みちの記
森鴎外



 明治二十三年八月十七日、上野より一番汽車きしゃに乗りていず。途にて一たび車を換うることありて、横川にて車はてぬ。これより鉄道馬車雇いて、薄氷嶺うすいとうげにかかる。その車は外を青「ペンキ」にて塗りたる木の箱にて、中に乗りし十二人の客はかたこし相触れて、膝は犬牙けんがのように交錯こうさくす。つくりつけの木の腰掛こしかけは、「フランケット」二枚敷きても膚を破らんとす。右左に帆木綿ほもめんのとばりあり、上下にすじがね引きて、それを帳の端の環にとおしてあけたてす。山路になりてよりは、二頭の馬あえぎ喘ぎ引くに、軌幅きふく極めて狭き車のること甚しく、雨さえ降りて例の帳閉じたればいきもりて汗の車に満ち、頭痛み堪えがたし。嶺は五六年前に踰えしおりに似ず、泥濘でいねいくるぶしを没す。こは車のゆきき漸く繁くなりていたみたるならん。軌道きどうの二重になりたる処にて、向いよりの車を待合わすこと二度。この間長きときは三十分もあらん。あたりの茶店より茶菓子ちゃがしなどもてれど、飲食のみくわむとする人なし。下りになりてよりきりふかく、背後うしろより吹くかぜさむく、忽夏を忘れぬ。されど頭のやましきことは前に比べて一層を加えたり。軽井沢停車場かるいさわていしゃじょうの前にて馬車はつ。恰も鈴鐸れいたく鳴るおりなりしが、余りの苦しさに直には乗り遷らず。油屋あぶらやという家に入りて憩う。信州しんしゅうの鯉はじめて膳に上る、果して何の祥にや。二時間にじかん眠りて、頭やや軽き心地す。次の汽車に乗ればさきに上野うえのよりの車にて室を同うせし人々もここに乗りたり。中には百年も交りたるように親みあうも見えて、いとにがにがしき事に覚えぬ。若し方今のありさまにて、傾蓋けいがいの交はかかる所にて求むべしといわばわれ又何をかいわん。停車場は蘆葦人長ろいじんちょうの中に立てり。車のいずるにつれて、あしまばらになりて桔梗ききょうの紫なる、女郎花おみなえしの黄なる、芒花おばなの赤き、まだ深き霧の中に見ゆ。ちょう一つ二つつばさおもげに飛べり。車漸く進みゆくに霧晴る。夕日ゆうひ木梢こずえに残りて、またここかしこなる断崖だんがいの白き処を照せり。忽にじ一道いちどうありて、近き山の麓より立てり。幅きわめて広く、山麓さんろくの人家三つ四つが程を占めたり。火点ひともしごろ過ぎて上田うえだに着き、上村に宿る。

 十八日、上田を発す。汽車きしゃの中等室にて英吉利婦人にう。「カバン」の中より英文の道中記どうちゅうき取出して読み、眼鏡めがねかけて車窓の外の山をのぞみ居たりしが、記中には此山三千尺とあり、見る所はあまりにひくしなどいう。実に英吉利人はいずくに来ても英吉利人なりと打笑うちわらいぬ。長野にて車を下り、人力車やといて須坂に来ぬ。この間に信濃川にかけたる舟橋ふなばしあり。水清く底見えたり。浅瀬あさせの波れて底なる石の相磨して声するようなり。道の傍には細流ありて、岸辺の蘆には皷子花ひるがおからみつきたるが、時得顔ときえがおにさきたり。その蔭にはほそき腹濃きみどりいろにて羽うるしの如き蜻蜓とんぼうあまた飛びめぐりたるを見る。須坂にて昼餉ひるげ食べて、乗りきたりし車を山田までがせんとせしに、いなみていう、これよりはみちけわしく、牛馬ならではかよいがたし。偶〻牛きて山田へ帰る翁ありて、牛のせな借さんという。これにりて須坂を出ず。足指漸くあおぎて、遂につづらおりなる山道に入りぬ。ところどころに清泉ほとばしりいでて、野生の撫子なでしこいとうるわしく咲きたり。その外、都にて園に植うる滝菜たきな水引草みづひきそうなど皆野生す。しょうりょうという褐色かっしょくの蜻蜓あり、群をなして飛べり。るる頃山田の温泉にきぬ。ここは山のかいにて、公道をること遠ければ、人げすくなく、東京の客などはたえて見えず、僅に越後などより来りてよくする病人あるのみ。宿やどとすべき家を問うにふじえやというがしという。まことは藤井屋なり。主人驚きて簷端のきは傾きたる家の一間払いて居らす。家のつくり、中庭をかこみて四方に低き楼あり。中庭より直に楼に上るべきはしごかけたるなど西洋の裏屋うらやの如し。屋背は深き谿たにに臨めり。竹樹しげりて水見えねど、急湍のひびきは絶えず耳に入る。水桶みずおけにひしゃく添えて、縁側えんがわに置きたるも興あり。室の中央にあり、火をおこして煮焚にたきす。されど熱しとも覚えず。食は野菜やさいのみ、魚とては此辺の渓川たにがわにて捕らるるいわなというものの外、なにもなし。飯のそえものに野菜よといえば、砂糖さとうもて来たまいしかと問う。棒砂糖少し持てきたりしが、煮物に使つかわんことしければ、無しと答えぬ。茄子なす胡豆いんげんなど醤油のみにて煮て来ぬ。鰹節かつおぶしなど加えぬ味頗むまし。酒は麹味を脱せねどこれも旨し。かんをなすには屎壺しゅびんの形したる陶器とうきにいれて炉の灰にうずむ。夕餉ゆうげ果てて後、寐牀のしろうやうやしく求むるを幾許ぞと問えば一人一銭五厘という。なし。

 十九日、朝起きて、かおあらうべき所やあると問えば、家の前なるながれを指さしぬ。ギヨオテが伊太利紀行もおもい出でられておかし。温泉をめぐりて立てる家数三十戸ばかり、宿屋やどやは七戸のみ。湯壺は去年まで小屋掛こやがけのようなるものにて、その側まで下駄げたはきてゆき、男女ともに入ることなりしが、今の混堂立ちて体裁ていさいも大にととのいたりという。人の浴するさまは外より見ゆ。うるさきは男女皆湯壺の周囲に臥して、手拭を身に纏い、湯をみてその上にそそぐことなり。湯に入らんとするには、頸をえ、足をみて進まざれば、終日側に立ちて待てども道開かぬことあり。男女の別は、男は多くあおぎふし、女は多くうつふしになりたるなり。旅店のうしろなる山に登りて見るに、処々に清泉あり、水清冽せいれつなり。半腹に鳳山亭と匾したる四阿屋あずまやのき傾きたるあり、長野辺まで望見るべし。遠山の頂には雪をいただきたるもあり。このめぐりの野は年毎に一たびきて、木のしげるを防ぎ、家畜飼う料に草を作る処なれば、女郎花おみなえし桔梗ききょう石竹せきちくなどさき乱れたり。折りてかえりてつつにさしぬ。午後泉に入りてかになど捕えて遊ぶ。がけを下りて渓川の流に近づかんとしたれど、路あまりにけわしければ止みぬ。渓川の向いはすみく人の往来する山なりという。いま流を渡りて来たる人に問うに、水浅しといえり。この日野山ゆくおりにかぶらばやとおもいて菅笠すげがさ買いぬ。都にてのように名の立たん憂はあらじ。

 二十日になりぬ。ここに足をとどめんときょうおもいさだめつ、爽旦あさまだきかねてききしいわなというさかなうりに来たるをう、五尾十五銭。鯉もふもとなる里よりてきぬというを、一尾買いてゆうげの時までいかしおきぬ。流石さすがに信濃の国なれば、鮒をかしらにはあらざりけり、屋背うしろの渓川は魚まず、ところのものは明礬めんばん多ければなりという。いわなの居る河は鳳山亭より左に下りたる処なり。そこへかんとて菅笠すげがさいただき草鞋わらじはきて出でたつ。車前草おい重りたる細径こみちを下りゆきて、土橋どばしある処に至る。これ魚栖めりという流なり。こけを被ぶりたる大石乱立らんりつしたる間を、水は潜りぬけて流れおつ。足いと長き蜘蛛くも、ぬれたるいわおの間をわたれり、日暮るる頃まで岩にこしかけてやすらい、携えたりし文など読む。夕餉ゆうげの時老女あり菊の葉、茄子など油にてあげたるをもてきぬ。鯉、いわなと共にそえものとす。いわなは香味こうみあゆに似たり。

 二十一日、あるじ来て物語ものがたりす。ちちは東京にいでしことあれど、おのれは高田より北、吹上より南をらずという。東京のかくのここへ来ることは、としに一たびあらんなどいえど、それも山田へとてにはあらざるべし。きょう今までの座敷ざしきより本店のかたへうつる。ここは農夫の客にめられたりしがようやくきしなり。となりひげうるわしき男あり、あたりをはばからず声高こえたかに物語するを聞くに、二言ふたこと三言みことの中に必ず県庁けんちょうという。またそれがこの地のさだめかという代りに「それがこの鉱泉こうせん憲法けんぽうか」などいうくせあり。ある時はわが大学に在りしことを聞知ききしりてか、学士がくし博士はかせなどいう人々三文さんもんあたいなしということしたりがおべんじぬ。さすがにことわりなきにもあらねど、これにてわれをきづつけんとおもうはそもまよいならずや。おりおり詩歌しかなどぎんずるを聞くに皆なまれり。おもうにヰルヘルム、ハウフが文に見えたる物学びしさるはかくこそありけめ。唯彼猿はそのむかしをわすれずして、猶亜米利加の山にめる妻のもとへふみおくりしなどいと殊勝しゅしょうに見ゆるふしもありしが、この男はおなじさとの人をもえびすの如くいいなしてあざけるぞかたはらいたき。少女の挽物細工ひきものさいくなどかごに入れてりに来るあり。このお辰まだ十二三なれば、われに百円づつみ抛出なげださするうれいもなからん。

 二十二日。雨。目の前なる山のいただき白雲につつまれたり。居寄いよりてふみ読みなどす。東京の新聞しんぶんやあるともとむるに、二日前の朝野新聞と東京公論とありき。ここにも小説しょうせつは家ごとにめり。りてみるに南翠外史の作、涙香小史の翻訳ほんやくなどなり。

 二十三日、いえのあるじにともなわれて、牛の牢という渓間たにまにゆく。げにこのながれにはうおまずというもことわりなり。水のるる所、砂石しゃせき皆赤く、こけなどは少しも生ぜず。牛の牢という名は、めぐりの石壁いしかべけずりたるようにて、昇降のぼりくだりいとかたければなり。ここに来るには、よこみちを取りて、杉林すぎばやし穿うがち、迂廻うかいしてくだることなり。これより鳳山亭ののぼりみち、いづみある処に近き荼毘所とびじょあとを見る。石を二行にぎょうに積みて、其間の土をりてかまどとし、その上にけたの如く薪をし、これをかんするところとす。棺はおけを用いず、大抵たいてい箱形はこがたなり。さて棺のまわりに糠粃ぬかを盛りたる俵六つ或は八つをたて立掛たてかけ、火を焚付たきつく。俵の数はしかばねの大小によりことなるなり。初薪のみにて焚きしときは、むら焼けになることありて、火箸ひばしなどにてかきまぜたりしが、糠粃を用いそめてより、屍のゆるにつれて、こぼれこみておおえば、さるうれいなしといえり。山田にては土葬どそうするもの少く、多くは荼毘するゆえ、今も死人しにんあれば此竈を使つかうなり。村はずれの薬師堂の前にて、いわなの大なるをいて宿やどの婢にわらわる。いわなは小なるを貴び、且ところの流にて取りたるをよしとするものなるに、わが買いもてかえりしは、草津のいわなの大なるなれば、味定めてあしからんという。こころみるに果して然り。ここより薬師堂の方を、六里ばかり越ゆけば草津に至るべし、是れ間道かんどうなり。今年の初、欧洲人雪をおかしてえしが、むかしより殆ためしなき事とて、案内者あんないしゃもたゆたいぬと云。

 廿四日、天気てんきし。となりきゃくつとめて声高こわだか物語ものがたりするに打驚うちおどろきてめぬ。何事なにごとかと聞けば、衛生えいせい虎列拉これらとの事なり。衛生とは人のいのちぶるがくなり、人の命ながければ、人口じんこうえてしょくらず、社会しゃかいのためにはあるべくもあらず。かつ衛生のぎょうさかんになれば、病人びょうにんあらずなるべきに、のこれをとなうるはあやまてり云々。これ等のろん地下ちかスペンサアよろこばしむるにらん。虎列拉には三種さんしゅありて、一を亜細亜虎列拉といい、一を欧羅巴虎列拉といい、一を霍乱かくらんという、此病には「バチルレン」というものありて、華氏百度のねつにてす云々。これはペツテンコオフエル疫癘学えきれいがくコツホ細菌学さいきんがくたおすに足りぬべし。またようむしの事語りていわく、博士なにがしは或るとき見に来しが何のしいだしたることもなかりき、かかることはところの医こそく知りたれ。何某という軍医、恙の虫の論になどえて県庁にたてまつりしが、こはところの医のを剽窃ひょうせつしたるなり云々。かかることしたりがおにいいほこるも例の人のくせなるべし。おなじ宿やどに木村篤迚、今新潟始審裁判所の判事つとむる人あり。臼井六郎が事をつまびらかに知れりとて物語す。面白おもしろきふし一ツ二ツかきつくべし。当時秋月には少壮者しょうそうしゃの結べるたいありて、勤王党としょうし、久留米などの応援おうえんを頼みて、福岡より洋式ようしきの隊来るを、さかいにて拒み、遂に入れざりしほどの勢なりき。これに反対はんたいしたる開化党は多く年長としたけたる士なりしが、其かしらにたちて事をなす学者二人ありて、皆陽明学者なりし、その一人は六郎が父なりき。勤王党の少壮者二手に分かれて、ある夜彼二人のやしきにきりこみぬ。なにがしという一人の家をかこみたるおり、にわとりねぐらにありしが、驚きて鳴きしに、主人すはきつねの来しよと、素肌すはだかにて起き、戸を出ずる処を、名乗掛なのりかけてただ一槍ひとやりに殺しぬ。六郎が父は、其夜酔臥すいがしたりしが、まくらもとにて声掛けられ、忽ちはね起きて短刀たんとうきはなし、一たちられながら、第二第三の太刀を受けとめぬ。その命を断ちしは第四の太刀なりき。六郎が母もこの夜殺されぬ。はじめ家族までもきづつけんという心はなかりしが、きり入りし一同いちどうの鳥銃放ちて引上げたるとき、一人足らざりしかば、怪みて臼井が邸にかえりて見しに、此男六郎が母にまれて、其場を去り得ざりしなり。引放ひきはなたんとするに、母はげしくすまいて、屈する気色けしきなければ、止むを得ずして殺しぬ。六郎が祖父は隠居所いんきょじょにありしが、馳出はせいでて門のあきたるを見て、外なる狼藉者ろうぜきものを入れじと、門をとざさんとせしが、白刃振りてせまられ、いきおいてきしがたしとやおもいけん、また隠居所に入りぬ。六郎が母を殺しし人は、今もながらえたり。六郎が父殺しし人の、一瀬なりしことは、初知るものなかりしが、ことさらにあとさんと、きりこみし人々、皆其刀をがせし中に、一瀬が刀の二個処いちじるしくこぼれたるが、臼井が短刀のはのこぼれに吻合ふんごうしたるよりあらわれにき。六郎が父のくびは人々持ちかえりしが、彼素肌にてつき殺されし人は、ずだずだにられて、頭さえくだけたりき。木村氏はそのおり臼井の邸に向いし一人なりしが、刃にちぬるに至らず、六郎が東京に出でて勤学きんがくせんといいしときも、親類しんるいのちなみありとて、共に旅立たびだつこととなりぬ。六郎は東京にて山岡鉄舟のじゅくに入りて、撃剣げきけんを学び、木村氏は熊谷の裁判所に出勤しゅっきんしたりしに、或る日六郎たづねきて、撃剣の時あやまりて肋骨あばらぼね一本折りたれば、しばしおん身がもとにて保養ほようしたしという。さててきしくすりなどふくして、木村氏のもとにありしが、いつまでも手をむなしくしてあるべきにあらねば、月給八円の雇吏やといとしぬ。その頃より六郎酒色しゅしょくふけりて、木村氏に借銭しゃくせん払わすること屡々しばしばなり。ややありて旅費りょひもとめてここを去りぬ。後に聞けば六郎が熊谷に来しは、任所にんしょへゆきし一瀬があといてゆかんに、旅費なければこれをぬとてなりけり。酒色に酖ると見えしも、木村氏の前をかくつくいしのみにて、夜な夜な撃剣のわざをきたいぬ。任所にては一瀬を打つべきひまなかりしかば、したがいて東京に出で、さて望をげぬ。その折の事は世のよく知る所なれば、ここにはいわず。臼井六郎も今はごくを出でたり。獄中にて西教にかたむきたりといえば、彼コルシカ人の「ワンデツタ」にたる我邦復讐ふくしゅうの事、いま奈何いかにおもうらん。されど其母殺したりという人は、やすき心もあらぬなるべし。きょうは女郎花おみなえし桔梗ききょうなど折来おりきたりて、再びかめにさしぬ。

 二十五日、法科大学の学生なる丸山という人訪いく。米子の滝のしょうかたりて、ここへ来しみちなる須坂より遠からずとおしえらる。滝の話は、かねても聞きしことなれど、往てんとおもう心切なり。

 二十六日、天くもりてきりあり。きょうは米子に往かんと、かねて心がまえしたりしが、偶々たまたま信濃新報を見しに、処々の水害にかえり路の安からぬこと、かずかずきしるしたれば、最早もはや京に還るべき期も迫りたるに、ここにとどまること久しきにすぎて、思いかけず期におくるることなどあらんも計られずと、あやぶみおもいて、須坂に在りてたんといわれし丸山氏のもとへ人をやりて謝し、いそぎて豊野の方へいでたちぬ。このみちは、はじめ来しおりの道よりは近きに下り坂なれば、人力車にてゆく。小布施という村にて、しばしいこいぬ。このわたりの野に、鴨頭草のみおい出でて、目の及ぶかぎりあおきところあり、又秋萩のしげりたる処あり。麻畑のそばを過ぐ、半ばりたり。信濃川にいでて見るに船橋えたり。小舟にてわたる。豊野より汽車に乗りて、軽井沢にゆく。途次線路のやぶれたるところ多し、又かりつくろいたるのみなれば、そこに来るごとに車のあゆみをゆるくす。近き流を見るに、濁浪だくろう岸を打ちて、堤を破りたるところ少からず。されど稲は皆つつがなし。夜軽井沢の油屋にやどる。

 二十七日、払暁荷車にぐるまに乗りて鉄道をゆく。さきにのりし箱にくらぶれば、はるかにまされり。固より撥条バネなきことは同じけれど、壁なく天井てんじょうなきために、風のかよいよくて心地あしきことなし。碓氷嶺過ぎて横川にいたる。嶺の路ここかしこにやぶれたるところ多かりしが、そは皆かりに繕いたれば車通いしなり。横川よりゆくての方は、山のくずれおちて全く軌道をうずめたるあり、橋のおちたるありて、車かよわずといえば、わらじはきていず。軌道より左に折れてもとの街道をゆくに、これもえたる処あれば、山をたにを渡りなどす。松井田より汽車に乗りて高崎にいたり、ここにてりかえて新町につき、人力車をやといて本庄にゆけば、上野までの汽車みち、阻礙なしといえり。汽車は日にさらしたるに人を載することありて、そのおりのあつさ堪えがたし、西国にてはさぞ甚しからん。このたびの如き変ある日には是非ぜひなけれど、客をあまりに多くるるは、よからぬことなり。また車丁等には、上、中、下等の客というこころなくして、彼は洋服ようふくきたれば、定めてありがたき官員ならん、此は草鞋わらじはきたれば、定めていやしき農夫ならんという想像そうぞうのみあるように見うけたり。上等、中等の室に入りて、切符きっぷしらぶるにも、洋服きたる人とその同行者とはわずして、日本服のものはもらすことなかりき。また豊野の停車場にては、小荷物あずけんといいしに、聞届ききとどけがたしと、官員がほしていいしを、いためしに、後には何事をいいても、いらえせずなりぬ。これとはうらうえなるは、松井田にて西洋人のりしとき、車丁の荷物にもつを持ちはこびたると、松井田より本庄まで汽車きしゃのかよわぬ軌道を、洋服きたる人の妻子婢妾にとおらせ、猶きたらでか、これをきたる荷積汽車にのせて人にさせたるなどなりき。すべてこの旅の間に、洋服の勢力せいりょくあるを見しこと、幾度か知られず。茶店、旅宿などにても、極上等の座敷ざしきのたたみは洋服ならではみがたく、洋服着たる人は、後に来りて先ず飲食いんしょくすることをも得つべし。茶代ちゃだいの多少などは第二段の論にて、最大大切なるは、服の和洋なり。たびせんものは心得置くべきことなり。されどおごるは益なし、洋服にてだにあらば、帆木綿ほもめんにてもよからん。白き上衣の、わきの下早や黄ばみたるを着たる人も、新しき浴衣ゆかた着たる人よりはたっとばるるを見ぬ。

底本:「日本の名随筆15 旅」作品社

   1983(昭和58)年925日第1刷発行

   1995(平成7)年530日第24刷発行

底本の親本:「鴎外全集 第二二巻」岩波書店

   1973(昭和48)年8

初出:「東京新報」

   1890(明治23)年8月~9月

入力:土屋隆

校正:noriko saito

2007年726日作成

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