誘惑
──或シナリオ──
芥川龍之介




 天主教徒てんしゅきょうと古暦ふるごよみの一枚、その上に見えるのはこう云う文字である。──

 御出生来ごしゅっしょうらい千六百三十四年。せばすちあん記し奉る。

    二月。小

 二十六日。さんたまりやの御つげの日。

 二十七日。どみいご。

    三月。大

 五日。どみいご、ふらんしすこ。

 十二日。……………



 日本の南部の或山みち。大きいくすの木の枝を張った向うに洞穴ほらあなの口が一つ見える。しばらくたってから木樵きこりが二人。この山みちを下って来る。木樵りの一人は洞穴を指さし、もう一人に何か話しかける。それから二人とも十字を切り、はるかに洞穴を礼拝する。



 この大きい樟の木のこずえの長い猿が一匹、或枝の上にすわったまま、じっと遠い海を見守っている。海の上には帆前船ほまえせんが一そう。帆前船はこちらへ進んで来るらしい。



 海を走っている帆前船が一艘。



 この帆前船の内部。紅毛人の水夫が二人、ほばしらの下にさいを転がしている。そのうちに勝負の争いを生じ、一人の水夫は飛び立つが早いか、もう一人の水夫の横腹へずぶりとナイフを突き立ててしまう。大勢の水夫は二人のまわりへ四方八方から集まって来る。



 仰向あおむけになった水夫の死に顔。突然その鼻の穴から尻っ尾の長い猿が一匹、あごの上にい出して来る。が、あたりを見まわしたと思うとたちまち又鼻の穴の中へはいってしまう。



 上から斜めに見おろした海面。急にどこか空中から水夫の死骸しがいが一つ落ちて来る。死骸は水けぶりの立った中に忽ち姿を失ってしまう。あとにはただなみの上に猿が一匹もがいているばかり。



 海の向うに見える半島。



 前の山みちにある樟の木の梢。猿はやはり熱心に海の上の帆前船を眺めている。が、やがて両手を挙げ、顔中に喜びをみなぎらせる。すると猿がもう一匹いつか同じ枝の上にゆらりと腰をおろしている。二匹の猿は手真似てまねをしながら、暫く何か話しつづける。それから後に来た猿は長い尻っ尾を枝にまきつけ、ぶらりと宙に下ったまま、樟の木の枝や葉に遮られた向うを目の上に手をやって眺めはじめる。


10


 前の洞穴の外部。芭蕉や竹の茂った外には何もそこに動いていない。そのうちにだんだん日の暮になる。すると洞穴の中から蝙蝠こうもりが一匹ひらひらと空へ舞い上って行く。


11


 この洞穴の内部。「さん・せばすちあん」がたった一人岩の壁の上に懸けた十字架の前に祈っている。「さん・せばすちあん」は黒い法服を着た、四十に近い日本人。火をともした一本の蝋燭ろうそくは机だの水瓶みずがめだのを照らしている。


12


 蝋燭のかげの落ちた岩の壁。そこには勿論もちろんはっきりと「さん・せばすちあん」の横顔も映っている。その横顔のくびすじを尻っ尾の長い猿の影が一つ静かに頭の上へ登りはじめる。続いて又同じ猿の影が一つ。


13


「さん・せばすちあん」の組み合せた両手。彼の両手はいつの間にか紅毛人のパイプを握っている。パイプは始めは火をつけていない。が、見る見る空中へ煙草たばこの煙を挙げはじめる。………


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 前の洞穴の内部。「さん・せばすちあん」は急に立ち上り、パイプを岩の上へ投げつけてしまう。しかしパイプは不相変あいかわらず煙草の煙を立ち昇らせている。彼は驚きを示したまま、二度とパイプに近よらない。


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 岩の上に落ちたパイプ。パイプはおもむろに酒を入れた「ふらすこ」の瓶に変ってしまう。のみならずその又「ふらすこ」の瓶も一きれの「花かすていら」に変ってしまう。最後にその「花かすていら」さえ今はもう食物しょくもつではない。そこには年の若い傾城けいせいが一人、なまめかしいひざを崩したまま、斜めにたれかの顔を見上げている。………


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「さん・せばすちあん」の上半身かみはんしん。彼は急に十字を切る。それからほっとした表情を浮かべる。


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 尻っ尾の長い猿が二匹一本の蝋燭の下にうずくまっている。どちらも顔をしかめながら。


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 前の洞穴の内部。「さん・せばすちあん」はもう一度十字架の前に祈っている。そこへ大きいふくろうが一羽さっとどこからか舞い下って来ると、一あおぎに蝋燭の火を消してしまう。が、一すじの月の光だけはかすかに十字架を照らしている。


19


 岩の壁の上に懸けた十字架。十字架は又十字の格子こうしめた長方形の窓に変りはじめる。長方形の窓の外は茅葺かやぶきの家が一つある風景。家のまわりには誰もいない。そのうちに家はおのずから窓の前へ近よりはじめる。同時に又家の内部も見えはじめる。そこには「さん・せばすちあん」に似た婆さんが一人片手に糸車をまわしながら、片手に実のなった桜の枝を持ち、二三歳の子供を遊ばせている。子供も亦彼の子に違いない。が、家の内部は勿論、彼等もやはり霧のように長方形の窓を突きぬけてしまう。今度見えるのは家の後ろのはたけ。畠には四十に近い女が一人せっせと穂麦を刈り干している。………


20


 長方形の窓をのぞいている「さん・せばすちあん」の上半身かみはんしん。但し斜めに後ろを見せている。明るいのは窓の外ばかり。窓の外はもうはたけではない。大勢の老若男女の頭が一面にそこに動いている。その又大勢の頭の上には十字架に懸った男女が三人高だかと両腕をひろげている。まん中の十字架に懸った男は全然彼と変りはない。彼は窓の前を離れようとし、思わずよろよろと倒れかかる。──


21


 前の洞穴ほらあなの内部。「さん・せばすちあん」は十字架の下の岩の上へ倒れている。が、やっと顔を起し、月明りの落ちた十字架を見上げる。十字架はいつかいしい降誕の釈迦しゃかに変ってしまう。「さん・せばすちあん」は驚いたようにこう云う釈迦を見守った後、急に又立ち上って十字を切る。月の光の中をかすめる、大きい一羽のふくろうの影。降誕の釈迦はもう一度もとの十字架に変ってしまう。………


22


 前の山みち。月の光の落ちた山みちは黒いテエブルに変ってしまう。テエブルの上にはトランプが一組。そこへ男の手が二つ現れ、静かにトランプを切った上、左右へ札を配りはじめる。


23


 前の洞穴の内部。「さん・せばすちあん」は頭を垂れ、洞穴の中を歩いている。すると彼の頭の上へ円光が一つかがやきはじめる。同時に又洞穴の中もおもむろに明るくなりはじめる。彼はふとこの奇蹟きせきに気がつき、洞穴のまん中に足を止める。始めは驚きの表情。それから徐ろに喜びの表情。彼は十字架の前にひれ伏し、もう一度熱心に祈りを捧げる。


24


「さん・せばすちあん」の右の耳。耳たぶの中には樹木が一本累々と円い実をみのらせている。耳の穴の中は花の咲いた草原くさはら。草は皆そよ風に動いている。


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 前の洞穴の内部。但し今度は外部に面している。円光を頂いた「さん・せばすちあん」は十字架の前から立ち上り、静かに洞穴の外へ歩いて行く。彼の姿の見えなくなった後、十字架はおのずから岩の上へ落ちる。同時に又水瓶みずがめの中から猿が一匹おどり出し、わ十字架に近づこうとする。それからすぐに又もう一匹。


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 この洞穴の外部。「さん・せばすちあん」は月の光の中に次第にこちらへ歩いて来る。彼の影は左には勿論もちろん、右にももう一つ落ちている。しかもその又右の影はつばの広い帽子をかぶり、長いマントルをまとっている。彼はその上半身にほとんど洞穴の外をふさいだ時、ちょっと立ち止まって空を見上げる。


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 星ばかり点々とかがやいた空。突然大きい分度器が一つ上から大股おおまたに下って来る。それは次第に下るのに従い、やはり次第に股を縮め、とうとう両脚をそろえたと思うと、徐ろにかすんで消えてしまう。


28


 広いやみの中に懸った幾つかの太陽。それ等の太陽のまわりには地球が又幾つもまわっている。


29


 前の山みち。円光を頂いた「さん・せばすちあん」は二つの影を落したまま、静かに山みちを下って来る。それからくすの木の根もとにたたずみ、じっと彼の足もとを見つめる。


30


 斜めに上から見おろした山みち。山みちには月の光の中に石ころが一つ転がっている。石ころは次第に石斧せきふに変り、それから又短剣に変り、最後にピストルに変ってしまう。しかしそれももうピストルではない。いつか又もとのようにただの石ころに変っている。


31


 前の山みち。「さん・せばすちあん」は立ち止まったまま、やはり足もとを見つめている。影の二つあることも変りはない。それから今度は頭を挙げ、樟の木の幹を眺めはじめる。………


32


 月の光を受けた樟の木の幹。荒あらしい木の皮によろわれた幹は何も始めは現していない。が、次第にその上に世界に君臨した神々の顔が一つずつ鮮かに浮んで来る。最後には受難の基督キリストの顔。最後には?──いや、「最後には」ではない。それも見る見る四つ折りにした東京××新聞に変ってしまう。


33


 前の山みちの側面。鍔の広い帽子にマントルを着た影はおのずから真っすぐに立ち上る。もっとも立ち上ってしまった時はもう唯の影ではない。山羊のようにひげを伸ばした、目の鋭い紅毛人の船長である。


34


 この山みち。「さん・せばすちあん」は樟の木の下に船長と何か話している。彼の顔いろは重おもしい。が、船長はくちびるに絶えず冷笑を浮かべている。彼等はしばらく話した後、一しょに横みちへはいってく。


35


 海を見おろした岬の上。彼等はそこに佇んだまま、何か熱心に話している。そのうちに船長はマントルの中から望遠鏡を一つ出し、「さん・せばすちあん」に「見ろ」と云う手真似てまねをする。彼はちょっとためらった後、望遠鏡に海の上を覗いて見る。彼等のまわりの草木そうもくは勿論、「さん・せばすちあん」の法服は海風の為にしっきりなしに揺らいでいる。が、船長のマントルは動いていない。


36


 望遠鏡に映った第一の光景。何枚も画を懸けた部屋の中に紅毛人の男女なんにょが二人テエブルを中に話している。蝋燭ろうそくの光の落ちたテエブルの上には酒杯さかずきやギタアや薔薇ばらの花など。そこへ又紅毛人の男が一人突然この部屋の戸を押しあけ、剣を抜いてはいって来る。もう一人の紅毛人の男も咄嗟とっさにテエブルを離れるが早いか、剣を抜いて相手を迎えようとする。しかしもうその時には相手の剣を心臓に受け、仰向あおむけに床の上へ倒れてしまう。紅毛人の女は部屋の隅に飛びのき、両手にほおを抑えたまま、じっとこの悲劇を眺めている。


37


 望遠鏡に映った第二の光景。大きい書棚などの並んだ部屋の中に紅毛人の男が一人ぼんやりと机に向っている。電灯の光の落ちた机の上には書類や帳簿や雑誌など。そこへ紅毛人の子供が一人勢よく戸をあけてはいって来る。紅毛人はこの子供を抱き、何度も顔へ接吻せっぷんした後、「あちらへけ」と云う手真似をする。子供は素直に出て行ってしまう。それから又紅毛人は机に向い、抽斗ひきだしから何か取り出したと思うと、急に頭のまわりに煙を生じる。


38


 望遠鏡に映った第三の光景。或露西亜人ロシアじんの半身像を据えた部屋の中に紅毛人の女が一人せっせとタイプライタアをたたいている。そこへ紅毛人の婆さんが一人静かに戸をあけて女に近より、一封の手紙を出しながら、「読んで見ろ」と云う手真似てまねをする。女は電灯の光の中にこの手紙へ目を通すが早いか、はげしいヒステリイを起してしまう。婆さんは呆気あっけにとられたまま、あとずさりに戸口へ退いてく。


39


 望遠鏡に映った第四の光景。表現派の画に似た部屋の中に紅毛人の男女なんにょが二人テエブルを中に話している。不思議な光の落ちたテエブルの上には試験管や漏斗じょうご吹皮ふいごなど。そこへ彼等よりも背の高い、紅毛人の男の人形が一つ無気味にもそっと戸を押しあけ、人工の花束を持ってはいって来る。が、花束を渡さないうちに機械に故障を生じたと見え、突然男に飛びかかり、無造作に床の上に押し倒してしまう。紅毛人の女は部屋の隅に飛びのき、両手にほおを抑えたまま、急にとめどなしに笑いはじめる。


40


 望遠鏡に映った第五の光景。今度も亦前の部屋と変りはない。ただ前と変っているのはたれもそこにいないことである。そのうちに突然部屋全体はすさまじい煙の中に爆発してしまう。あとは唯一面の焼野原ばかり。が、それもしばらくすると、一本の柳が川のほとりに生えた、草の長い野原に変りはじめる。その又野原から舞い上る、何羽とも知れない白鷺しらさぎの一群。………


41


 前の岬の上。「さん・せばすちあん」は望遠鏡を持ち、何か船長と話している。船長はちょっと頭を振り、空の星を一つとって見せる。「さん・せばすちあん」は身をすさらせ、あわてて十字を切ろうとする。が、今度は切れないらしい。船長は星を手の平にのせ、彼に「見ろ」と云う手真似をする。


42


 星をのせた船長の手の平。星はおもむろに石ころに変り、石ころは又馬鈴薯じゃがいもに変り、馬鈴薯は三度目に蝶に変り、蝶は最後に極く小さい軍服姿のナポレオンに変ってしまう。ナポレオンは手の平のまん中に立ち、ちょっとあたりを眺めた後、くるりとこちらへ背中を向けると、手の平の外へ小便をする。


43


 前の山みち。「さん・せばすちあん」は船長のあとからすごすごそこへ帰って来る。船長はちょっと立ちどまり、丁度かねでもはずすように「さん・せばすちあん」の円光をとってしまう。それから彼等はくすの木の下にもう一度何か話しはじめる。みちの上に落ちた円光は徐ろに大きい懐中時計になる。時刻は二時三十分。


44


 この山みちのうねったあたり。但し今度は木や岩は勿論もちろん、山みちに立った彼等自身も斜めに上から見おろしている。月の光の中の風景はいつか無数の男女に満ちた近代のカッフェに変ってしまう。彼等の後は楽器の森。もっともまん中に立った彼等を始め、なにうろこのように細かい。


45


 このカッフェの内部。「さん・せばすちあん」は大勢の踊り子達にとり囲まれたまま、当惑そうにあたりを眺めている。そこへ時々降って来る花束。踊り子達は彼に酒をすすめたり、彼のくびにぶら下ったりする。が、顔をしかめた彼はどうすることも出来ないらしい。紅毛人の船長はこう云う彼の真後ろに立ち、不相変あいかわらず冷笑を浮べた顔を丁度半分だけのぞかせている。


46


 前のカッフエの床。床の上には靴をはいた足が幾つも絶えず動いている。それ等の足は又いつの間にか馬の足や鶴の足や鹿の足に変っている。


47


 前のカッフエの隅。金鈕きんぼたんの服を着た黒人が一人大きい太鼓を打っている。この黒人も亦いつの間にか一本の樟の木に変ってしまう。


48


 前の山みち。船長は腕を組んだまま、樟の木の根もとに気を失った「さん・せばすちあん」を見おろしている。それから彼を抱き起し、半ば彼を引きずるように向うの洞穴ほらあなへ登って行く。


49


 前の洞穴の内部。但し今度も外部に面している。月の光はもう落ちていない。が、彼等の帰って来た時にはおのずからあたりも薄明るくなっている。「さん・せばすちあん」は船長をとらえ、もう一度熱心に話しかける。船長はやはり冷笑したきり、何とも彼の言葉に答えないらしい。が、やっと二こと三ことしゃべると、未だに薄暗い岩のかげを指さし、彼に「見ろ」と云う手真似をする。


50


 洞穴の内部の隅。顋髯あごひげのある死骸しがいが一つ岩の壁によりかかっている。


51


 彼等の上半身かみはんしん。「さん・せばすちあん」は驚きや恐れを示し、船長に何か話しかける。船長は一こと返事をする。「さん・せばすちあん」は身をすさらせ、慌てて十字を切ろうとする。が、今度も切ることは出来ない。


52


 Judas ………


53


 前の死骸──ユダの横顔。誰かの手はこの顔を捉え、マッサァジをするように顔をでる。すると頭は透明になり、丁度一枚の解剖図のようにありありと脳髄をあらわしてしまう。脳髄は始めはぼんやりと三十枚の銀を映している。が、その上にいつの間にかそれぞれあざけりやあわれみを帯びた使徒たちの顔も映っている。のみならずそれ等の向うにはいえだの、湖だの、十字架だの、猥褻わいせつな形をした手だの、橄欖かんらんの枝だの、老人だの、──いろいろのものも映っているらしい。………


54


 前の洞穴の内部の隅。岩の壁によりかかった死骸は徐ろに若くなりはじめ、とうとう赤児に変ってしまう。しかしこの赤児のあごにも顋髯だけはちゃんと残っている。


55


 赤児の死骸の足のうら。どちらの足のうらもまん中に一輪ずつ薔薇ばらの花を描いている。けれどもそれ等は見る見るうちに岩の上へ花びらを落してしまう。


56


 彼等の上半身かみはんしん。「さん・せばすちあん」はいよいよ興奮し、何か又船長に話しかける。船長は何とも返事をしない。が、ほとんど厳粛に「さん・せばすちあん」の顔を見つめている。


57


 半ば帽子のかげになった、目の鋭い船長の顔。船長は徐ろに舌を出して見せる。舌の上にはスフィンクスが一匹。


58


 前の洞穴ほらあなの内部の隅。岩の壁によりかかった赤児の死骸しがいは次第に又変りはじめ、とうとうちゃんと肩車をした二匹の猿になってしまう。


59


 前の洞穴の内部。船長は「さん・せばすちあん」に熱心に何か話しかけている。が、「さん・せばすちあん」は頭を垂れたまま、船長の言葉を聞かずにいるらしい。船長は急に彼の腕をとらえ、洞穴の外部を指さしながら、彼に「見ろ」と云う手真似てまねをする。


60


 月の光を受けた山中の風景。この風景はおのずから「磯ぎんちゃく」の充満した、けわしい岩むらに変ってしまう。空中に漂う海月くらげの群。しかしそれも消えてしまい、あとには小さい地球が一つ広いやみの中にまわっている。


61


 広い暗の中にまわっている地球。地球はまわるのを緩めるのに従い、いつかオレンジに変っている。そこへナイフが一つ現れ、真二つにオレンジをってしまう。白いオレンジの截断面せつだんめんは一本の磁針を現している。


62


 彼等の上半身かみはんしん。「さん・せばすちあん」は船長にすがったまま、じっと空中を見つめている。何か狂人に近い表情。船長はやはり冷笑したまま、睫毛まつげ一つ動かさない。のみならず又マントルの中から髑髏どくろを一つ出して見せる。


63


 船長の手の上に載った髑髏。髑髏の目からは火取虫ひとりむしが一つひらひらと空中へ昇ってく。それから又三つ、二つ、五つ。


64


 前の洞穴の内部の空中。空中は前後左右に飛びかう無数の火取虫にちている。


65


 それ等の火取虫の一つ。火取虫は空中を飛んでいるうちに一羽のわしに変ってしまう。


66


 前の洞穴の内部。「さん・せばすちあん」はやはり船長にすがり、いつか目をつぶっている。のみならず船長の腕を離れると、岩の上に倒れてしまう。しかし又上半身を起し、もう一度船長の顔を見上げる。


67


 岩の上に倒れてしまった「さん・せばすちあん」の下半身しもはんしん。彼の手は体を支えながら、偶然岩の上の十字架を捉える。始めは如何いかにもずと、それから又急にしっかりと。


68


 十字架をかざした「さん・せばすちあん」の手。


69


 後ろを向いた船長の上半身。船長は肩越しに何かをうかがい、失望に満ちた苦笑を浮べる。それから静かに顋髯あごひげでる。


70


 前の洞穴の内部。船長はさっさと洞穴を出、薄明るい山みちを下って来る。従って山みちの風景も次第に下へ移って来る。船長の後ろからは猿が二匹。船長はくすの木の下へ来ると、ちょっと立ち止まって帽をとり、誰か見えないものにお時宜じぎをする。


71


 前の洞穴の内部。但し今度も外部に面している。しっかり十字架を握ったまま、岩の上に倒れている「さん・せばすちあん」。洞穴の外部はおもむろに朝日の光をほのめかせはじめる。


72


 斜めに上から見おろした岩の上の「さん・せばすちあん」の顔。彼の顔はほおの上へ徐ろに涙を流しはじめる、力のない朝日の光の中に。


73


 前の山みち。朝日の光の落ちた山みちはおのずから又もとのように黒いテエブルに変ってしまう。テエブルの左に並んでいるのはスペイドの一や画札えふだばかり。


74


 朝日の光のさしこんだ部屋。主人は丁度戸をあけてたれかを送り出したばかりである。この部屋の隅のテエブルの上には酒のびん酒杯さかずきやトランプなど。主人はテエブルの前にすわり、巻煙草まきたばこに一本火をつける。それから大きい欠伸あくびをする。顋髯を生やした主人の顔は紅毛人の船長と変りはない。


   * * * * *


後記。「さん・せばすちあん」は伝説的色彩を帯びた唯一の日本の天主教徒てんしゅきょうとである。浦川和三郎うらかわわさぶろう氏著「日本に於ける公教会の復活」第十八章参照。

底本:「昭和文学全集 第1巻」小学館

   1987(昭和62)年51日初版第1刷発行

底本の親本:「芥川龍之介全集 第八卷」岩波書店

   1978(昭和53)年322日発行

初出:「改造 第九卷第四号」

   1927(昭和2)年41日発行

入力:j.utiyama

校正:かとうかおり

1999年126日公開

2016年225日修正

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