或る女
林芙美子



 何時ものやうに歸つて來ると、跫音をしのばせて梯子段へ足さぐりで行つたが、梯子段の下の暗がりで、良人の堂助が矢庭に懷中電燈をとぼした。たか子はぎくつとして小さい叫び聲を擧げた。

「何さ‥‥まだ、あなた、起きていらつしたの?」

「寢てればよかつたのかい?」

「厭アな方ねえ、一寸遲くなるとこれなンですもの‥‥あなたのお時計、いま幾時なンですの?」

 さう云つて、たか子は暗がりの中へつつ立つてゐる堂助の方へ手を泳がせて良人の腕時計のある手首をつかんだ。

「パパ一寸それ照らして頂戴」

 堂助は素直に懷中電燈をつけた。腕時計の針は丁度十二時に十五分前を差してゐる。

「あら、本當ねえ、隨分遲いわ‥‥ごめんなさい」

「‥‥‥‥」

「でも、吃驚したわ、パパそこへ立つていらつして‥‥」

「俺が立つてゐたからつて、そんなに驚くこたアないぢやないか‥‥」

「誰だとおもつたからよ‥‥」

「ふふん、佐々のおばけとでもおもつたかい?」

「まア、厭だ! それ皮肉でおつしやるの?」

「皮肉ぢやないよ‥‥」

 堂助は、ふふんと口のなかで笑つて、懷中電燈を照しながら、さつさと二階へあがつて行つた。(何だつて、あのひとは懷中電燈など持ち出したンだらう‥‥)

 たか子はわざと荒々しく、廊下のスヰイツチをひねつた。四圍が森閑としてゐるので、堂助が書齋の革椅子をきしませて腰をかけてゐるのまで階下へきこえて來る。

 たか子は化粧部屋へ這入つて着物をぬいだ。着物をぬぎながら、たか子は瞼に涙のたまるやうな熱いものを感じた。

 寢卷きに着替へて二階の寢室へあがつて行つたが、堂助は書齋の灯をつけて何時までも起きてゐる樣子だつた。

「パパ、おやすみにならないの?」

「ああ」

「何故? 何を怒つてらつしやるの?」

 たか子は寢床から起きあがると、良人の部屋へはいつて行つた。堂助は窓を明けて、星空を眺めながら煙草を吸つてゐた。

「あら、綺麗なお星樣だこと‥‥」

 たか子は、太つた躯を堂助の膝の處へ持つて行つたが、堂助は小さい聲で、

「厭だ」と云つて、窓ぶちへ立つて行つた。

「何、そんな怖い顏して憤つてらつしやるの、だつて、今日は遠藤さんの出版記念の會ぢやありませんか、遲くなるの仕方ないわ」

 何時までも堂助が默つてゐるので、たか子は、たよりなささうに良人のそばへ行き、

「怒つてるンだつたら、かんにんして頂戴、そんな怖い顏してるの厭よ‥‥」

「もういいよ。寢ておしまひ。怒つてなンかゐないよ‥‥」

「さう、でも‥‥」

 たか子は、良人の机の灯を消すと、久しぶりに堂助とむきあつて窓ぶちに腰をおろした。

 星が飛んでゐる。明日も天氣なのだらう、寺院の天井のやうに、高い星空で、秋の夜風が、たか子の髮を頬にふきよせてゐる。

「ねえ、おい‥‥」

「何ですの?」

「俊助や孝助の事考へるかい?」

「パパ、何云つてるの? 俊助から何か云つて來ましたの?」

「何も云つて來やしないよ。──だけどねえ、おい、子供の事を考へると、夫婦別れも中々めんだうだつて云ひたいのさ‥‥」

「厭! 何! パパの云ふこと‥‥別れるなンて何なのツ!」

「お前は子供のやうな顏をしてゐて、隨分押しが太いよ‥‥君には誰だつて甘いとばかりおもつちやいけないよ。わかるかい‥‥」

「パパは佐々さんの事をまだ責めていらつしやるの?」

「責めてはゐないが、氣持ちはよくないねえ」

「‥‥‥‥」



 結城たか子はいはゆる名流婦人であつた。どんな會にも顏を出してゐないと云ふ事がない。俊助、孝助と云ふ二人の子供があつたが、二人の子供は、たか子と友達のやうな大人で、俊助は熊本の高等學校にゐたし、孝助は中學の學生で二人とも寄宿舍生活をしてゐた。良人の結城堂助は日本畫家であつたが、筆のたつ處から、よく、方々の雜誌や新聞に隨筆を載せて識られてゐた。

 たか子には少しばかり歌が讀めた。歌をつくると云つても、乾いたばさばさしたもので、歌は有名ではなかつた。それでも、歌集は一二册自費出版をしてゐて、たかね會と云ふ若い女歌人の集りの幹事をも務めてゐた。

 次男の孝助が丁度中學へ這入つた年の夏だつた。たか子と堂助は休みで歸つてゐる子供達を家へ殘して、輕井澤へ避暑に行つた。輕井澤といつても沓掛に近い方で、堂助の設計になる小さい別莊へ、毎年二人きりで出掛けて行くのである。

 始め、堂助が沓掛へ別莊を持つたころには、四圍は雜草の原で、人家の遠いぽつんとした處だつたが、近年、堂助の別莊の近くには、四五軒も赤屋根の小さい別莊が何時か建つやうになつた。西側の白樺林にかこまれては佐々博士の和風莊と名づけた別莊がある。ここには子澤山の佐々一家が、二三年來やつて來るのであつたが、その夏は、佐々博士の一家は鎌倉の方へ避暑に行つたとかで、佐々博士の末弟だと云ふ、徹男と云ふ二十七八の青年がダツトサンを持つて一人でぽつんと遊びに來てゐた。

 この青年と一番さきに話すやうになつたのはたか子である。たか子は徹男を知ると、すぐ徹男を良人に紹介して、

「ねえ‥‥パパ、うちの俊助が學校を出たら丁度あんなになるのねえ‥‥外務省に務めてらつしやるンですつて」

 と、徹男の無口さを長男の無口さにくらべて、こんなことを云つたりしてゐた。

 夏もそろそろ終り頃になつて、堂助は思ひたつたやうに二三日山の寫生に行つて來ると云つて、戸隱山か黒姫山かに登つて來るのだと、飛びたつやうにして長野へ發つてしまつた。後へ殘されたたか子は、朝から徹男を呼びに行つたり、夜更けまで、徹男の部屋に遊んでゐたりした。──霖雨のやうな雨の降る或日だつた。たか子は東京から菓子を送つて來たと云つて、徹男を自分の部屋へ呼んだ。

「ねえ、あんまり寒いから爐を焚いてみたのよ いいでせう?」

 徹男は茶のスウヱータを着て、大きな野櫻のパイプを口にくはへてゐる。たか子は安樂椅子をすすめると、

「ああ、主人がゐない氣持ちなンて、桎梏から離れたやうな氣がするわよ‥‥」

 と、蓮葉なことも云つた。

「だつて、隨分仲のいい御夫婦で、何時も奧さんは愉しさうぢやありませんか‥‥」

「さう見えるのよ。ちつとも愉しくなンかないのよ。早くから子供を産んで年をとつたンですもの、つまらないわ‥‥」

 色んな草木の葉を鳴らして、細かな雨が降りつづいた。さうして、憂々と屈したやうな陰氣な、雨のくせに遠くでいなづまが光つてゐる。

「まるで夏の初めみたいぢやありませんか‥‥」

「さうですね‥‥」

 爐の火ははぜて、ぱちぱち樹皮が燃えあがる。山で傭つた小さい女中が、熱い茶を淹れて持つて來た。

「中々、可愛い娘ですね‥‥」

「あああの娘ですか、毎年傭ふのが嫁に行つたので、その妹が來てるンですけど、素直ですよ」

「いくつですか?」

「十九ですつて、あんなのがお好き?」

「何も知らない、あんなのがいいぢやありませんか‥‥」

「ふふん、徹男さんも隅に置けないひとねえ‥‥」

 二人は安樂椅子の話にも飽いて來ると、雨だれの音を聽きながらむつつり押し默つてゐた。

「ねえ、ドライヴでもしませんか?」

「まア! ドウイヴ? いいわね、雨の中のドライヴなンて素的だわ‥‥」

 たか子は納戸にはいると、洋服を着てゆくのだと云つて、

「ねえ、一寸、徹男さんいらつしてよ、この黄ろいジヤケツをかしいかしら?」

 徹男は苦笑ひに似た表情で、

「何でもいいでせう、寒くさへなけりやア‥‥」と云つた。

 軈て二人は、白い自動車に乘つて信濃追分の方へ走つて行つた。野も樹木も人家も走つて行く。電線も濡れて光つて矢のやうに走り去る。革のやうな濕つた匂ひがたか子の鼻をついて、たか子は、少女のやうなはしやぎやうだつた。

「ねえ、このままどこかへ行つてしまひたいとおもふわ‥‥」

「私が惡い男だつたら、このまま奧さんをどこかへ連れて行く處ですね‥‥」

「まア、惡いひとぢやないの‥‥さつきから、あなたを惡いひとだと、おもつてゐるのよ‥‥」

「僕が、惡いひとですかねえ、これでも、僕の友人達は、僕をいいひとだと云つてくれますよ‥‥」

「お友達にはいいひとかも知れないけど、わたしには、とても惡いひとだわ‥‥」

「そんなことを云ふと、うんとスピードを出しますよ」

「厭よ」

 不意に徹男の左腕をたか子が兩手でつかむやうにすると、自動車はぎいと音をたてて小徑で止つてしまひ、徹男の厚い胸がたか子の肩の上へかぶさつて來た。

 二人が眼をよせると、雨の音と、自動車のエンヂンの音だけが、部屋の中よりも靜かにきこえて來る。たか子は胸がなしくなつて涙が溢れてゐた。

「泣いたりしちやいけない‥‥」

「‥‥‥‥」

「歸りませう‥‥」

 徹男は、一寸、たか子の脣に小指を持つて行つただけで、接吻もしなかつた。

 たか子は默りこくつてゐた。徹男も默つたなりでハンドルを握つてゐる。別莊へ歸り着いた時は、もう黄昏頃で、雨はますますひどくなつてゐた。女中は爐の火を焚いて、一人で唄ひながら厨で川魚を燒いてゐた。

 ポーチの處で、徹男がさよならを云ふと、たか子は雨の中へ走り出て徹男を追つた。

「ねえ、いらつしてよ。このままお歸りになるンぢや厭よ‥‥」

「今夜はもうよします。結城さんがお歸りになつてからまたうかがひますよ‥‥」

「ねえ、お話したい事があるの、一寸でいいからいらつして頂戴!」

 大股に歩いて行く徹男を追つて、たか子は雨に濡れながら、徹男のビイラへ行つた。自炊をしてゐるので、石油コンロがサロンの眞中に置いてあり、チーズや煙草の鑵が板の床に轉がつてゐる。

 たか子は、散らかつてゐる部屋へ徹男の後から負けない氣持ちで這入つて行つた。

「困る‥‥」

 徹男が、立ちどまつて「困る」と云つた。たか子はスクウリンの上が消えてしまつたやうな淋しさで、窓邊に立つてゐた。十年近くも年の違ふこの青年に噴きあげるやうな戀情を寄せてゐる自分を、痛々しく考へてみるのだつた。

 何かの惡い隙間なのだとおもつてみても、たか子はいまさらひつこみのつかない氣持ちだつた。徹男は、徹男で、良人を持ち何人も子供を産んでも、少女の氣持ちと少しもかはらないたか子夫人に、何となくひかされるものを感じた。眼が黒くつぶらで、皮膚が白くて、太い眉が熱情的で、脣は南國の花のやうに厚い肉をしてゐるたか子。

「どうして、急に、そんなによそよそしくなさるの?」

 たか子が、そつと徹男のそばへ寄つて來た。埃くさい、暗い部屋の中に、二人は暫く對立して立つてゐたが、たか子は、少女のやうに徹男の胸に飛びついて行くと、まるで蝶々が狂ふやうに、髮の毛を徹男の胸へ押しつけてゐた。氣位の高い、肉の厚い女が、野性になつて來るのを見て徹男は、いたはるやうにたか子を長椅子へ連れて行くと、雨で冷くなつた自分の頬をたか子の膏の浮いた額へぢつと押しあてるのであつた。



 その日から、二人は人目をしのぶ仲になつてゐた。東京へ歸つてからも、たか子は口實をつくつては徹男に逢ひつづけてゐた。

 初冬になつて、堂助が朝鮮へ寫生旅行に出かけて行くと、たか子は徹男を誘ひ出して伊豆めぐりなどをしてゐたが、何時かたか子と徹男の關係は徹男の兄の佐々博士に知られてしまつてゐた。

──ごめんなさい。もう、これだけの思ひ出として、二人のことは溟心共に消えてしまひたいと思ひます。霧散さしてしまつて下さい。軈て何かの折に、僕の氣持ちをお應へする折もあるでせう。お躯をお大切に祈りあげます。

 そんな、呆んやりした手紙が徹男から來たきり、たか子は徹男にふつつり逢ふ機會がなかつた。泣いては怒り、怒つては考へ深く想つてみたりしたが、溟心共に消えてしまつたと云ふことは、たか子の年齡にとつて、一番胸に浸みる言葉であつた。

 良人の堂助は、たか子と徹男の仲をちやんと知つてゐた。知つて知らないふりをしてゐたのだ。何時の間に二人の關係が出來 何時の間に二人が別れたのかさへも第六感でちやんと知つてゐた。

 息子の孝助が三年に進級して、寄宿生活を止めて家から學校へ行くやうになつた年の十月、たか子は友人の久賀男爵家から令孃の結婚披露の通知状を貰つた。

 久賀男爵の夫人とは女學校時代からの友達で 令孃の登美子には堂助が繪を教へてゐた。そんな關係からか、二人とも登美子には何か娘のやうな親しさを持つてゐた。だが、この結婚披露の通知状を讀んで たか子も堂助も、ぎくつとした文字が眼を走つて行つた。何度も讀みかへしてみたが、花聟の名前には佐々徹男と云ふ文字がはつきり印刷されてある。

「輕井澤で逢つたあの男だらう?」

「ええ、さうね‥‥」

「不思議なもンだねえ‥‥」

「ええ」

「少しは胸に應へるかね‥‥」

「何?」

「何つて、昔の戀人のことさ‥‥」

「まア、何を云つてらつしやるの、あンな子供みたいな男のこと‥‥」

「ふふん、まさかさうでもあるまい。あの當時のことを考へてみるがいいさ」

 考へてみるがいいと云はれると、何か腹立たしい氣持ちだつた。

 溟心共に消えてしまつて、霧散さしてくれと云つたのはこんな事だつたのかと、たか子は齒ぎしりするやうな佗しさだつた。

 久賀夫人が、娘の結婚を、こんなにぎりぎりになつてから通知してくれたのも、徹男のこころあつての事ぢやないかと、たか子はきりきりした。

「お前、結婚式に出られるかい?」

 と堂助が意味あり氣に尋ねた。たか子はわざと吃驚した顏をみせて、

「二人に招待が來てるぢやありませんか、行きますよ、行かないぢや惡いでせう?」

 たか子は平氣ですよ、何でもないンですものと云つた強氣をみせてゐた。──堂助とたか子は二人とも紋服姿で披露宴のある東京會館へ自動車を走らせたが、堂助の後から自動車を降り立つたたか子は、激しい動悸と吐氣がして來て、氣持が据らなかつた。

 花嫁の登美子は、地につきさうな振袖姿で、高島田の髮も初々しい。帶は白しゆちんの龍の模樣で、登美子の柔らかさうな躯を、何か守つてゐるやうな高雅さに見せてゐた。集つてゐる者は誰も彼も美しい夫婦だと讚めてゐる。

 徹男も紋服姿で、深い陰のある眼が暫く見ないうちに、益〻艷をましてゐるやうに思へた。堂助は臆せずに、會場の入口に立つてゐる花聟花嫁の前へ進んで行つて、

「いや、おめでたう‥‥」

 と云つた。

 堂助の、後にゐるたか子も小さい聲で、

「おめでたう厶います」

 と云つた。

 堂助は、花聟の表情も見ずに金屏風の前をずんずん會場の中へ這入つて行つたが、たか子は足が釘づけになつたやうで、歩くことが出來なかつた。(やつぱり私は愛してゐたのだ。必死になつて愛してゐたのだ‥‥)たか子は心のうちにさうおもふと、涙が溢れて來た。その涙を見せまいとして、たか子は辛うじて、花聟たちの前からトイレツトの方へ躯を運んでゆき、森閑とした化粧室の鏡の前に立ちはだかつた。立つてゐると、まるで子供のやうに聲をたてて泣けて來る。

 會場の方では餘興が始まつたのか、波のやうな拍手の音がきこえて來た。

(あのひとの前へ立つて、おめでたうと云つたら、あのひとは、小さい聲で、ありがたう厶いますと云つた‥‥)

 あの脣、あの眼、あの胸で、二人だけの愉しい思ひ出があるのを、あのひとは忘れはしないだらう‥‥。年齡の違ひが何だつて云ふのだ‥‥。鏡の前に立つて、まるで良人か子供を失つた女のやうに、黒い紋服のたか子は、ハンカチを頬にあててさめざめと泣くのであつた。



 軈て、宴が始まり、各〻名前の書いてある席に著いた。偶然なのか、たか子の席は花聟花嫁が筋向うに見える、メン・テーブルから二側目の席だつた。ボーイが白葡萄酒をついでまはつた。たか子はボーイの白い服のかげから、そつと、徹男の方へ眼を向けたが、徹男もたか子の席の方へ何氣なく眼を向けてゐた。宙で二人の眼が逢つたが、徹男は微笑に似た表情で、そつと、たか子の眼をはぐらかして行つた。

 たか子は手先きが莫迦々々しいほど震へてフオークを持つことも出來なかつた。

(いつたい誰の結婚式なのだらう‥‥私が立ちあがつて正直なことを云へば、この結婚式はくものこを散すやうにみぢんにする事も出來るのだわ‥‥)

 たか子は震へながらそんな事を考へてゐた。座にゐるのが辛らかつた。祝ひの言葉も半ばすすみ、酒で、宴がなごやかになつてゆくにつれ、たか子は叫び出したいやうな妬ましさで心が痛んだ。

「氣分が惡いのぢやないか、おい、中座したらどうだ?」

 堂助が、震へてゐるたか子の右腕を取つて立ちあがつた。堂助に頼つて歩きながら、たか子はをかしい程、しんのぬけてゐる自分を感じた。

 ボーイが右往左往してゐるので、二人が立つて行つても少しも目立たなかつた。控室の大きな長椅子に腰を降ろして吻つとしてゐると、花聟と花嫁が家族の人達に圍まれてぞろぞろ會場を出て來た。新婚旅行へ出る仕度でもするのだらう、花嫁につきそつて、美容師が三人、花嫁の袂をささげて歩いて來た。登美子の母親の久賀夫人も、佐々博士の小さい奧さんも何かしやべりながら笑つて歩いて來てゐる。

 堂助は急に立ちあがると、

「おい、歸らう‥‥」

 と云つた。

 自動車へ乘ると、こらへ性もなくたか子は顏に半巾をあてた。齒をくひしめても涙がすぐあふれて來る。堂助は袂から煙草を出して、味があるのかないのか、走る窓外を見ながら呆んやり吸つてゐた。さうして、やや暫くしておもひ出したやうに、

「君があの男を愛してゐた氣持ちは、まるで生娘みたいなンだねえ‥‥そんなだとはおもはなかつたよ‥‥」

 これからの一生を、こんな心でゐる妻とどうして暮していいのか一寸判らなかつた。たまらないなと思つた。

「そんなに泣くほど切なかつたのかねえ‥‥」

「‥‥‥‥」

「いい年をして‥‥」

 いい年をしてと云はれると、たか子はそれが弱點なだけに、無性に腹が立つて來た。あの若い二人は愉し氣にどこへ行くのだらう。窓外の暗い景色の中には、只街の灯しか見えない、自分のそばを走つてゐる自動車が、どれもこれも花聟と花嫁の自動車に見える。

 勝手だけれども、こんな時にたよれるのは良人でしかないと云ふことが、たか子にはまた寂しかつた。

 家へ歸ると、書齋へ引つこんで森としてゐる良人の前に坐つて、たか子は「ごめんなさい」と云つた。

(ごめんなさいと云ふ言葉はあのひとも云つたが‥‥)

「ごめんなさい‥‥」

「君は正直に、自分の氣持ちをひれきしたまでだよ。あやまられても俺は知らんよ」

 知らんよと云はれても一言もなかつた。良人とも別れになるのではないかと思ふと、たか子は、徹男に流した涙とはまた別な涙がこぼれた。──十八の時に結婚して、二十年間何の波風もなく暮らして來たことを考へると、徹男との事は、何の隙間だつたのだらうと不思議におもへて來る。

「かんじんの男が結婚してしまつては何もならんし‥‥俺も、もう、お前と一緒にゐるのは厭だ。俺は朴念仁だから、ケツペキなンだよ。ぬけがらのやうな女房も困る‥‥。だが、別れはしないよ。別れても別れなくつても、この波は何とかして靜まつてゆくだらう‥‥。だが、今日から、お前はお前で勝手にふるまつてくれ、俺は俺で勝手にする‥‥」



 堂助が、俺は俺で勝手にすると云つてから丁度二年經つた。堂助が云つた通り、たか子達は夫婦らしい生活をしたこともなく、夏の旅も冬の旅も一度も一緒ではなかつた。

 たか子は、良人から離れてしまふと、段々、名流婦人になつて行つた。結城の家へ來る手紙も大半はたか子のものであり、今日は何の會、明日は何の座談會と、太つたたか子夫人の出ない會はない位になつた。月々の婦人雜誌を見ると、かならずどの頁かにたか子夫人の寫眞が載つてゐた。


 輕井澤の別莊には毎年俊助と孝助が行くやうになり、輕井澤には堂助もたか子もふつと行かなかつた。──時々、仲のいい徹男夫婦のことを人づてに聞くと、たか子は人がかはつたやうに、若夫婦の惡口を云つたりした。

「あそこのお宅は此頃火の車で大變なのよ。久賀さんのお家だつて小華族だし、佐々さんのお家だつて、ああして山かんで博士になつた、なりあがり者みたいなお家ですもの‥‥どつちもお金があるだらうと探ぐりあひで結婚したのよ」

 などと、えげつない事も云つた。そんなことを云つたあとは穴の中へ墜ちたやうに淋しかつたが、

(あのひと、あんな意地惡してるンだもの、仕方がないわ‥‥)

 と自分を可哀想におもつたりして自分をかばふ氣持だつた。

 鏡の前に坐つても、自分の顏が妙にとげとげしてゐる。いつかも、高等學校にゐる俊助が冬の休みに歸つて來て、

「ねえ、お母さんは、僕にどんな風な結婚をさせたいと思ひます?」

 と訊いた。

 何時も、ママ、パパで育つた子供が、何時の間にか、自分を「お母さん」と呼ぶやうになつてゐる。

「ママ? そりやア、見合結婚だわ。それを、ママ、望んで、よ‥‥」

「やつぱりさうですかねえ‥‥」

「何? あなた好きな方でもあるの?」

「好きな娘の一人や二人はありますよ。だけと、見合結婚も一寸困るなア‥‥」

「パパ、何て云つて?」

「女なんか、どんなのでもいいから、田舍の素朴さうなのを選んで來いつて云ひましたよ‥‥」

「まア、厭なパパ!」

「だつて、お父さんだつて、お母さんのやうな奧さんは一寸困るでせう‥‥」

「どうして?」

「始終、うちをあけて、お父さんは女中のつくつたものばかり食べてるぢやありませんか‥‥」

「うちをあけてるつて、そりやア何かと用事があるのよ、私がこんなにうちをあけなきやならないのも、パパに一半の責任があるわ‥‥」

「何か知らないが、僕は女の出歩くの厭だな。わけのわからん層のひくい女達は、母さん達をうらやましがるか知れないけど、僕は厭だな‥‥お母さんの寫眞が出てると、寒々しいものを感じますよ‥‥」

 たか子は、瞠つてゐた眼をあけてゐられなかつた。涙がすぐ溢れて來た。涙弱くなつてゐる母親を見ると、俊助は吃驚して半巾を母親の手へ握らした。

「あんたまで、そんなことを云つて、このママをふんづけてしまふのね。女つて云ふものは良人や子供の臺石にならなきやならないの?」

 子供の半巾を脣へ持つて行くと、不圖、昔、徹男とドライヴした時の革のやうな匂ひがする。

(おお厭だ。この息子まで男臭くなつてゐる‥‥)

 たか子は身震ひして半巾を俊助へ投げかへした。

「まア、あなた、このハンカチ何日洗はないのよ?」

「母さん洗つてくれたらいいぢやありませんか‥‥」

「まア、あんなこと云つて、厭なひとねえ」



 冬の休みも濟んで、また夏が來て、秋になつた。たか子の外出は依然としてかはらない。今日も、遲くなつて歸つて來たのだ。

「星を眺めるつて、久しぶりだわ‥‥」

 久しぶりなのは、夫婦がかうして向きあふことも久しぶりなのだつた。

「ねえ、あんたの怒りんぼにも私負けてしまふわ。私、いま、何もないのですもの‥‥もう憤らないで頂戴‥‥」

「憤つてやしないよ。だが俺の方がもう、我慢が出來なくなつたよ。俺はお前と別居をしたくなつたンだがねえ、どうだらう?」

「別居つて、別れきりなの?」

「ああ、但し籍の方なら當分置いておいていいよ‥‥俊助も孝助も分別がついて來てゐるのだし、俺達の不思議な氣持ちも軈て判るだらうとおもつてゐる。俺は、こんな空疎な生活なンて大きらひだツ」

 たか子は默つてゐた。

 堂助は、たか子と別れて、田舍者の女と結婚して、勉強したいと云つた。まだ相手はみつかつてはゐないが、不幸な女があつたら、結婚するかも知れない。籍も貰ふかも知れない、だがそれはもしかの事だと云ふ。

 いまは孤獨になつて勉強したいきりだとも云ふのであつた。

「あなたは、私が、自殺でもしなければ許しては下さらないのですかツ!」

 と、たか子は一生懸命な力で良人の膝へとりすがつて行つた。良人の膝は、久しぶりに安住の地へかへつたなごやかな氣持ちだつた‥‥。

「君が自殺をしたつて、此氣持ちはぬぐへないよ。俺は、君の見てゐる男達とは違ふのかも知れないねえ‥‥此世の中で一番厭な女が君だつたらどうするンだ?」

「だつて、あなたは、たつた此間も愛妻論を新聞に書いて下すつたぢやないの?」

「ふふん、うぬぼれちやいけないよ。あれは、俺の理想の妻だよ‥‥」

「まア、ひどいことをおつしやるわ‥‥」

 二人共向きあふとまた默つてしまつた。さうして二人とも、こんな氣持ちでゐることは本當にたまらないとおもつた。たか子は、心のうちで、本當に別れるのだつたら、子供と貯金帳だけは手放さないでゐようとおもふのであつた。

底本:「氷河」竹村書房

   1938(昭和13)年320日発行

入力:林 幸雄

校正:花田泰治郎

2005年627日作成

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