古代に於ける言語伝承の推移
折口信夫



     一


所謂民間伝承といふ言葉を、初めて公に使はれたのは、たしか松村武雄さんであつたと思ふ。そして、それを現在、柳田国男先生はじめ、我々も使うて居るのである。こゝでは、この民間伝承のうちの、言語伝承の移り変りに就いて、述べたいと思ふ。言語伝承には、言語の形式と、言語そのものと、二つの方面があるが、此話では、只今残つて居るものではなく、大分以前に、固定したものに就いて、話して見たい。実は、言語の問題は、一々、例について、論議せねばならぬのであるが、時間の都合上、それは止めて、大略の処に就いて、述べることにする。

元来、民間伝承は、言葉の外は、何も伝へるものが無かつた訣であるから、言語伝承は伝へるものゝ総てだ、と考へてよい筈である。而も、言語といふものは、直ぐに消えて了うて、そこには、たゞ信仰的なものゝみが残る。それで、呪詞・唱詞系統のものが、永遠の生命を保つ事になるのである。そして、記録が出来ると、伝承の為事は、それに任されるやうになる。

今日の文章は、言文一致といふ事になつてゐるが、昔はさうでなかつた。ずつと大昔には、言葉と文章との区別が無かつた、といふのが定説だが、よく考へて見ると、さうは思へない。我が国には、言文一致の時代は、無かつたと思ふ。概念的に、大ざつぱに、奈良・平安時代のものを読むと、言文一致の様にも見えるが、細かくつゝくと、さうではないのである。

口頭伝承と、言語とは、別なものである。そして後者は、段々時代の経るに従うて変化して行くもので、民族が古ければ古い程、多く変化する。が、口頭伝承の方は、一部分は、時代と調和するが、段々時代の経過するにつれて、其処に変な、鵺のやうな文章が出来上る。これの一番発達したものが、平安朝の女官の書いた、所謂女房の文学で、一見、口語の現し方と同じやうに見えながら、その変な所が、あり〳〵と見える。

一体文体が、口頭伝承と言語とに、分化したのは、どういふ訣かといふと、畢竟は、口頭伝承を尊敬する考への出て来る所に、原因してゐると思ふ。今私は、文語は、口の上に記録し、頭に記憶する責任を感じてゐる文章だ、と云うて置きたい。文語には、尊敬に伴うて、固定がある。此に反して、言語は段々、発達して行く。こゝに、分化が生じるのであつて、其が愈、紙の上の記録にうつると、そこに截然と、区別が立つて来る。


     二


尚、文語に関しては、もつと立ち入つた考へを述べねばならないが、其に一番適切なのは、呪詞・唱詞である。此は、永遠に繰り返さねばならぬものと信じられて居たが、段々脱落変化して、其うち、最大切なものだけが、最後に残つて、歌と諺とになつた。

諺は、私の考へでは、神の言葉の中にあつた命令だと思ふ。即、神の言葉にも、次第に、会話と地との部分が出来て、其中の端的な命令の言葉が、諺であつたと思ふ。此に対して、神から命令をうける者──すぴりつとのやうなもの──の応へる言葉があつて、その一番大事な部分が、歌であつた。それ故、歌には、衷情を訴へるものがある訣である。

此応への言葉が、段々発達した。記録を調べても、神の命令の言葉は短く、其に応へる言葉は、長くなつて行つてゐる傾向が窺はれる。諺は、其形を変へまい〳〵とした為に、意味の不明になつて了うたものが、可なりにある。かのいろはがるたなども其だと考へられる。此に反し、歌は、絶えず変化し、進んで行つて、今度は歌が、世の中の文章を起す心持ちを刺激した。さうして、奈良朝時代になつて出来上つたものが、宣命であり、祝詞である。

これらの文章には、ある極つた形があつた。ところが、現存してゐる祝詞は、皆平安朝の息が、かゝつてゐると思はれるから、かの歌に刺戟されて起り、且紙の上に書かれた文章としては、今のところ、第一に宣命を考へるより外はない。此宣命は既に、それ以前から固定し、生命を失うてゐた神の言葉を、其頃の言葉と妥協させた。それ故宣命には、奈良朝の文章と、さうでない部分とが含まれてゐるのである。何故かといふと、其処には新しく考へた語法があるからである。

宣命の言葉は、かなり古いものだ、と信ぜられてゐるのであるが、其を作つた者は学者であつて、その学者達が、古い歌を省みて、言葉を作り出してゐるのであるから、宣命には、非常に造語が多いのである。万葉集でも、学者達の作つた長歌には、沢山の造語があつた。そして、口頭伝承には、かういふ言葉があるから、かういふ使ひ方をすれば、新しい言葉が出来る、と考へてゐた跡が窺はれる。わりあひに、理くつの尠い歌でさへさうであるから、宣命だとて、一々、信用は出来ないのである。其時代の言葉と、古語とを調和させた、鵺のやうな言葉が多いのである。

一例をあげると、延言──奈良朝以前から、ずつと後まであつた──の非常に多いといふ事が、此を証拠だてゝゐる。此事は、宣命或は、作者名の明らかな長歌類を見るとよく訣る。が実は、此延言には間違ひが多かつた。殊に、僧侶の作者のものには、此事が云へるのである。

ところが、此らの造語は、造語なるが故に、既に、自由に使用の出来ない、幾多の運命を持つてゐるのである。それで宣命を、他の文章と較べて見ると、浮き上つて、異つてゐることが訣る。此を古い言葉を継いでゐるからだ、と簡単に云うて了ふことは出来ない。言葉に、生き〳〵した処と、死んだやうな処との混つてゐるのは、それ以外に、目を向けて見ねば訣らぬと思ふ。

右に述べた様な、宣命の形を取り込んで、平安朝になつて、古く固定した、祝詞や唱詞を改作したものが、延喜式の祝詞である。古い学者は、宣命は、奈良朝の祝詞を模倣したと言うてゐるが、さうではない。延喜式祝詞は、奈良朝の祝詞の言葉を取り込んで、それに、古い言葉を配当したものと見られる。かうして出来上つた文章は、変なものであつた。そしてそれが、昔の人に、訣つてゐたといふことは、甚不思議である。

我々が、祝詞を講義をするにも、不明で解けない個処がある。が、此が解けるといふのは、我々が其を、合理化して考へるからである。実際をいふと、祝詞は訣らぬものである。訣らぬものとして扱ふと、訣らない理由が、訣つて来る。すると、訣らぬものが、訣るわけである。訣るものとして扱ふと、合理化にひきつけられて結局、訣つて、訣らないことになる。こんな事をいふと、菎蒻問答のやうで、変なものであるが、併し、此が実際である。

昔から唱へ伝へてゐる古い文章は、それを扱ふ人に、はつきりと訣つてゐなかつた。処が、それを何遍でも、扱はなければならない。そこで、その訣らぬところは、自分の解釈を当てはめて扱うた。その為に、其処に段々、合理化が行はれて行くわけである。

かうした言葉が、言語以外に口頭詞章として、伝へられる場合には、単なる伝承者と、新しく創作しようとする者との相違によつて、非常な隔りが生じる。伝承の変化は、変化が自然であるが、作らうとする場合には、学者が意識的に、自分が勝手に解釈して用ゐて行くから、其処に不自然なものが出来て来る。従つて、古くから伝承せられた言葉の中にも、造語が多いわけである。

かう考へると、語原を討ねるといふことは、難しい事である。古い言葉を調べて見ると、語原の先に、まだその語原のある事が訣る。さうなると、全く見当がつかない。日本の辞書も、只あゝいふ風に、常識的に、語を陳列してゐるだけであつて、もつとつきつめた事になると、何もわかつて居ないのである。悲しいことではあるが、併しこれが、新しい研究の、刺戟にならねばならないと思ふ。今までの用語例といふものが、既に固定して了うてゐて、我々の拓かねばならぬ所が多いから、張り合ひがある訣である。


     三


次に、口頭伝承の言葉で、段々、口語の中に織り込まれたものがある。其は、貴族のした事であつて、古語をその生活の上に活かして用ゐたので、古い言葉が、生きて来るやうになつた。それで、奈良朝に無かつた言葉が、平安朝になつて出て来るといふ事になるのである。併し此は、平安朝以前に、さういふ言葉が無かつた、といふ事にはならない。かうした現象は、平安朝に到つて、書物が多くなり、従つて記録せられる機会が多かつた為に、現れて来たとも考へられるが、又一方、貴族の語を模倣した女房の言葉が、記録せられるやうになつたといふ、時代の変遷にも依るのである。

かうしたわけで、何処かに伝つてゐる古い言葉とか、又は記録の文とかで、何かの場合にしか使はれないやうな言語が、生きて来るのである。譬へば、上達部といふ言葉は、平安朝になつて出て来るが、考へて見ると、決して平安朝に出来た言葉ではなく、宮廷と神社とを同じに考へてゐた、ずつと昔の言葉である。

こんな風にして、死んだ言葉が生きて来、又文語とそれと、調和した様な言葉が出来て来た。それで、長い時代の間には、伝へられた言葉が、すつかり、誤解を重ねて来ることになるのである。此は、口頭伝承を書き伝へた、書き物に対する誤解や、又誤つた直感が、働くことに依るのである。が此事は、表面の事実であつて、実はかうならねばならぬ、昔からの根があつた。それは、言葉の意味をわからなくする、神のあつたことである。

此神は、八心思兼神と云はれる、唱詞の神である。中臣氏の祖先だとも云はれてゐるが、誤りかと思ふ。この神は、色々な意味を兼ねた言葉を、唱へ出した神であつた。「思ふ」といふ言葉を、我々は、内的な意味に考へてゐるが、昔は、唱へごとをするといふ意味があつたと思はれる。かけまくもかしこきといふ言葉には、発言と思考といふ意味がある。これとおなじく「思ふ」にも、唱へごとをすることを意味した用例があつたらしい。思兼といふのは、色々な意味を兼ねて考へる、さういふ言葉を拵へた神の名であつた。即言葉は、一語にも、色々な意味を兼ねたのである。

かういふ訣で、日本の言葉は、どうにでも解ける。此を又、尊いとも考へて居た。が、始めからではなく、段々かういふ風に、兼ね思ふ様になつて来たものである。此を同音異義などゝいふことでは、説明出来ない。病気の祷りが、同時に、田畑の祷りや、悪魔退散の祷りであつたりする。即、言語の上に、譬喩的な効果を、出来るだけ豊かに、考へてゐた時代が、古くからあつたのである。結局は、此を唱へるのに、効果ある口頭伝承が少いため、それをいろ〳〵に融通する事になるので、どうしても、八心思兼でなければならなくなる。即、一つの文章や単語が、いろ〳〵の意味に考へられるのである。此処に、日本の言語伝承が、推移せねばならぬ理由があつた。

此推移の中、一番、目につくのは、文法意識の変化であるが、余り興味のある事ではないから、こゝでは省略しておく。


     四


ところが、我々の使用してゐる文法は、誰でも、平安朝の文法だといふが、此平安朝のでさへも、まだ〳〵しつかりした研究には、達してゐない。只単に、抽象的な文章論はあるが、単語の方は、一向に発展してゐない。此は、文法を発生的に考へないからである。これからも段々、時代々々の文法の書物が出てくると思ふが、時代に添うて、自然に意義が、発生展開して来る点を見るやうにならねば、無意義なことゝ思ふ。平安朝の文法で、古事記なども読んでゐる。古訓古事記でさへもさうであつて、決して、それ以前のものではないのである。今の神職などの祝詞も、平安朝の調子である。

平安朝になつて、みやすどころといふ語が、忽然と出てくる。此は後に、意味が段々変化したが、普通、天子の御子を産んだ人が、みやすどころといふ名を得た。此など、訣らない語である。やすみしゝといふ言葉でも、普通には訣つてゐると思うてゐるが、万葉には、八隅知之・安見或は万葉仮名で書いてあつて、その頃にも、既にいろ〳〵違うた考へで、其言葉を使うてゐた事が知れる。すると此は、もつと考へて見ねばならぬ事なのだ。安見といふのも、何だか支那臭いが、併し、安らかに治めるといふ事に基づいてゐるのかどうかを考へて見る必要はある。

天皇の始終、お出でになるところを、安殿と書いて、やすみどのと読ませてゐる。大安殿・小安殿と分れてゐるが、元は一つであつた。此やすみどのゝ、書物に於ける用語例を、だん〳〵調べて見ると、祭りの晩に、尊い方が、添ひ寝のものとやすまれる処が、やすみどのであつたらしい。すると我々のやすむといふ語と、非常に近くなるが、併し、さう簡単に、今の語と、昔の語とを妥協させる事は出来ない。まう一つ考へて見ると、昔は非常に尊い人が、女と一しよにやすむ処が、それであつたらしい。それから延いて、尊い人の胤を宿した人を、やすみどころみやすどころなどゝ呼ぶ、平安朝の語が出来て来たのだと思ふ。

かう考へて見ると、その言葉が、段々訣つて来るやうに思へる。やすみしゝも、何か祭りの時の、印象のある言葉かと思ふ。その時天皇は、遠い処から来たやうな、変つた風をして、常は会はぬ正殿で、改つて人に会ふ、といふ様な事があつたかも知れぬ。とにかく、はつきりせぬが、その輪廓だけは訣る。かうした言葉の数を蒐めて行くと、微かながらも、其ほんとうの姿が訣つて来る。

八十国・八十島といふ、数で表れてゐる語も、普通は、安らかといふ風に考へてゐるが、何か、前述のやうな意味に、関係があるかと思ふ。我々は馴れてしまつて、顧みないのであるが、昔は、国といふ言葉は、明らかに、島と対立した言葉であつた。

天ざかるヒナ長路ナガヂゆ恋ひ来れば、明石の海峡より大和島見ゆ(万葉巻三)

といふ歌の、一番進歩した説明では、大和の国を、島と称したと云つてゐるが、秋津島その他が、水で取り囲まれてゐるからだと云ふのは、逆の考へ方である。島は、自分が持つてゐる国、治めてゐる国といふ意味だつたのが、段々、普通に使はれるやうになつたものであらう。

此に対して、国は、天皇に半分服従し、半分独立してゐる処であつた。絶対に服従してゐるといふのは、神世からの極少数で、他は皆、天子の国と、即かず離れずの関係にあつた。

おしてるや難波の崎よ。出で立ちて、わが国見れば……

といふ仁徳天皇の御歌の国も、うつかりすると、大和と見えるが、此は、部下の国を見、部下の国を褒める言葉である。自分の国をいふ島なる語が、段々変化して、普通に用ゐられなくなり、且宮廷に属してゐる地方が、皆国だから、宮廷のある所まで、国といふやうになつたのである。かうなると、我々は、正当に使つた島といふ言葉があると、何か異様に感じて、水を廻らした島、といふ古い言葉が転じて、国の一区劃をも云ふやうになつた、と云はねば収まらなくなる。此は口頭伝承の、国語に移つてゆくにつれて、起る変化である。


     五


古事記のにゝぎの命天降りの段に、うきじまりそりたゝしてといふ言葉があるが、これは、何の意味か訣らない。日本紀には、浮島なる処にとし、又その一書には浮島なる平にとなつてゐる。そんな変なことは無い筈だが、口頭伝承は、このやうに、まち〳〵に伝つてゐるのである。日本の古書には、古い程、又神聖な程、かうしたものが多い。大切だと思ふ処は、一生懸命に守つてゐるが、其処に意志を加へないから、益、変化してしまふ。

あまつゝみくにつゝみといふ言葉がある。此については、既に書いた事もあるが、あまつゝみは、くにつゝみに対してゐるとされてゐるが、さうではなさ相である。すさのをの命が、天上で犯した罪の償ひに、其時期になると、天上のことを地上にうつして、我々がせねばならぬ慎しみ、即日の神、日の神の作物に対する物忌みが、あまつゝみである。くにつゝみは、更に不思議であるが、此は、我々の考へてゐる程、古いものではないらしい。つまり、つみの意味には、穢れ・物忌みに於ける、又神が欲しいと思ふと、神にあげる為の、慎しみをいふ意味もある。

あまつゝみは、すさのをの命が、天上の田を荒した為、その時期になると、神に仮装して、田作りを助けに来る。即、償ふのである。畢竟つゝしみつみとは、さう、意味は変らぬのである。かうして、あまつゝみを考へて見ると、実は、変なものである。昔の人の考へ方がよいか、自分の考へ方が悪いかといふと、それは、語自身の罪であつて、八心思兼神が悪いのである。

端的に云ふならば、あまつゝみは、あめつゝしみである。言ひ換へれば、ながめいみと言ふ事だと思ふ。この言葉は、万葉にもあつて、雨づゝみとも云うてゐる。物忌みは、五月と九月との二度あつて、其中、五月のが主である。それは、ちようど霖雨の時だから、此をながめをするといひ、更に略して、ながむと言うた。この慎しみの期間は、禁慾生活をせねばならぬのである。此が、平安朝の、物語にある、ながむといふ言葉の原であつて、つまり、長い間の禁慾生活をして、ぼんやりしてゐる。其がながめであつた。

ながめいみ雨づゝみを、どうして今まで、天つ罪と、関係して考へなかつたのであらうか。違ひは単に、濁りだけのことである。昔の人には、つゝみでも、づゝみでも、同じ事であつた。此が、田植ゑや、田に関した物忌みで、霖雨の頃にするのである。此事が、すさのをの命の話と結びついたのだ。あまつゝみは、実は、何でもない事なのである。此について、天つ罪がほんとうだと、云ふ人があつても、日本の伝承の素質では、何方にでも云ひ得るものを持つてゐるので、其を違ふとも云ひ切れない。

以上甚、纏らぬことを述べたが、たゞ日本の語源説とか、文法とかでは、もつとやり直してもらはねばならぬものが沢山ある、といふことだけを考へて頂ければ、此話の目的は、達せられたわけである。

底本:「折口信夫全集 3」中央公論社

   1995(平成7)年410日初版発行

初出:「民俗学 第二巻第一号」

   1930(昭和5)年1

※底本の題名の下に書かれている「昭和五年一月「民俗学」第二巻第一号」はファイル末の「初出」欄に移しました。

入力:門田裕志

校正:多羅尾伴内

2005年910日作成

青空文庫作成ファイル:

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