彼がいつもやる癖であった。どの馬も驚くほど綺麗に磨きたててあった。頸圏くびわも一頭のなどはこれまで、何時いつもボロボロになって、革の下から麻屑が覗いているといったひどいものがかけてあったのだが、いまはそれが立派に繕ってある。途中もずっと彼は黙りこくったまま時々鞭をならすだけで、馬に向っても例のお説教をしなかった。いうまでもなく連銭葦毛れんせんあしげなどは、何か教訓的な言葉を聴かせて貰いたくて堪らないのだが、いつもはあれほどのお喋りの馭者が、今は手綱をだらりと握ったまま、ただほんの形式的に鞭で背中を撫でてくれるだけである。しかもこの際、馭者の不機嫌な口から聞かれるのは、ただ単調で糞面白くもない、『こら、間抜め! ぼやぼやするない!』という呶鳴り声だけであった。栗毛や『議員』の方も、いっこう『おい、大将』とも『この野郎』とも言って貰えないので、心中甚だ穏やかでなかった。連銭葦毛は自分の肥った大きな尻に、気持の悪い鞭づかいを感じた。⦅ちょっ、恐ろしく御機嫌が悪いや!⦆こう彼は、ちょっと耳をピクつかせながら肚の中で思った。⦅でも、殴りどころはちゃんと知ってやがらあ! まともに背中は殴らないで急所ばかり狙って、耳を引っぱたいたり、肚へピシャンと鞭をまわしたりしやがってさ。⦆

「あれを右へ行くのかい?」と、眼の覚めるような爽々すがすがしい緑の野良のらを、きのうの雨で黒くなって横ぎっている道を鞭で指しながら、セリファンは自分の傍に坐っている女の子に向ってぶっきら棒に訊ねた。

「ううん、おらがちゃんと教えてやるだよ。」と、女の子が答えた。

「さあ、どちらだい?」と、いよいよ二叉まで来た時、セリファンが訊いた。

此方こっちだよ。」と女の子は、手をあげて指さしながら答えた。

「なんだい!」とセリファンが言った。「やっぱり右じゃねえか。こいつ、右と左が分らねえんだな!」

 天気は非常によかったけれど、地面がひどくぬかっていたため、泥が車の輪にへばりついてたちまちまるで毛氈フェルトでもかけたようになり、それがため馬車はぐっと重くなった。おまけに土地が粘土質で、むやみに粘っこかった。それやこれやで一行は、正午ひるまえに村道を出抜けることが出来なかった。女の子でもいなければ、それすら覚束おぼつかなかったことだろう。それというのも、いろんな道が四方八方へ、まるで袋から蝲蛄ざりがにを逃がしたように、矢鱈無性やたらむしょうに伸びひろがっている始末で、これではセリファンがどんなに無駄道を喰ったところで、決して彼の罪とは言えなかったからである。間もなく女の子が、遠くの方にくすんでいる一軒の建物を指さして、『ほら、あすこが本街道だよ!』と言った。

「あの建物いえはなんだい?」とセリファンが訊ねた。

「料理屋だよ。」そう女の子が答えた。

「それじゃあ、もう俺たちだけで行かれるよ、」と、セリファンが言った。「お前はうちいけえりな。」

 彼は馬車を停めると、女の子を助けておろしてやりながら、『ちぇっ、なんて穢ねえ足をしてやがるんだい!』と、吐き出すように呟やいた。

 チチコフが二カペーカ銅貨を一つやると、堪能するほど馭者台に乗せて来て貰った女の子は、ぶらぶらと家路をさして帰って行った。

*1 クトゥーゾフ将軍 公爵ミハイル・イラリオノヴィッチ(1745-1813)アレクサンドル一世時代の元帥で、かの有名な一八一二年の役にロシア軍総司令官としてナポレオンの率いるフランス軍をボロジノに迎え撃った名将。

*2 パーウェル・ペトローヴィッチ パーウェル一世(1754-1801)のこと。ピョートル三世とエカテリーナ二世の間に生れた皇子で、一七九六年帝位に即いたが、性疑い深く、政治上にも非常に過酷な点が多かった。

*3 プロメシュース ギリシャ神話の神。粘土から人間を創造し、それに生命と幸福を賦与ふよせんがため天より火を盗んだかどでコーカサスの山の岩壁に鉄鎖でいましめられ、荒鷲に内蔵をついばまれながら苦悩に堪えた英雄。

*4 オヴィディアス ナゾン(B.C.43-A.D.17)西暦紀元前後に活躍したローマの詩人。初期の作にはエロチシズムのものが多かったが、後には神話的作品を多くものした。

*5 プード ロシアの重量単位。一プードは四貫三百八十匁に相当する。

*6 十二日節 クリスマスの直後二週間を指し、異教スラヴ時代の冬送りの祭りと符合する。

*7 大齎期 クリスマス前の精進期で、十一月十五日より十二月二十五日までをいう。


第四章


 料理店の前へさしかかると、チチコフは二つの理由から、馬車を停めるように言いつけた。第一は馬を休ませるためで、第二には自分も何か少し食べて元気をつけるためであった。実際こういった連中の食い気と胃の腑には、作者も羨望を禁じ得ない。ペテルブルグやモスクワに住んで、明日は何を食べよう、明後日あさっての昼飯は何にしようと、始終そんなことばかり考えていながら、さてその食事に取りかかる前には、まず用心に丸薬をんで、それから牡蠣だの、蟹だの、その他いろんな珍味をむしゃむしゃやらかして、とどのつまりはカルルスバットかコーカサスへ養生に出かけるといった豪勢な紳士がたなどは、てんで物の数ではない。決してこういう紳士がたを羨ましいと思ったことはないのである。ところが、この二流どころの紳士がたに至っては、最初の宿場でハムを注文すると、次ぎの宿場では仔豚をとり、三番目の宿場でも蝶鮫ちょうざめの大切れか、それとも、葱を添えた焼腸詰ぐらいは平らげ、まだ、それでもいっこう平気なもので、時分もかまわず食卓について、小蝶鮫の魚汁ウハーに鱈か白子をそえてガツガツやらかし、口直しに魚饅頭か、鯰の肉の入ったパイを食うのだから、その健啖ぶりは他人ひとごとながら、まったく以って空怖そらおそろしくなる──こういった連中は、いやもう羨ましい天恵てんけいを享受している次第で! 大概の上流の紳士は、こういう中流どころの紳士が持っているような胃の腑の持主もちぬしになることが出来さえすれば、躊躇なく農奴や領地の半ばを犠牲にきょうするだろう。それが抵当に入っていようがいまいが、また外国式なりロシア式なりの改良が施されていようがいまいが、そんなことは問題ではない。ところが残念ながら、どんなに金子かねを積もうが、またどんなに改良を施した領地を犠牲にしようが、この中どころの紳士が持っているような胃の腑というものは決して決して手に入りっこないのである。

 くすんだ木造の料理店は、古風な教会の燭台みたいな恰好に轆轤挽ろくろびきにした木の柱で支えられた浅い客好きのする庇の下へチチコフを招き入れた。料理店は、まあ、ロシア式の百姓小屋を少し大形にしたようなものであった。窓のぐるりや屋根びさしについている新らしい木で彫り物をした蛇腹が、くすんだ壁にくっきりと浮かんでおり、鎧扉には、花をいけた壺の絵が描いてある。

 狭い木の階段を這うようにして、広いポーチへ上ると、出会頭であいがしらにギーッと扉が開いて、絞染更紗しぼりぞめさらさの着物をきた、肥った婆さんが顔を出すなり、『こちらへ、どうぞ!』と言った。部屋へ入ると、よくこういう街道すじに建っている小さな木造の料理屋では、誰でもぶつかるようないろんな古馴染ふるなじみが眼についた。他でもない、もう錆の出てきたサモワール、滑らかにかんなをかけた松板の壁、急須や茶碗を入れて隅っこに置いてある三角戸棚、聖像の前に、赤や青のリボンでぶらさげてある、鍍金めっきをした瀬戸物の卵、つい近ごろ仔を生んだばかりの猫、二つの眼を四つに映し、顔の代りに煎餅みたいなものを見せてくれる鏡、それから最後に、聖像の後ろへ束にして差しこんであるにおい草と撫子なでしこだが、こいつはすっかり干乾ひからびているので、匂いを嗅ごうとしても、くしゃみが出るだけという代物である。

「仔豚はあるかね?」こう言いながらチチコフは、突っ立っている老婆の方へ顔を向けた。

「はい、ございます。」

山葵わさび酸乳皮スメターナをつけたのもあるかね?」

山葵わさび酸乳皮スメターナをつけたのもございますよ。」

「じゃ、それを出しておくれ!」

 老婆はあたふたとして出て行くと、やがて皿と、まるで乾いた木の皮のようにごわごわと糊のつけてあるナプキンと、それから黄いろくなったつのをすげた、ペン小刀みたいに繊細きゃしゃなナイフと、二叉のフォークと、塩壺とを持って来たが、その塩壺はどうしても食卓の上に真直ぐに立たなかった。

 例によって我々の主人公は早速老婆をつかまえて根掘り葉掘り、この料理店は自分でやっているのか、それとも主人があるのか、またこの料理店からはどのくらい利潤があがるか、息子はあるのか、総領はまだ独身か、それとも嫁を貰ったのか、どんな嫁が来たか、持参金じさんきんはたっぷり持って来たか、持って来なかったか、嫁の父親は満足しているのか、それとも結納が少なくて怒ってやしないのか、などと訊きただした。一口に言えば、何ひとつ訊き漏らさなかったのである。勿論、この界隈にどんな地主があるかということを訊ねたのはいうまでもない。その結果、この辺には、ブロヒン、ポチターエフ、ムイリノイ、チェルパコフ大佐、ソバケーヴィッチなどという地主のあることを聞き出した。『へえ! ソバケーヴィッチを知ってるのかね?』そう彼は訊ねたが、すぐに老婆から、ソバケーヴィッチだけじゃない、マニーロフも知っていると聞かされた。そして老婆はマニーロフの方がソバケーヴィッチよりぐっと上品な人だと言った。マニーロフはやって来るなり牝鶏とりを煮てくれと言いつけ、犢の肉はないかと訊く、羊の肝臓があれば早速それも注文するが、どれにもちょっと手をつけるだけだ。ところがソバケーヴィッチときたら、何か一品より注文しない癖に、それをきれいに平らげて、まだその上におまけをよこせと言うのだそうだ。

 彼がこんな風にお喋りをしながら、仔豚をむしゃむしゃぱくついていると、もうそれが一口でおしまいになるという時分に、ふと、こちらへやって来る馬車の音が耳についた。窓から覗いてみると、なかなか立派な三頭立の馬をつけた軽快な半蓋馬車ブリーチカが一台この料理店の前に停ったところであった。馬車からは二人の男が降りた。一人は薄色髪の背の高い男で、もう一人は、それより少し背が低くて髪が黒かった。薄色髪の方は、濃紺のハンガリー服をており、髪の黒い方は、あたりまえの縞の韃靼だったん外套を羽織っていた。遠くから、もう一台、四頭の毛の長い馬に曳かれたからの軽馬車がガタゴトやって来たが、馬の頸圏くびわはぼろぼろで、馬具は荒縄だった。薄色髪の男はさっさと階段を駈けあがって来たが、黒毛の男はまだ後に残って、何か半蓋馬車ブリーチカの中を掻き探しながら、下男と話しあったり、同時に後から来た馬車に向って手を振ったりしている。チチコフにはその声にどうやら聞き覚えがあるように思った。彼が男の方をじろじろ眺めている間に、薄色髪の男は早くも手さぐりで扉をあけて入って来た。それは背の高い、顔のげっそりした、いわゆるすいっからしという型の男で、茶いろの口髭を立てていた。焼け焦げたような顔色からしてこの男が、焔硝えんしょうのけむりはともかく、煙草のけむりには相当お馴染になっていることがうかがわれた。彼はチチコフに向って丁寧にお辞儀をした。で、チチコフも同じように会釈をかえした。こうして切掛きっかけが出来て、二人は殆んど同時に、いい塩梅に昨日の雨ですっかり街道の埃もおさまり、今日は馬車をるにも涼しくて気持がよろしいなどと喋りだしたので、間もなく、大いに話しこんでお互いに近づきになるところであったが、そこへ髪の黒い連れの男が入って来て、縁無帽カルツーズを脱いでテーブルの上へ投げだすなり、黒い濃い髪の毛をがむしゃらに掻きたてた。それは骨組ほねぐみのがっしりした中背の好漢で、頬は丸々として血色がよく、歯が雪のように白くて、漆のように真黒な頬髯を生やしていた。この男はいかにも生気溌剌せいきはつらつとして、健康そのものが面上めんじょうに躍動している観があった。

「よう、よう、こりゃどうだい!」と、彼はチチコフの姿を見ると、いきなり両手をひろげて喚きたてた。「不思議なところで逢うじゃないか?」

 チチコフは、それが検事の家で午餐ごさんを共にした、あのノズドゥリョフだと気がついた。あの時も、ほんの二三分で馬鹿に馴々しくなって、別段こちらから水を向けたわけでもないのに、すぐ⦅君、僕⦆でやりだした男である。

「何処へ来たんだね?」と言いながら、その返事も待たずに、ノズドゥリョフはこうつづけた。「僕はね、君、定期市いちへ行って来たのさ。いやはや、すっからかんに負けて来たよ! まったくの話が、生まれてこの方、こんなにきれいにかれたのは、初めてのこったねえ。しょうがないから、百姓馬をつけて、戻って来たってえ為体ていたらくさ! そら、ちょっと窓から見てくれよ!」そう言って彼は、いきなりチチコフの頭をぐっと手で押えつけたものだから、チチコフはもう少しで窓枠に額をぶっつけるところだった。「ちぇっ、なんちゅう駄馬だろう! あん畜生どもったら、ここまで来るのがえんやらやっとなんだよ。だから、仕方がないから、そら、この男の半蓋馬車ブリーチカへ乗りかえて、やって来たのさ。」そういいながら、ノズドゥリョフは連れの男を指さした。「あ、君たちはまだ知合いじゃなかったのだね? 僕の妹婿で、ミジューエフってんだよ! 僕たちは今日も朝から君の噂ばっかりしてたのさ。『なあおい、今にきっとチチコフに逢うぜ』ってね。だが兄弟、おれがどんなに洗いざらいすっちまったか、君が知ってくれたらなあ! まったくの話が、跑馬だくうまを四頭とも投げだしたばかりじゃない──何もかもすっちまったんだぜ。ね、時計も鎖も持っていないだろ……。」チチコフがちらと眺めると、なるほどこの男は時計も鎖もつけていない。そればかりか、相手の片方の頬髯が、片方のより小さく疎らになっているようにさえ思われた。「だが懐中ぽっぽに、せめてもう二十ルーブリあったらなあ、」と、ノズドゥリョフは語を継いだ。「それより余計なくたって、二十ルーブリで沢山だ。そうすれば、何もかも取り返して見せたんだがなあ。つまりさ、取り返した上に、正直なところ、今頃はきっと、三万ルーブリぐらいはこの紙入かみいれへねじこんでいたんだがなあ。」

「だって、お前、あん時もそんなこと言ってたぜ。」と、薄色髪の男がそれに答えて、「でおれが五十ルーブリ貸してやったら、直ぐにまたられちまったじゃないか。」

られる筈がなかったんだよ! 断じて、奪られる筈はなかったんだ! おれがあんな失策へまさえやらなかったら、まったく、られる筈はなかったんだがなあ。あんなパロレーの後で忌々しい七で鴨なぞ狙わなかったら、おれは場銭を残らず掻っさらっちまったんだぜ。」

「ところが、掻っさらっちまわなかったじゃないか。」と、薄色髪の男が言った。

「それあ、あんな拙い時に、鴨など狙ったから、掻っさらえなかったのさ。だがお前、あの少佐を、相当な打手うちてだとでも思ってるのかい?」

「相当な打手か打手でないかは知らないが、とにかくお前はあいつに負かされたのだからなあ。」

「なあにを、つまんねえ!」と、ノズドゥリョフが言った。「あんなの、大丈夫おれは負かして見せるよ。なあに、あん畜生に一度ドゥブレットをやらせて見るがいいや、そうすれあ、彼奴がどんな打手かちゃんと見抜いてやらあな! だがね、チチコフ、初めの二三日はとても面白く遊んだぜ! まったく素敵滅法も無い定期市いちだったからなあ。商人あきんどたちからして、こんなに沢山人の出たことはねえって呆れていたよ。おれの村から持って行ったものが、何もかも飛びきりの上値で売れっちまってさ。いや、どんなに景気よく騒いだと思う! ほんとに、いま思い出しても……くそっ! まったく、君のいなかったのが残念だよ! まあ、思っても見たまえ、町から三露里ばかりのところに龍騎兵りゅうきへいの連隊が駐屯ちゅうとんしていたのさ。だもんだから、君、ありったけの将校という将校が、そいつらだけでも四十人からいたんだが、それがみんな町へ乗りこんで来たんだ……。おれたちが、君、どんなに景気よく飲みだしたと思う……。騎兵二等大尉のポツェルーエフって……素晴らしい奴でね! 君、立派な髭を生やしてやがってさ! ボルドーのことを濁酒どぶろくって言やがるんだ。『こら、濁酒どぶろくを持ってこい!』とこうだ。それからクヴシンニコフって中尉だがね……。こいつが君、とても面白い奴なんだ! まず、どちらから見ても遊蕩児ゆうとうじだといえるねえ。おれたちは始終こいつと一緒だったんだ。ところで、ポノマレフの奴がどんな酒を飲ませたと思う! だが奴は曲者くせもので、あん畜生の店では何ひとつ買えたもんじゃないってことを心得てなきゃ駄目だよ。酒ん中へいろんな混ぜものをしやがるんだ、白檀びゃくだんだの、焼いたコルクだのをいれたり、接骨木にわとこの実で色つけまでしやがるんだからさ。だが、その代り彼奴が、特別室と呼んでいる奥の部屋から何か罎を持ち出して来たら、それこそ君、極楽浄土へ行ったような気持になれるよ。おれたちの飲んだシャンパンといったら、まったく……あれに較べたら、知事んとこのなんざあ何だい? まるでただのクワスじゃないか。まあ思っても見たまえ、クリコーというだけじゃなく、クリコー・マトゥラドゥーラってやつさ、つまり二倍の強さのクリコーってわけさ。それから、ボンボンっていうフランスの葡萄酒も一本のんだっけ。匂いかい?──こいつは薔薇みたいな匂いもしたし、いろんな、望みどおりの匂いもするんだよ。いやとにかく、えらい騒ぎさ!……何でも、おれたちの後へどこかの公爵とかがやって来てさ、シャンパンを持って来いって、店へ使いをよこしたそうだがね、お生憎あいにくと、町じゅうどこを探しても一本もないって始末さ。みんな将校連が飲じまったんだよ。まったくの話が、食事めしの間におれ一人でもシャンパンを十七本から平らげたんだからね!」

「なにを、お前、十七本なんて飲みゃしないよ。」と、傍から薄色髪の男が注意した。

「いや、おれは誓って、それだけ飲んだと断言するよ。」と、ノズドゥリョフが言い返した。

「何とでも勝手に断言するがいいけれど、おれはお前が十本も飲みゃあしないと言うだけさ。」

「じゃあ、おれが飲むか飲まないか、賭をしようか?」

「何のために賭などするんだい?」

「さあ、お前が町で買って来た鉄砲を賭けろよ。」

「嫌だよ。」

「まあ、試しに賭けてみろよ!」

「試しにだって、嫌だよ。」

「そうだろうて、また帽子を失くしたように、鉄砲も失くしてしまうところだからな。まったく、チチコフ、君のいなかったことが、返すがえすも残念だよ! 君は屹度きっと、あのクヴシンニコフ中尉とは別れられなかったよ。奴さんと君がさぞ肝胆相照らしただろうになあ! あいつは例の検事だの、まちにいる、一カペーカの銭にもびくびくしてるような、県のしみったれ役人とは、てんでがらが違うよ。あいつは君、ガリビックでござれ、銀行バンクでござれ、そのほか何でもお好み次第なんだぜ。まったく、チチコフ、何だって君は来なかったんだい? 来ればよかったのに、ほんとにしょうのない野郎だぜ、君は! さあ、おれを接吻してくれ、おれは死ぬほど君が好きなのさ! どうだいミジューエフ、これこそ運命の引き合わせってものさ! この野郎とおれとは縁もゆかりもない仲だろ? 第一どこからやって来た男とも分りゃしないし、おれはおれでこんなところに住んでいるしさ……。だが何にしても、兄弟、あすこにゃあ、実にどえらく馬車がいたもんさ、まったく engrosエングロス夥し
い数
)だったぜ。おれは玉ころがしをやって、ポマードを二罎と、瀬戸物の茶碗と、ギターをとったよ。ところがそれをもう一度賭けたら、畜生め、今度はみんな取られて、その上に六ルーブリもふんだくられちまった。だがね、クヴシンニコフって奴がどんな女たらしだか、君が知ったものなら! おれは奴と一緒に、舞踏会という舞踏会へ一つ残らず行ったんだよ。ところが、一人おそろしくでかでかと飾った女がいて、レースや紗の裾飾りや、いろんなものを滅多矢鱈につけてやあがるのさ……。おれは、『糞くらえ!』と思ったね。ところがクヴシンニコフの奴は、ああいう恥知らずだから、その女の傍へりよりゃあがって、フランス語なんかでジャラジャラおべっかを使やがるんだ……。ほんとに、彼奴ときたら、どんなつまらないあまでも、見のがしっこないんだからなあ。彼奴はそれを、⦅野苺のいちごを摘む⦆のだって言ってやがるのだぜ。それから、素晴らしい魚や、蝶鮫の乾魚ひものをざらに売っていたっけ。おれは蝶鮫の乾物を一つ買って来たがね、まだ金のあるうちに気がついて、いいことをしたよ。時に、君はこれから何処へ行くんだい?」

「或る人のところへね。」とチチコフが答えた。

「ふん、何だい或る人なんて? すっぽかしちまえよ! 一緒におれんちへ行こうや!」

「いや、そうはいきませんよ。用事があるんでね。」

「ふん、用事があるとおいでなすったね! いい加減なことをいうない! この*1オポデリドック・イワーノヴィッチめ!」

「まったく、用事があるんですよ、それも重大な用事で。」

「賭をしてもいいが、それや嘘だ! じゃあ、言ってみろよ、いったい誰んとこへ行くのか?」

「言いますとも、ソバケーヴィッチのところへ行くんで。」

 それを聞くとノズドゥリョフはからからと笑いだしたが、それは元気溌剌たる健康人に特有な笑い方で、そういう手合いは砂糖のように真白な歯を残らずきだして、頬をやけに波打たせながら、恐ろしく大声をあげて笑うものだから、中ふたつ戸をへだてた三番目の部屋に寝ていた男が夢を破られ、がばと跳ね起きざま、眼を見張って、『ちぇっ、どうかしたのかな!』と口走るほどである。

「何がそんなに可笑しいんです?」とチチコフは、そんな笑い方をされたのでいささか気色を損じて、言った。

 だがノズドゥリョフは、『おい、助けてくれ! まったく、おら、腹の皮が破れそうだよ!』と言いながら、大口をあけて笑いつづけた。

「何も可笑しいことなんかありませんよ。僕はあの人と約束をしたんだから。」とチチコフが言った。

「だって君、あんな奴のところへ行ったって、ちっとも面白いことなんて、ありゃあしないぜ。あれあしわん坊にすぎないんだ! おれは君の性質をよく知ってるがね、彼奴の家へ行って、銀行バンクの一番もやったり、ボンボンの一本にでもありつけようと思ったら、それこそ飛んでもない間違いだよ。ねえ君、だからソバケーヴィッチなんかすっぽかしちまってさ! おれんちへ行こうよ! 素的すてきな蝶鮫の乾物を御馳走するぜ。ポノマレフの畜生めが、いやにペコペコお辞儀をしやがって『あんただけにですよ。いちじゅう探したって、とてもこんなのは見つかりっこありませんぜ』ってぬかしゃあがるのさ。だが、あいつは途轍とてつもないペテン師だからなあ。おれは彼奴の眼の前でそう言ってやったよ。『貴様と、あの徴税代弁人とは、天下一の大悪党だ!』ってね。そうすると、あの悪漢わるものめ、顎鬚をなでてニヤニヤしてやがるんだ。おれはクヴシンニコフと一緒に、毎日あいつの店で朝飯を食ったもんさ。あっ、そうそう、君に話すことを忘れていたがね、こいつは屹度きっと、君も咽喉から手が出るにきまってるんだが、一万ルーブリだすと言ったって手放さないから、前もって断わっておくよ。えい、ポルフィーリイ!」と、彼は窓際へ近よって自分の従僕を大声で呼びたてた。その従僕は片手にナイフを持ち、片手には麺麭パンの皮と、どうやら半蓋馬車ブリーチカの中から何かを取り出すついでに、まんまと切り取ったらしい蝶鮫の乾物を一切れ持っていた。「えい、ポルフィーリイ!」と、ノズドゥリョフは呶鳴った。「仔犬をつれて来い! 君、素晴らしい仔犬だぜ!」そう言いながら、彼はチチコフの方へ向き直って、「こっそり失敬して来たのさ、持主の野郎めが、命にかけても手放そうとしやがらねえものだからね。おれはそいつに薄栗毛の牝馬めすをやるからと言ったんだよ。そら、知ってるだろ、あのフウォストゥイリョフのところで取り換えた馬さ……。」だがチチコフは、そんな薄栗毛の牝馬にも、フウォストゥイリョフとかにも、生まれてこのかたついぞお目にかかったことがなかった。

「旦那さま! 何にも召しあがらないのでございますか?」とこの時、老婆がノズドゥリョフの傍へ近よりながら、訊ねた。

「何にも要らない。いや君、まったく景気よく遊んだよ! だが、ウォツカを一杯もらおうか。どんなのがあるんだい?」

茴香酒アニーソワヤがございますよ。」と老婆が答えた。

「じゃ、その茴香酒アニーソワヤをくれい。」とノズドゥリョフが言った。

「うん、ついでにおれにも一杯くれ!」と、薄色髪の男が言った。

「芝居へ行ってみたらね、一人の女優が、畜生め、まるで金糸雀カナリヤみたいに唄ってやがるのさ! クヴシンニコフの奴はおれの傍に坐っていやがったがね、『どうだい、君、あの野苺も摘んでやろうか!』なんてぬかしやがるんだ。見世物小屋だけでも五十ぐらいはあったと思うなあ。フェナルディーっていう奴は、風車みたいに四時間も飜筋斗とんぼがえりをやってやがるんだ。」ここで彼は、老婆の手から酒杯さかずきを受け取ったが、婆さんはそれに対してうやうやしくお辞儀をした。「ああ、ここへ連れて来い!」と、ポルフィーリイが仔犬を抱いて入って来たのを見て、彼は叫んだ。ポルフィーリイは主人と同じように綿入の韃靼服をていたが、それは余計に垢じみていた。

「さあ、こちらへ貸せ、この床の上へ置くんだ!」

 ポルフィーリイが仔犬を床の上へおろすと、そいつはをふんばって地面したを嗅ぎまわした。

「いい仔犬だろ!」とノズドゥリョフは、そいつの背中をつまんで差しあげながら言った。仔犬はひどく哀れっぽい鳴き声をたてた。

「だが貴様は、おれの言いつけたとおりにしなかったな。」とノズドゥリョフは、注意ぶかく仔犬の腹を調べながら、ポルフィーリイに向って言った。「こいつにブラッシをかけてやらなかったろう?」

「いえ、かけてやりましたとも。」

「じゃあ、どうしてのみがいるんだい?」

「さあね。おおかた馬車からでもうつったんでがしょう。」

「嘘をつけ、ブラッシなんかかけてやろうともしなかったんだろう。馬鹿野郎、まだおまけに自分のをうつしたんだな。さあ見てくれ給え、チチコフ、どうだい、いい耳だろう、なあ、ちょっと手で触って見給え。」

「どうして? このままでもよく分りますよ、なかなかいい血統たねですねえ!」と、チチコフが答えた。

「いや、そう言わないで、ちょっと持って見給え、この耳に触ってみるんだよ!」

 チチコフは是非なく、相手の気がすむように、ちょっと耳に触って見てから、『なるほど、これは好い犬になりますよ。』と言った。

「それに、鼻がとても冷たいんだぜ。さあ、手で持って見給えな。」

 そこでチチコフは相手の機嫌を損じたくないばかりに、ちょっと鼻に触って見て、『なかなか好い嗅覚かんですよ。』と言った。

「純粋のブルドックだよ。」と、ノズドゥリョフは語を継いで、「おれは実のところ、ずいぶん前から、こういうブルドックを鵜の目鷹の目で探していたんだよ。さあポルフィーリイ、あっちへ連れて行け!」

 ポルフィーリイは仔犬の腹の下へ手をまわして抱きあげると、馬車の中へ持ち去った。

「ねえ、チチコフ、君はどうしてもこれから、僕の家へやって来なくちゃいけないぜ。なあに、たった五露里しきゃないんだから、一息で駈けつけられるよ。それからソバケーヴィッチのところへ行ったっていいじゃないか。」

⦅さあ、どうしたものかな?⦆とチチコフは肚の中で考えた。⦅一つ、ノズドゥリョフのところへ行ってやるかな。別に他の連中より悪い訳もないて、同じような並の人間で、おまけに骨牌カルタですっからかんになるような男だ。どうも見たところ、どんなことでもやりかねない人間らしい。だから、まんがよければ、先生、無償ただでも譲ってよこすかもしれないぞ。⦆そこで彼は、「じゃあお邪魔しましょう。」と言って、「しかし、あんまり引き留めないで下さいよ。時日ときがありませんからね。」

「よう、大将、そう来なくっちゃならないや! 素敵々々! ちょっと待ちなよ! 褒美に一つ接吻をしてやるから。」そこでノズドゥリョフとチチコフは互いに接吻した。「こりゃ面白くなって来たぞ。さあ三人でぶっ飛ばそうや!」

「いや、僕はここで御免蒙るよ。」と薄色髪の男が言った。「家へ帰らなくちゃならないから。」

「馬鹿な、そんなこと言ったって、放しゃしないぞ。」

「だって、きっと女房が怒るからさ。君はもう、この人の馬車に乗っけて行って貰えばいいじゃないか。」

「駄目、駄目、駄目! そんな馬鹿なこと考えるない。」

 この薄色髪の男は、その性質に一見片意地らしいところのある人間の一人であった。こういう連中は、相手がまだ口を開かぬうちから、もう議論を始めようとしており、自分の考え方と明らかに矛盾しているような事柄ことがらには決して賛成することが出来ず、馬鹿を利口と言ったり、とりわけ他人の笛におどらされるなどということには、断じて承服できないらしい。ところが、いつもしまいには自分の弱味で、初め反対したことにも賛成し、馬鹿を利口と言い、果ては他人の笛につれて、この上もなく上手におどりだす──要するに、龍頭蛇尾におわるのである。

「馬鹿をいうな!」とノズドゥリョフは、何か薄色髪の男がぐずぐず言いだしたのに一喝を喰らわせて、さっさと縁無帽を彼にかぶせてしまったので、薄色髪の男はしょうことなしに、二人の後について立ちあがった。

「旦那さま、あの、ウォツカのお代をまだ頂きませんが……。」と老婆が言った。

「ああ、よし、よし、婆さん。おい、義兄弟きょうだい 済まないが払っておいてくれ。おれの懐ろには一文もないんだから。」

「いくらだね?」と妹婿が訊ねた。

「ええ、なんの、旦那さま、みんなで二十カペーカでございますよ。」と老婆が答えた。

「嘘をつけ。その半分もやっときゃ、沢山だよ。」

「それじゃあ少のうございますよ、旦那さま。」と老婆は言ったが、それでも有難そうに銭を受け取ると、大急ぎで扉を開けに駈けよった。彼女はウォツカの値段の四倍も吹っかけたのだから、少しも損はしなかったのだ。

 一行は馬車に乗りこんだ。チチコフの半蓋馬車ブリーチカは、ノズドゥリョフと妹婿が乗った半蓋馬車ブリーチカと並んで駈けて行ったから、途々みちみちずっと彼等三人は自由に談話を交わすことが出来た。その後ろからは、痩せた百姓馬に曳かれたノズドゥリョフの小振りな軽馬車が、ともすれば遅れがちに、ついて行った。それにはポルフィーリイが、仔犬と一緒に乗っていた。

 一行が途々とり交わした会話は、読者にとっては余り面白くもなさそうだから、いっそ、ここでノズドゥリョフの一身上について若干お話しておこうと思う。というのは、この男は、おそらくこの叙事詩に於いて、決して端役はやくしかつとめない人物ではなさそうだからである。

 恐らくノズドゥリョフの人物については、読者はもう幾分お馴染のことであろう。こうした人物には誰でもよくつかるものである。こういう連中は、手のつけられない奴と呼ばれて、まだ子供のころや、学校へ行っている時分から、餓鬼大将として名は通っているが、それだけにまた、ずいぶんこっぴどい目にも逢わされているのだ。その顔には常に真率しんそつで腹蔵のない、豪胆なところが現われている。誰とでもすぐ懇意になって、相手がまだけろっとする暇もないうちに、もう『君、僕』で話しだす。永久の友誼ゆうぎが続きそうでいて、そのくせ、親交を結んだ相手と、その晩近づきになった記念の酒席で大抵いつも喧嘩をやらかしてしまうのが落ちだ。たいがい彼等は饒舌家おしゃべりで、道楽者で、勇み肌で、堂々たる恰幅をしている。ノズドゥリョフは三十五歳にもなっていながら、まるで十九か二十の青年と変りがなく、至って遊蕩あそびずきであった。結婚してからも彼は少しも変らなかった。その細君が間もなく二人の子供を残して他界してしまったので尚更であるが、子供に至っては全く彼には無用の長物であった。だが、その子供のことは、渋皮しぶかわけた保姆が面倒を見ていた。彼は家に一日以上じっとしていることがどうしても出来なかった。鋭敏な鼻で、数十露里も離れたところに定期市が立って、いろんな集まりや舞踏会のあることを嗅ぎつけると瞬く暇に彼はもう其処そこへ駈けつけて、骨牌カルタ台の前で早くも議論をおっ始めたり、大騒動を演じたりしているのだった。それというのも、こういった連中にはありがちのことで、彼は骨牌カルタが三度の食事より好きだからである。既に第一章に於いて我々が一瞥したように、彼は骨牌カルタをする段になると、いろんな札の抜き換えや、あらゆるいんちきを心得ていて、どうもまともな勝負をやらなかったので、大抵の場合、しまいには勝負が別な立廻りに変ってしまい、長靴でぶん殴られたり、房々ふさふさとした実に見事な頬髯を挘り取られたりするのだ。それで時々彼は、頬髯を片方だけにされて、それもひどく疎らにして家へ帰ることがある。しかし健康で丸々と張りきった彼の頬は、よほど巧く出来ていて、旺盛おうせいな繁殖力を包蔵ほうぞうしていると見え、髯は間もなく新らしく伸びて、あまつさえ前より立派になる位だ。そのうえ何より奇態なことに、これはひとりロシアだけにしか見られない現象であろうが、暫くして、自分を袋叩きにした仲間と落ち合うと、まるで何事もなかったような顔で応対して、わば、こちらも先方せんぽうも何らのわだかまりを持っていないのである。

 ノズドゥリョフは或る意味に於いて事件屋であった。彼が顔を出したかぎり、どんな会合でも無事におさまった例しがない。何かしら必らず事件を持ちあげて、或は憲兵に腕をやくして大広間からしょびき出されるか、さもなければ、自分の友達に否応なしにつまみ出されるのがお定まりなのである。よし、そんなことのない場合でも、尚且なおかつ、彼以外の者には及びもつかぬような醜態を演じて、食堂でただもう人の物笑いになるような酔っぱらい方をしたり、またあられもないことを口からすべらかして、しまいには自分でも恥かしくなってしまうのである。そして全然なんの必要もないのに、飛んでもない嘘をつき、藪から棒に、自分のところには青い馬がいるの、薔薇色の馬がいるのといった風な出鱈目を並べだすものだから、聞いている方でも、しまいには『おや、大将、また駄法螺だぼらを吹きはじめたな』と呟やいて、さっそく退散してしまう。よく、まるでなんの理由もないのに身辺の者を傷つけるという、けちな料簡りょうけんの人間があるものだ。例えば立派な官等を持ち、外見もなかなか上品で、胸には星勲章をつけているような人物でありながら、初め諸君の手を握って、いかにも深遠な沈思黙考に誘うような題目について語っているかと思うと、たちまち面と向って諸君を罵倒ばとうするのだ。それも、胸に星勲章をつけて、今の今まで沈思黙考に誘うような深遠な題目について語っていた人とはまるで似ても似つかぬ、せいぜい十四等官風情のやり口なので、ただただ呆れて、肩をすくめながら突っ立っているより他はない始末だ。ノズドゥリョフもそういう奇妙な料簡の持主であった。誰か特に彼と親しくなる者があると、真先まっさきに彼はその男に恥をかかせる。つまりそれ以上の馬鹿げたことは考え出すことも出来ないような嘘八百を撒きちらして、婚礼に水をさしたり、商取引をぶちこわしたりするのだ。しかも決して自分では諸君に悪いことをしているとは考えないのだ。それどころか、再び諸君と落ち合うようなことがあると、またしても彼はさも親しげに振舞って、ぬけぬけと、『君はちっとも僕のところへやって来ないで、ひどいじゃないか。』などと言うのだ。またノズドゥリョフはいろんな点で実に多方面な、つまり口も八丁手も八丁という人間である。彼はもうたちまち諸君に向って、どこここなしに、世界の涯へでも一緒に行こうとすすめたり、どんな計画でも好きな計画に乗ると言ったり、また何でも手あたり次第に、諸君の望みの物と交換しようと申し込んだりする。鉄砲でござれ、犬や馬でござれ、何でもみな交換の対象となるが、しかしこれは別に欲得ずくでしようというわけではなく、ただ一途いちずがたい彼の性分のせかせかした落着きのなさがさせる業である。もし定期市でいい鴨でもひっかけて、しこたま儲けるようなことがあると、彼は前からそこいら中の店で眼をつけておいた品物を矢鱈無性に買いこんだものだ──馬の頸圏くびわ、香錠、保姆にやるハンカチ、種馬、乾葡萄ほしぶどう、銀製の洗面器、オランダ織の麻布、上等の小麦粉、煙草、ピストル、にしん、絵、研磨機、壺、長靴、陶製食器といったものを、有金ありがねはたいて買い集めるのだ。ところが、それを無事に家へ持って帰ることは稀れで、大概はその日の中に、すっかりそれを運の好い骨牌カルタ仲間に捲きあげられてしまうばかりか、時には、まだその上、おまけに自分の煙管パイプを、煙草入や吸口すいくちごとられることもあり、まかり間違えば、四頭立の馬に一切の附属品──つまり軽馬車から馭者までつけて献上してしまうこともある。そんな時、当の御本人は、つんつるてんのフロックか韃靼服にくるまって、誰か自分を馬車に乗っけて行ってくれる友達はないかと、うろうろ探しに出かけるのである。さて、ノズドゥリョフとはこんな男であった! しかすると、それはもう過去の一性格で、もはや現代にはノズドゥリョフ的な人間は存在しないと言う人があるかも知れない。噫! そんな説をなす人たちこそ間違っている。ノズドゥリョフは、まだまだこれから先きも永くこの娑婆から姿を消しはしないのだ。彼は到るところ我々のあいだにいるのであるが、恐らくは、ただ別な衣裳をつけているのに過ぎない。しかも皮相浅薄な人々の眼には、衣裳さえ変っておれば全然別な人間に見えるのである。

 さて、この間に三台の馬車はもうノズドゥリョフ家のポーチの前へ横づけになった。家の中には一行を迎える準備は何ひとつ出来ていなかった。食堂の真中には木の踏台が立ててあって、それに二人の百姓が乗っかって、何かまるで果てしもない歌を口ずさみながら、壁を白く塗っており、床には一面に白ペンキが飛び散っていた。ノズドゥリョフはさっそく百姓に踏台を片づけさせて次ぎの間へ駈けこむなり、何か指図をしていた。二人のお客は、彼が料理番に食事の支度を言いつけている声を聞いた。もうそろそろ空腹を感じていたチチコフは、この模様では、とても五時より前には食卓につけそうにないと悟った。ノズドゥリョフは戻って来るなり、自分の村の様子を残らず紹介するからと言って、お客を引っぱり出したが、二時間と少しかかって、もうそれ以上は何ひとつ見せる物がないというくらいに、すっかり何もかも見せてしまった。まず第一に彼等はうまやを見に行った。そこには二頭の牝馬がいて、一方はぶちのある灰色あおで、一方のは鹿毛であった。それから栗毛の種馬が一頭いた。これは見たところ余り立派な馬ではなかったが、ノズドゥリョフはそれに一万ルーブリ出したと言いはった。

「一万ルーブリなんて出ちゃいないさ。」と、妹婿が聞き咎めた。「こんなもの千ルーブリもしやしないや。」

「誓って、一万ルーブリ出したよ。」と、ノズドゥリョフが言った。

「それあ、幾らとでも勝手に誓うがいいさ。」と、妹婿が応酬した。

「よし、じゃあ賭をしようか?」とノズドゥリョフが言った。

 妹婿も、さすがに賭まではしなかった。

 それからノズドゥリョフは、やはり以前まえには素晴らしい馬が入れてあったという、からの厩を見せた。今そこには山羊が一匹いたが、この山羊というやつは、昔からの迷信で、ぜひ馬と一緒に飼っておかねばならないものとされており、それにどうもこいつは馬と仲が好いらしく、まるで自分の家にでもいるように、平気で馬の腹の下をくぐって歩いているものだ。ノズドゥリョフは客を案内して、鎖につないである狼の仔を見せに行った。『そら、これが狼の仔さ!』と彼は言った。『僕は、わざわざ生の肉でこいつを育ててるんだよ。野生のとおんなじ奴に仕立てあげようと思ってね。』それから今度は池を見に行ったが、ノズドゥリョフの言葉によると、前にその池には、とても大きな魚がいて、そいつを曳きあげるのに、大の男が二人がかりでやっとだったとのこと。しかしその話にも妹婿は疑いをさし挟むことを忘れなかった。『チチコフ、君にひとつ素敵もない犬のつがいを見せようか。』と、ノズドゥリョフが言った。『筋肉にくの固く引きしまってることといったら、まったく吃驚びっくりするくらいで、鼻面が──針のように尖ってるのだよ!』そう言って二人を、非常に瀟洒しょうしゃな小さい小舎こやへと案内したが、それは四方に垣根をめぐらした、広い庭の真中に建っていた。庭へ入ると、そこにはあらゆる種類の犬がいた──ロシア種のボルゾイもおれば、純原種のボルゾイもおり、また毛色からいっても多種多様で、鳶いろのや、黒に茶ののあるのや、白黒の斑のや、鳶いろにの入ったのや、赤にの入ったのや、耳の黒いのや、耳の白いのもいた……。それには又あらゆる呼号、あらゆる命令が名前としてつけてあった──『て』だの、『ののしれ』だの、『飛びまわれ』だの、『火事』だの、『ぎたおせ』だの『書きなぐれ』だの『焼け』だの、『がせ』だの、『北風』だの、『い奴』だの『褒美』だの、『見張り』だのと……。この犬どもにとってノズドゥリョフは、さながら一家の慈父そのままであった。たちまちどれもこれもが、所謂いわゆる『犬の舵』と呼ばれる尻尾を高々とあげて驀地まっしぐらに駈けよって、お客を迎えると、一同に向って挨拶をしはじめたものである。その中の十匹ばかりがノズドゥリョフの肩へ前肢をかけた。『罵れ』はチチコフにまで同じような親愛の情を示して、後肢で立ちあがりざま、彼の唇をペロリと舐めたので、チチコフはあわててペッと唾を吐いた。吃驚びっくりするほど筋肉にくの引き緊った犬というのも見たが、なかなか良い犬であった。それから一行はクリミヤ産の牝犬を見に行った。ノズドゥリョフの話では、それはもう盲らになっていて、間もなくくたばるに違いないけれど、二三年前までは実に素晴らしい牝犬めすだったとのこと。その牝犬は、検分したところ成るほど眼が見えなくなっていた。その次ぎには水車場を見に行ったが、水車の軸についてぐるぐる廻転する、例の、ロシアの百姓たちの奇妙な表現に従えば、⦅矢鱈に跳ねまわっている⦆あの上臼を支える枠が無かった。『まだ、すぐそこに鍛冶場もあるんだよ』と、ノズドゥリョフが言った。なるほど少し行くと鍛冶場があったので、一同はその鍛冶場も見物した。

「そら、この原っぱにはね、」と、ノズドゥリョフは野原を指さしながら、言った。「野兎が、まるで地面も見えないほど、わんさといやあがるんだぜ。いつか僕は一匹、後肢を掴んで手どりにしたことがあったっけ。」

「ふん、お前、野兎を手どりになんて出来るもんかい。」と、妹婿が聞き咎めた。

「ところがつかまえたのさ。ちゃんと捕まえたんだからね!」とノズドゥリョフが答えた。「さあ今度は一つ、」と彼は、チチコフに向って言葉をつづけた。「僕の地所のはずれになっているところへ案内しよう。」

 ノズドゥリョフは、到るところに丘陵が散在している野原をとおって客人を案内して行った。客は荒田こうでんと近ごろすきを入れた畠との間を、拾うようにして進まなければならなかった。チチコフはそろそろ疲れを覚えはじめた。ともすれば足の下からじくじくと水の浸み出すような箇所ところが多かった。それほど土地が低かった訳である。初めのうち、彼等は大事をとって、そういうところは用心深く跨いで通るようにしたが、後にはそんなことをしても何にもならないことが分ったので、もう泥濘ぬかるみの大小などはお構いなしに、さっさと真直ぐに歩いて行った。かなり進んだと思うと、なるほど境界らしいものが眼についたが、それは木のくいと細い溝で出来ていた。

「そら、これが境界だよ!」とノズドゥリョフが言った。「これから手前にあるものは、みんな僕のものさ。それに彼方あちらがわの、あの青く見えている森と、森の向うにあるものも、みんな僕のものだよ。」

「へえ、一体あの森はいつお前のものになったんだい?」と、妹婿が訊いた。「近ごろあれを買ったとでも言うのかい? あれは、お前のものじゃなかったからさ。」

「うん、あれは近ごろ買ったんだよ。」とノズドゥリョフが答えた。

「そんなに早く、一体いつ買いこんだのだい?」

「いつって、まだ一昨日おととい買ったばかりさ。篦棒べらぼうに高い金を出したものよ。」

「だってお前、一昨日おととい定期市いちにいたじゃないか。」

「ちぇっ、この*2ソフロンめ! 定期市いちへ行くのと地所を買うのとは一緒にゃあ出来ないとでもいうのかい? それあ、おれは定期市いちへ行ってたさ、だがおれの留守ちゅうに、うちの管理人が買っておいたのさ。」

「なるほど、管理人がね。」そうは言ったが、妹婿はやはり腑に落ちないらしく、首を振った。

 客はまた同じ悪い道をとおって戻って来た。ノズドゥリョフは二人を自分の書斎へと案内したが、そこには普通、書斎にある、書類とか書物とかいったようなものは、何ひとつ見あたらず、長剣サーベルと二挺の鉄砲が懸っているだけで、一挺は三百ルーブリ、一挺は八百ルーブリ出したものだと言う。妹婿はちょっと見て、ただ首を振っただけであった。それから、トルコ製だという短剣を見せられたが、その一振ひとふりには、どう間違ったのか⦅刀工サヴェリイ・シビリャコフ⦆というロシア名の銘が刻んであった。それに次いでお目見得をしたのは*3紙腔琴シャルマンカであった。ノズドゥリョフは早速、二人の前で把手ハンドルを廻して見せた。紙腔琴はなかなか好い音で鳴りだしたが、内部なかで何か故障を起こしたらしく、マズルカが中途で、⦅*4マルボローはいくさに門出せり⦆という歌に変り、その⦅マルボローはいくさに門出せり⦆が不意にまた或る古くから知られているワルツに転じたものである。ノズドゥリョフは、もうとっくに廻すのをやめていたが、紙腔琴シャルマンカの内部に甚だ勇ましい笛管ふえが一本あって、それがいっかな鳴り止もうとしないで、いつまでも一つだけで鳴りつづけていた。さてその次ぎには、木や陶器や海泡石かいほうせき煙管パイプがお目どおりをした──すっかりいぶしのかかったのも、まだ燻しのかからないのも、鞣革なめしがわに包まれたのも、包まれないのもあり、つい最近に骨牌カルタでとった、琥珀の吸口のついたトルコ煙管もあれば、どこかの宿駅しゅくえきで彼に首ったけ惚れこんだ、さる伯爵夫人が刺繍をしてくれたのだという煙草入もあって、その伯爵夫人の可愛らしい手は、彼の言葉によると世にもいみじき『贅物シュペルフリュ』だったとのこと──おおかた彼の語彙ごいでは、この言葉が最高度の完璧を意味しているのであろう。前菜に蝶鮫の乾物ひものを撮んでから、三人は五時ちかくになって食卓についた。ノズドゥリョフの家では、どうやら食事というものが、生活の主なる要素とはなっていないらしく、料理にも大して意が用いられていなかった。焦げついたものがあるかと思えば、まだ生煮えのものがあるという為体ていたらくであった。恐らくは料理番が、主として霊感にまかせて、何でも手当り次第に放りこんだものと見える──胡椒が傍にあれば、胡椒を振りかける、キャベツが眼につけば、キャベツを突っこむ、牛乳でも、ハムでも、豌豆でも、お構いなしに叩きこむといった調子で──要するに、滅多矢鱈にねまぜたもので、それでも温かいうちなら何とか味があるだろうという代物なのである。その代りノズドゥリョフは酒にかけては眼がなかった。まだスープも出ないうちから客の大きなコップへなみなみとポルトワインを注ぎ、また、別のコップへはまがいの*5ソーテルンを注いだ。というのは、そんな県や郡の田舎まちに、本物のソーテルンなどある筈がないからである。それからノズドゥリョフは、マデラ酒を一本もって来させて、『これ以上の酒は、元帥だって飲んだことあなかろうぜ』と言った。成程そのマデラ酒は咽喉に焼けつくようだった。何しろ商人たちは、こういう途轍もないマデラ酒がお気に召す地主連の味覚を百も承知で、遠慮会釈なくラムで味をつけたり、時にはロシア人の胃の腑なら、この位のことは大丈夫と見越して、*6王水まで注ぎこんでおくからである。それからノズドゥリョフは、もう一本、特殊な酒罎を取り出させたが、それは彼の言うところでは、*7ブルガンデイであって同時にシャンパンでもあるとのことだ。彼は右に左に、チチコフと妹婿とへ、どちらのコップへもしきりに酒を注いだ。ところがチチコフはふと、彼が自分のコップへはあまり注がないことに気がついた。それがチチコフに警戒の念を起こさせた。それで彼はノズドゥリョフがどうかして話に夢中になったり妹婿のコップへ酒を注いだりしている隙に、急いで自分のコップの酒を皿へこぼしてしまった。間もなくテーブルへ清涼酒リャビノフカが出た、それはノズドゥリョフの話では、まるでクリームそのままの味だとのことであったが、豈図あにはからんやツンツンと焼酎の臭いが鼻を刺した。次ぎに、何か芳香酒のようなものを飲んだが、それにはとても覚えにくい名前がついていて、主人でさえ二度目には別の名前で呼んだくらいだ。食事はもうっくに終り、酒も一と通り吟味が済んだけれど、客はやはりまだ食卓を離れなかった。チチコフも、妹婿のいる前では、例の重要な問題をノズドゥリョフに切り出す気にはどうしてもなれなかった。妹婿とはいいじょう、局外者には違いなく、然もこの問題は、こっそり二人だけでしんみりと語りあう必要があったからだ。ところが、その妹婿も大して危険な人物ではなさそうだった──というのは、もうすっかり酔っぱらってしまったと見えて椅子に掛けたまま、しきりにこくりこくり居睡いねむりをしていたからである。そのうちに自分でもどうやら足腰あしこしの確かでないことに気がついたらしく、とうとう家へ帰ると言いだした。が、その声がまた、ロシア式にいうと、まるで釘抜で頸圏くびわを馬につけるような、恐ろしくまどろっこく、ものうげな調子であった。

「いや、駄目々々! 放しゃあしないぞ!」とノズドゥリョフが言った。

「そんな、お前、無理をいうなよ、おらあ、ほんとに帰るよ。」と妹婿が言った。「お前はまた、えらくおれに無理をいうじゃないか。」

「何いってやがるんだい! 今から直ぐにと勝負やろうってのに。」

「うんにゃ、兄弟、やるならお前、勝手にやるがいいよ。だがおらあ駄目だ。家内がまた、えらくむくれるからなあ、まったく。おれは彼女あれ定期市いちの話をしなくちゃならないのさ。いや、兄弟、こうしちゃあいられないよ、彼女あれを悦ばせにゃならないからな。どうか、そう引き留めないでくれ!」

「ふん、彼女あれだの、家内だのと、そんなものあ糞くらえだ! なるほど、ほんとに大事なことを二人でやろうってのかい!」

「そうじゃないよ! 兄弟! 彼女あれあ、ほんとに好い女房だもの。まったくのところが、模範的な、実に立派で貞淑な女だよ! いろいろとよく尽してくれるからなあ……お前ほんとにするかい? おらあ、涙がこぼれるくらいなんだよ。いや、もう引き留めないでくれ、おらあ正直な人間らしく、帰るんだ。これはまったく嘘偽りのない話なんだよ。」

「まあ、帰しておあげなさい。この人を引き留めておいたって、しょうがないじゃありませんか?」とチチコフが、小声でノズドゥリョフに言った。

「成程、それもそうだな!」とノズドゥリョフが答えた。「おれは、こういう愚図ぐずが死ぬほど嫌いなんだ!」そして、今度は声を張りあげて、こう言い足した。「じゃあ、勝手にしろよ、家へ帰って女房とさんざいちゃつくがいいや、助平野郎め!」

「いや、兄弟、おれを助平だなんて言っちゃいけないよ。」と妹婿が答えた。「おらあ、まったく家内には、いろいろ世話になってるんだからな。ほんとに、気立てのやさしい、親切な女で実意をつくしてくれることといったら……有難涙がこぼれるくらいだよ。屹度きっとまた、定期市いちでは何を見ていらっしゃいましたなんて訊くだろうから、何もかも話してやらなくちゃならない……まったく可愛い女だよ。」

「じゃあ、さっさと帰ってって、かかあに出鱈目を聞かせるさ! そら、お前の帽子だよ。」

「いんにゃ、お前、決してそんな風に彼女あれのことを悪く言うもんじゃないよ。それあ、お前、いわばおれを侮辱することになるんだぜ、彼女あれはまったく可愛い女だもんな。」

「ふん、だからとっととその嬶んとこへ行けってんだよ。」

「うん、じゃあ帰るよ。で、おつきあいの出来ないことは、まあ勘弁して貰うぜ。心底しんそこそれあ面白かろうけどさ、生憎そうはいかんのだよ。」こんな風に妹婿は先に帰る弁解いいわけを、いつまでもいつまでも繰り返していたが、自分がうの昔に半蓋馬車ブリーチカに乗って門の外へ出たことにも、もうずっと前から彼の眼の前にはがらんとした野原がひろがっているだけだということにも気がつかなかった。従って細君も、定期市の話をあまり詳しくこの男から聞くことは出来なかったに違いない。

「碌でもない野郎さ!」と、ノズドゥリョフは窓際に突っ立ったまま、遠ざかり行く馬車を見送りながら呟やいた。「あの、だらしのない恰好はどうだい! だが、あの側馬わきうまは悪くないなあ。大分まえから、あれをまきあげてやろうと思ってるんだがね。ところがどうして、あいつは一筋縄ひとすじなわで行く野郎じゃないんだ。助平だよ、まったくの助平野郎だよ!」

 それから二人は部屋へ戻った。ポルフィーリイが蝋燭を持って来た。その時チチコフは、何処から取り出したのか知らないが主人あるじが手に一組の骨牌カルタを握っているのに気がついた。

「さあ、一つどうだい、」そういいながらノズドゥリョフは、骨牌の両端をぎゅっと指で挟んで少し曲げるようにしたため、札が分れてパラパラと前へ飛び出した。「ほんの暇つぶしに、僕が三百ルーブリぐらいで筒元どうもとを開こうや!」

 しかしチチコフは相手の言うことがまるで聞こえなかったような振りをしながら、急に思い出したように、『あ! そうそう、実は一つお願いがあるんだが。』と言った。

「どんなさ?」

「第一、きっと承知するって、約束して欲しいんだがね。」

「だが、頼みって、一体、なんだい?」

「まあ、いいから約束をして下さいよ!」

「じゃ、そういうことにしておこう。」

屹度きっとですね?」

屹度きっとだとも。」

「そのお願いというのはこうなんで。君のお宅にも、多分、死んだ農奴でまだ戸籍簿から抹消けずってないのが相当あるでしょう?」

「うん、それああるが、それが一体どうしたというんだい?」

「それを一つ譲って頂きたいんで、僕の名義に。」

「へえ、一体そんなものを君はどうするんだい?」

「まあ、ちょっと必要があってね。」

「だが、一体なんのためにさ?」

「さあ、ちょっと必要なんで……そんなことはどうだっていいでしょう──要するに、必要なだけですよ。」

「うん、さては何か意図はらがあるんだな。白状し給え、何だか?」

意図はらがあるんですって? 冗談じゃない、そんな詰らないもので、なにが目論もくろめるものですか。」

「じゃあ、なんだって君はそんなものが欲しいんだい?」

「おやおや、君もよっぽど物好きな人ですねえ! くだらないことを一々手で触って見たり、鼻で嗅いでみなくては承知が出来ないなんて!」

「それじゃあ、どうして君は、それが言えないんだい?」

「そんなことを聞いたって、何の得にもならないじゃありませんか? まあ、ほんの空想みたいなことなんですよ。」

「ようし、じゃあ、それを君が言わないうちは、おれもうんと言わないぞ。」

「そうら、ね、それじゃあ君の方が卑劣ですぜ。ちゃんと誓っておきながら約束をたがえるなんて。」

「ああ、何とでも言うがいいさ。だが僕は、君がその理由わけを話すまでは、うんと言わないからね。」

⦅こいつは何と言ったものかな?⦆とチチコフは考えたが、ちょっと思案をした後、実は世間的に貫禄を示すため、死んだ農奴が欲しいのだ、自分は領地もあまり持っていないから、当座のあいだ、せめて死んだ農奴でも持っていたいので、と言った。

「嘘だ、嘘だ!」と、相手に皆まで言わさず、ノズドゥリョフが呶鳴った。「嘘だい、大将!」

 チチコフは、どうもこれは拙い思いつきだった、口実としても甚だ頼りないものだと自分でも認めた。「ではまあ、打ち明けて話しますがね。」と、彼は言葉を改めて、「ただこれは他人に話して頂いては困りますよ。実は結婚をしようと思ってるんです。ところが、相手の女の両親というのが、おそろしい野心家でしてね。まったく、どうも難物なんで! 僕も今更こんな連中に関りあって後悔してるんですがね、どうしても娘の婿には、三百人以上の農奴を持った人間でなけりゃいけないと言うんです。ところが、僕の持ってるのだけでは、殆んど百五十人ぐらい不足なんで……。」と言った。

「ふん、嘘を言え! 嘘を!」と、ノズドゥリョフがまた喚き出した。

「いや、今度こそは、」とチチコフが言った。「まったく、これんばかりも嘘はないんですよ。」そう言って彼は、親指で小指の頭を極めて小さく区切って見せた。

「おれは首でも賭けるが、そりゃ嘘だよ!」

「だって、そりゃ無理ですよ! じゃあ、僕は一体なんです? どうして、そう僕が一々嘘をつかなきゃならないと言うんです?」

「それあ、君という男を見抜いているからさ、君がどえらい山師だってことをね──まあ心安だてに言わせて貰えばだよ! おれがもし君の上官だったら、第一番に槍玉にあげてやるところだよ。」

 チチコフも、そんなにまで言われると、流石にむっとした。彼は少しでも粗野な言葉づかいや礼儀にそむく口のきき方をされるのが嫌いだった。彼はどんな場合でも、相手が非常に高貴な人物でない限り、自分に馴々しい態度で接しられるのさえ好かなかった。そんな訳で、今もすっかり腹を立ててしまったのである。

「断然、槍玉にあげてやるんだがなあ。」と、ノズドゥリョフは繰り返した。「おれがこう言うのも、別に君を侮辱するつもりではなく、心安だてに、ざっくばらんに言ってるんだがね。」

「だが、物には限度というものがありますよ。」と、チチコフは自尊心をもって言った。「そんな言葉づかいで見栄が張りたいのなら、兵営へでも行くがいいでしょう。」そう言ってから、こうつけ足した。「もし無償ただではお嫌なら、ひとつ売って下さいな。」

「なに売れ! だが、ちゃんとおれは知ってるぞ、君は酷い野郎だから、どうせ沢山たんとは出しやすまいが?」

「へっ! 成程お前さんも相当なもんだ! よく考えて御覧なさい! そんなものがお前さんとこでは、一体なんです、ダイヤモンドほど高価たかいものだとでもいうのですかね?」

「うん、そのとおりだよ。おれはちゃんと君を知ってるからなあ!」

「馬鹿な、ねえ君、どうしてそんなユダヤ人根性を出すんだろう! そんなもの、無償ただでくれたっていいんだのに。」

「うん、ではね、おれが決してそんな吝ん坊じゃない証拠に、代金だいなんてびた一文もとらないよ。その代り、あの種馬を買い給え、そうすれば、景品につけてやらあ。」

「冗談じゃない、種馬なんか買ったって僕はしょうがないじゃないか?」とチチコフは、まったくその申し出に面喰らって、言った。

「どうして、しょうがないものか? おれはあの馬に一万ルーブリだしたんだぜ、それを君には四千ルーブリで売ってやろうってんだよ。」

「だって、僕が種馬なんか何にするのです? 牧場を持っている訳じゃなし。」

「まあ、話を聞き給え、君はよくのみこめていないんだよ。いいかね、僕は君から今、三千ルーブリだけ貰えばいいんだよ、残りの千ルーブリは、後で結構なのさ。」

「ところが、種馬なんか僕には要らないんだから、どうもこうもありませんよ!」

「じゃあ、薄栗毛の牝馬めすを買い給え。」

「牝馬だって要りませんよ。」

「その牝馬とさ、さっき君が見たあの灰いろの馬とで、たった二千ルーブリに負けとくよ。」

「だが、僕は馬なんか要りませんよ。」

「要らなきゃ売ったらいいじゃないか。今度の定期市いちで三倍は儲かるぜ。」

「じゃあ、自分で売ったらいいでしょう、確かに三倍にもなる見込みがあるのなら。」

「儲かることは分ってるがね、君にも儲けさせてやりたいからさ。」

 チチコフは、その御好意は有難いが、灰いろの馬も薄栗毛の牝馬も要らないと、きっぱり断わった。

「それじゃあ、犬を買い給え。君にひとつ、素晴らしいつがいを売ってやろう──まったく、ぞくぞくして震いつきたくなるようなやつだぜ! 髭の生えた*8ブルダスタヤで、毛が針のように上へ突っ立っていてさ、肋骨あばらの張りぐあいと言ったら、ちょっと考えも及ばないくらいで、あしのうらだってまんまるこくって、歩いても地面じべたにつかないような逸物なんだぜ!」

「どうしてまた犬なんかが僕に要るんです? 僕は猟師じゃありませんよ。」

「でも、君が犬を飼ったらいいと思うからさ。じゃあね、犬はどうしても要らないというのなら、僕の紙腔琴シャルマンカを買わないかい。ありゃあ素敵な紙腔琴だぜ! 正直な話、僕はあれに千五百ルーブリだしたがね、君だったら九百ルーブリで手放すよ。」

「また僕に紙腔琴シャルマンカが何になるんです? 僕は、あんなものを肩にかけて門附かどづけをして歩くドイツ人とは違いますからねえ。」

「ところが、君、あれはドイツ人なんかが持って歩く紙腔琴シャルマンカとは、しなが違うんだぜ。あれあ、立派なオルガンだからね。まあ、よく見てくれよ、すっかりマホガニイ製なんだぜ。さあ、もう一度見せてやろう!」ここでノズドゥリョフはチチコフの手を掴んで隣りの部屋へ曳っぱりこもうとした。で、チチコフは足を踏んばって、自分はもうその紙腔琴のことならよく知っているからと言いはっては見たけれど、結局もう一度、マルボローの出征を歌った曲を聴かなければならなかった。「どうしても金子かねを出すのがいやならねえ、こうしようじゃないか、僕はこの紙腔琴シャルマンカと、それから死んだ農奴をありったけ君にやるから、君はあの半蓋馬車ブリーチカに三百ルーブリだけ追銭おいをうってくれ給え。」

「まあ、よして下さいよ! それじゃあ、僕はいったい何に乗って行くんです?」

「僕が別の半蓋馬車ブリーチカを君にやるよ。さあ物置へ一緒に来たまえ、そいつを君に見せるからさ! 塗替さえすりゃあ、素晴らしい馬車になるぜ。」

⦅ちぇっ、この野郎、どこまでくどいことを言やがるんだろう!⦆こう、心で思ったチチコフは、どんなことがあっても、馬車だろうが、紙腔琴だろうが、また頭では考えも及ばないような肋骨の張った、どんなあしのうらの丸い犬だろうが、いっさい御免を蒙ろうと肚をきめた。

「だって君、馬車も、紙腔琴シャルマンカも、死んだ農奴も、みんな一緒に手に入るんだぜ。」

「いやです!」と、チチコフはもう一度いった。

「どうして、いやなんだね?」

「ただ、いやだから、いやなんで──もう沢山です。」

「ふん、君も変な男だねえ、まったく! どうも君みたいな人間とは、好い友達同士の交際つきあいは出来かねるよ……そういう男さ、まったく! 君が二重人格だってことが、初めて分ったよ!」

「えっ、馬鹿な、僕が何だというんです? 自分で判断してみたらいいでしょう──では、どうしてそんな、自分に全然必要のないものを僕は買わなきゃならないんです?」

「もういいや、そんな話は止せよ。今こそ君って男がよく分ったよ。君はまったく、ひどい悪党さ! じゃあどうだい、一番、銀行バンクをやろうじゃないか? 僕は死んだ農奴をすっかり賭けるよ、紙腔琴シャルマンカも一緒に。」

「いや、銀行バンクなどで事をきめるのは、運否天賦うんぷてんぷというものですからね。」チチコフはこういいながら、同時に、ノズドゥリョフの手にある骨牌をじろりと横目で眺めた。二つに分けた札がどうもいかさま臭く思われたし、裏の模様からしてひどく怪しい。

「どうして運否天賦なんだい?」と、ノズドゥリョフが言った。「ちっとも運否天賦なんてことはないぜ! 君の方に運があれば、どえらい大儲けになるのじゃないか。そら、どうだ! 何ちゅう好い札だい!」こういいながら、彼は相手の競争熱を煽るために、札を一枚々々めくりはじめた。「何ちゅういい札だい! 何ちゅういい札だい! そうらね、いいのばかり行くじゃないか! そら、こいつはおれが何もかもすっちまった忌々しい九だ! どうもこいつは、おれを裏切るような気がしたて、それで、じっと眼をつむって心んなかで思ったよ。⦅畜生! 裏切るなら裏切りゃあがれ! 碌でなしめ!⦆ってな。」

 ノズドゥリョフがこんなことを言っているところへポルフィーリイが酒罎を持って来た。だがチチコフは、骨牌も酒もきっぱり断わった。

「どうして君は骨牌をやらないんだい?」とノズドゥリョフが言った。

「どうしてって、気が向かないからですよ。実のところ、僕は骨牌なんかてんで好きじゃありませんからね。」

「どうして好きじゃないんだい?」

 チチコフは肩をすくめて、「好きじゃないから、好かないんですよ。」と言い足した。

「くだらねえ男だなあ!」

「どうも仕方がありませんね。そういう生れつきだから。」

「なあに、君は助平野郎さ! おれは初め、君をもう少しましな人間かと思ったのに、まるで君は人づきあい一つわきまえていないんだ。君のような人間とは、友達として話すことなんて金輪際できっこない……なんら虚心坦懐なところも、誠実なところもありゃしない! まるでソバケーヴィッチそっくりの、碌でなしだよ!」

「どうしてそんなに僕を悪く言うんです? 骨牌をやらないからって、僕が悪いんですかね? 君がそんな詰らないことでがみがみ言うような人なら、死んだ農奴だけ売って貰えば沢山ですよ。」

「くそ喰らえだ! おれは、無償ただでもやろうかと思ってたのだが、もう断じて、やらないぞ! 帝国を三つよこしたって、呉れてやるもんか。この大山師の、穢ないしみったれ野郎め! おれはもうこれからさき君みたいな男とは、いっさい、つきあわないよ。おい、ポルフィーリイ、馬丁のところへ行ってそう言え、この男の馬には燕麦なんぞやっちゃいけないって、乾草だけ食わせておけば沢山だと。」

 チチコフは、まさかこんな話になろうとは、夢にも思っていなかった。

「君みたいな男は、もう顔を見るのも嫌だよ!」と、ノズドゥリョフが言った。

 だが、こんな争いをした癖に主人は客と一緒に晩餐をしたためた──もっとも、今度はもう食卓へ例のいろんな凝った名前をつけた酒は一本も出なかった。ただ、*9サイプラスかなんかの罎が一本きり立っていたが、それはどのみち⦅酸っぱいもの⦆と言われている代物に違いなかった。夕食が済むとノズドゥリョフは、チチコフのために寝床の支度が出来ている横手の部屋へ彼をつれて行って、『そら、これが君の寝床だよ! おれは君に、ゆっくりお寝みなどとは言いたかないのさ。』と言った。

 ノズドゥリョフが出て行くと、チチコフはこの上もない不快な気持で後に残った。彼は内心で我と我身を忌々しく思い、またこんな男のところへやって来て無駄に時間を潰したことが腹立たしくて自分で自分を罵った。だが何より例の一件をノズドゥリョフに漏らしたことが口惜くやしかった。まるで赤ん坊か馬鹿者のように無分別むふんべつなことをやったものである。実際この一件は、決してノズドゥリョフはいに打ち明けるべき性質のものではなかったのだ……。ノズドゥリョフって奴は人間の屑だ、出鱈目な嘘をついたり、大袈裟なことを言って、飛んでもないことを吹聴して廻りかねないから、どんな悪い噂を立てられるやら、分ったものじゃない……。いけない、いけない。『おれは、ほんとに馬鹿だった!』と彼は一人で呟やいた。その夜、おちおちと彼は眠れなかった。何か小さな、その癖おそろしく素敏すばしっこい昆虫むしめが、とても我慢が出来ないほどチクチクと彼のからだすものだから、手を一杯にひろげて彼は螫された箇所ところをポリポリ掻きむしりながら、思わず、『えい、畜生ども、ノズドゥリョフの野郎と一緒に鬼にでも食われてしまやがれ!』と口走ったものだ。朝はやく彼は眼を覚ました。彼の第一番の仕事は、寝巻をはおり、長靴を突っかけざま、庭をとおって厩へ行き、セリファンにすぐ馬車の支度をしろと言いつけることだった。また庭をとおって戻って来ると、ばったりノズドゥリョフに出会った。この男もやはり寝巻のままで、煙管パイプをくわえていた。

 ノズドゥリョフは馴々しく挨拶をして、昨夜はよく眠れたかと訊ねた。

「まあ、どうにかね。」とチチコフは、ひどく無愛想に答えた。

「ところが僕の方は、君、」と、ノズドゥリョフが言うには、「っぴて、話をするのも胸糞の悪い、いやな夢を見たんだよ。それに昨日からの祟りで、口ん中に、まるで騎兵の一個中隊も泊ってやがるような気持さ。ね、とろとろっとすると、夢でおれをひっぱたきゃあがるんだよ、まったく! 然もそいつが誰だと思う? とても君なんかに見当がつくもんか。例の騎兵二等大尉のポツェルーエフとクヴシンニコフの野郎とだよ。」

⦅そうさ、⦆とチチコフは、肚の中で考えた。⦅手前なんざ、夢でなしに本当にぶん殴られたらよかったのに。⦆

「まったくだよ! それあ、とても痛かったねえ! 眼を覚ましてみると、畜生、ほんとに何かむずむずしやがるのさ──きっと蚤の畜生だよ。じゃあ、君は行って着物を着替えて来たまえ。僕もすぐ後から行くからね。実は、ちょっと管理人の悪党を怒鳴りつけてくれなくちゃならないのだ。」

 チチコフは部屋へ帰って、顔を洗い、着物を着替えた。そうした後で彼が食堂へ出て行くと、テーブルにはもうお茶の道具が出ており、ラムが一本そえてあった。昨日の昼飯と晩飯の名残りが部屋に残っていた。どうやら箒の先きがまんべんに行届かなかったらしい。床には麺麭パンかけらが散らばっているし、卓布には煙草の灰までくっついている。別に手間どらなかったと見え、主人も間もなく入って来たが、寝巻の下に何ひとつけていないので、はだけた胸から黒々とした胸毛が覗いていた。この男が長い煙管パイプを手に持って、茶碗からお茶を啜っている恰好は、理髪店とこやの看板みたいに髪をぴったり撫でつけたり、きれいにウエーヴをかけた紳士や、きちんと髪を短かく刈った紳士などの恐ろしく嫌いな画家にとっては、正に好個の画題であった。

「さあ、一つどうだね?」とノズドゥリョフは、暫らく黙っていた後で言った。「農奴を賭けて一勝負やろうじゃないか?」

「僕はもう骨牌は御免だと言っておいたでしょう。売って頂けるのなら、買いますがね。」

「売るなんて、いやだよ。第一、水臭いじゃないか。おれはそんな訳の分らないことに手は出さないよ。だが、銀行バンクは──別だからね。ほんの一番、手合わせをしようじゃないか!」

「何度も言うとおり、それは御免を蒙りますよ。」

「じゃあ、交換しちゃどうだね?」

「いやです。」

「うん、それじゃあ、将棋を指そうや。君が勝てば、みんな君のものさ。何しろ、おれんとこにゃあ、戸籍簿から削らなきゃならんやつが、うんとあるからね。えい、ポルフィーリイ、将棋盤を持って来い!」

「駄目ですよ。僕はやりゃしませんから。」

「だって、これは銀行バンクと違って、運も誤魔化しもあったものじゃない。腕前だけの話さ。第一、おれは碌すっぽ指し方も知らないんだから、幾手か先手を指させて貰わにゃ駄目だよ。」

⦅やって見るかな、⦆と、チチコフは肚の中で考えた。⦅奴と一番さして見よう。おれも将棋なら相当に指したものだし、奴さんも、将棋でいかさまはちょっと難かしかろうからな。⦆

「じゃあ、仕方がない、ひとつお相手しましょう。」

「それじゃあ、おれは死んだ農奴を賭けるから、君は百ルーブリ賭けるんだぜ!」

「どうして? 五十ルーブリ賭けたら沢山ですよ。」

「駄目だい、そんな五十ルーブリなんて賭があるもんか? よし、じゃあその百ルーブリに対して、中ぐらいの仔犬か、それとも時計につける金の印形いんぎょうでも添えることにしようじゃないか。」

「じゃ、そういうことに。」とチチコフが言った。

「で、先手は幾手やらせるね?」ノズドゥリョフが言った。

「そりゃ、どうしてですか? もちろん平手ひらてですよ。」

「せめて二手ぐらいは先きにやらせ給え。」

「駄目ですよ。僕だって下手なんですから。」

「ふん、どんなに君が下手だか、ちゃんと知ってるさ!」そう言いながら、ノズドゥリョフは駒を一つ進ませた。

「ずいぶん永らく駒を手にしませんからね!」そう言って、チチコフも駒を動かした。

「下手だなんて仰っしゃっても、ちゃんと知ってますよだ!」そう言って、ノズドゥリョフはまた駒を進めた。

「ずいぶん永らく駒を手にしませんからね!」同じことを言って、チチコフも駒を動かした。

「下手だなんて仰っしゃっても、ちゃんと知ってますよだ!」そう言いながらノズドゥリョフは駒を動かしたが、それと同時に、袖口でもう一つ別の駒を進めた。

「ずいぶん永らく駒を手にしませんから!……おや、おや! これは一体どうしたんですか? 後へ返して下さい!」とチチコフが言った。

「何をさ?」

「駒をですよ。」とチチコフは言ったが、それと同時に、すぐ自分の鼻の先きに、もう一つ別の駒がすでに女王を狙っているらしいのに気がついた。一体そいつが何処から飛び出して来たかは神様でも御存じないだろう。「駄目です。」と、チチコフはテーブルから立ちあがって、言った。「君とは、とても勝負なんか出来ませんよ。こんなやり方ってあるもんじゃない──一度に駒を三つも動かすなんて!」

「どうして、三つなんて言うんだい? こいつは、間違いだよ。知らない間に動いていたのだ。これを引っこめれば、いいんだろう。」

「じゃあ、もう一つの方は、何処から来たんです?」

「もう一つの方って、どれのことだい?」

「そら、それですよ、この、女王を狙ってるやつはどうしたんです?」

「おや、おや! 君は憶えがないんだね!」

「いや、僕は初めから、ちゃんと手を数えて、何もかも憶えていますよ。君はたった今それをここへ持って来たんです。そいつは、ほら、ここにあるべきです!」

「ここにある筈だって?」と、ノズドゥリョフは真赤になって言った。「ふん、して見ると君はいんちきだな!」

「いや、そう言う君こそいんちきでしょう。ただそれがうまく行かなかっただけで。」

「なに、おれを一体、何だというんだ?」とノズドゥリョフが言った。「おれが、いかさまをやるとでも言うのか?」

「僕は君なんだとも言やしませんがね、ただ今後はもう一切お相手をしませんからね。」

「いいや、今更やめることは出来ないぞ、」とノズドゥリョフは、っときこんで言った。「勝負は始まったのだから!」

「君の方で正直な人間にふさわしい指し方をしない以上、僕は止める権利がありますよ。」

「嘘をつけ! 君にそんなことは言わせないぞ!」

「いいや、君の方こそ嘘をついているのです!」

「おれはいかさまなんかやらなかったのだから、君も今更やめるって法はない。どうしても勝負をつけなきゃならないぞ!」

「そんなことを言ったって、無理にやらせることは出来ないでしょう。」こうチチコフは冷然と言い放って、将棋盤に進みよるなり、駒を引っ掻きまわしてしまった。

 ノズドゥリョフは烈火のようになって、チチコフに詰めよった。その剣幕に、こちらは思わず二三歩、後へさがった。

「是が非でも指させずにおくものか。駒を掻きまぜたって、なんにもなりゃしないぞ! 順序はちゃんと憶えている。もう一度、もとどおりに並べかえるだけだ。」

「いや、もうお仕舞しまいですよ。僕はもう君とは指しませんからね。」

「じゃあ、君はどうしても指さないというんだな?」

「君と将棋なんか指されないことは、分りきってるじゃありませんか。」

「いんにゃ、さあ、はっきり言い給え、どうしても指さないんだね?」こうノズドゥリョフはなおも詰めよりながら言った。

「指しません。」そうは言ったもののチチコフは、事態がいよいよ急迫して来たので、万一の場合にそなえて両手を顔の近くへ持って行った。この用心は確かに時宜じぎを得たものであった、というのは、その時ノズドゥリョフが力まかせに手を一つ振りまわしたからで……危く、我等の主人公のふっくらした気持の好い片頬に、消しがたい汚辱のあとが残るところであった。けれど幸いにも彼は殴打を免がれて、ノズドゥリョフのげきした両手を掴んで、しっかりと押えつけた。

「ポルフィーリイ! パウルーシカ!」と、ノズドゥリョフは手を振りほどこうとして躍起になりながら、狂気のように喚きたてた。

 この声を聞くとチチコフは、こんな大人げない場面を召使どもに見られては工合ぐあいが悪いし、それに、ノズドゥリョフを捉まえていたところで所詮無駄だと思ったので、掴んでいた手を放した。ちょうどそこへ、ポルフィーリイがパウルーシカと一緒に入って来た。殊にパウルーシカというのは頑丈な若者で、こんな奴と事を構えては、全然勝味かちみがなかった。

「それじゃあ、君はどうしてもこの勝負をつけないというんだな?」と、ノズドゥリョフが言った。「そうならそうと、はっきり返事をし給え!」

「勝負をつけようにも、つけられませんよ。」そう言ってチチコフは、ちらと窓の外を見やった。すっかり用意の出来ている自分の半蓋馬車ブリーチカが眼についた。セリファンは合図のあり次第、馬車をポーチへ寄せようと待ち構えているらしい。しかも、如何いかんともこの部屋から外へ逃げ出しようがない。扉口には二人の頑丈な鈍物どんぶつが立ちはだかっているのだ。

「じゃあ、どうしても勝負をつけないというんだな?」とノズドゥリョフは、火のように顔をほてらせながら繰りかえした。

「君がもし、正直な人間らしくやればですが……しかし、もうお相手は御免です。」

「ああ、それじゃあ指せないってんだな、悪党! 自分の方に勝味がないものだから、それで指さないんだな! さあ、こいつをどやしつけろ!」こう彼は、ポルフィーリイとパウルーシカに向って、無我夢中で喚きたてた。そして自分でも長い桜の煙管パイプを握ってきっと身を構えた。チチコフはサッと布のよう顔色を変えた。彼は何か言おうとしたが、唇がブルブル顫えるだけで声は出なかった。

「こいつをどやしつけろ!」ノズドゥリョフはこう叫びながら、桜の煙管パイプを振りかざして、まるで難攻不落の城塞へでも攻め寄せるように、全身を火のようにほてらせて、汗ぐっしょりになりながら前へ詰めよった。「どやしつけろ!」と彼は、ちょうど、向う見ずな蛮勇のために大会戦の時には、その手を扼して動かさないようにと特別な命令の出ることで有名になっている無鉄砲な中尉が大突撃の時、自分の小隊に向って『突貫ッ!』と叫ぶ、あれと同じような声をあげて喚いたものである。ところがその中尉はもうすっかり戦闘熱にうかされて、彼の頭は旋風つむじかぜのように混乱してしまい、眼の前に10スヴォロフ将軍の姿でもチラつくように勇躍ゆうやくして、巧名手柄こうみょうてがらに向って突進するのだ。彼は自分の猪突猛進が総攻撃の作戦を台無しにしてしまうことも、雲に聳ゆる要害堅固な城塞の銃眼じゅうがんから数限りなき銃口がこちらを狙っていることも、自分の率いる無力な一小隊などは木葉微塵こっぱみじんに吹き飛ばされてしまうだろうことも、彼の喚き叫ぶ咽喉をハタと閉ざしてしまおうとして、宿命的な敵弾がもうヒューンと唸り声を立てながらこちらへ飛んで来つつあることも、てんで考えようとはしないで、遮二無二しゃにむに突進しながら、『進めえッ、進め!』とおめくのである。ところが、ノズドゥリョフの方が、城塞に向って突貫する、向う見ずな、逆上した中尉であったにしても、彼が攻め寄せて行った城塞そのものは、いっこう難攻不落でもなさそうだった。それどころかこの城塞ときては、すっかり怖気おじけづいてしまって、魂も身に添わぬ為体ていたらくであった。彼がそれで自分の身を防ごうと思った椅子は、いちはやく二人の奴隷によって彼の手からぎ取られてしまったので、今や彼は観念の眼をつぶって、生きた心地もなく、この家の主人のチェルケス製の煙管パイプ真向まっこうから受けようと待ち構えていた。まったく彼の身がどうなることやら、神様にだって分らなかったが、計らずも運命の神が我等の主人公の脇腹や、肩や、きちんと整ったからだのあらゆる部分を救ってくれたのである。思いがけなく、まるで天からでも降って来たように、不意にリンリンと鳴る鈴の音が聞こえ出すと、やがてこの家の玄関へ乗りつけるらしい馬車の車輪くるまの音がはっきり聞こえて、それから、ついに停ったらしい三頭立トロイカの癇の立った馬の荒い鼻嵐と重苦しい息切れが部屋の中まで響いて来たのである。一同は思わず窓の外を見た。誰か、半ば軍服がかったフロックをて口髭を生やした男が馬車から降りた。その男は玄関で案内を乞うと、ちょうどチチコフがまだ先刻の恐怖から我れに返る暇もなく、人間がかつて際会さいかいした最も哀れな状態にあるところへ、つかつかと入って来た。

「ちょっとお尋ねしますが、ノズドゥリョフさんと仰っしゃるのは何方どなたですか?」その見知らぬ男は、長い煙管を鷲掴みにして突っ立っているノズドゥリョフと、ようやく不利な情勢から立ちなおりかけたチチコフを、ややいぶかしげに見やりながら、訊ねた。

「そう言う君は誰ですか? それから先きにうけたわりたい。」とノズドゥリョフは、その男の方へ近寄りながら、訊き返した。

「郡の警察署長です。」

「それで、どんな用があるんですね?」

「私は、或る事件の決定するまであなたが起訴されておいでになるむね、報告に接したことをお伝えに参ったのです。」

「何を馬鹿な、或る事件って、いったい何だね?」と、ノズドゥリョフが言った。

「あなたは酩酊のあまり、地主マクシーモフに棍棒をもって個人的な侮辱を加えたという事件に関係しておられるのです。」

「嘘をつけ! おれは地主のマクシーモフなんて見たこともないのだ。」

「お黙りなさい! 私は役人ですぞ。そういう言葉は御自分の召使に向って仰っしゃるべきで、このほうに対してはお慎みなさい。」

 ここでチチコフは、ノズドゥリョフがそれにどう返答をするか、そんなことは聞こうともしないで、急いで帽子を掴むと、そのまま警察署長の後ろをすり抜けて玄関へ飛び出し、半蓋馬車ブリーチカへ乗りこみざまセリファンに向って、全速力で馬を走らせよと言いつけたのである。

*1 オポデリドック パーウェルをもじって故意わざとこんな滑稽な名前で揶揄からかったのである。

*2 ソフロン 古代ギリシアの道化劇作者の名前。

*3 紙腔琴シャルマンカ 長方形の箱の中に音を発する装置があり、楽譜を刻んだ紙を函の中央部に並んだ簧列こうれつの間にとおして把手を廻すと自動的に音楽を奏する楽器。

*4 マルボロー ジョン・チャーチル(1650-1722)イギリスの名将で政治家。ヨーク侯(後のヤコフ二世)に重んぜられ、女帝アンナにも仕えて、スペイン戦争その他では英国軍の名声を全世界に轟かした。

*5 ソーテルン 産地ソーテルン市の名を冠したフランス産の白葡萄酒。

*6 王水 強硝酸と強塩酸との混合液で、通常の酸に溶解せぬ金、白金を溶解し得る強烈な作用を有する。

*7 ブルガンデイ フランス産の赤白の葡萄酒、渋味が強い。

*8 ブルダスタヤ フランス種の猟犬。グリッフォンともいう。

*9 サイプラス 英領サイプラス島産の酒の名。

10 スヴォロフ将軍 伯爵アレクサンドル・ワシーリエヴィッチ(1730-1800)元帥。七年戦争に勇名を馳せた将軍。ポーランドやトルコの軍を破り、プガチョフの乱を平定し、後、フランスのイタリア侵略を阻止した功によりイタリア政府より公爵を授かる。


第五章


 我々の主人公は、しかし、いいかげん怖気づいてしまっていた。馬車が全速力で駈けて、ノズドゥリョフの村はもう野原や傾斜地や丘に遮られて、とっくに影を没してしまったにも拘らず、今にも追手がかかりはせぬかと、なおも彼はびくびくしながら、絶えず後ろを振り返り振り返りした。呼吸いきをするのも苦しく、胸に手を当ててみると、籠に入れたうずらのように心臓が躍っていた。『畜生、酷い目にあわしゃあがって! ちぇっ! なんちう野郎だろう!』そこで、ノズドゥリョフに対して、ありとあらゆる残酷な、思いきった呪詛じゅそが浴びせられ、ずいぶん聞き苦しい毒舌も吐きちらされた。だが、どうしようがあろう? ロシア人で、然もかんかんに怒っている際だ! それに、これは決して冗談ごとではないのだ。『何と言ったって、』と、彼は独り呟やいた。『あすこへ、ちょうど折よく、警察署長が来てくれなかったものなら、おれはあのまま二度とお天道さまも拝めなくなってしまっていたかも知れないぞ! まるで水の上のあぶくのように跡形もなく消えうせてしまって、おれは子孫も残さねば、未来の子供のために、財産も、歴乎とした名前も残してやることが出来なかったに違いない!』我等の主人公は、ひどく自分の子孫のことを気にかけていた。

⦅飛んでもねえ業突張ごうつくばりな旦那さ!⦆と、セリファンも肚の中で考えた。⦅ついぞこれまで、あんな旦那は見たこともねえや。ほんとに、唾でもひっかけてやりたいくらいだ! それあな、人間ひとに物を食わせねえことは、まあいいとしてもさ、馬にはたっぷり食わせなきゃあなんねえだよ、馬は燕麦が好きだからよ。それがあいつらの飯米はんまいなのさ。言ってみれあ、こちとらの給金に当るものが奴らには燕麦なんだからなあ。それがあいつらの飯米って訳さ。⦆

 馬どもも矢張り、ノズドゥリョフのことをよく思っていなかったらしい。栗色や『議員』だけではなく、連銭葦毛れんせんあしげまで甚く機嫌が悪かった。彼は何時もきまって二の次の燕麦しかあてがわれず、然もセリファンは『えい、この獄道め!』と言わないことには、決してそれを秣槽へ入れてくれなかったけれど、それでもやはり燕麦は燕麦で、決してただの乾草などではなかった。だから彼は結構それで満足してモグモグやりながら、時々、それも特にセリファンが厩舎にいないような時に限って、自分の長い鼻面を隣りの相棒の秣槽へ突っこんで、一体どんな御馳走を宛われているのかと、ちょっとお塩梅を見たりしたものだ。ところがあの家では、まるっきり乾草ばかりじゃないか──馬鹿にしてやがる! ってんで、どの馬もみんな不服であった。

 しかし、こうした一同の不平不満は、まったく思いもかけぬ不意な出来事のために間もなく中途で吹っ飛んでしまった。馭者をはじめ一同は、先方から来た六頭立の軽馬車にばったりつかって、殆んどすぐ頭の上で、軽馬車に乗っていた婦人連の悲鳴と、『やい、この馬鹿野郎! おれが声をからして、よけろっ、阿呆、右へよけろって、あんなに呶鳴ったでねえか! 手前てめえ、酔っぱらってやがるのか?』と威猛高いたけだかに罵る先方の馭者の喚き声を聞いて、初めてハッと我れに返った。セリファンは自分のうっかりしていたことに気がついたが、ロシア人の癖でこちらが悪かったと他人の前へ頭をさげることが出来ず、すぐに彼も虚勢を張って、『なにをっ、手前こそ何だってこんな無茶な駈け方をさらしゃあがるんだ? 眼のくり玉を居酒屋へ抵当かたにでもおいて来やがったのかい?』こう言ってから彼は、先方の馬から引き離そうとして馬車を後へ戻しにかかったが、どっこいそうは行かないで──いよいよもつれるばかりだった。連銭葦毛の奴は自分の両側へひょっこり姿を現わした新らしい友達を、さも物珍らしげに嗅ぎまわしている。一方、軽馬車に乗っていた婦人連は、恐怖の色を顔に表わしながら、始終の様子を眺めていた。一人は老婆であったが、もう一人の方は十六七の娘で、金色の髪を小柄こがらな頭に大変手際よく、綺麗に撫でつけていた。その可愛らしい瓜実顔うりざねがおは新らしい玉子のような円味まるみをもち、またちょうど生みたての玉子を女中頭が浅黒い手でに透かして検査する時にキラキラ光る太陽の光線にほんのりとそれが透けて見えるような白さであった。華奢きゃしゃな耳もまた同じように暖かい光りを受けてぽっと赤らんで同じように透きとおって見える。おまけに吃驚びっくりして軽く開けたままぼんやりしている口つきといい、涙ぐんだ眼もとといい──何もかもがまたなく可愛らしく見えたので、我等の主人公は、馬や馭者たちの間に起こった悶著もんちゃくなどはすっかり他所よそにして、しばらくはうっとりと娘に見惚れていた。『後へさがらねえかい、このニジェゴロドの鴉め!』と先方の馭者が呶鳴った。セリファンは手綱をぐっと後ろへ曳っぱった。先方の馭者も同じようにした。すると馬はお互いに少し後ずさりをしたが、今度は挽革ひきがわを踏んづけて、又こんぐらがってしまった。その最中に連銭葦毛の奴は、よほど新らしい友達が気に入ったと見えて、思いがけない運命ではまりこんだわだちから、いっかな抜けようとはしないで、その新しい友達の頸へ自分の鼻面をのっけて、相手の耳へ何やら囁いているようだったが、恐らく馬鹿げきったことを喋ったのに違いない、先方の馬が絶えず耳を振り動かしていたから。

 が、幸か不幸かすぐ近くに村があったので、早速この騒ぎに百姓どもがわんさと集まって来た。百姓たちにとってはこういった見世物が、ちょうどドイツ人にとっての新聞や倶楽部と同様に、誠に有難い天の恵みであった。で、馬車のぐるりには見る見る黒山のような人集ひとだかりがして、村に残っているのは、老婆や赤ん坊だけという有様であった。挽革がほどかれた。連銭葦毛は鼻面を二つ三つぶん殴られて、たじたじと後もどりをした。つまり相思の馬が生木なまきを裂くように無理矢理ひき離された訳である。ところが折角の友達との間を裂かれて、むかっ腹を立てたのか、それともただの我儘わがままからか、先方の馬どもは、どんなに馭者が鞭打っても、まるで根でも生えたように頑としてその場を動かなかった。百姓たちは、まるで信じがたいほど躍起になった。彼等は先きを争って、めいめい要らぬおせっかいをした。『おい、アンドリューシカ、お前、右側の傍馬わきうまを曳っぱれよ。それからミチャイ小父おじ、お前は轅馬なかうまに乗っかりねえ。さあ、乗っかりねえよ、ミチャイ小父!』すると茶いろの顎鬚を生やした、痩せこけて背のひょろ長いミチャイ小父が轅馬の背中へ這いあがったが、その恰好はまるで村の鐘楼しょうろうか、否それよりも、井戸の撥釣瓶はねつるべそっくりだった。そこで馭者が馬どもをピシピシひっぱたいたが、なかなかどうして、旨くはゆかなかった。一向ミチャイ小父も役には立たないのだ。『待った、待った!』と百姓たちが叫んだ。『ミチャイ小父、お前は傍馬の方へ乗っかりねえ、そうして轅馬にゃ、ミニャイ小父を乗っからせるんだよ!』ミニャイ小父は漆のように真黒な顎鬚を生やした、肩幅の広い百姓で、寒さに凍えた市場じゅうの連中に飲ませるに足るほどの蜜湯スビデニでも沸かせるような、あの途轍もなく大きなサモワールそっくりのどてっ腹をしていたが、彼が喜んで轅馬の背に跨がると、その重みで馬の方が危く地面じべたへへたばりそうになった位だ。『今度は旨くいくぞ。』と百姓たちが叫んだ。『さあ、そいつを思いっきりひっぱたくんだよ、思いっきり! うんと鞭で責めるんだよ、そら、そっちの雲雀毛ひばりげのやつをさ、──一体どうしやがったんだい、まるで蚊姥ががんぼみてえに足を突っぱりゃあがって?』しかし、それでも一向首尾よく行かないし、いくらひっぱたいても何の役にも立たないことが分ったのでミチャイ小父とミニャイ小父とが轅馬に乗り、傍馬にはアンドリューシカを乗っけた。だが、とうとう馭者は我慢がならなくなって、ミチャイ小父もミニャイ小父も二人とも馬の背から追っぱらってしまった。これはまったく時宜に適した処置で、馬どもはまるで一丁場いっちょうばも息もつかずに駈けつけたように、びっしょり汗をかいていたのである。彼はちょっと馬を休ませた。するとやがてのことに馬どもはひとりでに歩きだした。この騒ぎのあいだじゅうチチコフは見知らぬ若い娘をじっと見つめていた。彼は何度も娘に言葉をかけて見ようと思ったのだが、どういうものか旨く行かなかった。そうこうしているうちに婦人連は立ち去ってしまって、あのなよらかな面差おもざしと、なよらかな姿態と共に、可愛らしい娘の顔もいつしか幻のように消えてしまった。そして又もや後には、街道と、半蓋馬車ブリーチカと、読者もお馴染の三頭の馬と、セリファンと、チチコフと、茫邈ぼうばくたる界隈の田野でんやががらんとして取り残されたのである。何処であろうが、到るところ、この世の中では、あの冷酷無情な、がさつで惨めな、汚ならしく黴の生えたような下層社会の中でも、或はまた単調で冷淡な、いやに退屈に取りすましたような上流社会の間でも、人は必ず一度や二度はまだそれまでに出逢ったこともないような現象に出逢って、生涯、夢に見ることもないような感情に胸をときめかせることがあるものだ。さまざまな悲哀が折り重なって我々の生涯をどのように織り成していようとも、輝かしい喜びの光りがいつかは楽しく照り映えるものだ──それは丁度、絵に描いたような金ピカの馬具をつけた馬に曳かれた馬車が、窓ガラスをキラキラ光らせながら、突然、思いがけもなく、ついぞそれまで荷馬車より他は見かけたこともないような、惨めに荒れ果てた寒村を通り過ぎてゆくようなものだ。百姓たちは口をぽかんと開けて欠伸をしながら、帽子を被るのも忘れて、もうっくにその素晴らしい馬車は通り過ぎて影も形も見えなくなってしまったのに、何時までもぼんやりと突っ立っているのである。丁度それと同じように、あの金髪の娘も不意に、まったく思いがけもなく、この物語へ姿を現わしたが、またたちまち姿を掻き消してしまったのである。この際、もしもチチコフの代りに二十台の青年がいたとしたなら──それが驃騎兵であれ、学生であれ、乃至は浮世の旅路に踏み出したばかりの若者であれ──とにかく、そうした青年であったならば、おお神様! 彼の胸はどんなに昂奮し、感動し、有頂天になったことであろう! 必ずや彼は、ぼんやりと遠く眼を見張ったまま、道も忘れ、時間に遅れたらこの先きどんなひどい譴責けんせきに逢うかも忘れ、己れを忘れ、職務を忘れ、世界も、世界にありとあらゆるものをも打ち忘れて、いつまでも気を失なったように一つところに立ちつくしたことであろう。

 だが、我々の主人公は既に中年ではあり、それに用心深く冷静な性質たちの人間であった。彼にしても矢張り物思いに沈みはしたけれど、それはより着実な考え方で、決して無分別なことではなく、一面彼の考えには非常にしっかりした根柢こんていさえあった。『なかなか好い娘っ子だった!』と彼は煙草入をあけて嗅煙草を一服かいでから、呟やいた。『だが、あの娘の何処が一番いいんだろう? どうやらあの娘は、ついこの頃どこかの寄宿学校か国立女学院を卒業したばかりらしく、まだどこにも、いわゆる女臭いところ、つまり、女性としての最も不快いやなところがないから好いのだ。あの娘は今のところまだ子供みたいなもので、何もかもが単純で、何でも思ったとおりに喋り、可笑しいままに笑うのだ。あの娘はまだどんなものにでも仕上げることが出来る、玉にもなれば、瓦にもなる──が、恐らく瓦になってしまうだろう! まあ、今あの娘を、お袋さんか叔母さんの手へまかせて見るがいい。そうすれば、ものの一年もたてば、すっかりあの娘は女のいやなところで一杯になって、生みの父親でさえ見違える位に変ってしまうだろうから。いつの間にか威張ったり気取ったりすることを覚えこみ、聴き覚えの教訓にしたがって身を振舞い、誰とどんな話を、どの位したらよいかとか、誰をどんな風に見たらいいかというようなことばかりに工風くふうを凝らして頭を悩ましたり、自分が少しでも余計なことをしゃべりはしないかと、しょっちゅう、そんなことが心配になるのだ。そして挙句の果にはすっかり自分でこんぐらがってしまい、とどのつまりは一生涯嘘をついてまわるばかりの、何ともはや得体の知れぬ代物になってしまうのだ!』ここで彼は暫らくのあいだ口をつぐんでから、やがてこう言い足した。『だが、あれは誰の娘だろう? 親父はどんな人間かしら? 金持かねもちで気前のいい地主だろうか、それとも奉職ほうしょくちゅうにたんまりと財産を拵えたような、親切気のある人間ではなかろうか?──それを突きとめられたらいいんだがなあ。だって、仮にあの娘に二十万ルーブリも持参金がついてみろ、それこそとても素晴らしいお膳立ぜんだてじゃないか。どうして、それだけあれば、いわゆる相当な人間の幸福がでっちあげられるというもんだ。』この二十万ルーブリという金高が、彼の頭の中で非常に魅惑的な夢を描きだしたため、先刻、あの馬車のまわりでごたごたしている間に、どうして馭者か馬丁からあの一行がどこの誰だか訊き糺しておかなかったのだろうと、彼は我れと我が身に腹を立てはじめた位であった。だが、間もなくソバケーヴィッチの村が見えだしたので、そうした考えは消え失せて、またしても例の一件に心を奪われて行った。

 その村は彼には相当大きなものに思われた。白樺と松との二つの林が、ちょうど二つの翼をひろげたように──村の右と左とに、片方は黒々として、片方は明るい色をして伸びていた。その真中のところに、中二階のついた木造の家が見えており、屋根は赤く、壁は鼠いろ、というよりはむし粗壁あらかべのままで──ちょうど今時、屯田兵とんでんへいの宿舎や、ドイツ人の移民の住居に建てられているような家だ。これを建てるにあたって建築師は、さぞひっきりなしに主人の好みと争ったであろうことが、まざまざと思いやられる。その建築師は形式ばった男で、頻りに釣合いシムメトリイを主張したが、主人の方はただもう便利なことばかりを重んじたものと見え、対称として一方の側にも当然あるべき窓がことごとくふさがれてしまって、その代りに、暗い納戸なんどにでもつけたらしい小さな小窓が一つ切り開けてあるだけというような結果になってしまった。正面の破風はふもやはり、建築師がどんなに苦心しても、家の中央へ持って来ることが出来なかった。それというのも、主人が片側の円柱を一本取り除くようにと命じたからで、そのために、四本という設計になっていた円柱が、三本きりになってしまったのである。庭は、丈夫な、途方もなく太い木の柵で囲まれていた。ここの地主は何によらず、ひたすら頑丈にすることばかり心掛けているらしく、厩舎にも、物置にも、台所にも、幾世紀でもちそうな、実にどっしりとした、太い丸太が使ってある。村の百姓どもの小屋にしても、まったく素晴らしい骨組で、壁に煉瓦を使ったり彫刻の飾りをつけたり、その他くだらない工風が何一つしてない代りに、すべてが頑固一点張いってんばりに仕上げてある。井戸桁いどげたにまで水車か船にでもなければ使わないような、がっしりした樫材かしざいが用いてあった。要するに何を見ても実に丈夫そうで、決してビクともしないような、頑固で不細工な仕組になっていた。ポーチへ馬車を乗りつけながら、チチコフは、殆んど同時にちらと二つの顔が窓から覗いたのに気がついた──頭巾帽をかぶった、胡瓜のように細長い女の顔と、モルダヴィヤ南瓜かぼちゃのようにずんぐりした男の顔とだ。モルダヴィヤ南瓜というやつは、瓢箪ひょうたんとも呼ばれて、ロシアではこれでバラライカを拵らえる。二弦にげんの手軽なバラライカで、その音もゆかしい爪弾つまびきを聴きに集まる、胸や首筋くびすじの白い娘たちにめくばせをしたり、口笛を吹いたりする、あの二十歳はたち前後のおしゃれで剽軽ひょうきんな若者たちの装飾かざりでもあり、慰めでもある。さて二つの顔は、チラと覗いたと思ったら、すぐ引っこんでしまった。ポーチへ、青い竪襟たてえりのついた灰色の上衣をた従僕が出て来て、チチコフを玄関へ招じ入れたが、既にそこには主人が出迎えていた。彼は客の姿を見ると、いきなり『どうぞ!』と言って、チチコフを奥へ連れて行った。

 チチコフが横眼よこめでチラと眺めると、今度はソバケーヴィッチの恰好が中ぐらいの熊そっくりに見えた。ている燕尾服が熊の毛色そのままで、袖も長ければズボンも長く、おまけに鰐足わにあしでドタバタと外輪に歩いて始終、他人ひとの足を踏んづけるのだから、いよいよ熊そっくりということになる。顔も火のようなあから顔で、五カペーカ銅貨のような色をしている。もっともこういう顔は世間にざらにあって、これを仕上げるのに造物主は大して苦心も払わず、やすりだのきりだのといったような小道具は一つも使わないで、ただおおざっぱに刻んだだけだ。斧をチョンと入れると鼻が出来、もう一つチョンとやると唇が出来る。そこで大きな丸鑿まるのみで眼をこじあけ、細かい仕上げなどは一切省いて、『生命あれ!』と言うなり、この世の中へおっぽりだした訳である。ソバケーヴィッチの顔は全くそういった具合に、恐ろしく頑丈で荒削りに出来ていた。それも胴の上に支えているというよりはむしろぶらさげているといった方がいいくらいだ。然も猪頸いくびで全然どちらへも曲らない。どちらへも曲らないから、自然、話し相手の顔は滅多に見ないで、いつも暖炉の端か扉口へ眼をやっているのだ。チチコフは食堂を通りすぎながら、もう一度チラと横眼で相手を見やった。熊だ! まったく熊だ! 成程こうまで不思議に似ているのも無理はない──名前からして*1ミハイル・セミョーノヴィッチというのだから。チチコフはこの男が他人の足をよく踏んづける癖のあることを知っていたので、出来るだけ自分の足許に気をつけて、なるべく相手を先きに立たせるようにした。主人は自分でも、どうやらそういう自分の悪い癖を知っていたらしく、さっそく『あんたの足でも踏んづけましたかね?』と訊ねた。しかし、チチコフはその心遣こころづかいを感謝して、まだ別段そんな気配はないと答えた。

 客間へ入るなりソバケーヴィッチは安楽椅子を指さして、また『どうぞ!』と言った。チチコフは腰をおろすと、四方の壁と、壁に懸けてある絵とを眺めた。その絵はどれもこれも、昔の勇士や、ギリシアの将帥しょうすいたちの全身像の銅版画ばかりであった。真赤なズボンに軍服をまとい、鼻に眼鏡を掛けている*2マヴロコルダートだの、*3ミアウリスだの、*4カナリスだので。こうした英雄たちはどれもこれも、ぞっとするほど太いももをして、前代未聞の素晴らしく大きな口髭を生やしている。こういう堂々たるギリシア人のあいだに混って、一体どういう訳で、また何のために此処にあるのか知らないが、ひょろひょろに痩せた*5バグラチオン将軍の像に、小さな旗と大砲の図柄ずがらを下につけたのが、至って細い額縁がくぶちに入れてある。その次ぎには又、ギリシアの女傑じょけつボベリーナの像が懸っているが、その片方の足だけでも、今どきの客間にうようよしている伊達者の胴体よりはずっと太いくらいに思われる。主人は自分が頑丈に出来ているものだから、部屋の中まで同じように頑丈な人間の像で飾ろうと思い立ったものらしい。ボベリーナのそばの、すぐ窓際には、鳥籠が一つ懸っていて、黒っぽい地に白い斑点のあるつぐみが一羽その中からのぞいていたが、それがまた、ソバケーヴィッチによく似ていた。客と主人が口を噤んで二分とは経たないところへ、不意に扉があいて主婦が客間へ入って来た。非常に背の高い婦人で、家で染め直したらしいリボンのついた頭巾帽をかぶっていた。彼女は棕櫚しゅろの木のように、つんと首をたてたまま、しずしずと入って来た。

「家内のフェオドゥーリヤ・イワーノヴナです。」と、ソバケーヴィッチが言った。

 チチコフはフェオドゥーリヤ・イワーノヴナに近づいて、彼女が殆んど相手の唇へ押しつけるようにした手に接吻したが、その刹那せつな、彼はふと、その手が胡瓜漬きゅうりづけくさいことに気がついた。

「なあ、お前に紹介ひきあわせておくが、」と、ソバケーヴィッチは言葉をつづけた。「この方がパーウェル・イワーノヴィッチ・チチコフさんだ! 知事や郵便局長のとこでお近附ちかづきになった人だよ。」

 フェオドゥーリヤ・イワーノヴナは、女王に扮した女優の仕草そっくりに、ちょっと首を動かしただけで、やはり『どうぞ!』と言って椅子をすすめた。それから自分も長椅子に腰をおろすと、モスリンの肩掛かたかけをぎゅっとめ直しただけで、それきりばたき一つしなければ眉毛ひとすじ動かさなかった。

 チチコフは再び眼をあげて、またしても太い腿と恐ろしく長い口髭を持ったカナリスや、ボベリーナや、籠の中のつぐみを眺めた。

 殆んど五分ぐらいのあいだ、三人ともじっと沈黙を守っていた。ただ鶫が、鳥籠の底にまいてある穀粒を拾う嘴音がコツコツと聞こえるだけであった。チチコフはもう一度部屋と部屋の中にある物を眺めやった──何もかもが恐ろしく頑固で不細工に出来ていて、それが奇妙とこの家の主人にしっくり似ていた。客間の隅に胡桃材のずんぐりした書物卓デスクが据えてあるが、不態ぶざまな四本脚で立っている恰好がまったく熊そっくりだ。テーブルも、安楽椅子も、小椅子も──みんなひどく重っ苦しく落着きのない容子ようすをしている。要するにありとあらゆる物が、椅子の一つ一つまでが、まるで『おれもソバケーヴィッチなんだぞ!』とか、『おれもソバケーヴィッチの親類なんだ!』とでも言っているようだ。

「私たちは裁判所長のイワン・グリゴーリエヴィッチのところで、あなたのお噂をしたんですよ。」とチチコフは誰ひとり話を始めようとする様子がないので、とうとう自分の方から口をきった。「先週の木曜でしたがね。あの晩はとても愉快でしたよ。」

左様さようさ、あん時は所長のうちへ行きませなんだわい。」とソバケーヴィッチが答えた。

「あれはなかなか立派な人ですねえ!」

「誰がね?」とソバケーヴィッチは、暖炉の端を見つめながら言った。

「裁判所長ですよ。」

「ふうん、あんたにはそんな風に見えるかも知れないが、あいつはフリー・メーソンに過ぎないんでね、まずこの世に二人とはない馬鹿野郎でしょうて。」

 チチコフはこのような辛辣しんらつな批評にいささかたじたじとなったが、すぐにまた立ち直って、こう言葉をついだ。「勿論、めいめい人間には弱点がありますからね。その代り、あの知事は実にすぐれた人物じゃありませんか!」

「知事が勝れた人物だってね?」

「ええ、そうじゃありませんか?」

「あいつは世界一の強盗でさあ!」

「えっ、知事が強盗ですって!」チチコフはそう言ったきり、どうして県知事が強盗の仲間へ入れられてしまったのか、さっぱり訳が分らなかった。「正直なところ、どうもそんな風には思われないんですがねえ。」と彼はつづけた。「私に言わせて頂けば、あの方の振舞いには全然そんな様子が見えませんよ。いや、それどころか、まるで反対に、ずいぶん優しいところがあるじゃありませんか。」そう言って彼は、知事が手ずから刺繍をした財布などを証拠にあげて、愛想のいい彼の顔つきをしきりに褒めそやした。

「あのつらからして強盗づらでさあ!」とソバケーヴィッチが言った。「あいつに出刃でばでも持たせて街道筋へおっ放してみなされ、すぐに人殺しをやるから。一カペーカでもるために平気で人を殺しますからね! あいつと副知事の野郎とは、*6ゴグとマゴグみたいな好い相棒ですわい。」

⦅いや、やっこさん、あの連中とは仲が悪いんだな。⦆とチチコフは肚の中で考えた。⦅それじゃあ一つ、警察部長を持ち出してやろう。あの男とは仲がよさそうだから。⦆──「それはともかくとして、私は、」と彼が言った。「実のところ、警察部長が一番好きなんですよ。いかにもあの人は気性がさっぱりしていて、ざっくばらんですからね。正直なところが顔で分りますよ。」

「悪党でさあ!」とソバケーヴィッチは、ひどく冷やかに言ってのけた。「あいつは人を売りもすればだましもする、それでいて、あんた方と一緒に飯まで食いおるのじゃ。わしには、あいつらのことがちゃんと分っとる。あいつらはどいつもこいつもみんな悪党ばかりですよ。あのまちじゅうが悪党で一杯なんでな、悪党が悪党におんぶをして、悪党を追っかけ廻してうせるのですわい。どいつもこいつもキリストを売る奴ばかりでな。あの中で、どうにか人間らしいのは検事ひとりだが、あれだって本当を言やあ、豚ですよ。」

 こんな風な、簡単ながら、なかなか穿った人物評を聞かされると、流石のチチコフももう他の役人を幾ら持ち出しても駄目だということが分り、それにソバケーヴィッチは他人ひとのことを好く言うのが嫌いなんだと気がついた。

「ねえ、あなた、お食事に参りましょうよ。」と、ソバケーヴィッチに向って細君が言った。

「じゃ、どうぞ!」とソバケーヴィッチが言った。そこで前菜ザクースカの出ているテーブルへ近よって客と主人とが慣例どおりウォツカを一杯ずつ飲んでから、都鄙とひの別なくロシアの津々浦々でやるようにいろんな塩物や或る種の刺戟性の珍味で口直しをすると、一同はぞろぞろと食堂へ向ったが、先頭に立った主婦は、まるでするすると泳いでゆく鵞鳥がちょうのようだった。小さな食卓に四人前の食器が並べてあった。間もなく四人目の席へ姿を現わしたのは──既婚の婦人とも老嬢ともつかず、そうかといって親戚の女とも家政婦とも、乃至はただの居候とも、確かなことはちょっと言えないが、──ともかく頭巾帽は被らないで、まだら模様の肩掛をした、年の頃三十前後の婦人であった。よく世間には、それ自体として存在するのではなく、汚点しみか斑点のように他人に附随して生活している人間があるものだ。そう言う連中は、いつも同じ席を占め、いつも同じ恰好をしているから、殆んど家具のように見做みなされて、こういう手合いは生まれてこの方、一口も物を言った例しもないように思われるが、女中部屋か物置へでも行って見ようものなら──それこそ豈図らんやだ!

「うん、きょうの玉菜汁シチイはなかなか上出来だ。」ソバケーヴィッチは玉菜汁シチイを一匙すすって、そう言いながら大皿から、玉菜汁シチイには附きものの、羊の胃袋へ蕎麦の粥や脳味噌や足の肉を詰めた⦅ニャーニャ⦆という料理の大きな一切れを取った。「こんなニャーニャは、」と彼はチチコフの方を向いて、言葉をつづけた。「とてもあのまちじゃ食えませんぜ。あすこじゃあ、まったく何を食わせられるか分ったもんじゃありませんからね!」

「しかし知事のところでは、なかなか凝ったものを出しますよ。」とチチコフが言った。

「ところが、あれを何で拵らえるか御存じですかね? それが分ったら、とても咽喉は通りゃしませんぜ。」

「さあ、その拵らえ方は存じませんから、そういうことは何とも私には申されませんが、しかし豚のカツレツとボイルド・フィッシュは素敵でしたよ。」

「そんな風に思えただけですよ。あいつらが市場で何を仕入れるか、わしはちゃんと知っておる。あの碌でなしの料理人コックめがフランス人に教わりゃあがってね、猫を買ってきて、そいつの皮をいで兎の代りに食卓へ出しゃあがるのさ。」

「あれまあ、なんて気味の悪いこと仰っしゃるのです!」と、ソバケーヴィッチの細君が言った。

「そりゃお前、仕方がないよ! あいつらの家では、そうやっているんだもの。おれが悪いのじゃないさ、あいつらの家ではみんなそんなことをしてやがるんだからなあ。何によらず、あまり物が出るちゅうと、うちのアクーリカだったら、さっさと、尾籠な話だが、溜桶ためおけへ捨ててしまうような物でも、あいつらはスープの中へ入れるんだ、スープへだよ! スープへそんなものを入れやがるんだ!」

「あなたは、お食事の時に限って、屹度きっとそんな話をなさるのねえ。」と、ソバケーヴィッチの細君がまた反対した。

「なんの、お前、」とソバケーヴィッチが言った。「おれがもし、自分でそんなことをしたならだけれど、ちゃんとお前にそう言っておくが、おれは決してあんな穢ならしいものは食わないからね。いくら砂糖でまぶしてあっても、蛙なんぞおれは口へ入れないよ。牡蠣なんてものにも、手を出さないぞ、牡蠣が一体どんな恰好をしたものか、ちゃんとわしは知っとるからな。さあ、この羊肉をあがって下さい。」と、彼はチチコフの方を向いて言葉をつづけた。「これは羊の肋肉ばらにくにお粥を添えたものですよ。あの先生がたの台所で、市場に四日も店晒しになってたような羊の肉で拵らえるフリカッセーなぞたあ物が違いますからね。あんなものを考え出したのは、みんなドイツやフランスの医者どもでな。あんなものを考え出しおった奴は、絞り首にしても飽き足りないと思いますわい。減食療法なんてことを発明してからに、腹をかして病気をなおすんだとさ! あれあね、ドイツ人という奴は自分が繊弱ひよわいもんだから、ロシア人の胃の腑もそれで片づくものと思いこんでいくさるのでさ! なあに、あれあみんな嘘ですよ、いい加減の思いつきで、あんなことはみんな……」こう言いかけて、ソバケーヴィッチは腹立たしそうにかぶりさえふった。「なんぞといえば、文明だ文明だとぬかしゃあがるが、文明なんて……ぺえッだ! もっと他の言葉で言いたいところだが、食事ちゅうだから控えておきます。だが、わしのとこじゃあ、そうはしない。わしのとこじゃあ、豚なら豚をまるごと食卓へ出す、羊なら羊で、まるごと出すし、鵞鳥なら鵞鳥で、まるごと出します! わしはたとえ二皿きりでも構わないから、思う存分、鱈腹たらふくくいたい方でしてな。」なるほどソバケーヴィッチは事実でそれを証明した。彼は羊の肋肉を半分、自分の皿へぶちまけると、それをすっかり食ってしまい、最後の骨の一本までがりがりやって、きれいに平らげてしまった。

⦅なるほど、⦆とチチコフは思った。⦅こいつは言うだけのことはあるわい。⦆

「わしのとこじゃあ、そうはしませんよ。」と、ソバケーヴィッチはナプキンで手を拭きながら言った。「わしのとこじゃあ、あのプリューシキンのとこみたいな真似はしませんよ。あの男は農奴を八百人も持ってやがる癖に、わしがとこの牧場番より劣った暮らしをして、実にひどいものを食ってますぜ。」

「そのプリューシキンって、どういう人ですか?」とチチコフが訊ねた。

「悪党でさ。」と、ソバケーヴィッチは答えた。「とても、想像も出来ないくらいの吝嗇漢けちんぼでな。監獄の中の懲役人だって、あれよりゃましな暮らしをしていまさあね。あいつの家じゃあ、みんなを飢え死にさせてしまったのですからね。」

「本当ですか?」とチチコフは乗り気になって、「実際その人のところでは、非常に沢山の人死ひとじにがあったと仰っしゃるんですね?」

「まるで蠅のようにバタバタと死ぬんでさあ。」

「蠅のようにですって? で、なんですか、その人の村まではお宅からよほどありますか?」

「五露里ヴェルストはありますなあ。」

「五露里ヴェルスト!」とチチコフは思わず口走ったが、胸が少しドキドキするようにさえ思った。「で、お宅の門を出てから、右へ行くのでしょうか、それとも左へ行くのでしょうか?」

「あんな犬のところへなんぞ行く道は、知らない方が身のためですぜ!」とソバケーヴィッチが言った。「あんな奴の家へ行くくらいなら、どこか曖昧宿あいまいやどへでも行った方が、まだ言訳がたちますからね。」

「いや、お訊ねしたのは別にその……ただ、いろんな処をちょいちょい知っておきたいのが手前の性分でしてね。」とチチコフは、それに対して弁解した。

 羊の肋肉に次いで凝乳饅頭が出たが、こいつは一つ一つが皿よりもずっと大きかった。その次ぎには犢ほども大きさのある七面鳥が出た。これには、玉子だの、米だの、肝臓だの、そのほか訳の分らない、いろんな、さぞかし胃にもたれそうな代物が詰めてあった。それで午餐はおしまいになったが、食卓をはなれた時、チチコフは四五貫も目方がふえたように思った。客間へ戻ると、そこには何時の間にか小皿に盛ったジャムが出ていた──梨とも、梅とも、他の果物とも見当のつかないジャムだったが、それにはもう、主人も客も手を出さなかった。主婦は、それを他の小皿へ取り分けるために部屋を出て行った。その隙を狙って、チチコフはソバケーヴィッチの方へ向き直った。ソバケーヴィッチは、あれだけ鱈腹つめこんだ後のこととて、安楽椅子にりかかったまま、時々ひくい呻き声を漏らしながら、口で何か訳の分らない音を立てるたんびに十字を切っては、その手で口を押え押えしていた。チチコフは彼に向って、『ちょっと御相談いたしたいことがあるんですが。』と言った。

「まだこんなジャムがありましたよ。」と、主婦が小皿を持って入って来ながら言った。「大根を蜂蜜で煮たのでございますがね。」

「それは、また後で食べるよ!」とソバケーヴィッチが答えた。「お前は自分の部屋へ行っていな。わしはパーウェル・イワーノヴィッチと、上衣をぬいで一休みするからね!」

 主婦は、ではすぐに羽根蒲団と枕を持って来させましょうと言ったが、主人が『いや、それには及ばん、安楽椅子でちょっと休むのだから』と言ったので、そのまま部屋を出て行った。

 ソバケーヴィッチは、ちょっと首を俯むけて、一体どんな用件かと、聴耳を立てた。

 チチコフは、ひどく遠まわしに話を切り出して、まずロシア帝国の全般的な問題にちょっと触れ、その国土の広大無辺なことを褒めそやして、いにしえのローマ帝国でもこれほど大きくはなかったから外国人が驚異の眼をみはるのも無理からぬことだなどと言った……。(ソバケーヴィッチは首を垂れたまま、じっと聴いていた。)さて、この比類なき、栄ある帝国の現行法によれば、一旦戸籍簿に登録された農奴は、たとえこの世を去っても、次ぎの人口調査が行われるまでは矢張り生存者なみに取扱われるが、これは官庁に、無益なつまらない調査事項をあまり過大に負担せしめないためと、事務の煩雑を避けんがために他ならない。そうでなくても、国家機関はすでに煩雑を極めているのだから……。(ソバケーヴィッチは首を垂れて、じっと聴いていた。)しかし、その便法べんぽうがどんなに結構なことであるにしても、生きたもの同様に租税を払わされる以上、多くの地主にとってはかなり迷惑である。そこで自分は、貴下に対して個人的な敬意を感ずるところから、その、まったく並々でない重荷を、幾分でもこの身に引き受けたく思っているのだと言った。チチコフは肝腎の目的物については極めて慎重な言葉を使って、死んだ農奴などとは決して呼ばないで、ただこの世にいないものと言った。

 ソバケーヴィッチは矢張り、首を垂れたまま、じっと聴いていたが、その顔には表情らしいものは何ひとつ浮かんでいなかった。まるでこの男のからだには魂が全然宿っていないのか、それとも魂はあっても、それがあるべきところにはなくて、あの不死身の*7カシチェイの魂みたいに、どこかの山の向うで、厚い殻の中へでも閉じこめられているため、その中でどんなにあばれても表へは何の揺ぎも伝わって来ないのではないかと思われた。

「そんな訳なんですが?……」とチチコフは、流石にわくわくしながら返答を待った。

「あんたは死んだ農奴が御入用なんですね?」とソバケーヴィッチは、まるで穀物の話でもするように、少しも驚いた顔は見せないで、至極あっさりと言ってのけた。

「そうです。」とチチコフは答えたが、言葉を柔らげるために、「なに、この世にいない農奴やつをね」と言い足した。

「それあ、ありますよ。ない筈はありませんさ……。」とソバケーヴィッチが言った。

「もしおありでしたら、なんでしょうね、きっと喜んで厄介ばらいをなさいましょうね?」

「よろしい、じゃ売りましょう。」とソバケーヴィッチは、今度は少し首をあげて言ったが、ハハアこいつめ、確かにこれで一儲けする気だなと、相手の肚を見抜いていた。

⦅ちぇっ、くそ!⦆とチチコフは心の中で忌々しく思った。⦅こん畜生め、おれがまだ買うなんて噯気おくびにも出さないうちに、売るとこきゃあがる!⦆そこで今度は口に出して、「では、仮りに値段はどれくらいで? もっともこんな代物に……値段のなんのというのは変ですがね……。」

「あんたと余計な掛引かけひきをするまでのことはないから、あっさり言いますが、一人あたり百ルーブリですな。」とソバケーヴィッチが言った。

「えっ、百ルーブリ!」と叫ぶなり、チチコフは口をポカンとあけて、相手の顔をまじまじと見つめたが、一体それは自分が聞き間違えたものか、それとも、生まれつきソバケーヴィッチは口重くちおもで舌廻りが悪いため、何か飛んでもない言い損いをしたものか、ちょっと見当がつかなかった。

「どうですかね、それでは高価たかいとでも言いなさるんで?」と言ってソバケーヴィッチは、やがてこう附け加えた。「じゃあ、あんたの附値つけねはどの位なんで?」

「私の附値ですって! どうもこりゃ、二人とも何か感違いをしているんじゃないでしょうかね、それともお互いによく話が会得のみこめないで、抑々そもそもその品物が何だったか、うっかり忘れているんじゃありませんかね。じゃあ一つ私の方から誠心誠意のところを申し上げましょう。一人あたり八十カペーカ──これがもう、精一杯ぎりぎりの値段ですよ!」

「とんでもない、八十カペーカなんて。」

「そんなこと仰っしゃっても、私の考えでは、どうもそれ以上は出せませんよ。」

「だが、草鞋わらじを売るのたあ訳が違いますぜ。」

「ええ、ですがね、やはり人間とも違うってことに御異存はないでしょう。」

「じゃあ、あんたは、ちゃんと戸籍に載ってる農奴を、二十カペーカやそこいらで売る馬鹿があると思ってなさるのかね?」

「だがちょっと待って下さい。あなたはどうしてそれを戸籍に載ってる農奴だなんて仰っしゃるんですか? その肝腎の農奴はうの昔に死んでしまって、もう影も形もない奴のことですよ。しかし、そんなことをこれ以上かれこれ詮議せんぎだてしたって詰まらないから、じゃあ奮発ふんぱつして一ルーブリ半ずつで買いましょう。それ以上は出せませんよ。」

「あんたは、よくもそんな値をつけてしゃあしゃあしていられますねえ! そんな掛引は止して、まともな値段をつけたらどうです!」

「駄目ですよ、ミハイル・セミョーノヴィッチ、まったく正直なところ駄目です。もうそれ以上は出せないといったら出せないんですからね。」チチコフはそう言ったものの、それでも、もう五十カペーカだけ奮発した。

「どうしてあんたはそうけちけちなさるのです?」と、ソバケーヴィッチが言った。「まったく、こりゃ高価たかかありませんぜ。ほかの悪党だったら、あんたを誤魔化して、農奴どころか、くだらない代物を掴ませるところだが、わしとこのは、まるで胡桃みたいにがっしりした、選りぬきのやつばかりなんだからね。伎倆うでのしっかりした職人か、さもなければ丈夫な百姓ばかりでな。ようがすかね、例えばあの馬車大工のミヘーエフじゃて! あいつは立派な弾機ばねつきの馬車より他にゃあ拵らえなかっただ。モスクワ出来のによくあるような、一時間でぶっこわれるような代物とは違って、とてもがっちりしたもので……ちゃんと自分で革も張れば、漆も塗ったものでな!」

 そこでチチコフは口を開いて、だがそのミヘーエフだってもう疾うの昔にこの世を去っているのだと注意しようと思ったが、ソバケーヴィッチは、いわゆる自分の弁舌につりこまれて、滔々とまくし立てたものだ。

「それから大工のプローブカ・ステパンはどうだ! わしはこの首を賭けてもいいが、あんな好い百姓は滅多にあるもんじゃない。大した力持ちからもちでな! あいつを近衛兵このえへいにでもしたら、どんなえらい出世をしたか分ったものじゃないて──なんしろ背長が、六尺五寸一分からあったんだからね!」

 チチコフはまた、そのプローブカも矢張りこの世にはもういないのだと注意しようと思ったが、ソバケーヴィッチがすっかり調子に乗って、無我夢中にまくしたてるので、黙って聞いているより他はなかった。

「煉瓦屋のミルーシキン! あいつは、どんな家の暖炉だって拵らえたものでしてね。靴屋のマクシム・テリャートニコフはといえば、大針でもってシクシクっとやったかと思うと、もう素晴らしい長靴が出来あがってるのです。それでいて酒は一滴も飲まないのですからね。それからエレメイ・ソロコプロヒョン! こいつ一人でも、他の奴をみんな合わせただけぐらいの値打がありますぜ。モスクワで商売あきないをしていましたがね、免役税オブロークだけでも年に五百ルーブリから入れておりましたからな。こういう粒選りの百姓ばかりですぜ! どうしてどうして、プリューシキンなんぞの売りつける代物たあ訳が違いまさあね。」

「ですがね、」とチチコフは、いつが果しとも知れない、その凄まじい弁口の勢いに辟易しながら、とうとう口を入れた。「どうしてあなたは、そんなものの特長を一々かぞえあげなさるんですか? だって、そんなことをしたって今さら何の意味もないじゃありませんか、みんなもう死んでしまってるんですからね。諺にも、死人しびとじゃ垣根にもならないというじゃありませんか。」

「それあ、確かに死んでいますよ。」ソバケーヴィッチは、なるほど考えてみればその農奴たちはもう死んでいるのだと気がついたらしく、そう答えたが、すぐにこう附け加えた。「ですがね、現に生きている奴らにしたところが何です? あんなものが一体なんです?──人間じゃなくて、蠅ですからね。」

「しかしそれでもまだ生きていますよ。だが、こちらはまるで空想ゆめみたいなものですからね。」

「いんにゃ、空想ゆめじゃありませんぞ! わしはそのミヘーエフって奴がどんな人間だったかお話ししますが、鐘太鼓で捜したってあんな奴あ見つかりっこありませんよ。とてもこの部屋へなんぞ入りっこないような、どえらい図体の奴でしたからね。どうしてどうして、これあ空想ゆめどころじゃありませんわい! あいつの肩の糞力ときたら、馬だって敵いっこない位でしたぜ。あんたが何処かほかであんな奴を見つけなすったら、お目にかかりたいもんですわい!」こう、しまいにはもう壁に懸っているバグラチオンと*8コロコトゥローニの肖像画の方を向いて喋っていた。それはよく、二人の人間が盛んに話し合っている最中に、その一方が、どういう訳が不意に当の話相手から眼をはなして、偶然そこへ入って来た第三者に目をうつす、それが全く赤の他人で、そんな人間からは、何の返答も、意見も、確認も得られないことが分っていながら、その癖その人物を仲裁に引き込もうとでもするように、じっとその顔を見つめるのと同じで、何にも知らぬ第三者はすっかり面喰らって、自分が何ひとつ聴いてもいない問題にいい加減のお座なりでも答えたものか、それともその場の礼儀だけに、黙って暫らく立っていてから、折を見て逃げ出したものかと、立ち迷うものである。

「しかし、二ルーブリ以上は、どうしても出せませんよ。」とチチコフが言った。

「それじゃあね、わしがひどく欲ばってばかりいて、少しもあんたに譲歩をしないように思われるのも辛いから、それじゃあひとつ、七十五ルーブリずつにしておきましょう──もっとも、銀行紙幣でなきゃあ御免ですがね──こりゃもう、まったくお馴染甲斐なじみがいにするだけですぜ!」

⦅この野郎、一体どうしやがる気だろう?⦆とチチコフは心の中で思った。⦅おれを馬鹿にしてやがるのかな?⦆それから今度は口に出してこう附け加えた。「まったくどうも変な話ですねえ。何だか我々はお芝居か喜劇でもやってるようじゃありませんか。そうでも思わなきゃ、納得が出来ませんよ……。あなたは物の分った方で、立派に教育のある方としか思われません。ところで、これは全くつまらない物で──ふ、ふ! 一体どれだけ値打があるというんです! 誰がこんなものを欲しがると仰っしゃるんです?」

「ところが、それをあんたは買いなさるというのだからね、して見れば、まんざら見くびったものでもなさそうですわい。」

 こう言われるとチチコフは唇を噛むばかりで、ハタと言句につまってしまった。しょうことなしに彼は自分の内輪の話などを持ち出しかけたが、ソバケーヴィッチはにべもなくこう答えたものだ。

「何もあんたの身の上話なんぞ聴く必要はありませんよ。わしは他人ひとの内輪のことにくちばしれるのが嫌いでして──それはあんた御自身の問題ですからなあ。あんたの方で農奴が欲しいと仰っしゃるから、わしは売ろうというまでで、これを買わなかったら後で後悔しますぜ。」

「二ルーブリならね。」とチチコフが言った。

「まったく、どうも! 諺にある馬鹿の一つ覚えってやつで、あんたは二ルーブリといいだしたが最後、同じことばかり繰り返していなさる。もう少しまともな値をつけて貰いましょうや!」

⦅ふん、ほんとに忌々しいったらない!⦆とチチコフは心の中で思った。⦅えい、もう五十カペーカだけ増してやれえ、犬にもお愛嬌だ!⦆──「じゃ、仕方がない、五十カペーカだけ奮発しましょう。」

「ふん、じゃあ、わしもぎりぎり決着のところ、五十ルーブリにしときましょう! これじゃあ、まったく損ですがね。何処へ行ったって、こんないい農奴は、これより安く買えっこありませんぜ!」

⦅どこまで吝んぼだろう!⦆とチチコフは肚の中で呟やいたが、その後を少し忌々しそうに、こう口に出して言った。「一体こりゃどうしたんです?……さも重大なことみたいに仰っしゃってさ! 他処ほかでだったら無償ただでもくれますよ。それどころか、一刻も早く厄介ばらいをしようと思って、誰だって二つ返事で手離しますよ。こんなものを後生大事にとっておいて、おまけに税金まで払おうってのは、よくよくのおたんちんでさあね!」

「だがこれを一体どういう買物だと思いなさる──ここだけの内密な話ですが──これはおおっぴらに出来る取引じゃありませんぜ。わしか、それとも誰か他の奴が口でも割ってみなされ、それこそ信用が落ちてしまって、もうどんな契約も結べなくなれば、うまい取引にも手を出すことが出来なくなってしまいますからね。」

⦅ちぇっ、あんな当てこすりを言やあがる、悪党め!⦆こうチチコフは思ったが、さも落着きはらったような顔で、すぐに答えた。「あなたはどういうお心算つもりか存じませんが、私はあなたがお考えになるように、何か必要があって買い入れる訳じゃないんで、ただその……自分の気紛れにやってるだけですからね。二ルーブリ半でおいやなら、おいとましますよ。」

⦅こいつは、なかなか一筋縄じゃいかんぞ!⦆とソバケーヴィッチも思った。「じゃあ、仕方がない、三十ルーブリずつにしときましょう、それでひとつ買って下さい!」

「いや、どうもあまりお売りになりたくなさそうですね。じゃあおいとまします!」

「まあ、そう言わないで、ちょっと待って下さい!」ソバケーヴィッチは相手の手を放そうとしないで、こう言ったが、その途端に相手の足をいやというほど踏んづけた。それというのも我等の主人公がついうっかりしていたからで、──その罰で彼は、アッと悲鳴をあげて片足で跳びあがらなければならなかった。

「これあどうも、御免なさい! 飛んだ失礼をしましたようで。どうかまあ、ここへお掛けになって! さあどうぞ!」そう言って彼はチチコフを安楽椅子に掛けさせたが、その手際は、まるでよく馴らされた熊が飜筋斗とんぼがえりを打ったり、『ミーシャ、女が蒸風呂へ入ってる真似をして御覧!』とか、『ミーシャ、今度は子供が豆を盗む真似をして御覧!』などと言われて、いろんな芸当をするのによく似ていた。

「これじゃあ、まったく、無駄に時間を潰すばかりですよ。私は急いでるんですからね。」

「とにかく、もうちょっと待って下さい。あんたに好いことを一つお話ししますからね。」そういうとソバケーヴィッチは相手の傍へにじりより、その耳へ口を寄せて、さも秘密らしくソッとこう囁やいた。「どうです、一かどじゃあ?」

「と仰っしゃると、二十五ルーブリですか? 駄目、駄目、駄目! 一角の四半分だって出せませんよ。あれより上は一カペーカだって増しませんよ。」

 ソバケーヴィッチは口を噤んだ、チチコフも黙りこんだ。二分間ばかり沈黙がつづいた。鷲鼻のバグラチオンが壁の上からじっとこの取引を見まもっていた。

「じゃあ、ぎりぎりのところ、幾ら出せるのです?」と、とうとうソバケーヴィッチが口を切った。

「二ルーブリ半。」

「まったく、そんな無茶な値ってあるもんですかい。じゃ、せめて三ルーブリだして下さい!」

「出せませんよ。」

「どうも、あんたにかかっちゃしかたがない、じゃそうしときましょう! これじゃあ損だけれど、人を悦ばさずにはおられないという、まるで犬みたいな根性でしてね。ところで、万事正式の手続を踏むために、公正証書を作ることにしますかね?」

「勿論ですとも。」

「なるほど、そうだろうと思ってね。では一つ、まちへ出かけなきゃなりませんなあ。」

 こういうことに話がついた。そこで二人は、翌る日まちへ出むいて売買登記の手続をすることにした。チチコフは死んだ農奴の名簿が欲しいと言った。ソバケーヴィッチは二つ返事でさっそく書物卓デスクへ近よると、自分の手で名簿の作成に取りかかったが、名前を書くだけではなく、一人々々の秀れた特長まで一々記載したものである。

 チチコフは何もすることがないので、後ろに突っ立ったまま、相手のだだっぴろいからだを隅から隅までしげしげと眺めていた。ずんぐりした*9ウャトカ馬の背中みたいにだだっぴろい背中や、歩道に立ててある鋳鉄の柱にそっくりの脚を見ると、彼は心のうちでこう叫ばずにはいられなかった。⦅まったく大したからだを授かったものだ! これこそ、よくいう、裁ち方は拙いが縫いはしっかりしてるってやつだ!……そもそも生まれつきからこんな熊みたいな恰好をしているのか、それとも、こんな辺鄙な田舎暮らしをしていたので、すっかり熊みたいになってしまい、麦蒔きをやったり、百姓どもとごてくさ騒いでいるうちに、いわゆる搾取者しぼりやっていうやつに成りあがったのか? いやどうも、おれの考えでは、お前なんぞは当世風の教育を受けて世間へ出て、こんな片田舎ではなく、ペテルブルグに住んでいたにしても、やっぱり今と変りがないだろう。ただ違うところといえば、ここではカーシャを詰めた羊の肋肉を片割れも食った上に、凝乳饅頭で口直しをやらかしているが、そうなったら、松露をそえたカツレツかなんかをガツガツ食うようになるぐらいのものだろう。それに今は農奴を手下に、まあ何とかうまくやりながら、無論やつらを酷い目に合わせたりはしないようだが、それというのも、農奴は自分のものだから、そんなことをしては自分の損になるからさ。ところが君が役人で、部下が官吏だったりしようものなら、そいつらは自分の農奴とは訳が違うってんで、容赦なくピシピシやっつけたり、または国庫を平気でごまかしたりするだろうて! いや、まったく、こういう搾取者しぼりやになると、握った手をひろげようともしくさらないんだ! ところがこんな手合いが指の一本か二本でもひろげようものなら、いよいよ碌なことにはならないのだ。ちょっとばかり学問の上っ面でも噛らせてみるがいい、すぐに上座かみざへしゃしゃくり出て、本当に学問のある人にまで、それを見せびらかそうとするから! その上にまだどうかすると、『よし、おれの偉いところを見せてやろう!』などと言いだしかねないのだ。そして、大抵の者が手を焼くような小賢しい規則きまりを考えだすのだ……。ああ、もし誰も彼もこういう搾取者になったら、どうだろう!……⦆

「さあ、名簿が出来ましたぜ!」とソバケーヴィッチが振り返って言った。

「出来ましたか? じゃあ、こちらへ下さい!」チチコフは一通りそれに眼をとおして、その正確で几帳面なことに一驚を喫した。職業や、年齢や、係累の有無などが詳細に書いてあるばかりでなく、欄外には、その身持みもちや酒を飲む飲まないという特別な註まで、ちゃんと記入してある──要するに、見た眼にも気持のいいものであった。

「それじゃ、手附を頂いておきますかな。」とソバケーヴィッチが言った。

「どうして手附なんて仰っしゃるのです? 市で一度に全部お払いしますよ。」

「だが、あんたも御存じのように、それが定法きまりでがすからね。」とソバケーヴィッチが言い返した。

「さあ、どうして差しあげたものでしょうか。手許には金を持っていないものですからね。じゃあ、ここに十ルーブリだけありますよ。」

「なに、十ルーブリですって! せめて五十ルーブリはおいて行って下さらなくっちゃ!」

 チチコフは無いと言って断わろうとしたが、ソバケーヴィッチが、いや確かに持合もちあわせがある筈だと、しつこく言い張るものだから、とうとう紙幣をもう一枚とり出して、『じゃあ、もう十五ルーブリだけ差しあげます。しめて二十五ルーブリですよ。では受取りを下さいませんか。』と言った。

「どうしてまた受取りなどが要るのですか?」

「いずれにしても受取りは頂いておいた方が好都合ですよ。どうも世智辛い御時勢で……どんなことが起こるか分ったものじゃありませんからね。」

「ようがす。それじゃあ金子かねをこちらへ貰いましょう。」

「どうして金子を先きにお渡しするのです? 金子はちゃんとここに持ってますよ! 受取りさえ書いて下すったら、すぐにお渡ししますからね。」

「だが、どうして受取りが書けますかね? その前にちょっと金子を拝ませて貰わないでは。」

 チチコフは紙幣をソバケーヴィッチに渡した。すると相手はテーブルに近よって、左手の指で紙幣をおさえながら、右手で紙切れに、国立銀行紙幣二十五ルーブリ、農奴売却代金の手附金として正に受取り申候也もうしそうろうなりと書いた。受取りを書いてから、彼はもう一度その紙幣をあらためた。

「こりゃだいぶ古い紙幣ですなあ。」と彼は、そのうちの一枚を日光に透かして見ながら、言った。「それに少しやぶれていますなあ。だがまあ、友達同士の間だから、かれこれ言うがものはありませんわい。」

⦅えい、この握り屋め!⦆とチチコフは心のうちで思った。⦅その上、おまけに人非人だ!⦆

「女の農奴は要りませんかね?」

「いや、もう結構ですよ。」

「安くしておきますぜ。お馴染み甲斐に一人一ルーブリずつでようがすがね。」

「いえ、女の方は要らないんです。」

「そう、要らないものは何とも話になりませんなあ。好き嫌いには規則がなく、諺にも蓼喰う虫も何とやらと言いますからね。」

「ところで、この取引は我々二人の間だけのことにしておいて頂きたいんですがね。」とチチコフは、別れを告げながら、言った。

「それあ、いうまでもありませんわい。これは第三者の容喙ようかいすべき事柄じゃありませんからね。近しい友達同士の話はどこまでもお互いの間だけのことにしておかなくっちゃなりませんわい。じゃあ、御機嫌よろしゅう! わざわざお訊ね下さって有難うござんした。これからもお忘れにならないようにお願いしますよ。またお暇がありましたら、御飯でも食べたり、退屈しのぎにやって来て下さい。何かとまたお互いに力になることもござんしょうからね。」

⦅いや、もう真平まっぴらだよ!⦆とチチコフは馬車の中へ乗りこみながら独り呟やいた。⦅死んだ農奴一人に二ルーブリ半ずつもふんだくりやがって、忌々しい握り屋め!⦆

 彼にはソバケーヴィッチの仕打が業腹ごうはらでならなかったのだ。とにかく、何といったって、知事のところでも、警察部長のところでも会って、知合いの仲じゃないか。それだのにまるで赤の他人みたいな遣り口で、あんなくだらないものに金を取り立てやがるんだ! 馬車が邸を出た時、後を振り返って見ると、ソバケーヴィッチはまだポーチの上に突っ立ったまま、客がどちらへ行くかを見とどけようとでもするように、じっとこちらを見張っていた。

下劣漢ろくでなしめ! まだあんなに突っ立ってやあがる!」と彼は吐き出すように呟やいた。そしてセリファンに、百姓小屋のある方へ曲れと言いつけた。こうして地主やかたから馬車を見られないようにしてってしまう魂胆であった。彼はプリューシキンのところへ行こうと思ったのだ。ソバケーヴィッチの話では、その男の村では農奴がまるで蠅のようにバタバタと死んだということだ。だが、そこへ行くことをソバケーヴィッチに知られたくなかったのだ。馬車が村はずれまで来た時彼は最初に出会った百姓を呼びとめた。その百姓は何処か途中で拾ったらしい恐ろしく太い丸太を肩にかついで、まるで疲れることを知らぬ蟻のように、それを自分の小屋の方へ曳っぱって行こうとしているところであった。

「おい、お鬚! ここからプリューシキンのところへはどういったらいいのかね、旦那の邸のそばを通らないようにして行くには?」

 どうやら百姓は、その質問に面喰らったらしい。

「どうだ、知らないのかい?」

「へえ、旦那さま、知りましねえだ。」

「ちぇっ、こいつ! その白髪頭をひき挘ってくれるぞ! あの吝んぼのプリューシキンを知らないのか? 百姓に食うものも食わせない業欲ごうよく地主をさ?」

「ああ、あの襤褸ぼろっさげのこってすかね!」と、百姓が頓狂な声で言った。この⦅襤褸ぼろっさげ⦆という言葉には非常に穿った名詞がくっついていたが、それはしかし上品な会話にはちょっと用いられない言葉だから、ここでは故意わざとそれを抜かすことにした。だが、それが実に穿った表現であったことは、その百姓の姿がもうっくに見えなくなってしまい、馬車がずいぶん先きへ進んでからまで、チチコフがまだ馬車の中で独りクスクスと笑っていたところから容易に想像がつくだろう。まったくロシア人の毒舌にかかっては堪らない! しかも、いったん渾名をつけられたが最後、それが子々孫々の代まで伝わり、その当人が任官しようと、退職しようと、ペテルブルグに住もうと、世界の涯へ引っこもうと、いつも彼について廻るのだ。そうなった暁には、もうどんなに自分の渾名に小細工をして高尚らしく見せかけようが、または代書人などの手を通じて古い権門けんもんの家名を賃借しようが、結局なんの役にも立ちはしない。いつも渾名の方が先にたってカアカアと鴉みたいな鳴声を出して、自分がどこから飛んで来た鳥かを、はっきり喋ってしまうから浅ましい。口から発せられた剴切がいせつな言葉は、文字に書きつけたも同様で、斧で断ち斬るわけにはゆかぬ。剴切な表現といえば、生気溌剌たる生粋のロシア人ばかり住んでいて、ドイツ人もフィンランド人も、その他いかなる異種族も全然影を見せぬロシアの奥地から生まれた言葉を措いて他にはない。ロシア人という奴は決して言葉に不自由することがなく、巣ごもりをした雌鶏みたいに言葉を抱きこんで後生大事にぬくめておりもしないで、まるで肌身はなさぬ手形でも突きつけるように、早速ペラペラと喋ってしまう。そうすれば、鼻がどうの、くちがどうのと附けたす世話は更にいらぬ。一遍に頭の天辺から足の爪先まですっかりそれと分ってしまうのだ!

 円頂閣や円塔や十字架を頂いた寺院や修道院が、聖なる信仰の国なる我がロシア帝国に数限りなく散在するように、数限りない人種や、民族や、国民がこの地球上に群れつどい、ごたごたと入り乱れて、押し合いへし合いしている。そのどの国民もが、それぞれ才能の兆しを持ち、創造力に富む精神や、おのおのの水際だった特異性や、その他いろんな天分を兼ね具えながら、それぞれ個有の言語によって他の民族との間に画然たる区別をつけている。然もその言語たるや如何なる事物を表現しても必ずその表現に独自の国民性の一部を反映している。イギリス人の言葉には人心の洞察力と、人生に対するどこまでも利巧な認識が感じられ、フランス人のはかない言葉は軽佻な洒落となってパッと輝くと、そのまま雲散霧消してしまい、また、ドイツ人の知的ではあるがぎこちない言葉は、ちょっと真似の出来ない独自の工風や発明を易々とやってのける。けれど的確に表現されたロシア語ほど大胆不敵で、しかも心の奥底からほとばしり出て、生気溌剌として沸き立つ言葉は他にないだろう。

*1 ミハイル・セミョーノヴィッチ ロシア人は熊(Medvedjメドウェージ)を愛称でミーシャ又はミーシュカと呼ぶ。ところが、クリスチャン・ネームのミハイルの愛称も矢張りミーシャであるから、ここでは熊に似たソバケーヴィッチが然も熊の異名いみょうに縁のある名前を持っているのでチチコフが感心するのだ。

*2 マヴロコルダート アレクサンドル(1791-1865)公爵。ギリシアの愛国者で大政治家。

*3 ミアウリス アンドリアス・ウォコス(1770-1835)ギリシアの有名な水師すいし提督。

*4 カナリス コンスタンチン(1790-1877)ギリシアの政治家。独立戦争(一八二二年─二五年)に戦功を立て、一八六二年の革命に際しては臨時政府の要人となる。

*5 バグラチオン ピョートル・イワーノヴィッチ(1765-1812)アレクサンドル一世時代の名将。ボロジノの役に負傷して歿す。

*6 ゴグとマゴグ 旧約聖書に出て来る悪人で、エゼキールの予言により、イスラエルの民を根絶せんがために北方より聖地に来るが、神によって亡ぼされる。黙示録では、世界最後の日に悪魔に唆かされてキリストの国に反抗して立ち、結局悪魔と共に焦熱地獄で身を滅ぼす諸々の地上の国王を意味している。

*7 カシチェイ ロシアのお伽噺とぎばなしに登場する痩せた吝ん坊で、不死身の老人ということになっている。痩せ男や吝嗇漢の渾名あだなに使われる。

*8 コロコトゥローニ フョードル(1770-1843)ギリシアの将軍。祖国の自由のために闘った英雄。

*9 ウャトカ馬 ロシア馬とフィンランド馬とを交配して出来た馬の種類で、体躯は小柄だが、非常に頑健である。


第六章


 ずっと以前、私がまだいとけなかった頃のことで、もはや返らぬ夢と過ぎ去った少年の日のころ私は見も知らぬ場所ところへ初めてやって行くのがとても嬉しかったものだ。それが小さな部落であろうと、貧しい田舎町であろうと、乃至は大きな村であろうと、自由村であろうと、何でも構わない──あどけない好奇の眼は、到るところで多くの珍しいものを見つけだす。どんな建物でも、また特に際立った印象を与えるものでさえあれば、何でもことごとくが私を引き留め、私を驚かせるのであった。土地ところの庶民階級の丸太づくりの粗削りな一階建のささやかな家がごたごたと塊まっている中に、ぽつねんと一つだけ突き出している、窓の半分は見せかけだけという、きまりきった建築様式の石造の官衙かんがであろうが、雪のように真白に塗った新らしい寺院の上に聳えている、白い鉄板で張ったまん丸い恰好のいい円頂閣であろうが、市場であろうが、町なかへひょっこり顔を出す田舎の伊達男であろうが──何ひとつ、私の若々しい鋭敏な眼を逃れることは出来なかった。私は旅行馬車から鼻を突き出すようにして、まだこれまで見たこともない型のフロックコートを眺めたり、八百屋の店の扉口から、干涸びたモスクワ製の糖菓を入れた壺と一緒にチラと覗く釘や遠くからでも黄いろく見える硫黄や乾葡萄や石鹸などの入っている木箱を眺めたり、田舎で退屈するためにどこかの県からやって来たらしい歩兵将校が路の片側を歩いているのを見送ったり、短外套をて競走馬車で一散に駈けて行く商人を眺めたりした──そうして彼等の貧しい生活に想いを移すのであった。田舎の官吏が傍らを通りでもすると、私はすぐにこんなことを考えたものだ──あの人は一体どこへ行くのだろう、自分の兄弟の家の夜会へでも行くのか、それとも真直ぐに我が家へ帰って、夕闇のまだすっかり濃くなりきらないうち半時間ときばかりをポーチに坐っていてから、お袋さんや細君や細君の妹や家族の者一同と共に、早い夕飯を食べるのだろうか、そしてスープが出た後でようやく、頸飾をつけた女中なり、ダブダブの上衣を著た給仕ボーイなりが、永年その家に伝わる燭台に脂蝋燭をつけて持って来る頃、彼等のあいだでは一体どんな会話が持ちあがるのだろう、などと。また、何処かの地主の村へ乗りこんで行く時には、ひょろ長い木造の鐘楼や、だだっぴろいくすんだ木造の古い寺などを私は物珍らしく眺めるのであった。遥か彼方から如何にも蠱惑的こわくてきに地主やかたの赤い屋根と白い煙突とが、樹々の緑をとおしてチラホラ見え出すと、私はそれをかざしている園が両方へひらけて、一刻もはやく邸の全貌が、噫! その当時は決して俗悪なものではなかった外観を現わすのを、じりじりと待ち侘びながらも、一体ここの地主というのはどんな人だろう、肥った人だろうか、息子があるだろうか、それとも娘ばかり六人もあって、よく響く少女らしい笑い声を立てたり遊戯をしたりしていて、一番末の娘が万年美人ときているのではなかろうか、彼女らはまた黒い瞳をしているのだろうか、そして当の主人は陽気な人だろうか、それとも、九月の末ごろの空模様みたいに陰鬱な顔をして、暦を覗きこんだり、若い者には退屈な裸麦のことばかり話すような親爺ではなかろうか、などと揣摩しま憶測を逞しゅうしたものである。

 今では、どんな初めての村へも私は平気で乗りこんで行き、その俗悪な姿を冷やかに眺めるだけで、冷静になった私の眼には、これが昔だったらさぞ顔色を変えたり、笑ったり、無闇にお喋りをしたりせずにはいられなかったような対象ものも、一向面白くもなければ可笑しくもなく、今は平気で見過ごすことができ、固く結んだ私の唇にはただ無関心な沈黙が宿るに過ぎない。おお、私の青春よ! おお、私の若き日よ!

 さてチチコフは、百姓たちがプリューシキンに奉った例の渾名のことを考えて心の中でクスクス笑っている間に、自分が百姓小屋や通りのざらにある広大な村の真中へ乗りこんでいることには気がつかなかった。けれど間もなく、丸太を敷いた鋪道のために物凄く馬車ががたつきだしたので、彼もようやくそれと気がついたが、この丸太敷きの道に較べたら、あのまちなかのごろた石を敷いた道などは物の数ではなかった。丸太がまるでピアノの鍵盤のように上ったり下ったりするため、ぼんやりしている乗客は、後頭部に瘤をつくったり、額に青紫斑をこしらえたり、またどうかすると自分で自分の舌の先きを、いやというほど噛んだりもする。チチコフは、どういうものかこの村の百姓小屋が申し合わせたようにひどく荒廃しているのに気がついた。小屋に使ってある丸太はどす黒く古びており、多くの屋根はふるいのように穴だらけになっている。中には上に棟木むなぎと、その両側へ肋骨のように張り出した垂木たるきだけしか残っていないのもある。どうやら小屋の主人たちが、どうせ雨降りには屋根は繕えないし、天気の日には雨漏りの心配はない、それに居酒屋にしろ大道の真中にしろ、好きなところに広々とした場所があるのに、何を好んでけちけちすることがあろうと、誠に至極尤しごくもっともな理屈をつけて、自分で柿板こけらいたや屋根板を引っぺがしてしまったものらしい。小屋の窓には窓ガラスなどはなく、中には襤褸ぼろや古外套をつめて塞いだものもある。またどういう理由わけかしらないが、よくロシアの百姓小屋にしつらえてある、欄干のついた軒下の露台は横へ傾いて、絵にもならないほどくすんでいる。小屋の後ろには、あちこちに山のように積みあげた穀堆こくづかが列をなして並んでいたが、それはもうかなり長いこと積んだままになっているらしく、その色が焼きの悪い古煉瓦のようで、天辺にはいろんな雑草が生え、あまつさえ横からは灌木の繁みがっかかっている。その穀堆こくづかはどうやら領主のものらしい。穀堆と荒れはてた屋根の向うから村の二つの寺が、馬車の方向が変るにつれて、右に見えたり左に見えたりしながら、澄みきった大空へせりあがって来た。その二つの寺は並びあっていて、一方は荒れはてた木造、一方は石造で、壁は黄ばみ、全体に汚点しみと亀裂だらけになっている。地主やかたの端々がチラチラと見えだしたが、やがて百姓小屋のつながりが切れて、その代りに、ところどころ壊れた低い垣根に囲まれた菜園か甘藍キャベツ畠とおぼしき空地あきちへ出ると、ついにその全貌が現われた。この法外にだらだらと長い奇妙なお城は、どこか老耄おいぼれの廃兵といった恰好をしている。それは一階建のところもあれば、二階建になっているところもあって、必らずしもその老朽を防ぐよすがにはなりそうもないくすんだ屋根の上には、二つの展望台が相向いにニュウと突っ立っているが、どちらもかつては塗ってあった色の跡形だになく、今はもうぐらぐらになっている。家の壁もところどころげて漆喰下地しっくいしたじがむきだしになっているのは、雨や旋風かぜや、秋の気候の変化など、あらゆる荒天にさらされて来たものと見える。窓のうちいているのは二つきりで、他の窓は鎧扉をおろしたり、中には板で釘づけにされたのさえある始末。開いている二つの窓も、辛うじて開いているといえるだけで、その一つなどには、青い砂糖の包紙を三角に切ったのが貼りつけてあるので至って暗そうだ。

 邸の裏から始まり、部落むらの後ろへずっとひろがって、末は野原につづいている古い広大な園は樹木の生い茂るがままに荒れ果ててはいるが、どうやら、そのだだっぴろい村に生気を添えている唯一のものらしく、荒れ果てた絵のような姿で、ひとり精一杯の美を放っている。伸び放題に繁茂はんもした樹々の梢は、さながら緑の雲か、木の葉のさやさやと顫える不規則な円頂閣の形に群らがって、空高く浮かんでいる。緑の密林の中から、暴風あらしか落雷のためにぽっきり折れたらしく頭のない巨きな白樺の白い幹が一本、キラキラと光る形のいい大理石の円柱のように空中に聳えている。柱頭カピテルの代理をつとめる尖った斜めの折れ口は、雪白の木肌に対して帽子か、それとも黒い鳥のように、どす黒く見えている。蛇麻草ホップの蔓が下では接骨木にわとこななかまどはしばみの繁みをすっかり枯らしてしまい、それから柵という柵の天辺をいまわった挙句、上へよじのぼって、折れた白樺を半ばまでぐるぐる巻きにしている。幹の中ほどまで登ると、そこから下へ垂れさがって、今度はほかの木々の梢にからみつきはじめたり、または空中にぶらさがって、己れの細くて粘っこい巻蔓ひげを輪にして、風のまにまにゆらゆらと揺れている。この日光を受けた緑の森がところどころで両方へ分れて、その間から日もささない空洞うつろが、まるで暗い落し穴のように、ぽっかり口をあけている。そこはすっかり暗い陰影かげにとざされていて、暗がりの奥に僅かにほの見えるのは、真直ぐに走っている細い小径や、壊れた欄干や、倒れかかった四阿あずまやや、老い朽ちて洞ろになった柳の幹や、柳の後ろから濃い剛毛あらげのように顔を突き出している白毛頭の雀苧すずめのおごけや、あまりひどく茂っているため枯れ萎びて縺れあい絡みあっている木の葉や枝、さては横合いから緑の掌葉を差し出したかえでの小枝などであるが、楓の一枚の葉裏に、一体どうしてなのかは、まるで分らないが、不意に日光がして、パッとそれを火のように透明なものに変えて、濃い闇の中で燦然と輝かせた。一方、園のいちばんはずれには、他の樹木とは不釣合いに背の高い白楊はこやなぎが四五本、そのさやさやと揺らめくおのおのの梢に大きな鴉の巣をのせている。その白楊の中には、枝が引き裂けたまま、幹からすっかり離れもせずに、病葉わくらばと一緒にだらりと下へ垂れさがっているものもあった。一言にしていえば、何もかもが素晴らしかった。それは自然の風致も人工の妙趣もついに及ばず、ただその両者が結びついた時にのみ見られるさで、人間がああでもないこうでもないと、ややもすれば無意味な苦心を重ねた後に、自然が最後の仕上げの鑿をふるって、重苦しい塊まりを崩し、赤裸々な構図の見えすいている野暮な正しさや惨めな欠陥を除けて、きちんと寸法を測ったように清楚なだけが身上の血の気のない人工に、いみじき暖かさを添える時、初めて生まれる美しさである。

 一度か二度、曲り角をまがると、我等の主人公はついに地主やかたの前へ出た。正面から見ると、それは一層いたましい姿であった。柵や門に使ってある古い木には、もうすっかり青苔がついていた。下人部屋だの、納屋だの、穴倉だのといった、明らかに老朽した建物の群れが前庭にわを満たしており、その両側には右と左に別の庭へ通ずる門が見えている。すべてが、この邸でかつては非常に盛大に農産経営が行われていたことを物語るだけで、今は何を見ても陰気くさいばかりだ。あたりを活気づけるようなものは何ひとつ見あたらず──扉がてされるでもなければ、何処からひとり出て来る人影もなく、住家すみからしい生き生きとしたいそしみの気配は何も感じられない! ただ一つ表門だけが開いていた。それもこの気息奄々きそくえんえんたる場面を活気づけようとして、わざわざ姿を現わしでもしたように、ござがけの荷を積んだ荷馬車で偶々たまたま一人の百姓がそこへ乗りこんで来たればこそで、いつもだったら、これもぴったり閉ざされていたに違いない。というのは、鉄の門におそろしく大きな錠前がぶらさがっていたからである。間もなく一つの建物の傍で、いま荷馬車を乗りつけた百姓と口論をはじめた人の姿をチチコフは見てとった。しばらく眺めていたけれど、彼にはその人物がいったい男なのか女なのか、さっぱり分らなかった。ている着物からしてどうもはっきりせず、女の上っ張りによく似ているし、頭には田舎の邸婢やしきおんながよくかぶるような頭巾をかぶっている。が、声だけは、女にしては少しれているようだ。⦅ありゃあ女だな!⦆とチチコフは心で呟やいたが、すぐにまた、⦅いや、そうでもないぞ!⦆と附けたした。それから又じろじろと眺めた後で、彼はついに⦅勿論、女だ!⦆と呟やいた。相手の方でも矢張り同じようにこちらをじろじろと眺めている。よっぽどお客というものが珍らしいらしく、チチコフだけではなく、セリファンや馬まで穴のあくほど眺めて、馬の尻尾から鼻面までまじまじと見まわした。チチコフは相手の帯にさげている鍵束と、百姓に向って使うぞんざいな口のきき方から推して、これはてっきり家政婦に違いないと思った。

「ねえ、小母さん、」と、彼は馬車から降りながら、声をかけた。「御主人は?」

「留守ですよ。」と家政婦は、その問いのおわるのも待たないで遮ったが、ちょっと間をおいてから附けたした。「何か御用ですかい?」

「ああ、用事があってね。」

「じゃあ、部屋なかへ入りなさい!」そう言うなり家政婦は、くるりと向うむきになって彼に背中を見せたが、その背中には何かの粉が一杯ついていて、少し下の方に大きなほころびが出来ていた。

 チチコフは何だか穴倉からでも吹いて来るような冷たい息吹の感じられる、暗くてだだっ広い玄関へ入った。玄関の次ぎの間もやはり真暗で、わずかに扉の下の大きな隙間をくぐって這いこむ光りにぼんやり照らされているだけだ。扉をあけて彼はやっと明るみへ出たが、眼の前に現われた乱雑さ加減にすっかり仰天してしまった。まるで家じゅうの大掃除でもするために一時ここへ家具という家具を積みあげたといった塩梅だ。一つのテーブルの上には脚の折れた椅子さえ載せてあり、それと並べて振子の停った時計が置いてあるが、それには古風な銀器や玻瑠ガラス罎や支那陶器などが入れてあった。真珠貝で象眼をした書物卓デスクは、もうところどころ象眼がとれて、その跡ににかわのこびりついた溝が黄いろっぽく残っており、その上にはいろんなものがごたごたと載せてある──上に卵形のつまみのある、少し青く変色した大理石の文鎮で押えた、何か細々こまごまと記入した書附の山だの、革表紙で、縁の赤い、ひどく古風な本だの、すっかり干涸びてしまって、胡桃ほどの大きさもないレモンだの、ぎはなされた安楽椅子の腕木だの、手紙で蓋がしてあるけれど、中へ蠅が三匹もはまっている。何か液体の入った台附コップだの、封蝋のかけらだの、何処かで拾って来たらしい襤褸っきれだの、インキでよごれっぱなしの、まるで肺病やみみたいにかさかさになった二本の鵞ペンだの、おおかたフランス軍のモスクワ侵入以前にでも主人が使っていたらしい、もうすっかり黄いろくなってしまった歯ブラシだの、といったものである。

 壁には幾つもの絵がところせまく乱雑に懸けてあって、どこかの戦争の絵らしく、大きな太鼓だの、三角帽をかぶって喚いている兵隊だの、死にかかった馬だのを描いた恐ろしく長い銅版画はもう黄ばんでしまっているが、それは細い青銅の筋金すじがねを入れ、四隅よすみにもやはり青銅の円い座金ざがねをつけた、ガラスもないマホガニイの額縁に納めてある。それと並んで、花や、果物や、切り割った西瓜や、野豚の頭や、倒さに吊りさげた鴨を描いた大きなくすんだ油絵が壁の半ばを占領している。天井の真中には、麻布あさの袋でおおったシャンデリアがさがっているが、ひどい埃のために、まるでさなぎの入っているまゆそっくりだ。部屋の片隅には、もっとひどいがらくたで、机の上へ載せるだけの値打もない代物が床に山と積んである。堆積やまの中には果して何があるのか、ちょっと見当もつかない、というのは、それに夥しく埃が積っているためで、ちょっとでも触ろうものなら、手がまるで手袋でもはめたようになってしまいそうだ。その中からどうやらはっきり形のわかるのは、木製のすきの切れっぱしと、古い長靴の裏革ぐらいのものだ。もし、テーブルの上にある古いぼろぼろの頭巾がここに人の住んでいることを証明しなかったら、この部屋が生きた人間の住まいだなどとはどうしても思えなかっただろう。チチコフがこの奇妙きてれつな部屋飾りを眺めまわしている間に、横側の扉があいて、さっき庭で逢った家政婦が入って来た。ところが今あらためて見ると、どうもそれは家政婦というよりは男の執事らしい。家政婦なら、第一、鬚などを剃ったりする筈がないのに、この人物は、ちゃんと鬚を剃っておる、もっともそれは極くたまのことらしく、顎から両方の頬の下部したが、まるで厩で馬を清掃するとき使う針金製の馬節ブラッシそっくりだ。チチコフは怪訝な顔をしながら、執事の方から何か言いだすのを、もどかしそうに待っていた。執事はまた執事で、チチコフが口を切るのを待っているのだ。とうとうこの珍妙な探りあいにしびれを切らしたチチコフが思いきって訊ねた。

「旦那はどうしたんだね? 御在宅じゃないのかね?」

「主人はここにおりますだよ。」と執事が答えた。

「何処にさ?」とチチコフが訊きかえした。

「お前さん、眼が見えないのですかい?」と執事が言った。「ええ、れったい! このわしが主人でがすよ!」

 ここで我等の主人公は思わず一歩後へ退って、しげしげと相手の顔を見なおした。これまでに彼はずいぶんいろんな人間にも会い、恐らく作者わたしや読者諸子が決して見ることのないような人間にも会って来たが、どうもこんな人間に出会うのは初めてだった。顔に別段変ったところがあるわけではなく、大概の痩せた老人に共通な顔をしていたが、ただ顎だけが恐ろしく前へ突き出ているため、唾を吐くたんびに顎を汚さないようにハンカチで蔽わなければならない。まだ生々いきいきとしている小さな金壺眼かなつぼまなこは、まるで二十日鼠はつかねずみが暗い穴からとんがった鼻面はなを突き出して、耳をそばだてたり、髭をピクピク動かしながら、どこかに猫か、悪戯小僧が隠れておりはせぬかと外界そとを見廻したり、胡散くさそうに空気の匂いまで嗅ぎ廻す時のように、長いげじげじ眉の下からキョトキョトと始終あたりを窺っている。何より目立つのは彼の服装である。どんなに手段を講じ、努力を払っても、彼のている部屋着がいったい何で拵えてあるかは、ちょっと突きとめることがむつかしい。袖と襟とは脂と垢でテカテカに汚れて、まるで長靴に使う鞣革なめしがわそっくりになっているし、背後うしろには、普通なら二つに割ってある筈の裾が、四つに裂けてビロビロとさがり、そこから苧屑のような木綿わたが垂れさがっている! 頸にもやはり、靴下とも靴下どめとも腹巻ともつかないが、どう見てもネクタイとは思われない代物を巻きつけている。要するに、もしもチチコフが何処かお寺の門口かどぐちあたりでこんな服装なりをした相手に出会ったとしたら、きっと二カペーカ銅貨を一枚くれてやったに違いない。これも我等の主人公の名誉のために言っておかねばならないが、彼はなかなか情け深い男で、乞食を見ると、どうしても二カペーカ銅貨を恵んでやらずにはおられなかったからである。しかし、彼の前に立っているのは乞食ではなく、いま眼の前にいるのは地主なのである。しかもこの地主は千人の余も農奴を持っているのだ。またこれほど多くの穀類を、粒のままや、粉にしたのや、また刈り取ったままで貯えていたり、倉や物置や乾燥室を、こんなに夥しい麻布や羅紗らしゃや、羊の皮のなめしたのや生のままのや、乾した魚や、いろんな青物や、肉製品で一杯にしている者が他にあったらお目にかかりたいものだ。彼の家の裏庭をちょっと覗いてみるがよい、そこには、いろんな木材きざいだの、決してこれから先き使われそうにもない器具の類がごたごたと並べてあるので、これはひょっとしたら、何か掘り出し物でも見つけようと思って、足まめな姑婆さんたちが料理女をお供に毎日お百度を踏む、あのモスクワの荒物市場へ迷いこんだのじゃないかと疑われる位で、いろんな、じたりえぐったりぎ合わせたり編んだりした木工品がうずたかく積みあげてある。例えば、樽だの、釣瓶つるべだの、手桶ておけだの、かた手桶だの、注口そそぎくちの附いたのや附かない木の酌器だの、柄杓ひしゃくだの、白樺の皮でつくった曲物まげものだの、よく女が苧やいろんなくだらないものを入れる桶だの、薄い白楊はこやなぎの板を曲げて拵らえた箱だの、白樺の皮で編んだかごだの、その他貧富の別なくロシア人が日常つかうさまざまな道具の山であった。こんな細工物の山をプリューシキンは一体どうしようというのだろう? 彼の持っているような村が二つあったところで、とても一生のうちにこれだけの道具は使いこなせるものではないのだが、それでも彼はまだ足りないと思っているらしい。どうもそれだけでは満足が出来ないので、彼はいまだに毎日、自分の村の往還おうかんをぶらぶら歩きまわりながら、橋の下を覗いたり、溝板の下をうかがったりして、眼にとまったが最後──たとえそれが古靴の底だろうが、女の捨てた襤褸だろうが、鉄の釘だろうが、瀬戸物の破片かけらだろうが、何でもかまわす自分の家へ持って帰っては、チチコフが部屋の隅に見つけた例のがらくたの山へ投げこむのである。『そうれ、また爺さんがあさりに出かけたぞ!』こう百姓たちは、彼が獲物を探しに行く姿を見かけると、いつも言いあった。実際、彼が通った後は、往還がまるで掃いたようにきれいになった。通りすがりの士官が拍車を落したことがあったが、その拍車はたちまち例の山へ移されていた。どうかして女がうっかり井戸端に釣瓶を置き忘れたりすると、彼はさっさとその釣瓶を持って行ってしまう。もっとも現場を見つけた百姓が直ぐその場で咎めさえすれば、そのまま何の文句もなく、彼はかすめた品をこっそり置いて行くが、それが一旦くだんの堆積やまへなげこまれてしまったら万事休すで、これはく斯くの時に斯く斯くの人から買ったとか、祖父から譲られたとか言って、飽くまで自分のものだと主張する。彼は自分の部屋の中でも、封蝋だろうが、紙屑だろうが、鳥の羽毛はねだろうが、なんでも床に落ちているものを拾いあげては、書物卓デスクの上なり窓枠の上へ載せておくのだ。

 だが彼とても単に勤倹きんけん主人あるじであった時代もあるのだ! 妻もあれば子供もあって、隣村の地主たちが訊ねて来ては食事を共にしたり、家政のやり方や上手な経済の切盛きりもりについて彼から教えを受けたりしたものである。一切万事が生き生きとして進行し、判で押したようにきちんきちんと片づいて行った。磨粉場こなひきば晒布場さらしばが活動すれば、羅紗織場や指物さしもの工場や紡績場いとひきばがどしどし働いていた。万事にかけて主人の鋭い眼光が到るところに行きわたっていた。彼はまるで勤勉な蜘蛛のように、家政という網の目を隅から隅まで、せかせかしながら、しかも抜け目なくせまわっていた。彼の顔色には、あまり烈しい感情は現われていなかったが、眼に理知の光りが見えていた。彼の話は処世の知識と経験とに充ちあふれていたので、客にはそれを聴くのが楽しかった。愛想がよくて、お喋りの主婦は、客あしらいがいいというので評判だった。二人の可愛らしい娘がよく客を迎えに出て来た。どちらも金髪で、薔薇の花のように瑞々みずみずしかった。また活発な男の子も一人あって、お客の前へ飛び出すなり、相手が喜ぼうが喜ぶまいが、そんなことには一向お構いなしに、片っぱしからみんなを接吻して廻った。邸の窓という窓は残らず開け放たれており、中二階には家庭教師のフランス人が住んでいた。この男はいつもきれいに髭を剃っていて、射撃の名人でもあった。よく蝦夷山鳥えぞやまどりや鴨を御馳走に持って帰ったが、時には雀の卵より他には取って来ないこともあって、そんな時には自分の分だけそれでオムレツを拵らえて呉れと言った。家じゅうに他には誰もそんなものを食う者がなかったからだ。その中二階には又、彼と同国人で、二人の娘の方を受持っている女の家庭教師も住んでいた。当の主人はといえば、食卓につく時いつもフロックコートで出て来たが、それは少々著古きふるされてはいたけれど、さっぱりと手入ていれがしてあって、肱などもきちんとしており、補布つぎなどはどこにもあたっていなかった。ところが、善良な主婦が亡くなって、鍵の一部と共にこまごました心遣いがプリューシキンの肩にかかって来た。彼は妙に落着きがなくなり、大抵の男鰥おとこやもめがそうであるように、だんだん疑い深くなり、吝嗇けちくさくなって行った。どうも姉娘のアレクサンドラ・ステパーノヴナには信用が置けない──この考えは成程まちがっていなかった。というのは、間もなくアレクサンドラ・ステパーノヴナが、一体どこの連隊に属しているとも分りもしない或る騎兵の二等大尉と駆落かけおちをして、父親が軍人という奴はみんな博奕ばくちうちで道楽者だという不思議な偏見から士官嫌いなことを知っていたので、大急ぎで何処か田舎の教会で結婚式を済ましてしまったからだ。父親は娘の前途をのろっただけで、行方ゆくえを捜索しようともしなかった。家の中はいよいよ落莫らくばくたるものになった。主人の吝嗇りんしょくはますます露骨になってきた。吝嗇には好い相棒である白髪が彼のこわい髪の毛に光り出して、それと共に吝嗇の度が一層くわわった。家庭教師のフランス人は息子が官途につく時期に達したというのを口実に解雇された。女教師マダムの方はアレクサンドラ・ステパーノヴナの誘拐を幇助した疑いで追放された。息子は、父の意見で最も健実な勤め口だという裁判事務を見習うために県の首都まちへ送られたが、裁判所へは行かずに父の意見にそむいて軍隊へ入ってしまい、勝手に父のもとへ軍服を買う金を請求してよこした。それに対して彼が父親から、いわゆる『*1馬鹿握り』というやつを受取ったことは言うまでもない。最後に父親と共に家に残っていた妹娘が死んだため、いよいよこの老人は莫大な自分の財産の番人として、管理者として、所有主として、一人ぼっちになってしまった。孤独な生活はいやが上にも彼を吝嗇にした。周知のとおり、吝嗇というやつは狼のように貪欲なもので、がつがつと貪れば貪るほどいよいよ貪婪どんらんになるのである。彼の心には、さなきだに人間らしい感情が乏しかったのに、それが刻一刻と薄れて、見る影もない廃残の身からは日毎ひごとに何ものかがうしなわれて行った。時も時とて、わざわざ軍人というものに対する父の考えを確実にしようとでもするように、彼の伜はすっかり賭博に身を持ち崩してしまったのである。彼は心底から伜に対して父親の呪いを送り、その後は伜がこの世に生きていようがいまいが、一切そんなことはもう気にかけまいと思った。年毎としごとに彼の家の窓は次ぎ次ぎと閉ざされて行って、とうとうしまいには開いているのはたった二つきりになってしまい、その一つには、読者もすでに御存知のとおり、紙が貼りつけてある始末だ。家事の大切な方面が年と共にだんだんお留守になって行き、その代りに、けちけちした彼の眼差まなざし紙片かみきれだの鳥の羽毛はねだのといったものに向けられて、そんなものばかり自分の部屋に寄せあつめているのである。彼はまた自分のところへ生産物を買いに来る仲買人に対しても、いよいよ頑固一点張りになった。仲買人どもはいろいろ掛引をしてみるが、とうとう愛想をつかして、こりゃあ人間じゃない、悪魔だと言って、さっぱり寄りつかないようになった。乾草も穀類も腐ってしまい、穀堆こくづか禾堆いなむらはキャベツでも作るのに持ってこいの、申し分のない堆肥に変ってしまった。穴倉にしまってある麦粉は、まるで石のように塊まって、斧で割らなければならない程になり、羅紗や麻布やいろんな手織布は、手を触れるのも怖ろしいくらいで埃と見わけがつかなかった。彼は自分の家には何がどれほどあるのやら、もうすっかり忘れてしまって、ただ憶えているのは、戸棚のどこかに、何かの浸酒の残りを入れた壜があって、それをこっそり誰かが盗んで飲まないように自分でちゃんと記号しるしをつけておいたのと、それから鵞ペンや封蝋がどこにあるという位のことである。ところが、収穫の方は前々まえまえどおりにどしどし集まって来た。百姓は昔どおり免役税オブロークを持って来なければならず、女たちもそれぞれ元どおりに胡桃を年貢に納めなければならなかった。また機織はたおり女は、やはり以前と同じ機数はたかずの麻布を織らなければならなかった。こうして集まって来たものは皆、倉庫に山と積まれたまま腐って廃物となってしまったが、しまいには彼自身までが、一種の人間の廃物くずになってしまったのだ。アレクサンドラ・ステパーノヴナはいつか二度ばかり小さい男の子を連れて、何か少しでも貰えまいかと思ってやって来た。どうやら、例の騎兵大尉との放浪生活が、結婚まえにそう思ったほどうまくは行かなかったらしい。プリューシキンは、しかし彼女を赦して、いたいけな孫にテーブルの上に載っかっていたボタンかなんかを持たせて遊ばせたくらいだったが、金子かねは一文もやらなかった。二度目に来た時、アレクサンドラ・ステパーノヴナは子供も二人づれで、父への土産にお茶うけの丸麺麭クリーチと新しい部屋着を持って来た。というのは、お父さんの部屋着はみっともないどころか、恥かしくて見ていられないほどひどいものだったからだ。プリューシキンは二人の孫を可愛がり、自分の右と左の膝に二人を乗せて、お馬ハイドウドウといってゆすぶってやった。丸麺麭クリーチと部屋着は有難く頂戴したが、娘には絶対になんにもやらなかった。アレクサンドラ・ステパーノヴナはそのままむなしく帰って行った。

 さて、チチコフの面前めんぜんに立っているのは、こういう類いの地主だった! どうもこんな現象はロシアでは甚だ稀なことといわねばならぬ。ロシア人はだいたい誰も彼もが、縮こまって小さくなっているよりはむしろどしどし発展することを好む。それに、例のロシア式の無茶と奢りで精いっぱい放蕩ほうとうをやり、一生を浮いた浮いたで暮らしているような地主がそこいらにごろごろしているのだから、なおさら不思議だ。そういう連中の住居すまいを見ると、初めてやって来た者は吃驚びっくりして立ちどまり、見る影もない地主たちの間へ一体どんな御領主の公爵様が不意に姿を現わしたのだろうとおっ魂消たまげてしまう。上には数知れぬ煙突や望楼や風見がそびえ、ぐるりには傍屋ぼうおくだの来客用に建てたいろんな家屋だのの夥しく並んでいる白い石造の邸宅は、まるで宮殿のように見える。何一つ欠けているものがあるだろうか? 芝居もあれば、舞踏会もあり、篝火かがりび油燈ランプで照らされた庭園は、耳を聾するような楽の音とともに夜もすがら輝きわたっている。県下の大半の人間が衣裳を飾って楽しげに木蔭を逍遥しょうようしているが、煌々こうこうたるこの照明の中では誰にも何ら不思議なものとも怖ろしいものとも思われない。とはいえ、人工の光線に照らされた木枝は本来の鮮やかな緑の色を失って樹々の茂みのなかから芝居がかりにニュッと顔を出し、上の方ほど暗く、いかつくなって、この夜の空にいつもより二十倍も怖ろしい姿を浮き出させており、また永遠の闇にとざされた気難しい樹々の梢は、はるかの空中で葉をふるわせながら、自分の根本を明々と照らす安っぽい光りに向って憤慨をもらしているのだ。

 もう数分のあいだプリューシキンは一言も物をいわずに突っ立っていたが、チチコフの方も主人の風体ふうていと部屋の中の有様とにすっかり心を奪われてしまって、容易に口を開くことが出来なかった。長いこと彼は、自分の訪問した理由をどう説明したものか、適当な言葉が思いつけなかったのだ。初め彼は、あなたの徳行とっこうと類い稀れな御人格については予々かねがねお噂をうかがっていたから、ぜひ一度お目にかかって親しく敬意を表したいと考えて参上した、というようなことを言おうと思ったのであるが、どうもそれではあんまりだという気がした。彼はもう一度、部屋の中のがらくたをチラと流眄ながしめで見たが、ふとその時、⦅徳行⦆だの⦅類い稀れなる人格⦆だのという言葉は止して、その代りに⦅経済⦆と⦅秩序⦆という言葉を持ってくれば上乗じょうじょうだと気がついた。そこで咄嗟とっさに文句をかえて、あなたの経済にかけての御手腕と、めずらしく秩序のととのった御領分については予々お噂を承わっていたから、ぜひお近附をねがって御挨拶がいたしたく、罷り越した次第ですとやった。無論、これより他にもっとよい口実がない筈はなかったが、その時はどうしてもこれ以外の名案が浮かばなかったのだ。

 それに対してプリューシキンは、何かもぐもぐ唇を動かして呟やいた──というのは歯がなかったからだ──が、いったい何を言ったのか、はっきりは分らないが、多分その意味はこんなようなことだったろう。『手前の挨拶なんざ、糞くらえだ!』が、我が国には客を好遇する道が広くゆきわたっていて、その法則はどんな吝嗇漢けちんぼでも無視することが出来なかったので、すぐに彼はややはっきりした言葉で、『さあ、どうかまあ、お掛け下され!』と言い足した。

「わしはもうだいぶ前から、お客さんに来て貰ったことがありませんのでな。」と彼は言葉をついだ。「それに、正直なところ、あんまり得になることでもごわせんしね。お互いに往ったり来たりするなんて、ありゃ碌な習慣じゃごわせんわい、家事うちのことおろそかになるし……それに、お客の馬にだって乾草はやらにゃなりませんしね! ところで、わしはもうっくに食事めしをすましただがね。なんしろうちの台所ときちゃあ、天井が低くて、汚ならしくて、おまけに煙突がすっかり壊れておる始末でな、火でもこうものなら、さっそく火事騒ぎですからね。」

⦅成程なあ!⦆とチチコフは心に思った。──⦅これじゃあ、ソバケーヴィッチのところで凝乳饅頭や羊の肋肉をしこたま詰めこんで来て、よかったわい。⦆

「それにお恥かしい話じゃが、屋敷じゅう探しても乾草一束ない始末でな!」プリューシキンはまた言葉をつづけた。「第一、そんなものをどうしてたばっておけますかい? 地所は狭いし、百姓は怠け者で、働くことを嫌って居酒屋へ行くことばっかり考えてけつかる……これじゃあ悪くすると、今にこの年齢としで物乞いをして歩かなきゃならないかも知れませんわい!」

「ですが、私の伺ったところでは、」とチチコフが、控え目に聞き咎めて言った。「お宅には千人以上も農奴がおありだというじゃありませんか。」

「誰がそんなことを言いましたね? お前さま、そんなことを言った奴の顔に唾でもっかけてやりなさればよかったのに! そいつは屹度そんなことを言って、あんたを揶揄からかおうと思ったのですよ。農奴が千人もあるなんて、飛んでもない話じゃ、ひとつ勘定をして貰いたいものさね、なんの、そんなにあって堪りますかい! この三年ばかりというもの、忌々しい熱病がはやりおってな、わしがとこでは農奴をどえらくられてしまいましたわい。」

「へえ! それで、余程たくさん死んだのですか?」とチチコフは同情をこめて叫んだ。

「左様、ずいぶんえらくられましただ。」

「いったい、どのくらい死んだのですか?」

「八十人ばかりもられましたで。」

「まさか?」

「なにも嘘なぞ言やしませんわい。」

「では、もう一つお訊ねしますが、その今おっしゃった人数は、この前に人口調査があった時以来のお話なんでしょう!」

「そうなら、まだしもですがね、」とプリューシキンが答えた。「この前の調査以来だと、ざっと百二十人からになりますわい。」

「へえ、ほんとですか? かっきり百二十人も?」思わずこう叫んだままチチコフは、驚きのあまりぽかんと口をあけた。

「お前さま、この年寄のわしが嘘なぞつきますかい、もう七十にもなるのに!」とプリューシキンが言った。どうやら彼は、殆んど嬉しそうな相手の叫び声に少し気を悪くしたらしい。チチコフも、他人の不幸に対してこんな同情のない態度を見せるのはまったく不謹慎だと気がついたので、さっそく溜息をついて、まことに御愁傷の至りだと言った。

「そんなお悔みなんぞ言って貰っても、一文にもなりませんわい。」とプリューシキンが言った。「この近所にも大尉が一人おりましてな、どこの馬の骨とも分らない癖に、わしの親類じゃなどと名乗って、⦅伯父さん、伯父さん!⦆と言ってからに、悔みを言いだしたが最後、急いで耳を塞がずにゃおられないような大声を立てますのさ。もうつらからして真赧まっかでな、おおかた強い酒を浴びるほど喰らってけつかるのでがしょうよ。きっと軍隊にいた頃、湯水のように金を使ってしまったか、でなきゃ、芝居の女役者にでもすっからかんにかれてしまったのでがさあね、それで今頃になって、わしがとこへやって来ては、お悔みなんぞこきゃあがるんで!」

 チチコフは、自分の同情は決して大尉のお悔みなどと同じものではない、自分はそんな口先だけではなく、行為によってそれを証拠だてるつもりだと、大童おおわらわになって説明すると共に、もはやごてくさ言っている場合ではないと思って単刀直入に、自分はそういう災厄のために死んだ農奴全部に対する納税の義務をこの身に引受けたいのだと、その場で言明した。この申し出は少なからずプリューシキンを驚かせたらしい。彼は眼を皿のようにして、しばらく相手の顔をまじまじと見つめていたが、ようやく最後に、『それじゃあお前さまは、軍隊にお勤めになった方じゃごわせんのかい?』と訊ねた。

「いいえ。」とチチコフは、かなり狡く、こう答えたものだ。「勤めは文官の方でして。」

「文官にね?」と、プリューシキンは鸚鵡がえしに繰り返して、それから、何か食べるような具合に、もぐもぐ唇を動かした。「じゃが、どうして又そんなことをなさるんで? みすみすあなたの損じゃごわせんか?」

「あなたの御満足のためなら、損失などは何でもありませんよ。」

「それはそれは! お前さまはまったく御親切なお方じゃ!」プリューシキンは喜びのあまり、鼻の孔から嗅煙草のかすが、まるで濃い珈琲のしずくみたいに甚だ不体裁に、にょろりと覗いたことも、また部屋着の前がはだけて、ちょっと見るのも憚られるような下着が顔を出したことも気がつかずに、喚きたてた。「ほんとにお前さまはこの老人としよりを慰めて下さるのじゃ? ああ、有難や有難や! あんたはわしの救いの神様じゃ!……」それ以上プリューシキンはつづけて言うことが出来なかった。しかし、ほんの一分か二分も経たないうちに、さっき彼の仏頂面ぶっちょうづら忽然こつぜんとして現われた歓喜の色が、同じようにたちまち跡形もなく消え失せて、再びその顔には気懸りらしい表情が浮かんだ。彼は手巾で顔を拭きなどしたが、今度はその手巾を小さく丸めて、それで上唇をこすったりしだした。

「何ですかね、甚だ無躾ぶしつけなことを申して、お腹立ちになっちゃ困りますが、その税金は毎年納めておくんなさるのでがしょうねえ、そしてその金は、こちらへ廻して下さるだか、それとも直接じか国庫おかみへ納めておくんなさるだかね?」

「じゃあ、こういうことにしましょう。つまり、その農奴は現に生きているものとして、それをあなたが私に売って下さった形にして売買登記の手続きをするのです。」

「なるほど、売買登記をね……。」そう言ったまま、プリューシキンはじっと考えこんで、またしても唇をもぐもぐやり出した。「じゃが、登記をするとなると、だいぶの費用ものいりでがしてな。なにせ役所の書記といえば至って厚かましい野郎ばっかりでな! 以前は、銅貨で五十カペーカに、麦粉の一袋もやればまあよかったものだが、当節じゃあ、搗麦を荷馬車にまるまる一台と、おまけに赤紙幣あかざつの一枚もつけてやらなくちゃなりません、──まったく、欲張りったらない! わしはどうしてあれに眼をつける者がないのか、不思議でなりませんわい。ほんとに、ああいう手合いには物の道理を言って聞かせてやった方がええのじゃ! 言葉ちゅうものは誰にだってこたえるものじゃ。誰が何といおうが、道理に叛くことは出来ませんからな。」

⦅どうだか、そういうお前こそ叛くだろう!⦆とチチコフは心に思ったが、すぐに、自分は謹んでその登記の費用も一切こちらで負担するつもりだと言った。

 プリューシキンは登記の費用まで相手が持つと聞くと、このお客はよっぽどの馬鹿に違いない、そして役所勤めをしていたなどというのもいい加減の出鱈目で、以前もとはきっと軍人で女優にでもうつつをぬかしていたのだろうときめてしまった。が、それにも拘らず、彼は自分の喜びを隠すことが出来ずに、チチコフに対してばかりか、そんなものがあるかないか聞きもしないで、彼の子供に対してまで、ありとあらゆる祝福の辞を述べたものだ。それから窓際に立ち寄ると、指で窓ガラスをガタガタたたいて、『おーい、プローシカ!』と呼んだ。間もなく誰かあわただしく玄関へ駈けこんだ気配がして、そこで何かしばらくごそごそやっているようだったが、やがて長靴の音がどたばたと近づいて来ると、扉があいて、プローシカが入って来た。十三四の男の子で、歩くたんびに今にも足が抜けてしまいそうな、おそろしく大きな長靴をはいていた。プローシカがどうしてこんな大きな長靴をはいていたかということは直ぐに分る。つまり、プリューシキンの家では召使が何人いようが、みんなに対して長靴が一足しか宛がわれないで、それをいつも玄関に置いておくことになっていた。大抵、誰でも主人の居間へ呼ばれると、庭はずっと裸足で飛んで来るが、玄関へ入るなり、その長靴をつっかけて、それから主人の部屋へ顔を出すのであった。主人の部屋を出ると、彼はまた長靴を玄関で脱ぎすてて再び赤裸足あかはだしで帰って行くのである。秋もさなかの、殊に薄霜のおりた朝などに、誰かが窓から覗いてみたら、召使という召使が、どんな達者な舞踏家だって、舞台の上でもやらないような恐ろしい勢いで跳ねまわっているのが眼につくことだろう。

「ほうら、見てやって下され、このまあ、馬鹿面を!」とプリューシキンはプローシカの顔を指しながら、チチコフに向って言った。「から木偶でくの坊のくせにな、ちょっとでも何か置いとくと、すぐにりくさるのでがすよ! こりゃ、阿房あほう、貴様は何しに来たのじゃい? さあ言ってみろ、何の用だか?」ここで彼は暫らく口を噤んだが、それに対してプローシカの方も黙りこくっていた。「サモワールを支度するのじゃ、分ったか? それから、この鍵を持っていってマヴラに渡すのじゃ、彼女あれに倉へ行って来いってな。倉の棚に、いつかアレクサンドラ・ステパーノヴナが土産にもって来た丸麺麭の固くなったのがあるでな、あれをお茶受けに持ってこさせるのじゃよ!……こりゃ待て、どこへ行くのじゃ? 阿房め! しょうのない阿房じゃ!……足もとに火でもついたように、何をそう周章あわてくさるのじゃ?……話をよく聴いていけ。その麺麭パンはな、おおかた上っつらは腐っとるじゃろうからナイフで削り落すのじゃよ。じゃが、その屑はうっちゃってしまわないで、鶏舎とりごやへ持って行くのだぞ。それから、ええか、貴様は倉へ入っちゃならないぞ。入りでもして見ろ、ええか? 白樺の笞で思いきり堪能させてくれるから! ちょうど今貴様はガツガツしておるから、笞でも喰らったらさぞよかろうに! まあ、入るなら入ってみろ、ちゃんとおれは、この窓から見張っておるから。まったく、あいつらには何一つ油断がなりませんからな。」と彼は、プローシカが長靴を曳きずって出ていってから、チチコフに向って言った。その後で彼は、チチコフにまで胡散くさそうな目を向けはじめた。どうも、相手のそんな篦棒べらぼうな太っ腹が本当らしく思われなくなったので、彼は肚の中で⦅こりゃ何とも分ったもんじゃないぞ。ひょっとするとこの男は、あの道楽者どもと同んなじに、口先だけで駄法螺をふいとるのかも知れないぞ。無駄話をしたり、お茶の一杯もよばれようと思って、いい加減な出鱈目をしゃべりまくった挙句に、ハイ左様ならとくるんじゃないかな?⦆と思った。それで彼は、警戒かたがた、ちょっと相手の心を試してみようと思って、売買登記はなるべく早く済ましたいものだ、人間というものは一向あてにならないもので、今日あって、明日の命も分らないのだからと言った。

 チチコフは今すぐに手続をしてもいいと答え、ともかくその農奴の全体の名簿が欲しいと言った。

 それでプリューシキンはすっかり安心した。彼は何か思案をしているようだったが、やがて鍵を持って戸棚へ近よると、戸をあけて長いことコップや茶碗のあいだを掻きまわしていたが、しまいにこんなことを呟やいた。『どうも見つかりませんがね、どいつか、あれを飲んでしまいさえしなきゃ、たしか素晴らしいリキュールがあった筈じゃが、なにせ、そろいもそろって泥坊ばかりじゃでな! おや、成程、これじゃなかったかな?』チチコフが見ると、相手の手には埃で袋でもかぶせたようになった一本の玻璃ガラス壜が握られていた。『これは、死んだ家内が拵らえたもんでな、』とプリューシキンは言葉をついで、『女中頭の阿魔あまめが、すっかり投げやりにして、栓もしないでおきくさったのでがすよ、畜生め! 黄金虫だの、いろんなものが中へ落ちていましたがね、そういうごみはわしがとっておきましたでな、今は綺麗なもんでがす。あんたに一杯つぎますわい。』

 だがチチコフは、もう飲んだり食ったりした後だからと言って、極力そのリキュールは御免を蒙った。

「酒も食事めしももうお済みになった!」とプリューシキンが言った。「成程なあ、やっぱり育ちのいい方というものは、すぐに分りますわい。いつでもお腹がいっぱいだと仰っしゃって、何にも召上がりませんて。ところが、やくざなそこいらのコソ泥どもときた日には、いやはや幾ら食わせても食わせてもな……。あの大尉がそうなんで、ここへやってきちゃあ、『伯父さん、何か食べさせて下さいよ!』と、こうでさ。わしがあいつの伯父なら、あいつはわしの祖父じじいだとでもいうのですかい。きっと自分の家には何も食うものがないものだから、それでああほっつきまわっておるのでがすよ! そうそう、あなたは、あの亡者もうじゃどもの名簿が御入用なんでがしたな? おやすい御用で! わしはな、今度の人口調査に戸籍から削除けずってもらおうと思って、ちゃんと別の紙に一人のこらず書きつけておきましたわい。」プリューシキンは眼鏡をかけると、書附を引っ掻きまわしはじめた。そして、いろんな書類の束を解くたんびに、お客に恐ろしい埃の馳走をふるまったため、チチコフはしきりにくしゃみをしたものだ。そのうちにようやく、隙間もなく何か書き埋めた一枚の紙が取り出された。それには百姓たちの名前が、まるで蟆子ぶよでもたかったようにぎっしり書きこんであった。いろんな名前がある。パラモーノフだの、ピーメノフだの、パンテレーモノフだの、中にはグリゴーリイ・*2ドエズジャイ・ニェドエジョーシなどという変った名前まで飛び出して来るのだ。みんなで百二十幾人あった。チチコフはその夥しい数を見て、思わず北叟笑ほくそえんだ。彼はそれをポケットへしまうと、プリューシキンに向って、登記の手続をするため、いちどまちまで御足労を願わなければならん、と言った。

「えっ、まちまで? 飛んでもない!……家をあけるのは困りますわい。なにせ、わしのとこの奴らは盗人ぬすっとか悪者ばかりでがしてな、一日で洗いざらい盗み出して、外套を懸ける釘まで抜いて行っちまいますからね。」

「じゃあ、どなたかお知合いはありませんか?」

「知合いなんぞありますかい? 知合いはみんな死んじまったり、仲違なかたがいをしちまいましてな……あ、そうそう! なあに、ないことはごわせんよ! ある、ある!」と彼は叫んだ。「あの裁判所長がわしの知合いでがしてな、昔はよくここへもやって来たものじゃて。ようく知っておりますわい! お互いに同窓どうそうの友でな、一緒によく垣根へなんぞ這いあがったものじゃて! なんで知らんことがごわしょう! ふるい知合いでがすよ!……じゃあ、あの男へ手紙でも書きますかな?」

「そりゃあ結構ですよ、あの方なら!」

「ようがすとも、ありゃ旧友でごわしてな! 学校時代にもいい相棒でしたわい。」

 するとその木偶でくのような顔に、不意に一種の暖かい光りが閃めいて、感情とは言えないまでも、仄かな感情の残影とでもいうようなものが現われた。それはあたかも水に溺れた人がひょっこり思いがけなく水面へ顔を出したのと同じで、岸に寄り集まった群集は期せずして歓呼の声をあげ、喜び勇んだ兄弟姉妹は岸から縄を投げてやって、もう一度背中なり、もがき疲れたかいななりが見えて来ないかと待ち侘びるけれど、その甲斐もなく、さっき顔を見せたのが最後のおさらばだったのだ。その後では万象寂ばんしょうせきとして声なく、ひっそり静まりかえって呼べども答えぬ水面は、ひときわ怖ろしく、ひときわ荒寥こうりょうたるものになってしまう。プリューシキンの顔もそれと同じく、一瞬、感情の影がチラと掠めすぎた後では、いっそう無表情な、いっそう下卑たものに変った。

「机の上に新らしい四つぎりの紙が一枚あったはずじゃが、」と彼は言った。「はあて、何処へ紛れこんでしまったかな。なにせ、うちの奴らはみんな手癖が悪いだから?」そこで彼はテーブルの上や下をあちこち覗いてみたり、方々をひっかきまわした挙句、『マヴラ、これマヴラ!』と喚きたてた。呼び声に応じて、手に皿を持った女が姿を現わしたが、その皿には、読者も先刻御承知の固麺麭かたパンが載っていた。そこでこの二人の間に次ぎのような言葉のやりとりが持ちあがった。

「この泥坊女め、貴様あの紙をどこへやった?」

「旦那さま、本当にわたしゃ、旦那さまがコップの蓋になすった小さな紙片かみきれよりほかに、何も見たこともありましねえだよ。」

「いんにゃ、貴様の顔を見れあ、ちゃあんとおぬしが盗んだことが分るわい。」

「あれ、なんでハア、わたしがそんなものをりますだね? そんなものは、わたしにゃ何の役にも立ちましねえだよ、別に読み書きが出来るわけでもなしね。」

「嘘をつけ、お主はあれを寺男てらおとこに持って行ってやったのじゃ。あいつは文字をどうやらぬたくりおるからな、それであいつのところへ持って行ったのじゃろ。」

「ふん、寺男は紙ぐれえ欲しけりゃ自分で買いますだよ。あの人がお前さまの紙片なんぞ知るもんですか!」

「ようし待っておれ、今にその罰で閻魔の庁へ行ってから鉄の刺叉さすまたにさされて、じりじりと鬼に火焙ひあぶりにされるからな! 見ておれ、じりじりと火焙りにされるのじゃぞ!」

「だって、そんな紙なぞ手でさわったこともねえだのに、なんで火焙りにされる訳がありますだね? なんぞ他の、女の弱みで責められるなら、仕様もねえだが、わたしゃまだ盗みをしたちゅうて責められる覚えはありましねえだよ。」

「なあに、ちゃんと鬼が火焙りにするわさ! ⦅こりゃ泥坊女、貴様は主人を瞞したから、こうされるのだぞ!⦆そういってな、鬼どもがお主を真赤な刺叉で火焙りにするわさ!」

「そんなら、わたしゃこう言ってやりますだよ。⦅そんな覚えはねえだ! 金輪際そんな覚えはねえだ。わしは何にも盗んだことあねえ……⦆ってね。おや、紙はあのテーブルの上にあるでねえかね。いつでも旦那さまはこうして無実の罪でわたしを責めなさるだよ!」

 成程そこに四つ切の紙があるのを見つけると、プリューシキンはちょっとたじろいで唇をもぐもぐやっていたが、『ふむ、なにをそうがみがみ言うのじゃい? この怒り虫め! こちらが一言いうと、十言も口答えをしやがって! さあ行って、手紙に封をするだから火でも持って来い。待て待て! お主はまた脂蝋燭でも持って来るつもりじゃろうが、脂は溶け易くて、すぐ燃えて無くなってしまうから損じゃ。だから附木つけぎを持って来な!』と言った。

 マヴラが出て行くと、プリューシキンは安楽椅子に腰をおろしてペンを取ったが、それから長いこと礼の四つ切紙をあちこちひねくりまわしながら、何とかしてそれを八つ切にする工風くふうはないかと骨折ってみた。が、結局それも駄目と諦めがつくと、かびが生えてどろどろになった液の底に蠅が無数に沈んでいるインキ壺へペンを突っこんで、まるで楽符のお玉杓子たまじゃくしそっくりの文字をならべながら手紙を書きにかかった。彼は、絶えずブルブル震えて紙面全体を跳ねまわりたがる手を制して、いかにもけちくさくぎょうと行とをくっつけるように書いて行ったが、そうすると今度は余白がたくさん残るので、それも気が気ではないのだ。

 まったく人間というものが、これほど下劣で卑賤醜悪ひせんしゅうあくなものに堕落することが出来るのだろうか? これほど変るものだろうか? これが果して真相に近いことだろうか? ところが、すべてこれが真実のすがたで、人間はどんなものにもなり得るのだ。いま熱情に燃えさかっている青年が、もし自分の老いさらぼうた後の姿を見せつけられたなら、恐れおののいて飛びすさることだろう。ものやわらかな青年時代を過ぎ、がさつで粗剛そごうな壮年に達しても、心して人間的な行いを保持してゆくように努め給え。途中で取り落してはいけない。後で取り返すことは決して出来ないから! 未来に横たわる老齢はつれなく怖ろしいもので、何一つもとへ返してくれはしないのだ! まだしも、これよりは墓場の方が慈悲ぶかい。墓の上には⦅ここに人間が葬られている⦆とでも書かれようけれど、老齢の冷酷無情な面影からは、何一つ読みとることも出来はしないのだ。

「ときに、あんたのお友達で、」と、プリューシキンは手紙をたたみながら訊ねた。「逐電ちくでんした農奴が欲しいって人はごわせんかな?」

「お宅には逐電した奴もおありなんですか?」と、チチコフはハッと我れに返って、急いで訊き返した。

「ごわすとも、大ありでな。婿が捜索してくれましただが、さっぱり行方が分らないそうでな。もっとも彼奴は軍人だから、ガチャガチャ拍車を鳴らして踊ることは名人じゃが、法律上のことであちこちする段になると……。」

「で、そんな農奴がどのくらいおありなんですか?」

「左様さ、これも七十人ぐらいにはなりまさあね。」

「まさか、そんなに?」

「いや、まったくの話でがすよ! なにせ、わしがとこじゃ毎年、逃げますのでな。どいつもこいつも恐ろしい喰らい抜けばかりでな、のらくらして大喰らいばかりしてけつかるだ。で、わしの食うものが第一ごわせんような始末で……。逐電した奴なんざ、幾らでもかまいませんよ。ひとつお友達にそういって勧めて下され。せめて十人も見つけ出しゃあ、ええ金になりまさあね。調査簿に載っとる農奴なら、一人あたり五百ルーブリが相場でがすからな。」

⦅なんの、そんなことを友達なんぞに匂わせもするもんか。⦆とチチコフは心の中で呟やいたが、口へ出しては、そんな友達はちょっといそうもないし、第一その手続だけでも大変で、着物の裾がすりきれるほど役所へお百度を踏んでも、結局費用だおれになってしまうから、手を引くに限ると説き聴かせて、しかし本当にそれほどお困りのようなら、お気の毒だから、自分が引受けてもよい……が、値段のところは、全くお話にもならない安いものだと言った。

「で、幾ら出して下さるだね?」そうプリューシキンは訊いた。が、彼の顔はたちまちユダヤ人みたいな浅ましい相好になって、両手が水銀のようにブルブル顫えていた。

「さあ、一人あたり二十五カペーカだしましょう。」

「それで、どうして払って下さるだね? 正金しょうきんでかな?」

「ええ、この場で現金で払いますよ。」

「ですがね、お前さま、わしの貧乏世帯に免じてせめて四十カペーカに買って貰えませんかね。」

「御主人!」とチチコフが言った。「なんの四十カペーカどころか、私は五百ルーブリずつでも出したいところです! ほんとに私は喜んでそれだけ払いますよ。だって、あなたのような尊敬すべき善良な御老人が、正しいお心ゆえに苦しんでいらっしゃるのをのあたり見るのですものね。」

「いや、まったく、そのとおりでがすよ! 金輪際、ほんとのことでがす!」とプリューシキンは、こうべをたれて無性にそれを振りたてながら、言った。「何もかも、みんな馬鹿正直のお蔭でがすわい。」

「で、よござんすか、私にはあなたのお人柄ひとがらが一目で分ったのです。それだのに、どうして一人あたり五百ルーブリぐらい差上げないことがありましょう。しかしながら……私にはそれだけの財力がないのです。だから、お愛想に五カペーカだけ奮発させて頂きましょう、そうすると、農奴は一人あたり三十カペーカの勘定になりますねえ。」

「そりゃまあ、なんでがすか、せめてもう二カペーカだけ気張きばっておくんなさいよ。」

「二カペーカですね、ようござんす、気張っておきましょう。で、一体どれだけあるんです? たしか七十人と仰っしゃいましたねえ?」

「いんにゃ、みんなよせると七十八人になりますわい。」

「七十八人、七十八人と、それが一人あたり三十二カペーカだから、こうっと……。」ここで我等の主人公は一秒ばかり考えた、たしかにそれ以上はかからなかったが、彼はにわかにこう言った。「ええ、二十ルーブリと九十六カペーカになりますね!」彼はなかなか数理に長けていた。で、彼は早速プリューシキンに受取りを書かせて金を渡したが、それを両手で受けた老人は、絶えずこぼしはしないか、こぼしはしないかとビクビクしながら何か液体でも運ぶ時のように、恐ろしく用心深く書物卓デスクの方へ持って行った。書物卓デスクのそばへ行くと、彼は仔細にもう一度その金をあらためてから、やはり非常に用心深く、それを抽斗ひきだしの一つへしまった。てっきりその金は、カルプ師とポリカルプ師という、この村の二人の僧侶が彼を埋葬する時まで、そのまま抽斗の中に死蔵しぞうされて、さぞかしその時になったら、娘や婿や、また恐らくは、自から彼の親類と称している例の大尉などの筆紙ひっしにつくしがたいほどの喜びとなる運命だろう。金子をしまうとプリューシキンは安楽椅子に腰をおろしたが、どうやらもう何にも話の種がなくなったらしい。

「なんでがすい、もうあんたはお帰りなんで?」彼はチチコフがちょっと身動きをしたのを見て、そう言ったが、そのじつこちらはポケットからハンカチを取り出そうとしただけであった。

 そう言われるとチチコフも、成程この上こんなところに一刻も愚図々々ぐずぐずしていることはないと気がついた。『ええ、もうおいとましなくちゃなりません!』そう言って彼は帽子を手に取った。

「が、お茶は如何で?」

「いや、お茶はまた、いつかこの次ぎの時にして頂きましょう。」

「どうしてね? もうサモワールは言いつけましただよ。じゃが正直なところ、わしはあまりお茶は好きじゃごわせんわい。贅沢な飲みもので、それに砂糖が滅法高くなりましてな。プローシカ! もうサモワールはいらないぞ! それで麺麭パンはマヴラのとこへ返して来な、分ったな? 前のところへしまっとくだぞ。いんにゃ、そうでねえ、ここへよこしな、おれが自分で持って行くだから。それじゃあ、お前さま、御機嫌よろしゅう! どうかまあ、お前さまに神さまのお恵みがありますように! で、その手紙は裁判所長に渡しておくんなされ。そうじゃ! あの男に見せて下され、あれはわしの旧い友達だでな。そうだとも! 同窓の友でがしたからな?」

 それから、この不思議な化物ばけもののようなしわくちゃの老人は、お客を屋敷の外まで見送ったが、その後ですぐに門をしめるように言いつけた。その足で彼は、番人どもがめいめい持場もちばについているかどうかと、倉庫を見まわりに出かけたが、番人どもはちゃんと四隅よすみに立って、木の杓子しゃくしで鉄板がわりの小さい空樽あきだるたたいていた。それから台所をちょっと覗いて、召使たちが満足な物を食っているかどうかと調べるような顔をして、玉菜汁シチイカーシャを鱈腹つめこみ、一同を誰彼なしに、手癖が悪いの、身持がよくないのと罵りちらしておいてから、自分の部屋へと戻った。一人になると彼は、きょうのお客の、全く底の知れない親切に対して、どんな謝礼をしたものかと考えてみたりした。⦅一つあの男に懐中時計でもやるかな。⦆と彼は肚の中で考えた。⦅あれはなかなか立派な銀時計で、真鍮や赤銅あかがねの品とはどだい物が違うわい。すこし破損いたんじゃいるが、なあに、そりゃ自分で直すじゃろうて。あの男はまだ若いから、花嫁の気に入るために懐中時計ぐらいは欲しかろうさ。いや、それよりも、⦆と彼は、少し考えてから附けたした。⦅いっそあれは、死んだ後でおれの形見かたみとしてあの男にやるように遺言に書いておこうわい。⦆

 だが、我等の主人公はそんな時計などは貰わなくても、この上もない上乗の御機嫌だった。あんな思いもよらぬ収穫こそ、何よりの贈物であった。まったく何といったって、死んだ農奴ばかりか、おまけに逐電したやつまで合わせると、みんなで二百人を越すのだから堪らない! 無論まだプリューシキンの村へ乗りこんだばかりの時から、何か旨いことにありつけそうな気はしたが、こんな余録よろくがあろうとは夢にも思わなかった。道すがらも彼はいつになく愉快そうで、口笛を吹いたり、拳を口にあてて喇叭らっぱを吹くような塩梅に唇を鳴らしたり、はては何か唄までうたいだしたりしたが、その唄が実に変っていたので、セリファンもじっと耳を澄まして聴いていたが、そのうちにちょっとかぶりをふって、『へっ、旦那は何をうたってござることだか!』と呟やいた位だ。彼等が市へ近づいた頃には、もう濃い夕闇がせまっていた。影と光りがまったく溶け合い、それに物の姿までが溶けこんでしまっているように思われた。だんだら模様の関門も変にぼやけた色を帯び、立番たちばんをしている兵隊の口髭が、眼よりずっと上の額の辺にくっついているようで、鼻はまるでなさそうに見えた。轍の音が急に高くなり、車体がひどくおどりだしたので、いよいよ馬車が丸石の鋪道へ乗りこんだことが分った。街灯はまだともされず、ただそこここの家の窓に灯影ほかげがさしはじめたばかりであったが、横町よこちょう袋小路ふくろこうじでは、兵隊や馭者や労働者がわんさといて、赤いショールを掛けて素足すあし短靴たんぐつをはいた特殊な婦人がまるで蝙蝠のように辻々つじつじを素早く走り廻っているようなまちではどこでもこの時刻にはつきものの、或る種の場面や会話が持ちあがっていた。チチコフはそんな手合いには眼もくれなかった。そればかりか、郊外へ散歩に行っての帰りらしい、ステッキをついた多くの華奢な役人たちの姿にさえ、彼は見向きもしなかった。ただ時おり彼の耳へ入るのは、どうやら女の声らしく『なに言ってんのさ、酔っぱらいさん、失礼なことすると、承知しないよ!』とか、『お放しったら、馬鹿っ、警察へ突きだして、油をしぼってやるから!』などという叫び声であった。つまりそれは、夢みがちな二十歳はたち前後の若者が芝居の帰り道に、スペインの街や夜や、額に捲毛まきげをたらしてギターをかかえた素晴らしい女の姿などを胸に描きながら歩いている時、いきなり熱湯でもぶっかけるように、浴びせられる言葉なのだ。何かこういう若者の頭に浮かばない空想があるだろうか? 彼は天国へも昇れば、シルレルのところへお客にも行く──ところがまるで霹靂へきれきのように、こうした致命的な言葉が突然、彼の頭上で鳴り渡ると共に、彼はやはり自分が地上にあって、それも*3センナヤの広場か、酒場の近くに佇んでいるのに気がつく、そして又もや味気あじけない日常生活が彼の面前にそそり立つのである。

 半蓋馬車ブリーチカはガタリと一つ最後に揺れると、まるで穴の中へでも入るように旅館の門へ吸いこまれて行った。ペトゥルーシカが出迎えたが、この男は、前がはだけるのを嫌って片手でフロックの裾を押えたまま、片手でチチコフを馬車から助けおろした。給仕もナプキンを肩にかけて、蝋燭を捧げながら駈けだして来た。ペトゥルーシカは旦那の帰りを喜んでいるのかどうか──それはよく分らなかったが、とにかくセリファンとめくばせをした時には、いつもの気難しい顔が、どうやら少しは晴れやかになったように思われた。

「ずいぶんごゆっくりでございましたねえ。」と給仕は、階段に灯りを見せながら言った。

「ああ。」チチコフは階段へ足をかけながら答えた、「で、君の方はどうだね?」

「はい、お蔭さまで。」と給仕は、お辞儀をしながら答えた。「昨日、何でも中尉だと仰っしゃる軍人の方がお着きになりまして、十六番にお泊りでございます。」

「中尉だって?」

「何だかよくは存じませんが、リャザーニからおいでになったとかで、鹿毛の馬をつけたお馬車でございました。」

「うん、よしよし、まあこれからも、せいぜいよろしくやるさ!」そう言ってから、チチコフは自分の部屋へ入った。控室を通りながら、彼は鼻をくんくんいわせたが、ペトゥルーシカに向って『こら、せめて窓ぐらい明けといたらどうだ!』と小言をいった。

「時々あけといたでがすよ。」とペトゥルーシカは言ったが、それは嘘にきまっている。主人の方も嘘だとは知っていながら、別に何も言わなかった。旅から帰ったばかりのこととて、彼はひどくがっかりしていた。ほんの仔豚の肉だけという極く軽い夕食をしたためると、さっそく彼は着物をぬぎすてて、夜具やぎの中へもぐりこむなり、ぐっすりと深い眠りにおちた。それは痔の気も知らねば、蚤の煩わしさも知らず、また大して頭の能力はたらきもないといった、誠に仕合しあわせな人々だけが享受する、あの実に素晴らしい眠りであった。

*1 馬鹿握り 中指と食指の間へ母指の頭を出して握った拳で、これを相手の鼻先へ突き出して愚弄嘲笑の意味を表わす。ここでは愚弄と同時に拒絶を意味し、我が国の『赤んべえ』に相当するものと考えれば間違いがない。

*2 ドエズジャイ・ニェドエジョーシ 『行けども行けどもて知らず』という意味の、変な名前である。

*3 センナヤ ロシアの大抵の市にある特殊な一角いっかく。本来は乾草市場であるが、多くは場末ばすえの盛り場になっている。


第一部未完

底本:「死せる魂 上」岩波文庫、岩波書店

   1938(昭和13)年71日第1刷発行

   1952(昭和27)年61日第9刷発行

※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。

その際、以下の置き換えをおこないました。

「茲→ここ 不図→ふと 兎に角→とにかく 兎も角→ともかく 莫斯科→モスクワ 露西亜→ロシア 欧羅巴→ヨーロッパ 彼得堡→ペテルブルグ 伊太利→イタリア 仏蘭西→フランス 希臘→ギリシア 巴里→パリ 洪牙利→ハンガリー 芬蘭→フィンランド 留→ルーブリ 哥→カペーカ 桃花心木→マホガニイ 釣燭台→シャンデリア 卓子→テーブル 襯衣→シャツ 刷子→ブラシ 切子硝子→カットグラス 硝子→ガラス ヸ→ヴィ 亙り→わたり 亙って→わたって」

※「没」と「歿」の混在は、底本通りです。

※底本は巻末に訳註をまとめていますが、中見出しごとに「*番号」で設定しました。

※訳註の頁数は省略しました。

入力:山本洋一

校正:高柳典子

2016年628日作成

青空文庫作成ファイル:

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