十五年間
太宰治



 れいの戦災をこうむり、自分ひとりなら、またべつだが、五歳と二歳の子供をかかえているので窮し、とうとう津軽の生家にもぐり込んで、親子四人、居候いそうろうという身分になった。

 たいていの人は、知っているかと思うが、私は生家の人たちと永いこと、具合の悪い間柄になっていた。げびた言い方をすれば、私は二十代のふしだらのために勘当されていたのである。

 それが、二度も罹災りさいして、行くところが無くなり、ヨロシクタノムと電報を発し、のこのこ生家に乗り込んだ。

 そうして間もなく戦いが終り、私は和服の着流しで故郷の野原を、五歳の女児を連れて歩きまわったりなど出来るようになった。

 まことに、妙な気持のものであった。私はもう十五年間も故郷から離れていたのだが、故郷はべつだん変っていない。そうしてまた、その故郷の野原を歩きまわっている私も、ただの津軽人である。十五年間も東京で暮していながら、一向に都会人らしく無いのである。首筋太く鈍重な、私はやはり百姓である。いったい東京で、どんな生活をして来たのだろう。ちっとも、あか抜けてやしないじゃないか。私は不思議な気がした。

 そうして、或る眠られぬ一夜、自分の十五年間の都会生活にいて考え、この際もういちど、私の回想記を書いてみようかと思い立った。もういちど、というわけは、五年くらい前に、私は「東京八景」という題で私のそれまでの東京生活をいつわらずに書いて発表した事があるからである。しかし、それから五年ち、大戦の辛苦をめるに及んで、あの「東京八景」だけでは、何か足りないような気がして、こんどは一つ方向をかえ、私がこれまで東京にいて発表して来た作品を主軸にして、私という津軽の土百姓の血統の男が、どんな都会生活をして来たかを書きしたため、また「東京八景」以後の大戦の生活をも補足し、そうして、私の田舎臭いなかくさい本質をきわめたいと思った。

 私が東京に於いてはじめて発表した作品は、「魚服記」という十八枚の短篇小説で、その翌月から「思い出」という百枚の小説を三回にわけて発表した。いずれも、「海豹あざらし」という同人雑誌に発表したのである。昭和八年である。私が弘前ひろさきの高等学校を卒業し、東京帝大の仏蘭西フランス文科に入学したのは昭和五年の春であるから、つまり、東京へ出て三年目に小説を発表したわけである。けれども私が、それらの小説を本気で書きはじめたのは、その前年からの事であった。その頃の事情を「東京八景」には次のようにしるされてある。

「けれども私は、少しずつ、どうやら阿呆あほうから眼ざめていた。遺書をつづった。「思い出」百枚である。今では、この「思い出」が私の処女作という事になっている。自分の幼時からの悪を、飾らずに書いて置きたいと思ったのである。二十四歳の秋の事である。草蓬々ぼうぼうの広い廃園をながめながら、私は離れの一室に坐って、めっきり笑を失っていた。私は、再び死ぬつもりでいた。きざと言えば、きざである。いい気なものであった。私は、やはり、人生をドラマと見做みなしていた。いや、ドラマを人生と見做していた。(中略)けれども人生は、ドラマでなかった。二幕目は誰も知らない。「滅び」の役割をもって登場しながら、最後まで退場しない男もいる。小さい遺書のつもりで、こんなきたない子供もいましたという幼年及び少年時代の私の告白を、書き綴ったのであるが、その遺書が、逆に猛烈に気がかりになって、私の虚無にかすかな燭燈ともしがともった。死に切れなかった。その「思い出」一篇だけでは、なんとしても、不満になって来たのである。どうせ、ここまで書いたのだ。全部を、書いて置きたい。きょうまでの生活の全部を、ぶちまけてみたい。あれも、これも。書いて置きたい事が一ぱい出て来た。まず、鎌倉かまくらの事件を書いて、駄目。どこかに手落ちが在る。さらに又、一作書いて、やはり不満である。溜息ためいきついて、また次の一作にとりかかる。ピリオドを打ち得ず、小さいコンマの連続だけである。永遠においでおいでの、あの悪魔デモンに、私はそろそろ食われかけていた。蟷螂とうろうおのである。

 私は二十五歳になっていた。昭和八年である。私は、このとしの三月に大学を卒業しなければならなかった。けれども私は、卒業どころか、てんで試験にさえ出ていない。故郷の兄たちは、それを知らない。ばかな事ばかり、やらかしたがそのおびに、学校だけは卒業して見せてくれるだろう。それくらいの誠実は持っているやつだと、ひそかに期待していた様子であった。私は見事に裏切った。卒業する気は無いのである。信頼している者を欺くことは、狂せんばかりの地獄である。それからの二年間、私は、その地獄の中に住んでいた。来年は、必ず卒業します。どうか、もう一年、おゆるし下さい、と長兄に泣訴しては裏切る。そのとしも、そうであった。そのあくるとしも、そうであった。死ぬるばかりの猛省と自嘲じちょうと恐怖の中で、死にもせず私は、身勝手な、遺書と称する一れんの作品に凝っていた。これが出来たならば。そいつは所詮しょせん、青くさい気取った感傷に過ぎなかったのかも知れない。けれども私は、その感傷に、命をけていた。私は書き上げた作品を、大きい紙袋に、三つ四つと貯蔵した。次第に作品の数もえて来た。私は、その紙袋に毛筆で、「晩年」と書いた。その一聯の遺書の、銘題のつもりであった。もう、これで、おしまいだという意味なのである。」

 こんなところがまあ、当時の私の作品の所謂いわゆる、「楽屋裏」であった。この紙袋の中の作品を、昭和八、九、十、十一と、それから四箇年のあいだに全部発表してしまったが、書いたのは、おもに昭和七、八の両年であった。ほとんど二十四歳と二十五歳の間の作品なのである。私はそれからの二、三年間は、人から言われる度に、ただその紙袋の中から、一篇ずつ取り出して与えると、それでよかった。

 昭和八年、私が二十五歳の時に、その「海豹」という同人雑誌の創刊号に発表した「魚服記」という十八枚の短篇小説は、私の作家生活の出発になったのであるが、それが意外の反響を呼んだので、それまで私の津軽訛つがるなまりの泥臭い文章をていねいに直して下さっていた井伏さんは驚き、「そんな、評判なんかになるはずは無いんだがね。いい気になっちゃいけないよ、何かの間違いかもわからない。」

 と実に不安そうな顔をしておっしゃった。

 そうして井伏さんはその後も、また、いつまでも、あるいは何かの間違いかもわからない、とハラハラしていらっしゃる。永遠に私の文章に就いて不安をいだいてくれる人は、この井伏さんと、それからの津軽の生家の兄かも知れない。このお二人は、共にことし四十八歳。私より十一、年上であって、兄の頭は既に禿げて光り、井伏さんも近年めっきり白髪が殖えた。いずれもなかなか稽古けいこがきびしかった。性格も互いにどこやら似たところがある。私は、しかし、この人たちに育てられたのだ。この二人に死なれたら、私はひどく泣くだろうと思われる。

「魚服記」を発表し、井伏さんは、「何かの間違いかもわからない」と言って心配してくれているのに、私は田舎者の図々ずうずうしさで、さらにそのとし「思い出」という作品を発表し、もはや文壇の新人という事になった。そうしてその翌る年には、他のかなり有名な文芸雑誌などから原稿の依頼を受けたりしていたが、原稿料は、あったり無かったり、あっても一枚三十銭とか五十銭とか、ひどく安いもので、当時最も親しく附き合っていた学友などと一緒におんでやでお酒を飲みたくても、とても足りない金額であった。「晩年」という創作集なども出版せられ、太宰という私の筆名だけは世に高くなったが、私は少しも幸福にならなかった。私のこれまでの生涯を追想して、幽かにでも休養のゆとりを感じた一時期は、私が三十歳の時、いまの女房を井伏さんの媒酌でもらって、甲府こうふ市の郊外に一箇月六円五十銭の家賃の、最小の家を借りて住み、二百円ばかりの印税を貯金して誰とも逢わず、午後の四時頃から湯豆腐でお酒を悠々ゆうゆうと飲んでいたあの頃である。誰に気がねもらなかった。しかし、それも、たった三、四箇月で駄目になった。二百円の貯金なんて、そんなにいつまでもあるわけは無い。私はまた東京へ出て来て、荒っぽいすさんだ生活に、身を投じなければならなかった。私の半生は、ヤケ酒の歴史である。

 秩序ある生活と、アルコールやニコチンを抜いた清潔なからだを純白のシーツに横たえる事とを、いつも念願にしていながら、私は薄汚うすぎたない泥酔者として場末の露地をうろつきまわっていたのである。なぜ、そのような結果になってしまうのだろう。それを今ここで、二言か三言で説明し去るのも、あんまりいい気なもののように思われる。それは私たちの年代の、日本の知識人全部の問題かも知れない。私のこれまでの作品ことごとくを挙げて答えてもなお足りずとする大きい問題かも知れない。

 私はサロン芸術を否定した。サロン思想を嫌悪けんおした。要するに私は、サロンなるものに居たたまらなかったのである。

 それは、知識の淫売店いんばいだなである。いや、しかし、淫売店にだって時たま真実の宝玉が発見できるだろう。それは、知識のどろぼう市である。いや、しかし、どろぼう市にだってほんものの金の指環ゆびわがころがっていない事もない。サロンは、ほとんど比較を絶したものである。いっそ、こうとでも言おうかしら。それは、知識の「大本営だいほんえい発表」である。それは、知識の「戦時日本の新聞」である。

 戦時日本の新聞の全紙面に於いて、一つとして信じられるような記事は無かったが、(しかし、私たちはそれを無理に信じて、死ぬつもりでいた。親が破産しかかって、せっぱつまり、見えすいたつらいうそをついている時、子供がそれをすっぱ抜けるか。運命窮まると観じて黙って共に討死さ。)たしかに全部、苦しい言いつくろいの記事ばかりであったが、しかし、それでも、嘘でない記事が毎日、紙面の片隅かたすみに小さく載っていた。いわく、死亡広告である。羽左衛門うざえもんが疎開先で死んだという小さい記事は嘘でなかった。

 サロンは、その戦時日本の新聞よりもまだ悪い。そこでは、人の生死さえ出鱈目でたらめである。太宰などは、サロンに於いて幾度か死亡、あるいは転身あるいは没落を広告せられたかわからない。

 私はサロンの偽善と戦って来たと、せめてそれだけは言わせてくれ。そうして私は、いつまでも薄汚いのんだくれだ。本棚ほんだなに私の著書を並べているサロンは、どこにも無い。

 けれども、私がこうしてサロンがどうのと、おそろしくむきになって書いても、それはいったい何の事だか、一向にわからない人が多いだろうと思われる。サロンは、諸外国に於いて文芸の発祥地だったではないか、などと言って私に食ってかかる半可通が、私のいうサロンなのだ。世に、半可通ほどおそろしいものは無い。こいつらは、十年前に覚えた定義を、そのまま暗記しているだけだ。そうして新しい現実をその一つ覚えの定義に押し込めようと試みる。無理だよ、婆さん。所詮、合いませぬて。

 自分を駄目だと思い得る人は、それだけでも既に尊敬するに足る人物である。半可通は永遠に、洒々然しゃあしゃあぜんたるものである。天才の誠実を誤り伝えるのは、この人たちである。そうしてかえって、俗物の偽善に支持を与えるのはこの人たちである。日本には、半可通ばかりうようよいて、国土を埋めたといっても過言ではあるまい。

 もっと気弱くなれ! 偉いのはお前じゃないんだ! 学問なんて、そんなものは捨てちまえ!

 おのれを愛するがごとく、なんじの隣人を愛せよ。それからでなければ、どうにもこうにもなりゃしないのだよ。

 とこう言うとまた、れいのサロンの半可通どもは、その思想は云々うんぬんと、ばかな議論をはじめるだろう。かえるのつらに水である。やり切れねえ。

 いったい私の言っているサロンとは何の事か。諸外国の文芸の発祥地と言われているサロンと、日本のサロンとは、どんな根本的な差異があるか。皇室または王室と直接のつながりのあるサロンと、企業家または官吏につながっているサロンと、どう違うか。君たちのサロンは、猿芝居さるしばいだというのはどういうわけか。いまここで、いちいち諸君にんでふくめるように説明してお聞かせすればいいのかも知れないが、そんな事に努力を傾注していると、君たちからイヤな色気を示されたりして、太宰もサロンに迎えられ、むざんやミイラにされてしまうおそれが多分にあるので、私はこれ以上の奉仕はごめんこうむる。なあに、いいやつには、言わなくたってちゃんとわかっているのだから。

 私はいま、自分の創作年表とでも称すべき焼け残りの薄汚い手帳のペエジを繰りながら、さまざまの回想にふける。私がはじめて東京で作品を発表した昭和八年から、二十年まで、その十二箇年間、私はあのサロンの連中とはまるっきり違った歩調であるいて来た。これではあの者たちと永遠に溶け合わないのも無理がない。あれは昭和二、三年の頃であったろうか。私がまだ弘前ひろさき高等学校の文科生であって、しばしば東京の兄(この兄はからだの弱い彫刻家で、二十七歳で病死した)のところへ遊びに行ったが、この兄に連れられて喫茶店なるものにはいってみると、そこにはたいていキザに気取った色の白いやさ男がいて、兄は小声で、あれは新進作家の何の誰だ、と私に教え、私はなんてまあ浅墓あさはかな軽薄そうな男だろうとあきれ、つくづく芸術家という種族の人間を嫌悪した。

 私は上品な芸術家に疑惑をいだき、「うつくしい」芸術家を否定した。田舎者の私には、どうもあんなものは、キザで仕様が無かったのである。

 ベックリンという海の妖怪ようかいなどを好んでかく画家の事は、どなたもご存じの事と思う。あの人の画は、それこそ少し青くさくて、決していいものでないけれども、たしか「芸術家」と題する一枚の画があった。それは大海の孤島に緑の葉の繁ったふとい樹木が一本えていて、その樹のかげにからだをかくして小さい笛を吹いているまことにどうも汚ならしいへんな生き物がいる。かれは自分の汚いからだをかくして笛を吹いている。孤島の波打際なみうちぎわに、美しい人魚があつまり、うっとりとその笛の音に耳を傾けている。もし彼女が、ひとめその笛の音の主の姿を見たならば、きゃっと叫んで悶絶もんぜつするに違いない。芸術家はそれゆえ、自分のからだをひた隠しに隠して、ただその笛の音だけを吹き送る。

 ここに芸術家の悲惨な孤独の宿命もあるのだし、芸術の身を切られるような真の美しさ、気高さ、えい何と言ったらいいのか、つまり芸術さ、そいつが在るのだ。

 私は断言する。真の芸術家は醜いものだ。喫茶店のあの気取った色男は、にせものだ。アンデルセンの「あひるの子」という話を知っているだろう。小さな可愛かわいいあひるのひなの中に一匹、ひどくぶざまで醜い雛がまじっていて、皆の虐待と嘲笑ちょうしょうの的になる。意外にもそれは、スワンの雛であった。巨匠の青年時代は、例外なく醜い。それは決してサロン向きの可愛げのあるものでは無かった。

 お上品なサロンは、人間の最も恐るべき堕落だ。しからば、どこの誰をまずまっさきに糾弾すべきか。自分である。私である。太宰治とか称する、この妙に気取った男である。生活は秩序正しく、まっ白なシーツに眠るというのは、たいへん結構な事だが、(それは何としても否定できない魅力である!)しかし、自分ひとり大いに努力してその境地を獲得した途端に、急に人が変って様子ぶった男になり、かねてあんなに憎悪ぞうおしていたサロンにも出入し、いや出入どころか、自分からチャチなサロンを開設し半可通どもの先生になりはしないか。何せどうも、気が弱くてだらしない癖に、相当虚栄心も強くて、ひとにおだてられるとわくわくして何をやり出すかわかったもんじゃない男なのだから。

 私はそのような成行きに対して、極度におびえていた。私がもしサロン的なお上品の家庭生活を獲得したならば、それは明らかに誰かを裏切った事になると考えていた。私は、いやらしいくらいに小心な債務家のようなものであった。

 私は私の家庭生活を、つぎつぎと破壊した。破壊しようとする強い意志が無くとも、おのずから、つぎつぎと崩壊した。私が昭和五年に弘前の高等学校を卒業して大学へはいり、東京に住むようになってから今まで、いったい何度、転居したろう。その転居も、決して普通の形式ではなかった。私はたいてい全部を失い、身一つでのがれ去り、あらたにまた別の土地で、少しずつ身のまわりの品を都合するというような有様であった。戸塚。本所ほんじょ。鎌倉の病室。五反田ごたんだ同朋町どうほうちょう和泉町いずみちょう柏木かしわぎ新富町しんとみちょう。八丁堀。白金三光町しろがねさんこうちょう。この白金三光町の大きな空家あきやの、離れの一室で私は「思い出」などを書いていた。天沼あまぬま三丁目。天沼一丁目。阿佐あさの病室。経堂きょうどうの病室。千葉県船橋。板橋の病室。天沼のアパート。天沼の下宿。甲州御坂峠みさかとうげ。甲府市の下宿。甲府市郊外の家。東京都下三鷹町みたかまち。甲府水門町。甲府新柳町。津軽。

 忘れているところもあるかも知れないが、これだけでも既に二十五回の転居である。いや、二十五回の破産である。私は、一年に二回ずつ破産してはまた出発し直して生きて来ていたわけである。そうしてこれから私の家庭生活は、どういう事になるのか、まるっきり見当もつかない。

 以上挙げた二十五箇所の中で、私には千葉船橋町の家が最も愛着が深かった。私はそこで、「ダス・ゲマイネ」というのや、また「虚構の春」などという作品を書いた。どうしてもその家から引き上げなければならなくなった日に、私は、たのむ! もう一晩この家に寝かせて下さい、玄関の夾竹桃きょうちくとうも僕が植えたのだ、庭の青桐あおぎりも僕が植えたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れていない。一ばん永く住んでいたのは、三鷹町下連雀しもれんじゃくの家であろう。大戦の前から住んでいたのだが、ことしの春に爆弾でこわされたので、甲府市水門町の妻の実家へ移転した。しかるに、移転して三月目にその家が焼夷弾しょういだんで丸焼けになったので、まちはずれの新柳町の或る家へ一時立ち退き、それからどうせ死ぬなら故郷で、という気持から子供二人をかかえて津軽の生家へ来たのであるが、来て二週目に、あの御放送があった、というのが、私のこれまでの浪々生活の、あらましの経緯である。

 私は既に三十七歳になっている。そうしてまたもや無一物の再出発をしなければならなくなった。やっぱり、サロン思想嫌悪の情をもって。

 創作年表とでも称すべき手帳を繰ってみると、まあ、過去十何年間、どのとしも、どの年も、ひでえみじめな思いばかりして来たのが、よくわかる。いったい私たちの年代の者は、過去二十年間、ひでえめにばかりって来た。それこそ怒濤どとうの葉っぱだった。めちゃ苦茶だった。はたちになるやならずの頃に、既に私たちのほとんど全部が、れいの階級闘争に参加し、或る者は投獄され、或る者は学校を追われ、或る者は自殺した。東京に出てみると、ネオンの森である。いわく、フネノフネ。曰く、クロネコ。曰く、美人座。何が何やら、あの頃の銀座、新宿のまあにぎわい。絶望の乱舞である。遊ばなければ損だとばかりに眼つきをかえて酒をくらっている。つづいて満洲事変。五・一五だの、二・二六だの、何の面白くもないような事ばかり起って、いよいよ支那事変しなじへんになり、私たちの年頃の者は皆戦争に行かなければならなくなった。事変はいつまでも愚図愚図つづいて、蒋介石しょうかいせきを相手にするのしないのと騒ぎ、結局どうにも形がつかず、こんどは敵は米英という事になり、日本の老若男女すべてが死ぬ覚悟をきわめた。

 実に悪い時代であった。その期間に、愛情の問題だの、信仰だの、芸術だのと言って、自分の旗を守りとおすのは、実に至難の事業であった。この後だって楽じゃない。こんな具合じゃ仕様が無い。また十何年か前のフネノフネ時代にかえったんでは意味が無い。戦争時代がまだよかったなんて事になると、みじめなものだ。うっかりすると、そうなりますよ。どさくさまぎれに一もうけなんて事は、もうこれからは、よすんだね。なんにもならんじゃないか。

 昭和十七年、昭和十八年、昭和十九年、昭和二十年、いやもう私たちにとっては、ひどい時代であった。私は三度も点呼を受けさせられ、そのたんびに竹槍たけやり突撃の猛訓練などがあり、暁天動員だの何だの、そのひまひまに小説を書いて発表すると、それが情報局に、にらまれているとかいうデマが飛んで、昭和十八年に「右大臣実朝さねとも」という三百枚の小説を発表したら、「右大臣ユダヤジン実朝」というふざけ切った読み方をして、太宰は実朝をユダヤ人として取り扱っている、などと何が何やら、ただ意地悪く私を非国民あつかいにして弾劾しようとしている愚劣な「忠臣」もあった。私の或る四十枚の小説は発表直後、はじめから終りまで全文削除を命じられた。また或る二百枚以上の新作の小説は出版不許可になった事もあった。しかし、私は小説を書く事は、やめなかった。もうこうなったら、最後までねばって小説を書いて行かなければ、ウソだと思った。それはもう理窟りくつではなかった。百姓の糞意地くそいじである。しかし、私は何もここで、誰かのように、「余はもともと戦争を欲せざりき。余は日本軍閥の敵なりき。余は自由主義者なり」などと、戦争がすんだら急に、東条の悪口を言い、戦争責任云々と騒ぎまわるような新型の便乗主義を発揮するつもりはない。いまではもう、社会主義さえ、サロン思想に堕落している。私はこの時流にもまたついて行けない。

 私は戦争中に、東条に呆れ、ヒトラアを軽蔑けいべつし、それを皆に言いふらしていた。けれどもまた私はこの戦争に於いて、大いに日本に味方しようと思った。私など味方になっても、まるでちっともお役にも何も立たなかったかと思うが、しかし、日本に味方するつもりでいた。この点を明確にして置きたい。この戦争には、もちろんはじめから何の希望も持てなかったが、しかし、日本は、やっちゃったのだ。

 昭和十四年に書いた私の「火の鳥」という未完の長編小説に、次のような一節がある。これを読んでくれると、私がさきにもちょっと言って置いたような「親が破産しかかって、せっぱつまり、見えすいたつらい嘘をついている時、子供がそれをすっぱ抜けるか。運命窮まると観じて、黙って共に討死さ。」という事の意味がさらにはっきりして来ると思われる。

 すなわち、

(前略)長火鉢ながひばちへだてて、老母は瀬戸の置き物のように綺麗きれいに、ちんまり坐って、伏目がち、やがて物語ることには、──あれは、わたくしの一人息子で、あんな化け物みたいな男ですが、でも、わたくしは信じている。あれの父親は、ことしで、あけて、七年まえに死にました。まあ、昔自慢してあわれなことでございますが、父の達者な頃は、前橋まえばしで、ええ、国は上州じょうしゅうでございます。前橋でも一流中の一流の割烹店かっぽうてんでございました。大臣でも、師団長でも、知事でも、前橋でお遊びのときには、必ず、わたくしの家に、きまっていました。あのころは、よかった。わたくしも、毎日々々、張り合いあって、身を粉にして働きました。ところが、あれの父は、五十のときに、わるい遊びを覚えましてな、相場ですよ。くずれるとなったら、早いものでした。ふっと気のついた朝には、すっからかん。きれい、さっぱり。可笑おかしいようですよ。父は、みんなに面目ないのですね。そうなっても、まだ見栄みえ張っていて、なあに、おれには、内緒でかくしている山がある。きんの出る山ひとつ持っている、とまるで、子供みたいな、とんでもない嘘を言い出しましてな、男は、つらいものですね、ながねん連れ添うて来た婆にまで、何かと苦しく見栄張らなければいけないのですからね、わたくしたちに、それはくわしく細々こまごまとその金の山のこと真顔になって教えるのです。嘘とわかっているだけに、聞いているほうが、情ないやら、あさましいやら、いじらしいやら、涙が出て来て困りました。父は、わたくしたち、あまり身を入れて聞いていないのに感附いて、いよいよ、むきになって、こまかく、ほんとうらしく、地図やら何やらたくさん出して、一生懸命にひそひそ説明して、とうとう、これから皆でその山に行こうではないか、とまで言い出し、これには、わたくし、当惑してしまいました。まちの誰かれ見さかいなくつかまえて来ては、その金山のこと言って、わたくしは恥ずかしくて死ぬるほどでございました。まちの人たちの笑い草にはなるし、朝太郎は、そのころまだ東京の大学にはいったばかりのところでございましたが、わたくしは、あまり困って、朝太郎に手紙で事情全部を知らせてやってしまいました。そのときに、朝太郎は偉かった。すぐに東京からけつけ、大喜びのふりして、お父さん、そんないい山を持っていながら、なぜ僕にいままで隠していたのです、そんないい事あるんだったら、僕は、学校なんか、ばかばかしい、どうか学校よさせて下さい、こんな家、売りとばして、これからすぐに、その山の金鉱しらべに行こう、と、もう父の手をひっぱるようにしてせきたて、また、わたくしを、こっそりものかげに呼んで、お母さん、いいか、お父さんは、もうさきが長くないのだ、おちぶれた人に、恥をかかせちゃいけない、とわたくしを、きつくしかりました。わたくしも、そう言われて、はじめて、ああそうだったと気がついて、お恥ずかしい、わが子ながら、両手合せて拝みたいほどでございました。嘘、とはっきり知りながら、汽車に乗り、馬車に乗り、雪道歩いて、わたくしたち親子三人、信濃しなのの奥まで、まいりました。いま、思い出しても、せつなくなります。信濃の山奥の温泉に宿をとり、それからまる一年間、あの子は、降っても照っても父のお伴して山を歩きまわり、日が暮れて宿へかえっては、父の言うこと、それは芝居と思えないほど、熱心に聞いて、ふたりで何かと研究し、相談し、あしたは大丈夫だ、あしたは大丈夫だと、お互い元気をつけ合って、そうして寝て、また朝早く、山へ出かけて、ほうぼう父に引っぱりまわされ、さんざ出鱈目の説明聞かされて、それでも、いちいち深くうなずいて、へとへとになって帰ってきました。何もかも、朝太郎のおかげです。父は、山宿で一年、張り合いのある日をつづけることができて、女房、子供にも、立派に体面保って、恥を見せずに安楽なかたを致しました。ええ、信濃の、その山宿で死にました。わしの山は見込みがある、どうだい、身代二十倍になるのだぞ、と威張って、死んでゆきました。まえから、心臓が、ひどく悪かったのです。木枯こがらしのおそろしく強い朝でしてな。あわれな話ですね。けれども、あの子は、見どころあります。それから母子おやこふたりで、東京へ出て、苦労しました。わたくしは、どんぶり持って豆腐いっちょう買いに行くのが、一ばんつらかった。いまでは、どうやら、朝太郎も、皆様のおかげで、もの書いてお金いただけるようになって、わたくしは、朝太郎が、もう、どんな、ばかをしても、信じている。むかし、あれの父をあんなに大事にかばってれたこと思えば、あの子が、ありがたくて、もったいなくて、あの子のことだったら、どんなことがあっても、たとえあれが、人殺ししたって、わたくしは、あれを信じている。あれは、情の深い子です。(後略)

 このような思想を、古い人情主義さ、とか言って、ヘヘンと笑って片づける、自称「科学精神の持主」とは、私は永遠に仕事を一緒にやって行けない。私は戦争中、もしこんなていたらくで日本が勝ったら、日本は神の国ではなくて、魔の国だと思っていた。けれども私は、日本必勝を口にし、日本に味方するつもりでいた。負けるにきまっているものを、陰でこそこそ、負けるぞ負けるぞ、と自分ひとり知ってるような顔でささやいて歩いている人の顔も、あんまり高潔でない。

 私はそのように「日本の味方」のつもりでいたのであるが、しかし時の政府には、やっぱりどうも信用が無かったようである。情報局の注意人物というデマが飛び、私に、原稿を依頼する出版社が無くなってしまった。しみったれた事を言うようであるが、生活費はどんどんあがるし、子供は殖えるし、それに収入がまるで無いんだから、心細いこと限りない。当時は私だけでなく、所謂いわゆる純文芸の人たち全部、火宅の形相を呈していたらしい。しかし、他の人たちにはたいてい書画骨董こっとうなどという財産もあり、それを売り払ってどうにかやっていたらしいが、私にはそんな財産らしいものは何も無かった。これで私が出征でもしたら、家族はひどい事になるだろうと思ったが、どういうわけか、とうとう私には召集令状が来なかった。安易にこんな事は口にしたくないが、神の配慮、という事を思わずにはいられない。私はねばって、とにかく小説を書きとおした。

 戦争成金のほかは、誰しも今は苦しいのだから、自分ひとりの生活苦は言うまいと思って努めて快活のふうを装っていたが、それでも、あまりに心細くて、或る先輩にあてこんな意味の手紙を書いて出した事がある。

 拝啓。この手紙は、あなたに何かお願いする手紙でもないし、また訴えの手紙でもありませんし、また誰かを非難しようとする手紙でも無いのです。私は家の者にも、打ち明けていない事実を、せめて、あなたひとりに知って置いてもらいたくてこの手紙を書くのです。あなたがしかしこの事実を知ったからとて、何をなさって下さるにも及びません。私には、そんな期待は無いのです。ただ、この事実を知って置いて下さったらそれでいいのです。そうしてこの手紙を御一読なさったら、黙って破りてて下さい。お願いします。他の人にもおっしゃらないように。

 私は、いま、自殺という事を考えています。しかし、こらえています。妻子がふびん、というよりは、私は日本国民として、私の自殺が外国の宣伝材料などになってはたまらぬ、また、戦地へ行っている私の若い友人たちが、私の自殺を聞いてどんな気がするか、それを考えて、こらえています。なぜ、自殺の他にみちが無いか。それは、あなたもご存じの筈です。ただ、私には財産が無いので、他の人よりも苦しみが強く来ました。私のことしの収入は、××円です。そうして、いま手許てもとに残っているお金は、××円です。しかし、私は誰からもお金を借りないつもりです。故郷の兄に、よっぽど借金申込みの手紙を出そうかと、思った夜もございましたが、やめにしました。こうなると、糞意地です。私は死ぬる前夜まで、大いに景気のいい顔をしてはしゃいでいるつもりです。そうして、あくまでも小説だけを書いて行きます。しかし、まさか、戦争礼讃らいさんの小説などは書く気はしません。

 たったこれだけの事ですが、あなたに知って置いていただきたいと思います。私の身にも、いつ、どのような事があるかわかりませんから。この手紙には、御返事も何も要りません。御一読後は、ただちに破棄して下さい。以上。

 だいたい、こんな意味の手紙を、その先輩にこっそり出した事がある。愚痴をこぼしてさえ、非国民あつかいを受けなければならなかったのだから、思えば、ひどい時代だった。

 そんな手紙を出して、一箇月ばかり経った頃、私はその先輩と偶然、新宿で出逢であった。私たちは何も言わずに黙って一緒に歩いた。しばらくして、その先輩が言った。

「君のあの手紙を読んだ。」

「そう。すぐ破ってくれましたか。」

「ああ、破った。」

 それだけだった。その先輩もまた、その頃は私以上につらい立場に置かれていたらしい。

 とにもかくにも、そんな生活をいつまでも続けているわけにはいかなかった。何とかして窮迫した生計の血路をひらかなければいけない。

 私は或る出版社から旅費をもらい、津軽旅行を企てた。その頃日本では、南方へ南方へと、皆の関心がもっぱらその方面にばかり集中せられていたのであるが、私はその正反対の本州の北端に向って旅立った。自分の身も、いつどのような事になるかわからぬ。いまのうちに自分の生れて育った津軽を、よく見て置こうと思い立ったのである。

 私は所謂純粋の津軽の百姓として生れ、小学、中学、高等学校と二十年間も津軽で育ちながら、津軽の五つ六つの小都市、町村を知っているに過ぎなかった。中学時代の夏冬の休暇には、自分の生家でごろごろしていて、兄たちの蔵書を手当り次第読みちらし、どこへ旅行しようともしなかったし、また高等学校時代の休暇には、東京にいる彫刻家の、兄のところへ遊びに行き、ほとんど生家に帰らず、東京の大学へはいるようになったら、もうそれっきり、十数年間帰郷しなかったのであるから、津軽という国に就いてはまるで知らないと言ってよかった。私はゲートルを着け、生れてはじめて津軽の国の隅々まで歩きまわってみた。蟹田かにたから青森まで、小さい蒸気船の屋根の上に、みすぼらしい服装で仰向に寝ころがり、小雨が降って来てれてもじっとしていて、蟹田の土産みやげの蟹の脚をポリポリかじりながら、暗鬱あんうつな低い空を見上げていた時の、さびしさなどは忘れ難い。結局、私がこの旅行で見つけたものは「津軽のつたなさ」というものであった。拙劣さである。不器用さである。文化の表現方法の無い戸惑いである。私はまた、自身にもそれを感じた。けれども同時に私は、それに健康を感じた。ここから、何かしら全然あたらしい文化(私は、文化という言葉に、ぞっとする。むかしは文花と書いたようである)そんなものが、生れるのではなかろうか。愛情のあたらしい表現が生れるのではなかろうか。私は、自分の血の中の純粋の津軽気質かたぎに、自信に似たものを感じて帰京したのである。つまり私は、津軽には文化なんてものは無く、したがって、津軽人の私も少しも文化人では無かったという事を発見してせいせいしたのである。それ以後の私の作品は、少し変ったような気がする。私は「津軽」という旅行記みたいな長編小説を発表した。その次には「新釈諸国噺しょこくはなし」という短篇集を出版した。そうして、その次に、「惜別」という魯迅ろじんの日本留学時代の事を題材にした長篇と、「お伽草子とぎぞうし」という短篇集を作り上げた。その時に死んでも、私は日本の作家としてかなり仕事を残したと言われてもいいと思った。他の人たちは、だらしなかった。

 その間に私は二度も罹災りさいしていた。「お伽草子」を書き上げて、その印税の前借をして私たちはとうとう津軽の生家へ来てしまった。

 甲府で二度目の災害をこうむり、行くところが無くなって、私たち親子四人は津軽に向って出発したのだが、それからたっぷり四昼夜かかってようやくの事で津軽の生家にたどりついたのである。

 その途中の困難は、かなりのものであった。七月の二十八日朝に甲府を出発して、大月おおつき附近で警戒警報、午後二時半頃上野駅に着き、すぐ長い列の中にはいって、八時間待ち、午後十時十分発の奥羽おうう線まわり青森行きに乗ろうとしたが、折あしく改札直前に警報が出て構内は一瞬のうちに真暗になり、もう列も順番もあったものでなく、異様な大叫喚と共に群集が改札口に殺到し、私たちはそれぞれ幼児をひとりずつ抱えているのでたちまち負けて、どうやら列車にたどり着いた時には既に満員で、窓からもどこからもはいり込むすきが無かった。プラットホームに呆然ぼうぜんと立っているうちに、列車は溜息のような汽笛を鳴らして、たいぎそうにごとりと動いた。私たちはその夜は、上野駅の改札口の前にごろ寝をした。拡声機は夜明けちかくまで、青森方面の焼夷弾攻撃の模様を告げていた。しかし、とにかく私たちは青森方面へ行かなければならぬ。どんな列車でもいいから、少しでも北へ行く列車に乗ろうと考えて、翌朝五時十分、白河行きの汽車に乗った。十時半、白河着。そこで降りて、二時間プラットホームで待って、午後一時半、さらに少し北の小牛田こごた行きの汽車に乗った。窓から乗った。途中、郡山こおりやま駅爆撃。午後九時半、小牛田駅着。また駅の改札口の前で一泊。三日分くらいの食料を持参して来たのだが、何せ夏の暑いさいちゅうなので、にぎりめしが皆くさりかけて、めし粒が納豆のように糸をひいて、口にいれてもにちゃにちゃしてとても嚥下えんかすることが出来ぬ。小牛田駅で夜を明し、お米は一升くらい持っていたので、そのお米をおむすびと交換してもらいに、女房は薄暗いうちから駅の附近の家をたたき起してまわった。やっと一軒かえてくれた。かなり大きいおむすびが四つである。私はおむすびに食らいついた。がりりと口中で音がした。吐き出して見ると、梅干である。私はその種をみくだいてしまっていた。歯の悪い私が、梅干のあの固い種を噛みくだいたのである。ぞっとした。

 しかし、これでもまだ、故郷までの全旅程の三分の一くらいしか来ていないのである。読者も、うんざりするだろう。あとまたいろいろ悲惨な思いをしたのであるが、もう書かない。とにかく、そんな思いをして故郷にたどりついてみると、故郷はまた艦載機の爆撃で大騒動の最中であった。

 けれども、もう死んだって、故郷で死ぬのだから仕合せなほうかも知れないと思っていた。そうしてまもなく日本の無条件降伏である。

 それから、既に、五箇月ちかくっている。私は新聞連載の長篇一つと、短篇小説をいくつか書いた。短篇小説には、独自の技法があるように思われる。短かければ短篇というものではない。外国でも遠くはデカメロンあたりから発して、近世では、メリメ、モオパスサン、ドオデエ、チェホフなんて、まあいろいろあるだろうが、日本ではことにこの技術が昔から発達していた国で、何々物語というもののほとんど全部がそれであったし、また近世では西鶴さいかくなんて大物も出て、明治では鴎外おうがいがうまかったし、大正では、直哉なおやだの善蔵ぜんぞうだの龍之介りゅうのすけだの菊池寛だの、短篇小説の技法を知っている人も少くなかったが、昭和のはじめでは、井伏さんが抜群のように思われたくらいのもので、最近にいたってまるでもう駄目になった。皆ただ、枚数が短いというだけのものである。戦争が終って、こんどは好きなものを書いてもいいという事であったので、私は、この短篇小説のすたれた技法を復活させてやれと考えて、三つ四つ書いて雑誌社に送ったりなどしているうちに、何だかひどく憂鬱になって来た。

 またもや、八つ当りしてヤケ酒を飲みたくなって来たのである。日本の文化がさらにまた一つ堕落しそうな気配を見たのだ。このごろの所謂「文化人」の叫ぶ何々主義、すべて私には、れいのサロン思想のにおいがしてならない。何食わぬ顔をして、これに便乗すれば、私も或いは「成功者」になれるのかも知れないが、田舎者いなかものの私にはてれくさくて、だめである。私は、自分の感覚をいつわる事が出来ない。それらの主義が発明された当初の真実を失い、まるで、この世界の新現実と遊離して空転しているようにしか思われないのである。

 新現実。

 まったく新しい現実。ああ、これをもっともっと高く強く言いたい!

 そこから逃げ出してはだめである。ごまかしてはいけない。容易ならぬ苦悩である。先日、ある青年が私を訪れて、食物の不足の憂鬱を語った。私は言った。

「嘘をつけ。君の憂鬱は食料不足よりも、道徳の煩悶はんもんだろう。」

 青年は首肯した。

 私たちのいま最も気がかりな事、最もうしろめいたいもの、それをいまの日本の「新文化」は、素通りして走りそうな気がしてならない。

 私は、やはり、「文化」というものを全然知らない、頭の悪い津軽の百姓でしか無いのかも知れない。雪靴をはいて、雪路を歩いている私の姿は、まさに田舎者そのものである。しかし、私はこれからこそ、この田舎者の要領の悪さ、拙劣さ、のみ込みの鈍さ、単純な疑問でもって、押し通してみたいと思っている。いまの私が、自身にたよるところがありとすれば、ただその「津軽の百姓」の一点である。

 十五年間、私は故郷から離れていたが、故郷も変らないし、また、私も一向に都会人らしく垢抜あかぬけていないし、いや、いよいよ田舎臭く野暮やぼったくなるばかりである。「サロン思想」は、いよいよ私と遠くなる。

 このごろ私は、仙台の新聞に「パンドラのはこ」という長篇小説を書いているが、その一節を左に披露して、この悪夢に似た十五年間の追憶の手記を結ぶ事にする。

(前略)あらしのせいであろうか、あるいは、貧しいともしびのせいであろうか、その夜は私たち同室の者四人が、越後獅子えちごじし蝋燭ろうそくの火を中心にして集まり、久し振りで打ち解けた話をかわした。

「自由主義者ってのは、あれは、いったい何ですかね?」と、かっぽれは如何いかなる理由からか、ひどく声をひそめて尋ねる。

「フランスでは、」と固パンは英語のほうでこりたからであろうか、こんどはフランスの方面の知識を披露する。「リベルタンってやつがあって、これがまあ自由思想を謳歌おうかしてずいぶんあばれ廻ったものです。十七世紀と言いますから、いまから三百年ほど前の事ですがね。」と、まゆをはね上げてもったいぶる。「こいつらは主として宗教の自由を叫んで、あばれていたらしいです。」

「なんだ、あばれんぼうか。」とかっぽれは案外だというような顔で言う。

「ええ、まあ、そんなものです。たいていは、無頼漢みたいな生活をしていたのです。芝居なんかで有名な、あの、鼻の大きいシラノ、ね、あの人なんかも当時のリベルタンのひとりだと言えるでしょう。時の権力に反抗して、弱きを助ける。当時のフランスの詩人なんてのも、たいていもうそんなものだったのでしょう。日本の江戸時代の男伊達おとこだてとかいうものに、ちょっと似ているところがあったようです。」

「なんて事だい、」とかっぽれはき出して、「それじゃあ、幡随院ばんずいいん長兵衛ちょうべえなんかも自由主義者だったわけですかねえ。」

 しかし、固パンはにこりともせず、

「そりゃ、そう言ってもかまわないと思います。もっとも、いまの自由主義者というのは、タイプが少し違っているようですが、フランスの十七世紀のリベルタンってやつは、まあたいていそんなものだったのです。花川戸はなかわど助六すけろく鼠小僧ねずみこぞう次郎吉じろきちも、或いはそうだったのかも知れませんね。」

「へええ、そんなわけの事になるますかねえ。」とかっぽれは、大喜びである。

 越後獅子も、スリッパの破れを縫いながら、にやりと笑う。

「いったいこの自由思想というものは、」と固パンはいよいよまじめに、「その本来の姿は、反抗精神です。破壊思想といっていいかも知れない。圧制や束縛が取りのぞかれたところにはじめて芽生える思想ではなくて、圧制や束縛のリアクションとしてそれらと同時に発生し闘争すべき性質の思想です。よく挙げられる例ですけれども、鳩が或る日、神様にお願いした、『私が飛ぶ時、どうも空気というものが邪魔になって早く前方に進行できない。どうか空気というものを無くして欲しい。』神様はその願いを聞きれてやった。しかるに鳩は、いくらはばたいても飛び上る事が出来なかった。つまりこの鳩が自由思想です。空気の抵抗があってはじめて鳩が飛び上る事が出来るのです。闘争の対象の無い自由思想は、まるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので、全く飛翔ひしょうが出来ません。」

「似たような名前の男がいるじゃないか。」と越後獅子はスリッパを縫う手を休めて言った。

「あ、」と固パンは頭のうしろをき、「そんな意味で言ったのではありません。これは、カントの例証です。僕は、現代の日本の政治界の事はちっとも知らないのです。」

「しかし、多少は知っていなくちゃいけないね。これから、若い人みんなに選挙権も被選挙権も与えられるそうだから。」と越後は、一座の長老らしく落ちつき払った態度で言い、「自由思想の内容は、その時、その時で全く違うものだと言っていいだろう。真理を追究して闘った天才たちは、ことごとく自由思想家だと言える。わしなんかは、自由思想の本家本元は、キリストだとさえ考えている。思いわずらうな、空飛ぶ鳥を見よ、かず、刈らず、蔵に収めず、なんてのは素晴らしい自由思想じゃないか。わしは西洋の思想は、すべてキリストの精神を基底にして、或いはそれを敷衍ふえんし、或いはそれを卑近にし、或いはそれを懐疑し、人さまざまの諸説があっても結局、聖書一巻にむすびついていると思う。科学でさえ、それと無関係ではないのだ。科学の基礎をなすものは、物理界に於いても、化学界に於いても、すべて仮説だ。肉眼で見とどける事の出来ない仮説から出発している。この仮説を信仰するところから、すべての科学が発生するのだ。日本人は、西洋の哲学、科学を研究するよりさきに、まず聖書一巻の研究をしなければならぬ筈だったのだ。わしは別に、クリスチャンではないが、しかし日本が聖書の研究もせずに、ただやたらに西洋文明の表面だけを勉強したところに、日本の大敗北の真因があったと思う。自由思想でも何でも、キリストの精神を知らなくては、半分も理解できない。」(中略)

「十年一日の如き、不変の政治思想などは迷夢に過ぎない。キリストも、いっさい誓うな、と言っている。明日の事を思うな、とも言っている。実に、自由思想家の大先輩ではないか。きつねには穴あり、鳥には巣あり、されど人の子にはまくらするところ無し、とはまた、自由思想家の嘆きといっていいだろう。一日も安住を許されない。その主張は、日々にあらたに、また日にあらたでなければならぬ。日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を罵倒ばとうしてみたって、それはもう自由思想ではない。それこそ真空管の中の鳩である。真の勇気ある自由思想家なら、いまこそ何をいても叫ばなければならぬ事がある。天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。古いどころか詐欺だった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。十年前の自由と、今日の自由とその内容が違うとはこの事だ。それはもはや、神秘主義ではない。人間の本然の愛だ。アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの真の自由の叫びを認めてくれるに違いない。」(後略)

底本:「グッド・バイ」新潮文庫、新潮社

   1972(昭和47)年730日発行

   1985(昭和60)年71529

初出:「文化展望」

   1946(昭和21)年4月号

入力:土屋隆

校正:田中敬三

2009年23日作成

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