鵠沼雑記
芥川龍之介



 僕は鵠沼くげぬま東屋あづまやの二階にぢつと仰向あふむけに寝ころんでゐた。その又僕の枕もとにはつま伯母をばとが差向ひに庭の向うの海を見てゐた。僕は目をつぶつたまま、「今に雨がふるぞ」と言つた。妻や伯母をばはとり合はなかつた。殊に妻は「このお天気に」と言つた。しかし二分とたたないうちに珍らしい大雨たいうになつてしまつた。


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 僕は全然人かげのない松の中のみちを散歩してゐた。僕の前には白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた。僕はその犬の睾丸かうぐわんを見、薄赤い色に冷たさを感じた。犬はその路の曲りかどへ来ると、急に僕をふり返つた。それから確かににやりと笑つた。


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 僕は路ばたの砂の中に雨蛙あまがへるが一匹もがいてゐるのを見つけた。その時あいつは自動車が来たら、どうするつもりだらうと考へた。しかしそこは自動車などのはひる筈のない小みちだつた。しかし僕は不安になり、路ばたに茂つた草の中へ杖の先で雨蛙をはね飛ばした。


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 僕は風向かざむきに従つて一様いちやうに曲つた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館もゆがんでゐた。僕は僕の目のせゐだと思つた。しかし何度見直しても、やはり洋館はゆがんでゐた。これは不気味ぶきみでならなかつた。


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 僕は風呂ふろへはひりに行つた。彼是かれこれ午後の十一時だつた。風呂場の流しには青年が一人ひとり手拭てぬぐひを使はずに顔を洗つてゐた。それは毛を抜いたにはとりのやうにせ衰へた青年だつた。僕は急に不快になり、僕の部屋へ引返した。すると僕の部屋の中に腹巻が一つぬいであつた。僕は驚いて帯をといて見たら、やはり僕の腹巻だつた。(以上東屋あづまやにゐるうち)


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 僕は夢を見てゐるうちはふだんの通りの僕である。ゆうべ(七月十九日)は佐佐木茂索ささきもさく君と馬車に乗つて歩きながら、麦藁帽むぎわらばうをかぶつた馭者ぎよしや北京ペキンの物価などを尋ねてゐた。しかしはつきり目がさめてから二十分ばかりたつうちにいつか憂鬱になつてしまふ。唯灰色の天幕テントけ目から明るい風景が見えるやうに時々ふだんの心もちになる。どうも僕は頭からじりじり参つて来るのらしい。


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 僕はやはり散歩してゐるうちに白い水着を着た子供につた。子供は小さい竹の皮を兎のやうに耳につけてゐた。僕は五六間離れてゐるうちから、その鋭い竹の皮の先が妙に恐しくてならなかつた。その恐怖は子供とすれ違つたのちも、しばらくのあひだはつづいてゐた。


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 僕はぼんやり煙草を吸ひながら、不快なことばかり考へてゐた。僕の前の次のにはここへ来てやとつた女中が一人ひとり、こちらへは背中を見せたまま、おむつを畳んでゐるらしかつた。僕はふと「そのおむつには毛虫がたかつてゐるぞ」と言つた。どうしてそんなことを言つたかは僕自身にもわからなかつた。すると女中は頓狂とんきやうな調子で「あら、ほんたうにたかつてゐる」と言つた。


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 僕はバタのくわんをあけながら、軽井沢かるゐざはの夏を思ひ出した。その拍子ひやうしくびすぢがちくりとした。僕は驚いてふり返つた。すると軽井沢に沢山たくさんゐる馬蝿うまばへが一匹飛んで行つた。それもこのあたりの馬蝿ではない。丁度ちようど軽井沢の馬蝿のやうに緑色の目をした馬蝿だつた。


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 僕はこの頃空の曇つた、風の強い日ほど恐しいものはない。あたりの風景は敵意を持つてぢりぢり僕に迫るやうな気がする。その癖前に恐しかつた犬や神鳴かみなりなんともない。僕はをととひ(七月十八日)も二三匹の犬がえ立てる中を歩いて行つた。しかし松風が高まり出すと、昼でも頭から蒲団ふとんをかぶるか、妻のゐる次のへ避難してしまふ。


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 僕はひとり散歩してゐるうちに歯医者のふだを出した家を見つけた。が、二三日たつたのち、妻とそこを通つて見ると、そんな家は見えなかつた。僕は「確かにあつた」と言ひ、妻は「確かになかつた」と言つた。それから妻の母に尋ねて見た。するとやはり「ありません」と言つた。しかし僕はどうしても、確かにあつたと思つてゐる。その札は齒と本字を書き、イシヤと片仮名かたかなを書いてあつたから、珍らしいだけでも見違へではない。(以上家を借りてから)

(一五・七・二〇)〔遺稿〕

底本:「芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房

   1971(昭和46)年65日初版第1刷発行

   1971(昭和46)年105日初版第5刷発行

入力校正:j.utiyama

1999年215日公開

2003年1020日修正

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