殺生石
楠山正雄



     一


 むかし後深草天皇ごふかくさてんのう御代みよに、玄翁和尚げんのうおしょうというとくたかぼうさんがありました。日本にっぽん国中くにじゅう方々ほうぼうめぐりあるいて、あるとき奥州おうしゅうからみやこかえろうとする途中とちゅう白河しらかわせきえて、下野しもつけ那須野なすのはらにかかりました。

 那須野なすのはらというのは十ほうもあるひろひろはらで、むかしはそのあいだに一けんいえく、とおくのほうに山がうっすりえるばかりで、見渡みわたかぎくさがぼうぼうとしげって、きつねやしかがその中でさびしくいているだけでした。玄翁げんのうはこのはらとおりかかると、おりふしあきすえのことで、もうれかけたすすき尾花おばなしろ綿わたをちらしたように一めんにのびて、そのあいだのこった野菊のぎくやおみなえしがさびしそうにのぞいていました。

 玄翁和尚げんのうおしょうは一にち野原のはらあるきどおしにあるいてまだ半分はんぶんも行かないうちに、みじかあきの日はもうれかけて、るそこらがくらくなってきました。このさきいくら行ってもとまいえつけるあてはないのですから、今夜こんや野宿のじゅくをするかくごをきめて、それにしても、せめてこしをかけてやすめるだけの木のかげでもないかとおもって、ゆうやみの中でしきりにましたが、一ぽんのひょろひょろまつさえってはいませんでした。それでもとおもってまたすこし行ってみると、草原くさはらなかに、大きな石のっているのがしろえました。

「やれやれ、これでつゆをしのぐだけの屋根やね出来できた。」

 と玄翁げんのうはつぶやきながら石のそばにってみますと、ちょうど人間にんげんせいたかさぐらいのすべすべしたきれいな石でした。玄翁げんのうは石のあたまかさをかぶせ、くさむすんでまくらにして、つえをわきにせたまま、ころりとよこになりますと、なにしろくたびれきっているものですから、もなくとろとろとねむりかけました。

 するとしばらくして、ねむっているまくらもとで、

和尚おしょうさま、和尚おしょうさま。」

 とかすかにこえがしました。はじめはゆめうつつでそのこえいていましたが、ふとがついて目をあけますと、もう一面いちめんくらやみで、はるかなそらの上で、かすかにほしが二つ三つひかっているだけでした。

「するといましがただれかんだとおもったのは、まよいであったか。」と玄翁げんのうおもって、がりもしずに、そのまま目をつぶってようとしました。するとまたうしろのほうで、こんどはまえよりもはっきり、

和尚おしょうさま、和尚おしょうさま。」

 とこえがしました。

 こんどこそ間違まちがいはないと玄翁げんのうおもって、ひょいとがりますと、どうでしょう、さっきの石のあったところがほんのりあかるくなって、そのかすかなひかりの中にわかい女のような姿すがたがぼんやりえていました。

 玄翁げんのうもさすがにびっくりして、その女にかって、

んだのはあなたですか。あなたはどなたです。」

 とたずねました。

 すると女はかすかにわらったようでしたが、やがて、

「びっくりなさるのはむりはありません。わたしはこの石のせいです。」

 といいました。

「その石のせいがどうしてまよって出てたのです。なにかわたしに御用ごようがあるのでしょうか。偶然ぐうぜんながら、こうして一晩ひとばんのお宿やどねがったおれいに、なにかしてげることがあればなんでもしましょう。」

 と玄翁げんのうはいいました。

 すると女はなみだをはらはらとこぼして、

「あなたはがたいお坊様ぼうさまのようですから、くわしくわたしのはなしいていただいて、その上におねがいがあるのでございます。おきになったこともあるでしょうが、じつはわたしは、むかしなにがしのいんさまの御所ごしょ使つかわれた玉藻前たまものまえというものでございます。もとをいいますと天竺てんじくんだ九のきつねでした。きつねは千ねんたつとうつくしい人間にんげんの女にけるものです。わたしも千ねんこうむと、きれいなむすめ姿すがたになりました。するとある日天羅国てんらこく班足王はんそくおうというおうさまがりのかえりにわたしをつけて、御殿ごてんかえっておきさきになさいました。わたしはながあいだきつねでいた時分じぶん人間にんげんにいじめられとおしてきたことをおもして、ふとわるこころがおこりました。そこであるとき天羅国てんらこくにいろいろと天災てんさいがおこって人民じんみんこまっていると、わたしは班足王はんそくおうにすすめて、これはおはかかみのたたりですから、これから毎日まいにちにんずつ人のくびって、百にちあいだに千にんくびをおはかそなえてよくおまつりなさい。きっとわざわいをのがれることができますといいました。じつは天災てんさいというのもわたしがじゅつをつかってさせたのですが、おうはこれをらないものですから、わたしのいうとおりに、毎日まいにちつみのない人民じんみんを十にんずつころして、千にんくびをまつりました。すると人民じんみんおうをうらんで、あるとき一揆いっきこしておうころしました。そしてわたしをつけて、りにしようとさわぎました。わたしはとうにして、山の中にかくれました。そうしてなんねんかたちました。


     二


 そのうちわたしはまたシナのくにわたって、いん紂王ちゅうおうというもののおきさきになりました。あの紂王ちゅうおうにすすめて、百姓ひゃくしょうからおもいみつぎものをてさせ、非道ひどうおごりにふけったり、つみもないたみをつかまえて、むごたらしいしおきをおこなったりした妲妃だっきというのは、わたしのことでした。紂王ちゅうおうがほろぼされると、わたしはまた山の中にかくれて、なんねんらしました。

 おしまいに日本にっぽんくにて、いんさまのお使つかいの女になって、玉藻前たまものまえのりました。わたしをおそばへおちかづけになってから、いんさまは始終しじゅうおもいおやまいにおなやみになるようになりました。いんさまのおいのちをとって、日本にっぽんくにをほろぼそうとしたわたしのたくらみは、だんだん成就じょうじゅしかけました。それを見破みやぶったのは陰陽師おんみょうじ安倍あべ泰成やすなりでした。わたしはとうとう泰成やすなりのためにいのせられて、正体しょうたいあらわしてしまいました。そしてこの那須野なすのはらんだのです。けれども日本にっぽん弓矢ゆみやくにでした。天竺てんじくでも、シナでも、一山かにかくれればもうだれもいかけてものはなかったのですが、こんどはそういきませんでした。もなくいんさまは三浦みうらすけ千葉ちばすけ二人ふたり武士ぶしにおいいつけになって、なんさむらい那須野なすのはらててわたしをさせました。わたしはもうみちがなくなって、とうとう二人ふたり武士ぶし矢先やさきにかかってたおれました。けれどもからだだけはほろびても、たましいはほろびずに、この石になってのこりました。わたしのぶかい悪念あくねんは石になってもほろびません。石のそばにるものは、人でもけものでもどくにあたってたおれました。みんなは殺生石せっしょうせきといって、おそれてそばへるものはありませんでした。それが今夜こんやあなたにかぎって、殺生石せっしょうせきのそばにかしながら、なんにもわざわいのかからないのはふしぎです。これはきっとほとけさまのみちふかしんじていらっしゃる功徳くどくちがいありません。あなたのようなとうといお上人しょうにんさまにおにかかったのは、わたしのしあわせでした。どうかあなたのあらたかな法力ほうりきで、わたしをおすくいなすってくださいませんか。わたしはもう自分じぶんながら自分じぶんふかつみまよいのために、このとおり石になってもなおくるしんでいるのでございます。」

 こういって、女はほっとためいきをつきました。

 玄翁げんのうはだまって、じっと目をつぶったまま、女のはなしいていました。やがて女のながはなしがおしまいになりますと、しずかに目をあいて、やさしく女の姿すがたながら、

「うん、うん、かった。わたしのちからおよぶだけはやってみよう。安心あんしんしてかえるがいい。」

 といいました。

 女はにっこりわらって、すっとかきすようにえなくなりました。

 そうこうするうちに、いつかがしらしらけはなれてきました。玄翁げんのうははじめてそこらを見回みまわしますと、石はゆうべのままにしろっていました。ると石のまわりには、二三ちょうあいだろくろくくさえてはいませんでした。そして小鳥ことりむしなん千となくかさなりってんでいました。

 玄翁げんのう今更いまさら殺生石せっしょうせきにおそろしいどくのあることをって、ぞっとしました。

 もうすっかりあかるくなって、日がのぼりかけました。くさの上のつゆがきらきらかがやしました。

 玄翁げんのう殺生石せっしょうせきまえすわって、熱心ねっしんにおきょうみました。そして殺生石せっしょうせきれいをまつってやりました。殺生石せっしょうせきがかすかにうごいたようでした。

 やがておきょうがすむと、玄翁げんのうがって、呪文じゅもんとなえながら、っていたつえで三石をうちました。するとしずかに石はなかから二つにわれて、やがて霜柱しもばしらがくずれるように、ぐさぐさといくつかに小さくわれていきました。

 そののちたびの人が殺生石せっしょうせきのそばをとおっても、もうわざわいはおこらなかったそうです。

底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社

   1983(昭和58)年410日第1刷発行

入力:鈴木厚司

校正:大久保ゆう

2003年82日作成

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