或る女
(前編)
有島武郎




 新橋しんばしを渡る時、発車を知らせる二番目のベルが、霧とまではいえない九月の朝の、けむった空気に包まれて聞こえて来た。葉子ようこは平気でそれを聞いたが、車夫は宙を飛んだ。そして車が、鶴屋つるやという町のかどの宿屋を曲がって、いつでも人馬の群がるあの共同井戸のあたりを駆けぬける時、停車場の入り口の大戸をしめようとする駅夫と争いながら、八がたしまりかかった戸の所に突っ立ってこっちを見まもっている青年の姿を見た。

「まあおそくなってすみませんでした事……まだ間に合いますかしら」

 と葉子がいいながら階段をのぼると、青年は粗末な麦稈むぎわら帽子をちょっと脱いで、黙ったまま青い切符きっぷを渡した。

「おやなぜ一等になさらなかったの。そうしないといけないわけがあるからかえてくださいましな」

 といおうとしたけれども、火がつくばかりに駅夫がせき立てるので、葉子は黙ったまま青年とならんで小刻みな足どりで、たった一つだけあいている改札口へと急いだ。改札はこの二人ふたりの乗客を苦々にがにがしげに見やりながら、左手を延ばして待っていた。二人がてんでんに切符を出そうとする時、

「若奥様、これをお忘れになりました」

 といいながら、羽被はっぴの紺のにおいの高くするさっきの車夫が、薄い大柄おおがらなセルの膝掛ひざかけを肩にかけたままあわてたように追いかけて来て、オリーヴ色の絹ハンケチに包んだ小さな物を渡そうとした。

「早く早く、早くしないと出っちまいますよ」改札がたまらなくなって癇癪声かんしゃくごえをふり立てた。

 青年の前で「若奥様」と呼ばれたのと、改札ががみがみどなり立てたので、針のように鋭い神経はすぐ彼女をあまのじゃくにした。葉子は今まで急ぎ気味ぎみであった歩みをぴったり止めてしまって、落ち付いた顔で、車夫のほうに向きなおった。

「そう御苦労よ。家に帰ったらね、きょうは帰りがおそくなるかもしれませんから、お嬢さんたちだけで校友会にいらっしゃいってそういっておくれ。それから横浜よこはま近江屋おうみや──西洋小間物屋こまものやの近江屋が来たら、きょうこっちから出かけたからっていうようにってね」

 車夫はきょときょとと改札と葉子とをかたみがわりに見やりながら、自分が汽車にでも乗りおくれるようにあわてていた。改札の顔はだんだん険しくなって、あわや通路をしめてしまおうとした時、葉子はするするとそのほうに近よって、

「どうもすみませんでした事」

 といって切符をさし出しながら、改札の目の先で花が咲いたようにほほえんで見せた。改札はばかになったような顔つきをしながら、それでもおめおめと切符にあなを入れた。

 プラットフォームでは、駅員も見送り人も、立っている限りの人々は二人ふたりのほうに目を向けていた。それを全く気づきもしないような物腰ものごしで、葉子は親しげに青年と肩を並べて、しずしずと歩きながら、車夫の届けた包み物の中には何があるかあててみろとか、横浜のように自分の心をひく町はないとか、切符を一緒にしまっておいてくれろとかいって、音楽者のようにデリケートなその指先で、わざとらしく幾度か青年の手に触れる機会を求めた。列車の中からはある限りの顔が二人を見迎え見送るので、青年が物慣れない処女しょじょのようにはにかんで、しかも自分ながら自分をおこっているのが葉子にはおもしろくながめやられた。

 いちばん近い二等車の昇降口の所に立っていた車掌は右の手をポッケットに突っ込んで、くつ爪先つまさきで待ちどおしそうに敷き石をたたいていたが、葉子がデッキに足を踏み入れると、いきなり耳をつんざくばかりに呼び子を鳴らした。そして青年(青年は名を古藤ことうといった)が葉子に続いて飛び乗った時には、機関車の応笛おうてきが前方で朝の町のにぎやかなさざめきを破って響き渡った。

 葉子は四角なガラスをはめた入り口の繰り戸を古藤が勢いよくあけるのを待って、中にはいろうとして、八分通りつまった両側の乗客に稲妻いなずまのように鋭く目を走らしたが、左側の中央近く新聞を見入った、やせた中年の男に視線がとまると、はっと立ちすくむほど驚いた。しかしその驚きはまたたく暇もないうちに、顔からも足からも消えうせて、葉子はわるびれもせず、取りすましもせず、自信ある女優が喜劇の舞台にでも現われるように、軽い微笑を右のほおだけに浮かべながら、古藤に続いて入り口に近い右側の空席に腰をおろすと、あでやかに青年を見返りながら、小指をなんともいえないよい形に折り曲げた左手で、びんおくをかきなでるついでに、地味じみに装って来た黒のリボンにさわってみた。青年の前に座を取っていた四十三四のあぶらぎった商人ていの男は、あたふたと立ち上がって自分の後ろのシェードをおろして、おりふし横ざしに葉子に照りつける朝の光線をさえぎった。

 紺の飛白かすり書生下駄しょせいげたをつっかけた青年に対して、素性すじょうが知れぬほど顔にも姿にも複雑な表情をたたえたこの女性の対照は、幼い少女の注意をすらひかずにはおかなかった。乗客一同の視線はあやをなして二人ふたりの上に乱れ飛んだ。葉子は自分が青年の不思議な対照になっているという感じを快く迎えてでもいるように、青年に対してことさら親しげな態度を見せた。

 品川しながわを過ぎて短いトンネルを汽車が出ようとする時、葉子はきびしく自分を見すえる目をまゆのあたりに感じておもむろにそのほうを見かえった。それは葉子が思ったとおり、新聞に見入っているかのやせた男だった。男の名は木部孤笻きべこきょうといった。葉子が車内に足を踏み入れた時、だれよりも先に葉子に目をつけたのはこの男であったが、だれよりも先に目をそらしたのもこの男で、すぐ新聞を目八にさし上げて、それに読み入って素知そしらぬふりをしたのに葉子は気がついていた。そして葉子に対する乗客の好奇心が衰え始めたころになって、彼は本気に葉子を見つめ始めたのだ。葉子はあらかじめこの刹那せつなに対する態度を決めていたからあわても騒ぎもしなかった。目をすずのように大きく張って、親しいびの色を浮かべながら、黙ったままで軽くうなずこうと、少し肩と顔とをそっちにひねって、心持ち上向うわむきかげんになった時、稲妻のように彼女の心に響いたのは、男がその好意に応じてほほえみかわす様子のないという事だった。実際男の一文字眉いちもんじまゆは深くひそんで、その両眼はひときわ鋭さを増して見えた。それを見て取ると葉子の心の中はかっとなったが、みかまけたひとみはそのままで、するすると男の顔を通り越して、左側の古藤の血気けっきのいいほおのあたりに落ちた。古藤は繰り戸のガラス越しに、切り割りのがけをながめてつくねんとしていた。

「また何か考えていらっしゃるのね」

 葉子はやせた木部きべにこれ見よがしという物腰ではなやかにいった。

 古藤はあまりはずんだ葉子の声にひかされて、まんじりとその顔を見守った。その青年の単純なあからさまな心に、自分の笑顔えがおの奥の苦い渋い色が見抜かれはしないかと、葉子は思わずたじろいだほどだった。

「なんにも考えていやしないが、陰になったがけの色が、あまりきれいだもんで……紫に見えるでしょう。もう秋がかって来たんですよ。」

 青年は何も思っていはしなかったのだ。

「ほんとうにね」

 葉子は単純に応じて、もう一度ちらっと木部を見た。やせた木部の目は前と同じに鋭く輝いていた。葉子は正面に向き直るとともに、その男のひとみの下で、悒鬱ゆううつな険しい色を引きしめた口のあたりにみなぎらした。木部はそれを見て自分の態度を後悔すべきはずである。



 葉子は木部が魂を打ちこんだ初恋のまとだった。それはちょうど日清にっしん戦争が終局を告げて、国民一般はだれかれの差別なく、この戦争に関係のあった事柄や人物やに事実以上の好奇心をそそられていたころであったが、木部は二十五という若いとしで、ある大新聞社の従軍記者になってシナに渡り、月並みな通信文の多い中に、きわだって観察の飛び離れた心力のゆらいだ文章を発表して、天才記者という名を博してめでたく凱旋がいせんしたのであった。そのころ女流キリスト教徒の先覚者として、キリスト教婦人同盟の副会長をしていた葉子の母は、木部の属していた新聞社の社長と親しい交際のあった関係から、ある日その社の従軍記者を自宅に招いて慰労の会食を催した。その席で、小柄こがら白皙はくせきで、詩吟の声の悲壮な、感情の熱烈なこの少壮従軍記者は始めて葉子を見たのだった。

 葉子はその時十九だったが、すでに幾人もの男に恋をし向けられて、その囲みを手ぎわよく繰りぬけながら、自分の若い心を楽しませて行くタクトは充分に持っていた。十五の時に、はかまをひもでめる代わりに尾錠びじょうで締めるくふうをして、一時女学生界の流行を風靡ふうびしたのも彼女である。そのあかい口びるを吸わして首席を占めたんだと、厳格でとおっている米国人の老校長に、思いもよらぬ浮き名を負わせたのも彼女である。上野うえのの音楽学校にはいってヴァイオリンのけいこを始めてから二か月ほどのあいだにめきめき上達して、教師や生徒の舌を巻かした時、ケーべル博士はかせ一人ひとりは渋い顔をした。そしてある日「お前の楽器は才で鳴るのだ。天才で鳴るのではない」と無愛想ぶあいそにいってのけた。それを聞くと「そうでございますか」と無造作むぞうさにいいながら、ヴァイオリンを窓の外にほうりなげて、そのまま学校を退学してしまったのも彼女である。キリスト教婦人同盟の事業に奔走し、社会では男まさりのしっかり者という評判を取り、家内では趣味の高いそして意志の弱い良人おっとを全く無視して振る舞ったその母の最も深い隠れた弱点を、拇指ぼし食指しょくしとのあいだちゃんと押えて、一歩もひけを取らなかったのも彼女である。葉子の目にはすべての人が、ことに男が底の底まで見すかせるようだった。葉子はそれまで多くの男をかなり近くまでもぐり込ませて置いて、もう一歩という所で突っぱなした。恋の始めにはいつでも女性が祭り上げられていて、ある機会を絶頂に男性が突然女性を踏みにじるという事を直覚のように知っていた葉子は、どの男に対しても、自分との関係の絶頂がどこにあるかを見ぬいていて、そこに来かかると情け容赦もなくその男を振り捨ててしまった。そうして捨てられた多くの男は、葉子を恨むよりも自分たちの獣性を恥じるように見えた。そして彼らは等しく葉子を見誤っていた事を悔いるように見えた。なぜというと、彼らは一人ひとりとして葉子に対して怨恨えんこんをいだいたり、憤怒ふんぬをもらしたりするものはなかったから。そして少しひがんだ者たちは自分の愚を認めるよりも葉子をとし不相当にませた女と見るほうが勝手だったから。

 それは恋によろしい若葉の六月のある夕方ゆうがただった。日本橋にほんばし釘店くぎだなにある葉子の家には七八人の若い従軍記者がまだ戦塵せんじんの抜けきらないようなふうをして集まって来た。十九でいながら十七にも十六にも見れば見られるような華奢きゃしゃ可憐かれんな姿をした葉子が、慎みの中にも才走った面影おもかげを見せて、二人ふたりの妹と共に給仕きゅうじに立った。そしてしいられるままに、ケーベル博士からののしられたヴァイオリンの一手もかなでたりした。木部の全霊はただ一目ひとめでこの美しい才気のみなぎりあふれた葉子の容姿に吸い込まれてしまった。葉子も不思議にこの小柄な青年に興味を感じた。そして運命は不思議ないたずらをするものだ。木部はその性格ばかりでなく、容貌ようぼう──骨細ほねぼそな、顔の造作の整った、天才ふう蒼白あおじろいなめらかな皮膚の、よく見ると他の部分の繊麗な割合に下顎骨かがっこつの発達した──までどこか葉子のそれに似ていたから、自意識の極度に強い葉子は、自分の姿を木部に見つけ出したように思って、一種の好奇心を挑発ちょうはつせられずにはいなかった。木部は燃えやすい心に葉子を焼くようにかきいだいて、葉子はまた才走った頭に木部の面影を軽く宿して、その一夜の饗宴きょうえんはさりげなく終わりを告げた。

 木部の記者としての評判は破天荒はてんこうといってもよかった。いやしくも文学を解するものは木部を知らないものはなかった。人々は木部が成熟した思想をひっさげて世の中に出て来る時の華々はなばなしさをうわさし合った。ことに日清戦役という、その当時の日本にしては絶大な背景を背負っているので、この年少記者はある人々からは英雄ヒーロー一人ひとりとさえして崇拝された。この木部がたびたび葉子の家を訪れるようになった。その感傷的な、同時にどこか大望たいもうに燃え立ったようなこの青年の活気は、家じゅうの人々の心を捕えないでは置かなかった。ことに葉子の母が前から木部を知っていて、非常に有為ゆうい多望な青年だとほめそやしたり、公衆の前で自分の子とも弟ともつかぬ態度で木部をもてあつかったりするのを見ると、葉子は胸の中でせせら笑った。そして心を許して木部に好意を見せ始めた。木部の熱意が見る見るおさえがたく募り出したのはもちろんの事である。

 かの六月の夜が過ぎてからほどもなく木部と葉子とは恋という言葉で見られねばならぬような間柄あいだがらになっていた。こういう場合葉子がどれほど恋の場面を技巧化し芸術化するに巧みであったかはいうに及ばない。木部は寝ても起きても夢の中にあるように見えた。二十五というそのころまで、熱心な信者で、清教徒風せいきょうとふうの誇りを唯一の立場としていた木部がこの初恋においてどれほど真剣になっていたかは想像する事ができる。葉子は思いもかけず木部の火のような情熱に焼かれようとする自分を見いだす事がしばしばだった。

 そのうちに二人ふたりの間柄はすぐ葉子の母に感づかれた。葉子に対してかねてからある事では一種の敵意を持ってさえいるように見えるその母が、この事件に対して嫉妬しっととも思われるほど厳重な故障を持ち出したのは、不思議でないというべきさかいを通り越していた。世故せこに慣れきって、落ち付き払った中年の婦人が、心の底の動揺に刺激されてたくらみ出すと見える残虐な譎計わるだくみは、年若い二人の急所をそろそろとうかがいよって、腸も通れと突き刺してくる。それを払いかねて木部が命限りにもがくのを見ると、葉子の心に純粋な同情と、男に対する無条件的な捨て身な態度が生まれ始めた。葉子は自分で造り出した自分のおとしあなにたわいもなく酔い始めた。葉子はこんな目もくらむような晴れ晴れしいものを見た事がなかった。女の本能が生まれて始めて芽をふき始めた。そして解剖刀メスのような日ごろの批判力は鉛のように鈍ってしまった。葉子の母が暴力では及ばないのを悟って、すかしつなだめつ、良人おっとまでを道具につかったり、木部の尊信する牧師を方便にしたりして、あらん限りの知力をしぼった懐柔策も、なんのかいもなく、冷静な思慮深い作戦計画を根気こんきよく続ければ続けるほど、葉子は木部を後ろにかばいながら、健気けなげにもか弱い女の手一つで戦った。そして木部の全身全霊をつめさきおもいの果てまで自分のものにしなければ、死んでも死ねない様子が見えたので、母もとうとうを折った。そして五か月の恐ろしい試練の後に、両親の立ち会わない小さな結婚の式が、秋のある午後、木部の下宿げしゅく一間ひとまで執り行なわれた。そして母に対する勝利の分捕ぶんどひんとして、木部は葉子一人のものとなった。

 木部はすぐ葉山はやまに小さな隠れのような家を見つけ出して、二人はむつまじくそこに移り住む事になった。葉子の恋はしかしながらそろそろと冷え始めるのに二週間以上を要しなかった。彼女は競争すべからぬ関係の競争者に対してみごとに勝利を得てしまった。日清戦争というものの光も太陽が西に沈むたびごとに減じて行った。それらはそれとしていちばん葉子を失望させたのは同棲どうせい後始めて男というものの裏を返して見た事だった。葉子を確実に占領したという意識に裏書きされた木部は、今までおくびにも葉子に見せなかったしい弱点を露骨ろこつに現わし始めた。後ろから見た木部は葉子には取り所のない平凡な気の弱い精力の足りない男に過ぎなかった。筆一本握る事もせずに朝から晩まで葉子に膠着こうちゃくし、感傷的なくせに恐ろしくわがままで、今日こんにち今日の生活にさえ事欠きながら、万事を葉子の肩になげかけてそれが当然な事でもあるような鈍感なおぼっちゃんじみた生活のしかたが葉子の鋭い神経をいらいらさせ出した。始めのうちは葉子もそれを木部の詩人らしい無邪気さからだと思ってみた。そしてせっせせっせと世話女房らしく切り回す事に興味をつないでみた。しかし心の底の恐ろしく物質的な葉子にどうしてこんな辛抱がいつまでも続こうぞ。結婚前までは葉子のほうから迫ってみたにも係わらず、崇高と見えるまでに極端な潔癖屋だった彼であったのに、思いもかけぬ貪婪どんらん陋劣ろうれつな情欲の持ち主で、しかもその欲求を貧弱な体質で表わそうとするのに出っくわすと、葉子は今まで自分でも気がつかずにいた自分を鏡で見せつけられたような不快を感ぜずにはいられなかった。夕食を済ますと葉子はいつでも不満と失望とでいらいらしながら夜を迎えねばならなかった。木部の葉子に対する愛着が募れば募るほど、葉子は一生が暗くなりまさるように思った。こうして死ぬために生まれて来たのではないはずだ。そう葉子はくさくさしながら思い始めた。その心持ちがまた木部に響いた。木部はだんだん監視の目をもって葉子の一挙一動を注意するようになって来た。同棲どうせいしてから半か月もたたないうちに、木部はややもすると高圧的に葉子の自由を束縛するような態度を取るようになった。木部の愛情は骨にしみるほど知り抜きながら、鈍っていた葉子の批判力はまたみがきをかけられた。その鋭くなった批判力で見ると、自分と似よった姿なり性格なりを木部に見いだすという事は、自然が巧妙な皮肉をやっているようなものだった。自分もあんな事をおもい、あんな事をいうのかと思うと、葉子の自尊心は思う存分に傷つけられた。

 ほかの原因もある。しかしこれだけで充分だった。二人ふたりが一緒になってから二か月目に、葉子は突然失踪しっそうして、父の親友で、いわゆる物事のよくわかる高山たかやまという医者の病室に閉じこもらしてもらって、三日みっかばかりは食う物も食わずに、浅ましくも男のために目のくらんだ自分の不覚を泣き悔やんだ。木部が狂気のようになって、ようやく葉子の隠れ場所を見つけて会いに来た時は、葉子は冷静な態度でしらじらしく面会した。そして「あなたの将来のおためにきっとなりませんから」と何げなげにいってのけた。木部がその言葉に骨を刺すような諷刺ふうしを見いだしかねているのを見ると、葉子は白くそろった美しい歯を見せて声を出して笑った。

 葉子と木部との間柄はこんなたわいもない場面を区切りにしてはかなくも破れてしまった。木部はあらんかぎりの手段を用いて、なだめたり、すかしたり、強迫までしてみたが、すべては全く無益だった。いったん木部から離れた葉子の心は、何者も触れた事のない処女のそれのようにさえ見えた。

 それから普通の期間を過ぎて葉子は木部の子を分娩ぶんべんしたが、もとよりその事を木部に知らせなかったばかりでなく、母にさえある他の男によって生んだ子だと告白した。実際葉子はその後、母にその告白を信じさすほどの生活をあえてしていたのだった。しかし母は目ざとくもその赤ん坊に木部の面影を探り出して、キリスト信徒にあるまじき悪意をこのあわれな赤ん坊に加えようとした。赤ん坊は女中部屋じょちゅうべやに運ばれたまま、祖母のひざには一度も乗らなかった。意地いじの弱い葉子の父だけは孫のかわいさからそっと赤ん坊を葉子の乳母うばの家に引き取るようにしてやった。そしてそのみじめな赤ん坊は乳母の手一つに育てられて定子さだこという六歳の童女になった。

 その後葉子の父は死んだ。母も死んだ。木部は葉子と別れてから、狂瀾きょうらんのような生活に身を任せた。衆議院議員の候補に立ってもみたり、純文学に指を染めてもみたり、旅僧のような放浪生活も送ったり、妻を持ち子を成し、酒にふけり、雑誌の発行も企てた。そしてそのすべてに一々不満を感ずるばかりだった。そして葉子が久しぶりで汽車の中で出あった今は、妻子を里に返してしまって、ある由緒ゆいしょある堂上華族どうじょうかぞくの寄食者となって、これといってする仕事もなく、胸の中だけにはいろいろな空想を浮かべたり消したりして、とかく回想にふけりやすい日送りをしている時だった。



 その木部の目は執念しゅうねくもつきまつわった。しかし葉子はそっちを見向こうともしなかった。そして二等の切符でもかまわないからなぜ一等に乗らなかったのだろう。こういう事がきっとあると思ったからこそ、乗り込む時もそういおうとしたのだのに、気がきかないっちゃないと思うと、近ごろになく起きぬけからさえざえしていた気分が、沈みかけた秋の日のように陰ったりめいったりし出して、冷たい血がポンプにでもかけられたように脳のすきまというすきまをかたく閉ざした。たまらなくなって向かいの窓から景色でも見ようとすると、そこにはシェードがおろしてあって、例の四十三四の男が厚い口びるをゆるくあけたままで、ばかな顔をしながらまじまじと葉子を見やっていた。葉子はむっとしてその男のひたいから鼻にかけたあたりを、遠慮もなく発矢はっしと目でむちうった。商人は、ほんとうにむちうたれた人が泣き出す前にするように、笑うような、はにかんだような、不思議な顔のゆがめかたをして、さすがに顔をそむけてしまった。その意気地いくじのない様子がまた葉子の心をいらいらさせた。右に目を移せば三四人先に木部がいた。その鋭い小さな目は依然として葉子を見守っていた。葉子は震えを覚えるばかりに激昂げきこうした神経を両手に集めて、その両手を握り合わせてひざの上のハンケチの包みを押えながら、下駄げたの先をじっと見入ってしまった。今は車内の人が申し合わせて侮辱でもしているように葉子には思えた。古藤が隣座となりざにいるのさえ、一種の苦痛だった。その瞑想的めいそうてきな無邪気な態度が、葉子の内部的経験や苦悶くもんと少しも縁が続いていないで、二人ふたりの間には金輸際こんりんざい理解が成り立ち得ないと思うと、彼女は特別に毛色の変わった自分の境界きょうがいに、そっとうかがい寄ろうとする探偵たんていをこの青年に見いだすように思って、その五分刈ぶがりにした地蔵頭じぞうあたままでが顧みるにも足りない木のくずかなんぞのように見えた。

 やせた木部の小さな輝いた目は、依然として葉子を見つめていた。

 なぜ木部はかほどまで自分を侮辱するのだろう。彼は今でも自分を女とあなどっている。ちっぽけな才力を今でも頼んでいる。女よりも浅ましい熱情を鼻にかけて、今でも自分の運命に差し出がましく立ち入ろうとしている。あの自信のない臆病おくびょうな男に自分はさっきびを見せようとしたのだ。そして彼は自分がこれほどまで誇りを捨てて与えようとした特別の好意をまなじりかえして退けたのだ。

 やせた木部の小さな目は依然として葉子を見つめていた。

 この時突然けたたましい笑い声が、何か熱心に話し合っていた二人ふたりの中年の紳士の口から起こった。その笑い声と葉子となんの関係もない事は葉子にもわかりきっていた。しかし彼女はそれを聞くと、もう欲にも我慢がしきれなくなった。そして右の手を深々ふかぶかと帯の間にさし込んだまま立ち上がりざま、

「汽車に酔ったんでしょうかしらん、頭痛がするの」

 と捨てるように古藤にいい残して、いきなり繰り戸をあけてデッキに出た。

 だいぶ高くなった日の光がぱっと大森田圃おおもりたんぼに照り渡って、海が笑いながら光るのが、並み木の向こうに広すぎるくらい一どきに目にはいるので、軽い瞑眩めまいをさえ覚えるほどだった。鉄の手欄てすりにすがって振り向くと、古藤が続いて出て来たのを知った。その顔には心配そうな驚きの色があからさまに現われていた。

「ひどく痛むんですか」

「ええかなりひどく」

 と答えたがめんどうだと思って、

「いいからはいっていてください。おおげさに見えるといやですから……大丈夫あぶなかありませんとも……」

 といい足した。古藤はしいてとめようとはしなかった。そして、

「それじゃはいっているがほんとうにあぶのうござんすよ……用があったら呼んでくださいよ」

 とだけいって素直すなおにはいって行った。

「Simpleton!」

 葉子は心の中でこうつぶやくと、焼き捨てたように古藤の事なんぞは忘れてしまって、手欄てすりひじをついたまま放心して、晩夏の景色をつつむ引き締まった空気に顔をなぶらした。木部の事も思わない。緑やあいや黄色のほか、これといって輪郭のはっきりした自然の姿も目に映らない。ただ涼しい風がそよそよとびんの毛をそよがして通るのを快いと思っていた。汽車は目まぐるしいほどの快速力で走っていた。葉子の心はただ渾沌こんとんと暗く固まった物のまわりを飽きる事もなく幾度も幾度も左から右に、右から左に回っていた。こうして葉子にとっては長い時間が過ぎ去ったと思われるころ、突然頭の中を引っかきまわすような激しい音を立てて、汽車は六郷川ろくごうがわの鉄橋を渡り始めた。葉子は思わずぎょっとして夢からさめたように前を見ると、ばしの鉄材が蛛手くもでになって上を下へと飛びはねるので、葉子は思わずデッキのパンネルに身を退いて、両袖りょうそでで顔をおさえて物を念じるようにした。

 そうやって気を静めようと目をつぶっているうちに、まつ毛を通し袖を通して木部の顔とことにその輝く小さな両眼とがまざまざと想像に浮かび上がって来た。葉子の神経は磁石じしゃくに吸い寄せられた砂鉄のように、堅くこの一つの幻像の上に集注して、車内にあった時と同様な緊張した恐ろしい状態に返った。停車場に近づいた汽車はだんだんと歩度をゆるめていた。田圃たんぼのここかしこに、俗悪な色で塗り立てた大きな広告看板が連ねて建ててあった。葉子はそでを顔から放して、気持ちの悪い幻像を払いのけるように、一つ一つその看板を見迎え見送っていた。所々ところどころに火が燃えるようにその看板は目に映って木部の姿はまたおぼろになって行った。その看板の一つに、長い黒髪を下げた姫が経巻きょうかんを持っているのがあった。その胸に書かれた「中将湯ちゅうじょうとう」という文字を、なにげなしに一字ずつ読み下すと、彼女は突然私生児の定子の事を思い出した。そしてその父なる木部の姿は、かかる乱雑な連想の中心となって、またまざまざと焼きつくように現われ出た。

 その現われ出た木部の顔を、いわば心の中の目で見つめているうちに、だんだんとその鼻の下からひげが消えうせて行って、輝くひとみの色は優しい肉感的なあたたかみを持ち出して来た。汽車は徐々に進行をゆるめていた。やや荒れ始めた三十男の皮膚の光沢つやは、神経的な青年の蒼白あおじろい膚の色となって、黒く光ったやわらかいつむりの毛がきわ立って白い額をなでている。それさえがはっきり見え始めた。列車はすでに川崎かわさき停車場のプラットフォームにはいって来た。葉子の頭の中では、汽車が止まりきる前に仕事をしおおさねばならぬというふうに、今見たばかりの木部の姿がどんどん若やいで行った。そして列車が動かなくなった時、葉子はその人のかたわらにでもいるように恍惚うっとりとした顔つきで、思わず知らず左手を上げて──小指をやさしく折り曲げて──やわらかいびんおくをかき上げていた。これは葉子が人の注意をひこうとする時にはいつでもする姿態しなである。

 この時、繰り戸がけたたましくあいたと思うと、中から二三人の乗客がどやどやと現われ出て来た。

 しかもその最後から、涼しい色合いのインバネスを羽織はおった木部が続くのを感づいて、葉子の心臓は思わずはっと処女の血をったようにときめいた。木部が葉子の前まで来てすれすれにそのそばを通り抜けようとした時、二人ふたりの目はもう一度しみじみと出あった。木部の目は好意を込めた微笑にひたされて、葉子の出ようによっては、すぐにも物をいい出しそうに口びるさえ震えていた。葉子も今まで続けていた回想の惰力に引かされて、思わずほほえみかけたのであったが、その瞬間燕返つばめがえしに、見も知りもせぬ路傍の人に与えるような、冷刻な驕慢きょうまんな光をそのひとみから射出いだしたので、木部の微笑は哀れにも枝を離れた枯れ葉のように、二人の間をむなしくひらめいて消えてしまった。葉子は木部のあわてかたを見ると、車内で彼から受けた侮辱にかなり小気味よくむくい得たという誇りを感じて、胸の中がややすがすがしくなった。木部はやせたその右肩を癖のように怒らしながら、急ぎ足に濶歩かっぽして改札口の所に近づいたが、切符を懐中から出すために立ち止まった時、深い悲しみの色をまゆの間にみなぎらしながら、振り返ってじっと葉子の横顔に目を注いだ。葉子はそれを知りながらもとより侮蔑ぶべつ一瞥いちべつをも与えなかった。

 木部が改札口を出て姿が隠れようとした時、今度は葉子の目がじっとその後ろ姿をいかけた。木部が見えなくなった後も、葉子の視線はそこを離れようとはしなかった。そしてその目にはさびしく涙がたまっていた。

「また会う事があるだろうか」

 葉子はそぞろに不思議な悲哀を覚えながら心の中でそういっていたのだった。



 列車が川崎駅を発すると、葉子はまた手欄てすりによりかかりながら木部の事をいろいろと思いめぐらした。やや色づいた田圃たんぼの先に松並み木が見えて、そのあいだから低く海の光る、平凡な五十三次風つぎふうな景色が、電柱で句読くとうを打ちながら、空洞うつろのような葉子の目の前で閉じたり開いたりした。赤とんぼも飛びかわす時節で、その群れが、燧石ひうちいしから打ち出される火花のように、赤い印象を目の底に残して乱れあった。いつ見ても新開地じみて見える神奈川かながわを過ぎて、汽車が横浜の停車場に近づいたころには、八時を過ぎた太陽の光が、紅葉坂もみじざかの桜並み木を黄色く見せるほどに暑く照らしていた。

 煤煙ばいえんでまっ黒にすすけた煉瓦れんが壁の陰に汽車がまると、中からいちばん先に出て来たのは、右手にかのオリーヴ色の包み物を持った古藤だった。葉子はパラソルをつえに弱々しくデッキを降りて、古藤に助けられながら改札口を出たが、ゆるゆる歩いている間に乗客はさきを越してしまって、二人ふたりはいちばんあとになっていた。客を取りおくれた十四五人の停車場づきの車夫が、待合部屋まちあいべやの前にかたまりながら、やつれて見える葉子に目をつけて何かとうわさし合うのが二人の耳にもはいった。「むすめ」「らしゃめん」というような言葉さえそのはしたない言葉の中には交じっていた。開港場のがさつな卑しい調子は、すぐ葉子の神経にびりびりと感じて来た。

 何しろ葉子は早く落ち付く所を見つけ出したかった。古藤は停車場の前方の川添いにある休憩所まで走って行って見たが、帰って来るとぶりぶりして、駅夫あがりらしい茶店の主人は古藤の書生っぽ姿をいかにもばかにしたような断わりかたをしたといった。二人はしかたなくうるさく付きまつわる車夫を追い払いながら、潮の香の漂った濁った小さな運河を渡って、ある狭いきたない町の中ほどにある一軒の小さな旅人宿にはいって行った。横浜という所には似もつかぬような古風な外構そとがまえで、美濃紙みのがみのくすぶり返った置き行燈あんどんには太い筆つきで相模屋さがみやと書いてあった。葉子はなんとなくその行燈に興味をひかれてしまっていた。いたずら好きなその心は、嘉永かえいごろの浦賀うらがにでもあればありそうなこの旅籠屋はたごやに足を休めるのを恐ろしくおもしろく思った。店にしゃがんで、番頭と何か話しているあばずれたような女中までが目にとまった。そして葉子がていよく物を言おうとしていると、古藤がいきなり取りかまわない調子で、

「どこか静かな部屋へやに案内してください」

 と無愛想ぶあいそさきを越してしまった。

「へいへい、どうぞこちらへ」

 女中は二人をまじまじと見やりながら、客の前もかまわず、番頭と目を見合わせて、さげすんだらしい笑いをもらして案内に立った。

 ぎしぎしと板ぎしみのするまっ黒な狭い階子段はしごだんを上がって、西に突き当たった六畳ほどの狭い部屋へやに案内して、突っ立ったままで荒っぽく二人を不思議そうに女中は見比べるのだった。油じみた襟元えりもとを思い出させるような、西に出窓のある薄ぎたない部屋の中を女中をひっくるめてにらみ回しながら古藤は、

外部そとよりひどい……どこか他所よそにしましょうか」

 と葉子を見返った。葉子はそれには耳もかさずに、思慮深い貴女きじょのような物腰で女中のほうに向いていった。

隣室となりも明いていますか……そう。夜まではどこも明いている……そう。お前さんがここの世話をしておいで?……ならほか部屋へやもついでに見せておもらいしましょうかしらん」

 女中はもう葉子には軽蔑けいべつの色は見せなかった。そして心得顔こころえがおに次の部屋とのあいふすまをあけるあいだに、葉子は手早く大きな銀貨を紙に包んで、

「少しかげんが悪いし、またいろいろお世話になるだろうから」

 といいながら、それを女中に渡した。そしてずっと並んだ五つの部屋を一つ一つ見て回って、掛け軸、花びん、団扇うちわさし、小屏風こびょうぶ、机というようなものを、自分の好みに任せてあてがわれた部屋のとすっかり取りかえて、すみからすみまできれいに掃除そうじをさせた。そして古藤を正座にえて小ざっぱりした座ぶとんにすわると、にっこりほほえみながら、

「これなら半日ぐらい我慢ができましょう」

 といった。

「僕はどんな所でも平気なんですがね」

 古藤はこう答えて、葉子の微笑を追いながら安心したらしく、

「気分はもうなおりましたね」

 と付け加えた。

「えゝ」

 と葉子は何げなく微笑を続けようとしたが、その瞬間につと思い返してまゆをひそめた。葉子には仮病けびょうを続ける必要があったのをつい忘れようとしたのだった。それで、

「ですけれどもまだこんななんですの。こら動悸どうきが」

 といいながら、地味じみ風通ふうつう単衣物ひとえものの中にかくれたはなやかな襦袢じゅばんそでをひらめかして、右手を力なげに前に出した。そしてそれと同時に呼吸をぐっとつめて、心臓とおぼしいあたりにはげしく力をこめた。古藤はすき通るように白い手くびをしばらくなで回していたが、脈所みゃくどころに探りあてると急に驚いて目を見張った。

「どうしたんです、え、ひどく不規則じゃありませんか……痛むのは頭ばかりですか」

「いゝえ、おなかも痛みはじめたんですの」

「どんなふうに」

ぎゅっきりででももむように……よくこれがあるんで困ってしまうんですのよ」

 古藤は静かに葉子の手を離して、大きな目で深々ふかぶかと葉子をみつめた。

「医者を呼ばなくっても我慢ができますか」

 葉子は苦しげにほほえんで見せた。

「あなただったらきっとできないでしょうよ。……慣れっこですからこらえて見ますわ。その代わりあなた永田ながたさん……永田さん、ね、郵船会社の支店長の……あすこに行って船の切符の事を相談して来ていただけないでしょうか。御迷惑ですわね。それでもそんな事までお願いしちゃあ……ようござんす、わたし、車でそろそろ行きますから」

 古藤は、女というものはこれほどの健康の変調をよくもこうまで我慢をするものだというような顔をして、もちろん自分が行ってみるといい張った。

 実はその日、葉子は身のまわりの小道具や化粧品を調ととのえかたがた、米国行きの船の切符を買うために古藤を連れてここに来たのだった。葉子はそのころすでに米国にいるある若い学士と許嫁いいなずけの間柄になっていた。新橋で車夫が若奥様と呼んだのも、この事が出入りのものの間に公然と知れわたっていたからの事だった。

 それは葉子が私生子を設けてからしばらく後の事だった。ある冬の夜、葉子の母の親佐おやさが何かの用でその良人おっとの書斎に行こうと階子段はしごだんをのぼりかけると、上から小間使いがまっしぐらに駆けおりて来て、危うく親佐にぶっ突かろうとしてそのそばをすりぬけながら、何か意味のわからない事を早口にいって走り去った。その島田髷しまだまげや帯の乱れた後ろ姿が、嘲弄ちょうろうの言葉のように目を打つと、親佐は口びるをかみしめたが、足音だけはしとやか階子段はしごだんを上がって、いつもに似ず書斎の戸の前に立ち止まって、しわぶきを一つして、それから規則正しくをおいて三度戸をノックした。

 こういう事があってから五日いつかとたたぬうちに、葉子の家庭すなわち早月家さつきけは砂の上の塔のようにもろくもくずれてしまった。親佐はことに冷静な底気味わるい態度で夫婦の別居を主張した。そして日ごろの柔和に似ず、傷ついた牡牛おうしのように元どおりの生活を回復しようとひしめく良人おっとや、中にはいっていろいろ言いなそうとした親類たちの言葉を、きっぱりとしりぞけてしまって、良人を釘店くぎだなのだだっ広い住宅にたった一人ひとり残したまま、葉子ともに三人の娘を連れて、親佐は仙台せんだいに立ちのいてしまった。木部の友人たちが葉子の不人情を怒って、木部のとめるのもきかずに、社会から葬ってしまえとひしめいているのを葉子は聞き知っていたから、ふだんならば一も二もなく父をかばって母にたてをつくべきところを、素直すなおに母のするとおりになって、葉子は母と共に仙台にうずもれに行った。母は母で、自分の家庭から葉子のような娘の出た事を、できるだけ世間せけんに知られまいとした。女子教育とか、家庭の薫陶とかいう事をおりあるごとに口にしていた親佐は、その言葉に対して虚偽という利子を払わねばならなかった。一方をもみ消すためには一方にどんと火の手をあげる必要がある。早月母子さつきおやこが東京を去るとまもなく、ある新聞は早月さつきドクトルの女性に関するふしだらを書き立てて、それにつけての親佐の苦心と貞操とを吹聴ふいちょうしたついでに、親佐が東京を去るようになったのは、熱烈な信仰から来る義憤と、愛児を父の悪感化から救おうとする母らしい努力に基づくものだ。そのために彼女はキリスト教婦人同盟の副会長という顕要な位置さえ投げすてたのだと書き添えた。

 仙台における早月親佐はしばらくのあいだは深く沈黙を守っていたが、見る見る周囲に人を集めて華々はなばなしく活動をし始めた。その客間は若い信者や、慈善家や、芸術家たちのサロンとなって、そこからリバイバルや、慈善いちや、音楽会というようなものが形を取って生まれ出た。ことに親佐が仙台支部長として働き出したキリスト教婦人同盟の運動は、その当時野火のびのような勢いで全国に広がり始めた赤十字社の勢力にもおさおさ劣らない程の盛況を呈した。知事令夫人も、名だたる素封家そほうかの奥さんたちもその集会には列席した。そして三か年の月日は早月親佐を仙台には無くてはならぬ名物の一つにしてしまった。性質が母親とどこか似すぎているためか、似たように見えて一調子違っているためか、それとも自分を慎むためであったか、はたの人にはわからなかったが、とにかく葉子はそんなはなやかな雰囲気ふんいきに包まれながら、不思議なほど沈黙を守って、ろくろく晴れの座などには姿を現わさないでいた。それにもかかわらず親佐の客間に吸い寄せられる若い人々の多数は葉子に吸い寄せられているのだった。葉子の控え目なしおらしい様子がいやが上にも人のうわさを引くたねとなって、葉子という名は、多才で、情緒のこまやかな、美しい薄命児をだれにでも思い起こさせた。彼女の立ちすぐれた眉目形みめかたち花柳かりゅうの人たちさえうらやましがらせた。そしていろいろな風聞が、清教徒風に質素な早月の佗住居わびずまいの周囲をかすみのように取り巻き始めた。

 突然小さな仙台市は雷にでも打たれたようにある朝の新聞記事に注意を向けた。それはその新聞の商売がたきであるる新聞の社主であり主筆である某が、親佐と葉子との二人ふたりに同時に慇懃いんぎんを通じているという、全紙にわたった不倫きわまる記事だった。だれも意外なような顔をしながら心の中ではそれを信じようとした。

 この日髪の毛の濃い、口の大きい、色白な一人ひとりの青年を乗せた人力車じんりきしゃが、仙台の町中をせわしく駆け回ったのを注意した人はおそらくなかったろうが、その青年は名を木村きむらといって、日ごろから快活な活動好きな人として知られた男で、その熱心な奔走の結果、翌日の新聞紙の広告欄には、二段抜きで、知事令夫人以下十四五名の貴婦人の連名で早月親佐さつきおやさ冤罪えんざいすすがれる事になった。この稀有けうおおげさな広告がまた小さな仙台の市中をどよめき渡らした。しかし木村の熱心も口弁も葉子の名を広告の中に入れる事はできなかった。

 こんな騒ぎが持ち上がってから早月親佐の仙台における今までの声望は急に無くなってしまった。そのころちょうど東京に居残っていた早月が病気にかかって薬に親しむ身となったので、それをしおに親佐は子供を連れて仙台を切り上げる事になった。

 木村はその後すぐ早月母子おやこを追って東京に出て来た。そして毎日入りびたるように早月家に出入りして、ことに親佐の気に入るようになった。親佐が病気になって危篤に陥った時、木村は一生の願いとして葉子との結婚を申し出た。親佐はやはり母だった。死期を前に控えて、いちばん気にせずにいられないものは、葉子の将来だった。木村ならばあのわがままな、男を男とも思わぬ葉子に仕えるようにして行く事ができると思った。そしてキリスト教婦人同盟の会長をしている五十川いそがわ女史に後事を託して死んだ。この五十川女史のまあまあというような不思議なあいまいな切り盛りで、木村は、どこか不確実ではあるが、ともかく葉子を妻としうる保障を握ったのだった。



 郵船会社の永田は夕方でなければ会社から退けまいというので、葉子は宿屋に西洋物店のものを呼んで、必要な買い物をする事になった。古藤はそんならそこらをほッつき歩いて来るといって、例の麦稈むぎわら帽子を帽子掛けから取って立ち上がった。葉子は思い出したように肩越しに振り返って、

「あなたさっきパラソルは骨が五本のがいいとおっしゃってね」

 といった。古藤は冷淡な調子で、

「そういったようでしたね」

 と答えながら、何か他の事でも考えているらしかった。

「まあそんなにとぼけて……なぜ五本のがお好き?」

「僕が好きというんじゃないけれども、あなたはなんでも人と違ったものが好きなんだと思ったんですよ」

「どこまでも人をおからかいなさる……ひどい事……行っていらっしゃいまし」

 と情を迎えるようにいって向き直ってしまった。古藤が縁側に出るとまた突然呼びとめた。障子しょうじはっきり立ち姿をうつしたまま、

「なんです」

 といって古藤は立ちもどる様子がなかった。葉子はいたずら者らしい笑いを口のあたりに浮かべていた。

「あなたは木村と学校が同じでいらしったのね」

「そうですよ、級は木村の……木村君のほうが二つも上でしたがね」

「あなたはあの人をどうお思いになって」

 まるで少女のような無邪気な調子だった。古藤はほほえんだらしい語気で、

「そんな事はもうあなたのほうがくわしいはずじゃありませんか……しんのいい活動家ですよ」

「あなたは?」

 葉子はぽん高飛車たかびしゃに出た。そしてにやりとしながらがっくりと顔を上向きにはねて、床の間の一蝶いっちょうのひどいまがものを見やっていた。古藤がとっさの返事に窮して、少しむっとした様子で答え渋っているのを見て取ると、葉子は今度は声の調子を落として、いかにもたよりないというふうに、

「日盛りは暑いからどこぞでお休みなさいましね。……なるたけ早く帰って来てくださいまし。もしかして、病気でも悪くなると、こんな所で心細うござんすから……よくって」

 古藤は何か平凡な返事をして、縁板を踏みならしながら出て行ってしまった。

 朝のうちだけからっと破ったように晴れ渡っていた空は、午後から曇り始めて、まっ白な雲が太陽の面をなでて通るたびごとに暑気は薄れて、空いちめんが灰色にかき曇るころには、膚寒く思うほどに初秋の気候は激変していた。時雨しぐれらしく照ったり降ったりしていた雨のあしも、やがてじめじめと降り続いて、煮しめたようなきたない部屋へやの中は、ことさら湿しとりが強く来るように思えた。葉子は居留地のほうにある外国人相手の洋服屋や小間物屋などを呼び寄せて、思いきったぜいたくな買い物をした。買い物をして見ると葉子は自分の財布さいふのすぐ貧しくなって行くのをおそれないではいられなかった。葉子の父は日本橋ではひとかどの門戸もんこを張った医師で、収入も相当にはあったけれども、理財の道に全く暗いのと、妻の親佐おやさが婦人同盟の事業にばかり奔走していて、その並み並みならぬ才能を、少しも家の事に用いなかったため、その死後には借金こそ残れ、遺産といってはあわれなほどしかなかった。葉子は二人ふたりの妹をかかえながらこの苦しい境遇を切り抜けて来た。それは葉子であればこそしおおせて来たようなものだった。だれにも貧乏らしいけしきは露ほども見せないでいながら、葉子は始終貨幣一枚一枚の重さを計って支払いするような注意をしていた。それだのに目の前に異国情調の豊かな贅沢品ぜいたくひんを見ると、彼女の貪欲どんよくは甘いものを見た子供のようになって、前後も忘れて懐中にありったけの買い物をしてしまったのだ。使いをやって正金しょうきん銀行で換えた金貨は今鋳出いだされたような光を放って懐中の底にころがっていたが、それをどうする事もできなかった。葉子の心は急に暗くなった。戸外の天気もその心持ちに合槌あいづちを打つように見えた。古藤はうまく永田から切符をもらう事ができるだろうか。葉子自身が行き得ないほど葉子に対して反感を持っている永田が、あの単純なタクトのない古藤をどんなふうに扱ったろう。永田の口から古藤はいろいろな葉子の過去を聞かされはしなかったろうか。そんな事を思うと葉子は悒鬱ゆううつが生み出す反抗的な気分になって、湯をわかさせて入浴し、寝床をしかせ、最上等の三鞭酒シャンペンを取りよせて、したたかそれを飲むと前後も知らず眠ってしまった。

 夜になったら泊まり客があるかもしれないと女中のいった五つの部屋へやはやはりからのままで、日がとっぷりと暮れてしまった。女中がランプを持って来た物音に葉子はようやく目をさまして、仰向いたまま、すすけた天井に描かれたランプの丸い光輪をぼんやりとながめていた。

 その時じたッじたッとぬれた足で階子段はしごだんをのぼって来る古藤の足音が聞こえた。古藤は何かに腹を立てているらしい足どりでずかずかと縁側を伝って来たが、ふと立ち止まると大きな声で帳場ちょうばのほうにどなった。

「早く雨戸をしめないか……病人がいるんじゃないか。……」

「この寒いのになんだってあなたも言いつけないんです」

 今度はこう葉子にいいながら、建て付けの悪い障子をあけていきなり中にはいろうとしたが、その瞬間にはっと驚いたような顔をして立ちすくんでしまった。

 香水や、化粧品や、酒の香をごっちゃにした暖かいいきれがいきなり古藤に迫ったらしかった。ランプがほの暗いので、部屋のすみずみまでは見えないが、光の照り渡る限りは、雑多に置きならべられたなまめかしい女の服地や、帽子や、造花や、鳥の羽根や、小道具などで、足の踏みたて場もないまでになっていた。その一方に床の間を背にして、郡内ぐんないのふとんの上に掻巻かいまきをわきの下から羽織った、今起きかえったばかりの葉子が、はでな長襦袢ながじゅばん一つで東ヨーロッパの嬪宮ひんきゅうの人のように、片臂かたひじをついたまま横になっていた。そして入浴と酒とでほんのりほてった顔を仰向けて、大きな目を夢のように見開いてじっと古藤を見た。そのまくらもとには三鞭酒シャンペンのびんが本式に氷の中につけてあって、飲みさしのコップや、華奢きゃしゃな紙入れや、かのオリーヴ色の包み物を、しごきの赤が火のくちなわのように取り巻いて、その端が指輪の二つはまった大理石のような葉子の手にもてあそばれていた。

「おおそうござんした事。お待たされなすったんでしょう。……さ、おはいりなさいまし。そんなもの足ででもどけてちょうだい、散らかしちまって」

 この音楽のようなすべすべした調子の声を聞くと、古藤は始めて illusion から目ざめたふうではいって来た。葉子は左手を二の腕がのぞき出るまでずっと延ばして、そこにあるものを一払ひとはらいに払いのけると、花壇の土を掘り起こしたようにきたない畳が半畳ばかり現われ出た。古藤は自分の帽子を部屋のすみにぶちなげて置いて、払い残された細形ほそがたの金鎖を片づけると、どっかとあぐらをかいて正面から葉子を見すえながら、

「行って来ました。船の切符もたしかに受け取って来ました」

 といってふところの中を探りにかかった。葉子はちょっと改まって、

「ほんとにありがとうございました」

 と頭を下げたが、たちまち roughish な目つきをして、

「まあそんな事はいずれあとで、ね、……何しろお寒かったでしょう、さ」

 といいながら飲み残りの酒を盆の上に無造作に捨てて、二三度左手をふってしずくを切ってから、コップを古藤にさしつけた。古藤の目は何かに激昂げきこうしているように輝いていた。

「僕は飲みません」

「おやなぜ」

「飲みたくないから飲まないんです」

 このかどばった返答は男を手もなくあやし慣れている葉子にも意外だった。それでそのあとの言葉をどう継ごうかと、ちょっとためらって古藤の顔を見やっていると、古藤はたたみかけて口をきった。

「永田ってのはあれはあなたの知人ですか。思いきって尊大な人間ですね。君のような人間から金を受け取る理由はないが、とにかくあずかって置いて、いずれ直接あなたに手紙でいってあげるから、早く帰れっていうんです、頭から。失敬なやつだ」

 葉子はこの言葉に乗じて気まずい心持ちを変えようと思った。そしてまっしぐらに何かいい出そうとすると、古藤はおっかぶせるように言葉を続けて、

「あなたはいったいまだ腹が痛むんですか」

 ときっぱりいって堅くすわり直した。しかしその時に葉子の陣立てはすでにでき上がっていた。初めのほほえみをそのままに、

「えゝ、少しはよくなりましてよ」

 といった。古藤は短兵急たんぺいきゅうに、

「それにしてもなかなか元気ですね」

 とたたみかけた。

「それはお薬にこれを少しいただいたからでしょうよ」

 と三鞭酒シャンペンを指さした。

 正面からはね返された古藤は黙ってしまった。しかし葉子も勢いに乗って追い迫るような事はしなかった。矢頃やごろを計ってから語気をかえてずっ下手したでになって、

「妙にお思いになったでしょうね。わるうございましてね。こんな所に来ていて、お酒なんか飲むのはほんとうに悪いと思ったんですけれども、気分がふさいで来ると、わたしにはこれよりほかにお薬はないんですもの。さっきのように苦しくなって来ると私はいつでも湯を熱めにしてはいってから、お酒を飲み過ぎるくらい飲んで寝るんですの。そうすると」

 といって、ちょっといいよどんで見せて、

「十分か二十分ぐっすり寝入るんですのよ……痛みも何も忘れてしまっていい心持ちに……。それから急に頭がかっと痛んで来ますの。そしてそれと一緒に気がめいり出して、もうもうどうしていいかわからなくなって、子供のように泣きつづけると、そのうちにまた眠たくなって一寝入りしますのよ。そうするとそのあとはいくらかさっぱりするんです。……父や母が死んでしまってから、頼みもしないのに親類たちからよけいな世話をやかれたり、他人力ひとぢからなんぞをあてにせずに妹二人ふたりを育てて行かなければならないと思ったりすると、わたしのような、他人様ひとさまと違って風変ふうがわりな、……そら、五本の骨でしょう」

 とさびしく笑った。

「それですものどうぞ堪忍かんにんしてちょうだい。思いきり泣きたい時でも知らん顔をして笑って通していると、こんなわたしみたいな気まぐれ者になるんです。気まぐれでもしなければ生きて行けなくなるんです。男のかたにはこの心持ちはおわかりにはならないかもしれないけれども」

 こういってるうちに葉子は、ふと木部との恋がはかなく破れた時の、われにもなく身にしみ渡るさびしみや、死ぬまで日陰者であらねばならぬ私生子の定子の事や、計らずもきょうまのあたり見た木部の、しんからやつれた面影などを思い起こした。そしてさらに、母の死んだ夜、日ごろは見向きもしなかった親類たちが寄り集まって来て、早月家さつきけには毛の末ほども同情のない心で、早月家の善後策について、さも重大らしく勝手気ままな事を親切ごかしにしゃべり散らすのを聞かされた時、どうにでもなれという気になって、あばれ抜いた事が、自分にさえ悲しい思い出となって、葉子の頭の中を矢のように早くひらめき通った。葉子の顔には人に譲ってはいない自信の色が現われ始めた。

「母の初七日しょなぬかの時もね、わたしはたて続けにビールを何杯飲みましたろう。なんでもびんがそこいらにごろごろころがりました。そしてしまいには何がなんだか夢中になって、宅に出入りするお医者さんのひざまくらに、泣き寝入りに寝入って、夜中よなかをあなた二時間のも寝続けてしまいましたわ。親類の人たちはそれを見ると一人帰り二人帰りして、相談も何もめちゃくちゃになったんですって。母の写真を前に置いといて、わたしはそんな事までする人間ですの。おあきれになったでしょうね。いやなやつでしょう。あなたのような方から御覧になったら、さぞいやな気がなさいましょうねえ」

「えゝ」

 と古藤は目も動かさずにぶっきらぼうに答えた。

「それでもあなた」

 と葉子はせつなさそうに半ば起き上がって、

外面うわつらだけで人のする事をなんとかおっしゃるのは少し残酷ですわ。……いゝえね」

 と古藤の何かいい出そうとするのをさえぎって、今度はきっとすわり直った。

「わたしは泣きごとをいって他人様ひとさまにも泣いていただこうなんて、そんな事はこれんばかりも思やしませんとも……なるならどこかに大砲おおづつのような大きな力の強い人がいて、その人が真剣におこって、葉子のような人非人にんぴにんはこうしてやるぞといって、わたしを押えつけて心臓でも頭でもくだけて飛んでしまうほど折檻せっかんをしてくれたらと思うんですの。どの人もどの人もちゃんと自分を忘れないで、いいかげんにおこったり、いいかげんに泣いたりしているんですからねえ。なんだってこう生温なまぬるいんでしょう。

 義一ぎいちさん(葉子が古藤をこう名で呼んだのはこの時が始めてだった)あなたがけさ、しんの正直ななんとかだとおっしゃった木村に縁づくようになったのも、その晩の事です。五十川いそがわが親類じゅうに賛成さして、晴れがましくもわたしをみんなの前に引き出しておいて、罪人にでもいうように宣告してしまったのです。わたしが一口でもいおうとすれば、五十川のいうには母の遺言ですって。死人に口なし。ほんとに木村はあなたがおっしゃったような人間ね。仙台であんな事があったでしょう。あの時知事の奥さんはじめ母のほうはなんとかしようが娘のほうは保証ができないとおっしゃったんですとさ」

 いい知らぬ侮蔑ぶべつの色が葉子の顔にみなぎった。

「ところが木村は自分の考えを押し通しもしないで、おめおめと新聞には母だけの名を出してあの広告をしたんですの。

 母だけがいい人になればだれだってわたしを……そうでしょう。そのあげくに木村はしゃあしゃあとわたしを妻にしたいんですって、義一さん、男ってそれでいいものなんですか。まあね物のたとえがですわ。それとも言葉ではなんといってもむだだから、実行的にわたしの潔白を立ててやろうとでもいうんでしょうか」

 そういって激昂げきこうしきった葉子はかみ捨てるようにかんだかほゝと笑った。

「いったいわたしはちょっとした事で好ききらいのできる悪いたちなんですからね。といってわたしはあなたのような一本でもありませんのよ。

 母の遺言だから木村と夫婦になれ。早く身を堅めて地道じみちに暮らさなければ母の名誉をけがす事になる。妹だって裸でお嫁入りもできまいといわれれば、わたし立派りっぱに木村の妻になって御覧にいれます。その代わり木村が少しつらいだけ。

 こんな事をあなたの前でいってはさぞ気を悪くなさるでしょうが、真直まっすぐなあなただと思いますから、わたしもその気で何もかも打ち明けて申してしまいますのよ。わたしの性質や境遇はよく御存じですわね。こんな性質でこんな境遇にいるわたしがこう考えるのにもし間違いがあったら、どうか遠慮なくおっしゃってください。

 あゝいやだった事。義一さん、わたしこんな事はおくびにも出さずに今の今までしっかり胸にしまって我慢していたのですけれども、きょうはどうしたんでしょう、なんだか遠い旅にでも出たようなさびしい気になってしまって……」

 弓弦ゆづるを切って放したように言葉を消して葉子はうつむいてしまった。日はいつのまにかとっぷりと暮れていた。じめじめと降り続く秋雨に湿しとった夜風が細々とかよって来て、湿気でたるんだ障子紙をそっとあおって通った。古藤は葉子の顔を見るのを避けるように、そこらに散らばった服地や帽子などをながめ回して、なんと返答をしていいのか、いうべき事は腹にあるけれども言葉には現わせないふうだった。部屋へや息気いき苦しいほどしんとなった。

 葉子は自分の言葉から、その時のありさまから、妙にやる瀬ないさびしい気分になっていた。強い男の手で思い存分両肩でも抱きすくめてほしいようなたよりなさを感じた。そして横腹に深々と手をやって、さし込む痛みをこらえるらしい姿をしていた。古藤はややしばらくしてから何か決心したらしくまともに葉子を見ようとしたが、葉子のせつなさそうな哀れな様子を見ると、驚いた顔つきをしてわれ知らず葉子のほうにいざり寄った。葉子はすかさずひょうのようになめらかに身を起こしていち早くもしっかり古藤のさし出す手を握っていた。そして、

「義一さん」

 と震えを帯びていった声は存分に涙にぬれているように響いた。古藤は声をわななかして、

「木村はそんな人間じゃありませんよ」

 とだけいって黙ってしまった。

 だめだったと葉子はその途端に思った。葉子の心持ちと古藤の心持ちとはちぐはぐになっているのだ。なんという響きの悪い心だろうと葉子はそれをさげすんだ。しかし様子にはそんな心持ちは少しも見せないで、頭から肩へかけてのなよやかな線を風の前のてっせんつるのように震わせながら、二三度深々とうなずいて見せた。

 しばらくしてから葉子は顔を上げたが、涙は少しも目にたまってはいなかった。そしていとしい弟でもいたわるようにふとんから立ち上がりざま、

「すみませんでした事、義一さん、あなた御飯はまだでしたのね」

 といいながら、腹の痛むのをこらえるような姿で古藤の前を通りぬけた。湯でほんのりと赤らんだ素足に古藤の目が鋭くちらっと宿ったのを感じながら、障子を細目にあけて手をならした。

 葉子はその晩不思議に悪魔じみた誘惑を古藤に感じた。童貞で無経験で恋の戯れにはなんのおもしろみもなさそうな古藤、木村に対してといわず、友だちに対して堅苦しい義務観念の強い古藤、そういう男に対して葉子は今までなんの興味をも感じなかったばかりか、働きのない没情漢わからずやと見限って、口先ばかりで人間並みのあしらいをしていたのだ。しかしその晩葉子はこの少年のような心を持って肉の熟した古藤に罪を犯させて見たくってたまらなくなった。一夜のうちに木村とは顔も合わせる事のできない人間にして見たくってたまらなくなった。古藤の童貞を破る手を他の女に任せるのがねたましくてたまらなくなった。幾枚も皮をかぶった古藤の心のどん底に隠れている欲念を葉子の蠱惑力チャームで掘り起こして見たくってたまらなくなった。

 気取けどられない範囲で葉子があらん限りのなぞを与えたにもかかわらず、古藤が堅くなってしまってそれに応ずるけしきのないのを見ると葉子はますますいらだった。そしてその晩は腹が痛んでどうしても東京に帰れないから、いやでも横浜に宿とまってくれといい出した。しかし古藤はがんとしてきかなかった。そして自分で出かけて行って、しなもあろう事かまっ毛布もうふを一枚買って帰って来た。葉子はとうとうを折って最終列車で東京に帰る事にした。

 一等の客車には二人ふたりのほかに乗客はなかった。葉子はふとした出来心から古藤をおとしいれようとした目論見もくろみに失敗して、自分の征服力に対するかすかな失望と、存分の不快とを感じていた。客車の中ではまたいろいろと話そうといって置きながら、汽車が動き出すとすぐ、古藤のひざのそばで毛布にくるまったまま新橋まで寝通してしまった。

 新橋に着いてから古藤が船の切符を葉子に渡して人力車を二台やとって、その一つに乗ると、葉子はそれにかけよって懐中から取り出した紙入れを古藤の膝にほうり出して、左のびんをやさしくかき上げながら、

「きょうのお立て替えをどうぞその中から……あすはきっといらしってくださいましね……お待ち申しますことよ……さようなら」

 といって自分ももう一つの車に乗った。葉子の紙入れの中には正金銀行から受け取った五十円金貨八枚がはいっている。そして葉子は古藤がそれをくずして立て替えを取る気づかいのないのを承知していた。



 葉子が米国に出発する九月二十五日はあすに迫った。二百二十日の荒れそこねたその年の天気は、いつまでたっても定まらないで、気違い日和びよりともいうべき照り降りの乱雑な空あいが続き通していた。

 葉子はその朝暗いうちに床を離れて、蔵の陰になつた自分の小部屋こべやにはいって、前々から片づけかけていた衣類の始末をし始めた。模様やしま派手はでなのは片端からほどいて丸めて、次の妹の愛子にやるようにと片すみに重ねたが、その中には十三になる末の妹の貞世さだよに着せても似合わしそうな大柄おおがらなものもあった。葉子は手早くそれをえり分けて見た。そして今度は船に持ち込む四季の晴れ着を、床の間の前にあるまっ黒に古ぼけたトランクの所まで持って行って、ふたをあけようとしたが、ふとそのふたのまん中に書いてあるY・Kという白文字を見てせわしく手を控えた。これはきのう古藤が油絵の具と画筆とを持って来て書いてくれたので、かわききらないテレビンの香がまだかすかに残っていた。古藤は、葉子・早月の頭文字かしらもじY・Sと書いてくれと折り入って葉子の頼んだのを笑いながら退けて、葉子・木村の頭文字Y・Kと書く前に、S・Kとある字をナイフの先で丁寧に削ったのだった。S・Kとは木村貞一のイニシャルで、そのトランクは木村の父が欧米を漫遊した時使ったものなのだ。その古い色を見ると、木村の父のふとぱらな鋭い性格と、波瀾はらんの多い生涯しょうがい極印ごくいんがすわっているように見えた。木村はそれを葉子の用にと残して行ったのだった。木村の面影はふと葉子の頭の中を抜けて通った。空想で木村を描く事は、木村と顔を見合わす時ほどのいとわしい思いを葉子に起こさせなかった。黒い髪の毛をぴったりときれいに分けて、かしい中高なかだか細面ほそおもてに、健康らしいばら色を帯びた容貌ようぼうや、甘すぎるくらい人情におぼれやすい殉情的な性格は、葉子に一種のなつかしさをさえ感ぜしめた。しかし実際顔と顔とを向かい合わせると、二人ふたりは妙に会話さえはずまなくなるのだった。そのかしいのがいやだった。柔和なのが気にさわった。殉情的なくせに恐ろしく勘定高いのがたまらなかった。青年らしく土俵ぎわまで踏み込んで事業を楽しむという父に似た性格さえこましゃくれて見えた。ことに東京生まれといってもいいくらい都慣れた言葉や身のこなしの間に、ふと東北の郷土のにおいをかぎ出した時にはかんで捨てたいような反感に襲われた。葉子の心は今、おぼろげな回想から、実際ひざつき合わせた時にいやだと思った印象に移って行った。そして手に持った晴れ着をトランクに入れるのを控えてしまった。長くなり始めた夜もそのころにはようやくしらみ始めて、蝋燭ろうそくの黄色いほのおが光の亡骸なきがらのように、ゆるぎもせずにともっていた。夜のあいだ静まっていた西風が思い出したように障子にぶつかって、釘店くぎだなの狭い通りを、河岸かしで仕出しをした若い者が、大きな掛け声でがらがらと車をひきながら通るのが聞こえ出した。葉子はきょう一日に目まぐるしいほどあるたくさんの用事をちょっと胸の中で数えて見て、大急ぎでそこらを片づけて、錠をおろすものには錠をおろし切って、雨戸を一枚繰って、そこからさし込む光で大きな手文庫からぎっしりつまった男文字の手紙を引き出すと風呂敷ふろしきに包み込んだ。そしてそれをかかえて、手燭てしょくを吹き消しながら部屋へやを出ようとすると、廊下に叔母おばが突っ立っていた。

「もう起きたんですね……片づいたかい」

 と挨拶あいさつしてまだ何かいいたそうであった。両親を失ってからこの叔母夫婦と、六歳になる白痴の一人息子ひとりむすことが移って来て同居する事になったのだ。葉子の母が、どこか重々しくってしい風采ふうさいをしていたのに引きかえ、叔母は髪の毛の薄い、どこまでも貧相に見える女だった。葉子の目はそのおびしろはだかな、肉の薄い胸のあたりをちらっとかすめた。

「おやお早うございます……あらかた片づきました」

 といってそのまま二階に行こうとすると、叔母はつめにいっぱいあかのたまった両手をもやもやと胸の所でふりながら、さえぎるように立ちはだかって、

「あのお前さんが片づける時にと思っていたんだがね。あすのお見送りに私は着て行くものが無いんだよ。おかあさんのものでに合うのは無いだろうかしらん。あすだけ借りればあとはちゃんと始末をして置くんだからちょっと見ておくれでないか」

 葉子はまたかと思った。働きのない良人おっとに連れ添って、十五年のあいだ丸帯一つ買ってもらえなかった叔母の訓練のない弱い性格が、こうさもしくなるのをあわれまないでもなかったが、物怯ものおじしながら、それでいて、欲にかかるとずうずうしい、人のすきばかりつけねらう仕打ちを見ると、虫唾むしずが走るほど憎かった。しかしこんな思いをするのもきょうだけだと思って部屋の中に案内した。叔母は空々そらぞらしく気の毒だとかすまないとかいい続けながら錠をおろした箪笥たんすを一々あけさせて、いろいろと勝手に好みをいった末に、りゅうとした一揃ひとそろえを借る事にして、それから葉子の衣類までをとやかくいいながら去りがてにいじくり回した。台所からは、みそしるにおいがして、白痴の子がだらしなく泣き続ける声と、叔父おじが叔母を呼び立てる声とが、すがすがしい朝の空気を濁すように聞こえて来た。葉子は叔母にいいかげんな返事をしながらその声に耳を傾けていた。そして早月家の最後の離散という事をしみじみと感じたのであった。電話はある銀行の重役をしている親類がいいかげんな口実こうじつを作ってただ持って行ってしまった。父の書斎道具や骨董品こっとうひんは蔵書と一緒に糶売せりうりをされたが、売り上げ代はとうとう葉子の手にははいらなかった。住居すまいは住居で、葉子の洋行後には、両親の死後何かに尽力したという親類の某が、二束三文にそくさんもんで譲り受ける事に親族会議で決まってしまった。少しばかりある株券と地所じしょとは愛子と貞世さだよとの教育費にあてる名儀で某々が保管する事になった。そんな勝手放題なまねをされるのを葉子は見向きもしないで黙っていた。もし葉子が素直すなおな女だったら、かえって食い残しというほどの遺産はあてがわれていたに違いない。しかし親族会議では葉子を手におえない女だとして、他所よそに嫁入って行くのをいい事に、遺産の事にはいっさい関係させない相談をしたくらいは葉子はとうに感づいていた。自分の財産となればなるべきものを一部分だけあてがわれて、黙って引っ込んでいる葉子ではなかった。それかといって長女ではあるが、女の身として全財産に対する要求をする事の無益なのも知っていた。で「犬にやるつもりでいよう」とほぞを堅めてかかったのだった。今、あとに残ったものは何がある。切り回しよく見かけを派手はでにしている割合に、不足がちな三人の姉妹の衣類諸道具が少しばかりあるだけだ。それを叔母は容赦もなくそこまで切り込んで来ているのだ。白紙のようなはかない寂しさと、「裸になるならきれいさっぱり裸になって見せよう」という火のような反抗心とが、むちゃくちゃに葉子の胸を冷やしたり焼いたりした。葉子はこんな心持ちになって、先ほどの手紙の包みをかかえて立ち上がりながら、うつむいて手ざわりのいい絹物をなで回している叔母を見おろした。

「それじゃわたしまだほかに用がありますししますから錠をおろさずにおきますよ。ごゆっくり御覧なさいまし。そこにかためてあるのはわたしが持って行くんですし、ここにあるのは愛と貞にやるのですから別になすっておいてください」

 といい捨てて、ずんずん部屋へやを出た。往来には砂ほこりが立つらしく風が吹き始めていた。

 二階に上がって見ると、父の書斎であった十六畳の隣の六畳に、愛子と貞世とが抱き合って眠っていた。葉子は自分の寝床を手早くたたみながら愛子を呼び起こした。愛子は驚いたように大きな美しい目を開くと半分夢中で飛び起きた。葉子はいきなり厳重な調子で、

「あなたはあすからわたしの代わりをしないじゃならないんですよ。朝寝坊なんぞしていてどうするの。あなたがぐずぐずしていると貞ちゃんがかわいそうですよ。早く身じまいをして下のお掃除そうじでもなさいまし」

 とにらみつけた。愛子は羊のように柔和な目をまばゆそうにして、姉をぬすみ見ながら、着物を着かえて下に降りて行った。葉子はなんとなくしょうの合わないこの妹が、階子段はしごだんを降りきったのを聞きすまして、そっと貞世のほうに近づいた。おもざしの葉子によく似た十三の少女は、汗じみた顔には下げ髪がねばり付いて、ほおは熱でもあるように上気している。それを見ると葉子は骨肉こつにくのいとしさに思わずほほえませられて、その寝床にいざり寄って、その童女をがいに軽く抱きすくめた。そしてしみじみとその寝顔にながめ入った。貞世の軽い呼吸は軽く葉子の胸に伝わって来た。その呼吸が一つ伝わるたびに、葉子の心は妙にめいって行った。同じはらを借りてこの世に生まれ出た二人ふたりの胸には、ひたと共鳴する不思議な響きが潜んでいた。葉子は吸い取られるようにその響きに心を集めていたが、果ては寂しい、ただ寂しい涙がほろほろととめどなく流れ出るのだった。

 一家の離散を知らぬ顔で、女の身そらをただひとり米国の果てまでさすらって行くのを葉子は格別なんとも思っていなかった。振り分け髪の時分から、飽くまで意地いじの強い目はしのきく性質を思うままに増長さして、ぐんぐんと世の中をわき目もふらず押し通して二十五になった今、こんな時にふと過去を振り返って見ると、いつのまにかあたりまえの女の生活をすりぬけて、たった一人ひとり見も知らぬ野ずえに立っているような思いをせずにはいられなかった。女学校や音楽学校で、葉子の強い個性に引きつけられて、理想の人ででもあるように近寄って来た少女たちは、葉子におどおどしい同性の恋をささげながら、葉子に inspire されて、われ知らず大胆な奔放な振る舞いをするようになった。そのころ「国民文学」や「文学界」に旗挙はたあげをして、新しい思想運動を興そうとした血気なロマンティックな青年たちに、歌の心を授けた女の多くは、おおかた葉子から血脈を引いた少女らであった。倫理学者や、教育家や、家庭の主権者などもそのころから猜疑さいぎの目を見張って少女国を監視し出した。葉子の多感な心は、自分でも知らない革命的ともいうべき衝動のためにあてもなくゆるぎ始めた。葉子は他人を笑いながら、そして自分をさげすみながら、まっ暗な大きな力に引きずられて、不思議な道に自覚なく迷い入って、しまいにはまっしぐらに走り出した。だれも葉子の行く道のしるべをする人もなく、他の正しい道を教えてくれる人もなかった。たまたま大きな声で呼び留める人があるかと思えば、裏表うらおもての見えすいたぺてんにかけて、昔のままの女であらせようとするものばかりだった。葉子はそのころからどこか外国に生まれていればよかったと思うようになった。あの自由らしく見える女の生活、男と立ち並んで自分を立てて行く事のできる女の生活……古い良心が自分の心をさいなむたびに、葉子は外国人の良心というものを見たく思った。葉子は心の奥底でひそかに芸者げいしゃをうらやみもした。日本で女が女らしく生きているのは芸者だけではないかとさえ思った。こんな心持ちで年を取って行くあいだに葉子はもちろんなんどもつまずいてころんだ。そしてひとりでひざちりを払わなければならなかった。こんな生活を続けて二十五になった今、ふと今まで歩いて来た道を振り返って見ると、いっしょに葉子と走っていた少女たちは、とうの昔に尋常な女になり済ましていて、小さく見えるほど遠くのほうから、あわれむようなさげすむような顔つきをして、葉子の姿をながめていた。葉子はもと来た道に引き返す事はもうできなかった。できたところで引き返そうとする気はみじんもなかった。「勝手にするがいい」そう思って葉子はまたわけもなく不思議な暗い力に引っぱられた。こういうはめになった今、米国にいようが日本にいようが少しばかりの財産があろうが無かろうが、そんな事は些細ささいな話だった。境遇でも変わったら何か起こるかもしれない。元のままかもしれない。勝手になれ。葉子を心の底から動かしそうなものは一つも身近みぢかには見当たらなかった。

 しかし一つあった。葉子の涙はただわけもなくほろほろと流れた。貞世は何事も知らずに罪なく眠りつづけていた。同じはらを借りてこの世に生まれ出た二人ふたりの胸には、ひたと共鳴する不思議な響きが潜んでいた。葉子は吸い取られるようにその響きに心を集めていたが、この子もやがては自分が通って来たような道を歩くのかと思うと、自分をあわれむとも妹をあわれむとも知れないせつない心に先だたれて、思わずぎゅっと貞世を抱きしめながら物をいおうとした。しかし何をいい得ようぞ。のどもふさがってしまっていた。貞世は抱きしめられたので始めて大きく目を開いた。そしてしばらくの間、涙にぬれた姉の顔をまじまじとながめていたが、やがて黙ったまま小さいそででその涙をぬぐい始めた。葉子の涙は新しくわき返った。貞世は痛ましそうに姉の涙をぬぐいつづけた。そしてしまいにはその袖を自分の顔に押しあてて何か言い言いしゃくり上げながら泣き出してしまった。



 葉子はその朝横浜の郵船会社の永田から手紙を受け取った。漢学者らしい風格の、上手じょうずな字で唐紙牋とうしせんに書かれた文句には、自分は故早月氏には格別の交誼こうぎを受けていたが、あなたに対しても同様の交際を続ける必要のないのを遺憾に思う。明晩(すなわちその夜)のお招きにも出席しかねる、とけんもほろろに書き連ねて、追伸ついしんに、先日あなたから一ごんの紹介もなく訪問してきた素性すじょうの知れぬ青年の持参した金はいらないからお返しする。良人おっとの定まった女の行動は、申すまでもないが慎むが上にもことに慎むべきものだと私どもは聞き及んでいる。ときっぱり書いて、その金額だけの為替かわせが同封してあった。葉子が古藤を連れて横浜に行ったのも、仮病けびょうをつかって宿屋に引きこもったのも、実をいうと船商売をする人には珍しい厳格なこの永田に会うめんどうを避けるためだった。葉子は小さく舌打ちして、為替ごと手紙を引き裂こうとしたが、ふと思い返して、丹念たんねんに墨をすりおろして一字一字考えて書いたような手紙だけずたずたに破いてくずかごに突っ込んだ。

 葉子は地味じみ他行衣よそいき寝衣ねまきを着かえて二階を降りた。朝食は食べる気がなかった。妹たちの顔を見るのも気づまりだった。

 姉妹三人のいる二階の、すみからすみまできちんと小ぎれいに片付いているのに引きかえて、叔母おば一家の住まう下座敷は変に油ぎってよごれていた。白痴の子が赤ん坊同様なので、東の縁に干してある襁褓むつきから立つ塩臭いにおいや、畳の上に踏みにじられたままこびりついている飯粒などが、すぐ葉子の神経をいらいらさせた。玄関に出て見ると、そこには叔父おじが、えりのまっ黒に汗じんだ白い飛白かすりを薄寒そうに着て、白痴の子をひざの上に乗せながら、朝っぱらからかきをむいてあてがっていた。その柿の皮があかあかと紙くずとごったになって敷き石の上に散っていた。葉子は叔父にちょっと挨拶あいさつをして草履ぞうりをさがしながら、

「愛さんちょっとここにおいで。玄関が御覧、あんなによごれているからね、きれいに掃除そうじしておいてちょうだいよ。──今夜はお客様もあるんだのに……」

 と駆けて来た愛子にわざとつんけんいうと、叔父は神経の遠くのほうであてこすられたのを感じたふうで、

「おゝ、それはわしがしたんじゃで、わしが掃除しとく。かもうてくださるな、おいおしゅん──お俊というに、何しとるぞい」

 とのろまらしく呼び立てた。おびしろはだかの叔母がそこにやって来て、またくだらぬ口論くちいさかいをするのだと思うと、どろの中でいがみ合う豚かなんぞを思い出して、葉子はかかとちりを払わんばかりにそこそこ家を出た。細い釘店くぎだなの往来は場所がらだけに門並かどなみきれいに掃除されて、打ち水をした上を、気のきいた風体ふうていの男女が忙しそうにしていた。葉子は抜け毛の丸めたのや、巻煙草まきたばこの袋のちぎれたのが散らばってほうきの目一つない自分の家の前を目をつぶって駆けぬけたいほどの思いをして、ついそばの日本銀行にはいってありったけの預金を引き出した。そしてその前の車屋で始終乗りつけのいちばん立派な人力車を仕立てさして、その足で買い物に出かけた。妹たちに買い残しておくべき衣服地や、外国人向きの土産品みやげひんや、新しいどっしりしたトランクなどを買い入れると、引き出した金はいくらも残ってはいなかった。そして午後の日がやや傾きかかったころ、大塚窪町おおつかくぼまちに住む内田うちだという母の友人を訪れた。内田は熱心なキリスト教の伝道者として、憎む人からは蛇蝎だかつのように憎まれるし、好きな人からは予言者のように崇拝されている天才はだの人だった。葉子は五つ六つのころ、母に連れられて、よくその家に出入りしたが、人を恐れずにぐんぐん思った事をかわいらしい口もとからいい出す葉子の様子が、始終人からへだてをおかれつけた内田を喜ばしたので、葉子が来ると内田は、何か心のこだわった時でもきげんを直して、せまった眉根まゆねを少しは開きながら、「また子猿こざるが来たな」といって、そのつやつやしたおかっぱをなで回したりなぞした。そのうち母がキリスト教婦人同盟の事業に関係して、たちまちのうちにその牛耳ぎゅうじを握り、外国宣教師だとか、貴婦人だとかを引き入れて、政略がましく事業の拡張に奔走するようになると、内田はすぐきげんを損じて、早月親佐さつきおやさを責めて、キリストの精神を無視した俗悪な態度だといきまいたが、親佐がいっこうに取り合う様子がないので、両家の間は見る見る疎々うとうとしいものになってしまった。それでも内田は葉子だけには不思議に愛着を持っていたと見えて、よく葉子のうわさをして、「子猿」だけは引き取って子供同様に育ててやってもいいなぞといったりした。内田は離縁した最初の妻が連れて行ってしまったたった一人ひとりの娘にいつまでも未練を持っているらしかった。どこでもいいその娘に似たらしい所のある少女を見ると、内田は日ごろの自分を忘れたように甘々あまあましい顔つきをした。人が怖れる割合に、葉子には内田が恐ろしく思えなかったばかりか、その峻烈しゅんれつな性格の奥にとじこめられて小さくよどんだ愛情に触れると、ありきたりの人間からは得られないようななつかしみを感ずる事があった。葉子は母に黙って時々内田を訪れた。内田は葉子が来ると、どんな忙しい時でも自分の部屋へやに通して笑い話などをした。時には二人だけで郊外の静かな並み木道などを散歩したりした。ある時内田はもう娘らしく生長した葉子の手を堅く握って、「お前は神様以外の私のただ一人の道伴みちづれだ」などといった。葉子は不思議な甘い心持ちでその言葉を聞いた。その記憶は長く忘れ得なかった。

 それがあの木部との結婚問題が持ち上がると、内田は否応いやおうなしにある日葉子を自分の家に呼びつけた。そして恋人の変心をなじり責める嫉妬しっと深い男のように、火と涙とを目からほとばしらせて、打ちもすえかねぬまでに狂い怒った。その時ばかりは葉子も心から激昂げきこうさせられた。「だれがもうこんなわがままな人の所に来てやるものか」そう思いながら、生垣いけがきの多い、家並やなみのまばらな、わだちの跡のめいりこんだ小石川こいしかわの往来を歩き歩き、憤怒の歯ぎしりを止めかねた。それは夕闇ゆうやみの催した晩秋だった。しかしそれと同時になんだか大切なものを取り落としたような、自分をこの世につり上げてる糸の一つがぷつんと切れたような不思議なさびしさの胸にせまるのをどうする事もできなかった。

「キリストに水をやったサマリヤの女の事も思うから、この上お前には何もいうまい──他人ひとの失望も神の失望もちっとは考えてみるがいい、……罪だぞ、恐ろしい罪だぞ」

 そんな事があってから五年を過ぎたきょう、郵便局に行って、永田から来た為替かわせを引き出して、定子を預かってくれている乳母うばの家に持って行こうと思った時、葉子は紙幣の束をかぞえながら、ふと内田の最後の言葉を思い出したのだった。物のない所に物を探るような心持ちで葉子は人力車を大塚のほうに走らした。

 五年たっても昔のままの構えで、まばらにさし代えた屋根板と、めっきり延びた垣添かきぞいのきりの木とが目立つばかりだった。砂きしみのする格子戸こうしどをあけて、帯前を整えながら出て来た柔和な細君さいくんと顔を合わせた時は、さすがに懐旧の情が二人の胸を騒がせた。細君は思わず知らず「まあどうぞ」といったが、その瞬間にはっとためらったような様子になって、急いで内田の書斎にはいって行った。しばらくすると嘆息しながら物をいうような内田の声が途切れ途切れに聞こえた。「上げるのは勝手だがおれが会う事はないじゃないか」といったかと思うと、はげしい音を立てて読みさしの書物をぱたんと閉じる音がした。葉子は自分の爪先つまさきを見つめながら下くちびるをかんでいた。

 やがて細君がおどおどしながら立ち現われて、まずと葉子を茶のに招じ入れた。それと入れ代わりに、書斎では内田が椅子いすを離れた音がして、やがて内田はずかずかと格子戸をあけて出て行ってしまった。

 葉子は思わずふらふらッと立ち上がろうとするのを、何気ない顔でじっとこらえた。せめては雷のような激しいその怒りの声に打たれたかった。あわよくば自分も思いきりいいたい事をいってのけたかった。どこに行っても取りあいもせず、鼻であしらい、鼻であしらわれ慣れた葉子には、何か真味な力で打ちくだかれるなり、打ちくだくなりして見たかった。それだったのに思い入って内田の所に来て見れば、内田は世の常の人々よりもいっそう冷ややかにむごく思われた。

「こんな事をいっては失礼ですけれどもね葉子さん、あなたの事をいろいろにいって来る人があるもんですからね、あのとおりの性質でしょう。どうもわたしにはなんともいいなだめようがないのですよ。内田があなたをお上げ申したのが不思議なほどだとわたし思いますの。このごろはことさらだれにもいわれないようなごたごたが家の内にあるもんですから、よけいむしゃくしゃしていて、ほんとうにわたしどうしたらいいかと思う事がありますの」

 意地も生地きじも内田の強烈な性格のために存分に打ち砕かれた細君は、上品な顔立てに中世紀の尼にでも見るような思いあきらめた表情を浮かべて、捨て身の生活のどん底にひそむさびしい不足をほのめかした。自分より年下で、しかも良人おっとからさんざん悪評を投げられているはずの葉子に対してまで、すぐ心が砕けてしまって、張りのない言葉で同情を求めるかと思うと、葉子は自分の事のように歯がゆかった。まゆと口とのあたりにむごたらしい軽蔑けいべつの影が、まざまざと浮かび上がるのを感じながら、それをどうする事もできなかった。葉子は急に青味を増した顔で細君を見やったが、その顔は世故せこに慣れきった三十女のようだった。(葉子は思うままに自分の年を五つも上にしたり下にしたりする不思議な力を持っていた。感情次第でその表情は役者の技巧のように変わった)

「歯がゆくはいらっしゃらなくって」

 と切り返すように内田の細君の言葉をひったくって、

「わたしだったらどうでしょう。すぐおじさんとけんかして出てしまいますわ。それはわたし、おじさんを偉いかただとは思っていますが、わたしこんなに生まれついたんですからどうしようもありませんわ。一から十までおっしゃる事をはいはいと聞いていられませんわ。おじさんもあんまりでいらっしゃいますのね。あなたみたいな方に、そうかさにかからずとも、わたしでもお相手になさればいいのに……でもあなたがいらっしゃればこそおじさんもああやってお仕事がおできになるんですのね。わたしだけはけ物ですけれども、世の中はなかなかよくいっていますわ。……あ、それでもわたしはもう見放されてしまったんですものね、いう事はありゃしません。ほんとうにあなたがいらっしゃるのでおじさんはお仕合わせですわ。あなたは辛抱なさるかた。おじさんはわがままでお通しになるかた。もっともおじさんにはそれが神様のおぼしなんでしょうけれどもね。……わたしも神様のおぼしかなんかでわがままで通す女なんですからおじさんとはどうしても茶碗ちゃわんと茶碗ですわ。それでも男はようござんすのね、わがままが通るんですもの。女のわがままは通すよりしかたがないんですからほんとうに情けなくなりますのね。何も前世の約束なんでしょうよ……」

 内田の細君は自分よりはるか年下の葉子の言葉をしみじみと聞いているらしかった。葉子は葉子でしみじみと細君の身なりを見ないではいられなかった。一昨日おとといあたり結ったままの束髪そくはつだった。癖のない濃い髪にはたきぎの灰らしい灰がたかっていた。糊気のりけのぬけきった単衣ひとえも物さびしかった。そのがらの細かい所には里の母の着古しというようなにおいがした。由緒ゆいしょある京都の士族に生まれたその人の皮膚は美しかった。それがなおさらその人をあわれにして見せた。

他人ひとの事なぞ考えていられやしない」しばらくすると葉子は捨てばちにこんな事を思った。そして急にはずんだ調子になって、

「わたしあすアメリカにちますの、ひとりで」

 と突拍子とっぴょうしもなくいった。あまりの不意に細君は目を見張って顔をあげた。

「まあほんとうに」

「はあほんとうに……しかも木村の所に行くようになりましたの。木村、御存じでしょう」

 細君がうなずいてなお仔細しさいを聞こうとすると、葉子は事もなげにさえぎって、

「だからきょうはお暇乞いとまごいのつもりでしたの。それでもそんな事はどうでもようございますわ。おじさんがお帰りになったらよろしくおっしゃってくださいまし、葉子はどんな人間になり下がるかもしれませんって……あなたどうぞおからだをお大事に。太郎たろうさんはまだ学校でございますか。大きくおなりでしょうね。なんぞ持って上がればよかったのに、用がこんなものですから」

 といいながら両手で大きな輪を作って見せて、若々しくほほえみながら立ち上がった。

 玄関に送って出た細君の目には涙がたまっていた。それを見ると、人はよく無意味な涙を流すものだと葉子は思った。けれどもあの涙も内田が無理無体にしぼり出させるようなものだと思い直すと、心臓の鼓動が止まるほど葉子の心はかっとなった。そして口びるを震わしながら、

「もう一言ひとことおじさんにおっしゃってくださいまし、七度を七十倍はなさらずとも、せめて三度ぐらいは人のとがも許して上げてくださいましって。……もっともこれは、あなたのおために申しますの。わたしはだれにあやまっていただくのもいやですし、だれにあやまるのもいやな性分しょうぶんなんですから、おじさんに許していただこうとはてんから思ってなどいはしませんの。それもついでにおっしゃってくださいまし」

 口のはたに戯談じょうだんらしく微笑を見せながら、そういっているうちに、大濤おおなみどすんどすんと横隔膜につきあたるような心地ここちがして、鼻血でも出そうに鼻のあながふさがった。門を出る時も口びるはなおくやしそうに震えていた。日は植物園の森の上にうすずいて、暮れがた近い空気の中に、けさから吹き出していた風はなぎた。葉子は今の心と、けさ早く風の吹き始めたころに、土蔵わきの小部屋こべやで荷造りをした時の心とをくらべて見て、自分ながら同じ心とは思い得なかった。そして門を出て左に曲がろうとしてふと道ばたの捨て石にけつまずいて、はっと目がさめたようにあたりを見回した。やはり二十五の葉子である。いゝえ昔たしかに一度けつまずいた事があった。そう思って葉子は迷信家のようにもう一度振り返って捨て石を見た。その時に日は……やはり植物園の森のあのへんにあった。そして道の暗さもこのくらいだった。自分はその時、内田の奥さんに内田の悪口をいって、ペテロとキリストとの間に取りかわされた寛恕かんじょに対する問答を例に引いた。いゝえ、それはきょうした事だった。きょう意味のない涙を奥さんがこぼしたように、その時も奥さんは意味のない涙をこぼした。その時にも自分は二十五……そんな事はない。そんな事のあろうはずがない……変な……。それにしてもあの捨て石には覚えがある。あれは昔からあすこにちゃんとあった。こう思い続けて来ると、葉子は、いつか母と遊びに来た時、何かおこってその捨て石にかじり付いて動かなかった事をまざまざと心に浮かべた。その時は大きな石だと思っていたのにこれんぼっちの石なのか。母が当惑して立った姿がはっきり目先に現われた。と思うとやがてその輪郭が輝き出して、目も向けられないほど耀かがやいたが、すっと惜しげもなく消えてしまって、葉子は自分のからだが中有ちゅううからどっしり大地におり立ったような感じを受けた。同時に鼻血がどくどく口からあごを伝って胸の合わせ目をよごした。驚いてハンケチをたもとから探り出そうとした時、

「どうかなさいましたか」

 という声に驚かされて、葉子は始めて自分のあとに人力車がついて来ていたのに気が付いた。見ると捨て石のある所はもう八九町後ろになっていた。

「鼻血なの」

 とこたえながら葉子は初めてのようにあたりを見た。そこには紺暖簾こんのれんを所せまくかけ渡した紙屋の小店があった。葉子は取りあえずそこにはいって、人目を避けながら顔を洗わしてもらおうとした。

 四十格好の克明こくめいらしい内儀かみさんがわが事のように金盥かなだらいに水を移して持って来てくれた。葉子はそれで白粉気おしろいけのない顔を思う存分に冷やした。そして少し人心地ひとごこちがついたので、帯の間から懐中鏡を取り出して顔を直そうとすると、鏡がいつのまにかま二つにれていた。先刻けつまずいた拍子に破れたのかしらんと思ってみたが、それくらいで破れるはずはない。怒りに任せて胸がかっとなった時、破れたのだろうか。なんだかそうらしくも思えた。それともあすの船出の不吉を告げる何かのわざかもしれない。木村との行く末の破滅を知らせる悪い辻占つじうらかもしれない。またそう思うと葉子は襟元えりもとに凍った針でも刺されるように、ぞくぞくとわけのわからない身ぶるいをした。いったい自分はどうなって行くのだろう。葉子はこれまでの見窮められない不思議な自分の運命を思うにつけ、これから先の運命が空恐ろしく心に描かれた。葉子は不安な悒鬱ゆううつな目つきをして店を見回した。帳場にすわり込んだ内儀かみさんのひざにもたれて、七つほどの少女が、じっと葉子の目を迎えて葉子を見つめていた。やせぎすで、痛々しいほど目の大きな、そのくせ黒目の小さな、青白い顔が、薄暗い店の奥から、香料や石鹸せっけんの香につつまれて、ぼんやり浮き出たように見えるのが、何か鏡のれたのと縁でもあるらしくながめられた。葉子の心は全くふだんの落ち付きを失ってしまったようにわくわくして、立ってもすわってもいられないようになった。ばかなと思いながらこわいものにでも追いすがられるようだった。

 しばらくのあいだ葉子はこの奇怪な心の動揺のために店を立ち去る事もしないでたたずんでいたが、ふとどうにでもなれという捨てばちな気になって元気を取り直しながら、いくらかの礼をしてそこを出た。出るには出たが、もう車に乗る気にもなれなかった。これから定子に会いに行ってよそながら別れを惜しもうと思っていたその心組みさえ物憂ものうかった。定子に会ったところがどうなるものか。自分の事すら次の瞬間には取りとめもないものを、他人の事──それはよし自分の血を分けた大切な独子ひとりごであろうとも──などを考えるだけがばかな事だと思った。そしてもう一度そこの店から巻紙まきがみを買って、硯箱すずりばこを借りて、男恥ずかしい筆跡で、出発前にもう一度乳母を訪れるつもりだったが、それができなくなったから、この後とも定子をよろしく頼む。当座の費用として金を少し送っておくという意味を簡単にしたためて、永田から送ってよこした為替かわせの金を封入して、その店を出た。そしていきなりそこに待ち合わしていた人力車の上の膝掛ひざかけをはぐって、蹴込けこみに打ち付けてある鑑札にしっかり目を通しておいて、

「わたしはこれから歩いて行くから、この手紙をここへ届けておくれ、返事はいらないのだから……お金ですよ、少しどっさりあるから大事にしてね」

 と車夫にいいつけた。車夫はろくに見知りもないものに大金を渡して平気でいる女の顔を今さらのようにきょときょとと見やりながら空俥からぐるまを引いて立ち去った。大八車だいはちぐるまが続けさまに田舎いなかに向いて帰って行く小石川の夕暮れの中を、葉子はかさつえにしながら思いにふけって歩いて行った。

 こもった哀愁が、発しない酒のように、葉子のこめかみをちかちかと痛めた。葉子は人力車の行くえを見失っていた。そして自分ではまっすぐに釘店くぎだなのほうに急ぐつもりでいた。ところが実際は目に見えぬ力で人力車に結び付けられでもしたように、知らず知らず人力車の通ったとおりの道を歩いて、はっと気がついた時にはいつのまにか、乳母が住む下谷したやいけはたる曲がりかどに来て立っていた。

 そこで葉子はぎょっとして立ちどまってしまった。短くなりまさった日は本郷ほんごうの高台に隠れて、往来にはくりやの煙とも夕靄ゆうもやともつかぬ薄い霧がただよって、街頭のランプのがことに赤くちらほらちらほらとともっていた。通り慣れたこの界隈かいわいの空気は特別な親しみをもって葉子の皮膚をなでた。心よりも肉体のほうがよけいに定子のいる所にひき付けられるようにさえ思えた。葉子の口びるは暖かい桃の皮のような定子のほおの膚ざわりにあこがれた。葉子の手はもうめれんすの弾力のあるやわらかい触感を感じていた。葉子のひざふうわりとした軽い重みを覚えていた。耳には子供のアクセントが焼き付いた。目には、曲がりかどの朽ちかかった黒板塀くろいたべいとおして、木部からけた笑窪えくぼのできる笑顔えがおが否応なしに吸い付いて来た。……乳房はくすむったかった。葉子は思わず片頬に微笑を浮かべてあたりをぬすむように見回した。とちょうどそこを通りかかった内儀かみさんが、何かを前掛けの下に隠しながらじっと葉子の立ち姿を振り返ってまで見て通るのに気がついた。

 葉子は悪事でも働いていた人のように、急に笑顔を引っ込めてしまった。そしてこそこそとそこを立ちのいて不忍しのばずいけに出た。そして過去も未来も持たない人のように、池の端につくねんと突っ立ったまま、池の中のはすの実の一つに目を定めて、身動きもせずに小半時こはんとき立ち尽くしていた。



 日の光がとっぷりと隠れてしまって、往来のばかりが足もとのたよりとなるころ、葉子は熱病患者のように濁りきった頭をもてあまして、車に揺られるたびごとにまゆを痛々しくしかめながら、釘店くぎだなに帰って来た。

 玄関にはいろいろの足駄あしだくつがならべてあったが、流行を作ろう、少なくとも流行に遅れまいというはなやかな心を誇るらしい履物はきものといっては一つも見当たらなかった。自分の草履ぞうりを始末しながら、葉子はすぐに二階の客間の模様を想像して、自分のために親戚しんせきや知人が寄って別れを惜しむというその席に顔を出すのが、自分自身をばかにしきったことのようにしか思われなかった。こんなくらいなら定子の所にでもいるほうがよほどましだった。こんな事のあるはずだったのをどうしてまた忘れていたものだろう。どこにいるのもいやだ。木部の家を出て、二度とは帰るまいと決心した時のような心持ちで、拾いかけた草履をたたきにもどそうとしたその途端に、

「ねえさんもういや……いや」

 といいながら、身を震わしてやにわに胸に抱きついて来て、乳の間のくぼみに顔をうずめながら、成人おとなのするような泣きじゃくりをして、

「もう行っちゃいやですというのに」

 とからく言葉を続けたのは貞世さだよだった。葉子は石のように立ちすくんでしまった。貞世は朝からふきげんになってだれのいう事も耳には入れずに、自分の帰るのばかりを待ちこがれていたに違いないのだ。葉子は機械的に貞世に引っぱられて階子段はしごだんをのぼって行った。

 階子段をのぼりきって見ると客間はしんとしていて、五十川いそがわ女史の祈祷きとうの声だけがおごそかに聞こえていた。葉子と貞世とは恋人のように抱き合いながら、アーメンという声の一座の人々からあげられるのを待ってへやにはいった。列座の人々はまだ殊勝らしく頭をうなだれている中に、正座近くすえられた古藤ことうだけは昂然こうぜんと目を見開いて、ふすまをあけて葉子がしとやかにはいって来るのを見まもっていた。

 葉子は古藤にちょっと目で挨拶あいさつをして置いて、貞世を抱いたまま末座にひざをついて、一同に遅刻のわびをしようとしていると、主人座にすわり込んでいる叔父おじが、わが子でもたしなめるように威儀を作って、

「なんたらおそい事じゃ。きょうはお前の送別会じゃぞい。……皆さんにいこうお待たせするがすまんから、今五十川さんに祈祷きとうをお頼み申して、はしを取っていただこうと思ったところであった……いったいどこを……」

 面と向かっては、葉子に口小言くちこごと一ついいきらぬ器量なしの叔父が、場所もおりもあろうにこんな場合に見せびらかしをしようとする。葉子はそっちに見向きもせず、叔父の言葉を全く無視した態度で急に晴れやかな色を顔に浮かべながら、

「ようこそ皆様……おそくなりまして。つい行かなければならない所が二つ三つありましたもんですから……」

 とだれにともなくいっておいて、するすると立ち上がって、釘店くぎだなの往来に向いた大きな窓を後ろにした自分の席に着いて、妹の愛子と自分との間に割り込んで来る貞世の頭をなでながら、自分の上にばかり注がれる満座の視線を小うるさそうに払いのけた。そして片方の手でだいぶ乱れたびんのほつれをかき上げて、葉子の視線は人もなげに古藤のほうに走った。

「しばらくでしたのね……とうとう明朝あしたになりましてよ。木村に持って行くものは、一緒にお持ちになって?……そう」

 と軽い調子でいったので、五十川女史と叔父とが切り出そうとした言葉は、物のみごとにさえぎられてしまった。葉子は古藤にそれだけの事をいうと、今度はとうの敵ともいうべき五十川女史に振り向いて、

「おばさま、きょう途中でそれはおかしな事がありましたのよ。こうなんですの」

 といいながら男女をあわせて八人ほど居ならんだ親類たちにずっと目を配って、

「車で駆け通ったんですから前もあともよくはわからないんですけれども、大時計のかどの所を広小路ひろこうじに出ようとしたら、そのかどにたいへんな人だかりですの。なんだと思って見てみますとね、禁酒会の大道演説で、大きな旗が二三本立っていて、急ごしらえのテーブルに突っ立って、夢中になって演説している人があるんですの。それだけなら何も別に珍しいという事はないんですけれども、その演説をしている人が……だれだとお思いになって……山脇やまわきさんですの」

 一同の顔には思わず知らず驚きの色が現われて、葉子の言葉に耳をそばだてていた。先刻しかつめらしい顔をした叔父おじはもう白痴のように口をあけたままで薄笑いをもらしながら葉子を見つめていた。

「それがまたね、いつものとおりに金時きんときのように首筋までまっですの。『諸君』とかなんとかいって大手を振り立ててしゃべっているのを、肝心かんじんの禁酒会員たちはあっけに取られて、黙ったまま引きさがって見ているんですから、見物人がわいわいとおもしろがってたかっているのも全くもっともですわ。そのうちに、あ、叔父さん、はしをおつけになるように皆様におっしゃってくださいまし」

 叔父があわてて口の締まりをして仏頂面ぶっちょうづらに立ち返って、何かいおうとすると、葉子はまたそれには頓着とんじゃくなく五十川いそがわ女史のほうに向いて、

「あの肩のりはすっかりおなおりになりまして」

 といったので、五十川女史の答えようとする言葉と、叔父のいい出そうとする言葉は気まずくも鉢合はちあわせになって、二人ふたりは所在なげに黙ってしまった。座敷は、底のほうに気持ちの悪い暗流を潜めながら造り笑いをし合っているような不快な気分に満たされた。葉子は「さあ来い」と胸の中で身構えをしていた。五十川女史のそばにすわって、神経質らしくまゆをきらめかす中老の官吏は、射るようないまいましげな眼光を時々葉子に浴びせかけていたが、いたたまれない様子でちょっと居ずまいをなおすと、ぎくしゃくした調子で口をきった。

「葉子さん、あなたもいよいよ身のかたまる瀬戸ぎわまでこぎ付けたんだが……」

 葉子はすきを見せたら切り返すからといわんばかりな緊張した、同時に物を物ともしないふうでその男の目を迎えた。

「何しろわたしども早月家さつきけの親類に取ってはこんなめでたい事はまずない。無いには無いがこれからがあなたに頼み所だ。どうぞ一つわたしどもの顔を立てて、今度こそは立派な奥さんになっておもらいしたいがいかがです。木村君はわたしもよく知っとるが、信仰も堅いし、仕事も珍しくはきはきできるし、若いに似合わぬ物のわかったじんだ。こんなことまで比較に持ち出すのはどうか知らないが、木部氏のような実行力の伴わない夢想家は、わたしなどは初めから不賛成だった。今度のはじたい段が違う。葉子さんが木部氏の所から逃げ帰って来た時には、わたしもけしからんといった実は一人ひとりだが、今になって見ると葉子さんはさすがに目が高かった。出て来ておいて誠によかった。いまに見なさい木村という仁なりゃ、立派に成功して、第一流の実業家に成り上がるにきまっている。これからはなんといっても信用と金だ。官界に出ないのなら、どうしても実業界に行かなければうそだ。擲身てきしん報国は官吏たるものの一特権だが、木村さんのようなまじめな信者にしこたま金を造ってもらわんじゃ、神の道を日本に伝え広げるにしてからが容易な事じゃありませんよ。あなたも小さい時から米国に渡って新聞記者の修業をすると口ぐせのように妙な事をいったもんだが(ここで一座の人はなんの意味もなく高く笑った。おそらくはあまりしかつめらしい空気を打ち破って、なんとかそこに余裕ゆとりをつけるつもりが、みんなに起こったのだろうけれども、葉子にとってはそれがそうは響かなかった。その心持ちはわかっても、そんな事で葉子の心をはぐらかそうとする彼らの浅はかさがぐっしゃくにさわった)新聞記者はともかくも……じゃない、そんなものになられては困りきるが(ここで一座はまたわけもなくばからしく笑った)米国行きの願いはたしかにかなったのだ。葉子さんも御満足に違いなかろう。あとの事はわたしどもがたしかに引き受けたから心配は無用にして、身をしめて妹さんがたしめしにもなるほどの奮発を頼みます……えゝと、財産のほうの処分はわたしと田中さんとで間違いなく固めるし、愛子さんと貞世さんのお世話は、五十川いそがわさん、あなたにお願いしようじゃありませんか、御迷惑ですが。いかがでしょう皆さん(そういって彼は一座を見渡した。あらかじめ申し合わせができていたらしく一同は待ち設けたようにうなずいて見せた)どうじゃろう葉子さん」

 葉子は乞食こじきの嘆願を聞く女王のような心持ちで、○○局長といわれるこの男のいう事を聞いていたが、財産の事などはどうでもいいとして、妹たちの事が話題に上るとともに、五十川女史を向こうに回して詰問のような対話を始めた。なんといっても五十川女史はその晩そこに集まった人々の中ではいちばん年配でもあったし、いちばんはばかられているのを葉子は知っていた。五十川女史が四角を思い出させるような頑丈がんじょうな骨組みで、がっしりと正座に居直って、葉子を子供あしらいにしようとするのを見て取ると、葉子の心ははやり熱した。

「いゝえ、わがままだとばかりお思いになっては困ります。わたしは御承知のような生まれでございますし、これまでもたびたび御心配かけて来ておりますから、人様ひとさま同様に見ていただこうとはこれっぱかりも思ってはおりません」

 といって葉子は指の間になぶっていた楊枝ようじを老女史の前にふいと投げた。

「しかし愛子も貞世も妹でございます。現在わたしの妹でございます。口幅ったいとおぼすかもしれませんが、この二人ふたりだけはわたしたとい米国におりましても立派に手塩にかけて御覧にいれますから、どうかお構いなさらずにくださいまし。それは赤坂あかさか学院も立派な学校には違いございますまい。現在私もおばさまのお世話であすこで育てていただいたのですから、悪くは申したくはございませんが、わたしのような人間が、皆様のお気に入らないとすれば……それは生まれつきもございましょうとも、ございましょうけれども、わたしを育て上げたのはあの学校でございますからねえ。何しろ現在いて見た上で、わたしこの二人をあすこに入れる気にはなれません。女というものをあの学校ではいったいなんと見ているのでござんすかしらん……」

 こういっているうちに葉子の心には火のような回想の憤怒が燃え上がった。葉子はその学校の寄宿舎で一個の中性動物として取り扱われたのを忘れる事ができない。やさしく、愛らしく、しおらしく、生まれたままの美しい好意と欲念との命ずるままに、おぼろげながら神というものを恋しかけた十二三歳ごろの葉子に、学校は祈祷きとうと、節欲と、殺情とを強制的にたたき込もうとした。十四の夏が秋に移ろうとしたころ、葉子はふと思い立って、美しい四寸幅ほどの角帯かくおびのようなものを絹糸で編みはじめた。あいに白で十字架と日月とをあしらった模様だった。物事にふけりやすい葉子は身も魂も打ち込んでその仕事に夢中になった。それを造り上げた上でどうして神様の御手に届けよう、というような事はもとより考えもせずに、早く造り上げてお喜ばせ申そうとのみあせって、しまいには夜の目もろくろく合わさなくなった。二週間に余る苦心の末にそれはあらかたでき上がった。藍の地に簡単に白で模様を抜くだけならさしたる事でもないが、葉子は他人のまだしなかった試みを加えようとして、模様の周囲に藍と白とを組み合わせにした小さな笹縁ささべりのようなものを浮き上げて編み込んだり、ひどく伸び縮みがして模様が歪形いびつにならないように、目立たないようにカタン糸を編み込んで見たりした。出来上がりが近づくと葉子は片時かたときも編み針を休めてはいられなかった。ある時聖書の講義の講座でそっと机の下で仕事を続けていると、運悪くも教師に見つけられた。教師はしきりにその用途を問いただしたが、恥じやすい乙女心おとめごころにどうしてこの夢よりもはかない目論見もくろみを白状する事ができよう。教師はその帯の色合いからして、それは男向きの品物に違いないと決めてしまった。そして葉子の心は早熟の恋を追うものだと断定した。そして恋というものを生来知らぬげな四十五六の醜い容貌ようぼうの舎監は、葉子を監禁同様にして置いて、暇さえあればその帯の持ち主たるべき人の名を迫り問うた。

 葉子はふと心の目を開いた。そしてその心はそれ以来峰から峰を飛んだ。十五の春には葉子はもう十も年上な立派な恋人を持っていた。葉子はその青年を思うさま翻弄ほんろうした。青年はまもなく自殺同様な死に方をした。一度生血の味をしめたとらの子のような渇欲が葉子の心を打ちのめすようになったのはそれからの事である。

「古藤さん愛と貞とはあなたに願いますわ。だれがどんな事をいおうと、赤坂学院には入れないでくださいまし。私きのう田島たじまさんのじゅくに行って、田島さんにお会い申してよくお頼みして来ましたから、少し片付いたらはばかりさまですがあなた御自身で二人ふたりを連れていらしってください。愛さんも貞ちゃんもわかりましたろう。田島さんの塾にはいるとね、ねえさんと一緒にいた時のようなわけには行きませんよ……」

「ねえさんてば……自分でばかり物をおっしゃって」

 といきなり恨めしそうに、貞世は姉のひざをゆすりながらその言葉をさえぎった。

「さっきからなんど書いたかわからないのに平気でほんとにひどいわ」

 一座の人々から妙な子だというふうにながめられているのにも頓着とんじゃくなく、貞世は姉のほうに向いて膝の上にしなだれかかりながら、姉の左手を長いそでの下に入れて、その手のひらに食指で仮名を一字ずつ書いて手のひらでき消すようにした。葉子は黙って、書いては消し書いては消しする字をたどって見ると、

「ネーサマハイイコダカラ『アメリカ』ニイツテハイケマセンヨヨヨヨ」

 と読まれた。葉子の胸はわれ知らず熱くなったが、しいて笑いにまぎらしながら、

「まあ聞きわけのない子だこと、しかたがない。今になってそんな事をいったってしかたがないじゃないの」

 とたしなめさとすようにいうと、

「しかたがあるわ」

 と貞世は大きな目で姉を見上げながら、

「お嫁に行かなければよろしいじゃないの」

 といって、くるりと首を回して一同を見渡した。貞世のかわいい目は「そうでしょう」と訴えているように見えた。それを見ると一同はただなんという事もなく思いやりのない笑いかたをした。叔父おじはことに大きなとんきょな声で高々と笑った。先刻から黙ったままでうつむいてさびしくすわっていた愛子は、沈んだ恨めしそうな目でじっと叔父をにらめたと思うと、たちまちわくように涙をほろほろと流して、それを両袖でぬぐいもやらず立ち上がってその部屋へやをかけ出した。階子段はしごだんの所でちょうど下から上がって来た叔母と行きあったけはいがして、二人ふたりが何かいい争うらしい声が聞こえて来た。

 一座はまたしらけ渡った。

「叔父さんにも申し上げておきます」

 と沈黙を破った葉子の声が妙に殺気を帯びて響いた。

「これまで何かとお世話様になってありがとうこざいましたけれども、この家もたたんでしまう事になれば、妹たちも今申したとおりじゅくに入れてしまいますし、この後はこれといって大して御厄介ごやっかいはかけないつもりでございます。赤の他人の古藤さんにこんな事を願ってはほんとうにすみませんけれども、木村の親友でいらっしゃるのですから、近い他人ですわね。古藤さん、あなた貧乏くじを背負い込んだとおぼして、どうか二人ふたりを見てやってくださいましな。いいでしょう。こう親類の前ではっきり申しておきますから、ちっとも御遠慮なさらずに、いいとお思いになったようになさってくださいまし。あちらへ着いたらわたしまたきっとどうともいたしますから。きっとそんなに長い間御迷惑はかけませんから。いかが、引き受けてくださいまして?」

 古藤は少し躊躇ちゅうちょするふうで五十川いそがわ女史を見やりながら、

「あなたはさっきから赤坂学院のほうがいいとおっしゃるように伺っていますが、葉子さんのいわれるとおりにしてさしつかえないのですか。念のために伺っておきたいのですが」

 と尋ねた。葉子はまたあんなよけいな事をいうと思いながらいらいらした。五十川女史は日ごろの円滑な人ずれのした調子に似ず、何かひどく激昂げきこうした様子で、

「わたしはくなった親佐おやささんのお考えはこうもあろうかと思った所を申したまでですから、それを葉子さんが悪いとおっしゃるなら、その上とやかく言いともないのですが、親佐さんは堅い昔風な信仰を持ったかたですから、田島さんの塾は前からきらいでね……よろしゅうございましょう、そうなされば。わたしはとにかく赤坂学院が一番だとどこまでも思っとるだけです」

 といいながら、見下げるように葉子の胸のあたりをまじまじとながめた。葉子は貞世を抱いたまましゃんと胸をそらして目の前の壁のほうに顔を向けていた、たとえばばらばらと投げられるつぶてを避けようともせずに突っ立つ人のように。

 古藤は何か自分一人ひとりで合点したと思うと、堅く腕組みをしてこれも自分の前の目八の所をじっと見つめた。

 一座の気分はほとほと動きが取れなくなった。その間でいちばん早くきげんを直して相好そうごうを変えたのは五十川いそがわ女史だった。子供を相手にして腹を立てた、それを年がいないとでも思ったように、気を変えてきさくに立ちじたくをしながら、

「皆さんいかが、もうおいとまにいたしましたら……お別れする前にもう一度お祈りをして」

「お祈りをわたしのようなもののためになさってくださるのは御無用に願います」

 葉子は和らぎかけた人々の気分にはさらに頓着とんじゃくなく、壁に向けていた目を貞世に落として、いつのまにか寝入ったその人の艶々つやつやしい顔をなでさすりながらきっぱりといい放った。

 人々は思い思いな別れを告げて帰って行った。葉子は貞世がいつのまにかひざの上に寝てしまったのを口実にして人々を見送りには立たなかった。

 最後の客が帰って行ったあとでも、叔父叔母おじおばは二階を片づけには上がってこなかった。挨拶あいさつ一つしようともしなかった。葉子は窓のほうに頭を向けて、煉瓦れんがの通りの上にぼうっと立つの照り返しを見やりながら、夜風にほてった顔を冷やさせて、貞世を抱いたまま黙ってすわり続けていた。間遠まどおに日本橋を渡る鉄道馬車の音が聞こえるばかりで、釘店くぎだなの人通りは寂しいほどまばらになっていた。

 姿は見せずに、どこかのすみで愛子がまだ泣き続けて鼻をかんだりする音が聞こえていた。

「愛さん……さあちゃんが寝ましたからね、ちょっとお床を敷いてやってちょうだいな」

 われながら驚くほどやさしく愛子に口をきく自分を葉子は見いだした。しょうが合わないというのか、気が合わないというのか、ふだん愛子の顔さえ見れば葉子の気分はくずされてしまうのだった。愛子が何事につけてもねこのように従順で少しも情というものを見せないのがことさら憎かった。しかしその夜だけは不思議にもやさしい口をきいた。葉子はそれを意外に思った。愛子がいつものように素直すなおに立ち上がって、はなをすすりながら黙って床を取っている間に、葉子はおりおり往来のほうから振り返って、愛子のしとやかな足音や、綿を薄く入れた夏ぶとんの畳に触れるささやかな音を見入りでもするようにそのほうに目を定めた。そうかと思うとまた今さらのように、食い荒らされた食物や、敷いたままになっている座ぶとんのきたならしく散らかった客間をまじまじと見渡した。父の書棚しょだなのあった部分の壁だけが四角に濃い色をしていた。そのすぐそばに西洋暦が昔のままにかけてあった。七月十六日から先ははがされずに残っていた。

「ねえさま敷けました」

 しばらくしてから、愛子がこうかすかに隣でいった。葉子は、

「そう御苦労さまよ」

 とまたしとやかにこたえながら、貞世を抱きかかえて立ち上がろうとすると、また頭がぐらぐらッとして、おびただしい鼻血が貞世の胸の合わせ目に流れ落ちた。




 底光りのする雲母色きららいろの雨雲が縫い目なしにどんよりと重く空いっぱいにはだかって、本牧ほんもくの沖合いまで東京湾の海は物すごいような草色に、小さく波の立ち騒ぐ九月二十五日の午後であった。きのうの風がいでから、気温は急に夏らしい蒸し暑さに返って、横浜の市街は、疫病にかかって弱りきった労働者が、そぼふる雨の中にぐったりとあえいでいるように見えた。

 くつの先で甲板かんばんこつこつとたたいて、うつむいてそれをながめながら、帯の間に手をさし込んで、木村への伝言を古藤はひとりごとのように葉子にいった。葉子はそれに耳を傾けるような様子はしていたけれども、ほんとうはさして注意もせずに、ちょうど自分の目の前に、たくさんの見送り人に囲まれて、応接にいとまもなげな田川法学博士はかせの目じりの下がった顔と、その夫人のやせぎすな肩との描く微細な感情の表現を、批評家のような心で鋭くながめやっていた。かなり広いプロメネード・デッキは田川家の家族と見送り人とで縁日のようににぎわっていた。葉子の見送りに来たはずの五十川いそがわ女史は先刻から田川夫人のそばに付ききって、世話好きな、人のよい叔母おばさんというような態度で、見送り人の半分がたを自身で引き受けて挨拶あいさつしていた。葉子のほうへは見向こうとする模様もなかった。葉子の叔母は葉子から二三げん離れた所に、蜘蛛くものような白痴の子を小婢こおんなに背負わして、自分は葉子から預かった手鞄てかばん袱紗ふくさ包みとを取り落とさんばかりにぶら下げたまま、花々しい田川家の家族や見送り人の群れを見てあっけに取られていた。葉子の乳母うばは、どんな大きな船でも船は船だというようにひどく臆病おくびょうそうな青い顔つきをして、サルンの入り口の戸の陰にたたずみながら、四角にたたんだ手ぬぐいをまっになった目の所に絶えず押しあてては、ぬすみ見るように葉子を見やっていた。その他の人々はじみな一団になって、田川家の威光に圧せられたようにすみのほうにかたまっていた。

 葉子はかねて五十川女史から、田川夫婦が同船するから船の中で紹介してやるといい聞かせられていた。田川といえば、法曹界ほうそうかいではかなり名の聞こえた割合に、どこといって取りとめた特色もない政客ではあるが、その人の名はむしろ夫人のうわさのために世人の記憶にあざやかであった。感受力の鋭敏なそしてなんらかの意味で自分の敵に回さなければならない人に対してことに注意深い葉子の頭には、その夫人の面影おもかげは長い事宿題として考えられていた。葉子の頭に描かれた夫人はの強い、情のほしいままな、野心の深い割合に手練タクト露骨ろこつな、良人おっとを軽く見てややともするとかさにかかりながら、それでいて良人から独立する事の到底できない、いわばしんの弱い強がりではないかしらんというのだった。葉子は今後ろ向きになった田川夫人の肩の様子を一目見たばかりで、辞書でも繰り当てたように、自分の想像の裏書きをされたのを胸の中でほほえまずにはいられなかった。

「なんだか話が混雑したようだけれども、それだけいって置いてください」

 ふと葉子は幻想レェリーから破れて、古藤のいうこれだけの言葉を捕えた。そして今まで古藤の口から出た伝言の文句はたいてい聞きもらしていたくせに、空々そらぞらしげにもなくしんみりとした様子で、

「確かに……けれどもあなたあとから手紙ででも詳しく書いてやってくださいましね。間違いでもしているとたいへんですから」

 と古藤をのぞき込むようにしていった。古藤は思わず笑いをもらしながら、「間違うとたいへんですから」という言葉を、時おり葉子の口から聞くチャームに満ちた子供らしい言葉の一つとでも思っているらしかった。そして、

「何、間違ったって大事はないけれども……だが手紙は書いて、あなたの寝床バースまくらの下に置いときましたから、部屋へやに行ったらどこにでもしまっておいてください。それから、それと一緒にもう一つ……」

 といいかけたが、

「何しろ忘れずに枕の下を見てください」

 この時突然「田川法学博士はかせ万歳」という大きな声が、桟橋さんばしからデッキまでどよみ渡って聞こえて来た。葉子と古藤とは話の腰を折られて互いに不快な顔をしながら、手欄てすりから下のほうをのぞいて見ると、すぐ目の下に、そのころ人の少し集まる所にはどこにでも顔を出すとどろきという剣舞の師匠だか撃剣の師匠だかする頑丈がんじょうな男が、大きな五つ紋の黒羽織くろばおりに白っぽい鰹魚縞かつおじまはかまをはいて、桟橋の板をほお木下駄きげたで踏み鳴らしながら、ここを先途せんどとわめいていた。その声に応じて、デッキまではのぼって来ない壮士ていの政客や某私立政治学校の生徒が一斉いっせいに万歳を繰り返した。デッキの上の外国船客は物珍しさにいち早く、葉子がよりかかっている手欄てすりのほうに押し寄せて来たので、葉子は古藤を促して、急いで手欄の折れ曲がったかどに身を引いた。田川夫婦もほほえみながら、サルンから挨拶あいさつのために近づいて来た。葉子はそれを見ると、古藤のそばに寄り添ったまま、左手をやさしく上げて、びんのほつれをかき上げながら、頭を心持ち左にかしげてじっと田川の目を見やった。田川は桟橋のほうに気を取られて急ぎ足で手欄てすりのほうに歩いていたが、突然見えぬ力にぐっと引きつけられたように、葉子のほうに振り向いた。

 田川夫人も思わず良人おっとの向くほうに頭を向けた。田川の威厳に乏しい目にも鋭い光がきらめいては消え、さらにきらめいて消えたのを見すまして、葉子は始めて田川夫人の目を迎えた。額の狭い、あごの固い夫人の顔は、軽蔑けいべつ猜疑さいぎの色をみなぎらして葉子に向かった。葉子は、名前だけをかねてから聞き知って慕っていた人を、今目の前に見たように、うやうやしさと親しみとの交じり合った表情でこれに応じた。そしてすぐそのばから、夫人の前にも頓着とんじゃくなく、誘惑のひとみを凝らしてその良人の横顔をじっと見やるのだった。

「田川法学博士はかせ夫人万歳」「万歳」「万歳」

 田川その人に対してよりもさらに声高こわだかな大歓呼が、桟橋にいてかさを振り帽子を動かす人々の群れから起こった。田川夫人はせわしく葉子から目を移して、群集に取っときの笑顔えがおを見せながら、レースで笹縁ささべりを取ったハンケチを振らねばならなかった。田川のすぐそばに立って、胸に何か赤い花をさして型のいいフロック・コートを着て、ほほえんでいた風流な若紳士は、桟橋の歓呼を引き取って、田川夫人の面前で帽子を高くあげて万歳を叫んだ。デッキの上はまた一しきりどよめき渡った。

 やがて甲板の上は、こんな騒ぎのほかになんとなくせわしくなって来た。事務員や水夫たちが、物せわしそうに人中を縫うてあちこちする間に、手を取り合わんばかりに近よって別れを惜しむ人々の群れがここにもかしこにも見え始めた。サルン・デッキから見ると、三等客の見送り人がボーイ長にせき立てられて、続々舷門げんもんから降り始めた。それと入れ代わりに、帽子、上着、ズボン、ネクタイ、くつなどの調和の少しも取れていないくせに、むやみに気取った洋装をした非番の下級船員たちが、ぬれたかさを光らしながら駆けこんで来た。その騒ぎの間に、一種生臭なまぐさいような暖かい蒸気が甲板の人を取り巻いて、フォクスルのほうで、今までやかましく荷物をまき上げていた扛重機クレーンの音が突然やむと、かーんとするほど人々の耳はかえって遠くなった。隔たった所から互いに呼びかわす水夫らの高い声は、この船にどんな大危険でも起こったかと思わせるような不安をまき散らした。親しい間の人たちは別れのせつなさに心がわくわくしてろくに口もきかず、義理一ぺんの見送り人は、ややともするとまわりに気が取られて見送るべき人を見失う。そんなあわただしい抜錨ばつびょうの間ぎわになった。葉子の前にも、急にいろいろな人が寄り集まって来て、思い思いに別れの言葉を残して船を降り始めた。葉子はこんな混雑な間にも田川のひとみが時々自分に向けられるのを意識して、そのひとみを驚かすようななまめいたポーズや、たよりなげな表情を見せるのを忘れないで、言葉少なにそれらの人に挨拶あいさつした。叔父おじ叔母おばとは墓の穴まで無事に棺を運んだ人夫のように、通り一ぺんの事をいうと、預かり物を葉子に渡して、手のちりをはたかんばかりにすげなく、まっ先に舷梯げんていを降りて行った。葉子はちらっと叔母の後ろ姿を見送って驚いた。今の今までどことて似通う所の見えなかった叔母も、その姉なる葉子の母の着物を帯まで借りて着込んでいるのを見ると、はっと思うほどその姉にそっくりだった。葉子はなんという事なしにいやな心持ちがした。そしてこんな緊張した場合にこんなちょっとした事にまでこだわる自分を妙に思った。そう思うもあらせず、今度は親類の人たちが五六人ずつ、口々に小やかましく何かいって、あわれむようなねたむような目つきを投げ与えながら、幻影のように葉子の目と記憶とから消えて行った。丸髷まるまげに結ったり教師らしい地味じみな束髪に上げたりしている四人の学校友だちも、今は葉子とはかけ隔たった境界きょうがいの言葉づかいをして、昔葉子に誓った言葉などは忘れてしまった裏切り者の空々そらぞらしい涙を見せたりして、雨にぬらすまいとたもとを大事にかばいながら、傘にかくれてこれも舷梯げんていを消えて行ってしまった。最後に物おじする様子の乳母うばが葉子の前に来て腰をかがめた。葉子はとうとう行き詰まる所まで来たような思いをしながら、振り返って古藤を見ると、古藤は依然として手欄てすりに身を寄せたまま、気抜けでもしたように、目を据えて自分の二三げん先をぼんやりながめていた。

「義一さん、船の出るのもが無さそうですからどうか此女これ……わたしの乳母ですの……の手を引いておろしてやってくださいましな。すべりでもするとこおうござんすから」

 と葉子にいわれて古藤は始めてわれに返った。そしてひとりごとのように、

「この船で僕もアメリカに行って見たいなあ」

 とのんきな事をいった。

「どうか桟橋まで見てやってくださいましね。あなたもそのうちぜひいらっしゃいましな……義一さんそれではこれでお別れ。ほんとうに、ほんとうに」

 といいながら葉子はなんとなく親しみをいちばん深くこの青年に感じて、大きな目で古藤をじっと見た。古藤も今さらのように葉子をじっと見た。

「お礼の申しようもありません。この上のお願いです。どうぞ妹たちを見てやってくださいまし。あんな人たちにはどうしたって頼んではおけませんから。……さようなら」

「さようなら」

 古藤は鸚鵡返おうむがえしに没義道もぎどうにこれだけいって、ふいと手欄てすりを離れて、麦稈むぎわら帽子を目深まぶかにかぶりながら、乳母に付き添った。

 葉子は階子はしごの上がり口まで行って二人にかさをかざしてやって、一段一段遠ざかって行く二人ふたりの姿を見送った。東京で別れを告げた愛子や貞世の姿が、雨にぬれた傘のへんを幻影となって見えたり隠れたりしたように思った。葉子は不思議な心の執着から定子にはとうとう会わないでしまった。愛子と貞世とはぜひ見送りがしたいというのを、葉子はしかりつけるようにいってとめてしまった。葉子が人力車で家を出ようとすると、なんの気なしに愛子が前髪から抜いてびんをかこうとしたくしが、もろくもぽきりと折れた。それを見ると愛子はこらえ堪えていた涙のせきを切って声を立てて泣き出した。貞世は初めから腹でも立てたように、燃えるような目からとめどなく涙を流して、じっと葉子を見つめてばかりいた。そんな痛々しい様子がその時まざまざと葉子の目の前にちらついたのだ。一人ひとりぽっちで遠い旅に鹿島立かしまだって行く自分というものがあじきなくも思いやられた。そんな心持ちになるとせわしい間にも葉子はふと田川のほうを振り向いて見た。中学校の制服を着た二人の少年と、髪をお下げにして、帯をおはさみにしめた少女とが、田川と夫人との間にからまってちょうど告別をしているところだった。付き添いのりの女が少女を抱き上げて、田川夫人の口びるをその額に受けさしていた。葉子はそんな場面を見せつけられると、他人事ひとごとながら自分が皮肉でむちうたれるように思った。りゅうをも化して牝豚めぶたにするのは母となる事だ。今の今まで焼くように定子の事を思っていた葉子は、田川夫人に対してすっかり反対の事を考えた。葉子はそのいまいましい光景から目を移して舷梯げんていのほうを見た。しかしそこにはもう乳母の姿も古藤の影もなかった。

 たちまち船首のほうからけたたましい銅鑼どらの音が響き始めた。船の上下は最後のどよめきに揺らぐように見えた。長い綱を引きずって行く水夫が帽子の落ちそうになるのを右の手でささえながら、あたりの空気に激しい動揺を起こすほどの勢いで急いで葉子のかたわらを通りぬけた。見送り人は一斉いっせいに帽子を脱いで舷梯のほうに集まって行った。その際になって五十川女史ははたと葉子の事を思い出したらしく、田川夫人に何かいっておいて葉子のいる所にやって来た。

「いよいよお別れになったが、いつぞやお話しした田川の奥さんにおひきあわせしようからちょっと」

 葉子は五十川女史の親切ぶりの犠牲になるのを承知しつつ、一種の好奇心にひかされて、そのあとについて行こうとした。葉子に初めて物をいう田川の態度も見てやりたかった。その時、

「葉子さん」

 と突然いって、葉子の肩に手をかけたものがあった。振り返るとビールの酔いのにおいがむせかえるように葉子の鼻を打って、目のしんまであかくなった知らない若者の顔が、近々と鼻先にあらわれていた。はっと身を引く暇もなく、葉子の肩はびしょぬれになった酔いどれの腕でがっしりと巻かれていた。

「葉子さん、覚えていますかわたしを……あなたはわたしの命なんだ。命なんです」

 といううちにも、その目からはほろほろと煮えるような涙が流れて、まだうら若いなめらかなほおを伝った。ひざから下がふらつくのを葉子にすがって危うくささえながら、

「結婚をなさるんですか……おめでとう……おめでとう……だがあなたが日本にいなくなると思うと……いたたまれないほど心細いんだ……わたしは……」

 もう声さえ続かなかった。そして深々と息気いきをひいてしゃくり上げながら、葉子の肩に顔を伏せてさめざめと男泣きに泣き出した。

 この不意な出来事はさすがに葉子を驚かしもし、きまりも悪くさせた。だれだとも、いつどこであったとも思い出す由がない。木部孤笻きべこきょうと別れてから、何という事なしに捨てばちな心地ここちになって、だれかれの差別もなく近寄って来る男たちに対して勝手気ままを振る舞ったその間に、偶然に出あって偶然に別れた人の中の一人ひとりでもあろうか。浅い心でもてあそんで行った心の中にこの男の心もあったであろうか。とにかく葉子には少しも思い当たるふしがなかった。葉子はその男から離れたい一心に、手に持った手鞄てかばんと包み物とを甲板の上にほうりなげて、若者の手をやさしく振りほどこうとして見たが無益だった。親類や朋輩ほうばいたちの事あれがしな目が等しく葉子に注がれているのを葉子は痛いほど身に感じていた。と同時に、男の涙が薄い単衣ひとえの目をとおして、葉子の膚にしみこんで来るのを感じた。乱れたつやつやしい髪のにおいもつい鼻の先で葉子の心を動かそうとした。恥も外聞も忘れ果てて、大空の下ですすり泣く男の姿を見ていると、そこにはかすかな誇りのような気持ちがわいて来た。不思議な憎しみといとしさがこんがらかって葉子の心の中で渦巻うずまいた。葉子は、

「さ、もう放してくださいまし、船が出ますから」

 ときびしくいって置いて、かんで含めるように、

「だれでも生きてる間は心細く暮らすんですのよ」

 とその耳もとにささやいて見た。若者はよくわかったというふうに深々とうなずいた。しかし葉子を抱く手はきびしく震えこそすれ、ゆるみそうな様子は少しも見えなかった。

 物々しい銅鑼どらの響きは左舷から右舷に回って、また船首のほうに聞こえて行こうとしていた。船員も乗客も申し合わしたように葉子のほうを見守っていた。先刻から手持ちぶさたそうにただ立って成り行きを見ていた五十川女史は思いきって近寄って来て、若者を葉子から引き離そうとしたが、若者はむずかる子供のように地だんだを踏んでますます葉子に寄り添うばかりだった。船首のほうに群がって仕事をしながら、この様子を見守っていた水夫たちは一斉いっせいに高く笑い声を立てた。そしてその中の一人はわざと船じゅうに聞こえ渡るようなくさめをした。抜錨ばつびょうの時刻は一秒一秒にせまっていた。物笑いのまとになっている、そう思うと葉子の心はいとしさから激しいいとわしさに変わって行った。

「さ、お放しください、さ」

 ときわめて冷酷にいって、葉子は助けを求めるようにあたりを見回した。

 田川博士のそばにいて何か話をしていた一人の大兵たいひょうな船員がいたが、葉子の当惑しきった様子を見ると、いきなり大股おおまたに近づいて来て、

「どれ、わたしが下までお連れしましょう」

 というや否や、葉子の返事も待たずに若者を事もなく抱きすくめた。若者はこの乱暴にかっとなって怒り狂ったが、その船員は小さな荷物でも扱うように、若者の胴のあたりを右わきにかいこんで、やすやすと舷梯げんていを降りて行った。五十川女史はあたふたと葉子に挨拶あいさつもせずにそのあとに続いた。しばらくすると若者は桟橋の群集の間に船員の手からおろされた。

 けたたましい汽笛が突然鳴りはためいた。田川夫妻の見送り人たちはこの声で活を入れられたようになって、どよめき渡りながら、田川夫妻の万歳をもう一度繰り返した。若者を桟橋に連れて行った、かの巨大な船員は、大きな体躯たいくましらのように軽くもてあつかって、音も立てずに桟橋からずしずしと離れて行く船の上にただ一条の綱を伝って上がって来た。人々はまたその早業はやわざに驚いて目を見張った。

 葉子の目は怒気を含んで手欄てすりからしばらくの間かの若者を見据えていた。若者は狂気のように両手を広げて船に駆け寄ろうとするのを、近所に居合わせた三四人の人があわてて引き留める、それをまたすり抜けようとして組み伏せられてしまった。若者は組み伏せられたまま左の腕を口にあてがって思いきりかみしばりながら泣き沈んだ。その牛のうめき声のような泣き声が気疎けうとく船の上まで聞こえて来た。見送り人は思わず鳴りを静めてこの狂暴な若者に目を注いだ。葉子も葉子で、姿も隠さず手欄てすりに片手をかけたまま突っ立って、同じくこの若者を見据えていた。といって葉子はその若者の上ばかりを思っているのではなかった。自分でも不思議だと思うような、うつろな余裕がそこにはあった。古藤が若者のほうには目もくれずにじっと足もとを見つめているのにも気が付いていた。死んだ姉の晴れ着を借り着していい心地ここちになっているような叔母おばの姿も目に映っていた。船のほうに後ろを向けて(おそらくそれは悲しみからばかりではなかったろう。その若者の挙動が老いた心をひしいだに違いない)手ぬぐいをしっかりと両眼にあてている乳母うばも見のがしてはいなかった。

 いつのまに動いたともなく船は桟橋から遠ざかっていた。人の群れが黒蟻くろありのように集まったそこの光景は、葉子の目の前にひらけて行く大きな港の景色の中景になるまでに小さくなって行った。葉子の目は葉子自身にも疑われるような事をしていた。その目は小さくなった人影の中から乳母の姿を探り出そうとせず、一種のなつかしみを持つ横浜の市街を見納めにながめようとせず、凝然として小さくうずくまる若者ののらしい黒点を見つめていた。若者の叫ぶ声が、桟橋の上で打ち振るハンケチの時々ぎらぎらと光るごとに、葉子の頭の上に張り渡された雨よけの帆布ほぬのはしから余滴したたりぽつりぽつりと葉子の顔を打つたびに、断続して聞こえて来るように思われた。

「葉子さん、あなたは私を見殺しにするんですか……見殺しにするん……」


一〇


 始めての旅客も物慣れた旅客も、抜錨ばつびょうしたばかりの船の甲板に立っては、落ち付いた心でいる事ができないようだった。跡始末のためにせわしく右往左往する船員の邪魔になりながら、何がなしの興奮にじっとしてはいられないような顔つきをして、乗客は一人ひとり残らず甲板に集まって、今まで自分たちがそば近く見ていた桟橋のほうに目を向けていた。葉子もその様子だけでいうと、他の乗客と同じように見えた。葉子は他の乗客と同じように手欄てすりによりかかって、静かな春雨はるさめのように降っている雨のしずくに顔をなぶらせながら、波止場はとばのほうをながめていたが、けれどもそのひとみにはなんにも映ってはいなかった。その代わり目と脳との間とおぼしいあたりを、親しい人やうとい人が、何かわけもなくせわしそうに現われ出て、銘々いちばん深い印象を与えるような動作をしては消えて行った。葉子の知覚は半分眠ったようにぼんやりして注意するともなくその姿に注意をしていた。そしてこの半睡の状態が破れでもしたらたいへんな事になると、心のどこかのすみでは考えていた。そのくせ、それを物々しく恐れるでもなかった。からだまでが感覚的にしびれるような物うさを覚えた。

 若者が現われた。(どうしてあの男はそれほどの因縁いんねんもないのに執念しゅうねく付きまつわるのだろうと葉子は他人事ひとごとのように思った)その乱れた美しい髪の毛が、夕日とかがやくまぶしい光の中で、ブロンドのようにきらめいた。かみしめたその左の腕から血がぽたぽたとしたたっていた。そのしたたりが腕から離れて宙に飛ぶごとに、虹色にじいろにきらきらとともえを描いて飛びおどった。

「……わたしを見捨てるん……」

 葉子はその声をまざまざと聞いたと思った時、目がさめたようにふっとあらためて港を見渡した。そして、なんの感じも起こさないうちに、熟睡からちょっと驚かされた赤児あかごが、またたわいなく眠りに落ちて行くように、再び夢ともうつつともない心に返って行った。港の景色はいつのまにか消えてしまって、自分で自分の腕にしがみ付いた若者の姿が、まざまざと現われ出た。葉子はそれを見ながらどうしてこんな変な心持ちになるのだろう。血のせいとでもいうのだろうか。事によるとヒステリーにかかっているのではないかしらんなどとのんきに自分の身の上を考えていた。いわば悠々ゆうゆう閑々と澄み渡った水の隣に、薄紙一重ひとえさかいも置かず、たぎり返ってうず巻き流れる水がある。葉子の心はその静かなほうの水に浮かびながら、滝川の中にもまれもまれて落ちて行く自分というものを他人事ひとごとのようにながめやっているようなものだった。葉子は自分の冷淡さにあきれながら、それでもやっぱり驚きもせず、手欄てすりによりかかってじっと立っていた。

「田川法学博士はかせ

 葉子はまたふといたずら者らしくこんなことを思っていた。が、田川夫妻が自分と反対のげん籐椅子とういすに腰かけて、世辞世辞しく近寄って来る同船者と何か戯談口じょうだんぐちでもきいているとひとりで決めると、安心でもしたように幻想はまたかの若者にかえって行った。葉子はふと右の肩に暖かみを覚えるように思った。そこには若者の熱い涙がみ込んでいるのだ。葉子は夢遊病者のような目つきをして、やや頭を後ろに引きながら肩の所を見ようとすると、その瞬間、若者を船から桟橋に連れ出した船員の事がはっと思い出されて、今までめしいていたような目に、まざまざとその大きな黒い顔が映った。葉子はなお夢みるような目を見開いたまま、船員の濃いまゆから黒い口髭くちひげのあたりを見守っていた。

 船はもうかなり速力を早めて、霧のように降るともなく降る雨の中を走っていた。舷側げんそくから吐き出される捨て水の音がざあざあと聞こえ出したので、遠い幻想の国から一そく飛びに取って返した葉子は、夢ではなく、まがいもなく目の前に立っている船員を見て、なんという事なしにぎょっとほんとうに驚いて立ちすくんだ。始めてアダムを見たイヴのように葉子はまじまじと珍しくもないはずの一人ひとりの男を見やった。

「ずいぶん長い旅ですが、何、もうこれだけ日本が遠くなりましたんだ」

 といってその船員は右手を延べて居留地の鼻を指さした。がっしりした肩をゆすって、勢いよく水平に延ばしたその腕からは、強くはげしく海上に生きる男の力がほとばしった。葉子は黙ったまま軽くうなずいた、胸の下の所に不思議な肉体的な衝動をかすかに感じながら。

「お一人ひとりですな」

 塩がれた強い声がまたこう響いた。葉子はまた黙ったまま軽くうなずいた。

 船はやがて乗りたての船客の足もとにかすかな不安を与えるほどに速力を早めて走り出した。葉子は船員から目を移して海のほうを見渡して見たが、自分のそばに一人の男が立っているという、強い意識から起こって来る不安はどうしても消す事ができなかった。葉子にしてはそれは不思議な経験だった。こっちから何か物をいいかけて、この苦しい圧迫を打ち破ろうと思ってもそれができなかった。今何か物をいったらきっとひどい不自然な物のいいかたになるに決まっている。そうかといってその船員には無頓着むとんじゃくにもう一度前のような幻想に身を任せようとしてもだめだった。神経が急にざわざわと騒ぎ立って、ぼーっとけぶった霧雨きりさめのかなたさえ見とおせそうに目がはっきりして、先ほどのおっかぶさるような暗愁は、いつのまにかはかない出来心のしわざとしか考えられなかった。その船員は傍若無人ぼうじゃくぶじん衣嚢かくしの中から何か書いた物を取り出して、それを鉛筆でチェックしながら、時々思い出したように顔を引いてまゆをしかめながら、えりの折り返しについたしみを、親指のつめでごしごしと削ってははじいていた。

 葉子の神経はそこにいたたまれないほどちかちかと激しく働き出した。自分と自分との間にのそのそと遠慮もなく大股おおまたではいり込んで来る邪魔者でも避けるように、その船員から遠ざかろうとして、つと手欄てすりから離れて自分の船室のほうに階子段はしごだんを降りて行こうとした。

「どこにおいでです」

 後ろから、葉子の頭から爪先つまさきまでを小さなものででもあるように、一目にめて見やりながら、その船員はこう尋ねた。葉子は、

「船室まで参りますの」

 と答えないわけには行かなかった。その声は葉子の目論見もくろみに反して恐ろしくしとやかな響きを立てていた。するとその男は大股おおまたで葉子とすれすれになるまで近づいて来て、

船室カビンならば永田ながたさんからのお話もありましたし、おひとり旅のようでしたから、医務室のわきに移しておきました。御覧になった前の部屋へやより少し窮屈かもしれませんが、何かに御便利ですよ。御案内しましょう」

 といいながら葉子をすり抜けて先に立った。何か芳醇ほうじゅんな酒のしみ葉巻煙草シガーとのにおいが、この男固有の膚のにおいででもあるように強く葉子の鼻をかすめた。葉子は、どしんどしんと狭い階子段はしごだんを踏みしめながら降りて行くその男の太い首から広い肩のあたりをじっと見やりながらそのあとに続いた。

 二十四五脚の椅子いすが食卓に背を向けてずらっとならべてある食堂の中ほどから、横丁よこちょうのような暗い廊下をちょっとはいると、右の戸に「医務室」と書いた頑丈がんじょう真鍮しんちゅうの札がかかっていて、その向かいの左の戸には「No.12 早月葉子殿」と白墨で書いた漆塗うるしぬりの札が下がっていた。船員はつかつかとそこにはいって、いきなり勢いよく医務室の戸をノックすると、高いダブル・カラーの前だけをはずして、上着を脱ぎ捨てた船医らしい男が、あたふたと細長いなま白い顔を突き出したが、そこに葉子が立っているのを目ざとく見て取って、あわてて首を引っ込めてしまった。船員は大きなはばかりのない声で、

「おい十二番はすっかり掃除そうじができたろうね」

 というと、医務室の中からは女のような声で、

「さしておきましたよ。きれいになってるはずですが、御覧なすってください。わたしは今ちょっと」

 と船医は姿を見せずに答えた。

「こりゃいったい船医の私室プライベートなんですが、あなたのためにお明け申すっていってくれたもんですから、ボーイに掃除するようにいいつけておきましたんです。ど、きれいになっとるかしらん」

 船員はそうつぶやきながら戸をあけて一わたり中を見回した。

「むゝ、いいようです」

 そして道を開いて、衣嚢かくしから「日本郵船会社絵島丸えじままる事務長勲六等倉地三吉くらちさんきち」と書いた大きな名刺を出して葉子に渡しながら、

「わたしが事務長をしとります。御用があったらなんでもどうか」

 葉子はまた黙ったままうなずいてその大きな名刺を手に受けた。そして自分の部屋へやときめられたその部屋の高いしきいを越えようとすると、

「事務長さんはそこでしたか」

 と尋ねながら田川博士がその夫人と打ち連れて廊下の中に立ち現われた。事務長が帽子を取って挨拶あいさつしようとしている間に、洋装の田川夫人は葉子を目ざして、スカーツの絹ずれの音を立てながらつかつかと寄って来て眼鏡めがねの奥から小さく光る目でじろりと見やりながら、

「五十川さんがうわさしていらしった方はあなたね。なんとかおっしゃいましたねお名は」

 といった。この「なんとかおっしゃいましたね」という言葉が、名もないものをあわれんで見てやるという腹を充分に見せていた。今まで事務長の前で、珍しく受け身になっていた葉子は、この言葉を聞くと、強い衝動を受けたようになってわれに返った。どういう態度で返事をしてやろうかという事が、いちばんに頭の中で二十日鼠はつかねずみのようにはげしく働いたが、葉子はすぐ腹を決めてひどく下手したでに尋常に出た。「あ」と驚いたような言葉を投げておいて、丁寧に低くつむりを下げながら、

「こんな所まで……恐れ入ります。わたし早月葉さつきようと申しますが、旅には不慣れでおりますのにひとり旅でございますから……」

 といってひとみを稲妻のように田川に移して、

「御迷惑ではこざいましょうが何分よろしく願います」

 とまたつむりを下げた。田川はその言葉の終わるのを待ち兼ねたように引き取って、

「何不慣れはわたしの妻も同様ですよ。何しろこの船の中には女は二人ふたりぎりだからお互いです」

 とあまりなめらかにいってのけたので、妻の前でもはばかるように今度は態度を改めながら事務長に向かって、

「チャイニース・ステアレージには何人なんにんほどいますか日本の女は」

 と問いかけた。事務長は例の塩から声で

「さあ、まだ帳簿もろくろく整理して見ませんから、しっかりとはわかり兼ねますが、何しろこのごろはだいぶふえました。三四十人もいますか。奥さんここが医務室です。何しろ九月といえば旧の二八月の八月ですから、太平洋のほうはける事もありますんだ。たまにはここにも御用ができますぞ。ちょっと船医も御紹介しておきますで」

「まあそんなに荒れますか」

 と田川夫人は実際恐れたらしく、葉子を顧みながら少し色をかえた。事務長は事もなげに、

けますんだずいぶん」

 と今度は葉子のほうをまともに見やってほほえみながら、おりから部屋へやを出て来た興録こうろくという船医を三人に引き合わせた。

 田川夫妻を見送ってから葉子は自分の部屋にはいった。さらぬだにどこかじめじめするような船室カビンには、きょうの雨のために蒸すような空気がこもっていて、汽船特有な西洋臭いにおいがことに強く鼻についた。帯の下になった葉子の胸から背にかけたあたりは汗がじんわりにじみ出たらしく、むしむしするような不愉快を感ずるので、狭苦しい寝台バースを取りつけたり、洗面台を据えたりしてあるその間に、窮屈に積み重ねられた小荷物を見回しながら、帯を解き始めた。化粧鏡の付いた箪笥たんすの上には、果物くだもののかごが一つと花束が二つ載せてあった。葉子は襟前えりまえをくつろげながら、だれからよこしたものかとその花束の一つを取り上げると、そのそばから厚い紙切れのようなものが出て来た。手に取って見ると、それは手札形の写真だった。まだ女学校に通っているらしい、髪を束髪そくはつにした娘の半身像で、その裏には「興録さま。取り残されたる千代ちよより」としてあった。そんなものを興録がしまい忘れるはずがない。わざと忘れたふうに見せて、葉子の心に好奇心なり軽い嫉妬しっとなりをあおり立てようとする、あまり手もとの見えすいたからくりだと思うと、葉子はさげすんだ心持ちで、犬にでもするようにぽいとそれを床の上にほうりなげた。一人ひとりの旅の婦人に対して船の中の男の心がどういうふうに動いているかをその写真一枚が語りがおだった、葉子はなんという事なしに小さな皮肉な笑いを口びるの所に浮かべていた。

 寝台の下に押し込んである平べったいトランクを引き出して、その中から浴衣ゆかたを取り出していると、ノックもせずに突然戸をあけたものがあった。葉子は思わず羞恥しゅうちから顔を赤らめて、引き出した派手はでな浴衣をたてに、しだらなく脱ぎかけた長襦袢ながじゅばんの姿をかくまいながら立ち上がって振り返って見ると、それは船医だった。はなやかな下着を浴衣の所々からのぞかせて、帯もなくほっそりと途方に暮れたように身をしゃにして立った葉子の姿は、男の目にはほしいままな刺激だった。懇意ずくらしく戸もたたかなかった興録もさすがにどぎまぎして、はいろうにも出ようにも所在に窮して、しきいに片足を踏み入れたまま当惑そうに立っていた。

「飛んだふうをしていまして御免くださいまし。さ、おはいり遊ばせ。なんぞ御用でもいらっしゃいましたの」

 と葉子は笑いかまけたようにいった。興録はいよいよ度を失いながら、

「いゝえ何、今でなくってもいいのですが、元のお部屋のおまくらの下にこの手紙が残っていましたのを、ボーイが届けて来ましたんで、早くさし上げておこうと思って実は何したんでしたが……」

 といいながら衣嚢かくしから二通の手紙を取り出した。手早く受け取って見ると、一つは古藤が木村にあてたもの、一つは葉子にあてたものだった。興録はそれを手渡すと、一種の意味ありげな笑いを目だけに浮かべて、顔だけはいかにももっともらしく葉子を見やっていた。自分のした事を葉子もしたと興録は思っているに違いない。葉子はそう推量すると、かの娘の写真を床の上から拾い上げた。そしてわざと裏を向けながら見向きもしないで、

「こんなものがここにも落ちておりましたの。お妹さんでいらっしゃいますか。おきれいですこと」

 といいながらそれをつき出した。

 興録は何かいいわけのような事をいって部屋へやを出て行った。と思うとしばらくして医務室のほうから事務長のらしい大きな笑い声が聞こえて来た。それを聞くと、事務長はまだそこにいたかと、葉子はわれにもなくはっとなって、思わず着かえかけた着物の衣紋えもんに左手をかけたまま、うつむきかげんになって横目をつかいながら耳をそばだてた。破裂するような事務長の笑い声がまた聞こえて来た。そして医務室の戸をさっとあけたらしく、声が急に一倍大きくなって、

「Devil take it! No tame creature then,eh?」と乱暴にいう声が聞こえたが、それとともにマッチをする音がして、やがて葉巻はまきをくわえたままの口ごもりのする言葉で、

「もうじき検疫けんえき船だ。準備はいいだろうな」

 といい残したまま事務長は船医の返事も待たずに行ってしまったらしかった。かすかなにおいが葉子の部屋にもかよって来た。

 葉子は聞き耳をたてながらうなだれていた顔を上げると、正面をきって何という事なしに微笑をもらした。そしてすぐぎょっとしてあたりを見回したが、われに返って自分一人ひとりきりなのに安堵あんどして、いそいそと着物を着かえ始めた。


一一


 絵島丸が横浜を抜錨ばつびょうしてからもう三日みっかたった。東京湾を出抜けると、黒潮に乗って、金華山きんかざん沖あたりからは航路を東北に向けて、まっしぐらに緯度をのぼって行くので、気温は二日ふつか目あたりから目立って涼しくなって行った。陸の影はいつのまにか船のどのげんからもながめる事はできなくなっていた。背羽根の灰色な腹の白い海鳥が、時々思い出したようにさびしい声でなきながら、船の周囲を群れ飛ぶほかには、生き物の影とては見る事もできないようになっていた。重い冷たい潮霧ガス野火のびの煙のように濛々もうもうと南に走って、それが秋らしい狭霧さぎりとなって、船体を包むかと思うと、たちまちからっと晴れた青空を船に残して消えて行ったりした。格別の風もないのに海面は色濃く波打ち騒いだ。三日目からは船の中に盛んにスティームが通り始めた。

 葉子はこの三日というもの、一度も食堂に出ずに船室にばかり閉じこもっていた。船に酔ったからではない。始めて遠い航海を試みる葉子にしては、それが不思議なくらいたやすい旅だった。ふだん以上に食欲さえ増していた。神経に強い刺激が与えられて、とかく鬱結うっけつしやすかった血液も濃く重たいなりにもなめらかに血管の中を循環し、海から来る一種の力がからだのすみずみまで行きわたって、うずうずするほどな活力を感じさせた。もらし所のないその活気が運動もせずにいる葉子のからだから心に伝わって、一種の悒鬱ゆううつに変わるようにさえ思えた。

 葉子はそれでも船室を出ようとはしなかった。生まれてから始めて孤独に身を置いたような彼女は、子供のようにそれが楽しみたかったし、また船中で顔見知りのだれかれができる前に、これまでの事、これからの事を心にしめて考えてもみたいとも思った。しかし葉子が三日の間船室に引きこもり続けた心持ちには、もう少し違ったものもあった。葉子は自分が船客たちから激しい好奇の目で見られようとしているのを知っていた。立役たてやくは幕明きから舞台に出ているものではない。観客が待ちに待って、待ちくたぶれそうになった時分に、しずしずと乗り出して、舞台の空気を思うさま動かさねばならぬのだ。葉子の胸の中にはこんなずるがしこいいたずらな心も潜んでいたのだ。

 三日目の朝電燈が百合ゆりの花のしぼむように消えるころ葉子はふと深い眠りから蒸し暑さを覚えて目をさました。スティームの通って来るラディエターから、真空になった管の中に蒸汽の冷えたしたたりが落ちて立てる激しい響きが聞こえて、部屋へやの中は軽く汗ばむほど暖まっていた。三日の間狭い部屋の中ばかりにいてすわり疲れ寝疲れのした葉子は、狭苦しい寝台バースの中に窮屈に寝ちぢまった自分を見いだすと、下になった半身に軽いしびれを覚えて、からだを仰向けにした。そして一度開いた目を閉じて、美しく円味まるみを持った両の腕を頭の上に伸ばして、寝乱れた髪をもてあそびながら、さめぎわの快い眠りにまた静かに落ちて行った。が、ほどもなくほんとうに目をさますと、大きく目を見開いて、あわてたように腰から上を起こして、ちょうど目通りのところにあるいちめんに水気で曇った眼窓めまどを長いそでで押しぬぐって、ほてったほおをひやひやするその窓ガラスにすりつけながら外を見た、夜はほんとうには明け離れていないで、窓の向こうには光のない濃い灰色がどんよりと広がっているばかりだった。そして自分のからだがずっと高まってやがてまた落ちて行くなと思わしいころに、窓に近いげんざあっとあたって砕けて行く波濤はとうが、単調な底力のある震動を船室に与えて、船はかすかに横にかしいだ。葉子は身動きもせずに目にその灰色をながめながら、かみしめるように船の動揺を味わって見た。遠く遠く来たという旅情が、さすがにしみじみと感ぜられた。しかし葉子の目には女らしい涙は浮かばなかった。活気のずんずん回復しつつあった彼女には何かパセティックな夢でも見ているような思いをさせた。

 葉子はそうしたままで、過ぐる二日の間暇にまかせて思い続けた自分の過去を夢のように繰り返していた。連絡のない終わりのない絵巻がつぎつぎに広げられたり巻かれたりした。キリストを恋い恋うて、夜も昼もやみがたく、十字架を編み込んだ美しい帯を作ってささげようと一心に、日課も何もそっちのけにして、指の先がささくれるまで編み針を動かした可憐かれんな少女も、その幻想の中に現われ出た。寄宿舎の二階の窓近く大きな花を豊かに開いた木蘭もくらんにおいまでがそこいらに漂っているようだった。国分寺こくぶんじ跡の、武蔵野むさしのの一角らしいくぬぎの林も現われた。すっかり少女のような無邪気な素直すなおな心になってしまって、孤笻こきょうひざに身も魂も投げかけながら、涙とともにささやかれる孤笻の耳うちのように震えた細い言葉を、ただ「はいはい」と夢心地にうなずいてのみ込んだ甘い場面は、今の葉子とは違った人のようだった。そうかと思うと左岸のがけの上から広瀬川ひろせがわを越えて青葉山あおばやまをいちめんに見渡した仙台の景色がするすると開け渡った。夏の日は北国の空にもあふれ輝いて、白いこいし河原かわらの間をまっさおに流れる川の中には、赤裸あかはだかな少年の群れが赤々とした印象を目に与えた。草を敷かんばかりに低くうずくまって、はなやかな色合いのパラソルに日をよけながら、黙って思いにふける一人ひとりの女──その時には彼女はどの意味からも女だった──どこまでも満足の得られない心で、だんだんと世間からうずもれて行かねばならないような境遇に押し込められようとする運命。確かに道を踏みちがえたとも思い、踏みちがえたのは、だれがさした事だと神をすらなじってみたいような思い。暗い産室も隠れてはいなかった。そこの恐ろしい沈黙の中から起こる強い快い赤児あかご産声うぶごえ──やみがたい母性の意識──「われすでに世に勝てり」とでもいってみたい不思議な誇り──同時に重く胸を押えつける生の暗い急変。かかる時思いも設けず力強く迫って来る振り捨てた男の執着。あすをも頼み難い命の夕闇ゆうやみにさまよいながら、切れ切れな言葉で葉子と最後の妥協を結ぼうとする病床の母──その顔は葉子の幻想を断ち切るほどの強さで現われ出た。思い入った決心をまゆに集めて、日ごろの楽天的な性情にも似ず、運命と取り組むような真剣な顔つきで大事の結着を待つ木村の顔。母の死をあわれむとも悲しむとも知れない涙を目にはたたえながら、氷のように冷え切った心で、うつむいたまま、口一つきかない葉子自身の姿……そんな幻像まぼろしがあるいはつぎつぎに、あるいは折り重なって、灰色の霧の中に動き現われた。そして記憶はだんだんと過去から現在のほうに近づいて来た。と、事務長の倉地の浅黒く日に焼けた顔と、その広い肩とが思い出された。葉子は思いもかけないものを見いだしたようにはっとなると、その幻像はたわいもなく消えて、記憶はまた遠い過去に帰って行った。それがまただんだん現在のほうに近づいて来たと思うと、最後にはきっと倉地の姿が現われ出た。

 それが葉子をいらいらさせて、葉子は始めて夢現ゆめうつつの境からほんとうに目ざめて、うるさいものでも払いのけるように、眼窓めまどから目をそむけて寝台バースを離れた。葉子の神経は朝からひどく興奮していた。スティームで存分に暖まって来た船室の中の空気は息気いき苦しいほどだった。

 船に乗ってからろくろく運動もせずに、野菜気やさいけの少ない物ばかりをむさぼり食べたので、身内の血には激しい熱がこもって、毛のさきへまでも通うようだった。寝台バースから立ち上がった葉子は瞑眩めまいを感ずるほどに上気して、氷のような冷たいものでもひしと抱きしめたい気持ちになった。で、ふらふらと洗面台のほうに行って、ピッチャーの水をなみなみと陶器製の洗面盤にあけて、ずっぷりひたした手ぬぐいをゆるく絞って、ひやっとするのを構わず、胸をあけて、それを乳房と乳房との間にぐっとあてがってみた。強いはげしい動悸どうきが押えている手のひらへ突き返して来た。葉子はそうしたままで前の鏡に自分の顔を近づけて見た。まだ夜の気が薄暗くさまよっている中に、ほおをほてらしながら深い呼吸をしている葉子の顔が、自分にすら物すごいほどなまめかしく映っていた。葉子は物好きらしく自分の顔に訳のわからない微笑をたたえて見た。

 それでもそのうちに葉子の不思議な心のどよめきはしずまって行った。しずまって行くにつれ、葉子は今までの引き続きでまた瞑想的めいそうてきな気分に引き入れられていた。しかしその時はもう夢想家ではなかった。ごく実際的な鋭い頭が針のように光ってとがっていた。葉子はぬれ手ぬぐいを洗面盤にほうりなげておいて、静かに長椅子ながいすに腰をおろした。

 笑い事ではない。いったい自分はどうするつもりでいるんだろう。そう葉子は出発以来の問いをもう一度自分に投げかけてみた。小さい時からまわりの人たちにはばかられるほど才はじけて、同じ年ごろの女の子とはいつでも一調子違った行きかたを、するでもなくして来なければならなかった自分は、生まれる前から運命にでものろわれているのだろうか。それかといって葉子はなべての女の順々にとおって行く道を通る事はどうしてもできなかった。通って見ようとした事は幾度あったかわからない。こうさえ行けばいいのだろうと通って来て見ると、いつでも飛んでもなく違った道を歩いている自分を見いだしてしまっていた。そしてつまずいては倒れた。まわりの人たちは手を取って葉子を起こしてやる仕方しかたも知らないような顔をしてただばからしくあざわらっている。そんなふうにしか葉子には思えなかった。幾度ものそんな苦い経験が葉子を片意地な、少しも人をたよろうとしない女にしてしまった。そして葉子はいわば本能の向かせるように向いてどんどん歩くよりしかたがなかった。葉子は今さらのように自分のまわりを見回して見た。いつのまにか葉子はいちばん近しいはずの人たちからもかけ離れて、たった一人ひとりがけのきわに立っていた。そこでただ一つ葉子を崕の上につないでいる綱には木村との婚約という事があるだけだ。そこに踏みとどまればよし、さもなければ、世の中との縁はたちどころに切れてしまうのだ。世の中にきながら世の中との縁が切れてしまうのだ。木村との婚約で世の中は葉子に対して最後の和睦わぼくを示そうとしているのだ。葉子に取って、この最後の機会をも破り捨てようというのはさすがに容易ではなかった。木村といふ首桎くびかせを受けないでは生活の保障が絶え果てなければならないのだから。葉子の懐中には百五十ドルの米貨があるばかりだった。定子の養育費だけでも、米国に足をおろすや否や、すぐに木村にたよらなければならないのは目の前にわかっていた。後詰ごづめとなってくれる親類の一人もないのはもちろんの事、ややともすれば親切ごかしに無いものまでせびり取ろうとする手合いが多いのだ。たまたま葉子の姉妹の内実を知って気の毒だと思っても、葉子ではというように手出しを控えるものばかりだった。木村──葉子には義理にも愛も恋も起こり得ない木村ばかりが、葉子に対するただ一人の戦士なのだ。あわれな木村は葉子の蠱惑チャームに陥ったばかりで、早月家さつきけの人々から否応いやおうなしにこの重い荷を背負わされてしまっているのだ。

 どうしてやろう。

 葉子は思い余ったその場のがれから、箪笥たんすの上に興録こうろくから受け取ったまま投げ捨てて置いた古藤の手紙を取り上げて、白い西洋封筒の一端を美しい指のつめ丹念たんねんに細く破り取って、手筋は立派ながらまだどこかたどたどしい手跡でペンで走り書きした文句を読み下して見た。

「あなたはおさんどんになるという事を想像してみる事ができますか。おさんどんという仕事が女にあるという事を想像してみる事ができますか。僕はあなたを見る時はいつでもそう思って不思議な心持ちになってしまいます。いったい世の中には人を使って、人から使われるという事を全くしないでいいという人があるものでしょうか。そんな事ができうるものでしょうか。僕はそれをあなたに考えていただきたいのです。

 あなたは奇態な感じを与える人です。あなたのなさる事はどんな危険な事でも危険らしく見えません。行きづまった末にはこうという覚悟がちゃんとできているように思われるからでしょうか。

 僕があなたに始めてお目にかかったのは、この夏あなたが木村君と一緒に八幡やわたに避暑をしておられた時ですから、あなたについては僕は、なんにも知らないといっていいくらいです。僕は第一一般的に女というものについてなんにも知りません。しかし少しでもあなたを知っただけの心持ちからいうと、女の人というものは僕に取っては不思議ななぞです。あなたはどこまで行ったら行きづまると思っているんです。あなたはすでに木村君で行きづまっている人なんだと僕には思われるのです。結婚を承諾した以上はその良人おっとに行きづまるのが女の人の当然な道ではないでしょうか。木村君で行きづまってください。木村君にあなたを全部与えてください。木村君の親友としてこれが僕の願いです。

 全体同じ年齢でありながら、あなたからは僕などは子供に見えるのでしょうから、僕のいう事などは頓着とんじゃくなさらないかと思いますが、子供にも一つの直覚はあります。そして子供はきっぱりした物の姿が見たいのです。あなたが木村君の妻になると約束した以上は、僕のいう事にも権威があるはずだと思います。

 僕はそうはいいながら一面にはあなたがうらやましいようにも、憎いようにも、かわいそうなようにも思います。あなたのなさる事が僕の理性を裏切って奇怪な同情をび起こすようにも思います。僕は心の底に起こるこんな働きをもしいて押しつぶして理屈一方に固まろうとは思いません。それほど僕は道学者ではないつもりです。それだからといって、今のままのあなたでは、僕にはあなたを敬親する気は起こりません。木村君の妻としてあなたを敬親したいから、僕はあえてこんな事を書きました。そういう時が来るようにしてほしいのです。

 木村君の事を──あなたを熱愛してあなたのみに希望をかけている木村君の事を考えると僕はこれだけの事を書かずにはいられなくなります。

古藤義一
木村葉子様」

 それは葉子に取ってはほんとうの子供っぽい言葉としか響かなかった。しかし古藤は妙に葉子には苦手にがてだった。今も古藤の手紙を読んで見ると、ばかばかしい事がいわれているとは思いながらも、いちばん大事な急所を偶然のようにしっかり捕えているようにも感じられた。ほんとうにこんな事をしていると、子供と見くびっている古藤にもあわれまれるはめになりそうな気がしてならなかった。葉子はなんという事なく悒鬱ゆううつになって古藤の手紙を巻きおさめもせずひざの上に置いたまま目をすえて、じっと考えるともなく考えた。

 それにしても、新しい教育を受け、新しい思想を好み、世事にうといだけに、世の中の習俗からも飛び離れて自由でありげに見える古藤さえが、葉子が今立っているがけのきわから先には、葉子が足を踏み出すのを憎み恐れる様子を明らかに見せているのだ。結婚というものが一人ひとりの女に取って、どれほど生活という実際問題と結び付き、女がどれほどその束縛の下に悩んでいるかを考えてみる事さえしようとはしないのだ。そう葉子は思ってもみた。

 これから行こうとする米国という土地の生活も葉子はひとりでにいろいろと想像しないではいられなかった。米国の人たちはどんなふうに自分を迎え入れようとはするだろう。とにかく今までの狭い悩ましい過去と縁を切って、何のかかわりもない社会の中に乗り込むのはおもしろい。和服よりもはるかに洋服に適した葉子は、そこの交際社会でも風俗では米国人を笑わせない事ができる。歓楽でも哀傷でもしっくりと実生活の中に織り込まれているような生活がそこにはあるに違いない。女のチャームというものが、習慣的なきずなから解き放されて、その力だけに働く事のできる生活がそこにはあるに違いない。才能と力量さえあれば女でも男の手を借りずに自分をまわりの人に認めさす事のできる生活がそこにはあるに違いない。女でも胸を張って存分呼吸のできる生活がそこにはあるに違いない。少なくとも交際社会のどこかではそんな生活が女に許されているに違いない。葉子はそんな事を空想するとむずむずするほど快活になった。そんな心持ちで古藤の言葉などを考えてみると、まるで老人の繰り言のようにしか見えなかった。葉子は長い黙想の中から活々いきいきと立ち上がった。そして化粧をすますために鏡のほうに近づいた。

 木村を良人おっととするのになんの屈託くったくがあろう。木村が自分の良人おっとであるのは、自分が木村の妻であるというほどに軽い事だ。木村という仮面……葉子は鏡を見ながらそう思ってほほえんだ。そして乱れかかる額ぎわの髪を、振り仰いで後ろになでつけたり、両方のびんを器用にかき上げたりして、良工が細工物でもするように楽しみながら元気よく朝化粧を終えた。ぬれた手ぬぐいで、鏡に近づけた目のまわりの白粉おしろいをぬぐい終わると、口びるを開いて美しくそろった歯並みをながめ、両方の手の指をつぼの口のように一所ひとところに集めてつめ掃除そうじが行き届いているか確かめた。見返ると船に乗る時着て来た単衣ひとえのじみな着物は、世捨て人のようにだらりと寂しく部屋へやのすみの帽子かけにかかったままになっていた。葉子は派手はであわせをトランクの中から取り出して寝衣ねまきと着かえながら、それに目をやると、肩にしっかりとしがみ付いて、泣きおめいたの狂気じみた若者の事を思った。と、すぐそのそばから若者を小わきにかかえた事務長の姿が思い出された。小雨の中を、外套がいとうも着ずに、小荷物でも運んで行ったように若者を桟橋の上におろして、ちょっと五十川いそがわ女史に挨拶あいさつして船から投げた綱にすがるや否や、静かに岸から離れてゆく船の甲板の上に軽々と上がって来たその姿が、葉子の心をくすぐるように楽しませて思い出された。

 夜はいつのまにか明け離れていた。眼窓めまどの外は元のままに灰色はしているが、活々いきいきとした光が添い加わって、甲板の上を毎朝規則正しく散歩する白髪の米人とその娘との足音がこつこつ快活らしく聞こえていた。化粧をすました葉子は長椅子ながいすにゆっくり腰をかけて、両足をまっすぐにそろえて長々と延ばしたまま、うっとりと思うともなく事務長の事を思っていた。

 その時突然ノックをしてボーイがコーヒーを持ってはいって来た。葉子は何か悪い所でも見つけられたようにちょっとぎょっとして、延ばしていた足のひざを立てた。ボーイはいつものように薄笑いをしてちょっと頭を下げて銀色の盆を畳椅子たたみいすの上においた。そしてきょうも食事はやはり船室に運ぼうかと尋ねた。

「今晩からは食堂にしてください」

 葉子はうれしい事でもいって聞かせるようにこういった。ボーイはまじめくさって「はい」といったが、ちらりと葉子を上目で見て、急ぐように部屋へやを出た。葉子はボーイが部屋へやを出てどんなふうをしているかがはっきり見えるようだった。ボーイはすぐににこにこと不思議な笑いをもらしながらケーク・ウォークの足つきで食堂のほうに帰って行ったに違いない。ほどもなく、

「え、いよいよ御来迎ごらいごう?」

「来たね」

 というような野卑な言葉が、ボーイらしい軽薄な調子で声高こわだかに取りかわされるのを葉子は聞いた。

 葉子はそんな事を耳にしながらやはり事務長の事を思っていた。「三日も食堂に出ないで閉じこもっているのに、なんという事務長だろう、一ぺんも見舞いに来ないとはあんまりひどい」こんな事を思っていた。そしてその一方では縁もゆかりもない馬のようにただ頑丈がんじょう一人ひとりの男がなんでこう思い出されるのだろうと思っていた。

 葉子は軽いため息をついて何げなく立ち上がった。そしてまた長椅子ながいすに腰かける時にはたなの上から事務長の名刺を持って来てながめていた。「日本郵船会社絵島丸事務長勲六等倉地三吉」と明朝ミンチョウはっきり書いてある。葉子は片手でコーヒーをすすりながら、名刺を裏返してその裏をながめた。そしてまっ白なその裏に何か長い文句でも書いであるかのように、二重になる豊かなあごえりの間に落として、少しまゆをひそめながら、長い間まじろぎもせず見つめていた。


一二


 その日の夕方、葉子は船に来てから始めて食堂に出た。着物は思いきって地味じみなくすんだのを選んだけれども、顔だけは存分に若くつくっていた。二十はたちを越すや越さずに見える、目の大きな、沈んだ表情の彼女の襟の藍鼠あいねずみは、なんとなく見る人の心を痛くさせた。細長い食卓の一端に、カップ・ボードを後ろにして座を占めた事務長の右手には田川夫人がいて、その向かいが田川博士、葉子の席は博士のすぐ隣に取ってあった。そのほかの船客も大概はすでに卓に向かっていた。葉子の足音が聞こえると、いち早く目くばせをし合ったのはボーイ仲間で、その次にひどく落ち付かぬ様子をし出したのは事務長と向かい合って食卓の他の一端にいたひげの白いアメリカ人の船長であった。あわてて席を立って、右手にナプキンを下げながら、自分の前を葉子に通らせて、顔をまっにして座に返った。葉子はしとやかに人々の物数奇ものずきらしい視線を受け流しながら、ぐるっと食卓を回って自分の席まで行くと、田川博士はかせはぬすむように夫人の顔をちょっとうかがっておいて、ふとったからだをよけるようにして葉子を自分の隣にすわらせた。

 すわりずまいをただしている間、たくさんの注視の中にも、葉子は田川夫人の冷たいひとみの光を浴びているのを心地ここち悪いほどに感じた。やがてきちんとつつましく正面を向いて腰かけて、ナプキンを取り上げながら、まず第一に田川夫人のほうに目をやってそっと挨拶あいさつすると、今までの角々かどかどしい目にもさすがに申しわけほどのみを見せて、夫人が何かいおうとした瞬間、その時までぎごちなく話を途切らしていた田川博士も事務長のほうを向いて何かいおうとしたところであったので、両方の言葉が気まずくぶつかりあって、夫婦は思わず同時に顔を見合わせた。一座の人々も、日本人といわず外国人といわず、葉子に集めていたひとみを田川夫妻のほうに向けた。「失礼」といってひかえた博士に夫人はちょっと頭を下げておいて、みんなに聞こえるほどはっきり澄んだ声で、

「とんと食堂においでがなかったので、お案じ申しましたの、船にはお困りですか」

 といった。さすがに世慣れて才走ったその言葉は、人の上に立ちつけた重みを見せた。葉子はにこやかに黙ってうなずきながら、位を一段落として会釈するのをそう不快には思わぬくらいだった。二人ふたりの間の挨拶あいさつはそれなりで途切れてしまったので、田川博士はかせはおもむろに事務長に向かってし続けていた話の糸目をつなごうとした。

「それから……その……」

 しかし話の糸口は思うように出て来なかった。事もなげに落ち付いた様子に見える博士の心の中に、軽い混乱が起こっているのを、葉子はすぐ見て取った。思いどおりに一座の気分を動揺させる事ができるという自信が裏書きされたように葉子は思ってそっと満足を感じていた。そしてボーイ長のさしずでボーイらが手器用てぎように運んで来たポタージュをすすりながら、田川博士のほうの話に耳を立てた。

 葉子が食堂に現われて自分の視界にはいってくると、臆面おくめんもなくじっと目を定めてその顔を見やった後に、無頓着むとんじゃくにスプーンを動かしながら、時々食卓の客を見回して気を配っていた事務長は、下くちびるを返してひげの先を吸いながら、塩さびのした太い声で、

「それからモンロー主義の本体は」

 と話の糸目を引っぱり出しておいて、まともに博士を打ち見やった。博士は少し面伏おもぶせな様子で、

「そう、その話でしたな。モンロー主義もその主張は初めのうちは、北米の独立諸州に対してヨーロッパの干渉を拒むというだけのものであったのです。ところがその政策の内容は年と共にだんだん変わっている。モンローの宣言は立派に文字になって残っているけれども、法律というわけではなし、文章も融通ゆうずうがきくようにできているので、取りようによっては、どうにでも伸縮する事ができるのです。マッキンレー氏などはずいぶん極端にその意味を拡張しているらしい。もっともこれにはクリーブランドという人の先例もあるし、マッキンレー氏の下にはもう一人ひとり有力な黒幕があるはずだ。どうです斎藤さいとう君」

 と二三人おいた斜向はすかいの若い男を顧みた。斎藤と呼ばれた、ワシントン公使館赴任の外交官補は、まっになって、今まで葉子に向けていた目を大急ぎで博士のほうにそらして見たが、質問の要領をはっきり捕えそこねて、さらに赤くなって術ない身ぶりをした。これほどな席にさえかつて臨んだ習慣のないらしいその人の素性すじょうがそのあわてかたに充分に見えすいていた。博士は見下したような態度で暫時その青年のどぎまぎした様子を見ていたが、返事を待ちかねて、事務長のほうを向こうとした時、突然はるか遠い食卓の一端から、船長が顔をまっにして、

「You mean Teddy the roughrider?」

 といいながら子供のような笑顔えがおを人々に見せた。船長の日本語の理解力をそれほどに思い設けていなかったらしい博士は、この不意打ちに今度は自分がまごついて、ちょっと返事をしかねていると、田川夫人がさそくにそれを引き取って、

「Good hit for you,Mr. Captain !」

 と癖のない発音でいってのけた。これを聞いた一座は、ことに外国人たちは、椅子いすから乗り出すようにして夫人を見た。夫人はその時ひとの目にはつきかねるほどの敏捷すばしこさで葉子のほうをうかがった。葉子はまゆ一つ動かさずに、下を向いたままでスープをすすっていた。

 慎み深く大さじを持ちあつかいながら、葉子は自分に何かきわ立った印象を与えようとして、いろいろなまねを競い合っているような人々のさまを心の中で笑っていた。実際葉子が姿を見せてから、食堂の空気は調子を変えていた。ことに若い人たちの間には一種の重苦しい波動が伝わったらしく、物をいう時、彼らは知らず知らず激昂げきこうしたような高い調子になっていた。ことにいちばん年若く見える一人ひとりの上品な青年──船長の隣座にいるので葉子は家柄いえがらの高い生まれに違いないと思った──などは、葉子と一目顔を見合わしたが最後、震えんばかりに興奮して、顔を上げないでいた。それだのに事務長だけは、いっこう動かされた様子が見えぬばかりか、どうかした拍子ひょうしに顔を合わせた時でも、その臆面おくめんのない、人を人とも思わぬような熟視は、かえって葉子の視線をたじろがした。人間をながめあきたような気倦けだるげなその目は、濃いまつ毛の間から insolent な光を放って人を射た。葉子はこうして思わずひとみをたじろがすたびごとに事務長に対して不思議な憎しみを覚えるとともに、もう一度その憎むべき目を見すえてその中に潜む不思議を存分に見窮めてやりたい心になった。葉子はそうした気分に促されて時々事務長のほうにひきつけられるように視線を送ったが、そのたびごとに葉子のひとみはもろくも手きびしく追い退けられた。

 こうして妙な気分が食卓の上に織りなされながらやがて食事は終わった。一同が座を立つ時、物慣らされた物腰で、椅子いすを引いてくれた田川博士はかせにやさしく微笑を見せて礼をしながらも、葉子はやはり事務長の挙動を仔細しさいに見る事に半ば気を奪われていた。

「少し甲板に出てごらんになりましな。寒くとも気分は晴れ晴れしますから。わたしもちょと部屋へやに帰ってショールを取って出て見ます」

 こう葉子にいって田川夫人は良人おっとと共に自分の部屋のほうに去って行った。

 葉子も部屋に帰って見たが、今まで閉じこもってばかりいるとさほどにも思わなかったけれども、食堂ほどの広さの所からでもそこに来て見ると、息気いきづまりがしそうに狭苦しかった。で、葉子は長椅子の下から、木村の父が使い慣れた古トランク──その上に古藤が油絵の具でY・Kと書いてくれた古トランクを引き出して、その中から黒い駝鳥だちょうの羽のボアを取り出して、西洋臭いそのにおいを快く鼻に感じながら、深々と首を巻いて、甲板に出て行って見た。窮屈な階子段はしごだんをややよろよろしながらのぼって、重い戸をあけようとすると外気の抵抗がなかなか激しくって押しもどされようとした。きりっしぼり上げたような寒さが、戸のすきから縦に細長く葉子を襲った。

 甲板には外国人が五六人厚い外套がいとうにくるまって、堅いティークのゆかをかつかつと踏みならしながら、押し黙って勢いよく右往左往に散歩していた。田川夫人の姿はそのへんにはまだ見いだされなかった。塩気を含んだ冷たい空気は、室内にのみ閉じこもっていた葉子の肺を押し広げて、ほおには血液がちくちくと軽く針をさすように皮膚に近く突き進んで来るのが感ぜられた。葉子は散歩客には構わずに甲板を横ぎって船べりの手欄てすりによりかかりながら、波また波と果てしもなく連なる水の堆積たいせきをはるばるとながめやった。折り重なった鈍色にぶいろの雲のかなたに夕日の影は跡形もなく消えうせて、やみは重い不思議な瓦斯がすのように力強くすべての物を押しひしゃげていた。雪をたっぷり含んだ空だけが、その間とわずかに争って、南方には見られぬ暗い、りんのような、さびしい光を残していた。一種のテンポを取って高くなり低くなりする黒い波濤はとうのかなたには、さらに黒ずんだ波の穂が果てしもなく連なっていた。船は思ったより激しく動揺していた。赤いガラスをはめた檣燈しょうとうが空高く、右から左、左から右へと広い角度を取ってひらめいた。ひらめくたびに船が横かしぎになって、重い水の抵抗を受けながら進んで行くのが、葉子の足からからだに伝わって感ぜられた。

 葉子はふらふらと船にゆり上げゆり下げられながら、まんじりともせずに、黒い波の峰と波の谷とがかわるがわる目の前に現われるのを見つめていた。豊かな髪の毛をとおして寒さがしんしんと頭の中にしみこむのが、初めのうちは珍しくいい気持ちだったが、やがてしびれるような頭痛に変わって行った。……と急に、どこをどう潜んで来たとも知れない、いやなさびしさが盗風とうふうのように葉子を襲った。船に乗ってから春の草のようにえ出した元気はぽっきりしんを留められてしまった。こめかみがじんじんと痛み出して、泣きつかれのあとに似た不愉快な睡気ねむけの中に、胸をついてさえ催して来た。葉子はあわててあたりを見回したが、もうそこいらには散歩の人足ひとあしも絶えていた。けれども葉子は船室に帰る気力もなく、右手でしっかりと額を押えて、手欄てすりに顔を伏せながら念じるように目をつぶって見たが、いいようのないさびしさはいや増すばかりだった。葉子はふと定子を懐妊していた時のはげしい悪阻つわりの苦痛を思い出した。それはおりから痛ましい回想だった。……定子……葉子はもうそのしもとには堪えないというように頭を振って、気を紛らすために目を開いて、とめどなく動く波の戯れを見ようとしたが、一目見るやぐらぐらと眩暈めまいを感じて一たまりもなくまた突っしてしまった。深い悲しいため息が思わず出るのを留めようとしてもかいがなかった。「船に酔ったのだ」と思った時には、もうからだじゅうは不快な嘔感おうかんのためにわなわなと震えていた。

けばいい」

 そう思って手欄てすりから身を乗り出す瞬間、からだじゅうの力は腹から胸もとに集まって、背は思わずも激しく波打った。そのあとはもう夢のようだった。

 しばらくしてから葉子は力が抜けたようになって、ハンカチで口もとをぬぐいながら、たよりなくあたりを見回した。甲板かんぱんの上も波の上のように荒涼として人気ひとけがなかった。明るくの光のもれていた眼窓めまどは残らずカーテンでおおわれて暗くなっていた。右にも左にも人はいない。そう思った心のゆるみにつけ込んだのか、胸の苦しみはまた急によせ返して来た。葉子はもう一度手欄てすりに乗り出してほろほろと熱い涙をこぼした。たとえば高くつるした大石を切って落としたように、過去というものが大きな一つの暗い悲しみとなって胸を打った。物心を覚えてから二十五の今日こんにちまで、張りつめ通した心の糸が、今こそ思い存分ゆるんだかと思われるその悲しいこころよさ。葉子はそのむなしい哀感にひたりながら、重ねた両手の上に額を乗せて手欄てすりによりかかったまま重い呼吸をしながらほろほろと泣き続けた。一時性貧血を起こした額は死人のように冷えきって、泣きながらも葉子はどうかするとふっと引き入れられるように、仮睡に陥ろうとした。そうしてははっと何かに驚かされたように目を開くと、また底の知れぬ哀感がどこからともなく襲い入った。悲しい快さ。葉子は小学校にかよっている時分でも、泣きたい時には、人前では歯をくいしばっていて、人のいない所まで行って隠れて泣いた。涙を人に見せるというのは卑しい事にしか思えなかった。乞食こじきが哀れみを求めたり、老人が愚痴をいうのと同様に、葉子にはけがらわしく思えていた。しかしその夜に限っては、葉子はだれの前でも素直すなおな心で泣けるような気がした。だれかの前でさめざめと泣いてみたいような気分にさえなっていた。しみじみとあわれんでくれる人もありそうに思えた。そうした気持ちで葉子は小娘のようにたわいもなく泣きつづけていた。

 その時甲板かんぱんのかなたからくつの音が聞こえて来た。二人ふたりらしい足音だった。その瞬間まではだれの胸にでも抱きついてしみじみ泣けると思っていた葉子は、その音を聞きつけるとはっというまもなく、張りつめたいつものような心になってしまって、大急ぎで涙を押しぬぐいながら、くびすを返して自分の部屋へやもどろうとした。が、その時はもうおそかった。洋服姿の田川夫妻がはっきりと見分けがつくほどの距離に進みよっていたので、さすがに葉子もそれを見て見ぬふりでやり過ごす事はしなかった。涙をぬぐいきると、左手をあげて髪のほつれをしなをしながらかき上げた時、二人はもうすぐそばに近寄っていた。

「あらあなたでしたの。わたしどもは少し用事ができておくれましたが、こんなにおそくまで室外そとにいらしってお寒くはありませんでしたか。気分はいかがです」

 田川夫人は例の目下めしたの者にいい慣れた言葉を器用に使いながら、はっきりとこういってのぞき込むようにした。夫妻はすぐ葉子が何をしていたかを感づいたらしい。葉子はそれをひどく不快に思った。

「急に寒い所に出ましたせいですかしら、なんだかつむりがぐらぐらいたしまして」

「おもどしなさった……それはいけない」

 田川博士はかせは夫人の言葉を聞くともっともというふうに、二三度こっくりとうなずいた。厚外套あつがいとうにくるまったふとった博士と、暖かそうなスコッチの裾長すそながの服に、ロシア帽をまゆぎわまでかぶった夫人との前に立つと、やさ形の葉子は背たけこそ高いが、二人ふたりの娘ほどにながめられた。

「どうだ一緒に少し歩いてみちゃ」

 と田川博士がいうと、夫人は、

「ようございましょうよ、血液がよく循環して」と応じて葉子に散歩を促した。葉子はやむを得ず、かつかつと鳴る二人のくつの音と、自分の上草履うわぞうりの音とをさびしく聞きながら、夫人のそばにひき添って甲板かんぱんの上を歩き始めた。ギーイときしみながら船が大きくかしぐのにうまく中心を取りながら歩こうとすると、また不快な気持ちが胸先にこみ上げて来るのを葉子は強く押し静めて事もなげに振る舞おうとした。

 博士は夫人との会話の途切れ目を捕えては、話を葉子に向けて慰め顔にあしらおうとしたが、いつでも夫人が葉子のすべき返事をひったくって物をいうので、せっかくの話は腰を折られた。葉子はしかし結句けっくそれをいい事にして、自分の思いにふけりながら二人に続いた。しばらく歩きなれてみると、運動ができたためか、だんだんは感ぜぬようになった。田川夫妻は自然に葉子を会話からのけものにして、二人の間で四方山よもやまのうわさ話を取りかわし始めた。不思議なほどに緊張した葉子の心は、それらの世間話にはいささかの興味も持ち得ないで、むしろその無意味に近い言葉の数々を、自分の瞑想めいそうを妨げる騒音のようにうるさく思っていた。と、ふと田川夫人が事務長と言ったのを小耳にはさんで、思わず針でも踏みつけたようにぎょっとして、黙想から取って返して聞き耳を立てた。自分でも驚くほど神経が騒ぎ立つのをどうする事もできなかった。

「ずいぶんしたたか者らしゅうございますわね」

 そう夫人のいう声がした。

「そうらしいね」

 博士はかせの声には笑いがまじっていた。

賭博ばくちが大の上手じょうずですって」

「そうかねえ」

 事務長の話はそれぎりで絶えてしまった。葉子はなんとなく物足らなくなって、また何かいい出すだろうと心待ちにしていたが、その先を続ける様子がないので、心残りを覚えながら、また自分の心に帰って行った。

 しばらくすると夫人がまた事務長のうわさをし始めた。

「事務長のそばにすわって食事をするのはどうもいやでなりませんの」

「そんなら早月さつきさんに席を代わってもらったらいいでしょう」

 葉子はやみの中で鋭く目をかがやかしながら夫人の様子をうかがった。

「でも夫婦がテーブルにならぶって法はありませんわ……ねえ早月さん」

 こう戯談じょうだんらしく夫人はいって、ちょっと葉子のほうを振り向いて笑ったが、べつにその返事を待つというでもなく、始めて葉子の存在に気づきでもしたように、いろいろと身の上などを探りを入れるらしく聞き始めた。田川博士も時々親切らしい言葉を添えた。葉子は始めのうちこそつつましやかに事実にさほど遠くない返事をしていたものの、話がだんだん深入りして行くにつれて、田川夫人という人は上流の貴夫人だと自分でも思っているらしいに似合わない思いやりのない人だと思い出した。それはありうちの質問だったかもしれない。けれども葉子にはそう思えた。縁もゆかりもない人の前で思うままな侮辱を加えられるとむっとせずにはいられなかった。知った所がなんにもならない話を、木村の事まで根はり葉はり問いただしていったいどうしようという気なのだろう。老人でもあるならば、過ぎ去った昔を他人にくどくどと話して聞かせて、せめて慰むという事もあろう。「老人には過去を、若い人には未来を」という交際術の初歩すら心得ないがさつな人だ。自分ですらそっと手もつけないで済ませたい血なまぐさい身の上を……自分は老人ではない。葉子は田川夫人が意地いじにかかってこんな悪戯わるさをするのだと思うと激しい敵意から口びるをかんだ。

 しかしその時田川博士が、サルンからもれて来るの光で時計を見て、八時十分前だから部屋へやに帰ろうといい出したので、葉子はべつに何もいわずにしまった。三人が階子段はしごだんを降りかけた時、夫人は、葉子の気分にはいっこう気づかぬらしく、──もしそうでなければ気づきながらわざと気づかぬらしく振る舞って、

「事務長はあなたのお部屋にも遊びに見えますか」

 と突拍子とっぴょうしもなくいきなり問いかけた。それを聞くと葉子の心は何という事なしに理不尽な怒りに捕えられた。得意な皮肉でも思い存分に浴びせかけてやろうかと思ったが、胸をさすりおろしてわざと落ち付いた調子で、

「いゝえちっともお見えになりませんが……」

 と空々そらぞらしく聞こえるように答えた。夫人はまだ葉子の心持ちには少しも気づかぬふうで、

「おやそう。わたしのほうへはたびたびいらして困りますのよ」

 と小声でささやいた。「何を生意気な」葉子は前後あとさきなしにこう心のうちに叫んだが一言ひとことも口には出さなかった。敵意──嫉妬しっとともいい代えられそうな──敵意がその瞬間からすっかり根を張った。その時夫人が振り返って葉子の顔を見たならば、思わず博士はかせたてに取って恐れながら身をかわさずにはいられなかったろう、──そんな場合には葉子はもとよりその瞬間に稲妻のようにすばしこく隔意のない顔を見せたには違いなかろうけれども。葉子は一言もいわずに黙礼したまま二人ふたりに別れて部屋へやに帰った。

 室内はむっとするほど暑かった。葉子ははもう感じてはいなかったが、胸もとが妙にしめつけられるように苦しいので、急いでボアをかいやってゆかの上に捨てたまま、投げるように長椅子ながいすに倒れかかった。

 それは不思議だった。葉子の神経は時には自分でも持て余すほど鋭く働いて、だれも気のつかないにおいがたまらないほど気になったり、人の着ている着物の色合いが見ていられないほど不調和で不愉快であったり、周囲の人が腑抜ふぬけな木偶でくのように甲斐かいなく思われたり、静かに空を渡って行く雲のあし瞑眩めまいがするほどめまぐるしく見えたりして、我慢にもじっとしていられない事は絶えずあったけれども、その夜のように鋭く神経のとがって来た事は覚えがなかった。神経の末梢まっしょうが、まるで大風にあったこずえのようにざわざわと音がするかとさえ思われた。葉子は足と足とをぎゅっとからみ合わせてそれに力をこめながら、右手の指先を四本そろえてその爪先つまさきを、水晶のように固い美しい歯で一思いに激しくかんで見たりした。悪寒おかんのような小刻みな身ぶるいが絶えず足のほうから頭へと波動のように伝わった。寒いためにそうなるのか、暑いためにそうなるのかよくわからなかった。そうしていらいらしながらトランクを開いたままで取り散らした部屋の中をぼんやり見やっていた。目はうるさくかすんでいた。ふと落ち散ったものの中に葉子は事務長の名刺があるのに目をつけて、身をかがめてそれを拾い上げた。それを拾い上げるとま二つに引き裂いてまた床になげた。それはあまりに手答えなく裂けてしまった。葉子はまた何かもっとうんと手答えのあるものを尋ねるように熱して輝く目でまじまじとあたりを見回していた。と、カーテンを引き忘れていた。恥ずかしい様子を見られはしなかったかと思うと胸がどきんとしていきなり立ち上がろうとした拍子ひょうしに、葉子は窓の外に人の顔を認めたように思った。田川博士のようでもあった。田川夫人のようでもあった。しかしそんなはずはない、二人はもう部屋に帰っている。事務長……

 葉子は思わず裸体を見られた女のように固くなって立ちすくんだ。激しいおののきが襲って来た。そして何の思慮もなく床の上のボアを取って胸にあてがったが、次の瞬間にはトランクの中からショールを取り出してボアと一緒にそれをかかえて、逃げる人のように、あたふたと部屋を出た。

 船のゆらぐごとに木と木とのすれあう不快な音は、おおかた船客の寝しずまった夜の寂寞せきばくの中にきわ立って響いた。自動平衡器の中にともされた蝋燭ろうそくは壁板に奇怪な角度を取って、ゆるぎもせずにぼんやりと光っていた。

 戸をあけて甲板かんばんに出ると、甲板のあなたはさっきのままの波また波の堆積たいせきだった。大煙筒から吐き出される煤煙ばいえんはまっ黒い天の川のように無月むげつの空を立ち割って水に近く斜めに流れていた。


一三


 そこだけは星が光っていないので、雲のある所がようやく知れるぐらい思いきって暗い夜だった。おっかぶさって来るかと見上くれば、目のまわるほど遠のいて見え、遠いと思って見れば、今にも頭を包みそうに近くせまってる鋼色はがねいろの沈黙した大空が、際限もない羽をたれたように、同じ暗色の海原に続く所から波がわいて、やみの中をのたうちまろびながら、見渡す限りわめき騒いでいる。耳を澄まして聞いていると、水と水とが激しくぶつかり合う底のほうに、

「おーい、おい、おい、おーい」

 というかと思われる声ともつかない一種の奇怪な響きが、ふなべりをめぐって叫ばれていた。葉子は前後左右に大きく傾く甲板の上を、傾くままに身を斜めにしてからく重心を取りながら、よろけよろけブリッジに近いハッチの物陰までたどりついて、ショールで深々と首から下を巻いて、白ペンキで塗った板囲いに身を寄せかけて立った、たたずんだ所は風下かざしもになっているが、頭の上では、ほばしらからたれ下がった索綱さくこうの類が風にしなってうなりを立て、アリュウシャン群島近い高緯度の空気は、九月の末とは思われぬほど寒く霜を含んでいた。気負いに気負った葉子の肉体はしかしさして寒いとは思わなかった。寒いとしてもむしろ快い寒さだった。もうどんどんと冷えて行く着物の裏に、心臓のはげしい鼓動につれて、乳房ちぶさが冷たく触れたり離れたりするのが、なやましい気分を誘い出したりした。それにたたずんでいるのに足が爪先つまさきからだんだんに冷えて行って、やがてひざから下は知覚を失い始めたので、気分は妙にうわずって来て、葉子の幼い時からの癖である夢ともうつつとも知れない音楽的な錯覚に陥って行った。五体も心も不思議な熱を覚えながら、一種のリズムの中に揺り動かされるようになって行った。何を見るともなく凝然と見定めた目の前に、無数の星が船の動揺につれて光のまたたきをしながら、ゆるいテンポをととのえてゆらりゆらりと静かにおどると、帆綱のうなりが張り切ったバスの声となり、その間を「おーい、おい、おい、おーい……」と心の声とも波のうめきともわからぬトレモロが流れ、盛り上がり、くずれこむ波また波がテノルの役目を勤めた。声が形となり、形が声となり、それから一緒にもつれ合う姿を葉子は目で聞いたり耳で見たりしていた。なんのために夜寒よさむを甲板に出て来たか葉子は忘れていた。夢遊病者のように葉子はまっしぐらにこの不思議な世界に落ちこんで行った。それでいて、葉子の心の一部分はいたましいほどめきっていた。葉子はつばめのようにその音楽的な夢幻界をけ上がりくぐりぬけてさまざまな事を考えていた。

 屈辱、屈辱……屈辱──思索の壁は屈辱というちかちかと寒く光る色で、いちめんに塗りつぶされていた。その表面に田川夫人や事務長や田川博士の姿が目まぐるしく音律に乗って動いた。葉子はうるさそうに頭の中にある手のようなもので無性むしょうに払いのけようと試みたがむだだった。皮肉な横目をつかって青味を帯びた田川夫人の顔が、かき乱された水の中を、小さなあわが逃げてでも行くように、ふらふらとゆらめきながら上のほうに遠ざかって行った。まずよかったと思うと、事務長の insolent な目つきが低い調子の伴音となって、じっと動かない中にも力ある震動をしながら、葉子の眼睛ひとみの奥を網膜まで見とおすほどぎゅっと見すえていた。「なんで事務長や田川夫人なんぞがこんなに自分をわずらわすだろう。憎らしい。なんの因縁いんねんで……」葉子は自分をこう卑しみながらも、男の目を迎え慣れたびの色を知らず知らずうわまぶたに集めて、それに応じようとする途端、日に向かって目を閉じた時にあやをなして乱れ飛ぶあの不思議な種々な色の光体、それに似たものが繚乱りょうらんとして心を取り囲んだ。星はゆるいテンポでゆらりゆらりと静かにおどっている。「おーい、おい、おい、おーい」……葉子は思わずかっと腹を立てた。その憤りの膜の中にすべての幻影はすーっと吸い取られてしまった。と思うとその憤りすらが見る見るぼやけて、あとには感激のさらにない死のような世界が果てしもなくどんよりとよどんだ。葉子はしばらくは気が遠くなって何事もわきまえないでいた。

 やがて葉子はまたおもむろに意識のしきいに近づいて来ていた。

 煙突の中の黒いすすの間を、横すじかいに休らいながら飛びながら、のぼって行く火の子のように、葉子の幻想は暗い記憶の洞穴ほらあなの中を右左によろめきながら奥深くたどって行くのだった。自分でさえ驚くばかり底の底にまた底のある迷路を恐る恐る伝って行くと、果てしもなく現われ出る人の顔のいちばん奥に、赤い着物を裾長すそながに着て、まばゆいほどに輝き渡った男の姿が見え出した。葉子の心の周囲にそれまで響いていた音楽は、その瞬間ぱったり静まってしまって、耳の底がかーんとするほど空恐ろしい寂莫せきばくの中に、船のへさきのほうで氷をたたきるような寒い時鐘ときがねの音が聞こえた。「カンカン、カンカン、カーン」……。葉子は何時なんじの鐘だと考えてみる事もしないで、そこに現われた男の顔を見分けようとしたが、木村に似た容貌ようぼうがおぼろに浮かんで来るだけで、どう見直して見てもはっきりした事はもどかしいほどわからなかった。木村であるはずはないんだがと葉子はいらいらしながら思った。「木村はわたしの良人おっとではないか。その木村が赤い着物を着ているという法があるものか。……かわいそうに、木村はサン・フランシスコから今ごろはシヤトルのほうに来て、私の着くのを一日千秋の思いで待っているだろうに、わたしはこんな事をしてここで赤い着物を着た男なんぞを見つめている。千秋の思いで待つ? それはそうだろう。けれどもわたしが木村の妻になってしまったが最後、千秋の思いでわたしを待ったりした木村がどんな良人おっとに変わるかは知れきっている。憎いのは男だ……木村でも倉地でも……また事務長なんぞを思い出している。そうだ、米国に着いたらもう少し落ち着いて考えた生きかたをしよう。木村だって打てば響くくらいはする男だ。……あっちに行ってまとまった金ができたら、なんといってもかまわない、定子を呼び寄せてやる。あ、定子の事なら木村は承知の上だったのに。それにしても木村が赤い着物などを着ているのはあんまりおかしい……」ふと葉子はもう一度赤い着物の男を見た。事務長の顔が赤い着物の上に似合わしく乗っていた。葉子はぎょっとした。そしてその顔をもっとはっきり見つめたいために重い重いまぶたをしいて押し開く努力をした。

 見ると葉子の前にはまさしく、角燈を持って焦茶色こげちゃいろのマントを着た事務長が立っていた。そして、

「どうなさったんだ今ごろこんな所に、……今夜はどうかしている……おかさん、あなたの仲間がもう一人ひとりここにいますよ」

 といいながら事務長は魂を得たように動き始めて、後ろのほうを振り返った。事務長の後ろには、食堂で葉子と一目顔を見合わすと、震えんばかりに興奮して顔を上げないでいた上品なかの青年が、まっさおな顔をして物におじたようにつつましく立っていた。

 目はまざまざと開いていたけれども葉子はまだ夢心地ゆめごこちだった。事務長のいるのに気づいた瞬間からまた聞こえ出した波濤はとうの音は、前のように音楽的な所は少しもなく、ただ物狂おしい騒音となって船に迫っていた。しかし葉子は今の境界がほんとうに現実の境界なのか、さっき不思議な音楽的の錯覚にひたっていた境界が夢幻の中の境界なのか、自分ながら少しも見さかいがつかないくらいぼんやりしていた。そしてあの荒唐こうとうな奇怪な心の adventure をかえってまざまざとした現実の出来事でもあるかのように思いなして、目の前に見る酒に赤らんだ事務長の顔は妙に蠱惑的こわくてきな気味の悪い幻像となって、葉子を脅かそうとした。

「少し飲み過ぎたところにためといた仕事を詰めてやったんで眠れん。で散歩のつもりで甲板かんぱんの見回りに出ると岡さん」

 といいながらもう一度後ろに振り返って、

「この岡さんがこの寒いに手欄てすりからからだを乗り出してぽかんと海を見とるんです。取り押えてケビンに連れて行こうと思うとると、今度はあなたに出っくわす。物好きもあったもんですねえ。海をながめて何がおもしろいかな。お寒かありませんか、ショールなんぞも落ちてしまった」

 どこの国なまりともわからぬ一種の調子が塩さびた声であやつられるのが、事務長の人となりによくそぐって聞こえる。葉子はそんな事を思いながら事務長の言葉を聞き終わると、始めてはっきり目がさめたように思った。そして簡単に、

「いゝえ」

と答えながら上目うわめづかいに、夢の中からでも人を見るようにうっとりと事務長のしぶとそうな顔を見やった。そしてそのまま黙っていた。

 事務長は例の insolent な目つきで葉子を一目に見くるめながら、

「若いかたは世話が焼ける……さあ行きましょう」

 と強い語調でいって、からからと傍若無人ぼうじゃくぶじんに笑いながら葉子をせき立てた。海の波の荒涼たるおめきの中に聞くこの笑い声は diabolic なものだった。「若いかた」……老成ぶった事をいうと葉子は思ったけれども、しかし事務長にはそんな事をいう権利でもあるかのように葉子は皮肉な竹篦返しっぺがえしもせずに、おとなしくショールを拾い上げて事務長のいうままにそのあとに続こうとして驚いた。ところが長い間そこにたたずんでいたものと見えて、磁石じしゃくで吸い付けられたように、両足は固く重くなって一すんも動きそうにはなかった。寒気のために感覚の痲痺まひしかかったひざの関節はしいて曲げようとすると、筋をつほどの痛みを覚えた。不用意に歩き出そうとした葉子は、思わずのめり出さした上体をからく後ろにささえて、情けなげに立ちすくみながら、

「ま、ちょっと」

 と呼びかけた。事務長の後ろに続こうとした岡と呼ばれた青年はこれを聞くといち早く足を止めて葉子のほうを振り向いた。

「始めてお知り合いになったばかりですのに、すぐお心安だてをしてほんとうになんでございますが、ちょっとお肩を貸していただけませんでしょうか。なんですか足の先が凍ったようになってしまって……」

 と葉子は美しく顔をしかめて見せた。岡はそれらの言葉がこぶしとなって続けさまに胸を打つとでもいったように、しばらくの間どぎまぎ躊躇ちゅうちょしていたが、やがて思い切ったふうで、黙ったまま引き返して来た。身のたけも肩幅も葉子とそう違わないほどな華車きゃしゃなからだをわなわなと震わせているのが、肩に手をかけないうちからよく知れた。事務長は振り向きもしないで、くつのかかとをこつこつと鳴らしながら早二三げんのかなたに遠ざかっていた。

 鋭敏な馬の皮膚のようにだちだちと震える青年の肩におぶいかかりながら、葉子は黒い大きな事務長の後ろ姿をあだかたきでもあるかのように鋭く見つめてそろそろと歩いた。西洋酒の芳醇ほうじゅんな甘い酒の香が、まだ酔いからさめきらない事務長の身のまわりを毒々しいもやとなって取り巻いていた。放縦という事務長のしんの臓は、今不用心に開かれている。あの無頓着むとんじゃくそうな肩のゆすりの陰にすさまじい desire の火が激しく燃えているはずである。葉子は禁断の木の実を始めてくいかいだ原人のような渇欲をわれにもなくあおりたてて、事務長の心の裏をひっくり返して縫い目を見窮めようとばかりしていた。おまけに青年の肩に置いた葉子の手は、華車きゃしゃとはいいながら、男性的な強い弾力を持つ筋肉の震えをまざまざと感ずるので、これらの二人ふたりの男が与える奇怪な刺激はほしいままにからまりあって、恐ろしい心を葉子に起こさせた。木村……何をうるさい、よけいな事はいわずと黙って見ているがいい。心の中をひらめき過ぎる断片的な影を葉子は枯れ葉のように払いのけながら、目の前に見る蠱惑こわくにおぼれて行こうとのみした。口からのどはあえぎたいほどにひからびて、岡の肩に乗せた手は、生理的な作用から冷たく堅くなっていた。そして熱をこめてうるんだ目を見張って、事務長の後ろ姿ばかりを見つめながら、五体はふらふらとたわいもなく岡のほうによりそった。吐き出す気息いきは燃え立って岡の横顔をなでた。事務長は油断なく角燈で左右を照らしながら甲板の整頓せいとんに気を配って歩いている。

 葉子はいたわるように岡の耳に口をよせて、

「あなたはどちらまで」

 と聞いてみた。その声はいつものように澄んではいなかった。そして気を許した女からばかり聞かれるような甘たるい親しさがこもっていた。岡の肩は感激のために一入ひとしお震えた。とみには返事もし得ないでいたようだったが、やがて臆病おくびょうそうに、

「あなたは」

 とだけ聞き返して、熱心に葉子の返事を待つらしかった。

「シカゴまで参るつもりですの」

「僕も……わたしもそうです」

 岡は待ち設けたように声を震わしながらきっぱりと答えた。

「シカゴの大学にでもいらっしゃいますの」

 岡は非常にあわてたようだった。なんと返事をしたものか恐ろしくためらうふうだったが、やがてあいまいに口の中で、

「えゝ」

 とだけつぶやいて黙ってしまった。そのおぼこさ……葉子はやみの中で目をかがやかしてほほえんだ。そして岡をあわれんだ。

 しかし青年をあわれむと同時に葉子の目は稲妻のように事務長の後ろ姿を斜めにかすめた。青年をあわれむ自分は事務長にあわれまれているのではないか。始終一歩ずつ上手うわてを行くような事務長が一種の憎しみをもってながめやられた。かつて味わった事のないこの憎しみの心を葉子はどうする事もできなかった。

 二人ふたりに別れて自分の船室に帰った葉子はほとんど delirium の状態にあった。眼睛ひとみは大きく開いたままで、盲目めくら同様に部屋へやの中の物を見る事をしなかった。冷えきった手先はおどおどと両のたもとをつかんだり離したりしていた。葉子は夢中でショールとボアとをかなぐり捨て、もどかしげに帯だけほどくと、髪も解かずに寝台の上に倒れかかって、横になったまま羽根まくらを両手でひしと抱いて顔を伏せた。なぜと知らぬ涙がその時せきを切ったように流れ出した。そして涙はあとからあとからみなぎるようにシーツを湿うるおしながら、充血した口びるは恐ろしい笑いをたたえてわなわなと震えていた。

 一時間ほどそうしているうちに泣き疲れに疲れて、葉子はかけるものもかけずにそのまま深い眠りに陥って行った。けばけばしい電燈の光はその翌日の朝までこのなまめかしくもふしだらな葉子の丸寝姿まるねすがたいたように照らしていた。


一四


 なんといっても船旅は単調だった。たとい日々夜々に一瞬もやむ事なく姿を変える海の波と空の雲とはあっても、詩人でもないなべての船客は、それらに対して途方に暮れた倦怠けんたいの視線を投げるばかりだった。地上の生活からすっかり遮断しゃだんされた船の中には、ごく小さな事でも目新しい事件の起こる事のみが待ち設けられていた。そうした生活では葉子が自然に船客の注意の焦点となり、話題の提供者となったのは不思議もない。毎日毎日凍りつくような濃霧の間を、東へ東へと心細く走り続ける小さな汽船の中の社会は、あらわには知れないながら、何かさびしい過去を持つらしい、妖艶ようえんな、若い葉子の一挙一動を、絶えず興味深くじっと見守るように見えた。

 かの奇怪な心の動乱の一夜を過ごすと、その翌日から葉子はまたふだんのとおりに、いかにも足もとがあやうく見えながら少しも破綻はたんを示さず、ややもすれば他人の勝手になりそうでいて、よそからは決して動かされない女になっていた。始めて食堂に出た時のつつましやかさに引きかえて、時には快活な少女のように晴れやかな顔つきをして、船客らと言葉をかわしたりした。食堂に現われる時の葉子の服装だけでも、退屈にうんじ果てた人々には、物好きな期待を与えた。ある時は葉子は慎み深い深窓しんそうの婦人らしく上品に、ある時は素養の深い若いディレッタントのように高尚こうしょうに、またある時は習俗から解放された adventuress とも思われる放胆を示した。その極端な変化が一日の中に起こって来ても、人々はさして怪しく思わなかった。それほど葉子の性格には複雑なものが潜んでいるのを感じさせた。絵島丸が横浜の桟橋につながれている間から、人々の注意の中心となっていた田川夫人を、海気にあって息気いきをふき返した人魚のような葉子のかたわらにおいて見ると、身分、閲歴、学殖、年齢などといういかめしい資格が、かえって夫人を固い古ぼけた輪郭にはめこんで見せる結果になって、ただ神体のない空虚な宮殿のようなそらいかめしい興なさを感じさせるばかりだった。女の本能の鋭さから田川夫人はすぐそれを感づいたらしかった。夫人の耳もとに響いて来るのは葉子のうわさばかりで、夫人自身の評判は見る見る薄れて行った。ともすると田川博士はかせまでが、夫人の存在を忘れたような振る舞いをする、そう夫人を思わせる事があるらしかった。食堂の卓をはさんで向かい合う夫妻が他人同士のような顔をして互い互いにぬすみ見をするのを葉子がすばやく見て取った事などもあった。といって今まで自分の子供でもあしらうように振る舞っていた葉子に対して、今さら夫人は改まった態度も取りかねていた。よくも仮面をかぶって人を陥れたという女らしいひねくれねたみひがみが、明らかに夫人の表情に読まれ出した。しかし実際の処置としては、くやしくても虫を殺して、自分を葉子まで引き下げるか、葉子を自分まで引き上げるよりしかたがなかった。夫人の葉子に対する仕打ちは戸板をかえすように違って来た。葉子は知らん顔をして夫人のするがままに任せていた。葉子はもとより夫人のあわてたこの処置が夫人には致命的な不利益であり、自分には都合のいい仕合わせであるのを知っていたからだ。案のじょう、田川夫人のこの譲歩は、夫人に何らかの同情なり尊敬なりが加えられる結果とならなかったばかりでなく、その勢力はますます下り坂になって、葉子はいつのまにか田川夫人と対等で物をいい合っても少しも不思議とは思わせないほどの高みに自分を持ち上げてしまっていた。落ち目になった夫人は年がいもなくしどろもどろになっていた。恐ろしいほどやさしく親切に葉子をあしらうかと思えば、皮肉らしくばか丁寧に物をいいかけたり、あるいは突然路傍の人に対するようなよそよそしさを装って見せたりした。死にかけたへびののたうち回るのを見やる蛇使いのように、葉子は冷ややかにあざ笑いながら、夫人の心の葛藤かっとうを見やっていた。

 単調な船旅にあき果てて、したたか刺激に飢えた男の群れは、この二人ふたりの女性を中心にして知らず知らず渦巻うずまきのようにめぐっていた。田川夫人と葉子との暗闘は表面には少しも目に立たないで戦われていたのだけれども、それが男たちに自然に刺激を与えないではおかなかった。平らな水に偶然落ちて来た微風のひき起こす小さな波紋ほどの変化でも、船の中ではひとかどの事件だった。男たちはなぜともなく一種の緊張と興味とを感ずるように見えた。

 田川夫人は微妙な女の本能と直覚とで、じりじりと葉子の心のすみずみを探り回しているようだったが、ついにここぞという急所をつかんだらしく見えた。それまで事務長に対して見下したような丁寧さを見せていた夫人は、見る見る態度を変えて、食卓でも二人は、席が隣り合っているからという以上な親しげな会話を取りかわすようになった。田川博士までが夫人の意を迎えて、何かにつけて事務長のへやしげく出入りするばかりか、事務長はたいていの夜は田川夫妻の部屋へやに呼び迎えられた。田川博士はもとより船の正客である。それをそらすような事務長ではない。倉地は船医の興録こうろくまでを手伝わせて、田川夫妻の旅情を慰めるように振る舞った。田川博士の船室には夜おそくまでがかがやいて、夫人の興ありげに高く笑う声が室外まで聞こえる事が珍しくなかった。

 葉子は田川夫人のこんな仕打ちを受けても、心の中で冷笑あざわらっているのみだった。すでに自分が勝ち味になっているという自覚は、葉子に反動的な寛大な心を与えて、夫人が事務長をとりこにしようとしている事などはてんで問題にはしまいとした。夫人はよけいな見当違いをして、痛くもない腹を探っている、事務長がどうしたというのだ。母のはらを出るとそのままなんの訓練も受けずに育ち上がったようなぶしつけな、動物性の勝った、どんな事をして来たのか、どんな事をするのかわからないようなたかが事務長になんの興味があるものか。あんな人間に気を引かれるくらいなら、自分はとうに喜んで木村の愛になずいているのだ。見当違いもいいかげんにするがいい。そう歯がみをしたいくらいな気分で思った。

 ある夕方葉子はいつものとおり散歩しようと甲板かんぱんに出て見ると、はるか遠い手欄てすりの所に岡がたった一人ひとりしょんぼりとよりかかって、海を見入っていた。葉子はいたずら者らしくそっと足音を盗んで、忍び忍び近づいて、いきなり岡と肩をすり合わせるようにして立った。岡は不意に人が現われたので非常に驚いたふうで、顔をそむけてその場を立ち去ろうとするのを、葉子は否応いやおうなしに手を握って引き留めた。岡が逃げ隠れようとするのも道理、その顔には涙のあとがまざまざと残っていた。少年から青年になったばかりのような、内気らしい、小柄こがらな岡の姿は、何もかも荒々しい船の中ではことさらデリケートな可憐かれんなものに見えた。葉子はいたずらばかりでなく、この青年に一種の淡々あわあわしい愛を覚えた。

「何を泣いてらしったの」

 小首を存分傾けて、少女が少女に物を尋ねるように、肩に手を置きそえながら聞いてみた。

「僕……泣いていやしません」

 岡は両方のほおあかいろどって、こういいながらくるりとからだをそっぽうに向け換えようとした。それがどうしても少女のようなしぐさだった。抱きしめてやりたいようなその肉体と、肉体につつまれた心。葉子はさらにすり寄った。

「いゝえいゝえ泣いてらっしゃいましたわ」

 岡は途方に暮れたように目の下の海をながめていたが、のがれるすべのないのをさとって、大っぴらにハンケチをズボンのポケットから出して目をぬぐった。そして少し恨むような目つきをして、始めてまともに葉子を見た。口びるまでがいちごのようにあかくなっていた。青白い皮膚にめ込まれたそのあかさを、色彩に敏感な葉子は見のがす事ができなかった。岡は何かしら非常に興奮していた。その興奮してぶるぶる震えるしなやかな手を葉子は手欄てすりごとじっと押えた。

「さ、これでおふき遊ばせ」

 葉子のたもとからは美しいかおりのこもった小さなリンネルのハンケチが取り出された。

「持ってるんですから」

 岡は恐縮したように自分のハンケチを顧みた。

「何をお泣きになって……まあわたしったらよけいな事まで伺って」

「何いいんです……ただ海を見たらなんとなく涙ぐんでしまったんです。からだが弱いもんですからくだらない事にまで感傷的になって困ります。……なんでもない……」

 葉子はいかにも同情するように合点合点した。岡が葉子とこうして一緒にいるのをひどくうれしがっているのが葉子にはよく知れた。葉子はやがて自分のハンケチを手欄てすりの上においたまま、

「わたしの部屋へやへもよろしかったらいらっしゃいまし。またゆっくりお話ししましょうね」

 となつこくいってそこを去った。

 岡は決して葉子の部屋を訪れる事はしなかったけれども、この事のあって後は、二人ふたりはよく親しく話し合った。岡は人なじみの悪い、話のたねのない、ごく初心うぶな世慣れない青年だったけれども、葉子はわずかなタクトですぐ隔てを取り去ってしまった。そして打ち解けて見ると彼は上品な、どこまでも純粋な、そしてかしい青年だった。若い女性にはそのはにかみやな所から今まで絶えて接していなかったので、葉子にはすがり付くように親しんで来た。葉子も同性の恋をするような気持ちで岡をかわいがった。

 そのころからだ、事務長が岡に近づくようになったのは。岡は葉子と話をしない時はいつでも事務長と散歩などをしていた。しかし事務長の親友とも思われる二三の船客に対しては口もきこうとはしなかった。岡は時々葉子に事務長のうわさをして聞かした。そして表面はあれほど粗暴のように見えながら、考えの変わった、年齢や位置などに隔てをおかない、親切な人だといったりした。もっと交際してみるといいともいった。そのたびごとに葉子は激しく反対した。あんな人間を岡が話し相手にするのは実際不思議なくらいだ。あの人のどこに岡と共通するようなすぐれた所があろうなどとからかった。

 葉子に引き付けられたのは岡ばかりではなかった。午餐ごさんが済んで人々がサルンに集まる時などは団欒だんらんがたいてい三つくらいに分かれてできた。田川夫妻の周囲にはいちばん多数の人が集まった。外国人だけの団体から田川のほうに来る人もあり、日本の政治家実業家連はもちろんわれ先にそこにせ参じた。そこからだんだん細く糸のようにつながれて若い留学生とか学者とかいう連中が陣を取り、それからまただんだん太くつながれて、葉子と少年少女らの群れがいた。食堂で不意の質問に辟易へきえきした外交官補などは第一の連絡の綱となった。衆人の前では岡は遠慮するようにあまり葉子に親しむ様子は見せずに不即不離の態度を保っていた。遠慮会釈なくそんな所で葉子になれ親しむのは子供たちだった。まっ白なモスリンの着物を着て赤い大きなリボンを装った少女たちや、水兵服で身軽に装った少年たちは葉子の周囲に花輪のように集まった。葉子がそういう人たちをかたみがわりに抱いたりかかえたりして、お伽話とぎばなしなどして聞かせている様子は、船中の見ものだった。どうかするとサルンの人たちは自分らの間の話題などは捨てておいてこの可憐かれんな光景をうっとり見やっているような事もあった。

 ただ一つこれらの群れからは全く没交渉な一団があった。それは事務長を中心にした三四人の群れだった。いつでも部屋の一ぐうの小さな卓を囲んで、その卓の上にはウイスキー用の小さなコップと水とが備えられていた。いちばんいいにおいの煙草たばこの煙もそこから漂って来た。彼らは何かひそひそと語り合っては、時々傍若無人ぼうじゃくぶじんな高い笑い声を立てた。そうかと思うとじっと田川の群れの会話に耳を傾けていて、遠くのほうから突然皮肉の茶々を入れる事もあった。だれいうとなく人々はその一団を犬儒派けんじゅはと呼びなした。彼らがどんな種類の人でどんな職業に従事しているかを知る者はなかった。岡などは本能的にその人たちをみきらっていた。葉子も何かしら気のおける連中だと思った。そして表面はいっこう無頓着むとんじゃくに見えながら、自分に対して充分の観察と注意とを怠っていないのを感じていた。

 どうしてもしかし葉子には、船にいるすべての人の中で事務長がいちばん気になった。そんなはず、理由のあるはずはないと自分をたしなめてみてもなんのかいもなかった。サルンで子供たちと戯れている時でも、葉子は自分のして見せる蠱惑的こわくてき姿態しながいつでも暗々裡あんあんりに事務長のためにされているのを意識しないわけには行かなかった。事務長がその場にいない時は、子供たちをあやし楽しませる熱意さえ薄らぐのを覚えた。そんな時に小さい人たちはきまってつまらなそうな顔をしたりあくびをしたりした。葉子はそうした様子を見るとさらに興味を失った。そしてそのまま立って自分の部屋へやに帰ってしまうような事をした。それにも係わらず事務長はかつて葉子に特別な注意を払うような事はないらしく見えた。それが葉子をますます不快にした。夜など甲板かんぱんの上をそぞろ歩きしている葉子が、田川博士はかせの部屋の中から例の無遠慮な事務長の高笑いの声をもれ聞いたりなぞすると、思わずかっとなって、鉄の壁すら射通しそうな鋭いひとみを声のするほうに送らずにはいられなかった。

 ある日の午後、それは雲行きの荒い寒い日だった。船客たちは船の動揺に辟易へきえきして自分の船室に閉じこもるのが多かったので、サルンががら明きになっているのを幸い、葉子は岡を誘い出して、部屋のかどになった所に折れ曲がってえてあるモロッコ皮のディワンにひざと膝を触れ合わさんばかり寄り添って腰をかけて、トランプをいじって遊んだ。岡は日ごろそういう遊戯には少しも興味を持っていなかったが、葉子と二人ふたりきりでいられるのを非常に幸福に思うらしく、いつになく快活に札をひねくった。その細いしなやかな手からぶきっちょうに札が捨てられたり取られたりするのを葉子はおもしろいものに見やりながら、断続的に言葉を取りかわした。

「あなたもシカゴにいらっしゃるとおっしゃってね、あの晩」

「えゝいいました。……これで切ってもいいでしょう」

「あらそんなものでもったいない……もっと低いものはおありなさらない?……シカゴではシカゴ大学にいらっしゃるの?」

「これでいいでしょうか……よくわからないんです」

「よくわからないって、そりゃおかしゅうござんすわね、そんな事お決めなさらずに米国あっちにいらっしゃるって」

「僕は……」

「これでいただきますよ……僕は……何」

「僕はねえ」

「えゝ」

 葉子はトランプをいじるのをやめて顔を上げた。岡は懺悔ざんげでもする人のように、おもてを伏せてあかくなりながら札をいじくっていた。

「僕のほんとうに行く所はボストンだったのです。そこに僕の家で学資をやってる書生がいて僕の監督をしてくれる事になっていたんですけれど……」

 葉子は珍しい事を聞くように岡に目をすえた。岡はますますいい憎そうに、

「あなたにおあい申してから僕もシカゴに行きたくなってしまったんです」

 とだんだん語尾を消してしまった。なんという可憐かれんさ……葉子はさらに岡にすり寄った。岡は真剣になって顔まで青ざめて来た。

「お気にさわったら許してください……僕はただ……あなたのいらっしゃる所にいたいんです、どういうわけだか……」

 もう岡は涙ぐんでいた。葉子は思わず岡の手を取ってやろうとした。

 その瞬間にいきなり事務長が激しい勢いでそこにはいって来た。そして葉子には目もくれずに激しく岡を引っ立てるようにして散歩に連れ出してしまった。岡はとしてそのあとにしたがった。

 葉子はかっとなって思わず座から立ち上がった。そして思い存分事務長の無礼を責めようと身構えした。その時不意に一つの考えが葉子の頭をひらめき通った。「事務長はどこかで自分たちを見守っていたに違いない」

 突っ立ったままの葉子の顔に、乳房ちぶさを見せつけられた子供のようなほほえみがほのかに浮かび上がった。


一五


 葉子はある朝思いがけなく早起きをした。米国に近づくにつれて緯度はだんだん下がって行ったので、寒気も薄らいでいたけれども、なんといっても秋立った空気は朝ごとにえと引きしまっていた。葉子は温室のような船室からこのきりっとした空気に触れようとして甲板かんぱんに出てみた。右舷うげんを回って左舷に出ると計らずも目の前に陸影を見つけ出して、思わず足を止めた。そこには十日とおかほど念頭から絶え果てていたようなものが海面から浅くもれ上がって続いていた。葉子は好奇な目をかがやかしながら、思わず一たんとめた足を動かして手欄てすりに近づいてそれを見渡した。オレゴン松がすくすくと白波の激しくかみよせる岸べまで密生したバンクーバー島の低い山なみがそこにあった。物すごく底光りのするまっさおな遠洋の色は、いつのまにか乱れた波の物狂わしく立ち騒ぐ沿海の青灰色に変わって、その先に見える暗緑の樹林はどんよりとした雨空の下に荒涼として横たわっていた。それはみじめな姿だった。へだたりの遠いせいか船がいくら進んでも景色にはいささかの変化も起こらないで、荒涼たるその景色はいつまでも目の前に立ち続いていた。古綿ふるわたに似た薄雲をもれる朝日の光が力弱くそれを照らすたびごとに、煮え切らない影と光の変化がかすかに山と海とをなでて通るばかりだ。長い長い海洋の生活に慣れた葉子の目には陸地の印象はむしろきたないものでも見るように不愉快だった。もう三日ほどすると船はいやでもシヤトルの桟橋につながれるのだ。向こうに見えるあの陸地の続きにシヤトルはある。あの松の林が切り倒されて少しばかりの平地となった所に、ここに一つかしこに一つというように小屋が建ててあるが、その小屋の数が東に行くにつれてだんだん多くなって、しまいには一かたまりの家屋ができる。それがシヤトルであるに違いない。うらさびしく秋風の吹きわたるその小さな港町の桟橋に、野獣のような諸国の労働者が群がる所に、この小さな絵島丸が疲れきった船体を横たえる時、あの木村が例のめまぐるしい機敏さで、アメリカふうになり済ましたらしい物腰で、まわりの景色にり合わない景気のいい顔をして、船梯子ふなばしごを上って来る様子までが、葉子には見るように想像された。

「いやだいやだ。どうしても木村と一緒になるのはいやだ。私は東京に帰ってしまおう」

 葉子はだだっ子らしく今さらそんな事を本気に考えてみたりしていた。

 水夫長と一人ひとりのボーイとが押し並んで、くつ草履ぞうりとの音をたてながらやって来た。そして葉子のそばまで来ると、葉子が振り返ったので二人ふたりながら慇懃いんぎんに、

「お早うございます」

 と挨拶あいさつした。その様子がいかにも親しい目上に対するような態度で、ことに水夫長は、

「御退屈でございましたろう。それでもこれであと三日になりました。今度の航海にはしかしお陰様で大助かりをしまして、ゆうべからきわだってよくなりましてね」

 と付け加えた。

 葉子は一等船客の間の話題のまとであったばかりでなく、上級船員の間のうわさのたねであったばかりでなく、この長い航海中に、いつのまにか下級船員の間にも不思議な勢力になっていた。航海の八日目かに、ある老年の水夫がフォクスルで仕事をしていた時、いかりの鎖に足先をはさまれて骨をくじいた。プロメネード・デッキで偶然それを見つけた葉子は、船医より早くその場に駆けつけた。結びっこぶのように丸まって、痛みのためにもがき苦しむその老人のあとに引きそって、水夫部屋べやの入り口まではたくさんの船員や船客が物珍しそうについて来たが、そこまで行くと船員ですらが中にはいるのを躊躇ちゅうちょした。どんな秘密が潜んでいるかだれも知る人のないその内部は、船中では機関室よりも危険な一区域と見なされていただけに、その入り口さえが一種人を脅かすような薄気味わるさを持っていた。葉子はしかしその老人の苦しみもがく姿を見るとそんな事は手もなく忘れてしまっていた。ひょっとすると邪魔物扱いにされてあの老人は殺されてしまうかもしれない。あんなとしまでこの海上の荒々しい労働に縛られているこの人にはたよりになる縁者もいないのだろう。こんな思いやりがとめどもなく葉子の心を襲い立てるので、葉子はその老人に引きずられてでも行くようにどんどん水夫部屋の中に降りて行った。薄暗い腐敗した空気はれ上がるように人を襲って、陰の中にうようよとうごめく群れの中からは太くびた声が投げかわされた。やみに慣れた水夫たちの目はやにわに葉子の姿を引っ捕えたらしい。見る見る一種の興奮が部屋のすみずみにまでみちあふれて、それが奇怪なののしり声となって物すごく葉子にせまった。だぶだぶのズボン一つで、節くれ立った厚みのある毛胸に一糸もつけない大男は、やおら人中ひとなかから立ち上がると、ずかずか葉子に突きあたらんばかりにすれ違って、すれ違いざまに葉子の顔をあなのあくほどにらみつけて、聞くにたえない雑言ぞうごんを高々とののしって、自分の群れを笑わした。しかし葉子は死にかけた子にかしずく母のように、そんな事には目もくれずに老人のそばに引き添って、臥安ねやすいように寝床を取りなおしてやったり、まくらをあてがってやったりして、なおもその場を去らなかった。そんなむさ苦しいきたない所にいて老人がほったらかしておかれるのを見ると、葉子はなんという事なしに涙があとからあとから流れてたまらなかった。葉子はそこを出て無理に船医の興録をそこに引っぱって来た。そして権威を持った人のように水夫長にはっきりしたさしずをして、始めて安心して悠々ゆうゆうとその部屋を出た。葉子の顔には自分のした事に対して子供のような喜びの色が浮かんでいた。水夫たちは暗い中にもそれを見のがさなかったと見える。葉子が出て行く時には一人ひとりとして葉子に雑言ぞうごんをなげつけるものがいなかった。それから水夫らはだれいうとなしに葉子の事を「姉御あねご姉御」と呼んでうわさするようになった。その時の事を水夫長は葉子に感謝したのだ。

 葉子はしんみにいろいろと病人の事を水夫長に聞きただした。実際水夫長に話しかけられるまでは、葉子はそんな事は思い出しもしていなかったのだ。そして水夫長に思い出させられて見ると、急にその老水夫の事が心配になり出したのだった。足はとうとう不具になったらしいが痛みはたいていなくなったと水夫長がいうと葉子は始めて安心して、また陸のほうに目をやった。水夫長とボーイとの足音は廊下のかなたに遠ざかって消えてしまった。葉子の足もとにはただかすかなエンジンの音と波がふなばたを打つ音とが聞こえるばかりだった。

 葉子はまた自分一人の心に帰ろうとしてしばらくじっと単調な陸地に目をやっていた。その時突然岡が立派な西洋絹の寝衣ねまきの上に厚い外套がいとうを着て葉子のほうに近づいて来たのを、葉子は視角の一端にちらりと捕えた。夜でも朝でも葉子がひとりでいると、どこでどうしてそれを知るのか、いつのまにか岡がきっと身近みぢかに現われるのが常なので、葉子は待ち設けていたように振り返って、朝の新しいやさしい微笑を与えてやった。

「朝はまだずいぶん冷えますね」

 といいながら、岡は少し人になれた少女のように顔を赤くしながら葉子のそばに身を寄せた。葉子は黙ってほほえみながらその手を取って引き寄せて、互いに小さな声で軽い親しい会話を取りかわし始めた。

 と、突然岡は大きな事でも思い出した様子で、葉子の手をふりほどきながら、

「倉地さんがね、きょうあなたにぜひ願いたい用があるっていってましたよ」

 といった。葉子は、

「そう……」

 とごく軽く受けるつもりだったが、それが思わず息気いき苦しいほどの調子になっているのに気がついた。

「なんでしょう、わたしになんぞ用って」

「なんだかわたしちっとも知りませんが、話をしてごらんなさい。あんなに見えているけれども親切な人ですよ」

「まだあなただまされていらっしやるのね。あんな高慢ちきな乱暴な人わたしきらいですわ。……でも先方むこうで会いたいというのなら会ってあげてもいいから、ここにいらっしゃいって、あなた今すぐいらしって呼んで来てくださいましな。会いたいなら会いたいようにするがようござんすわ」

 葉子は実際激しい言葉になっていた。

「まだ寝ていますよ」

「いいから構わないから起こしておやりになればよござんすわ」

 岡は自分に親しい人を親しい人に近づける機会が到来したのを誇り喜ぶ様子を見せて、いそいそと駆けて行った。その後ろ姿を見ると葉子は胸に時ならぬときめきを覚えて、まゆの上の所にさっと熱い血の寄って来るのを感じた。それがまたいきどおろしかった。

 見上げると朝の空を今までおおうていた綿のような初秋の雲は所々ほころびて、洗いすました青空がまばゆく切れ目切れ目に輝き出していた。青灰色によごれていた雲そのものすらが見違えるように白く軽くなって美しい笹縁ささべりをつけていた。海は目もあやな明暗をなして、単調な島影もさすがに頑固がんこな沈黙ばかりを守りつづけてはいなかった。葉子の心はおさえよう抑えようとしても軽くはなやかにばかりなって行った。決戦……と葉子はその勇み立つ心の底で叫んだ。木村の事などはとうの昔に頭の中からこそぎ取るように消えてしまって、そのあとにはただ何とはなしに、子供らしい浮き浮きした冒険の念ばかりが働いていた。自分でも知らずにいたような weird な激しい力が、想像も及ばぬ所にぐんぐんと葉子を引きずって行くのを、葉子は恐れながらもどこまでもついて行こうとした。どんな事があっても自分がその中心になっていて、先方むこうをひき付けてやろう。自分をはぐらかすような事はしまいと始終張り切ってばかりいたこれまでの心持ちと、この時わくがごとく持ち上がって来た心持ちとは比べものにならなかった。あらん限りの重荷を洗いざらい思いきりよく投げすててしまって、身も心も何か大きな力に任しきるその快さ心安さは葉子をすっかり夢心地ゆめごこちにした。そんな心持ちの相違を比べて見る事さえできないくらいだった。葉子は子供らしい期待に目を輝かして岡の帰って来るのを待っていた。

「だめですよ。床の中にいて戸も明けてくれずに、寝言ねごとみたいな事をいってるんですもの」

 といいながら岡は当惑顔で葉子のそばに現われた。

「あなたこそだめね。ようござんすわ、わたしが自分で行って見てやるから」

 葉子にはそこにいる岡さえなかった。少し怪訝けげんそうに葉子のいつになくそわそわした様子を見守る青年をそこに捨ておいたまま葉子は険しく細い階子段はしごだんを降りた。

 事務長の部屋へやは機関室と狭い暗い廊下一つを隔てた所にあって、日の目を見ていた葉子には手さぐりをして歩かねばならぬほど勝手がちがっていた。地震のように機械の震動が廊下の鉄壁に伝わって来て、むせ返りそうななま暖かい蒸気のにおいと共に人を不愉快にした。葉子は鋸屑おがくずを塗りこめてざらざらと手ざわりのいやな壁をなでて進みながらようやく事務室の戸の前に来て、あたりを見回して見て、ノックもせずにいきなりハンドルをひねった。ノックをするひまもないようなせかせかした気分になっていた。戸は音も立てずにやすやすとあいた。「戸もあけてくれずに……」との岡の言葉から、てっきりかぎがかかっていると思っていた葉子にはそれが意外でもあり、あたりまえにも思えた。しかしその瞬間には葉子はわれ知らずはっとなった。ただ通りすがりの人にでも見付けられまいとする心が先に立って、葉子は前後のわきまえもなく、ほとんど無意識に部屋へやにはいると、同時にぱたんと音をさせて戸をしめてしまった。

 もうすべては後悔にはおそすぎた。岡の声で今寝床から起き上がったらしい事務長は、荒い棒縞ぼうじまのネルの筒袖つつそで一枚を着たままで、目のはれぼったい顔をして、小山のような大きな五体を寝床にくねらして、突然はいって来た葉子をぎっと見守っていた。とうの昔に心の中は見とおしきっているような、それでいて言葉もろくろくかわさないほどに無頓着むとんじゃくに見える男の前に立って、葉子はさすがにしばらくはいいづべき言葉もなかった。あせる気を押ししずめ押ししずめ、顔色を動かさないだけの沈着を持ち続けようとつとめたが、今までに覚えない惑乱のために、頭はぐらぐらとなって、無意味だと自分でさえ思われるような微笑をもらす愚かさをどうする事もできなかった。倉地は葉子がその朝その部屋へやに来るのを前からちゃんと知り抜いてでもいたように落ち付き払って、朝の挨拶あいさつもせずに、

「さ、おかけなさい。ここがらくだ」

 といつものとおりな少し見おろした親しみのある言葉をかけて、昼間は長椅子ながいすがわりに使う寝台の座を少し譲って待っている。葉子は敵意を含んでさえ見える様子で立ったまま、

「何か御用がおありになるそうでございますが……」

 固くなりながらいって、あゝまた見えすく事をいってしまったとすぐ後悔した。事務長は葉子の言葉を追いかけるように、

「用はあとでいいます。まあおかけなさい」

 といってすましていた。その言葉を聞くと、葉子はそのいいなり放題になるよりしかたがなかった。「お前は結局はここにすわるようになるんだよ」と事務長は言葉の裏に未来を予知しきっているのが葉子の心を一種捨てばちなものにした。「すわってやるものか」という習慣的な男に対する反抗心はただわけもなくひしがれていた。葉子はつかつかと進みよって事務長と押し並んで寝台に腰かけてしまった。

 この一つの挙動が──このなんでもない一つの挙動が急に葉子の心を軽くしてくれた。葉子はその瞬間に大急ぎで今まで失いかけていたものを自分のほうにたぐりもどした。そして事務長を流し目に見やって、ちょっとほほえんだその微笑には、さっきの微笑の愚かしさが潜んでいないのを信ずる事ができた。葉子の性格の深みからわき出るおそろしい自然さがまとまった姿を現わし始めた。

「何御用でいらっしゃいます」

 そのわざとらしい造り声の中にかすかな親しみをこめて見せた言葉も、肉感的に厚みを帯びた、それでいてさかしげに締まりのいい二つの口びるにふさわしいものとなっていた。

「きょう船が検疫所に着くんです、きょうの午後に。ところが検疫医がこれなんだ」

 事務長は朋輩ほうばいにでも打ち明けるように、大きな食指を鍵形かぎがたにまげて、たぐるような格好をして見せた。葉子がちょっと判じかねた顔つきをしていると、

「だから飲ましてやらんならんのですよ。それからポーカーにも負けてやらんならん。美人がいれば拝ましてもやらんならん」

 となお手まねを続けながら、事務長はまくらもとにおいてある頑固がんこなパイプを取り上げて、指の先で灰を押しつけて、吸い残りの煙草たばこに火をつけた。

「船をさえ見ればそうした悪戯わるさをしおるんだから、海坊主ぼうずを見るようなやつです。そういうと頭のつるりとした水母くらげじみた入道らしいが、実際は元気のいい意気な若い医者でね。おもしろいやつだ。一つ会ってごらん。わたしでからがあんな所に年じゅう置かれればああなるわさ」

 といって、右手に持ったパイプをひざがしらに置き添えて、向き直ってまともに葉子を見た。しかしその時葉子は倉地の言葉にはそれほど注意を払ってはいない様子を見せていた。ちょうど葉子の向こう側にある事務テーブルの上に飾られた何枚かの写真を物珍しそうにながめやって、右手の指先を軽く器用に動かしながら、煙草たばこの煙が紫色に顔をかすめるのを払っていた。自分をおとりにまで使おうとする無礼もあなたなればこそなんともいわずにいるのだという心を事務長もさすがにすいしたらしい。しかしそれにも係わらず事務長は言いわけ一ついわず、いっこう平気なもので、きれいな飾り紙のついた金口きんぐち煙草の小箱を手を延ばしてたなから取り上げながら、

「どうです一本」

 と葉子の前にさし出した。葉子は自分が煙草をのむかのまぬかの問題をはじき飛ばすように、

「あれはどなた?」と写真の一つに目を定めた。

「どれ」

「あれ」葉子はそういったままで指さしはしない。

「どれ」と事務長はもう一度いって、葉子の大きな目をまじまじと見入ってからその視線をたどって、しばらく写真を見分けていたが、

「はああれか。あれはねわたしの妻子ですんだ。荊妻けいさい豚児とんじどもですよ」

 といって高々と笑いかけたが、ふと笑いやんで、険しい目で葉子をちらっと見た。

「まあそう。ちゃんとお写真をお飾りなすって、おやさしゅうござんすわね」

 葉子はしんなりと立ち上がってその写真の前に行った。物珍しいものを見るという様子をしてはいたけれども、心の中には自分の敵がどんな獣物けだものであるかを見きわめてやるぞという激しい敵愾心てきがいしんが急に燃えあがっていた。前には芸者ででもあったのか、それとも良人おっとの心を迎えるためにそう造ったのか、どこか玄人くろうとじみたきれいな丸髷まるまげの女が着飾って、三人の少女をひざに抱いたりそばに立たせたりして写っていた。葉子はそれを取り上げてあなのあくほどじっと見やりながらテーブルの前に立っていた。ぎこちない沈黙がしばらくそこに続いた。

「お葉さん」(事務長は始めて葉子をその姓で呼ばずにこう呼びかけた)突然震えを帯びた、低い、重い声が焼きつくように耳近く聞こえたと思うと、葉子は倉地の大きな胸と太い腕とで身動きもできないように抱きすくめられていた。もとより葉子はその朝倉地が野獣のような assault に出る事を直覚的に覚悟して、むしろそれを期待して、その assault を、心ばかりでなく、肉体的な好奇心をもって待ち受けていたのだったが、かくまで突然、なんの前ぶれもなく起こって来ようとは思いも設けなかったので、女の本然の羞恥しゅうちから起こる貞操の防衛に駆られて、熱しきったような冷えきったような血を一時に体内に感じながら、かかえられたまま、侮蔑ぶべつをきわめた表情を二つの目に集めて、倉地の顔を斜めに見返した。その冷ややかな目の光は仮初かりそめの男の心をたじろがすはずだった。事務長の顔は振り返った葉子の顔に息気いきのかかるほどの近さで、葉子を見入っていたが、葉子が与えた冷酷なひとみには目もくれぬまで狂わしく熱していた。(葉子の感情を最も強くあおり立てるものは寝床を離れた朝の男の顔だった。一夜の休息にすべての精気を充分回復した健康な男の容貌ようぼうの中には、女の持つすべてのものを投げ入れても惜しくないと思うほどの力がこもっていると葉子は始終感ずるのだった)葉子は倉地に存分な軽侮の心持ちを見せつけながらも、その顔を鼻の先に見ると、男性というものの強烈な牽引けんいんの力を打ち込まれるように感ぜずにはいられなかった。息気いきせわしく吐く男のため息はあられのように葉子の顔を打った。火と燃え上がらんばかりに男のからだからは desire のほむらがぐんぐん葉子の血脈にまで広がって行った。葉子はわれにもなく異常な興奮にがたがた震え始めた。

        ×       ×       ×

 ふと倉地の手がゆるんだので葉子は切って落とされたようにふらふらとよろけながら、危うく踏みとどまって目を開くと、倉地が部屋へやの戸にかぎをかけようとしているところだった。鍵が合わないので、

くそっ」

 と後ろ向きになってつぶやく倉地の声が最後の宣告のように絶望的に低く部屋の中に響いた。

 倉地から離れた葉子はさながら母から離れた赤子のように、すべての力が急にどこかに消えてしまうのを感じた。あとに残るものとては底のない、たよりない悲哀ばかりだった。今まで味わって来たすべての悲哀よりもさらに残酷な悲哀が、葉子の胸をかきむしって襲って来た。それは倉地のそこにいるのすら忘れさすくらいだった。葉子はいきなり寝床の上に丸まって倒れた。そしてうつぶしになったまま痙攣的けいれんてきに激しく泣き出した。倉地がその泣き声にちょっとためらって立ったまま見ている間に、葉子は心の中で叫びに叫んだ。

「殺すなら殺すがいい。殺されたっていい。殺されたって憎みつづけてやるからいい。わたしは勝った。なんといっても勝った。こんなに悲しいのをなぜ早く殺してはくれないのだ。このかなしみにいつまでもひたっていたい。早く死んでしまいたい。……」


一六


 葉子はほんとうに死の間をさまよい歩いたような不思議な、混乱した感情の狂いに泥酔でいすいして、事務長の部屋へやから足もとも定まらずに自分の船室にもどって来たが、精も根も尽き果ててそのままソファの上にぶっ倒れた。目のまわりに薄黒いかさのできたその顔は鈍い鉛色をして、瞳孔どうこうは光に対して調節の力を失っていた。軽く開いたままの口びるからもれる歯並みまでが、光なく、ただ白く見やられて、死を連想させるような醜い美しさが耳の付け根までみなぎっていた。雪解時ゆきげどきの泉のように、あらん限りの感情が目まぐるしくわき上がっていたその胸には、底のほうに暗い悲哀がこちんとよどんでいるばかりだった。

 葉子はこんな不思議な心の状態からのがれ出ようと、思い出したように頭を働かして見たが、その努力は心にもなくかすかなはかないものだった。そしてその不思議に混乱した心の状態もいわばたえきれぬほどのせつなさは持っていなかった。葉子はそんなにしてぼんやりと目をさましそうになったり、意識の仮睡かすいに陥ったりした。猛烈な胃痙攣いけいれんを起こした患者が、モルヒネの注射を受けて、間歇的かんけつてきに起こる痛みのために無意識に顔をしかめながら、麻薬まやくの恐ろしい力の下に、ただ昏々こんこんと奇怪な仮睡に陥り込むように、葉子の心は無理無体な努力で時々驚いたように乱れさわぎながら、たちまち物すごい沈滞のふち深く落ちて行くのだった。葉子の意志はいかに手を延ばしても、もう心の落ち行く深みには届きかねた。頭の中は熱を持って、ただぼーと黄色くけむっていた。その黄色い煙の中を時々あかい火や青い火がちかちかと神経をうずかして駆け通った。息気いきづまるようなけさの光景や、過去のあらゆる回想が、入り乱れて現われて来ても、葉子はそれに対して毛の末ほども心を動かされはしなかった。それは遠い遠い木魂こだまのようにうつろにかすかに響いては消えて行くばかりだった。過去の自分と今の自分とのこれほどな恐ろしいへだたりを、葉子は恐れげもなく、成るがままに任せて置いて、重くよどんだ絶望的な悲哀にただわけもなくどこまでも引っぱられて行った。その先には暗い忘却が待ち設けていた。涙で重ったまぶたはだんだん打ち開いたままのひとみをおおって行った。少し開いた口びるの間からは、うめくような軽いいびきがもれ始めた。それを葉子はかすかに意識しながら、ソファの上にうつむきになったまま、いつとはなしに夢もない深い眠りに陥っていた。

 どのくらい眠っていたかわからない。突然葉子は心臓でも破裂しそうな驚きに打たれて、はっと目を開いて頭をもたげた。ずき〳〵〳〵と頭のしんが痛んで、部屋へやの中は火のように輝いておもても向けられなかった。もう昼ごろだなと気が付く中にも、雷とも思われる叫喚が船を震わして響き渡っていた。葉子はこの瞬間の不思議に胸をどきつかせながら聞き耳を立てた。船のおののきとも自分のおののきとも知れぬ震動が葉子の五体を木の葉のようにもてあそんだ。しばらくしてその叫喚がややしずまったので、葉子はようやく、横浜を出て以来絶えて用いられなかった汽笛の声である事を悟った。検疫所が近づいたのだなと思って、えりもとをかき合わせながら、静かにソファの上にひざを立てて、眼窓めまどから外面とのもをのぞいて見た。けさまでは雨雲に閉じられていた空も見違えるようにからっと晴れ渡って、紺青こんじょうの色の日の光のために奥深く輝いていた。松が自然に美しく配置されてえ茂った岩がかった岸がすぐ目の先に見えて、海はいかにも入り江らしく可憐かれんなさざ波をつらね、その上を絵島丸は機関の動悸どうきを打ちながらしずかに走っていた。幾日の荒々しい海路からここに来て見ると、さすがにそこには人間の隠れ場らしい静かさがあった。

 岸の奥まった所に白い壁の小さな家屋が見られた。そのかたわらには英国の国旗が微風にあおられて青空の中に動いていた。「あれが検疫官のいる所なのだ」そう思った意識の活動が始まるや否や、葉子の頭は始めて生まれ代わったようにはっきりとなって行った。そして頭がはっきりして来るとともに、今まで切り放されていたすべての過去があるべき姿を取って、明瞭めいりょうに現在の葉子と結び付いた。葉子は過去の回想が今見たばかりの景色からでも来たように驚いて、急いで眼窓めまどから顔を引っ込めて、強敵に襲いかかられた孤軍のように、たじろぎながらまたソファの上に臥倒ねたおれた。頭の中は急にむらがり集まる考えを整理するために激しく働き出した。葉子はひとりでに両手で髪の毛の上からこめかみの所を押えた。そして少し上目うわめをつかって鏡のほうを見やりながら、今まで閉止していた乱想の寄せ来るままに機敏にそれを送り迎えようと身構えた。

 葉子はとにかく恐ろしいがけのきわまで来てしまった事を、そしてほとんど無反省で、本能に引きずられるようにして、その中に飛び込んだ事を思わないわけには行かなかった。親類縁者に促されて、心にもない渡米を余儀なくされた時に自分で選んだ道──ともかく木村と一緒になろう。そして生まれ代わったつもりで米国の社会にはいりこんで、自分が見つけあぐねていた自分というものを、探り出してみよう。女というものが日本とは違って考えられているらしい米国で、女としての自分がどんな位置にすわる事ができるかためしてみよう。自分はどうしても生まるべきでない時代に、生まるべきでない所に生まれて来たのだ。自分の生まるべき時代と所とはどこか別にある。そこでは自分は女王の座になおっても恥ずかしくないほどの力を持つ事ができるはずなのだ。生きているうちにそこをさがし出したい。自分の周囲にまつわって来ながらいつのまにか自分を裏切って、いつどんな所にでも平気で生きていられるようになり果てた女たちの鼻をあかさしてやろう。若い命を持ったうちにそれだけの事をぜひしてやろう。木村は自分のこの心のたくらみを助ける事のできる男ではないが、自分のあとについて来られないほどの男でもあるまい。葉子はそんな事も思っていた。日清にっしん戦争が起こったころから葉子ぐらいの年配の女が等しく感じ出した一種の不安、一種の幻滅──それを激しく感じた葉子は、謀叛人むほんにんのように知らず知らず自分のまわりの少女たちにある感情的な教唆を与えていたのだが、自分自身ですらがどうしてこの大事な瀬戸ぎわを乗り抜けるのかは、少しもわからなかった。そのころの葉子は事ごとに自分の境遇が気にくわないでただいらいらしていた。その結果はただ思うままを振る舞って行くよりしかたがなかった。自分はどんな物からもほんとうに訓練されてはいないんだ。そして自分にはどうにでも働く鋭い才能と、女の強味(弱味ともいわばいえ)になるべきすぐれた肉体と激しい情緒とがあるのだ。そう葉子は知らず知らず自分を見ていた。そこから盲滅法めくらめっぽうに動いて行った。ことに時代の不思議な目ざめを経験した葉子に取っては恐ろしい敵は男だった。葉子はそのためになんどつまずいたかしれない。しかし、世の中にはほんとうに葉子をたすけ起こしてくれる人がなかった。「わたしが悪ければ直すだけの事をして見せてごらん」葉子は世の中に向いてこういい放ってやりたかった。女を全く奴隷どれい境界きょうがいに沈め果てた男はもう昔のアダムのように正直ではないんだ。女がじっとしている間は慇懃いんぎんにして見せるが、女が少しでも自分で立ち上がろうとすると、打って変わって恐ろしい暴王になり上がるのだ。女までがおめおめと男の手伝いをしている。葉子は女学校時代にしたたかそのにがい杯をなめさせられた。そして十八の時木部孤笻きべこきょうに対して、最初の恋愛らしい恋愛の情を傾けた時、葉子の心はもう処女の心ではなくなっていた。外界の圧迫に反抗するばかりに、一時火のように何物をも焼き尽くして燃え上がった仮初かりそめの熱情は、圧迫のゆるむとともにもろくもえてしまって、葉子は冷静な批評家らしく自分の恋と恋の相手とを見た。どうして失望しないでいられよう。自分の一生がこの人に縛りつけられてしなびて行くのかと思う時、またいろいろな男にもてあそばれかけて、かえって男の心というものを裏返してとっくりと見きわめたその心が、木部という、空想の上でこそ勇気も生彩もあれ、実生活においては見下げ果てたほど貧弱で簡単な一書生の心としいて結びつかねばならぬと思った時、葉子は身ぶるいするほど失望して木部と別れてしまったのだ。

 葉子のなめたすべての経験は、男に束縛を受ける危険を思わせるものばかりだった。しかしなんという自然のいたずらだろう。それとともに葉子は、男というものなしには一刻も過ごされないものとなっていた。砒石ひせきの用法をあやまった患者が、その毒の恐ろしさを知りぬきながら、その力を借りなければ生きて行けないように、葉子は生の喜びの源を、まかり違えば、生そのものを虫ばむべき男というものに、求めずにはいられないディレンマに陥ってしまったのだ。

 肉欲のきばを鳴らして集まって来る男たちに対して、(そういう男たちが集まって来るのはほんとうは葉子自身がふりまくにおいのためだとは気づいていて)葉子は冷笑しながら蜘蛛くものように網を張った。近づくものは一人ひとり残らずその美しい手網であみにからめ取った。葉子の心は知らず知らず残忍になっていた。ただあの妖力ようりょくある女郎蜘蛛じょろうぐものように、生きていたい要求から毎日その美しい網を四つ手に張った。そしてそれに近づきもし得ないでののしり騒ぐ人たちを、自分の生活とは関係のない木か石ででもあるように冷然と尻目しりめにかけた。

 葉子はほんとうをいうと、必要に従うというほかに何をすればいいのかわからなかった。

 葉子に取っては、葉子の心持ちを少しも理解していない社会ほど愚かしげな醜いものはなかった。葉子の目から見た親類という一群ひとむれはただ貪欲どんよく賤民せんみんとしか思えなかった。父はあわれむべく影の薄い一人ひとりの男性に過ぎなかった。母は──母はいちばん葉子の身近みぢかにいたといっていい。それだけ葉子は母と両立し得ない仇敵きゅうてきのような感じを持った。母は新しい型にわが子を取り入れることを心得てはいたが、それを取り扱うすべは知らなかった。葉子の性格が母の備えた型の中で驚くほどするすると生長した時に、母は自分以上の法力を憎む魔女のように葉子の行く道に立ちはだかった。その結果二人ふたりの間には第三者から想像もできないような反目と衝突とが続いたのだった。葉子の性格はこの暗闘のお陰で曲折のおもしろさと醜さとを加えた。しかしなんといっても母は母だった。正面からは葉子のする事なす事に批点を打ちながらも、心の底でいちばんよく葉子を理解してくれたに違いないと思うと、葉子は母に対して不思議ななつかしみを覚えるのだった。

 母が死んでからは、葉子は全く孤独である事を深く感じた。そして始終張りつめた心持ちと、失望からわき出る快活さとで、鳥が木から木に果実を探るように、人から人に歓楽を求めて歩いたが、どこからともなく不意に襲って来る不安は葉子を底知れぬ悒鬱ゆううつの沼に蹴落けおとした。自分は荒磯あらいそに一本流れよった流れ木ではない。しかしその流れ木よりも自分は孤独だ。自分は一ひら風に散ってゆく枯れ葉ではない。しかしその枯れ葉より自分はうらさびしい。こんな生活よりほかにする生活はないのかしらん。いったいどこに自分の生活をじっと見ていてくれる人があるのだろう。そう葉子はしみじみ思う事がないでもなかった。けれどもその結果はいつでも失敗だった。葉子はこうしたさびしさに促されて、乳母うばの家を尋ねたり、突然大塚おおつかの内田にあいに行ったりして見るが、そこを出て来る時にはただ一入ひとしおの心のむなしさが残るばかりだった。葉子は思い余ってまたみだらな満足を求めるために男の中に割ってはいるのだった。しかし男が葉子の目の前で弱味を見せた瞬間に、葉子は驕慢きょうまんな女王のように、その捕虜からおもてをそむけて、その出来事を悪夢のように忌みきらった。冒険の獲物えものはきまりきって取るにも足らないやくざものである事を葉子はしみじみ思わされた。

 こんな絶望的な不安に攻めさいなめられながらも、その不安に駆り立てられて葉子は木村という降参人をともかくその良人おっとに選んでみた。葉子は自分がなんとかして木村にそりを合わせる努力をしたならば、一生涯いっしょうがい木村と連れ添って、普通の夫婦のような生活ができないものでもないと一時思うまでになっていた。しかしそんなつぎはぎな考えかたが、どうしていつまでも葉子の心の底を虫ばむ不安をいやす事ができよう。葉子が気を落ち付けて、米国に着いてからの生活を考えてみると、こうあってこそと思い込むような生活には、木村はのけ物になるか、邪魔者になるほかはないようにも思えた。木村と暮らそう、そう決心して船に乗ったのではあったけれども、葉子の気分は始終ぐらつき通しにぐらついていたのだ。手足のちぎれた人形をおもちゃ箱にしまったものか、いっそ捨ててしまったものかと躊躇ちゅうちょする少女の心に似たぞんざいなためらいを葉子はいつまでも持ち続けていた。

 そういう時突然葉子の前に現われたのが倉地事務長だった。横浜の桟橋につながれた絵島丸の甲板かんぱんの上で、始めて猛獣のようなこの男を見た時から、稲妻のように鋭く葉子はこの男の優越を感受した。世が世ならば、倉地は小さな汽船の事務長なんぞをしている男ではない。自分と同様に間違って境遇づけられて生まれて来た人間なのだ。葉子は自分の身につまされて倉地をあわれみもしおそれもした。今までだれの前に出ても平気で自分の思う存分を振る舞っていた葉子は、この男の前では思わず知らず心にもない矯飾きょうしょくを自分の性格の上にまで加えた。事務長の前では、葉子は不思議にも自分の思っているのとちょうど反対の動作をしていた。無条件的な服従という事も事務長に対してだけはただ望ましい事にばかり思えた。この人に思う存分打ちのめされたら、自分の命は始めてほんとうに燃え上がるのだ。こんな不思議な、葉子にはあり得ない欲望すらが少しも不思議でなく受け入れられた。そのくせ表面うわべでは事務長の存在をすら気が付かないように振る舞った。ことに葉子の心を深く傷つけたのは、事務長の物懶ものうげな無関心な態度だった。葉子がどれほど人の心をひきつける事をいった時でも、した時でも、事務長は冷然として見向こうともしなかった事だ。そういう態度に出られると、葉子は、自分の事はたなに上げておいて、激しく事務長を憎んだ。この憎しみの心が日一日と募って行くのを非常に恐れたけれども、どうしようもなかったのだ。

 しかし葉子はとうとうけさの出来事にぶっ突かってしまった。葉子は恐ろしいがけのきわからめちゃくちゃに飛び込んでしまった。葉子の目の前で今まで住んでいた世界はがらっと変わってしまった。木村がどうした。米国がどうした。養って行かなければならない妹や定子がどうした。今まで葉子を襲い続けていた不安はどうした。人に犯されまいと身構えていたその自尊心はどうした。そんなものはみじんに無くなってしまっていた。倉地を得たらばどんな事でもする。どんな屈辱でもみつと思おう。倉地を自分ひとりに得さえすれば……。今まで知らなかった、捕虜の受くる蜜より甘い屈辱!

 葉子の心はこんなに順序立っていたわけではない。しかし葉子は両手で頭を押えて鏡を見入りながらこんな心持ちを果てしもなくかみしめた。そして追想は多くの迷路をたどりぬいた末に、不思議な仮睡状態に陥る前まで進んで来た。葉子はソファを牝鹿めじかのように立ち上がって、過去と未来とを断ち切った現在刹那せつなのくらむばかりな変身に打ちふるいながらほほえんだ。

 その時ろくろくノックもせずに事務長がはいって来た。葉子のただならぬ姿には頓着とんじゃくなく、

「もうすぐ検疫官がやって来るから、さっきの約束を頼みますよ。資本入らずで大役が勤まるんだ。女というものはいいものだな。や、しかしあなたのはだいぶ資本がかかっとるでしょうね。……頼みますよ」と戯談じょうだんらしくいった。

「はあ」葉子はなんの苦もなく親しみの限りをこめた返事をした。その一声の中には、自分でも驚くほどな蠱惑こわくの力がこめられていた。

 事務長が出て行くと、葉子は子供のように足なみ軽く小さな船室の中を小跳こおどりして飛び回った。そして飛び回りながら、髪をほごしにかかって、時々鏡に映る自分の顔を見やりながら、こらえきれないようにぬすみ笑いをした。


一七


 事務長のさしがねはうまいつぼにはまった。検疫官は絵島丸の検疫事務をすっかり年とった次位の医官に任せてしまって、自分は船長室で船長、事務長、葉子を相手に、話に花を咲かせながらトランプをいじり通した。あたりまえならば、なんとかかとか必ず苦情の持ち上がるべき英国風の小やかましい検疫もあっさり済んで放蕩者ほうとうものらしい血気盛りな検疫官は、船に来てから二時間そこそこできげんよく帰って行く事になった。

 まるともなく進行を止めていた絵島丸は風のまにまに少しずつ方向を変えながら、二人ふたりの医官を乗せて行くモーター・ボートが舷側げんそくを離れるのを待っていた。折り目正しい長めな紺の背広を着た検疫官はボートの舵座かじざに立ち上がって、手欄てすりから葉子と一緒に胸から上を乗り出した船長となお戯談じょうだんを取りかわした。船梯子ふなばしごの下まで医官を見送った事務長は、物慣れた様子でポッケットからいくらかを水夫の手につかませておいて、上を向いて相図をすると、船梯子ふなばしごきりきりと水平に巻き上げられて行く、それを事もなげに身軽く駆け上って来た。検疫官の目は事務長への挨拶あいさつもそこそこに、思いきり派手はでな装いを凝らした葉子のほうに吸い付けられるらしかった。葉子はその目を迎えて情をこめた流眄ながしめを送り返した。検疫官がその忙しい間にも何かしきりに物をいおうとした時、けたたましい汽笛が一抹いちまつの白煙を青空に揚げて鳴りはためき、船尾からはすさまじい推進機の震動が起こり始めた。このあわただしい船の別れを惜しむように、検疫官は帽子を取って振り動かしながら、噪音そうおんにもみ消される言葉を続けていたが、もとより葉子にはそれは聞こえなかった。葉子はただにこにことほほえみながらうなずいて見せた。そしてただ一時のいたずらごころから髪にさしていた小さな造花を投げてやると、それがあわよく検疫官の肩にあたって足もとにすべり落ちた。検疫官が片手に舵綱かじづなをあやつりながら、有頂点うちょうてんになってそれを拾おうとするのを見ると、船舷ふなばたに立ちならんで物珍しげに陸地を見物していたステヤレージの男女の客は一斉いっせいに手をたたいてどよめいた。葉子はあたりを見回した。西洋の婦人たちは等しく葉子を見やって、その花々しい服装から軽率かるはずみらしい挙動を苦々しく思うらしい顔つきをしていた。それらの外国人の中には田川夫人もまじっていた。

 検疫官は絵島丸が残して行った白沫はくまつの中で、腰をふらつかせながら、笑い興ずる群集にまで幾度も頭を下げた。群集はまた思い出したように漫罵まんばを放って笑いどよめいた。それを聞くと日本語のよくわかる白髪の船長は、いつものように顔を赤くして、気の毒そうに恥ずかしげな目を葉子に送ったが、葉子がはしたない群集の言葉にも、苦々にがにがしげな船客の顔色にも、少しも頓着とんじゃくしないふうで、ほほえみ続けながらモーター・ボートのほうを見守っているのを見ると、未通女おぼこらしくさらにまっになってその場をはずしてしまった。

 葉子は何事も屈託なくただおもしろかった。からだじゅうをくすぐるような生のよろこびから、ややもするとなんでもなく微笑が自然に浮かび出ようとした。「けさから私はこんなに生まれ代わりました御覧なさい」といってだれにでも自分の喜びを披露ひろうしたいような気分になっていた。検疫官の官舎の白い壁も、そのほうに向かって走って行くモーター・ボートも見る見る遠ざかって小さな箱庭のようになった時、葉子は船長室でのきょうの思い出し笑いをしながら、手欄てすりを離れて心あてに事務長を目で尋ねた。と、事務長は、はるか離れた船艙せんそうの出口に田川夫妻とかなえになって、何かむずかしい顔をしながら立ち話をしていた。いつもの葉子ならば三人の様子で何事が語られているかぐらいはすぐ見て取るのだが、その日はただ浮き浮きした無邪気な心ばかりが先に立って、だれにでも好意のある言葉をかけて、同じ言葉でむくいられたい衝動に駆られながら、なんの気なしにそっちに足を向けようとして、ふと気がつくと、事務長が「来てはいけない」と激しく目に物を言わせているのがさとれた。気が付いてよく見ると田川夫人の顔にはまごうかたなき悪意がひらめいていた。

「またおせっかいだな」

 一秒の躊躇ちゅうちょもなく男のような口調で葉子はこう小さくつぶやいた。「構うものか」そう思いながら葉子は事務長の目使いにも無頓着むとんじゃくに、快活な足どりでいそいそと田川夫妻のほうに近づいて行った。それを事務長もどうすることもできなかった。葉子は三人の前に来ると軽く腰をまげておくをかき上げながら顔じゅうを蠱惑的こわくてきなほほえみにして挨拶あいさつした。田川博士のほおにはいち早くそれに応ずる物やさしい表情が浮かぼうとしていた。

「あなたはずいぶんな乱暴をなさるかたですのね」

 いきなり震えを帯びた冷ややかな言葉が田川夫人から葉子に容赦もなく投げつけられた。それは底意地の悪い挑戦的ちょうせんてきな調子で震えていた。田川博士はかせはこのとっさの気まずい場面を繕うため何か言葉を入れてその不愉快な緊張をゆるめようとするらしかったが、夫人の悪意はせき立って募るばかりだった。しかし夫人は口に出してはもうなんにもいわなかった。

 女の間に起こる不思議な心と心との交渉から、葉子はなんという事なく、事務長と自分との間にけさ起こったばかりの出来事を、輪郭だけではあるとしても田川夫人が感づいているなと直覚した。ただ一言ひとことではあったけれども、それは検疫官とトランプをいじった事を責めるだけにしては、激し過ぎ、悪意がこめられ過ぎていることを直覚した。今の激しい言葉は、その事を深く根に持ちながら、検疫医に対する不謹慎な態度をたしなめる言葉のようにして使われているのを直覚した。葉子の心のすみからすみまでを、溜飲りゅういんの下がるような小気味よさが小おどりしつつせめぐった。葉子は何をそんなに事々しくたしなめられる事があるのだろうというような少ししゃあしゃあした無邪気な顔つきで、首をかしげながら夫人を見守った。

「航海中はとにかくわたし葉子さんのお世話をお頼まれ申しているんですからね」

 初めはしとやかに落ち付いていうつもりらしかったが、それがだんだん激して途切れがちな言葉になって、夫人はしまいには激動から息気いきをさえはずましていた。その瞬間に火のような夫人のひとみと、皮肉に落ち付き払った葉子のひとみとが、ぱったり出っくわして小ぜり合いをしたが、また同時に蹴返けかえすように離れて事務長のほうに振り向けられた。

「ごもっともです」

 事務長はあぶに当惑したくまのような顔つきで、がらにもない謹慎を装いながらこう受け答えた。それから突然本気な表情に返って、

「わたしも事務長であって見れば、どのお客様に対しても責任があるのだで、御迷惑になるような事はせんつもりですが」

 ここで彼は急に仮面を取り去ったようににこにこし出した。

「そうむきになるほどの事でもないじゃありませんか。たかが早月さつきさんに一度か二度愛嬌あいきょうをいうていただいて、それで検疫の時間が二時間から違うのですもの。いつでもここで四時間の以上もむだにせにゃならんのですて」

 田川夫人がますますせき込んで、矢継やつばやにまくしかけようとするのを、事務長は事もなげに軽々とおっかぶせて、

「それにしてからがお話はいかがです、部屋へやで伺いましょうか。ほかのお客様の手前もいかがです。博士はかせ、例のとおり狭っこい所ですが、甲板かんぱんではゆっくりもできませんで、あそこでお茶でも入れましょう。早月さんあなたもいかがです」

 と笑い笑い言ってからくるりッと葉子のほうに向き直って、田川夫妻には気が付かないように頓狂とんきょうな顔をちょっとして見せた。

 横浜で倉地のあとに続いて船室への階子段はしごだんを下る時始めてぎ覚えたウイスキーと葉巻とのまじり合ったような甘たるい一種のにおいが、この時かすかに葉子の鼻をかすめたと思った。それをかぐと葉子の情熱のほむらが一時にあおり立てられて、人前では考えられもせぬような思いが、旋風つむじかぜのごとく頭の中をこそいで通るのを覚えた。男にはそれがどんな印象を与えたかを顧みる暇もなく、田川夫妻の前ということもはばからずに、自分では醜いに違いないと思うような微笑が、覚えず葉子のまゆの間に浮かび上がった。事務長は小むずかしい顔になって振り返りながら、

「いかがです」ともう一度田川夫妻を促した。しかし田川博士は自分の妻のおとなげないのをあわれむ物わかりのいい紳士という態度を見せて、ていよく事務長にことわりをいって、夫人と一緒にそこを立ち去った。

「ちょっといらっしゃい」

 田川夫妻の姿が見えなくなると、事務長はろくろく葉子を見むきもしないでこういいながら先に立った。葉子は小娘のようにいそいそとそのあとについて、薄暗い階子段はしごだんにかかると男におぶいかかるようにしてこぜわしく降りて行った。そして機関室と船員室との間にある例の暗い廊下を通って、事務長が自分の部屋の戸をあけた時、ぱっと明るくなった白い光の中に、nonchalant な diabolic な男の姿を今さらのように一種のおそれとなつかしさとをこめて打ちながめた。

 部屋にはいると事務長は、田川夫人の言葉でも思い出したらしくめんどうくさそうに吐息といき一つして、帳簿を事務テーブルの上にほうりなげておいて、また戸から頭だけつき出して、「ボーイ」と大きな声で呼び立てた。そして戸をしめきると、始めてまともに葉子に向きなおった。そして腹をゆすり上げて続けさまに思い存分笑ってから、

「え」と大きな声で、半分は物でも尋ねるように、半分は「どうだい」といったような調子でいって、足を開いて akimbo をして突っ立ちながら、ちょいと無邪気に首をかしげて見せた。

 そこにボーイが戸の後ろから顔だけ出した。

「シャンペンだ。船長の所にバーから持ってさしたのが、二三本残ってるよ。十の字三つぞ(大至急という軍隊用語)。……何がおかしいかい」

 事務長は葉子のほうを向いたままこういったのであるが、実際その時ボーイは意味ありげににやにや薄笑いをしていた。

 あまりに事もなげな倉地の様子を見ていると葉子は自分の心のせつなさに比べて、男の心を恨めしいものに思わずにいられなくなった。けさの記憶のまだ生々なまなましい部屋へやの中を見るにつけても、激しくたかぶって来る情熱が妙にこじれて、いても立ってもいられないもどかしさが苦しく胸にせまるのだった。今まではまるきり眼中になかった田川夫人も、三等の女客の中で、処女とも妻ともつかぬ二人ふたりの二十女も、果ては事務長にまつわりつくあの小娘のような岡までが、写真で見た事務長の細君と一緒になって、苦しい敵意を葉子の心にあおり立てた。ボーイにまで笑いものにされて、男の皮を着たこの好色の野獣のなぶりものにされているのではないか。自分の身も心もただ一息にひしぎつぶすかと見えるあの恐ろしい力は、自分を征服すると共にすべての女に対しても同じ力で働くのではないか。そのたくさんの女の中の影の薄い一人ひとりの女として彼は自分を扱っているのではないか。自分には何物にも代えがたく思われるけさの出来事があったあとでも、ああ平気でいられるそののんきさはどうしたものだろう。葉子は物心がついてから始終自分でも言い現わす事のできない何物かをい求めていた。その何物かは葉子のすぐ手近にありながら、しっかりとつかむ事はどうしてもできず、そのくせいつでもその力の下に傀儡かいらいのようにあてもなく動かされていた。葉子はけさの出来事以来なんとなく思いあがっていたのだ。それはその何物かがおぼろげながら形を取って手に触れたように思ったからだ。しかしそれも今から思えば幻影に過ぎないらしくもある。自分に特別な注意も払っていなかったこの男の出来心に対して、こっちから進んで情をそそるような事をした自分はなんという事をしたのだろう。どうしたらこの取り返しのつかない自分の破滅を救う事ができるのだろうと思って来ると、一秒でもこのいまわしい記憶のさまよう部屋の中にはいたたまれないように思え出した。しかし同時に事務長は断ちがたい執着となって葉子の胸の底にこびりついていた。この部屋をこのままで出て行くのは死ぬよりもつらい事だった。どうしてもはっきりと事務長の心を握るまでは……葉子は自分の心の矛盾にごうを煮やしながら、自分をさげすみ果てたような絶望的な怒りの色を口びるのあたりに宿して、黙ったまま陰鬱いんうつに立っていた。今までそわそわと小魔しょうまのように葉子の心をめぐりおどっていたはなやかな喜び──それはどこに行ってしまったのだろう。

 事務長はそれに気づいたのか気がつかないのか、やがてよりかかりのないまるい事務いすにしりをすえて、子供のような罪のない顔をしながら、葉子を見て軽く笑っていた。葉子はその顔を見て、恐ろしい大胆な悪事を赤児あかご同様の無邪気さで犯しうるたちの男だと思った。葉子はこんな無自覚な状態にはとてもなっていられなかった。一足ずつさきを越されているのかしらんという不安までが心の平衡をさらに狂わした。

「田川博士は馬鹿ばかばかで、田川の奥さんは利口ばかというんだ。はゝゝゝゝ」

 そういって笑って、事務長はひざがしらをはっしと打った手をかえして、机の上にある葉巻をつまんだ。

 葉子は笑うよりも腹だたしく、腹だたしいよりも泣きたいくらいになっていた。口びるをぶるぶると震わしながら涙でもたまったように輝く目はけんを持って、恨みをこめて事務長を見入ったが、事務長は無頓着むとんじゃくに下を向いたまま、一心に葉巻に火をつけている。葉子は胸におさえあまる恨みつらみをいい出すには、心があまりに震えてのどがかわききっているので、下くちびるをかみしめたまま黙っていた。

 倉地はそれを感づいているのだのにと葉子は置きざりにされたようなやり所のないさびしさを感じていた。

 ボーイがシャンペンとコップとを持ってはいって来た。そして丁寧にそれを事務テーブルの上に置いて、さっきのように意味ありげな微笑をもらしながら、そっと葉子をぬすみ見た。待ち構えていた葉子の目はしかしボーイを笑わしてはおかなかった。ボーイはぎょっとして飛んでもない事をしたというふうに、すぐ慎み深い給仕きゅうじらしく、そこそこに部屋へやを出て行った。

 事務長は葉巻の煙に顔をしかめながら、シャンペンをついで盆を葉子のほうにさし出した。葉子は黙って立ったまま手を延ばした。何をするにも心にもない作り事をしているようだった。この短い瞬間に、今までの出来事でいいかげん乱れていた心は、身の破滅がとうとう来てしまったのだというおそろしい予想に押しひしがれて、頭は氷で巻かれたように冷たくうとくなった。胸からのどもとにつきあげて来る冷たいそして熱いたまのようなものをしく飲み込んでも飲み込んでも涙がややともすると目がしらを熱くうるおして来た。薄手うすでのコップにあわを立てて盛られた黄金色こがねいろの酒は葉子の手の中で細かいさざ波を立てた。葉子はそれを気取けどられまいと、しいて左の手を軽くあげてびんの毛をかき上げながら、コップを事務長のと打ち合わせたが、それをきっかけがんでもほどけたように今までからく持ちこたえていた自制は根こそぎくずされてしまった。

 事務長がコップを器用に口びるにあてて、仰向きかげんに飲みほす間、葉子は杯を手にもったまま、ぐびりぐびりと動く男ののどを見つめていたが、いきなり自分の杯を飲まないまま盆の上にかえして、

「よくもあなたはそんなに平気でいらっしゃるのね」

 と力をこめるつもりでいったその声はいくじなくも泣かんばかりに震えていた。そしてせきを切ったように涙が流れ出ようとするのを糸切り歯でかみきるばかりにしいてくいとめた。

 事務長は驚いたらしかった。目を大きくして何かいおうとするうちに、葉子の舌は自分でも思い設けなかった情熱を帯びて震えながら動いていた。

「知っています。知っていますとも……。あなたはほんとに……ひどいかたですのね。わたしなんにも知らないと思ってらっしゃるのね。えゝ、わたしは存じません、存じません、ほんとに……」

 何をいうつもりなのか自分でもわからなかった。ただ激しい嫉妬しっとが頭をぐらぐらさせるばかりにこうじて来るのを知っていた。男がある機会には手傷も負わないで自分から離れて行く……そういういまいましい予想で取り乱されていた。葉子は生来こんなみじめなまっ暗な思いに捕えられた事がなかった。それは生命が見す見す自分から離れて行くのを見守るほどみじめでまっ暗だった。この人を自分から離れさすくらいなら殺してみせる、そう葉子はとっさに思いつめてみたりした。

 葉子はもう我慢にもそこに立っていられなくなった。事務長に倒れかかりたい衝動をしいてじっとこらえながら、きれいに整えられた寝台にようやく腰をおろした。美妙な曲線を長く描いてのどかに開いた眉根まゆねは痛ましく眉間みけんに集まって、急にやせたかと思うほど細った鼻筋は恐ろしく感傷的な痛々しさをその顔に与えた。いつになく若々しく装った服装までが、皮肉な反語のように小股こまたの切れあがったやせがたなその肉を痛ましくしいたげた。長いそでの下で両手の指を折れよとばかり組み合わせて、何もかも裂いて捨てたいヒステリックな衝動を懸命におさえながら、葉子はつばも飲みこめないほど狂おしくなってしまっていた。

 事務長は偶然に不思議を見つけた子供のような好奇なあきれた顔つきをして、葉子の姿を見やっていたが、片方のスリッパを脱ぎ落としたその白足袋しろたびの足もとから、やや乱れた束髪そくはつまでをしげしげと見上げながら、

「どうしたんです」

 といぶかるごとく聞いた。葉子はひったくるようにさそくに返事をしようとしたけれども、どうしてもそれができなかった。倉地はその様子を見ると今度はまじめになった。そして口のはたまで持って行った葉巻をそのままトレイの上に置いて立ち上がりながら、

「どうしたんです」

 ともう一度聞きなおした。それと同時に、葉子も思いきり冷酷に、

「どうもしやしません」

 という事ができた。二人ふたりの言葉がもつれ返ったように、二人の不思議な感情ももつれ合った。もうこんな所にはいない、葉子はこの上の圧迫にはえられなくなって、はなやかなすそ蹴乱けみだしながらまっしぐらに戸口のほうに走り出ようとした。事務長はその瞬間に葉子のなよやかな肩をさえぎりとめた。葉子はさえぎられて是非なく事務テーブルのそばに立ちすくんだが、誇りも恥も弱さも忘れてしまっていた。どうにでもなれ、殺すか死ぬかするのだ、そんな事を思うばかりだった。こらえにこらえていた涙を流れるに任せながら、事務長の大きな手を肩に感じたままで、しゃくり上げて恨めしそうに立っていたが、手近に飾ってある事務長の家族の写真を見ると、かっと気がのぼせて前後のわきまえもなく、それを引ったくるとともに両手にあらん限りの力をこめて、人殺しでもするような気負いでずたずたに引き裂いた。そしてもみくたになった写真のくずを男の胸もとおれと投げつけると、写真のあたったその所にかみつきもしかねまじき狂乱の姿となって、捨て身に武者ぶりついた。事務長は思わず身を退いて両手を伸ばして走りよる葉子をせき止めようとしたが、葉子はわれにもなく我武者がむしゃにすり入って、男の胸に顔を伏せた。そして両手で肩の服地をつめも立てよとつかみながら、しばらく歯をくいしばって震えているうちに、それがだんだんすすり泣きに変わって行って、しまいににはさめざめと声を立てて泣きはじめた。そしてしばらくは葉子の絶望的な泣き声ばかりが部屋へやの中の静かさをかき乱して響いていた。

 突然葉子は倉地の手を自分の背中に感じて、電気にでも触れたように驚いて飛びのいた。倉地に泣きながらすがりついた葉子が倉地からどんなものを受け取らねばならぬかは知れきっていたのに、優しい言葉でもかけてもらえるかのごとく振る舞った自分の矛盾にあきれて、恐ろしさに両手で顔をおおいながら部屋のすみに退さがって行った。倉地はすぐ近寄って来た。葉子はねこに見込まれたカナリヤのように身もだえしながら部屋の中を逃げにかかったが、事務長は手もなく追いすがって、葉子の二の腕を捕えて力まかせに引き寄せた。葉子も本気にあらん限りの力を出してさからった。しかしその時の倉地はもうふだんの倉地ではなくなっていた。けさ写真を見ていた時、後ろから葉子を抱きしめたその倉地が目ざめていた。おこった野獣に見る狂暴な、防ぎようのない力があらしのように男の五体をさいなむらしく、倉地はその力の下にうめきもがきながら、葉子にまっしぐらにつかみかかった。

「またおれをばかにしやがるな」

 という言葉がくいしばった歯の間から雷のように葉子の耳を打った。

 あゝこの言葉──このむき出しな有頂点うちょうてんな興奮した言葉こそ葉子が男の口から確かに聞こうと待ち設けた言葉だったのだ。葉子は乱暴な抱擁の中にそれを聞くとともに、心のすみに軽い余裕のできたのを感じて自分というものがどこかのすみに頭をもたげかけたのを覚えた。倉地の取った態度に対して作為のある応対ができそうにさえなった。葉子は前どおりすすり泣きを続けてはいたが、その涙の中にはもう偽りのしずくすらまじっていた。

「いやです放して」

 こういった言葉も葉子にはどこか戯曲的な不自然な言葉だった。しかし倉地は反対に葉子の一語一語に酔いしれて見えた。

「だれが離すか」

 事務長の言葉はみじめにもかすれおののいていた。葉子はどんどん失った所を取り返して行くように思った。そのくせその態度は反対にますますたよりなげなやる瀬ないものになっていた。倉地の広い胸と太い腕との間にがいに抱きしめられながら、小鳥のようにぶるぶると震えて、

「ほんとうに離してくださいまし」

「いやだよ」

 葉子は倉地の接吻せっぷんを右に左によけながら、さらに激しくすすり泣いた。倉地は致命傷を受けたけもののようにうめいた。その腕には悪魔のような血の流れるのが葉子にも感ぜられた。葉子はほどを見計らっていた。そして男の張りつめた情欲の糸が絶ち切れんばかりに緊張した時、葉子はふと泣きやんできっと倉地の顔を振り仰いだ。その目からは倉地が思いもかけなかった鋭い強い光が放たれていた。

「ほんとうに放していただきます」

 ときっぱりいって、葉子は機敏にちょっとゆるんだ倉地の手をすりぬけた。そしていち早く部屋へやを横筋かいに戸口まで逃げのびて、ハンドルに手をかけながら、

「あなたはけさこの戸にかぎをおかけになって、……それは手籠てごめです……わたし……」

 といって少し情に激してうつむいてまた何かいい続けようとするらしかったが、突然戸をあけて出て行ってしまった。

 取り残された倉地はあきれてしばらく立っているようだったが、やがて英語で乱暴な呪詛じゅそを口走りながら、いきなり部屋を出て葉子のあとを追って来た。そしてまもなく葉子の部屋の所に来てノックした。葉子は鍵をかけたまま黙って答えないでいた。事務長はなお二三度ノックを続けていたが、いきなり何か大声で物をいいながら船医の興録の部屋にはいるのが聞こえた。

 葉子は興録が事務長のさしがねでなんとかいいに来るだろうとひそかに心待ちにしていた。ところがなんともいって来ないばかりか、船医室からは時々あたりをはばからない高笑いさえ聞こえて、事務長は容易にその部屋へやを出て行きそうな気配けはいもなかった。葉子は興奮に燃え立ついらいらした心でそこにいる事務長の姿をいろいろ想像していた。ほかの事は一つも頭の中にははいって来なかった。そしてつくづく自分の心の変わりかたの激しさに驚かずにはいられなかった。「定子! 定子!」葉子は隣にいる人を呼び出すような気で小さな声を出してみた。その最愛の名を声にまで出してみても、その響きの中には忘れていた夢を思い出したほどの反応こたえもなかった。どうすれば人の心というものはこんなにまで変わり果てるものだろう。葉子は定子をあわれむよりも、自分の心をあわれむために涙ぐんでしまった。そしてなんの気なしに小卓の前に腰をかけて、大切なものの中にしまっておいた、そのころ日本では珍しいファウンテン・ペンを取り出して、筆の動くままにそこにあった紙きれに字を書いてみた。

「女の弱き心につけ入りたもうはあまりにむごきお心とただ恨めしく存じ参らせそろわらわの運命はこの船に結ばれたるしきえにしやそうらいけん心がらとは申せ今は過去のすべて未来のすべてを打ち捨ててただ目の前の恥ずかしき思いに漂うばかりなる根なし草の身となり果て参らせ候を事もなげに見やりたもうが恨めしく恨めしく死」

 となんのくふうもなく、よく意味もわからないで一瀉千里いっしゃせんりに書き流して来たが、「死」という字に来ると、葉子はペンも折れよといらいらしくその上を塗り消した。思いのままを事務長にいってやるのは、思い存分自分をもてあそべといってやるのと同じ事だった。葉子は怒りに任せて余白を乱暴にいたずら書きでよごしていた。

 と、突然船医の部屋から高々と倉地の笑い声が聞こえて来た。葉子はわれにもなくつむりを上げて、しばらく聞き耳を立ててから、そっと戸口に歩み寄ったが、あとはそれなりまた静かになった。

 葉子は恥ずかしげに座にもどった。そして紙の上に思い出すままに勝手な字を書いたり、形の知れない形を書いてみたりしながら、ずきんずきんと痛む頭をぎゅっひじをついた片手で押えてなんという事もなく考えつづけた。

 念が届けば木村にも定子にもなんの用があろう。倉地の心さえつかめばあとは自分の意地いじ一つだ。そうだ。念が届かなければ……念が届かなければ……届かなければあらゆるものに用がなくなるのだ。そうしたら美しく死のうねえ。……どうして……私はどうして……けれども……葉子はいつのまにか純粋に感傷的になっていた。自分にもこんなおぼこな思いが潜んでいたかと思うと、抱いてなでさすってやりたいほど自分がかわゆくもあった。そして木部と別れて以来絶えて味わわなかったこの甘い情緒に自分からほだされおぼれて、心中しんじゅうでもする人のような、恋に身をまかせる心安さにひたりながら小机に突っ伏してしまった。

 やがて酔いつぶれた人のようにつむりをもたげた時は、とうに日がかげって部屋の中にははなやかに電燈がともっていた。

 いきなり船医の部屋の戸が乱暴に開かれる音がした。葉子ははっと思った。その時葉子の部屋の戸にどたりと突きあたった人の気配がして、「早月さつきさん」と濁って塩がれた事務長の声がした。葉子は身のすくむような衝動を受けて、思わず立ち上がってたじろぎながら部屋のすみに逃げかくれた。そしてからだじゅうを耳のようにしていた。

早月さつきさんお願いだ。ちょっとあけてください」

 葉子は手早く小机の上の紙をくずかごになげすてて、ファウンテン・ペンを物陰にほうりこんだ。そしてせかせかとあたりを見回したが、あわてながら眼窓めまどのカーテンをしめきった。そしてまた立ちすくんだ、自分の心の恐ろしさにまどいながら。

 外部ではにぎこぶしで続けさまに戸をたたいている。葉子はそわそわと裾前すそまえをかき合わせて、肩越しに鏡を見やりながら涙をふいてまゆをなでつけた。

「早月さん

 葉子はややしばしとつおいつ躊躇ちゅうちょしていたが、とうとう決心して、何かあわてくさって、かぎがちがちやりながら戸をあけた。

 事務長はひどく酔ってはいって来た。どんなに飲んでも顔色もかえないほどの強酒ごうしゅな倉地が、こんなに酔うのは珍しい事だった。締めきった戸に仁王立におうだちによりかかって、冷然とした様子で離れて立つ葉子をまじまじと見すえながら、

「葉子さん、葉子さんが悪ければ早月さんだ。早月さん……僕のする事はするだけの覚悟があってするんですよ。僕はね、横浜以来あなたにれていたんだ。それがわからないあなたじゃないでしょう。暴力? 暴力がなんだ。暴力は愚かなこった。殺したくなれば殺しても進んぜるよ」

 葉子はその最後の言葉を聞くと瞑眩めまいを感ずるほど有頂天になった。

「あなたに木村さんというのが付いてるくらいは、横浜の支店長から聞かされとるんだが、どんな人だか僕はもちろん知りませんさ。知らんが僕のほうがあなたに深惚ふかぼれしとる事だけは、この胸三寸でちゃんと知っとるんだ。それ、それがわからん? 僕は恥も何もさらけ出していっとるんですよ。これでもわからんですか」

 葉子は目をかがやかしながら、その言葉をむさぼった。かみしめた。そしてのみ込んだ。

 こうして葉子に取って運命的な一日は過ぎた。


一八


 その夜船はビクトリヤに着いた。倉庫の立ちならんだ長い桟橋に〝Car to the Town.Fare 15¢〟と大きな白い看板に書いてあるのが夜目にもしるく葉子の眼窓めまどから見やられた。米国への上陸が禁ぜられているシナの苦力クリーがここから上陸するのと、相当の荷役とで、船の内外は急に騒々そうぞうしくなった。事務長は忙しいと見えてその夜はついに葉子の部屋へやに顔を見せなかった。そこいらが騒々しくなればなるほど葉子はたとえようのない平和を感じた。生まれて以来、葉子は生に固着した不安からこれほどまできれいに遠ざかりうるものとは思いも設けていなかった。しかもそれが空疎な平和ではない。飛び立っておどりたいほどの ecstasy を苦もなく押えうる強い力の潜んだ平和だった。すべての事に飽きった人のように、また二十五年にわたる長い苦しい戦いに始めて勝ってかぶとを脱いだ人のように、心にも肉にも快い疲労を覚えて、いわばその疲れを夢のように味わいながら、なよなよとソファに身を寄せて灯火を見つめていた。倉地がそこにいないのが浅い心残りだった。けれどもなんといっても心安かった。ともすれば微笑が口びるの上をさざ波のようにひらめき過ぎた。

 けれどもその翌日から一等船客の葉子に対する態度は手のひらを返したように変わってしまった。一夜の間にこれほどの変化をひき起こす事のできる力を、葉子は田川夫人のほかに想像し得なかった。田川夫人が世に時めく良人おっとを持って、人の目に立つ交際をして、女盛りといい条、もういくらか下り坂であるのに引きかえて、どんな人の配偶にしてみても恥ずかしくない才能と容貌ようぼうとを持った若々しい葉子のたよりなげな身の上とが、二人ふたりに近づく男たちに同情の軽重を起こさせるのはもちろんだった。しかし道徳はいつでも田川夫人のような立場にある人の利器で、夫人はまたそれを有利に使う事を忘れない種類の人であった。そして船客たちの葉子に対する同情の底に潜む野心──はかない、野心ともいえないほどの野心──もう一ついいゆれば、葉子の記憶に親切な男として、勇悍ゆうかんな男として、美貌びぼうな男として残りたいというほどな野心──に絶望の断定を与える事によって、その同情を引っ込めさせる事のできるのも夫人は心得ていた。事務長が自己の勢力範囲から離れてしまった事も不快の一つだった。こんな事から事務長と葉子との関係は巧妙な手段でいち早く船中に伝えられたに違いない。その結果として葉子はたちまち船中の社交から葬られてしまった。少なくとも田川夫人の前では、船客の大部分は葉子に対して疎々よそよそしい態度をして見せるようになった。中にもいちばんあわれなのは岡だった。だれがなんと告げ口したのか知らないが、葉子が朝おそく目をさまして甲板かんぱんに出て見ると、いつものように手欄てすりによりかかって、もう内海になった波の色をながめていた彼は、葉子の姿を認めるや否や、ふいとその場をはずして、どこへか影を隠してしまった。それからというもの、岡はまるで幽霊のようだった。船の中にいる事だけは確かだが、葉子がどうかしてその姿を見つけたと思うと、次の瞬間にはもう見えなくなっていた。そのくせ葉子は思わぬ時に、岡がどこかで自分を見守っているのを確かに感ずる事がたびたびだった。葉子はその岡をあわれむ事すらもう忘れていた。

 結句船の中の人たちから度外視されるのを気安い事とまでは思わないでも、葉子はかかる結果にはいっこう無頓着むとんじゃくだった。もう船はきょうシヤトルに着くのだ。田川夫人やそのほかの船客たちのいわゆる「監視」のもと苦々にがにがしい思いをするのもきょう限りだ。そう葉子は平気で考えていた。

 しかし船がシヤトルに着くという事は、葉子にほかの不安を持ちきたさずにはおかなかった。シカゴに行って半年か一年木村と連れ添うほかはあるまいとも思った。しかし木部の時でも二か月とは同棲どうせいしていなかったとも思った。倉地と離れては一日でもいられそうにはなかった。しかしこんな事を考えるには船がシヤトルに着いてからでも三日や四日の余裕はある。倉地はその事は第一に考えてくれているに違いない。葉子は今の平和をしいてこんな問題でかき乱す事を欲しなかったばかりでなくとてもできなかった。

 葉子はそのくせ、船客と顔を見合わせるのが不快でならなかったので、事務長に頼んで船橋に上げてもらった。船は今瀬戸内せとうちのような狭い内海を動揺もなく進んでいた。船長はビクトリアでやとい入れた水先みずさき案内と二人ならんで立っていたが、葉子を見るといつものとおり顔をまっにしながら帽子を取って挨拶あいさつした。ビスマークのような顔をして、船長よりひとがけもふたがけも大きい白髪の水先案内はふと振り返ってじっと葉子を見たが、そのまま向き直って、

「Charmin' little lassie ! wha' is that ?」

 とスコットランドふうな強い発音で船長に尋ねた。葉子にはわからないつもりでいったのだ。船長があわてて何かささやくと、老人はからからと笑ってちょっと首を引っ込ませながら、もう一度振り返って葉子を見た。

 その毒気なくからからと笑う声が、恐ろしく気に入ったばかりでなく、かわいて晴れ渡った秋の朝の空となんともいえない調和をしていると思いながら葉子は聞いた。そしてその老人の背中でもなでてやりたいような気になった。船は小動こゆるぎもせずにアメリカ松のえ茂った大島小島の間を縫って、舷側げんそくに来てぶつかるさざ波の音ものどかだった。そして昼近くなってちょっとしたみさきくるりと船がかわすと、やがてポート・タウンセンドに着いた。そこでは米国官憲の検査が型ばかりあるのだ。くずしたがけの土で埋め立てをして造った、桟橋まで小さな漁村で、四角な箱に窓を明けたような、生々なまなましい一色のペンキで塗り立てた二三階建ての家並やなみが、けわしい斜面に沿うて、高く低く立ち連なって、岡の上には水上げの風車が、青空に白い羽根をゆるゆる動かしながら、かったんこっとんとのんきらしく音を立てて回っていた。かもめが群れをなしてねこに似た声でなきながら、船のまわりを水に近くのどかに飛び回るのを見るのも、葉子には絶えて久しい物珍しさだった。飴屋あめやの呼び売りのような声さえ町のほうから聞こえて来た。葉子はチャート・ルームの壁にもたれかかって、ぽかぽかとさす秋の日の光を頭から浴びながら、静かな恵み深い心で、この小さな町の小さな生活の姿をながめやった。そして十四日の航海の間に、いつのまにか海の心を心としていたのに気がついた。放埒ほうらつな、移りな、想像も及ばぬパッションにのたうち回ってうめき悩むあの大海原おおうなばら──葉子は失われた楽園を慕い望むイヴのように、静かに小さくうねる水のしわを見やりながら、はるかな海の上の旅路を思いやった。

「早月さん、ちょっとそこからでいい、顔を貸してください」

 すぐ下で事務長のこういう声が聞こえた。葉子は母に呼び立てられた少女のように、うれしさに心をときめかせながら、船橋の手欄てすりから下を見おろした。そこに事務長が立っていた。

「One more over there,look!」

 こういいながら、米国の税関吏らしい人に葉子を指さして見せた。官吏はうなずきながら手帳に何か書き入れた。

 船はまもなくこの漁村を出発したが、出発するとまもなく事務長は船橋にのぼって来た。

「Here we are! Seatle is as good as reached now.」

 船長にともなく葉子にともなくいって置いて、水先案内と握手しながら、

「Thanks to you.」

 と付け足した。そして三人でしばらく快活に四方山よもやまの話をしていたが、ふと思い出したように葉子を顧みて、

「これからまた当分は目が回るほど忙しくなるで、その前にちょっと御相談があるんだが、下に来てくれませんか」

 といった。葉子は船長にちょっと挨拶あいさつを残して、すぐ事務長のあとに続いた。階子段はしごだんを降りる時でも、目の先に見える頑丈がんじょうな広い肩から一種の不安が抜け出て来て葉子にせまる事はもうなかった。自分の部屋へやの前まで来ると、事務長は葉子の肩に手をかけて戸をあけた。部屋の中には三四人の男が濃く立ちこめた煙草たばこの煙の中に所狭く立ったり腰をかけたりしていた。そこには興録の顔も見えた。事務長は平気で葉子の肩に手をかけたままはいって行った。

 それは始終事務長や船医と一かたまりのグループを作って、サルンの小さなテーブルを囲んでウイスキーを傾けながら、時々他の船客の会話に無遠慮な皮肉や茶々を入れたりする連中だった。日本人が着るといかにもいや味に見えるアメリカ風の背広も、さして取ってつけたようには見えないほど、太平洋を幾度も往来したらしい人たちで、どんな職業に従事しているのか、そういう見分けには人一倍鋭敏な観察力を持っている葉子にすら見当がつかなかった。葉子がはいって行っても、彼らは格別自分たちの名前を名乗るでもなく、いちばん安楽な椅子いすに腰かけていた男が、それを葉子に譲って、自分は二つに折れるように小さくなって、すでに一人ひとり腰かけている寝台に曲がりこむと、一同はその様子に声を立てて笑ったが、すぐまた前どおり平気な顔をして勝手な口をきき始めた。それでも一座は事務長には一目いちもく置いているらしく、また事務長と葉子との関係も、事務長から残らず聞かされている様子だった。葉子はそういう人たちの間にあるのを結句気安く思った。彼らは葉子を下級船員のいわゆる「姉御あねご」扱いにしていた。

「向こうに着いたらこれで悶着もんちゃくものだぜ。田川のかかあめ、あいつ、一味噌ひとみそすらずにおくまいて」

因業いんごうな生まれだなあ」

「なんでも正面からぶっ突かって、いさくさいわせず決めてしまうほかはないよ」

 などと彼らは戯談じょうだんぶった口調で親身しんみな心持ちをいい現わした。事務長はまゆも動かさずに、机によりかかって黙っていた。葉子はこれらの言葉からそこに居合わす人々の性質や傾向を読み取ろうとしていた。興録のほかに三人いた。その中の一人は甲斐絹かいきどてらを着ていた。

「このままこの船でお帰りなさるがいいね」

 とそのどてらを着た中年の世渡り巧者らしいのが葉子の顔をうかがい窺いいうと、事務長は少し屈託らしい顔をして物懶ものうげに葉子を見やりながら、

「わたしもそう思うんだがどうだ」

 とたずねた。葉子は、

「さあ……」

 と生返事なまへんじをするほかなかった。始めて口をきく幾人もの男の前で、とっかは物をいうのがさすがに億劫おっくうだった。興録は事務長の意向を読んで取ると、分別ふんべつぶった顔をさし出して、

「それに限りますよ。あなた一つ病気におなりなさりゃ世話なしですさ。上陸したところが急に動くようにはなれない。またそういうからだでは検疫けんえきがとやかくやかましいに違いないし、この間のように検疫所でまっ裸にされるような事でも起これば、国際問題だのなんだのって始末におえなくなる。それよりは出帆まで船に寝ていらっしゃるほうがいいと、そこは私が大丈夫やりますよ。そしておいて船の出ぎわになってやはりどうしてもいけないといえばそれっきりのもんでさあ」

「なに、田川の奥さんが、木村っていうのに、味噌みそさえしこたますってくれればいちばんええのだが」

 と事務長は船医の言葉を無視した様子で、自分の思うとおりをぶっきらぼうにいってのけた。

 木村はそのくらいな事で葉子から手を引くようなはきはきした気象の男ではない。これまでもずいぶんいろいろなうわさが耳にはいったはずなのに「僕はあの女の欠陥も弱点もみんな承知している。私生児のあるのももとより知っている。ただ僕はクリスチャンである以上、なんとでもして葉子を救い上げる。救われた葉子を想像してみたまえ。僕はその時いちばん理想的な better half を持ちうると信じている」といった事を聞いている。東北人のねんじりむっつりしたその気象が、葉子には第一我慢のしきれない嫌悪けんおの種だったのだ。

 葉子は黙ってみんなのいう事を聞いているうちに、興録の軍略がいちばん実際的だと考えた。そしてなれなれしい調子で興録を見やりながら、

「興録さん、そうおっしゃればわたし仮病けびょうじゃないんですの。この間じゅうからていただこうかしらと幾度か思ったんですけれども、あんまり大げさらしいんで我慢していたんですが、どういうもんでしょう……少しは船に乗る前からでしたけれども……おなかのここが妙に時々痛むんですのよ」

 というと、寝台に曲がりこんだ男はそれを聞きながらにやりにやり笑い始めた。葉子はちょっとその男をにらむようにして一緒に笑った。

「まあしおの悪い時にこんな事をいうもんですから、痛い腹まで探られますわね……じゃ興録さん後ほどていただけて?」

 事務長の相談というのはこんなたわいもない事で済んでしまった。

 二人ふたりきりになってから、

「ではわたしこれからほんとうの病人になりますからね」

 葉子はちょっと倉地の顔をつついて、その口びるに触れた。そしてシヤトルの市街から起こる煤煙ばいえんが遠くにぼんやり望まれるようになったので、葉子は自分の部屋に帰った。そして洋風の白い寝衣ねまきに着かえて、髪を長い編み下げにして寝床にはいった。戯談じょうだんのようにして興録に病気の話をしたものの、葉子は実際かなり長い以前から子宮を害しているらしかった。腰を冷やしたり、感情が激昂げきこうしたりしたあとでは、きっと収縮するような痛みを下腹部に感じていた。船に乗った当座は、しばらくの間は忘れるようにこの不快な痛みから遠ざかる事ができて、幾年ぶりかで申し所のない健康のよろこびを味わったのだったが、近ごろはまただんだん痛みが激しくなるようになって来ていた。半身が痲痺まひしたり、頭が急にぼーっと遠くなる事も珍しくなかった。葉子は寝床にはいってから、軽いいたみのある所をそっと平手でさすりながら、船がシヤトルの波止場はとばに着く時のありさまを想像してみた。しておかなければならない事が数かぎりなくあるらしかったけれども、何をしておくという事もなかった。ただなんでもいいせっせと手当たり次第したくをしておかなければ、それだけの心尽くしを見せて置かなければ、目論見もくろみどおり首尾が運ばないように思ったので、一ぺん横になったものをまたむくむくと起き上がった。

 まずきのう着た派手はでな衣類がそのまま散らかっているのを畳んでトランクの中にしまいこんだ。る時まで着ていた着物は、わざとはなやかな長襦袢ながじゅばんや裏地が見えるように衣紋竹えもんだけに通して壁にかけた。事務長の置き忘れて行ったパイプや帳簿のようなものは丁寧にしに隠した。古藤ことうが木村と自分とにあてて書いた二通の手紙を取り出して、古藤がしておいたように、まくらの下に差しこんだ。鏡の前には二人ふたりの妹と木村との写真を飾った。それから大事な事を忘れていたのに気がついて、廊下越しに興録を呼び出して薬びんや病床日記を調ととのえるように頼んだ。興録の持って来た薬びんから薬を半分がた痰壺たんつぼに捨てた。日本から木村に持って行くように託された品々をトランクから取り分けた。その中からは故郷を思い出させるようないろいろな物が出て来た。においまでが日本というものをほのかに心に触れさせた。

 葉子はせわしく働かしていた手を休めて、部屋へやのまん中に立ってあたりを見回して見た。しぼんだ花束が取りのけられてなくなっているばかりで、あとは横浜を出た時のとおりの部屋の姿になっていた。ふるい記憶がこうのようにしみこんだそれらの物を見ると、葉子の心はわれにもなくふとぐらつきかけたが、涙もさそわずに淡く消えて行った。

 フォクスルで起重機の音がかすかに響いて来るだけで、葉子の部屋は妙に静かだった。葉子の心は風のない池か沼の面のようにただどんよりとよどんでいた。からだはなんのわけもなくだるく物懶ものうかった。

 食堂の時計が引きしまった音で三時を打った。それを相図のように汽笛がすさまじく鳴り響いた。港にはいった相図をしているのだなと思った。と思うと今まで鈍く脈打つように見えていた胸が急に激しく騒ぎ動き出した。それが葉子の思いも設けぬ方向に動き出した。もうこの長い船旅も終わったのだ。十四五の時から新聞記者になる修業のために来たい来たいと思っていた米国に着いたのだ。来たいとは思いながらほんとうにようとは夢にも思わなかった米国に着いたのだ。それだけの事で葉子の心はもうしみじみとしたものになっていた。木村は狂うような心をしいて押ししずめながら、船の着くのを埠頭ふとうに立って涙ぐみつつ待っているだろう。そう思いながら葉子の目は木村や二人の妹の写真のほうにさまよって行った。それとならべて写真を飾っておく事もできない定子の事までが、哀れ深く思いやられた。生活の保障をしてくれる父親もなく、ひざに抱き上げて愛撫あいぶしてやる母親にもはぐれたあの子は今あのいけはたのさびしい小家で何をしているのだろう。笑っているかと想像してみるのも悲しかった。泣いているかと想像してみるのもあわれだった。そして胸の中が急にわくわくとふさがって来て、せきとめる暇もなく涙がはらはらと流れ出た。葉子は大急ぎで寝台のそばに駆けよって、まくらもとにおいといたハンケチを拾い上げて目がしらに押しあてた。素直な感傷的な涙がただわけもなくあとからあとから流れた。この不意の感情の裏切りにはしかし引き入れられるような誘惑があった。だんだん底深く沈んでかなしくなって行くその思い、なんの思いとも定めかねた深い、わびしい、悲しい思い。恨みや怒りをきれいにぬぐい去って、あきらめきったようにすべてのものをただしみじみとなつかしく見せるその思い。いとしい定子、いとしい妹、いとしい父母、……なぜこんななつかしい世に自分の心だけがこうかなしく一人ひとりぼっちなのだろう。なぜ世の中は自分のようなものをあわれむしかたを知らないのだろう。そんな感じの零細な断片がつぎつぎに涙にぬれて胸を引きしめながら通り過ぎた。葉子は知らず知らずそれらの感じにしっかりすがり付こうとしたけれども無益だった。感じと感じとの間には、星のない夜のような、波のない海のような、暗い深い際涯はてしのない悲哀が、愛憎のすべてをただ一色に染めなして、どんよりと広がっていた。生をのろうよりも死が願われるような思いが、せまるでもなく離れるでもなく、葉子の心にまつわり付いた。葉子は果てはまくらに顔を伏せて、ほんとうに自分のためにさめざめと泣き続けた。

 こうして小半時こはんときもたった時、船は桟橋につながれたと見えて、二度目の汽笛が鳴りはためいた。葉子は物懶ものうげに頭をもたげて見た。ハンケチは涙のためにしぼるほどぬれて丸まっていた。水夫らがつなづなを受けたりやったりする音と、鋲釘びょうくぎを打ちつけたくつ甲板かんぱんを歩き回る音とが入り乱れて、頭の上はさながら火事場のような騒ぎだった。泣いて泣いて泣き尽くした子供のようなぼんやりした取りとめのない心持ちで、葉子は何を思うともなくそれを聞いていた。

 と突然戸外で事務長の、

「ここがお部屋へやです」

 という声がした。それがまるで雷か何かのように恐ろしく聞こえた。葉子は思わずぎょっとなった。準備をしておくつもりでいながらなんの準備もできていない事も思った。今の心持ちは平気で木村に会える心持ちではなかった。おろおろしながら立ちは上がったが、立ち上がってもどうする事もできないのだと思うと、追いつめられた罪人のように、頭の毛を両手で押えて、髪の毛をむしりながら、寝台の上にがばと伏さってしまった。

 戸があいた。

「戸があいた」、葉子は自分自身に救いを求めるように、こう心の中でうめいた。そして息気いきもとまるほど身内がしゃちこばってしまっていた。

早月さつきさん、木村さんが見えましたよ」

 事務長の声だ。あゝ事務長の声だ。事務長の声だ。葉子は身を震わせて壁のほうに顔を向けた。……事務長の声だ……。

「葉子さん」

 木村の声だ。今度は感情に震えた木村の声が聞こえて来た。葉子は気が狂いそうだった。とにかく二人ふたりの顔を見る事はどうしてもできない。葉子は二人にうしろを向けますます壁のほうにもがきよりながら、涙の暇から狂人のように叫んだ。たちまち高くたちまち低いその震え声は笑っているようにさえ聞こえた。

「出て……お二人ともどうか出て……この部屋を……後生ごしょうですから今この部屋を……出てくださいまし……」

 木村はひどく不安げに葉子によりそってその肩に手をかけた。木村の手を感ずると恐怖と嫌悪けんおとのために身をちぢめて壁にしがみついた。

「痛い……いけません……おなかが……早く出て……早く……」

 事務長は木村を呼び寄せて何かしばらくひそひそ話し合っているようだったが、二人ながら足音を盗んでそっと部屋を出て行った。葉子はなおも息気いきえに、

「どうぞ出て……あっちに行って……」

 といいながら、いつまでも泣き続けた。


一九


 しばらくのあいだ食堂で事務長と通り一ぺんの話でもしているらしい木村が、ころを見計らって再度葉子の部屋へやの戸をたたいた時にも、葉子はまだまくらに顔を伏せて、不思議な感情の渦巻うずまきの中に心を浸していたが、木村が一人ひとりではいって来たのに気づくと、始めて弱々しく横向きに寝なおって、二の腕まで袖口そでぐちのまくれたまっ白な手をさし延べて、黙ったまま木村と握手した。木村は葉子の激しく泣いたのを見てから、こらえこらえていた感情がさらにこうじたものか、涙をあふれんばかり目がしらにためて、厚ぼったい口びるを震わせながら、痛々しげに葉子の顔つきを見入って突っ立った。

 葉子は、今まで続けていた沈黙の惰性で第一口をきくのが物懶ものうかったし、木村はなんといい出したものか迷う様子で、二人ふたりの間には握手のまま意味深げな沈黙が取りかわされた。その沈黙はしかし感傷的という程度であるにはあまりに長く続き過ぎたので、外界の刺激に応じて過敏なまでに満干みちひのできる葉子の感情は今まで浸っていた痛烈な動乱から一皮ひとかわ一皮平調にかえって、果てはその底に、こうこうじてはいとわしいと自分ですらが思うような冷ややかな皮肉が、そろそろ頭を持ち上げるのを感じた。握り合わせたむずかゆいような手を引っ込めて、目もとまでふとんをかぶって、そこから自分の前に立つ若い男の心の乱れを嘲笑あざわらってみたいような心にすらなっていた。長く続く沈黙が当然ひき起こす一種の圧迫を木村も感じてうろたえたらしく、なんとかして二人ふたりの間の気まずさを引き裂くような、心のせつなさを表わす適当の言葉を案じ求めているらしかったが、とうとう涙に潤った低い声で、もう一度、

「葉子さん」

 と愛するものの名を呼んだ。それは先ほど呼ばれた時のそれに比べると、聞き違えるほど美しい声だった。葉子は、今まで、これほどせつな情をこめて自分の名を呼ばれた事はないようにさえ思った。「葉子」という名にきわ立って伝奇的な色彩が添えられたようにも聞こえた。で、葉子はわざと木村と握り合わせた手に力をこめて、さらになんとか言葉をつがせてみたくなった。その目も木村の口びるに励ましを与えていた。木村は急に弁力を回復して、

「一日千秋の思いとはこの事です」

 とすらすらとなめらかにいってのけた。それを聞くと葉子はみごと期待に背負投しょいなげをくわされて、その場の滑稽こっけいに思わずふき出そうとしたが、いかに事務長に対する恋におぼれきった女心の残虐さからも、さすがに木村の他意ない誠実を笑いきる事はしないで、葉子はただ心の中で失望したように「あれだからいやになっちまう」とくさくさしながらかこった。

 しかしこの場合、木村と同様、葉子も格好な空気を部屋の中に作る事に当惑せずにはいられなかった。事務長と別れて自分の部屋に閉じこもってから、心静かに考えて置こうとした木村に対する善後策も、思いよらぬ感情の狂いからそのままになってしまって、今になってみると、葉子はどう木村をもてあつかっていいのか、はっきりした目論見もくろみはできていなかった。しかし考えてみると、木部孤笻こきょうと別れた時でも、葉子には格別これという謀略があったわけではなく、ただその時々にわがままを振る舞ったに過ぎなかったのだけれども、その結果は葉子が何か恐ろしく深いたくらみと手練てくだを示したかのように人に取られていた事も思った。なんとかしてぎ抜けられない事はあるまい。そう思って、まず落ち付き払って木村に椅子いすをすすめた。木村が手近にある畳み椅子を取り上げて寝台のそばに来てすわると、葉子はまたしなやかな手を木村のひざの上において、男の顔をしげしげと見やりながら、

「ほんとうにしばらくでしたわね。少しおやつれになったようですわ」

 といってみた。木村は自分の感情に打ち負かされて身を震わしていた。そしてわくわくと流れ出る涙が見る見る目からあふれて、顔を伝って幾筋となく流れ落ちた。葉子は、その涙の一しずくが気まぐれにも、うつむいた男の鼻の先に宿って、落ちそうで落ちないのを見やっていた。

「ずいぶんいろいろと苦労なすったろうと思って、気が気ではなかったんですけれども、わたしのほうも御承知のとおりでしょう。今度こっちに来るにつけても、それは困って、ありったけのものを払ったりして、ようやく間に合わせたくらいだったもんですから……」

 なおいおうとするのを木村はせわしく打ち消すようにさえぎって、

「それは充分わかっています」

 と顔を上げた拍子ひょうしに涙のしずくがぽたりと鼻の先からズボンの上に落ちたのを見た。葉子は、泣いたために妙にれぼったく赤くなって、てらてらと光る木村の鼻の先が急に気になり出して、悪いとは知りながらも、ともするとそこへばかり目が行った。

 木村は何からどう話し出していいかわからない様子だった。

「わたしの電報をビクトリヤで受け取ったでしょうね」

 などともてれ隠しのようにいった。葉子は受け取った覚えもないくせにいいかげんに、

「えゝ、ありがとうございました」

 と答えておいた。そして一時いっときも早くこんな息気いきづまるように圧迫して来る二人ふたりの間の心のもつれからのがれるすべはないかと思案していた。

「今始めて事務長から聞いたんですが、あなたが病気だったといってましたが、いったいどこが悪かったんです。さぞ困ったでしょうね。そんな事とはちっとも知らずに、今が今まで、祝福された、輝くようなあなたを迎えられるとばかり思っていたんです。あなたはほんとうに試練の受けつづけというもんですね。どこでした悪いのは」

 葉子は、不用意にも女を捕えてじかづけに病気の種類を聞きただす男の心の粗雑さを忌みながら、当たらずさわらず、前からあった胃病が、船の中で食物と気候との変わったために、だんだんこうじて来て起きられなくなったようにいい繕った。木村は痛ましそうにまゆを寄せながら聞いていた。

 葉子はもうこんな程々ほどほどな会話にはえきれなくなって来た。木村の顔を見るにつけて思い出される仙台せんだい時代や、母の死というような事にもかなり悩まされるのをつらく思った。で、話の調子を変えるためにしいていくらか快活を装って、

「それはそうとこちらの御事業はいかが」

 と仕事とか様子とかいう代わりに、わざと事業という言葉をつかってこう尋ねた。

 木村の顔つきは見る見る変わった。そして胸のポッケットにのぞかせてあった大きなリンネルのハンケチを取り出して、器用に片手でそれをふわりと丸めておいて、ちんと鼻をかんでから、また器用にそれをポケットにもどすと、

「だめです」

 といかにも絶望的な調子でいったが、その目はすでに笑っていた。サンフランシスコの領事が在留日本人の企業に対して全然冷淡で盲目であるという事、日本人間に嫉視しっしが激しいので、サンフランシスコでの事業の目論見もくろみは予期以上の故障にあって大体失敗に終わった事、思いきった発展はやはり想像どおりの米国の西部よりも中央、ことにシカゴを中心として計画されなければならぬという事、幸いに、サンフランシスコで自分の話に乗ってくれるある手堅いドイツ人に取り次ぎを頼んだという事、シヤトルでも相当の店を見いだしかけているという事、シカゴに行ったら、そこで日本の名誉領事をしているかなりの鉄物商の店にまず住み込んで米国における取り引きの手心をのみ込むと同時に、その人の資本の一部を動かして、日本とのじか取り引きを始める算段であるという事、シカゴの住まいはもう決まって、借りるべきフラットの図面まで取り寄せてあるという事、フラットは不経済のようだけれども部屋へやの明いた部分を又貸またがしをすれば、たいして高いものにもつかず、住まい便利は非常にいいという事……そういう点にかけては、なかなか綿密に行き届いたもので、それをいかにも企業家らしい説服的な口調で順序よく述べて行った。会話の流れがこう変わって来ると、葉子は始めてどろの中から足を抜き上げたような気軽な心持ちになって、ずっと木村を見つめながら、聞くともなしにその話に聞き耳を立てていた。木村の容貌ようぼうはしばらくの間に見違えるほど refine されて、元から白かったその皮膚は何か特殊な洗料で底光りのするほどみがきがかけられて、日本人とは思えぬまでなめらかなのに、油できれいに分けた濃い黒髪は、西洋人の金髪にはまた見られぬような趣のある対照をその白皙はくせきの皮膚に与えて、カラーとネクタイの関係にも人に気のつかぬ凝りかたを見せていた。

「会いたてからこんな事をいうのは恥ずかしいですけれども、実際今度という今度は苦闘しました。ここまで迎いに来るにもろくろく旅費がない騒ぎでしょう」

 といってさすがに苦しげに笑いにまぎらそうとした。そのくせ木村の胸にはどっしりと重そうな金鎖がかかって、両手の指には四つまで宝石入りの指輪がきらめいていた。葉子は木村のいう事を聞きながらその指に目をつけていたが、四つの指輪の中に婚約の時取りかわした純金の指輪もまじっているのに気がつくと、自分の指にはそれをはめていなかったのを思い出して、何くわぬ様子で木村のひざの上から手を引っ込めてあごまでふとんをかぶってしまった。木村は引っ込められた手に追いすがるように椅子いすを乗り出して、葉子の顔に近く自分の顔をさし出した。

「葉子さん」

「何?」

 また Love-scene か。そう思って葉子はうんざりしたけれども、すげなく顔をそむけるわけにも行かず、やや当惑していると、おりよく事務長が型ばかりのノックをしてはいって来た。葉子は寝たまま、目でいそいそと事務長を迎えながら、

「まあようこそ……先ほどは失礼。なんだかくだらない事を考え出していたもんですから、ついわがままをしてしまってすみません……お忙しいでしょう」

 というと、事務長はからかい半分の冗談をきっかけに、

「木村さんの顔を見るとえらい事を忘れていたのに気がついたで。木村さんからあなたに電報が来とったのを、わたしゃビクトリヤのどさくさころり忘れとったんだ。すまん事でした。こんなしわになりくさった」

 といいながら、左のポッケットから折り目に煙草たばこの粉がはさまってもみくちゃになった電報紙を取り出した。木村はさっき葉子がそれを見たと確かにいったその言葉に対して、怪訝けげんな顔つきをしながら葉子を見た。些細ささいな事ではあるが、それが事務長にも関係を持つ事だと思うと、葉子もちょっとどぎまぎせずにはいられなかった。しかしそれはただ一瞬間だった。

「倉地さん、あなたはきょう少しどうかなすっていらっしゃるわ。それはその時ちゃんと拝見したじゃありませんか」

 といいながらすばやく目くばせすると、事務長はすぐ何かわけがあるのを気取けどったらしく、巧みに葉子にばつを合わせた。

「何? あなた見た?……おゝそうそう……これは寝ぼけ返っとるぞ、はゝゝゝ」

 そして互いに顔を見合わせながら二人ふたりはしたたか笑った。木村はしばらく二人をかたみがわりに見くらべていたが、これもやがて声を立てて笑い出した。木村の笑い出すのを見た二人は無性むしょうにおかしくなってもう一度新しく笑いこけた。木村という大きな邪魔者を目の前にえておきながら、互いの感情が水のように苦もなく流れ通うのを二人は子供らしく楽しんだ。

 しかしこんないたずらめいた事のために話はちょっと途切れてしまった。くだらない事に二人からわき出た少し仰山ぎょうさんすぎた笑いは、かすかながら木村の感情をそこねたらしかった。葉子は、この場合、なお居残ろうとする事務長を遠ざけて、木村とさし向かいになるのが得策とくさくだと思ったので、ほどもなくきまじめな顔つきに返って、まくらの下を探って、そこに入れて置いた古藤の手紙を取り出して木村に渡しながら、

「これをあなたに古藤さんから。古藤さんにはずいぶんお世話になりましてよ。でもあのかたぶまさかげんったら、それはじれったいほどね。愛や貞の学校の事もお頼みして来たんですけれども心もとないもんよ。きっと今ごろはけんか腰になってみんなと談判でもしていらっしゃるでしょうよ。見えるようですわね」

 と水を向けると、木村は始めて話の領分が自分のほうに移って来たように、顔色をなおしながら、事務長をそっちのけにした態度で、葉子に対しては自分が第一の発言権を持っているといわんばかりに、いろいろと話し出した。事務長はしばらく風向きを見計らって立っていたが突然部屋へやを出て行った。葉子はすばやくその顔色をうかがうと妙にけわしくなっていた。

「ちょっと失礼」

 木村の癖で、こんな時まで妙によそよそしく断わって、古藤の手紙の封を切った。西洋罫紙けいしにペンで細かく書いた幾枚かのかなり厚いもので、それを木村が読み終わるまでには暇がかかった。その間、葉子は仰向けになって、甲板かんぱんで盛んに荷揚げしている人足にんそくらの騒ぎを聞きながら、やや暗くなりかけた光で木村の顔を見やっていた。少し眉根まゆねを寄せながら、手紙に読みふける木村の表情には、時々苦痛や疑惑やの色がったり来たりした。読み終わってからほっとしたため息とともに木村は手紙を葉子に渡して、

「こんな事をいってよこしているんです。あなたに見せても構わないとあるから御覧なさい」

 といった。葉子はべつに読みたくもなかったが、多少の好奇心も手伝うのでとにかく目を通して見た。

「僕は今度ぐらい不思議な経験をなめた事はない。けいが去って後の葉子さんの一身に関して、責任を持つ事なんか、僕はしたいと思ってもできはしないが、もし明白にいわせてくれるなら、兄はまだ葉子さんの心を全然占領したものとは思われない」

「僕は女の心には全く触れた事がないといっていいほどの人間だが、もし僕の事実だと思う事が不幸にして事実だとすると、葉子さんの恋には──もしそんなのが恋といえるなら──だいぶ余裕があると思うね」

「これが女の tact というものかと思ったような事があった。しかし僕にはわからん」

「僕は若い女の前に行くと変にどぎまぎしてしまってろくろく物もいえなくなる。ところが葉子さんの前では全くちがった感じで物がいえる。これは考えものだ」

「葉子さんという人は兄がいうとおりにすぐれた天賦てんぷを持った人のようにも実際思える。しかしあの人はどこか片輪かたわじゃないかい」

「明白にいうと僕はああいう人はいちばんきらいだけれども、同時にまたいちばんひきつけられる、僕はこの矛盾を解きほごしてみたくってたまらない。僕の単純を許してくれたまえ。葉子さんは今までのどこかで道を間違えたのじゃないかしらん。けれどもそれにしてはあまり平気だね」

「神は悪魔に何一つ与えなかったが Attraction だけは与えたのだ。こんな事も思う。……葉子さんの Attraction はどこから来るんだろう。失敬失敬。僕は乱暴をいいすぎてるようだ」

「時々は憎むべき人間だと思うが、時々はなんだかかわいそうでたまらなくなる時がある。葉子さんがここを読んだら、おそらくつばでも吐きかけたくなるだろう。あの人はかわいそうな人のくせに、かわいそうがられるのがきらいらしいから」

「僕には結局葉子さんが何がなんだかちっともわからない。僕は兄が彼女を選んだ自信に驚く。しかしこうなった以上は、兄は全力を尽くして彼女を理解してやらなければいけないと思う。どうか兄らの生活が最後の栄冠に至らん事を神に祈る」

 こんな文句が断片的に葉子の心にしみて行った。葉子は激しい侮蔑ぶべつを小鼻に見せて、手紙を木村にもどした。木村の顔にはその手紙を読み終えた葉子の心の中を見とおそうとあせるような表情が現われていた。

「こんな事を書かれてあなたどう思います」

 葉子は事もなげにせせら笑った。

「どうも思いはしませんわ。でも古藤さんも手紙の上では一枚がた男を上げていますわね」

 木村の意気込みはしかしそんな事ではごまかされそうにはなかったので、葉子はめんどうくさくなって少し険しい顔になった。

「古藤さんのおっしゃる事は古藤さんのおっしゃる事。あなたはわたしと約束なさった時からわたしを信じわたしを理解してくださっていらっしゃるんでしょうね」

 木村は恐ろしい力をこめて、

「それはそうですとも」

 と答えた。

「そんならそれで何もいう事はないじゃありませんか。古藤さんなどのいう事──古藤さんなんぞにわかられたら人間も末ですわ──でもあなたはやっぱりどこかわたしを疑っていらっしゃるのね」

「そうじゃない……」

「そうじゃない事があるもんですか。わたしは一たんこうと決めたらどこまでもそれで通すのが好き。それは生きてる人間ですもの、こっちのすみあっちのすみと小さな事を捕えてとがめだてを始めたら際限はありませんさ。そんなばかな事ったらありませんわ。わたしみたいな気随きずいなわがまま者はそんなふうにされたら窮屈で窮屈で死んでしまうでしょうよ。わたしがこんなになったのも、つまり、みんなで寄ってたかってわたしを疑い抜いたからです。あなただってやっぱりその一人ひとりかと思うと心細いもんですのね」

 木村の目は輝いた。

「葉子さん、それは疑い過ぎというもんです」

 そして自分が米国に来てからなめ尽くした奮闘生活もつまりは葉子というものがあればこそできたので、もし葉子がそれに同情と鼓舞とを与えてくれなかったら、その瞬間に精も根も枯れ果ててしまうに違いないという事を繰り返し繰り返し熱心に説いた。葉子はよそよそしく聞いていたが、

「うまくおっしゃるわ」

 ととどめをさしておいて、しばらくしてから思い出したように、

「あなた田川の奥さんにおあいなさって」

 と尋ねた。木村はまだあわなかったと答えた。葉子は皮肉な表情をして、

「いまにきっとおあいになってよ。一緒にこの船でいらしったんですもの。そして五十川いそがわのおばさんがわたしの監督をお頼みになったんですもの。一度おあいになったらあなたはきっとわたしなんぞ見向きもなさらなくなりますわ」

「どうしてです」

「まあおあいなさってごらんなさいまし」

「何かあなた批難を受けるような事でもしたんですか」

「えゝえゝたくさんしましたとも」

「田川夫人に? あの賢夫人の批難を受けるとは、いったいどんな事をしたんです」

 葉子はさも愛想あいそが尽きたというふうに、

「あの賢夫人!」

 といいながら高々と笑った。二人ふたりの感情の糸はまたももつれてしまった。

「そんなにあの奥さんにあなたの御信用があるのなら、わたしから申しておくほうが早手回しですわね」

 と葉子は半分皮肉な半分まじめな態度で、横浜出航以来夫人から葉子が受けた暗々裡あんあんりの圧迫に尾鰭おひれをつけて語って来て、事務長と自分との間に何かあたりまえでない関係でもあるような疑いを持っているらしいという事を、他人事ひとごとでも話すように冷静に述べて行った。その言葉の裏には、しかし葉子に特有な火のような情熱がひらめいて、その目は鋭く輝いたり涙ぐんだりしていた。木村は電火にでも打たれたように判断力を失って、一部始終をぼんやりと聞いていた。言葉だけにもどこまでも冷静な調子を持たせ続けて葉子はすべてを語り終わってから、

「同じ親切にも真底しんそこからのと、通り一ぺんのと二つありますわね。その二つがどうかしてぶつかり合うと、いつでもほんとうの親切のほうが悪者わるもの扱いにされたり、邪魔者に見られるんだからおもしろうござんすわ。横浜を出てから三日ばかり船に酔ってしまって、どうしましょうと思った時にも、御親切な奥さんは、わざと御遠慮なさってでしょうね、三度三度食堂にはお出になるのに、一度もわたしのほうへはいらしってくださらないのに、事務長ったら幾度もお医者さんを連れて来るんですもの、奥さんのお疑いももっともといえばもっともですの。それにわたしが胃病で寝込むようになってからは、船中のお客様がそれは同情してくださって、いろいろとしてくださるのが、奥さんには大のお気に入らなかったんですの。奥さんだけがわたしを親切にしてくださって、ほかのかたはみんな寄ってたかって、奥さんを親切にして上げてくださる段取りにさえなれば、何もかも無事だったんですけれどもね、中でも事務長の親切にして上げかたがいちばん足りなかったんでしょうよ」

 と言葉を結んだ。木村は口びるをかむように聞いていたが、いまいましげに、

「わかりましたわかりました」

 合点がてんしながらつぶやいた。

 葉子は額のえぎわの短い毛を引っぱっては指に巻いて上目でながめながら、皮肉な微笑を口びるのあたりに浮かばして、

「おわかりになった? ふん、どうですかね」

 と空うそぶいた。

 木村は何を思ったかひどく感傷的な態度になっていた。

「わたしが悪かった。わたしはどこまでもあなたを信ずるつもりでいながら、他人の言葉に多少とも信用をかけようとしていたのが悪かったのです。……考えてください、わたしは親類や友人のすべての反対を犯してここまで来ているのです。もうあなたなしにはわたしの生涯しょうがいは無意味です。わたしを信じてください。きっと十年を期して男になって見せますから……もしあなたの愛からわたしが離れなければならんような事があったら……わたしはそんな事を思うにえない……葉子さん」

 木村はこういいながら目を輝かしてすり寄って来た。葉子はその思いつめたらしい態度に一種の恐怖を感ずるほどだった。男の誇りも何も忘れ果て、捨て果てて、葉子の前に誓いを立てている木村を、うまうま偽っているのだと思うと、葉子はさすがに針で突くような痛みを鋭く深く良心の一ぐうに感ぜずにはいられなかった。しかしそれよりもその瞬間に葉子の胸を押しひしぐようにせばめたものは、底のない物すごい不安だった。木村とはどうしても連れ添う心はない。その木村に……葉子はおぼれた人が岸べを望むように事務長を思い浮かべた。男というものの女に与える力を今さらに強く感じた。ここに事務長がいてくれたらどんなに自分の勇気は加わったろう。しかし……どうにでもなれ。どうかしてこの大事な瀬戸をぎぬけなければ浮かぶ瀬はない。葉子はだいそれた謀反人むほんにんの心で木村の caress を受くべき身構え心構えを案じていた。


二〇


 船の着いたその晩、田川夫妻は見舞いの言葉も別れの言葉も残さずに、おおぜいの出迎え人に囲まれて堂々と威儀を整えて上陸してしまった。その余の人々の中にはわざわざ葉子の部屋へやを訪れて来たものが数人はあったけれども、葉子はいかにも親しみをこめた別れの言葉を与えはしたが、あとまで心に残る人とては一人ひとりもいなかった。その晩事務長が来て、狭っこい boudoir のような船室でおそくまでしめじめと打ち語った間に、葉子はふと二度ほど岡の事を思っていた。あんなに自分を慕っていはしたが岡も上陸してしまえば、詮方せんかたなくボストンのほうに旅立つ用意をするだろう。そしてやがて自分の事もいつとはなしに忘れてしまうだろう。それにしてもなんという上品な美しい青年だったろう。こんな事をふと思ったのもしかしつかで、その追憶は心の戸をたたいたと思うとはかなくもどこかに消えてしまった。今はただ木村という邪魔な考えが、もやもやと胸の中に立ち迷うばかりで、その奥には事務長の打ち勝ちがたい暗い力が、魔王のように小動こゆるぎもせずうずくまっているのみだった。

 荷役の目まぐるしい騒ぎが二日続いたあとの絵島丸は、泣きわめく遺族に取り囲まれたうつろな死骸しがいのように、がらんと静まり返って、騒々しい桟橋の雑鬧ざっとうの間にさびしく横たわっている。

 水夫が、輪切りにした椰子やしの実でよごれた甲板かんぱんを単調にごし〳〵ごし〳〵とこする音が、時というものをゆるゆるすり減らすやすりのように日がな日ねもす聞こえていた。

 葉子は早く早くここを切り上げて日本に帰りたいという子供じみた考えのほかには、おかしいほどそのほかの興味を失ってしまって、他郷の風景に一べつを与える事もいとわしく、自分の部屋の中にこもりきって、ひたすら発船の日を待ちわびた。もっとも木村が毎日米国というにおいを鼻をつくばかり身の回りに漂わせて、葉子を訪れて来るので、葉子はうっかり寝床を離れる事もできなかった。

 木村は来るたびごとにぜひ米国の医者に健康診断を頼んで、大事なければ思いきって検疫官の検疫を受けて、ともかくも上陸するようにと勧めてみたが、葉子はどこまでもいやをいいとおすので、二人ふたりの間には時々危険な沈黙が続く事も珍しくなかった。葉子はしかし、いつでも手ぎわよくその場合場合をあやつって、それから甘い歓語を引き出すだけの機才ウィットを持ち合わしていたので、この一か月ほど見知らぬ人の間に立ちまじって、貧乏の屈辱を存分になめ尽くした木村は、見る見る温柔な葉子の言葉や表情に酔いしれるのだった。カリフォルニヤから来る水々しい葡萄ぶどうやバナナを器用な経木きょうぎ小籃こかごに盛ったり、美しい花束を携えたりして、葉子の朝化粧あさげしょうがしまったかと思うころには木村が欠かさず尋ねて来た。そして毎日くどくどと興録に葉子の容態を聞きただした。興録はいいかげんな事をいって一日延ばしに延ばしているのでたまらなくなって木村が事務長に相談すると、事務長は興録よりもさらに要領を得ない受け答えをした、しかたなしに木村は途方に暮れて、また葉子に帰って来て泣きつくように上陸を迫るのであった。その毎日のいきさつを夜になると葉子は事務長と話しあって笑いのたねにした。

 葉子はなんという事なしに、木村を困らしてみたい、いじめてみたいというような不思議な残酷な心を、木村に対して感ずるようになって行った。事務長と木村とを目の前に置いて、何も知らない木村を、事務長が一流のきびきびした悪辣あくらつな手で思うさま翻弄ほんろうして見せるのをながめて楽しむのが一種の痼疾こしつのようになった。そして葉子は木村を通して自分の過去のすべてに血のしたたる復讐ふくしゅうをあえてしようとするのだった。そんな場合に、葉子はよくどこかでうろ覚えにしたクレオパトラの插話そうわを思い出していた。クレオパトラが自分の運命の窮迫したのを知って自殺を思い立った時、幾人も奴隷どれいを目の前に引き出さして、それを毒蛇どくじゃ餌食えじきにして、その幾人もの無辜むこの人々がもだえながら絶命するのを、まゆも動かさずに見ていたという插話を思い出していた。葉子には過去のすべての呪詛じゅそが木村の一身に集まっているようにも思いなされた。母のしいたげ、五十川いそがわ女史の術数じゅっすう、近親の圧迫、社会の環視、女に対する男の覬覦きゆ、女の苟合こうごうなどという葉子の敵を木村の一身におっかぶせて、それに女の心がたくらみ出す残虐な仕打ちのあらん限りをそそぎかけようとするのであった。

「あなたはうしこく参りのわら人形よ」

 こんな事をどうかした拍子ひょうしに面と向かって木村にいって、木村が怪訝けげんな顔でその意味をくみかねているのを見ると、葉子は自分にもわけのわからない涙を目にいっぱいためながらヒステリカルに笑い出すような事もあった。

 木村を払い捨てる事によって、へびからを抜け出ると同じに、自分のすべての過去を葬ってしまうことができるようにも思いなしてみた。

 葉子はまた事務長に、どれほど木村が自分の思うままになっているかを見せつけようとする誘惑も感じていた。事務長の目の前ではずいぶん乱暴な事を木村にいったりさせたりした。時には事務長のほうが見兼ねて二人ふたりの間をなだめにかかる事さえあるくらいだった。

 ある時木村の来ている葉子の部屋に事務長が来合わせた事があった。葉子はまくらもとの椅子いすに木村を腰かけさせて、東京をった時の様子をくわしく話して聞かせている所だったが、事務長を見るといきなり様子をかえて、さもさも木村をうとんじたふうで、

「あなたは向こうにいらしってちょうだい」

 と木村を向こうのソファに行くように目でさしずして、事務長をそのあとにすわらせた。

「さ、あなたこちらへ」

 といって仰向けに寝たまま上目をつかって見やりながら、

「いいお天気のようですことね。……あの時々ごーっと雷のような音のするのは何?……わたしうるさい」

「トロですよ」

「そう……お客様がたんとおありですってね」

「さあ少しは知っとるものがあるもんだで」

「ゆうべもその美しいお客がいらしったの? とうとうお話にお見えにならなかったのね」

 木村を前に置きながら、この無謀とさえ見える言葉を遠慮会釈えしゃくもなくいい出すのには、さすがの事務長もぎょっとしたらしく、返事もろくろくしないで木村のほうに向いて、

「どうですマッキンレーは。驚いた事が持ち上がりおったもんですね」

 と話題を転じようとした。この船の航海中シヤトルに近くなったある日、当時の大統領マッキンレーは凶徒の短銃にたおれたので、この事件は米国でのうわさの中心になっているのだった。木村はその当時の模様をくわしく新聞紙や人のうわさで知り合わせていたので、乗り気になってその話に身を入れようとするのを、葉子はにべもなくさえぎって、

「なんですねあなたは、貴夫人の話の腰を折ったりして、そんなごまかしくらいではだまされてはいませんよ。倉地さん、どんな美しいかたです。アメリカ生粋きっすいの人ってどんななんでしょうね。わたし、見たい。あわしてくださいましな今度来たら。ここに連れて来てくださるんですよ。ほかのものなんぞなんにも見たくはないけれど、こればかりはぜひ見とうござんすわ。そこに行くとね、木村なんぞはそりゃあやぼなもんですことよ」

 といって、木村のいるほうをはるかに下目で見やりながら、

「木村さんどう? こっちにいらしってからちっとは女のお友だちがおできになって? Lady Friend というのが?」

「それができんでたまるか」

 と事務長は木村の内行ないこうを見抜いて裏書きするように大きな声でいった。

「ところができていたらお慰み、そうでしょう? 倉地さんまあこうなの。木村がわたしをもらいに来た時にはね。石のように堅くすわりこんでしまって、まるで命の取りやりでもしかねない談判のしかたですのよ。そのころ母は大病でせっていましたの。なんとか母におっしゃってね、母に。わたし、忘れちゃならない言葉がありましたわ。えゝと……そうそう(木村の口調を上手じょうずにまねながら)『わたし、もしほかの人に心を動かすような事がありましたら神様の前に罪人です』ですって……そういう調子ですもの」

 木村は少し怒気をほのめかす顔つきをして、遠くから葉子を見つめたまま口もきかないでいた。事務長はからからと笑いながら、

「それじゃ木村さん今ごろは神様の前にいいくらかげん罪人になっとるでしょう」

 と木村を見返したので、木村もやむなくにがりきった笑いを浮かべながら、

「おのれをもって人を計る筆法ですね」

 と答えはしたが、葉子の言葉を皮肉と解して、人前でたしなめるにしてはやや軽すぎるし、冗談と見て笑ってしまうにしては確かに強すぎるので、木村の顔色は妙にぎこちなくこだわってしまっていつまでも晴れなかった。葉子は口びるだけに軽い笑いを浮かべながら、胆汁たんじゅうのみなぎったようなその顔を下目で快げにまじまじとながめやった。そして苦い清涼剤でも飲んだように胸のつかえをかしていた。

 やがて事務長が座を立つと、葉子は、まゆをひそめて快からぬ顔をした木村を、しいてまたもとのように自分のそば近くすわらせた。

「いやなやつっちゃないの。あんな話でもしていないと、ほかになんにも話のたねのない人ですの……あなたさぞ御迷惑でしたろうね」

 といいながら、事務長にしたように上目にびを集めてじっと木村を見た。しかし木村の感情はひどくほつれて、容易に解ける様子はなかった。葉子を故意に威圧しようとたくらむわざとな改まりかたも見えた。葉子はいたずら者らしく腹の中でくすくす笑いながら、木村の顔を好意をこめた目つきでながめ続けた。木村の心の奥には何かいい出してみたいくせに、なんとなく腹の中が見すかされそうで、いい出しかねている物があるらしかったが、途切れがちながら話が小半時こはんときも進んだ時、とてつもなく、

「事務長は、なんですか、夜になってまであなたの部屋へやに話しに来る事があるんですか」

 とさりげなく尋ねようとするらしかったが、その語尾はわれにもなく震えていた。葉子は陥穽わなにかかった無知なけものあわれみ笑うような微笑を口びるに浮かべながら、

「そんな事がされますものかこの小さな船の中で。考えてもごらんなさいまし。さきほどわたしがいったのは、このごろは毎晩夜になると暇なので、あの人たちが食堂に集まって来て、酒を飲みながら大きな声でいろんなくだらない話をするんですの。それがよくここまで聞こえるんです。それにゆうべあの人が来なかったからからかってやっただけなんですのよ。このごろはたちの悪い女までが隊を組むようにしてどっさり船に来て、それは騒々しいんですの。……ほゝゝゝあなたの苦労性ったらない」

 木村は取りつく島を見失って、二の句がつげないでいた。それを葉子はかわいい目を上げて、無邪気な顔をして見やりながら笑っていた。そして事務長がはいって来た時途切らした話の糸口をみごとに忘れずに拾い上げて、東京をった時の模様をまた仔細しさいに話しつづけた。

 こうしたふうで葛藤かっとうは葉子の手一つで勝手に紛らされたりほごされたりした。

 葉子は一人ひとりの男をしっかりと自分の把持はじの中に置いて、それがねこねずみでもぶるように、勝手にぶって楽しむのをやめる事ができなかったと同時に、時々は木村の顔を一目見たばかりで、虫唾むしずが走るほど厭悪けんおの情に駆り立てられて、われながらどうしていいかわからない事もあった。そんな時にはただいちずに腹痛を口実にして、一人になって、腹立ち紛れにあり合わせたものを取って床の上にほうったりした。もう何もかもいってしまおう。もてあそぶにも足らない木村を近づけておくには当たらない事だ。何もかも明らかにして気分だけでもさっぱりしたいとそう思う事もあった。しかし同時に葉子は戦術家の冷静さをもって、実際問題を勘定に入れる事も忘れはしなかった。事務長をしっかり自分の手の中に握るまでは、早計に木村を逃がしてはならない。「宿屋きめずに草鞋わらじを脱ぐ」……母がこんな事を葉子の小さい時に教えてくれたのを思い出したりして、葉子は一人で苦笑にがわらいもした。

 そうだ、まだ木村を逃がしてはならぬ。葉子は心の中に書きしるしてでも置くように、上目を使いながらこんな事を思った。

 またある時葉子の手もとに米国の切手のはられた手紙が届いた事があった。葉子は船へなぞあてて手紙をよこす人はないはずだがと思って開いて見ようとしたが、また例のいたずらな心が動いて、わざと木村に開封させた。その内容がどんなものであるかの想像もつかないので、それを木村に読ませるのは、武器を相手に渡して置いて、自分は素手すでで格闘するようなものだった。葉子はそこに興味を持った。そしてどんな不意な難題が持ち上がるだろうかと、心をときめかせながら結果を待った。その手紙は葉子に簡単な挨拶あいさつを残したまま上陸した岡から来たものだった。いかにも人柄に不似合いな下手へたな字体で、葉子がひょっとすると上陸を見合わせてそのまま帰るという事を聞いたが、もしそうなったら自分も断然帰朝する。気違いじみたしわざとお笑いになるかもしれないが、自分にはどう考えてみてもそれよりほかに道はない。葉子に離れて路傍の人の間にしたらそれこそ狂気になるばかりだろう。今まで打ち明けなかったが、自分は日本でも屈指な豪商の身内に一人子ひとりごと生まれながら、からだが弱いのと母が継母であるために、父の慈悲から洋行する事になったが、自分には故国が慕われるばかりでなく、葉子のように親しみを覚えさしてくれた人はないので、葉子なしには一刻も外国の土に足を止めている事はできぬ。兄弟きょうだいのない自分には葉子が前世ぜんせからの姉とより思われぬ。自分をあわれんで弟と思ってくれ。せめては葉子の声の聞こえる所顔の見える所にいるのを許してくれ。自分はそれだけのあわれみを得たいばかりに、家族や後見人のそしりもなんとも思わずに帰国するのだ。事務長にもそれを許してくれるように頼んでもらいたい。という事が、少し甘い、しかし真率しんそつな熱情をこめた文体で長々と書いてあったのだった。

 葉子は木村が問うままに包まず岡との関係を話して聞かせた。木村は考え深く、それを聞いていたが、そんな人ならぜひあって話をしてみたいといい出した。自分より一段若いと見ると、かくばかり寛大になる木村を見て葉子は不快に思った。よし、それでは岡を通して倉地との関係を木村に知らせてやろう。そして木村が嫉妬しっと憤怒ふんぬとでまっ黒になって帰って来た時、それを思うままあやつってまた元の鞘に納めて見せよう。そう思って葉子は木村のいうままに任せて置いた。

 次の朝、木村は深い感激の色をたたえて船に来た。そして岡と会見した時の様子をくわしく物語った。岡はオリエンタル・ホテルの立派な一室にたった一人でいたが、そのホテルには田川夫妻も同宿なので、日本人の出入りがうるさいといって困っていた。木村の訪問したというのを聞いて、ひどくなつかしそうな様子で出迎えて、兄でもうやまうようにもてなして、やや落ち付いてから隠し立てなく真率に葉子に対する自分の憧憬しょうけいのほどを打ち明けたので、木村は自分のいおうとする告白を、他人の口からまざまざと聞くようなせつな情にほだされて、もらい泣きまでしてしまった。二人ふたりは互いに相あわれむというようななつかしみを感じた。これを縁に木村はどこまでも岡を弟とも思って親しむつもりだ。が、日本に帰る決心だけは思いとどまるように勧めて置いたといった。岡はさすがに育ちだけに事務長と葉子との間のいきさつを想像に任せて、はしたなく木村に語る事はしなかったらしい。木村はその事についてはなんともいわなかった。葉子の期待は全くはずれてしまった。役者下手べたなために、せっかくの芝居しばいが芝居にならずにしまった事を物足らなく思った。しかしこの事があってから岡の事が時々葉子の頭に浮かぶようになった。女にしてもみまほしいかの華車きゃしゃな青春の姿がどうかするといとしい思い出となって、葉子の心のすみに潜むようになった。

 船がシヤトルに着いてから五六日たって、木村は田川夫妻にも面会する機会を造ったらしかった。そのころから木村は突然わき目にもそれと気が付くほど考え深くなって、ともすると葉子の言葉すら聞き落としてあわてたりする事があった。そしてある時とうとう一人ひとり胸の中には納めていられなくなったと見えて、

「わたしにゃあなたがなぜあんな人と近しくするかわかりませんがね」

 と事務長の事をうわさのようにいった。葉子は少し腹部に痛みを覚えるのをことさら誇張してわき腹を左手で押えて、まゆをひそめながら聞いていたが、もっともらしく幾度もうなずいて、

「それはほんとうにおっしゃるとおりですから何も好んで近づきたいとは思わないんですけれども、これまでずいぶん世話になっていますしね、それにああ見えていて思いのほか親切気のある人ですから、ボーイでも水夫でもこわがりながらなついていますわ。おまけにわたしお金まで借りていますもの」

 とさも当惑したらしくいうと、

「あなたお金は無しですか」

 木村は葉子の当惑さを自分の顔にも現わしていた。

「それはお話ししたじゃありませんか」

「困ったなあ」

 木村はよほど困りきったらしく握った手を鼻の下にあてがって、下を向いたまましばらく思案に暮れていたが、

「いくらほど借りになっているんです」

「さあ診察料や滋養品で百円近くにもなっていますかしらん」

「あなたは金は全く無しですね」

 木村はさらに繰り返していってため息をついた。

 葉子は物慣れぬ弟を教えいたわるように、

「それに万一わたしの病気がよくならないで、ひとまず日本へでも帰るようになれば、なおなお帰りの船の中では世話にならなければならないでしょう。……でも大丈夫そんな事はないとは思いますけれども、さきざきまでの考えをつけておくのが旅にあればいちばん大事ですもの」

 木村はなおも握った手を鼻の下に置いたなり、なんにもいわず、身動きもせず考え込んでいた。

 葉子はすべなさそうに木村のその顔をおもしろく思いながらまじまじと見やっていた。

 木村はふと顔を上げてしげしげと葉子を見た。何かそこに字でも書いてありはしないかとそれを読むように。そして黙ったまま深々と嘆息した。

「葉子さん。わたしは何から何まであなたを信じているのがいい事なのでしょうか。あなたの身のためばかり思ってもいうほうがいいかとも思うんですが……」

「ではおっしゃってくださいましななんでも」

 葉子の口は少し親しみをこめて冗談らしく答えていたが、その目からは木村を黙らせるだけの光が射られていた。軽はずみな事をいやしくもいってみるがいい、頭を下げさせないでは置かないから。そうその目はたしかにいっていた。

 木村は思わず自分の目をたじろがして黙ってしまった。葉子は片意地にも目で続けさまに木村の顔をむちうった。木村はそのしもとの一つ一つを感ずるようにどぎまぎした。

「さ、おっしゃってくださいまし……さ」

 葉子はその言葉にはどこまでも好意と信頼とをこめて見せた。木村はやはり躊躇ちゅうちょしていた。葉子はいきなり手を延ばして木村を寝台に引きよせた。そして半分起き上がってその耳に近く口を寄せながら、

「あなたみたいに水臭い物のおっしゃりかたをなさるかたもないもんね。なんとでも思っていらっしゃる事をおっしゃってくださればいいじゃありませんか。……あ、痛い……いゝえさして痛くもないの。何を思っていらっしゃるんだかおっしゃってくださいまし、ね、さ。なんでしょうねえ。伺いたい事ね。そんな他人行儀は……あ、あ、痛い、おゝ痛い……ちょっとここのところを押えてくださいまし。……さし込んで来たようで……あ、あ」

 といいながら、目をつぶって、床の上に寝倒れると、木村の手を持ち添えて自分の脾腹ひばらを押えさして、つらそうに歯をくいしばってシーツに顔をうずめた。肩でつく息気いきがかすかに雪白せっぱくのシーツを震わした。

 木村はあたふたしながら、今までの言葉などはそっちのけにして介抱にかかった。


二一


 絵島丸はシヤトルに着いてから十二日目にともづなを解いて帰航するはずになっていた。その出発があと三日になった十月十五日に、木村は、船医の興録から、葉子はどうしてもひとまず帰国させるほうが安全だという最後の宣告を下されてしまった。木村はその時にはもう大体覚悟を決めていた。帰ろうと思っている葉子の下心したごころをおぼろげながら見て取って、それを翻す事はできないとあきらめていた。運命に従順な羊のように、しかし執念しゅうねく将来の希望を命にして、現在の不満に服従しようとしていた。

 緯度の高いシヤトルに冬の襲いかかって来るさまはすさまじいものだった。海岸線に沿うてはるか遠くまで連続して見渡されるロッキーの山々はもうたっぷりと雪がかかって、穏やかな夕空に現われ慣れた雲の峰も、古綿のように形のくずれた色の寒い霰雲あられぐもに変わって、人をおびやかす白いものが、今にも地を払って降りおろして来るかと思われた。海ぞいにえそろったアメリカ松のみどりばかりが毒々しいほど黒ずんで、目に立つばかりで、濶葉樹かつようじゅの類は、いつのまにか、葉を払い落とした枝先を針のように鋭く空に向けていた。シヤトルの町並みがあると思われるあたりからは──船のつながれている所から市街は見えなかった──急に煤煙ばいえんが立ち増さって、せわしく冬じたくを整えながら、やがて北半球を包んで攻め寄せて来るまっ白な寒気に対しておぼつかない抵抗を用意するように見えた。ポッケットに両手をさし入れて、頭を縮め気味に、波止場の石畳を歩き回る人々の姿にも、不安と焦躁とのうかがわれるせわしい自然の移り変わりの中に、絵島丸はあわただしい発航の準備をし始めた。絞盤こうばんの歯車のきしむ音が船首と船尾とからやかましくえ返って聞こえ始めた。

 木村はその日も朝から葉子を訪れて来た。ことに青白く見える顔つきは、何かわくわくと胸の中に煮え返るおもいをまざまざと裏切って、見る人のあわれを誘うほどだった。背水の陣と自分でもいっているように、亡父の財産をありったけ金に代えて、手っぱらいに日本の雑貨を買い入れて、こちらから通知書一つ出せば、いつでも日本から送ってよこすばかりにしてあるものの、手もとにはいささかのぜにも残ってはいなかった。葉子が来たならばと金の上にも心の上にもあてにしていたのがみごとにはずれてしまって、葉子が帰るにつけては、なけなしの所からまたまたなんとかしなければならないはめに立った木村は、二三日のうちに、ぬか喜びも一時の間で、孤独と冬とに囲まれなければならなかったのだ。

 葉子は木村が結局事務長にすがり寄って来るほかに道のない事を察していた。

 木村ははたして事務長を葉子の部屋へやに呼び寄せてもらった。事務長はすぐやって来たが、服なども仕事着のままで何かよほどせわしそうに見えた。木村はまあといって倉地に椅子いすを与えて、きょうはいつものすげない態度に似ず、折り入っていろいろと葉子の身の上を頼んだ。事務長は始めのせわしそうだった様子に引きかえて、どっしりと腰を据えて正面から例の大きく木村を見やりながら、親身しんみに耳を傾けた。木村の様子のほうがかえってそわそわしくながめられた。

 木村は大きな紙入れを取り出して、五十ドルの切手を葉子に手渡しした。

「何もかも御承知だから倉地さんの前でいうほうが世話なしだと思いますが、なんといってもこれだけしかできないんです。こ、これです」

 といってさびしく笑いながら、両手を出して広げて見せてから、チョッキをたたいた。胸にかかっていた重そうな金鎖も、四つまではめられていた指輪の三つまでもなくなっていて、たった、一つ婚約の指輪だけが貧乏臭く左の指にはまっているばかりだった。葉子はさすがに「まあ」といった。

「葉子さん、わたしはどうにでもします。男一匹なりゃどこにころがり込んだからって、──そんな経験もおもしろいくらいのものですが、これんばかりじゃあなたが足りなかろうと思うと、面目めんぼくもないんです。倉地さん、あなたにはこれまででさえいいかげん世話をしていただいてなんともすみませんですが、わたしども二人ふたりはお打ち明け申したところ、こういうていたらくなんです。横浜へさえおとどけくださればその先はまたどうにでもしますから、もし旅費にでも不足しますようでしたら、御迷惑ついでになんとかしてやっていただく事はできないでしょうか」

 事務長は腕組みをしたまままじまじと木村の顔を見やりながら聞いていたが、

「あなたはちっとも持っとらんのですか」

 と聞いた。木村はわざと快活にしいて声高こわだかく笑いながら、

「きれいなもんです」

 とまたチョッキをたたくと、

「そりゃいかん。何、船賃なんぞいりますものか。東京で本店にお払いになればいいんじゃし、横浜の支店長も万事心得とられるんだで、御心配いりませんわ。そりゃあなたお持ちになるがいい。外国にいてもんなしでは心細いもんですよ」

 と例の塩辛声しおからごえでややふきげんらしくいった。その言葉には不思議に重々しい力がこもっていて、木村はしばらくかれこれと押し問答をしていたが、結局事務長の親切を無にする事の気の毒さに、すぐな心からなおいろいろと旅中の世話を頼みながら、また大きな紙入れを取り出して切手をたたみ込んでしまった。

「よしよしそれで何もいう事はなし。早月さつきさんはわしが引き受けた」

 と不敵な微笑を浮かべながら、事務長は始めて葉子のほうを見返った。

 葉子は二人ふたりを目の前に置いて、いつものように見比べながら二人の会話を聞いていた。あたりまえなら、葉子はたいていの場合、弱いものの味方をして見るのが常だった。どんな時でも、強いものがその強味を振りかざして弱い者を圧迫するのを見ると、葉子はかっとなって、理が非でも弱いものを勝たしてやりたかった。今の場合木村は単に弱者であるばかりでなく、その境遇もみじめなほどたよりない苦しいものである事は存分に知り抜いていながら、木村に対しての同情は不思議にもわいて来なかった。としの若さ、姿のしなやかさ、境遇のゆたかさ、才能のはなやかさというようなものをたよりにする男たちの蠱惑こわくの力は、事務長の前では吹けば飛ぶちりのごとく対照された。この男の前には、弱いものの哀れよりも醜さがさらけ出された。

 なんという不幸な青年だろう。若い時に父親に死に別れてから、万事思いのままだった生活からいきなり不自由な浮世のどん底にほうり出されながら、めげもせずにせっせと働いて、後ろ指をさされないだけの世渡りをして、だれからも働きのある行く末たのもしい人と思われながら、それでも心の中のさびしさを打ち消すために思い入った恋人はあだし男にそむいてしまっている。それをまたそうとも知らずに、その男の情けにすがって、消えるに決まった約束をのがすまいとしている。……葉子はしいて自分を説服するようにこう考えてみたが、少しも身にしみた感じは起こって来ないで、ややもすると笑い出したいような気にすらなっていた。

「よしよしそれで何もいう事はなし。早月さんはわしが引き受けた」

 という声と不敵な微笑とがどやすように葉子の心の戸を打った時、葉子も思わず微笑を浮かべてそれに応じようとした。が、その瞬間、目ざとく木村の見ているのに気がついて、顔には笑いの影はみじんも現わさなかった。

「わしへの用はそれだけでしょう。じゃせわしいで行きますよ」

 とぶっきらぼうにいって事務長が部屋を出て行ってしまうと、残った二人は妙にてれて、しばらくは互いに顔を見合わすのもはばかって黙ったままでいた。

 事務長が行ってしまうと葉子は急に力が落ちたように思った。今までの事がまるで芝居しばいでも見て楽しんでいたようだった。木村のやる瀬ない心の中が急に葉子にせまって来た。葉子の目には木村をあわれむとも自分をあわれむとも知れない涙がいつのまにか宿っていた。

 木村は痛ましげに黙ったままでしばらく葉子を見やっていたが、

「葉子さん今になってそう泣いてもらっちゃわたしがたまりませんよ。きげんを直してください。またいい日も回って来るでしょうから。神を信ずるもの──そういう信仰が今あなたにあるかどうか知らないが──おかあさんがああいう堅い信者でありなさったし、あなたも仙台時分には確かに信仰を持っていられたと思いますが、こんな場合にはなおさら同じ神様から来る信仰と希望とを持って進んで行きたいものだと思いますよ。何事も神様は知っていられる……そこにわたしはたゆまない希望をつないで行きます」

 決心した所があるらしく力強い言葉でこういった。何の希望! 葉子は木村の事については、木村のいわゆる神様以上に木村の未来を知りぬいているのだ。木村の希望というのはやがて失望にそうして絶望に終わるだけのものだ。何の信仰! 何の希望! 木村は葉子がえた道を──行きどまりの袋小路を──天使ののぼり降りする雲のかけはしのように思っている。あゝ何の信仰!

 葉子はふと同じ目を自分に向けて見た。木村を勝手気ままにこづき回す威力を備えた自分はまただれに何者に勝手にされるのだろう。どこかで大きな手が情けもなく容赦もなく冷然と自分の運命をあやつっている。木村の希望がはかなく断ち切れる前、自分の希望がいち早く断たれてしまわないとどうして保障する事ができよう。木村は善人だ。自分は悪人だ。葉子はいつのまにか純な感情に捕えられていた。

「木村さん。あなたはきっと、しまいにはきっと祝福をお受けになります……どんな事があっても失望なさっちゃいやですよ。あなたのようなかたが不幸にばかりおあいになるわけがありませんわ。……わたしは生まれるときからのろわれた女なんですもの。神、ほんとうは神様を信ずるより……信ずるより憎むほうが似合っているんです……ま、聞いて……でも、わたし卑怯ひきょうはいやだから信じます……神様はわたしみたいなものをどうなさるか、しっかり目を明いて最後まで見ています」

 といっているうちにだれにともなくくやしさが胸いっぱいにこみ上げて来るのだった。

「あなたはそんな信仰はないとおっしゃるでしょうけれども……でもわたしにはこれが信仰です。立派な信仰ですもの」

 といってきっぱり思いきったように、火のように熱く目にたまったままで流れずにいる涙を、ハンケチでぎゅっと押しぬぐいながら、黯然あんぜんと頭をたれた木村に、

「もうやめましょうこんなお話。こんな事をいってると、いえばいうほど先が暗くなるばかりです。ほんとに思いきって不仕合わせな人はこんな事をつべこべと口になんぞ出しはしませんわ。ね、いや、あなたは自分のほうからめいってしまって、わたしのいった事ぐらいでなんですねえ、男のくせに」

 木村は返事もせずにまっさおになってうつむいていた。

 そこに「御免なさい」というかと思うと、いきなり戸をあけてはいって来たものがあった。木村も葉子も不意を打たれて気先きさきをくじかれながら、見ると、いつぞや錨綱びょうづなで足をけがした時、葉子の世話になった老水夫だった。彼はとうとう跛脚びっこになっていた。そして水夫のような仕事にはとても役に立たないから、幸いオークランドに小農地を持ってとにかく暮らしを立てているおいを尋ねて厄介やっかいになる事になったので、礼かたがた暇乞いとまごいに来たというのだった。葉子はあかくなった目を少し恥ずかしげにまたたかせながら、いろいろと慰めた。


「何ねこう老いぼれちゃ、こんな稼業かぎょうをやってるがてんでうそなれど、事務長さんとボンスン(水夫長)とがかわいそうだといって使ってくれるで、いい気になったがばちあたったんだね」

 といって臆病おくびょうに笑った。葉子がこの老人をあわれみいたわるさまはわき目もいじらしかった。日本には伝言を頼むような近親みよりさえない身だというような事を聞くたびに、葉子は泣き出しそうな顔をして合点合点していたが、しまいには木村の止めるのも聞かず寝床から起き上がって、木村の持って来た果物くだものをありったけかごにつめて、

おかに上がればいくらもあるんだろうけれども、これを持っておいで。そしてその中に果物でなくはいっているものがあったら、それもお前さんに上げたんだからね、人に取られたりしちゃいけませんよ」

 といってそれを渡してやった。

 老人が来てから葉子は夜が明けたように始めて晴れやかなふだんの気分になった。そして例のいたずららしいにこにこした愛嬌あいきょうを顔いちめんにたたえて、

「なんという気さくなんでしょう。わたし、 あんなおじいさんのお内儀かみさんになってみたい……だからね、いいものをやっちまった」

 きょとりとしてまじまじ木村のむっつりとした顔を見やる様子は大きな子供とより思えなかった。

「あなたからいただいたエンゲージ・リングね、あれをやりましてよ。だってなんにもないんですもの」

 なんともいえないびをつつむおとがいが二重になって、きれいな歯並みが笑いのさざ波のように口びるのみぎわに寄せたり返したりした。

 木村は、葉子という女はどうしてこうむら気でうわすべりがしてしまうのだろう、情けないというような表情を顔いちめんにみなぎらして、何かいうべき言葉を胸の中で整えているようだったが、急に思い捨てたというふうで、黙ったままでほっと深いため息をついた。

 それを見ると今まで珍しく押えつけられていた反抗心が、またもや旋風のように葉子の心に起こった。「ねちねちさったらない」と胸の中をいらいらさせながら、ついでの事に少しいじめてやろうというたくらみが頭をもたげた。しかし顔はどこまでも前のままの無邪気さで、

「木村さんお土産みやげを買ってちょうだいな。愛も貞もですけれども、親類たちや古藤ことうさんなんぞにも何かしないじゃ顔が向けられませんもの。今ごろは田川の奥さんの手紙が五十川いそがわのおばさんの所に着いて、東京ではきっと大騒ぎをしているに違いありませんわ。つ時には世話を焼かせ、留守は留守で心配させ、ぽかんとしてお土産一つ持たずに帰って来るなんて、木村もいったい木村じゃないかといわれるのが、わたし、死ぬよりつらいから、少しは驚くほどのものを買ってちょうだい。先ほどのお金で相当のものがれるでしょう」

 木村は駄々児だだっこをなだめるようにわざとおとなしく、

「それはよろしい、買えとなら買いもしますが、わたしはあなたがあれをまとまったまま持って帰ったらと思っているんです。たいていの人は横浜に着いてから土産みやげを買うんですよ。そのほうが実際格好ですからね。持ち合わせもなしに東京に着きなさる事を思えば、土産なんかどうでもいいと思うんですがね」

「東京に着きさえすればお金はどうにでもしますけれども、お土産みやげは……あなた横浜の仕入れものはすぐ知れますわ……御覧なさいあれを」

 といってたなの上にある帽子入れのボール箱に目をやった。

「古藤さんに連れて行っていただいてあれを買った時は、ずいぶん吟味したつもりでしたけれども、船に来てから見ているうちにすぐあきてしまいましたの。それに田川の奥さんの洋服姿を見たら、我慢にも日本で買ったものをかぶったり着たりする気にはなれませんわ」

 そういってるうちに木村は棚から箱をおろして中をのぞいていたが、

「なるほど型はちっと古いようですね。だがしなはこれならこっちでも上の部ですぜ」

「だからいやですわ。流行おくれとなると値段の張ったものほどみっともないんですもの」

 しばらくしてから、

「でもあのお金はあなた御入用ですわね」

 木村はあわてて弁解的に、

「いゝえ、あれはどの道あなたに上げるつもりでいたんですから……」

 というのを葉子は耳にも入れないふうで、

「ほんとにばかねわたしは……思いやりもなんにもない事を申し上げてしまって、どうしましょうねえ。……もうわたしどんな事があってもそのお金だけはいただきません事よ。こういったらだれがなんといったってだめよ」

 ときっぱりいい切ってしまった。木村はもとより一度いい出したらあとへは引かない葉子の日ごろの性分を知り抜いていた。で、言わず語らずのうちに、その金は品物にして持って帰らすよりほかに道のない事を観念したらしかった。

       *        *        *

 その晩、事務長が仕事を終えてから葉子の部屋へやに来ると、葉子は何か気にえたふうをしてろくろくもてなしもしなかった。

「とうとうかたがついた。十九日の朝の十時だよ出航は」

 という事務長の快活な言葉に返事もしなかった。男は怪訝けげんな顔つきで見やっている。

「悪党」

 としばらくしてから、葉子は一言ひとことこれだけいって事務長をにらめた。

「なんだ?」

 と尻上しりあがりにいって事務長は笑っていた。

「あなたみたいな残酷な人間はわたし始めて見た。木村を御覧なさいかわいそうに。あんなに手ひどくしなくったって……恐ろしい人ってあなたの事ね」

「何?」

 とまた事務長は尻上がりに大きな声でいって寝床に近づいて来た。

「知りません」

 と葉子はなおおこって見せようとしたが、いかにも刻みの荒い、単純な、他意のない男の顔を見ると、からだのどこかがゆすられる気がして来て、わざと引き締めて見せた口びるのへんから思わずも笑いの影が潜み出た。

 それを見ると事務長はにがい顔と笑った顔とを一緒にして、

「なんだいくだらん」

 といって、電燈の近所に椅子いすをよせて、大きな長い足を投げ出して、夕刊新聞を大きく開いて目を通し始めた。

 木村とは引きかえて事務長がこの部屋に来ると、部屋が小さく見えるほどだった。上向けたくつの大きさには葉子は吹き出したいくらいだった。葉子は目でなでたりさすったりするようにして、この大きな子供みたような暴君の頭から足の先までを見やっていた。ごわっごわっと時々新聞を折り返す音だけが聞こえて、積み荷があらかた片付いた船室の夜は静かにふけて行った。

 葉子はそうしたままでふと木村を思いやった。

 木村は銀行に寄って切手を現金に換えて、店の締まらないうちにいくらか買い物をして、それを小わきにかかえながら、夕食もしたためずに、ジャクソン街にあるという日本人の旅店に帰り着くころには、町々にがともって、寒いもやと煙との間を労働者たちが疲れた五体を引きずりながら歩いて行くのにたくさん出あっているだろう。小さなストーブに煙の多い石炭がぶしぶし燃えて、けばけばしい電灯の光だけが、むちうつようにがらんとした部屋へやの薄ぎたなさを煌々こうこうと照らしているだろう。その光の下で、ぐらぐらする椅子いすに腰かけて、ストーブの火を見つめながら木村が考えている。しばらく考えてからさびしそうに見るともなく部屋の中を見回して、またストーブの火にながめ入るだろう。そのうちにあの涙の出やすい目からは涙がほろほろととめどもなく流れ出るに違いない。

 事務長が音をたてて新聞を折り返した。

 木村は膝頭ひざがしらに手を置いて、その手の中に顔をうずめて泣いている。祈っている。葉子は倉地から目を放して、上目を使いながら木村の祈りの声に耳を傾けようとした。途切れ途切れなせつない祈りの声が涙にしめって確かに……確かに聞こえて来る。葉子はまゆを寄せて注意力を集注しながら、木村がほんとうにどう葉子を思っているかをはっきり見窮めようとしたが、どうしても思い浮かべてみる事ができなかった。

 事務長がまた新聞を折り返す音を立てた。

 葉子ははっとしてよどみにささえられた木の葉がまた流れ始めたように、すらすらと木村の所作を想像した。それがだんだん岡の上に移って行った。哀れな岡! 岡もまだ寝ないでいるだろう。木村なのか岡なのかいつまでもいつまでも寝ないで火の消えかかったストーブの前にうずくまっているのは……ふけるままにしみ込む寒さはそっと床を伝わって足の先からはい上がって来る。男はそれにも気が付かぬふうで椅子いすの上にうなだれている。すべての人は眠っている時に、木村の葉子も事務長に抱かれて安々と眠っている時に……。

 ここまで想像して来ると小説に読みふけっていた人が、ほっとため息をしてばたんと書物をふせるように、葉子も何とはなく深いため息をしてはっきりと事務長を見た。葉子の心は小説を読んだ時のとおり無関心の Pathos をかすかに感じているばかりだった。

「おやすみにならないの?」

 と葉子は鈴のように涼しい小さい声で倉地にいってみた。大きな声をするのもはばかられるほどあたりはしんと静まっていた。

「う」

 と返事はしたが事務長は煙草たばこをくゆらしたまま新聞を見続けていた。葉子も黙ってしまった。

 ややしばらくしてから事務長もほっとため息をして、

「どれ寝るかな」

 といいながら椅子いすから立って寝床にはいった。葉子は事務長の広い胸に巣食うように丸まって少し震えていた。

 やがて子供のようにすやすやと安らかないびきが葉子の口びるからもれて来た。

 倉地は暗闇くらやみの中で長い間まんじりともせず大きな目を開いていたが、やがて、

「おい悪党」

 と小さな声で呼びかけてみた。

 しかし葉子の規則正しく楽しげな寝息は露ほども乱れなかった。

 真夜中に、恐ろしい夢を葉子は見た。よくは覚えていないが、葉子は殺してはいけないいけないと思いながら人殺しをしたのだった。一方の目は尋常にまゆの下にあるが、一方のは不思議にも眉の上にある、その男の額から黒血がどくどくと流れた。男は死んでも物すごくにやりにやりと笑い続けていた。その笑い声が木村木村と聞こえた。始めのうちは声が小さかったがだんだん大きくなって数もふえて来た。その「木村木村」という数限りもない声がうざうざと葉子を取り巻き始めた。葉子は一心に手を振ってそこからのがれようとしたが手も足も動かなかった。

             木村……

          木村

       木村    木村……

    木村    木村

 木村    木村    木村……

    木村    木村

       木村    木村……

          木村

             木村……

 ぞっとして寒気さむけを覚えながら、葉子はやみの中に目をさました。恐ろしい凶夢のなごりは、ど、ど、ど……と激しく高くうつ心臓に残っていた。葉子は恐怖におびえながら一心に暗い中をおどおどと手探りに探ると事務長の胸に触れた。

「あなた」

 と小さい震え声で呼んでみたが男は深い眠りの中にあった。なんともいえない気味わるさがこみ上げて来て、葉子は思いきり男の胸をゆすぶってみた。

 しかし男は材木のように感じなく熟睡していた。

(前編 了)

底本:「或る女 前編」岩波文庫、岩波書店

   1950(昭和25)年55日第1刷発行

   1968(昭和43)年616日第27刷改版発行

   1998(平成10)年1116日第42刷発行

入力:真先芳秋

校正:渥美浩子

1999年1017日公開

2013年18日修正

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