小さき者へ
有島武郎



 お前たちが大きくなって、一人前の人間に育ち上った時、──その時までお前たちのパパは生きているかいないか、それは分らない事だが──父の書き残したものを繰拡くりひろげて見る機会があるだろうと思う。その時この小さな書き物もお前たちの眼の前に現われ出るだろう。時はどんどん移って行く。お前たちの父なる私がその時お前たちにどううつるか、それは想像も出来ない事だ。恐らく私が今ここで、過ぎ去ろうとする時代をわらあわれんでいるように、お前たちも私の古臭い心持を嗤い憐れむのかも知れない。私はお前たちのめにそうあらんことを祈っている。お前たちは遠慮なく私を踏台にして、高い遠い所に私を乗り越えて進まなければ間違っているのだ。然しながらお前たちをどんなに深く愛したものがこの世にいるか、或はいたかという事実は、永久にお前たちに必要なものだと私は思うのだ。お前たちがこの書き物を読んで、私の思想の未熟で頑固がんこなのを嗤う間にも、私たちの愛はお前たちを暖め、慰め、励まし、人生の可能性をお前たちの心に味覚させずにおかないと私は思っている。だからこの書き物を私はお前たちにあてて書く。

 お前たちは去年一人の、たった一人のママを永久に失ってしまった。お前たちは生れると間もなく、生命に一番大事な養分を奪われてしまったのだ。お前達の人生はそこで既に暗い。この間ある雑誌社が「私の母」という小さな感想をかけといって来た時、私は何んの気もなく、「自分の幸福は母が始めから一人で今も生きている事だ」と書いてのけた。そして私の万年筆がそれを書き終えるか終えないに、私はすぐお前たちの事を思った。私の心は悪事でも働いたように痛かった。しかも事実は事実だ。私はその点で幸福だった。お前たちは不幸だ。恢復かいふくみちなく不幸だ。不幸なものたちよ。

 暁方あけがたの三時からゆるい陣痛が起り出して不安が家中にひろがったのは今から思うと七年前の事だ。それは吹雪ふぶきも吹雪、北海道ですら、滅多めったにはないひどい吹雪の日だった。市街を離れた川沿いの一つ家はけし飛ぶ程揺れ動いて、窓硝子ガラスに吹きつけられた粉雪は、さらぬだに綿雲に閉じられた陽の光を二重にさえぎって、夜の暗さがいつまでも部屋から退かなかった。電燈の消えた薄暗い中で、白いものに包まれたお前たちの母上は、夢心地にうめき苦しんだ。私は一人の学生と一人の女中とに手伝われながら、火を起したり、湯を沸かしたり、使を走らせたりした。産婆が雪で真白になってころげこんで来た時は、家中のものが思わずほっ気息いきをついて安堵あんどしたが、昼になっても昼過ぎになっても出産の模様が見えないで、産婆や看護婦の顔に、私だけに見える気遣きづかいの色が見え出すと、私は全くあわててしまっていた。書斎に閉じこもって結果を待っていられなくなった。私は産室に降りていって、産婦の両手をしっかり握る役目をした。陣痛が起る度毎たびごとに産婆は叱るように産婦を励まして、一分も早く産を終らせようとした。然ししばらくの苦痛の後に、産婦はすぐ又深い眠りに落ちてしまった。いびきさえかいて安々と何事も忘れたように見えた。産婆も、後から駈けつけてくれた医者も、顔を見合わして吐息をつくばかりだった。医師は昏睡こんすいが来る度毎に何か非常の手段を用いようかと案じているらしかった。

 昼過ぎになると戸外の吹雪は段々しずまっていって、濃い雪雲から漏れる薄日の光が、窓にたまった雪に来てそっとたわむれるまでになった。然し産室の中の人々にはますます重い不安の雲がおおかぶさった。医師は医師で、産婆は産婆で、私は私で、銘々めいめいの不安に捕われてしまった。その中で何等の危害をも感ぜぬらしく見えるのは、一番恐ろしい運命のふちに臨んでいる産婦と胎児だけだった。二つの生命は昏々こんこんとして死の方へ眠って行った。

 丁度三時と思わしい時に──産気がついてから十二時間目に──夕を催す光の中で、最後と思わしい激しい陣痛が起った。肉の眼で恐ろしい夢でも見るように、産婦はかっまぶたを開いて、あてどもなく一所ひとところにらみながら、苦しげというより、恐ろしげに顔をゆがめた。そして私の上体を自分の胸の上にたくし込んで、背中を羽がいに抱きすくめた。若し私が産婦と同じ程度にいきんでいなかったら、産婦の腕は私の胸を押しつぶすだろうと思う程だった。そこにいる人々の心は思わず総立ちになった。医師と産婆は場所を忘れたように大きな声で産婦を励ました。

 ふと産婦の握力がゆるんだのを感じて私は顔をげて見た。産婆の膝許ひざもとには血の気のない嬰児えいじが仰向けに横たえられていた。産婆はまりでもつくようにその胸をはげしくたたきながら、葡萄酒ぶどうしゅ葡萄酒といっていた。看護婦がそれを持って来た。産婆は顔と言葉とでその酒をたらいの中にあけろと命じた。激しい芳芬ほうふんと同時に盥の湯は血のような色に変った。嬰児はその中に浸された。暫くしてかすかな産声うぶごえが気息もつけない緊張の沈黙を破って細く響いた。

 大きな天と地との間に一人の母と一人の子とがその刹那せつな忽如こつじょとして現われ出たのだ。

 その時新たな母は私を見て弱々しくほほえんだ。私はそれを見ると何んという事なしに涙が眼がしらににじみ出て来た。それを私はお前たちに何んといっていい現わすべきかを知らない。私の生命全体が涙を私の眼からしぼり出したとでもいえばいいのか知らん。その時から生活の諸相がすべて眼の前で変ってしまった。

 お前たちのうち最初にこの世の光を見たものは、このようにして世の光を見た。二番目も三番目も、生れように難易の差こそあれ、父と母とに与えた不思議な印象に変りはない。

 こうして若い夫婦はつぎつぎにお前たち三人の親となった。

 私はその頃心の中に色々な問題をあり余るほど持っていた。そして始終齷齪あくせくしながら何一つ自分を「満足」に近づけるような仕事をしていなかった。何事も独りでみしめてみる私の性質として、表面うわべには十人並みな生活を生活していながら、私の心はややともすると突き上げて来る不安にいらいらさせられた。ある時は結婚を悔いた。ある時はお前たちの誕生をにくんだ。何故自分の生活の旗色をもっと鮮明にしない中に結婚なぞをしたか。妻のある為めに後ろに引きずって行かれねばならぬ重みの幾つかを、何故好んで腰につけたのか。何故二人の肉慾の結果を天からの賜物たまもののように思わねばならぬのか。家庭の建立こんりゅうに費す労力と精力とを自分は他に用うべきではなかったのか。

 私は自分の心の乱れからお前たちの母上を屡々しばしば泣かせたり淋しがらせたりした。またお前たちを没義道もぎどうに取りあつかった。お前達が少し執念しゅうねく泣いたりいがんだりする声を聞くと、私は何か残虐な事をしないではいられなかった。原稿紙にでも向っていた時に、お前たちの母上が、小さな家事上の相談を持って来たり、お前たちが泣き騒いだりしたりすると、私は思わず机をたたいて立上ったりした。そして後ではたまらない淋しさに襲われるのを知りぬいていながら、激しい言葉をつかったり、厳しい折檻せっかんをお前たちに加えたりした。

 然し運命が私の我儘わがままと無理解とを罰する時が来た。どうしてもお前達を子守こもりに任せておけないで、毎晩お前たち三人を自分の枕許や、左右にふせらして、夜通し一人を寝かしつけたり、一人に牛乳を温めてあてがったり、一人に小用をさせたりして、碌々ろくろく熟睡する暇もなく愛の限りを尽したお前たちの母上が、四十一度という恐ろしい熱を出してどっと床についた時の驚きもさる事ではあるが、診察に来てくれた二人の医師が口をそろえて、結核の徴候があるといった時には、私はただ訳もなく青くなってしまった。検痰けんたんの結果は医師たちの鑑定を裏書きしてしまった。そして四つと三つと二つとになるお前たちを残して、十月末の淋しい秋の日に、母上は入院せねばならぬ体となってしまった。

 私は日中の仕事を終ると飛んで家に帰った。そしてお前達の一人か二人を連れて病院に急いだ。私がその町に住まい始めた頃働いていた克明な門徒の婆さんが病室の世話をしていた。その婆さんはお前たちの姿を見ると隠し隠し涙を拭いた。お前たちは母上を寝台の上に見つけると飛んでいってかじり付こうとした。結核症であるのをまだあかされていないお前たちの母上は、宝を抱きかかえるようにお前たちをその胸に集めようとした。私はいい加減にあしらってお前たちを寝台に近づけないようにしなければならなかった。忠義をしようとしながら、周囲の人から極端な誤解を受けて、それを弁解してならない事情に置かれた人のあじわいそうな心持を幾度も味った。それでも私はもう怒る勇気はなかった。引きはなすようにしてお前たちを母上から遠ざけて帰路につく時には、大抵街燈の光が淡く道路を照していた。玄関を這入はいると雇人やといにんだけが留守していた。彼等は二三人もいる癖に、残しておいた赤坊のおしめを代えようともしなかった。気持ち悪げに泣き叫ぶ赤坊のまたの下はよくぐしょれになっていた。

 お前たちは不思議に他人になつかない子供たちだった。ようようお前たちを寝かしつけてから私はそっと書斎に這入って調べ物をした。体は疲れて頭は興奮していた。仕事をすまして寝付こうとする十一時前後になると、神経の過敏になったお前たちは、夢などを見ておびえながら眼をさますのだった。暁方になるとお前たちの一人は乳を求めて泣き出した。それにおこされると私の眼はもう朝まで閉じなかった。朝飯を食うと私は赤い眼をしながら、堅いしんのようなものの出来た頭を抱えて仕事をする所に出懸けた。

 北国には冬が見る見るせまって来た。ある時病院を訪れると、お前たちの母上は寝台の上に起きかえって窓の外を眺めていたが、私の顔を見ると、早く退院がしたいといい出した。窓の外のかえでがあんなになったのを見ると心細いというのだ。なるほど入院したてには燃えるように枝を飾っていたその葉が一枚も残らず散りつくして、花壇の菊も霜にいためられて、しおれる時でもないのに萎れていた。私はこの寂しさを毎日見せておくだけでもいけないと思った。然し母上の本当の心持はそんな所にはなくって、お前たちから一刻も離れてはいられなくなっていたのだ。

 今日はいよいよ退院するという日は、あられの降る、寒い風のびゅうびゅうと吹く悪い日だったから、私は思い止らせようとして、仕事をすますとすぐ病院に行ってみた。然し病室はからっぽで、例の婆さんが、貰ったものやら、座蒲団やら、茶器やらを部屋の隅でごそごそと始末していた。急いで家に帰ってみると、お前たちはもう母上のまわりに集まって嬉しそうに騷いでいた。私はそれを見ると涙がこぼれた。

 知らない間に私たちは離れられないものになってしまっていたのだ。五人の親子はどんどん押寄せて来る寒さの前に、小さく固まって身をまもろうとする雑草の株のように、互により添って暖みを分ち合おうとしていたのだ。然し北国の寒さは私たち五人の暖みでは間に合わない程寒かった。私は一人の病人と頑是がんぜないお前たちとをいたわりながら旅雁りょがんのように南を指してのがれなければならなくなった。

 それは初雪のどんどん降りしきる夜の事だった、お前たち三人を生んで育ててくれた土地をあとにして旅に上ったのは。忘れる事の出来ないいくつかの顔は、暗い停車場のプラットフォームから私たちに名残なごりを惜しんだ。陰鬱な津軽海峡の海の色も後ろになった。東京まで付いて来てくれた一人の学生は、お前たちの中の一番小さい者を、母のように終夜抱き通していてくれた。そんな事を書けば限りがない。ともかく私たちはさいわいに怪我もなく、二日の物憂い旅の後に晩秋の東京に着いた。

 今までいた処とちがって、東京には沢山の親類や兄弟がいて、私たちの為めに深い同情を寄せてくれた。それは私にどれ程の力だったろう。お前たちの母上は程なくK海岸にささやかな貸別荘を借りて住む事になり、私たちは近所の旅館に宿を取って、そこから見舞いに通った。一時は病勢が非常に衰えたように見えた。お前たちと母上と私とは海岸の砂丘に行って日向ひなたぼっこをして楽しく二三時間を過ごすまでになった。

 どういう積りで運命がそんな小康を私たちに与えたのかそれは分らない。然し彼はどんな事があっても仕遂しとぐべき事を仕遂げずにはおかなかった。その年が暮れに迫った頃お前達の母上は仮初かりそめ風邪かぜからぐんぐん悪い方へ向いて行った。そしてお前たちの中の一人も突然原因の解らない高熱に侵された。その病気の事を私は母上に知らせるのに忍びなかった。病児は病児で私を暫くも手放そうとはしなかった。お前達の母上からは私の無沙汰を責めて来た。私はついに倒れた。病児と枕を並べて、今まで経験した事のない高熱の為めにうめき苦しまねばならなかった。私の仕事? 私の仕事は私から千里も遠くに離れてしまった。それでも私はもう私を悔もうとはしなかった。お前たちの為めに最後まで戦おうとする熱意が病熱よりも高く私の胸の中で燃えているのみだった。

 正月早々悲劇の絶頂が到来した。お前たちの母上は自分の病気の真相をかされねばならぬ羽目になった。そのむずかしい役目を勤めてくれた医師が帰って後の、お前たちの母上の顔を見た私の記憶は一生涯私を駆り立てるだろう。真蒼まっさお清々すがすがしい顔をして枕についたまま母上には冷たい覚悟を微笑に云わして静かに私を見た。そこには死に対する Resignation と共にお前たちに対する根強い執着がまざまざと刻まれていた。それは物すごくさえあった。私は凄惨せいさんな感じに打たれて思わず眼を伏せてしまった。

 愈々いよいよH海岸の病院に入院する日が来た。お前たちの母上は全快しない限りは死ぬともお前たちに逢わない覚悟のほぞを堅めていた。二度とは着ないと思われる──そして実際着なかった──晴着はれぎを着て座を立った母上は内外の母親の眼の前でさめざめと泣き崩れた。女ながらに気性のすぐれて強いお前たちの母上は、私と二人だけいる場合でも泣顔などは見せた事がないといってもいい位だったのに、その時の涙は拭くあとからあとから流れ落ちた。その熱い涙はお前たちだけの尊い所有物だ。それは今は乾いてしまった。大空をわたる雲の一片となっているか、谷河の水の一滴となっているか、太洋たいようあわの一つとなっているか、又は思いがけない人の涙堂にたくわえられているか、それは知らない。然しその熱い涙はともかくもお前たちだけの尊い所有物なのだ。

 自動車のいる所に来ると、お前たちの中熱病の予後にある一人は、足の立たない為めに下女に背負われて、──一人はよちよちと歩いて、──一番末の子は母上を苦しめ過ぎるだろうという祖父母たちの心づかいから連れて来られなかった──母上を見送りに出て来ていた。お前たちの頑是ない驚きの眼は、大きな自動車にばかり向けられていた。お前たちの母上は淋しくそれを見やっていた。自動車が動き出すとお前達は女中に勧められて兵隊のように挙手の礼をした。母上は笑って軽く頭を下げていた。お前たちは母上がその瞬間から永久にお前たちを離れてしまうとは思わなかったろう。不幸なものたちよ。

 それからお前たちの母上が最後の気息を引きとるまでの一年と七箇月の間、私たちの間には烈しい戦が闘われた。母上は死に対して最上の態度を取る為めに、お前たちに最大の愛をのこすために、私を加減なしに理解する為めに、私は母上を病魔から救う為めに、自分に迫る運命を男らしく肩ににない上げるために、お前たちは不思議な運命から自分を解放するために、身にふさわない境遇の中に自分をはめ込むために、闘った。血まぶれになって闘ったといっていい。私も母上もお前たちも幾度弾丸を受け、刀きずを受け、倒れ、起き上り、又倒れたろう。

 お前たちが六つと五つと四つになった年の八月の二日に死が殺到した。死がすべてを圧倒した。そして死が総てを救った。

 お前たちの母上の遺言書の中で一番崇高な部分はお前たちに与えられた一節だった。しこの書き物を読む時があったら、同時に母上の遺書も読んでみるがいい。母上は血の涙を泣きながら、死んでもお前たちに会わない決心をひるがえさなかった。それは病菌をお前たちに伝えるのを恐れたばかりではない。又お前たちを見る事によって自分の心の破れるのを恐れたばかりではない。お前たちの清い心に残酷な死の姿を見せて、お前たちの一生をいやが上に暗くする事を恐れ、お前たちの伸び伸びて行かなければならぬ霊魂に少しでも大きな傷を残す事を恐れたのだ。幼児に死を知らせる事は無益であるばかりでなく有害だ。葬式の時は女中をお前たちにつけて楽しく一日を過ごさして貰いたい。そうお前たちの母上は書いている。

「子を思う親の心は日の光世より世を照る大きさに似て」

 とも詠じている。

 母上が亡くなった時、お前たちは丁度信州の山の上にいた。若しお前たちの母上の臨終にあわせなかったら一生恨みに思うだろうとさえ書いてよこしてくれたお前たちの叔父上にいて頼んで、お前たちを山から帰らせなかった私をお前たちが残酷だと思う時があるかも知れない。今十一時半だ。この書き物を草している部屋の隣りにお前たちは枕をならべて寝ているのだ。お前たちはまだ小さい。お前たちが私のとしになったら私のした事を、すなわち母上のさせようとした事を価高く見る時が来るだろう。

 私はこの間にどんな道を通って来たろう。お前たちの母上の死によって、私は自分の生きて行くべき大道にさまよい出た。私は自分を愛護してその道を踏み迷わずに通って行けばいいのを知るようになった。私はかつて一つの創作の中に妻を犠牲にする決心をした一人の男の事を書いた。事実に於てお前たちの母上は私の為めに犠牲になってくれた。私のように持ち合わした力の使いようを知らなかった人間はない。私の周囲のものは私を一個の小心な、魯鈍ろどんな、仕事の出来ない、憐れむべき男と見る外を知らなかった。私の小心と魯鈍と無能力とを徹底さして見ようとしてくれるものはなかった。それをお前たちの母上は成就じょうじゅしてくれた。私は自分の弱さに力を感じ始めた。私は仕事の出来ない所に仕事を見いだした。大胆になれない所に大胆を見出した。鋭敏でない所に鋭敏を見出した。言葉を換えていえば、私は鋭敏に自分の魯鈍を見き、大胆に自分の小心を認め、労役して自分の無能力を体験した。私はこの力をもって己れをむちうち他を生きる事が出来るように思う。お前たちが私の過去を眺めてみるような事があったら、私も無駄には生きなかったのを知って喜んでくれるだろう。

 雨などが降りくらして悒鬱ゆううつな気分が家の中にみなぎる日などに、どうかするとお前たちの一人が黙って私の書斎に這入はいって来る。そして一言パパといったぎりで、私のひざによりかかったまましくしくと泣き出してしまう。ああ何がお前たちの頑是ない眼に涙を要求するのだ。不幸なものたちよ。お前たちがいわれもない悲しみにくずれるのを見るに増して、この世を淋しく思わせるものはない。またお前たちが元気よく私に朝の挨拶あいさつをしてから、母上の写真の前に駈けて行って、「ママちゃん御機嫌ごきげんよう」と快活に叫ぶ瞬間ほど、私の心の底までぐざとえぐり通す瞬間はない。私はその時、ぎょっとして無劫むごうの世界を眼前に見る。

 世の中の人は私の述懐を馬鹿々々しいと思うに違いない。何故なら妻の死とはそこにもここにもきはてる程おびただしくある事柄の一つに過ぎないからだ。そんな事を重大視する程世の中の人は閑散でない。それは確かにそうだ。然しそれにもかかわらず、私といわず、お前たちも行く行くは母上の死を何物にも代えがたく悲しく口惜しいものに思う時が来るのだ。世の中の人が無頓着だといってそれを恥じてはならない。それは恥ずべきことじゃない。私たちはそのありがちの事柄の中からも人生の淋しさに深くぶつかってみることが出来る。小さなことが小さなことでない。大きなことが大きなことでない。それは心一つだ。

 何しろお前たちは見るに痛ましい人生の芽生めばえだ。泣くにつけ、笑うにつけ、面白がるにつけ淋しがるにつけ、お前たちを見守る父の心は痛ましく傷つく。

 然しこの悲しみがお前たちと私とにどれ程の強みであるかをお前たちはまだ知るまい。私たちはこの損失のお蔭で生活に一段と深入りしたのだ。私共の根はいくらかでも大地に延びたのだ。人生を生きる以上人生に深入りしないものはわざわいである。

 同時に私たちは自分の悲しみにばかり浸っていてはならない。お前たちの母上は亡くなるまで、金銭のわずらいからは自由だった。飲みたい薬は何んでも飲む事が出来た。食いたい食物は何んでも食う事が出来た。私たちは偶然な社会組織の結果からこんな特権ならざる特権を享楽した。お前たちの或るものはかすかながらU氏一家の模様を覚えているだろう。死んだ細君から結核を伝えられたU氏があの理智的な性情をちながら、天理教を信じて、その御祈祷きとうで病気をいやそうとしたその心持を考えると、私はたまらなくなる。薬がきくものか祈祷がきくものかそれは知らない。然しU氏は医者の薬が飲みたかったのだ。然しそれが出来なかったのだ。U氏は毎日下血しながら役所に通った。ハンケチを巻き通したのどからは皺嗄しわがれた声しか出なかった。働けば病気がおもる事は知れきっていた。それを知りながらU氏は御祈祷を頼みにして、老母と二人の子供との生活を続けるために、勇ましくくまで働いた。そして病気が重ってから、なけなしの金を出してして貰った古賀液の注射は、田舎の医師の不注意から静脈をはずれて、激烈な熱を引起した。そしてU氏は無資産の老母と幼児とを後に残してその為めにたおれてしまった。その人たちは私たちの隣りに住んでいたのだ。何んという運命の皮肉だ。お前たちは母上の死を思い出すと共に、U氏を思い出すことを忘れてはならない。そしてこの恐ろしいみぞを埋める工夫をしなければならない。お前たちの母上の死はお前たちの愛をそこまで拡げさすに十分だと思うから私はいうのだ。

 十分人世は淋しい。私たちは唯そういって澄ましている事が出来るだろうか。お前達と私とは、血を味った獣のように、愛を味った。行こう、そして出来るだけ私たちの周囲を淋しさから救うために働こう。私はお前たちを愛した。そして永遠に愛する。それはお前たちから親としての報酬を受けるためにいうのではない。お前たちを愛する事を教えてくれたお前たちに私の要求するものは、ただ私の感謝を受取って貰いたいという事だけだ。お前たちが一人前に育ち上った時、私は死んでいるかも知れない。一生懸命に働いているかも知れない。老衰して物の役に立たないようになっているかも知れない。然しいずれの場合にしろ、お前たちの助けなければならないものは私ではない。お前たちの若々しい力は既に下り坂に向おうとする私などにわずらわされていてはならない。斃れた親をい尽して力を貯えるの子のように、力強く勇ましく私を振り捨てて人生に乗り出して行くがいい。

 今時計は夜中を過ぎて一時十五分を指している。しんと静まった夜の沈黙の中にお前たちの平和な寝息だけがかすかにこの部屋に聞こえて来る。私の眼の前にはお前たちの叔母が母上にとて贈られた薔薇ばらの花が写真の前に置かれている。それにつけて思い出すのは私があの写真をってやった時だ。その時お前たちの中に一番年たけたものが母上の胎に宿っていた。母上は自分でも分らない不思議な望みと恐れとで始終心をなやましていた。その頃の母上は殊に美しかった。希臘ギリシャの母の真似まねだといって、部屋の中にいい肖像を飾っていた。その中にはミネルバの像や、ゲーテや、クロムウェルや、ナイティンゲール女史やの肖像があった。その少女じみた野心をその時の私は軽い皮肉の心で観ていたが、今から思うとただ笑い捨ててしまうことはどうしても出来ない。私がお前たちの母上の写真を撮ってやろうといったら、思う存分化粧をして一番の晴着を着て、私の二階の書斎に這入って来た。私はむしろ驚いてその姿を眺めた。母上は淋しく笑って私にいった。産は女の出陣だ。いい子を生むか死ぬか、そのどっちかだ。だから死際しにぎわの装いをしたのだ。──その時も私は心なく笑ってしまった。然し、今はそれも笑ってはいられない。

 深夜の沈黙は私を厳粛にする。私の前には机を隔ててお前たちの母上が坐っているようにさえ思う。その母上の愛は遺書にあるようにお前たちを護らずにはいないだろう。よく眠れ。不可思議な時というものの作用にお前たちを打任してよく眠れ。そうして明日は昨日よりも大きく賢くなって、寝床の中からおどり出して来い。私は私の役目をなし遂げる事に全力を尽すだろう。私の一生が如何いかに失敗であろうとも、又私が如何なる誘惑に打負けようとも、お前たちは私の足跡に不純な何物をも見出し得ないだけの事はする。きっとする。お前たちは私の斃れた所から新しく歩み出さねばならないのだ。然しどちらの方向にどう歩まねばならぬかは、かすかながらにもお前達は私の足跡から探し出す事が出来るだろう。

 小さき者よ。不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。然し恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。

 行け。勇んで。小さき者よ。

底本:「小さき者へ・生れ出づる悩み」新潮文庫、新潮社

   1955(昭和30)年130日初版

   1980(昭和55)年210日改版49

   1986(昭和61)年430日発行改版63

初出:「新潮」

   1918(大正7)年1

入力:鈴木厚司

校正:鈴木厚司

1999年213日公開

2019年1126日修正

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