西洋人情話英国孝子ジョージスミス之伝
三遊亭圓朝
鈴木行三校訂・編纂



     一


 御免をこうむりまして申上げますお話は、西洋人情噺にんじょうばなしと表題を致しまして、英国えいこく孝子こうしジョージ、スミスの伝、これを引続いて申上げます。外国あちらのお話ではどうもわたくしの方にも出来かねます。又お客様方にお分りにくいことが有りますから、地名人名を日本にほんにしてお話を致します。英国のリバプールと申しまする処で、英国いぎりす竜動ろんどんより三時間で往復の出来る処、日本にっぽんで云えば横浜のような繁昌はんじょうな港で、東京とうけいで申せば霊岸島れいがんじま鉄砲洲てっぽうずなどの模様だと申すことで、その世界に致してお話をします。スマイル、スミスと申しまする人は、彼国あちらで蒸汽の船長でございます。これを上州じょうしゅう前橋まえばし竪町たつまち御用達ごようたし清水助右衞門しみずすけえもんと直してお話を致します。其の子ジョージ、スミスを清水重二郎じゅうじろうという名前に致しまして、其の姉のマアリーをおまきと云います。エドワルド、セビルという侠客おとこだてがございますが、これを江戸屋えどや清次郎せいじろうという屋根屋の棟梁とうりょうで、侠気おとこぎな人が有ったというお話にします。又外国あちらでは原語でございますとジョン、ハミールトンという人が、ナタンブノルという朋友ともだちの同類と、かのスマイル、スミスを打殺うちころしまして莫大ばくだいの金を取ります。このナタンブノルを井生森又作いぶもりまたさくと致しジョン、ハミールトンを前橋の重役で千二百石取りました春見丈助利秋はるみじょうすけとしあきという者にいたしてお話を此方こちらのことに直しましただけの事で、原書をお読み遊ばした方は御存じのことでございましょうが、これは或る洋学先生がわたくしに口移しに教えて下すったお話を日本にほんの名前にしておやわらかなお話にいたしました。そのおつもりでお聴きの程を願います。徳川家が瓦解がかいになって、明治四五年しごねんの頃大分だいぶ宿屋が出来ましたが、外神田松永町そとかんだまつながちょう佐久間町さくまちょうあの辺には其の頃大きな宿屋の出来ましたことでございますが、其の中に春見屋はるみやという宿屋を出しましたのが春見丈助という者で、表構おもてがまえ宏高こうこうといたして、奥蔵おくぐらがあって、奉公人も大勢使い、実にたいした暮しをして居ります。娘が一人有って、名をおいさと申します。これはあちらではエリザと申しまするのでお聞分きゝわけを願います。十二歳になって至って親孝行な者で、その娘を相手にして春見丈助は色々の事に手出しを致したが、皆失敗しくじって損ばかりいたし、ようように金策を致して山師やましおどした宿屋、実にあぶない身代で、お客がなければ借財方しゃくざいかたからは責められまするし、月給をらぬから奉公人はいとまを取って出ます、ついにはお客をすることも出来ません、たまにお客があれば機繰からくり身上しんしょうゆえ、客から預かる荷物を質入しちいれにしたり、借財方に持ってかれますような事でございますから、客がぱったり来ません。丁度十月二日のことでございます。歳はゆかぬが十二になるおいさという娘が、親父おやじ身代しんだいを案じましてくよ〳〵と病気になりましたが、医者を呼びたいと思いましても、診察料も薬礼やくれいも有りませんから、い医者は来て呉れません。幸い貯えて有りました烏犀角うさいかくを春見がしきり定木じょうぎの上で削って居ります所へ、夕景に這入はいって来ました男は、矢張やはり前橋侯の藩でごく下役でございます、井生森又作という三十五歳に相成あいなりましてもいまだ身上みのうえさだまらず、怪しいなり柳川紬やながわつむぎあわせ一枚で下にはシャツを着て居りますが、羽織も黒といえばていいけれども、紋の所が黒くなって、黒い所は赤くなって居りますから、黒紋の赤羽織といういやな羽織をまして兵児帯へこおび縮緬ちりめんかと思うと縮緬呉絽ちりめんごろうで、元は白かったが段々鼠色になったのをしめ着て、少し前歯の減った下駄に、おまけに前鼻緒まえばなおゆるんで居りますから、親指でまむしこしらえて穿き土間から奥の方へ這入って来ました。

又「誠にしばらく」

丈「いや、これは珍らしい」

又「誠に存外の御無音ごぶいん

丈「これはどうも」

又「一寸ちょっとうかゞわなけりゃならんのだが、少し仔細しさい有って信州へ行って居りましたが、長野県ではおおきに何ももぐれはまに相成って、致し方なく、東京までは帰って来たが、致方いたしかたがないから下谷金杉したやかなすぎ島田久左衞門しまだきゅうざえもんという者の宅に居候いそうろうの身の上、尊君そんくんにお目にかゝりたいと思って居て、今日きょうはからず尋ね当りましたが、どうもたいした御身代で、お嬢様も御壮健でございますか」

丈「はい、丈夫でいるよ、貴公もよく来てくれたなア」

又「いやどうも、成程これだけの構えでは奉公人なども大勢置かんならんねえ」

丈「いや奉公人も大勢置いたが、宿屋もあわんから奉公人にはいとまを出して、身上しんしょうを仕舞おうと思ってるのさ」

又「はてね、どういう訳で」

丈「さア色々仔細有って、実に負債ふさいでな、どうも身代が追付おっつかぬ、ずどうあっても身代限しんだいかぎりをしなければならぬが、身代限をしても追付かぬことがある」

又「そりゃア困りましたな、ついちゃア僕がそれ君にお預け申した百金は即刻御返金を願いたい、すぐに返しておくんなさえ」

丈「百円今こゝには無い」

又「無いと云っては困ります、僕が君にあざむかれた訳ではあるまいが、これをこうすればあゝなる、この機械をうすれば斯ういう銭儲ぜにもうけがあると、貴君きくんおっしゃり方がまことしやかで、誠に智慧ちえのある方の云うことだから、間違いはなかろうと思って、懇意の所から色々才覚をして出した所が目的がはずれてしまって仕方がないが、百円の処は、是だけは君がどうしても返して呉れなければ、僕の命の綱で、只今くの如き見る影もない食客しょっかくの身分だから、どうかお察し下さい」

丈「返して呉れと云っても仕方がないわ、それに此の節は勧解沙汰かんかいざたが三件もあり、裁判所沙汰が二件もあるし、それに控訴もあるような始末だから、何と云っても仕方がない」

又「裁判沙汰がとお有ろうが八つ有ろうが、僕の知ったことではない、相済まぬけれども是だけの構えを一寸ちょっと見てもたいしたものだ、それに外を廻って見ても、又座敷で一寸茶を入れるにも、それその銀瓶ぎんびんがあって、其のほか、諸道具といい大した財産だ、あの百金は僕の命の綱、これがなければうにもうにもほうが付かぬ、君の都合は僕は知らないから、此の品を売却しても御返金を願う」

丈「この道具も皆抵当になっているから仕方がないわさ」

又「御返金がならなければむを得んから、旧来御懇意の君でも勧解かんかいへ持出さなければならぬが、どうも君を被告にして僕が願立ねがいたてるというのははなはだ旧友のよしみにもとるから、したくはないが、よんどころない訳だ」

丈「今と云っても仕方が無いと申すに」

又「はて、是非とも御返金を願う」

 と云って坐り込んで、又作も今身代限しんだいかぎりになる訳でいると云うから、身代限りにならぬうちに百円取ろうとする。春見は困り果てゝ居ります所へ入って来ましたのは、前橋竪町の御用達の清水助右衞門という豪家ごうかでございます。此の人も色々そこなってそんをいたして居りますが、漸々よう〳〵金策を致しまして三千円持って仕入れに参りまして、春見屋へ来まして。

助「はい、御免なさいまし、御免下さいまし」

丈「どなたか知らぬが、用があるならずっと此方こっちへ這入っておくんなさい」

助「御免をこうむります、誠に御無沙汰しました、助右衞門でございます」

丈「おゝ〳〵、どうもこれはなつかしい、久々で逢った、まア〳〵此方こっちへ、いつも壮健で」

助「誠に存外御無沙汰致しましたが、貴方様あなたさまにも何時いつもお変りなく、一寸ちょっと伺いたく思いやすが、何分にもと訳あって取紛とりまぎれまして御無沙汰致しましたが、段々承れば宿屋店やどやみせをお出しなすったそうで、世界も変れば変るもので、春見様が宿屋になって泊り客の草履ぞうりをお直しなさるような事になって、誠においたわしいことだ、それを思えば助右衞門などは何をしてもい訳だと思って、せがれや娘に意見を申して居ります、旦那様もお身形みなりが変りお見違みちげえ申すようになりました、誠にまアあんたもおふけなさいました」

丈「こう云う訳になって致方いたしかたがない、前橋の方も尋ねたいと思って居たが、何分貧乏暇なしで御無沙汰になった、よく来た、どうして出て来たのだ」

助「はい、わしも人に損を掛けられて仕様がねい、何かすべいと思っていると、段々聞けば県庁が前橋へ引けるという評判だから、此所こゝ取付とりつかなければなんねいから、洋物屋ようぶつやをすれば、前には唐物屋とうぶつやと云ったが今では洋物屋と申しますそうでござりやすが、屹度きっと当るという人が有りますから、此処こゝ一息ひといき吹返ふきかえさなければなんねいと思って、田地でんじからそれにまア御案内の古くはなったが、土蔵を抵当にしまして、漸々よう〳〵のことで利の食う金を借りて、三千円資本もとでを持って出て参ったでがんすから、宿屋へ此の金を預けて仕入しいれをするのだが、滅多にねえから、馴染なじみもねえ所へ預けるのも心配しんぺえだから、身代の手堅い処がと、段々かんげえたところが、春見様が宿屋店やどやみせを出しておいでなさると云うから、買出かいだしするにも安心とかんげえてまいりました、当分買出しにきますまで、どうか御面倒でも三千円お預かり下さるように願います」

丈「成程左様か」

 と話をしていると、井生森又作は如才じょさいない狡猾こうかつな男でございますから、是だけの宿屋に番頭も何もいないで、貧乏だと悟られて、三千円の金を持って帰られてはいけないと思って、横着者おうちゃくものでございますからぐに羽織を脱いでそれへ出てまいり。

又「お初にお目に懸りました、手前は当家の番頭又作と申すもので、旦那から承わって居りましたが、ようこそおでゞ、此のとも幾久しくよろしゅう願います、えゝ当家も誠に奉公人も大勢居りましたが、女共を置きましたところが何かぴら〳〵なまめいてお客が入りにくいから、皆一同にいとまを出して、飯焚男めしたきおとこも少々訳が有ってひまを出しまして、わたくし一人いちにんに相成りました、どうかお荷物をお預けなすったら、何は久助きゅうすけ何処どこへ行ったな」

助「横浜でも買出しをして、それから東京でも買出しをして、遅くもどうかまア十一月中頃までにけえろうと、こう心得まして出ました」

丈「成程、それでは兎も角も三千円の金を確かに預かりましょう」

助「きましては、誠に斯様かような事を申しては済みませんが、わしの身に取っては三千円は実にたいした金で、今はでかい損をしたあかつきのことで、此の三千円は命の綱で大事な金でがんすから、此方こちらにお預け申して、さア旦那様を疑ぐる訳じゃ有りませんが、どうか三千円確かに預かった、入用にゅうようの時には渡すというあずかり証文を一本御面倒でも戴きたいもので」

丈「成程これはお前の方で云わぬでも当然の事で、私の方で上げなければならん、只今書きましょう」

 と筆を取ってきん三千円確かに預かり置く、要用よう〳〵の時は何時なんどきでも渡すという証文を書いて、有合ありあわした判をぽかりっとして、

丈「これでいかえ」

助「誠に恐入ります、これでもう大丈夫」

 とこれを戴いて懐中物の中へ入れます。紙入かみいれも二重になって居て大丈夫なことで、紙入も落さんようにして、

助「大宮から歩いて参りまして草臥くたびれましたから、どうかお湯を一杯戴きたいもので」

又「誠に済みませんが、〓(「※」は「「箍」で下「手へん」のかわりに「木へん」をあてる」)ねましてお湯を立てられません、それに奉公人が居りませんから、つい立てません、相済みませんが、此のきに温泉がありますから、どうかそれへおでなすって下さい」

助「温泉というと伊香保いかほや何かの湯のような訳でがんすか」

又「なアに桂枝けいし沃顛よじいむという松本先生が発明のお薬が入って居りまして、これは繁昌はんじょうで、其の湯に入ると顔が玉のように見えると云うことでございます」

助「東京へは久しぶりで出てまいって、それに又様子が変りましたな、どうも橋が石で出来たり、かわらうちが出来たり、方々ほう〴〵が変って見違えるように成りました、その温泉は何処どこらでがんすか」

又「此処こゝをおでになりまして、向うのかどふらふが立って居ります」

助「なんだ、ぶら〳〵わしが歩くか」

又「なアに西洋床せいようどこが有りまして、有平あるへい見たような物が有ります、その角に旗が立って居りますから、彼処あすこが宜しゅうございます」

助「わしはこれまげがありますから、髪もって来ましょうかねえ」

又「行って入らっしゃいまし、残らず置いて入らっしゃいまし」

丈「証書の入った紙入を持って行って、板の間に取られるといけないよ」

助「板の間に何が居りますか」

丈「なアに泥坊がいるから取られてはいけん」

助「これはまアわしが命の綱の証文だから、これは肌身離されません」

主「それでも湯に入るのに手に持ってはけないだろう」

助「事にったら頭へ縛り付けて湯に入ります、行ってめえります、左様なら」

又「いっていらっしゃいまし……とうとう出掛けたが、是は君、えゝどうも、富貴ふうき天に有りと云うが、不思議な訳で、君は以前お役柄やくがらで、元が元だから金を持って来ても是程に貧乏と知らんから、そこで三千円という大金を此の苦しい中へ持って来て、まとまった大金が入るというのは実に妙だ、それもまあだ君にお徳が有るのさ、ぐ其の内を百金御返金を願う」

丈「これさ、今持って来たばかりでひどいじゃアないか」

又「此の内百金僕に返しても、此のかねは一に持ってくのじゃない、追々おい〳〵安い物が有れば段々に持って往く金だから、其のうちに君が才覚してつぐのえば宜しい、僕には命代いのちがわりの百円だ、返し給え」

丈「それじゃア此の内から返そう」

 と百円づゝみになって居るのを渡します。さて渡すと金が懐へ入りましたから、気が大きくなり

又「どうだい、番頭の仮色こわいろつかって金を預けさせるようにした手際てぎわは」

 まア愉快というので、お酒をべて居りますとは清水助右衞門は少しも存じませんから、四角よつかどへまいりまして見ると、西洋床というのは玻璃張がらすばり障子しょうじが有って、前に有平あるへいのような棒が立って居りまして、前には知らない人がお宮と間違えてお賽銭さいせんを上げて拝みましたそうでございます。助右衞門は成程有平の看板がある、是だなと思い、

助「御免なさいまし、〳〵、〳〵、此処こちら髪結床かみゆいどこかね」

 中床なかどこさんがひげを抜いて居りましたが、

床「なんですえ、広小路ひろこうじの方へくのなら右へおでなさい」

助「髪結床は此方こちらでがんすか」

床「両国の電信局かね」

助「こゝは、髪結う所か」

 と云っても玻璃障子がらすしょうじで聞えません。

床「何ですえ」

助「髪を結って貰いたえもんだ」

床「へいおはいんなさい、表の障子を明けて」

助「はい御免、でけい鏡だなア、髪結うかねえ」

床「此方こちらは西洋床ですから旧弊頭きゅうへいあたまりません…おや、あなたは前橋の旦那ですねえ」

助「誰だ、何うしてわしを知っているだ」

床「わっしやア廻りに歩いた文吉ぶんきちでございます」

助「おゝそうか、文吉か、見違みちがえるように成った、もうどうも成らなかったが辛抱するか」

文「大辛抱おおしんぼうでございます旦那どうもねえ、前橋にいる時には道楽をして、若い衆の中へ入って悪いことをしたり何かして御苦労を掛けましたから、書ければ一寸ちょっと郵便の一本も出すんでげすが、何うも人を頼みにくのもきまりが悪くて、存じながら御無沙汰をしました、く出ておでなすった、東京見物ですかえ」

助「なアに、当時はおれも損をして商売替しょうべいげえをしべいと思って、唐物とうぶつを買出しに来たゞが、馴染なじみが少ないから横浜へ往ってちっとべい買出しをしべいと思って東京でも仕入れようと思って出て来た」

文「へい、商売替しょうばいがいですか、洋物ようぶつうがすねえ、これからひらけるのだそうでげすなア、斬髪ざんぱつになってしまえば、香水こうずいなども売れますぜ、おりなさい結構でげすな、それに前橋へ県が引けると云うからそうなれば、福々ふく〳〵ですぜ、宿屋は何処どこへお泊りです」

助「馬喰町ばくろちょうにも知った者は有るが、うちを忘れたから、春見様が丁度彼所あすこに宿屋を出して居るから、今着いて荷を預けて湯にいりに来た」

文「んでげす、春見へ、彼処あすこはいけません、いけませんよ」

助「いかねえって、どうしたんだ」

文「あれは大変ですぜ、身代限りになり懸って、裁判所沙汰が七八つとか有ると云って、奉公人にもなんにも給金をらないから、みんな出て行ってしまって、客の荷でも何でも預けるとぐに質に入れたりなにかするから、泊人とまりてはございません、何か預けるといけませんよ」

助「それは魂消たまげた、春見様は元御重役だぜ」

文「御重役でもなんでも、今はずう〴〵しいのなんて、米屋でも薪屋まきやでも、魚屋でも何でも、物を持ってく気づかいありません」

助「そりゃア知んねえからなア」

文「何か預けた物がありますか」

助「有るってえって、命と釣替つりげえの」

 と云いながら出に掛ったが、玻璃がらすでトーンと頭をぶっつけて、あわてるから表へ出られやしません。

文「玻璃戸が閉っていて外が見えても出られませんよ、怪我けがをするといけませんよ」

助「なに此のまゝではられない」

 と云うので取って返して来て、がらりと明けて中へ這入って。

助「御免なせえまし」

 と土間から飛上って来て見ると、其処そこらに誰も居りませんから、つか〳〵と奥へきますと、奥で二人で灯火あかりけて酒を飲んでいたが、此方こちらも驚いて。

丈「やアお帰りか」

助「先刻さっきお預け申しました三千円の金を、たった今ぐにお返しを願います」

 と云うから番頭驚いて。

又「あなたは髪も結わず、湯にもお入りなさらんで何うなさいました」

助「髪も湯も入りません、今横浜に安い物が有るから、今晩のうちに往ってらなければならんから、直ぐにくから、どうか只今お預け申しましたかばんを証書とお引換ひきかえにお渡しを願います」

 と紙入から書付を出して春見の前へ突付けて。

助「どうか三千円お戻しを願います」

丈「それはいが、まア慌てちゃいけん、横浜あたりへ往って、あの狡猾世界こうかつせかいでうか〳〵三千円の物を買えば屹度きっと損をするから、慌てずにそういう物があるか知らぬけれども、是から往って物を見て値を付けて、そこで其の内を五百円買うとか二百円買うとか仕なければ、もとより慣れぬ商売の事だから、慌てちゃアいかん、何ういう訳だかまアゆっくりと昔話も仕たいから、まアとまんなさい」

又「只今主人の申します通り、横浜は狡猾な人の多く居ります所だから、損をするのはきまって居りますゆえ、三千円一度に持って往って損をするといけないから、まア〳〵今晩はゆるりとお泊りなさいまし、して明日みょうにち十二時頃からおでなすって、品物を見定めて、金子も一時いちじに渡さずに、徐々そろ〳〵持って往って、追々とお買出しをなすった方が宜しゅうございます」

助「それは御尤様ごもっともさまでございますが、親切な確かな人に聞いた事でございます、今夜の内に何うしても斯うしても横浜までかなければ成らぬ、売れてしまわぬ前にわしけば安いというので、確かなものに聞きました、どうかお願いでございますからお返しなすって下せい、成程文吉の云った通り是だけのでかうちに奉公人が一人も居ねいのは変だ」

丈「何を」

助「へい、なに三千円お返し下さい」

丈「返しても宜しいけれどもそんなに慌てゝ急がんでもいじゃないか、まず其の内千円も持って行ったらかろう」

助「へい急ぎます、金がなければならぬ訳でがんすから、何うかお渡し下さい」

 と助右衞門は何うしても聞き入れません。こゝが妙なもので、三千円のうち、当人に内々ない〳〵で百円使い込んでるとこでございますから、春見のいう言葉が自然におど付きますから、此方こちら猶更なおさら心配して、

助「さアどうかお返しなすって下せえ、今預ったべいの金だから返すことが出来ないことはあんめい」

丈「金は返すにはきまって居る事だから返すが、何ういう訳だか慌てゝ帰って来たが、お前が損をするとくないからそれを心配するのだ」

又「只今主人のいう通り、慌てずにゆっくりお考えなさい」

助「黙っておでなせい、あんたの知ったことじゃアない、三千円の金は通例の金じゃアがんせん、家蔵いえくらを抵当にして利の付く金を借りて、三千円持ってまいります時、ばゞあせがれがおとっさん慣れないことをして又損をしやすと、今度は身代限りだから駄目だ、した方がかろうと云うのを、なアにおれも清水助右衞門だ、確かに己が儲けるからと云って、わしが難かしい才覚を致してまいった三千円で、私が命の綱の金でがんすから、損を仕ようが、品物を少なく買おうが多く買出ししようが私の勝手だ、あなた方の口出しする訳じゃねえから、どうか、さア、どうか返して下さい」

丈「今は此処こゝにない蔵にしまって有るから待ちなさい」

 と云いながらこうとすると逃げると思ったから、つか〳〵と進んで助右衞門が春見の袖にぴったりとすがって放しませんから。

丈「これ何をする、これさ何をするのだ」

助「申し、春見様、わしが商法をしまして是で儲かれば、貴方あなたの事だからそりゃア三百円ぐらいは御用達ごようだてますが、今は命より大事の三千円の金だからそれを返して下さらなけりゃア国へけえれません」

 と云うので、一生懸命に袖へ縋られた時には、是は自分の身代の傾いた事を誰かに聞いたのだろう、罪な事だが是非に及ばん、今此の三千円が有ったら元の春見丈助になれるだろうと、有合ありあわせたけやき定木じょうぎを取って突然いきなり振向くとたんに、助右衞門の禿げた頭をポオンと打ったから、頭が打割ぶちわれて、血は八方へ散乱いたしてたっ一打ひとうちでぶる〳〵と身を振わせて倒れますと、井生森又作はひどい奴で、人を殺して居る騒ぎの中で血だらけの側にありました、三千円の預り証文をちょろりとふところへ入れると云う。これがお話の発端でございます。


     二


 清水助右衞門は髪結かみゆい文吉の言葉を聞き、顔色変えて取ってかえし、三千両の預り証書を春見の前へ突き出し、返してくれろと急の催促に、丈助は其のうちすでに百円使い込んでるから、あとの金は残らず返すから、これだけ待ってくれろと云えば仔細は無かったのだが、此の三千円の金が有ったなら、元の如く身代も直り、家も立往たちゆくだろう、又娘にも難儀を掛けまいと、むら〳〵と起りました悪心から致して、有合ありあ定木じょうぎをもって清水助右衞門を打殺うちころす。側にいた井生森又作は、そのどさくさまぎれに右三千円の預り証書を窃取ぬすみとるというお話は、前日お聞きになりました所でござりますが、此の騒ぎを三畳の小座敷で聞いて居りましたのは、当年十二歳に相成るおいさと云う孝行な娘でございますから、お父様とっさまなさけない事をなさる、と発明な性質ゆえ、袖を噛んで泣き倒れて居ります。春見は人が来てはならんと、助右衞門の死骸を蔵へ運び、葛籠つゞらの中へ入れ、のりらんようにこもで巻き、すっぱり旅荷のようにこしらえ、木札きふだを附け、い加減の名前を書き、井生森に向い。

丈「金子を三百円やるから、どうか此の死骸を片附ける工風くふうはあるまいか」

又「おっと心得た、僕の縁類えんるい佐野さのにあるから、佐野へ持って往って、山の中の谷川へ棄てるか、又は無住むじゅうの寺へでも埋めれば人に知れる気遣きづかいはないから心配したもうな」

 と三百円の金を請取うけとり、前に春見から返して貰った百円の金もあるので、又作は急に大尽だいじんに成りましたから、心勇んで其の死骸をかつぎ出し、荷足船にたりぶねに載せ、深川扇橋ふかがわおうぎばしから猿田船やえんだぶねの出る時分でございますから、此の船に載せて送る積りで持ってきました。さてお話二つに分れまして、春見丈助は三千円の金が急に入りましたから、借財方しゃくざいかたの目鼻を附け、奉公人を増し、質入物しちいれものを受け出し、段々景気が直って来ましたから、お客も有りますような事で、どんどと十月から十二月まで栄えて居りました。此方こちらは前橋竪町の清水助右衞門のせがれ重二郎や女房は、助右衞門の帰りの遅きを案じ、何時いつまで待っても郵便一つ参りませんので、母は重二郎に申付もうしつけ、お父様とっさまの様子を見て来いと云うので、今年十七歳になる重二郎が親父おやじを案じて東京へ出てまいり、神田佐久間町の春見丈助の門口かどぐちへ来ますと、二階には多人数たにんずのお客が居りますから、女中はばた〳〵廊下をけて居ります。

重「御免なせい〳〵、〳〵」

女「はい入らっしゃいまし、まア此方こちらへおあがんなさいまし」

重「春見丈助様のお宅は此方でございやすか」

女「はい春見屋は手前でございますが、何方どちらからいらっしゃいました」

重「ひえ、わしは前橋竪町の清水助右衞門のせがれでござりやすが、親父おやじが十月国を出て、たし此方こちらへ着きやんした訳になって居りやんすがいまだになん便たよりもございませんから、心配して尋ねてまいりましたが、塩梅あんべいでも悪くはないかと、案じて様子を聞きにまいりましたのでがんすと云って、どうかお取次を願いていもんです」

女「左様でございますか、少々お控えを願います」

 と奥へ入り、しばらくして出てまいり。

女「お前さんねえ、只今おっしゃった事を主人へ申しましたら、そう云うお方は此方こちらへはいらっしゃいませんが、門違かどちがいではないかとの事でございますよ」

重「なんでも此方へ来ると云ってうちを出やんしたが…此方へはねえですか」

女「はい、おではございません宿帳にも附いて居りません」

重「はてねえ、うした事だかねえ、左様なら」

 と云いながら出ましたが、ほかに尋ねるあてもなく、途方に暮れてぶら〳〵と和泉橋いずみばしもとまでまいりますと、向うから来たのは廻りの髪結い文吉で、前橋にいた時分から馴染なじみでございますから。

文「もし〳〵其処そこへおでなさるのは清水の若旦那ではありませんか」

重「はい、おや、やア、文吉かえ」

文「誠にお久し振でお目にかゝりましたが、見違みちげえるように大きくお成んなすったねえ、わっちが前橋に居りやした時分には、大旦那には種々いろ〳〵御厄介ごやっかいになりまして、余り御無沙汰になりましたから、郵便の一つも上げてえと思っては居りやしたが、書けねえ手だもんだから、つい〳〵御無沙汰になりやした、此間こないだとっさんが出ていらっしゃいやしたから、お前さんも東京を御見物に入らしったのでございやしょう」

重「親父おやじの来たのを何うしてお前は知っているだえ」

文「へい、先々月お出でなすって、春見屋へ宿をお取んなすったようで」

重「うちへもそう云って出たのだが、あんま音信おとずれがないから何処どこへ往ったかと思っているんだよ」

文「なに春見屋でねえって、そんな事はありやせん、前々月せん〳〵げつの二日の日暮方ひくれかたわっち海老床えびどこという西洋床を持って居りますが、其処そこへ旦那がおでなすったから、久し振でお目にかゝり、何処どこへお宿をお取りなさいましたと云うと、春見屋へ宿を取り、買出しをしに来たと仰しゃるから、それはとんでもない事をなすった、あれは身代限しんだいかぎりになり掛っていてお客の金などを使い込み、ふてい奴でございます、大きな野台骨やたいぼねを張っては居りますが、月給を払わないもんだから奉公人も追々おい〳〵減ってしまい、蕎麦屋でも、魚屋でも勘定をしねえから寄附よりつく者はねえので、とんだ所へお泊りなすったと云うと、旦那が権幕けんまくを変えて、駈け出しておでなさったが、それ切りお帰りなさらないかえ」

重「国を出た切りけえらねえから心配しんぺいして来たのだよ」

文「それは変だ、わしが証拠人だ、春見屋へ往って掛合ってあげやしょう旦那は来たに違いねえんだ、春見屋は此の頃様子が直り、滅法景気がくなったのは変だ」

重「文吉、われ一緒に往って、しっかり掛合ってくれ」

文「さアおでなさい」

 と親切者でございますゆえ、先に立って春見屋へ参り。

文「此間こないだしばらく、あの清水の旦那が此方こちらへ泊ったのはわっちたしかに知ってるが、先刻さっき此の若旦那が尋ねて来たら、ねえと云ったそうだから、また来やしたが、此の文吉が証拠人だ、なんでも旦那は入らしったに違いないから、お取次を願います」

女「はい一寸ちょっと承って見ましょう」

 と奥へまいり、此の事を申すと、春見はぎっくり胸に当りましたが、素知らぬ顔にもてなして、此方こっちへと云うので、女中が出てまいり、

女「まア、お通りなさいまし」

 と云うから、文吉が先に立ち、重二郎を連れて奥へ通りました。

丈「さア〳〵此方こちらへお這入はいり」

重「誠に久しくお目にかゝりませんでございました」

丈「どうも見違えるように大きくおなりだねえ、今女どもが取次をしたが、新参で何も心得んものだから知らんが、おとっさんは前々月せん〳〵げつの二日に一寸ちょっと私の所へおでになったよ」

重「左様でございますか、先刻せんこくお女中が此方こちらねえと云いましたから、はてなと思いやしたのは、うちを出る時は春見様へ泊り、遅くも十一月の末には帰ると云いましたのが、十二月になっても便たよりがありやせんから、母も心配して、見て来るがいというので、わしが出て参りまして」

丈「成程、だが今云う通り一寸ちょっとお出でになり、どう云う訳だか取急ぎ、横浜へ買出しにくと云って、こうとなさるから、久振ひさしぶりで逢って懐かしいから、今晩一泊なすって緩々ゆる〳〵お話もしたいとめても聞入れず、振り切って横浜へいらしったが、それっ切りだおたくへ帰らんかえ」

重「へい、そんなら親父おやじは来たことは来たが、此方こちらには居ねえんですか困ったのう、文吉どん」

文「もし旦那、御免なせえ、わっちは元錨床いかりどこと云って西洋床をして居りました時、此方こちらの二階のお客に旧弊頭きゅうへいあたまもありますので、時々お二階へ廻りに来た文吉という髪結かみゆいでございます」

丈「はアお前が文吉さんか、誠に久しく逢いませんでした」

文「先々月の二日清水の旦那が此方こちらへお泊りなすって、荷物をお預け申して湯にいるって錨床へらしったところが、わっちが上州を廻っている時分御厄介になった清水の旦那だから、何御用でというと金を持って仕入れに来たが、泊る所に馴染なじみがねえから、春見屋へ泊ったとおっしゃったから、それはとんでもねえ処へ、いえなにい処へお泊りなすったという訳でねえ」

丈「一寸ちょっとでにはなったが、取急ぎ横浜へくと云ってお帰りになった」

文「もし先々月の二日でございますぜ」

丈「左様そうよ」

文「あの清水の旦那が金を沢山どっさり春見屋へ預けたと仰しゃるから、それはとんだ処へ、いえなにどうも誠にどうもねえ」

丈「来たことは来たが、おつれか何か有ると見え、いくらめても聞入れず、買出しの事ゆえそうはいかんと云って荷物を持って取急いでお帰りになったが、それ切り帰られないかえ」

文「それ清水の旦那が荷をお前さんへ預け、床へ来るとわっちがいて、旦那どうして此方こちらへ出ていらしったと云うと、商売替しょうべいげえをする積りで、滅法界めっぽうけい金を持って来て、迂濶うっかり春見屋へ預けたと云うから、それはとんだ、むゝなに、一番い処へお預けなすったという訳で、へい」

丈「今もいう通りぐに横浜へくと云って、お帰りなすったよ」

文「ふん、へい、十月二日に、旦那が此方こっちへ……」

丈「幾度云っても其の通り来たことは来たが、ぐにお帰りになったのだよ」

重「仕様がありませんなア」

文「だって旦那え、まアどうも、…へい左様なら」

 と取附く島もございませんから、そとへ出て重二郎は文吉に別れ、親父おやじが横浜へ往ったとの事ゆえ、横浜を残らず捜しましたが居りませんので、また東京へ帰り、浅草、本郷と捜しましたが知れません。仕方がないから重二郎は前橋へ立帰りました。お話跡へ戻りまして、井生森又作は清水助右衞門の死骸を猿田船やえんだぶねに積み、明くれば十月三日市川口いちかわぐちへまいりますと、水嵩みずかさ増して音高く、どうどうっと水勢すいせい急でございます。只今の川蒸汽かわじょうきとは違い、らちが明きません。市川、流山ながれやま野田のだ宝珠花ほうしゅばなと、船を附けて、関宿せきやどへまいり、船を止めました。もっと積荷つみにが多いゆえ、はかきませんから、井生森は船中で一泊して、翌日はさかいから栗橋くりはし古河こがへ着いたのは昼の十二時頃で、古河の船渡ふなとへ荷をげて、其処そこ井上いのうえと申す出船宿でふねやどで、中食ちゅうじきも出来る宿屋があります。井生森は其処へ入り、酒肴さけさかなあつらえ、一杯って居りながら考えましたが、これから先人力じんりきを雇ってきたいが、此の宿屋から雇って貰っては、足が附いてはならんからと一人で飛出し、途中から知れん車夫くるまやを連れてまいり、此の荷を積んでどうか佐野まで急いでやってくれと、酒を呑ませ、飯を喰わせ、五十銭の酒手をりました。車夫しゃふは年頃四十五六しじゅうごろく小肥満こでっぷりとした小力こぢからの有りそうな男で、酒手さかて請取うけとり荷を積み、身支度をして梶棒かじぼうつかんだなり、がら〳〵と引出しましたが、古河から藤岡ふじおかまでは二里里程みちのり。船渡を出たのは二時頃で、道が悪いから藤岡を越す頃はもう日の暮れ〴〵で、雨がぽつり〳〵と降り出しました。向うに見えるは大平山おおひらさんに佐野の山続きで、此方こちら都賀村つがむら甲村こうむら高堤たかどてで、此の辺は何方どちらを見ても一円沼ばかり、其の間にはよしあしの枯葉が茂り、誠に物淋しい処でございます。車夫しゃふはがら〳〵引いてまいりますと、積んで来た荷の中の死骸が腐ったも道理、小春なぎのあたゝかい時分に二晩ふたばんめ、又うちかえって寒くなり、雨に当り、いきれましたゆえ、臭気はなはだしく、鼻をつばかりですから、

車「フン〳〵、おや旦那え〳〵」

又「なんだ、急いでってくれ」

車「なんだかひどくさいねえ、あゝ臭い」

又「なんだ」

車「何だか知んねえが誠に臭い」

 と云われ、又作はぎっくりしましたが、云いまぎらせようと思い、

又「つまらん事をいうな、此の辺は田舎道だからこいにおいがするのは当然あたりまえだわ」

車「わしだって元は百姓でがんすから、こいくさいのは知って居りやんすが、此処こゝは沼ばかりで田畑でんぱたはねえから肥のにおいはねえのだが、ひどく臭う」

 と云いながら振り返って鼻を動かし、

車「おゝ、これこれ、此の荷だ、どうも臭いと思ったら、これが臭いのだ、あゝ此の荷だ」

 と云われて又作愈々いよ〳〵驚き、

又「何を云うのだ、なんだ篦棒べらぼうめ、荷が臭いことが有るものか」

車「だって旦那、臭いのは此の荷に違いねえ」

又「これ〳〵何を云うのだ」

 と云ったがう仕方がありませんから、云いくろめようと思いまして、

又「これは俗に云う干鰯ほしかのようなもので、田舎へ積んで往って金儲けを仕ようと思うのだ、実はこいになるものよ」

車「こいにおいか干鰯の臭いかは在所の者は知ってるが、旦那今わし貴方あんたの荷が臭いと云った時、顔色が変った様子を見ると、此の中は死人しびとだねえ」

又「馬鹿を云え、東京から他県へ死人しびとを持って来るものがあるかえ、白痴たわけたことを云うなえ」

車「駄目だ、顔色を変えてもいけねい、おれ今でこそ車を引いてるが、元は大久保政五郎おおくぼまさごろうの親類で、駈出かけだしの賭博打ばくちうちだが、漆原うるしはら嘉十かじゅうと云った長脇差ながわきざしよ、ところが御維新ごいっしんになってから賭博打を取捕とっつかめえては打切ぶっきられ、己も仕様がないから賭博をめ、今じゃア人力車くるまを引いてるが、旦那貴方あんた何処どこのもんだか知んねえが、人を打殺ぶっころして金をり、其の死人しびとを持って来たなア」

又「馬鹿を云え、とんでもない事をいう、どう云う次第でそんな事を云うのだ」

車「おれ政五郎親分の処にいた頃、親方おやぶんが人を打殺ぶちころして三日の間番をさせられた時のにおいが鼻に通って、いまだに忘れねえが、其の臭いにちげえねいから隠したって駄目だ、死人しびとなら死人だとそう云えや、云わねえと了簡りょうけんがあるぞ」

又「白痴たわけた奴だ、どうもそんな事を云って篦棒べらぼうめ、手前てめえどう云う訳で死人しびとだと云うのだ、失敬なことを云うな」

車「なに失敬も何もあるものか、古河の船渡で車を雇うのに、値切ねぎりもしずに佐野までめ、其の上五十銭の祝儀もくれ、酒を呑ませ飯まで喰わせると云うから、がてい旦那だと思ったが、たゞの人と違い、死人しびとじゃけねえが、しかし死人だと云えば佐野まで引いて往ってくれべいが、隠しだてをするなら、あと引返ひきけえして、藤岡の警察署へ往って、其の荷をひらいてあらためて貰うべい」

又「馬鹿なことを云うな、駄賃は多分にるから急いで遣れ」

車「駄賃ぐらいでは駄目だ、内済事ねえせえごとにするなら金を弐拾両にじゅうりょうよこせ」

又「なに弐拾両、馬鹿なことを云うなえ」

車「いやならいわ」

 と云いながら梶棒を藤岡の方へ向けましたから、井生森又作はおおきに驚き慌てゝ、

又「おい車夫くるまや、待て、これしばらく待てと云うに、仕様のない奴だ、ふてえ奴だなア」

車「何方どっちふてえか知れやしねえ」

又「そう何もかも手前てめえぎ附けられてはむを得ん、実は死人しびとだて、ついては手前てまに金子二拾両るが、何卒どうぞ此の事を口外してくれるな、打明けて話をするが、此の死骸は実は僕が権妻ごんさい同様のものだ」

車「それなら貴方あんたの妾か」

又「なに僕の妾というではない、去る恩人の持ちものだが、不図ふとした事から馴れ染め、人目を忍んで逢引あいびきをして居ると、その婦人が懐妊したので堕胎薬おろしぐすりを呑ました所、其の薬にあたって婦人はたってのくるしみ、虫がかぶってたまらんと云って、僕の所へ逃出にげだして来て、子供はうまれたが、婦人は死んでしまった所密通をしたかどと子を堕胎おろした廉が有るから、よんどころなく其の死骸を旅荷にこしらえ、女の在所へ持ってき、親達と相談の上で菩提所ぼだいしょほうむる積りだが、手前てまえにそう見顕みあらわされて誠に困ったが、金をるから急いで足利在あしかゞざいまで引いてくれ」

車「そう事がきまればいが…なんだって女子おんなッこと色事をして子供を出かし、子を堕胎おろそうとして女が死んだって…人殺しをしながら惚気のろけを云うなえ、もうちっよこしてもいんだが、二十両に負けてくれべい、だがくせい荷を引張ひっぱってくのは難儀だアから、彼処あすこ沼辺ぬまべりよしかげで、火をけて此の死人しびとを火葬にしてはどうだ、そうして其の骨を沼の中へ打擲ぶっぽり込んでしまえば、少しぐれえ焼けなくっても構った事はねえ、もう来月から一杯いっぺいに氷が張り、来年の三月でなければ解けねえから、知れる気遣きづかえはねえが、どうだえ」

又「これは至極妙策、成程い策だが、ポッポと火をいたら、又巡行の査官さかんに認められ、何故なぜ火を焚くと云ってとがめられやしないか」

車「大丈夫でいじょうぶだよ、時々わしらが寒くって火を焚く事があるが、巡査おまわりがこれなんだ、其処そこで火を焚いて、消さないか、と云うから、へいあんまり寒うございますから火を焚いてあたって居りますが、只今踏消して参りますと云うと、そんならあとで消せよと云ってくから、大丈夫だいじょうぶだ、さア此処こゝおろすべい」

 とれから車を沼のへりまで引き込み、の荷をおろし、二人で差担さしかつぎにして、沼辺ぬまべり泥濘道ぬかるみみちを踏み分け、よしあし茂るかげえまして、車夫は心得て居りますから、枯枝かれえだなどを掻き集め、まっちで火を移しますると、ぽっ〳〵と燃え上る。死人しびとあぶらひどいから容易には焼けないものであります。日の暮れ方の薄暗がりに小広い処で、ポッポと焚く火は沼のへりゆえ、空へうつりまして炎々えん〳〵としますから、又作は気をみ巡査は来やしないかと思っていますと、

車「旦那、もう真黒まっくろになったろうが、貴方あんたおれがにもう十両よこせよ」

又「足元を見て色々な事を云うなえ」

車「足元だって、れはア女の死骸と云っておれだまかしたが、こりゃア男だ、女の死骸に□□があるかえ」

 と云われて又驚き、

又「えゝ何を云うのだ」

車「駄目だよ、おめえは人を打殺ぶちころして金をって来たにちげえねえ、もう十両呉れなけりゃア又引き返そうか」

又「仕方がないるよ、余程よっぽど狡猾こうかつな奴だ」

車「ほうが狡猾だ」

 と云いながら人力車くるまの梶棒を持って真黒になった死骸を沼の中へ突き込んでいます。又作は近辺あたりを見返ると、往来はぱったり止まって居りますから、何かの事を知った此の車夫しゃふけて置いては後日ごにちさまたげと、車夫のすきまうかゞい、腰のあたりをポオーンと突く、突かれて嘉十はもんどり切り、沼の中へさかとんぼうを打っておちいりましたが、此の車夫は泳ぎを心得て居ると見え、抜手ぬきでを切って岸辺へ泳ぎ附くを、又作が一生懸命に車の簀蓋すぶたを取って、車夫の頭をねらい打たんと身構えをしました。是からどういう事に相成りますか、一寸ちょっと一息ひといき致しまして申上げましょう。


     三


 さて春見丈助は清水助右衞門を打殺うちころしまして、三千円の金を奪い取りましたゆえ、身代限りに成ろうとする所を持直もちなおしまして、する事為す事皆当って、たちまち人に知られまする程の富豪ものもちになりました。又一方かた〳〵は前橋の竪町で、清水助右衞門と云って名高い富豪ものもちでありましたが、三千円の金を持って出たり更に帰って来ませんので、借財方から厳しくはたられついに身代限りに成りまして、微禄びろくいたし、以前にかわ裏家住うらやずまいを致すように成りました。実に人間の盛衰は計られぬものでございます。春見が助右衞門を殺しますおりに、三千円の預り証書を春見の目の前へ突付け掛合ううちに、殺すことになりまして、人を殺す程の騒ぎのなかですから、三千円の証書の事にはとんと心付きませんでしたが、あとく考えて見ますと、助右衞門がの時我が前に証書を出して、引換えに金を渡せと云って顔色を変えたがの証書の、あとにないところを見れば、ほかたれも持ってく者はないが、井生森又作はあア云う狡猾こうかつな奴だから、ひょっとったかも知れん、それとも助右衞門の死骸の中へでも入っていったか、何しろ又作が帰らなければ分らぬと思って居りましたが、三ヶ年の間又作の行方ゆくえが知れませんから、春見は心配で寝ても寝付かれませんから、悪い事は致さぬものでございますが、凡夫ぼんぷ盛んに神たゝりなしで、悪運強く、する事なす事儲かるばかりで、金貸かねかしをする、質屋をする、富豪ものもちと云われるように成って、霊岸島川口町れいがんじまかわぐちちょうへ転居して、はや四ヶ年の間に前の河岸かしにずうっと貸蔵かしぐらを七つも建て、奥蔵おくぐら三戸前みとまえあって、角見世かどみせで六間間口の土蔵造どぞうづくり横町よこちょうに十四五間の高塀たかべいが有りまして、九尺くしゃくの所に内玄関ないげんかんとなえまする所があります。実に立派な構えで、何一つ不自由なく栄燿栄華えいようえいがは仕ほうだいでございます。それには引換え清水助右衞門のせがれ重二郎は、母諸共もろとも千住せんじゅへ引移りまして、掃部宿かもんじゅくで少しばかりの商法をひらきました所が、が悪くなりますと何をやっても損をいたしますもので、あれをやって損をしたからと云って、今度はれをやると又損をして、つい資本しほんなくすような始末で、仕方がないから店をしまって、八丁堀亀島町はっちょうぼりかめじまちょう三十番地に裏屋住うらやずまいをいたして居りますと、母が心配して眼病をわずらいまして難渋なんじゅうをいたしますから、屋敷に上げてあった姉を呼戻し、内職をして居りましたが、其の前年まえのとしの三月から母の眼がばったりと見えなくなりましたゆえ、姉はもう内職をしないで、母の介抱ばかりして居ります。重二郎は其の時廿三歳でございますが、お坊さん育ちで人が良うございますから智慧ちえも出ず、車をくよりほかに何も仕方がないと、辻へ出てお安く参りましょうと云って稼いで居りましたが、何分にも思わしき稼ぎも出来ず、ついに車の歯代はだいたまって車も挽けず、自分は姉と両人で、二日ふつかの間はかゆばかり食べて母を養い、孝行をつくし介抱いたして居りましたが、う世間へ無心にく所もありませんし、うしたらよろしかろうと云うと、人の噂に春見丈助はき近所の川口町にいて、たいした身代に成ったという事を聞きましたから、元々馴染なじみの事ゆえ、今の難渋を話して泣付なきついたならば、五円や十円は恵んで呉れるだろうというので、姉と相談の上重二郎が春見の所へ参りましたが、家の構えが立派ですから、表からはおくして入れません。横の方へ廻るとつが面取格子めんとりごうししまって居りますから、怖々こわ〴〵格子を開けると、車が付いて居りますから、がら〳〵〳〵と音がします。驚きながら四辺あたりを見ますと、結構な木口きぐちの新築で、自分の姿なりを見ると、単物ひとえものそめっ返しを着て、前歯のりました下駄を穿き、腰にきたな手拭てぬぐいを下げて、頭髪あたま蓬々ぼう〳〵として、自分ながらあきれるような姿なりゆえ、恐る〳〵玄関へ手を突いて、

重「お頼み申します〳〵」

男「どーれ」

 と利助りすけという若い者が出てまいりまして、

利「出ないよ」

重「いえ乞食こじきではございません」

利「これは失敬、何処どこからおでになりました」

重「わしア少し旦那様にお目にかゝって御無心申したい事がありまして参りました」

利「何処からお出でゞございますか」

重「はい、わしア前橋の竪町の者でございまして、只今は御近辺に参って居りますが、清水助右衞門のせがれが参ったと何卒どうぞお取次を願います」

利「誠にお気の毒でございますが、此の節は無心に来る者が多いから、主人も困って、何方どなたがお出でになってもお逢いにはなりません、種々いろ〳〵な名を附けてお出でになります、碌々ろく〳〵知らんものでも馴々なれ〳〵しく私は書家でございます、拙筆せっぴつを御覧に入れたいと、何か書いたものを持って来てなんと云っても帰らないから、五十銭もって、あとけて見ると、子供の書いたような反故ほごであることなどが度々たび〳〵ありますから、お気の毒だが主人はお目にかゝる訳にはまいりません」

重「縁のない所からまいった訳ではありません、前橋めえばし竪町の清水助右衞門の忰重二郎が参ったとお云いなすって下さいまし」

利「お気の毒だが出来ません、それに旦那様は御不快であったが、今日はぶら〳〵お出掛になってお留守だからいけません」

重「どうか其様そんなことをおっしゃらないでお取次を願います」

利「お留守だからいけませんよ」

 としきりに話をしているのを、なんだかごた〳〵していると思って、そっと障子しょうじを明けて見たのは、春見の娘おいさで、唐土手もろこしで八丈はちじょうの着物に繻子しゅすの帯を締め、髪は文金ぶんきん高髷たかまげにふさ〳〵といまして、人品じんぴんい、成程八百石取った家のお嬢様のようでございます。今障子を開けて、心付かず話の様子を聞くと、清水助右衞門のせがれだから驚きましたのは、七年あと自分のおとっさんが此の人のおとっさんを殺し、三千円の金を取り、それから取付いて此様こんなに立派な身代になりましたが、此の重二郎はそれらの為にくまでに零落おちぶれたか、可愛かわいそうにと、娘気むすめぎ可哀かあいそうと云うのも可愛かわいそうと云うので、矢張やはりれたのも同じことでございます。

い「あの利助や」

利「へい〳〵、出ちゃいけませんよ、〳〵」

い「あのおとっさんは奥においでなさるから其のかたにお逢わせ申しな」

利「お留守だと云いましたよ、いけませんよ」

い「そんな事を云っちゃアいけないよ、お前は姿なりのいゝ人を見るとへい〳〵云って、姿の悪い人を見るとさげすんでいけないよ、此の間も立派な人が来たから飛出して往って土下座したって、そうしたら菊五郎きくごろうが洋服を着て来たのだってさ」

利「どうも仕方がないなア、此方こちらへおはいり」

 と通しましてすぐに奥へまいり、

利「えゝ旦那様、見苦しいものが参って旦那様にお目にかゝりたいと申しますから、お留守だと申しましたところが、お嬢さまがお逢わせ申せ〳〵とおっしゃいまして困りました」

丈「居ると云ったら仕方がないから通せ」

利「此方へお入り」

重「はい〳〵」

 と怖々こわ〴〵あがって縁側伝いに参りまして、居間へ通って見ますと、一間いっけんは床の間、一方かた〳〵地袋じぶくろで其の下に煎茶せんちゃの器械が乗って、桐の胴丸どうまる小判形こばんがたの火鉢に利休形りきゅうがた鉄瓶てつびんが掛って、古渡こわたりすゞ真鍮象眼しんちゅうぞうがん茶托ちゃたくに、古染付ふるそめつけの結構な茶碗が五人前ありまして、朱泥しゅでい急須きゅうすに今茶を入れて呑もうと云うので、南部の万筋まんすじ小袖こそで白縮緬しろちりめん兵子帯へこおびを締め、本八反ほんはったん書生羽織しょせいばおりで、純子どんす座蒲団ざぶとんの上に坐って、金無垢きんむく煙管きせるで煙草を吸っている春見は今年四十五歳で、人品じんぴんい男でございます。見ると重二郎だからびっくりしましたが、横着者でございますから

丈「さア〳〵此方こちらへ」

重「誠にしばらく御機嫌宜しゅう」

丈「はい〳〵、誠に久しく逢いません、私も此方こちらへ転居して暫く前橋へもきませんが、お変りはないかね、おとっさんは七年あと帰らんと云って尋ねて来た事があったが、お帰りに成ったかね」

重「其のいまだに帰りませんし便たよりもありませんで、死んだか生きて居るか分りません、御存じの通り三千円の金を持って出て、それも田地でんじや土蔵を抵当に入れて才覚したものでござりやんすから、貸方かしかたからやかましく云われ、抵当物は取られ、おふくろ両人ふたり手振編笠てぶりあみがさで仕方がねえから、千住せんじへまいって小商こあきないを始めましたが、お母が長々なが〳〵の眼病で、とうとう眼がつぶれ、生計くらしに困り、無心を云う所もえで、仕方なく亀島町の裏屋ずまいで、わしは車をき、姉は手内職をして居りましたが、段々寒くなるし、車を引いても雨降り風間かざまには仕事がなく、実に翌日にも差迫さしせまる身の上に成りまして、何うしようと思っていた処、春見様が此方こっちにおいでなさるという事が知れましたから、願ったら出来ようかと思って姉と相談の上で出ましたが、親子三人助かりますから、どうかお恵みなすって下さいまし」

 と泣きながらの物語に春見も気の毒千万な事に思い、せめては百円か二百円恵んでろうかと思ったが、いや〳〵〓(「※」は「「愍」で「民」のかわりに「求」をあてる」)いに恵み立てをすると、の様な見苦しい者に多くの金を恵むのは変だという所から、其の筋の耳になって、しち年前ねんぜんの事があらわれてはのががたわが身の上ゆえ、いっそ荒々しく云って帰した方がよろしかろうと思いまして、

丈「重二郎さん、誠に気の毒だが貸す事は出来ない、そう云う事を云って歩いても貸す人はないよ、難儀をするものは世間には多人数たにんずあって、僕は交際も広いから一々恵みつくされません、そうしてゆえなく人に恵みをすべきものでもなく、又故なく貰うべきものでもなく、其の儀は奉公人にも言い付けてあることで、誠に気の毒だが出来ません、お前も血気な若い身分でありながら、車をいてるようではならん、当節は何をしても立派に喰える世の中だのに、人の家に来てぜにを貰うとは余り智慧ちえのないことだお前はお坊さん育ちで何も知るまいが、人が落目おちめになった所を〓(「※」は「「愍」で「民」のかわりに「求」をあてる」)いに助ければ、助けた人も共に倒れるようになるもので、たとえば車に荷を積んで九段のような坂を引いてあがって力に及ばんで段々下へおちる時、たった一人でそれを押えて止めようとすると、其の人も共に落ちて来て怪我をするようになるから、それよりもくだり掛った時は構わないで打棄うっちゃって置いて其の車が爼橋まないたばしまで下ってから、一旦いったん空車からぐるまにして、あとで少しばかりの荷を付けて上げた方がよろしいようなもので、今(「※」は「「愍」で「民」のかわりに「求」をあてる」)なまじいに恵むものがあってはお前のためにならん、人の身は餓死するようにならんければ奮発する事は出来ない、それでなければお前の為にならん」

重「誠にお恥かしい事でございますが、一昨々日さきおとついから姉もわしもおまんまべません、おかゆばかり喫べて居ります、病人の母が心配しますから、お飯があるふりをしては母に喫べさせ、姉も私も芋を買って来て、おふくろが喫べて余ったお粥の中へ入れ、それを喫べて三日以来このかた辛抱して居りましたが、明日あすしようがねえ、何うしたらかろうかと思って、此方こちらへ出ました訳でございますから、しお恵みが出来なければ、私だけ此方こちらうちへ無給金で使って呉れゝば私一人いちにんの口が減るから、そうすれば姉が助かります、どうか昔馴染むかしなじみだと思って」

丈「これ〳〵昔馴染とはなんの事だ、屋敷にいる時は手前の親を引立ひきたってやった事はあるが、恩を受けたことは少しもない、それを昔馴染などとはもってほかのことだ、一切いっせつ出来ません、奉公人も多人数たにんず居って多過ぎるからへらそうと思っているところだから、奉公に置く事も出来ません帰えって下さい、此の開明の世の中に、腹の減るまでうか〳〵として居るとは愚をきわめた事じゃねえか、それに商業繁多はんたでお前と長く話をしている事は出来ない、帰って下さい」

 と云い捨て、桑の煙草盆を持って立上り、へだてふすまを開けて素気そっけなく出てきます春見の姿を見送って、重二郎は思わず声を出して、ワッとばかりに泣き倒れまして、

重「はい、帰ります〳〵、貴方あんたも元は御重役様であった時分には、わし親父おやじ度々たび〳〵引立ひきたてになったから、貴方を私がうちへ呼んで御馳走をしたり、立派な進物もつかった事がありますから、少しばかりの事を恵んでも、此のでけ身代しんでいさわる事もありますまい、人の難儀を救わねえのが開化のならいでございますか、私は旧弊の田舎者で存じませぬ、もう再び此のうちへはまいりません只今貴方のおっしゃった事は、仮令たとえ死んでも忘れません、左様なら」

 と泣々なく〳〵ずっとって来ますと、先刻せんこくから此の様子を聞いていまして、気の毒になったか、娘のおいさが紙へ三円包んで持ってまいり、

い「もし重二郎さん、お腹も立ちましょうが、おとっさんはの通りの強情者でございますから、どうかお腹をお立ちなさらないで下さいまし、これはわたくしの心ばかりでございますが、おっかさんに何かあったかい物でも買って上げて下さい」

重「いゝえ戴きません、人は恵む者がある内は、奮発の附かないものだとおっしゃった事は死んでも忘れません」

い「あれさ、そんな事を云わないでこれはわたしの心ばかりでございますから、どうかお取り下さい」

 と無理に手へつかませてくれても、重二郎は貰うまいと思ったが、これを貰わなければ明日あしたからおふくろに食べさせるのに困るから、泣々なく〳〵貰いまして、あゝ親父おやじと違って、此の娘は慈悲のある者だと思って、おいさの顔を見ると、おいさも涙ぐんで重二郎を見る目に寄せる秋の波、春の色もおもてでゝ、しんに優しい男振りだと思うも、末に結ばれる縁でございますか。

い「どうかおっかさんによろしく、お身体をお大切になさいまし」

 と云って見送る。重二郎も振返り〳〵出てきました。其の跡へ入って来たのは怪しい姿なりで、猫のひゃくひろのような三尺さんじゃくを締め、紋羽もんぱ頭巾ずきんかぶったまゝ、

男「春見君は此方こちらかえ〳〵」

利「はい、何方どなたですえ」

男「井生森又作という者、しちねんぜんに他県へ参って身を隠して居たが、今度東京へ出て参ったから、春見君に御面会いたしたいと心得て参ったのだ、取次いでおくんなせえ」

利「生憎あいにく主人は留守でございますから、どうか明日みょうにちでを願いとうございます」

又「いや貧乏暇なしで、明日みょうにち明後日みょうごにちという訳にはいかないから、お気の毒だがお留守なら御帰宅までお待ち申そう」

利「これは不都合な申分もうしぶんです、知らん方をうちへ上げる訳にはゆきません、主人に聞かんうちは上げられません」

又「なんだ僕を怪しいものと見て、主人に聞かんうちは上げられないと云うのか、これ僕が春見のところへまいって、一年や半年寝ていて食って居ても差支さしつかえない訳があるのだ、一体手前てめえ妙なつらだ、半間はんまな面だなア、面が半間だから云う事まで半間だア」

利「おや〳〵失敬な事を云うぜ」

又「さア手前てめえじゃア分らねえ、ぐに主人に逢おう」

利「いけません、いけません」

又「いけんとはなんだ、通さんと云えば踏毀ふみこわしても通るぞ」

利「そんな事をすると巡査を呼んで来ますよ」

又「呼んで来い〳〵、主人にあおうと云うのだ、何を悪い事をした、手前てめえの知った事じゃアねえ」

 と云いながら又作が無法に暴れながら、ずッと奥へ通りますと、八畳の座敷に座布団の上に坐り、白縮緬しろちりめん襟巻えりまきをいたし、くわ烟管ぎせるをして居ります春見丈助利秋のむこうおくしもせずピッタリと坐り、

又「誠にしばらく、一別已来いちべついらい御壮健で大悦至極たいえつしごく

丈「これさたれか取次をせんか、ずか〳〵と無闇に入って来て驚きましたわな」

又「なにさ、僕が斯様かよう不体裁ふていさい姿なりでまいったゆえ、君の所の雇人奴やといにんめおおきに驚き、銭貰いかと思い、しからん失敬な取扱いをしたが、それはまアよろしいが、君はまアはからざる所へ御転住ごてんじゅうで」

丈「いや実にどうもしばらくであった、どうしたかと思っていたが、しちねん以来このかたなん音信おとずれもないから様子がとんと分らんで心配して居ったのよ」

又「さア僕も此の頃帰京いたしお話は種々いろ〳〵ありますが、何しろ雇人の耳に入っては宜しくないから、久々だから何処どこかで一杯やりながら緩々ゆる〳〵とお話がしたいね」

丈「此方こっちでも聞きてえ事もあるから、有合物ありあいもの一盞いっぱいやろう」

 と六畳の小間こま這入はいり、差向い、

丈「此処こゝは滅多に奉公人も来ないから、少しぐらい大きな声を出してもきこえることじゃアねえ、話は種々いろ〳〵あるが、七年前旅荷にして持出もちだした死骸は何うした」

又「それについ種々いろ〳〵話があるが、の時死骸を荷足船にたりぶね積出つみだし、深川の扇橋から猿田船やえんだぶねへ移し、上乗うわのりをして古河の船渡ふなとあがり、人力車へ乗せて佐野まで往って仕事を仕ようとすると、其の車夫は以前長脇差のはてで、死人しびと日数ひかずって腐ったのをぎ附け、んでも死人に相違ないと強請ゆすりがましい事を云い、三十両よこせと云うから、やむを得ず金を渡し、死人を沼辺ぬまべりおろして火葬にして沼の中へほうり込んでしまったから、浮上うきあがっても真黒まっくろっけだから、知れる気遣きづかいないが、の様子を知った車夫、生かして置いてはお互いの身の上と、罪ではあるがすきうかゞい、沼の中へ突きおとし、あがろうとする所を人力車くるま簀葢すぶたを取って額を打据うちすえ、殺して置いて、其のまゝにドロンと其処そこ立退たちのき、長野県へ往ってほとぼりのさめるのを待ち、石川県へ往ったが、懐に金があるから何もせず、見てえ所は見、喰いてえ物は喰い、可なり放蕩ほうとうった所が、追々おい〳〵金がとぼしくなって来たから、商法でも仕ようと思い、坂府さかふへ来た所、坂府は知っての通り芸子げいこ舞子まいこは美人ぞろい、やさしくって待遇もてなしいから、君から貰った三百円の金はちゃ〳〵ふうちゃにつかはたして仕方なく、知らん所へ何時いつまで居るよりも東京へ帰ったら、又どうかなろうと思い、早々そう〳〵東京へ来て、坂本二丁目の知己しるべもとに同居していたが、君の住所は知れずよ、永くべん〳〵として居るのも気の毒だから、つい先々月亀島町の裏長屋を借りけ、今じゃア毎夜鍋焼饂飩なべやきうどん売歩うりある貧窮然ひんきゅうぜんたる身の上だが、つい鼻の先の川口町に君がれだけの構いをして居るとは知らなかったが、今日はからず標札を見て入って来たのだが、たいした身代になって誠に恐悦きょうえつ

丈「あれからぐっと運が向き、る事なす事がよく、是まで苦もなく仕上げたが、見掛けは立派でも内幕は皆機繰からくりだから、これが本当の見掛倒しだ」

又「金は無いたって、あるたって、表構おもてがまえで是だけにやってるのだからたいしたものだねえ、時にしばらく無心を云わなかったが、どうか君百円ばかりちょっとすぐに貸して呉れ給え、うやって何時いつまで鍋焼饂飩も売ってはられんじゃないか、これから君が後立うしろだてになり、何か商法の工夫をして、かろうと思うものを立派に開店して、奉公人でも使うような商人にして下せえな」

丈「商人にして呉れろって、君には三百円という金を与えたのに、残らずつかってしまい、帰って来て困るから資本もとでを呉れろとは、おぶえば抱かろうと云うようなもので、それじア誠に無理じゃアないか」

又「なにが、無理だと、何処どこが無理だえ」

丈「そんなに大きな声をしなくてもよろしいじゃねえか」

又「君が是だけのかまえをしてるに、僕が鍋焼饂飩を売って歩き、成程金をつかったから困るのは自業自得とは云うものゝ、君がうなった元はと云えば、清水助右衞門を殺し、三千円の金を取り、其のうち僕は三百円しか頂戴せんじゃねえか、だから千や二千の資本しほんを貸して、僕の後立うしろだてになっても君が腹の立つ事は少しもあるめえ」

丈「如何いかにも貸しも仕ようが、見掛ばかりで手元には少しも金はねえから、其の内君の宅へ届けようか」

又「届けるって九尺弐間くしゃくにけん棟割長屋むねわりながやへ君の御尊来ごそんらいは恐入るから、僕が貰いに来てもよろしい」

丈「そんな姿なり度々たび〳〵宅へ来られては奉公人の手前もあるじゃねえか」

又「さア当金とうきん百円貸して、後金あときん千円位の資本を借りてもよかろう」

丈「それじゃア貸してもろうが、何時迄いつまでもぐず〴〵してもられめえから、何か商法をひらき、悪い事をめて女房にょうぼでも持たんければいかんぜ、早く身を定めなさい、時に助右衞門を殺して旅荷にこしらえた時、三千円の預り証書を君が懐へ入れて、他県へ持って往ったのだろうな」

又「どうもしからん嫌疑けんぎを受けるものだねえ」

丈「いや、とぼけてもいけねえ、の事は君よりほかに知ってる者はないのに、あとで捜してもねえからよ、の証書が人の手に入れば君も僕も身の上に係わる事だぜ」

又「それは心得てるよ、僕も同意してやった事だから、あらわれた日にゃ同罪さア」

丈「隠してもいけねえよ」

又「隠しはしねえ、僕が真実ほんとに預り証書を持って居ても、これをしょうにして訴える訳にはいかん、三百円貰ったのがあやまりだから仕方がねえ、役に立たぬ証書じゃねえか」

丈「君がの証書を所持してるなら千円やるから僕にそれを呉れたまえよ」

又「ねえと云うのに、僕の懐にし其の証書があれば、千や二千の破れさつを欲しがってやアしねえ、助右衞門は僕が殺したのではねえ、君が殺したのだから、君が重罪で僕も同類だけれど、其の証書をもって自訴じそすれば僕の処分は軽い、君と僕とりっこにすればそうだから、証書があれば否応いやおうなしに五六千円の金を出さなければなるめえ、又預り証書があれば御息女のおいささんを女房にょうぼに貰うか、入婿いりむこにでもなって幅をかされても仕方がねえ身の上じゃねえか、貸したまえ、今千円のさつを持って帰っても、これ切り参りませんという銭貰いじゃアねえ、金が有ればつかってしまい、なくなれば又借りに来る、れだけの金主きんしゅを見附けたのだから僕の命のあらんかぎりは君は僕を見捨みすてることは出来めえぜ」

丈「明後日あさって晦日みそかで少し金の入る目的めあてがあるから、人に知れんような所で渡してえが、旨い工夫はあるまいか」

又「それはわきゃアねえ、僕が鍋焼饂飩を売ってる場所は、毎晩高橋たかばしぎわへ荷をおろして、鍋焼饂飩と怒鳴どなって居るから、君が饂飩を喰う客のつもりで、そっと話をすれば知れる気遣きづかいはあるめえ」

丈「そんなら遅くも夜の十二時頃までにはくから、十一時頃から待ってゝくれ」

又「百円は其の時屹度きっとだよ、千円もいゝかね」

丈「千円の方は遅くも来月中旬までには相違なく算段するよ、これだけのかまえをしていても金のある道理はない、七ヶ年の間皆りでやって来たのだからよ」

又「じゃア飯を喰ってけえろう」

 とずう〳〵しい奴で、種々いろ〳〵馳走になり、横柄おうへいな顔をして帰りました故、奉公人は皆不思議がって居りました。これから助右衞門の女房にょうぼうせがれが難儀を致しますお話に移りますのでございますが、鳥渡ちょっと一息きまして申上げます。


     四


 春見丈助は清水助右衞門を殺し、奪取うばいとった三千円の金から身代を仕出し、たいしたものになりましたのに引替え、助右衞門のせがれ重二郎は人力をいて漸々よう〳〵其の日〳〵を送る身の上となりましたから、昔馴染むかしなじみよしみもあると春見の所へ無心に参れば、打って変った愛想あいそづかし、実ににくむべきは丈助にて、それには引替え、娘おいさの慈悲深く恵んでくれた三円で重二郎は借金の目鼻を附け、どうやら斯うやら晦日みそかまでしのぎを附けると、晦日には借金取が来るもので、お客様方にはお覚えはございますまいが、我々どもの貧乏社会には目まぐらしい程まいります。

米屋「はい御免よ、誠に御無沙汰をしました、時にねえ余り延々のび〳〵に成りますから、今日は是非お払いを願いたいものだ」

まき「誠にお気の毒さまで、毎度おみ足を運ばせて済みませんが、御存じの通り母が眼病でございまして、おとゝも車をいて稼ぎますが」

米「おい〳〵おっかさんが眼病で、弟御おとうとごが車を挽く事はお前さんが番毎ばんごと云いなさるから、耳に胼胝たこのいる程だが、ねいさんまアお母さんはあゝやって眼病でわずらってるし、にいさんは軟弱かぼそい身体で車を挽いてるから気の毒だと思い、猶予ゆうよをして盆の払いが此の暮まで延々のび〳〵になって来たのだが、来月はもう押詰おしつまづきではありませんか、私も商売だから貸すもいゝが、これじゃア困るじゃアないか、私は人がいから、お前方も顔向けが出来まいと察して来ないのだが、私が米を売らなけりゃお前さん喰わずに居ますかえ、それもこれだけ払うからあとの米を貸して下さいと云えば、随分貸してもやろうが、が悪いと云ってほかの米屋で買うとはなんの事だえ、勧解かんかいへでも持出さなければならない、勘定をしなさい」

ま「それでは誠に困ります」

重「あの姉さん少しお待ちなさい、貴方あんたの方のお払いは何程なにほどたまって居りやすか」

米「えゝ二円五十銭でございます」

重「此処こゝに一円二十銭ありやんすが、これをお持ちなすっておけえんなすって、あとの米を又少しの間拝借が出来ますならば、命から二番目の大事な金でございやすが、これを上げますから、あとの米を壱円いちえんべい送って戴きていもんでござりやす」

米「壱円弐拾銭あるのか、篦棒べらぼうらしい、商売だからお払いさえ下されば米は送ります」

 と金をあらた請取うけとりを置いて出てきますと、摺違すれちがって損料屋そんりょうやが入ってまいりました。

ま「おや、又」

損「なんです、おや又とは」

ま「いえ、あのくいらっしゃいましたと申したのでございます」

損「嘘を云いなさんな、今米屋が帰った跡へすぐに私が催促さいそくに来たから、おや又と云ったのだろう、借金取を見ておや又とははなはだ失敬だ、私も困りますから返して下さい、料銭りょうせんを払わないとむを得ないから蒲団を持ってくよ」

ま「でも此の通り寒くなって母が困りますから、う少々貸して置いて下さいまし」

損「其方そっちも困るだろうが私も困らアね、引続いて長い間めて置き、蒲団はよごし料銭は少しも払わず、うにもうにも仕方がないから、わたしゃア蒲団を持ってきますよ」

ま「何卒どうぞ御勘弁を願います」

損「勘弁は出来ません」

 と云いながら、ずか〳〵と慈悲容赦なさけようしゃも荒々しく、二枚折にまいおり反故張屏風ほごばりびょうぶを開け、母の掛けて居りまする四布蒲団よのぶとんを取りにかゝりますから、

重「何をなさる、るものを取ればまるで追剥おいはぎですなア」

損「これ何をいうのだ、私の物を私が持ってくのに追剥という事があるものか、料銭がたまったから蒲団を持って往くのが追剥ぎか」

重「誠に相済みません、何卒どうぞ御勘弁を」

 と云っているのを、同じ長屋にいるおとらという婆さんが見兼みかねて出てまいり、

虎「まアお待ちなさいな、うやっておっかさんが眼が悪く、にいさんが一生懸命に人力をいて稼いでも歯代はだいがたまって困ると云うくらいだから、料銭の払えないのはもっともな話だのに、可愛かわいそうに病人がているものをいでくとはあんま慈悲なさけないじゃないか」

損「お虎さん、お前さんは知らないのだが、蒲団を貸して二ヶ月料銭を払わないから、損料代が四円八十銭溜って居りますよ」

重「へい、そんなになりますかえ」

損「なりますとも、一晩ひとばん四布よのが五銭に、三布布団みのぶとんが三銭、しめ八銭、三八さんぱ二円四十銭しじっせんが二ヶ月で四円八十銭に成りますわねえ」

虎「高いねえ、こんなきたない布団でかえ」

損「穢い布団じゃアなかったのだが、段々此の人達が被古きふるしてよごしたので、前は新しかったのです」

虎「成程御尤ごもっともですが、其処そこがお話合はなしあいで、私もうやって仲へ入り、口を利いたもんだから三円だけ立替たてかえて上げたら、お前さん此の布団を貸してやって下さるかえ、此の汚れたのは持って帰って小綺麗こぎれいなのと取替えて持って来て貸して下さるか」

損「それは料銭さえ払って下されば貸して上げますともさ」

虎「それじゃア持合もちあわせていますから私が立替えて上げるが、端銭はしたはまけて置いておくれな、明日あした一円上げますからさ」

損「うございます、八十銭の損だが、お虎さんにめんじて負けて置きましょう、そんならさっぱりとしたのと取替えて来ます、左様なら」

虎「屹度きっと持って来ておくれ、左様なら」

 と損料屋の後姿うしろすがたを見送って、おまきに向い、

虎「まアおまきさん御覧よ、ひどい奴じゃないか、彼奴あいつはもと番太郎で、焼芋やきいもを売ってたが、そのお前芋が筋が多くて薄く切って、そうして高いけれども数が余計にあるもんだから、子供が喜んで買うのが売出しの始めで、夏は金魚を売ったり心太ところてんを売ったりして、無茶苦茶に稼いで、堅いもんだから夜廻りの拍子木ひょうしぎの人は鐘をボオンとくと、拍子木をチョンと撃つというので、ボンチョン番太と綽名あだなをされ、差配人さはいにんさんに可愛かわいがられ、金をめてうちを持ち、損料と小金こがねを貸して居るが、けつの穴が狭くて仕様のない奴だよ」

ま「叔母おばさんがおでなさらないとわたくしはどう仕ようかと思いました、毎度種々いろ〳〵御贔屓ごひいきになりまして有り難うございます」

虎「時にねえまアちゃんや、わたしゃ悪い事は云わないから、此間こないだ話した私の主人同様の地主様で、金貸かねかしで、少し年は取っていますが、やなのを勤めるのが、そこが勤めだから、いやでもうんと云って旦那の云うことを聞けば、おっかさんにも旨い物を食べさせ、いものを着せられ、お前も芝居へもかれるから、私の金主きんしゅで大事の人だから、の人の云うことをうんと聞いて囲者かこいものにおなりよ」

ま「有り難う存じますが、なんぼ零落おちぶれましても、まさかそんな事は出来ません」

虎「まさかそんな事とはなんだえ、それじゃアどう有ってもいやかえ」

ま「わたくしも元は清水と申して、上州前橋で御用達ごようたしをいたしました者の娘、如何いか零落おちぶ裏店うらだなに入っていましても、人に身を任せて売淫じごく同様な真似をして、お金を取るのは、母もさせる事ではありませんし、私も死んでもいやだと思って居ります」

虎「はい、お立派でございますねえ、御用達のお嬢さんだから喰わずに居ても淫売じごく同様な真似はしないと、よく御覧、近辺の小商あきないでもして、可なりに暮して居るものでも、小綺麗こきれいな娘があればみんな旦那取りをして居るよ、私なんぞも若い時分には旦那が十一人あったが、まだ足りなくって小浮気こうわきもしたことがあった位だから、お前だって大事のおっかさんに孝行したいと思うならばねえ」

ま「誠に有り難う存じますが、そればかりはお断り申します」

虎「いやなら無理にお願い申しませんよ、それじゃア私の金主きんしゅ八木やぎさんから拝借した三円のお金を、今損料屋が来ておっかさんのている蒲団を引剥ひっぱぎにかゝったから、お気の毒だと思い、立替えたが、今の三円はぐ返して下さいな、さアお前がうんとさえ云えば又旦那に話の仕様もあるが、いやだと云い切っては何も気をんで昨今のお前さんに金を貸す訳はないから返して下さい」

ま「お金がないのを見かけ、無理に立替えて返せとおっしゃっても致方いたしかたがございません」

虎「そんな不理窟ふりくつを云ったっていけないよ、損料屋が蒲団を持っていったら此の寒いのに病人を裸体はだかで置くつもりかえ、さっさと返して下さいな」

重「小母おばさんお待ちなすって下さい、あねさまが人さまの妾にはならないと云うのも御尤ごもっともな次第、と云って貴方あんたに返す金はありやせんから、何卒どうぞわしを其の旦那の処で、姉の代りに使って下さいますめえか」

虎「おふざけでないよ、お前さんがいくら器量がくても、今は男色かげまはおはいしだよ」

重「いゝえ左様ではございませぬ、どのような御用でもいたしやすから願いやす」

婆「これサ、旦那の処で一月ひとつき働いたって三円の立前たちまいは有りゃアしねえ、一日弐拾銭出せば力のある人が雇えるから、お前さんなぞを使うものかねえ、返して下さいよ」

 と云って中々聞き入れません。此のばゞあは元は深川の泥水育ちのあばれもので、頭の真中まんなかが河童の皿のように禿げて、附けまげをして居ますから、お辞儀をすると時々髷が落ちまする、頑丈がんじょうな婆さんですから、金がなけりゃ此れを持ってくと云いながら、の損料蒲団へ手を掛けようとすると、屏風のうちから母がい出して。

母「御尤ごもっともでございますが、私のうちの娘は年は二十五にもなり、体格なりも大きいけれども、是迄屋敷奉公をして居りやしたから、世間の事を知らねえ娘で、中々人さまの妾になって旦那さまの機嫌気づまを取れる訳でもございやせん、と申して、お借り申した三円のお金は返さねえでは済みませんが、金はなし、損料布団を取られては私が誠に困りますから」

 と云いながら手探てさぐりにて取出したのは黒塗くろぬりの小さい厨子ずしで、お虎の前へ置き。

母「これはわし良人おやじの形見でございまして、七ヶ年あと出た行方ゆくえが知れませんが、大方死んだろうと考えていますから、良人の出た日を命日として此の観音さまへ線香を上げ、心持こゝろもちばかりの追善供養ついぜんくようを致しやして、良人に命があらば、何卒どうぞ帰って親子四人よったり顔が合わしていと、無理な願掛がんがけをして居りやんした、此の観音さまは上手じょうず彫物師ほりものしが国へ来た時、良人が注文して彫らせた観音さまで金無垢きんむくでがんすから、つぶしにしてもえらく金になると、良人も云えば人さまも云いやすが、金才覚かねさいかくの出来るまで三円の抵当かたに此の観音さまをお厨子ずしぐるみ預かって、どうか勘弁して下さいやし」

ま「おっかさん、とんでもない事をおっしゃる、それを上げて済みますか、命から二番目の大切な品では有りませんか」

母「えゝ命から次の大事なものでもよんどころない、ういう切迫詰せっぱつまりになって、人の手に観音様が入ってしまうのは、親子三人神仏かみほとけにも見離されたと諦めて、お上げ申さなければ話が落着おちつかねえではないか、あゝ早く死にてい、わしが死ねば二人の子供も助かるべいと思うが、因果と眼もなおらず、死ぬ事も出来ましねえ、お察しなすっておくんなさい」

 と泣き倒れまする。

虎「誠にお気の毒ですねえ、おや大層まア立派な観音さま、なんだか知りませんが、まア〳〵金の抵当かたに預って置きましょう、成程たけ一寸八分いっすんはちぶもありましょう、これなれば五円や十円のものはあろう」

 と云いながら艶消つやけしの厨子ずしへ入ったまゝ懐へ入れて帰りました。お虎ばゞあってたのしみに寝酒を呑んでいます所へ入って来たのは、鉄砲洲新湊町てっぽうずしんみなとちょうに居りまする江戸屋えどや清次せいじという屋根屋の棟梁とうりょうで、年は三十六で、色の浅黒い口元の締った小さい眼だが、ギョロリッとして怜悧相りこうそう垢脱あかぬけた小意気こいきな男でございます。なり結城ゆうき藍微塵あいみじん唐桟とうざん西川縞にしかわじま半纒はんてんに、八丈のとおえりの掛ったのを着て門口かどぐちに立ち。

清「おっかうちか、お虎宅かえ」

虎「誰だえ、おや棟梁さんか、おあがんなさい」

清「滅法めっぽう寒くなったのう、相変らず酒か」

虎「棟梁さんはいつ懐手ふところでい身の上だねえ」

清「おれ遊人あそびにんじゃアねえよ、此の節は前とは違って請負うけおい仕事もまご〳〵すると損をするのだ、むずかしい世の中になったのよ」

虎「棟梁さんは今盛りで、い男で、ひとり置くのは惜しいねえ、あねさんの死んだのは歳年いくねんに成りましたっけねえ」

清「もう五年に成るがおっかアがちっと若ければ女房にょうぼに貰うんだがのう」

虎「調子のいことを云ってるよ」

清「女房にょうぼで思い出したが、此の長屋の親孝行な娘はい器量だなア」

虎「あれは本当にいゝ娘だよ」

清「顔ばかりじゃねえ、何処どこから何処まで申分もうしぶんがねえ女だが、あれを女房にょうぼに貰いていが礼はするが骨を折って見てくれめえか、そうすれば親も弟もみんな引取ってもいが、どうだろう」

虎「いけないよ、年は二十五だが、男の味を知らないで、うんとさえ云えば、立派な旦那が附いて、三十円るというのに、まさか囲者かこいものには成らないと云うのだよ、何ういう訳だか、本当に馬鹿気ばかげているよ」

清「いくら苦しくても其の方が本当だ、其のまさかと云う処が此方こっちの望みだ」

虎「ほか少女すもるを呼んで遊んでおいでな、あんなものを□□て寝ても石仏いしぼとけを□□て寝るようなもので、ちっとも面白くもなんともないよ」

清「おれはそれが望みだ、あの焼穴やけあなだらけの前掛けに、結玉むすびったまだらけの細帯で、かんぼやつして居るが、それでいのだから本当にいゝのだ」

虎「棟梁は余程よっぽどれたねえ、だが仕方がないよ」

清「己も沢山たんとは出せねえが、たった一度で十円出すぜ」

虎「え、十円……鼻の先に福がぶらさがってるに、三円の金に困ってるとは、本当に馬鹿な女だ」

 と話している所へおまきが門口へ立ちまして、

ま「伯母おばさん、御免なさい」

虎「はい、どなたえ」

ま「あのまきでございますが」

 という声を聞き。

虎「おい棟梁、一件が来たよ、隣のまアちゃんが来たってばさア」

清「なに来たアきまりがわりいなア」

虎「はい、只今明けますよ、棟梁さん早く二階へあがっておいでよ、はい今明けますよ、棟梁さん早く二階へ上っておでよ…はい今明けますよ…私が様子をくして、あの子をだまして二階へ上げるから、お前さんがの娘の得心するように旨く調子よく、そこは棟梁さんだから万一ひょっとして岡惚れしないものでもないよ、はい只今明けますよ…あの道は又おつなものだから…はいよ、今明けますよ…あの子の頸玉くびたまへ□□り附いて無理に□いておしまいよ…今明けますよ…早く二階へおあがり」

 と云われ、清次は煙草盆を手にげ二階へ上るのを見て、ばゞあは土間へり、上総戸かずさどを明け。

虎「さアお入り、まアちゃん先刻さっきは悪い事をいって堪忍かんにんしておくれよ、詰らねえ事を催促さいそくして、なんだかおっかさんの大事なものだって…お厨子入ずしいりの仏さまを本当に持って来なければかったと思っていたが、私もつい酔ったまぎれでした事だが、堪忍しておくれよ、まア宜く来たねえ」

ま「はい、先程は折角御親切に云って下さいましたのに、承知致しませんでお腹立はらだちもございましょうが、まさか母やおとゝの居ります前で結構な事でございますから、何卒どうぞ妾にお世話を願いますとは伯母さん、申されませんでしたが、実に今年の暮もき立ちませんで、何かと母も心配して居りますから、私のような者でも一晩お相手をしてちっとでもお金を下されば、母の為と思いまして、どのようにも御機嫌を取りましょうから、貴方あなたいお方をお世話なすって、先程母のお預け申した観音様のお厨子を返しては下さいませんか」

 と云われ、お虎はほく〳〵よろこび。

虎「何かい、お前はのおっかさんの為に…どうも感心、くまア本当に孝行だよ、仕方がないから諦めたのだろうが、いやなお爺さんでは私も無理にとも云いにくいが、鉄砲洲の屋根屋の棟梁で、江戸屋の清次さんといういきな女惚れのする人が、お前の親孝行で、心掛こゝろがけが宜く、器量もいから、おらアほんとうに女房にょうぼに貰いたいと云ってるんだが、たった一晩でお金を五円あげるとさ、わたしゃア誰にも云わないよ、丁度今二階に棟梁が来て居るから往って御覧、い男だよ」

ま「それでは其のお方様に私が身を任せれば、お金を五円下さいますか、そうすれば其の内三円お返し申しますからどうか観音様を返して下さいまし」

虎「それはすぐにお厨子はお返し申しますがね、そんなら少し待っておいで」

 とばゞあはみし〳〵と二階へあがってまいりまして。

虎「棟梁、フヽフン、の子も苦しまぎれに往生して、親の為になる事なら旦那を取ろうと得心をしたよ、ちょいと今あの子も切迫詰せっぱつまり、明日あすに困る事があるのだが、拾円のお金をっておくれな」

清「それは遣るよ」

虎「の子の云うには、私もねえ元は立派な御用達ごようたしの娘でございますから、淫売じごくをしたと云われては世間へきまりが悪いから、惚合ほれあって逢ったようにして、□寝をされた事は世間へ知れない様にして下さいと云うから其の積りで、そうして棟梁も拾円ったなんぞと云うと、彼の娘は人がいから真赤まっかになって、金を置いて駆出かけだすから、金の事は何も云っちゃアいけないよ、今あの子を連れて来るから、お金を拾円お出しよ」

清「さア持ってきねえ、したが昔ならお大名へお妾に上げて、支度金したくきんの二百両と三百両下がる器量を持って、我々の自由になるとは可愛かあいそうだなア」

虎「それじゃアあの子が二階へあがったら私ははずしてお湯にくよ、先刻さっき往ったがもう一遍くよ、早くしておくれでないといけねえよ」

 と梯子はしごりながら拾円のうちを五円は自分の懐へ入れてしまい、おまきに向い、

虎「今棟梁に話した所がねえ、たいそうによろこんで、おれ仕手方してかたを使い、棟梁とも云われる身の上で淫売じごくを買ったと云われては、外聞げいぶんが悪いから、相対あいたい同様にしてえと云って、お金を五円おくれたからお前もお金の事を云っちゃアいけねえよ、安っぽくなるから、いかえ」

ま「伯母さん誠に有り難うございます」

虎「黙って沢山たんと貰った積りでおいでよ、人が来るといけないから早く二階へおあがりよ」

ま「何卒どうぞ観音様のお厨子を…はい有り難うございます、拝借のお金はこれへ置きます、伯母さん何処どこへいらっしゃいます」

虎「早くお上り」

 と無理に娘おまきを二階へ押上げお虎は戸を締めて其のまゝ表へ出て参りました。おまきはがわるいから清次の方へお尻をむけて、もじ〳〵しています。清次も間が悪いが声をかけ、

清「ねえさん、此方こっちへおでなさい、なんだかきまりが悪いなア、姉さんそう間を悪がって逃げてゝはいけねえ、実はねえ、わっちアお前さんをなぐさみものに仕ようと云ったのではない、おっかさんが得心すれば嫁に貰ってもいんだが、女房にょうぼになってくれる気はねえかえ」

 と云われて、おまきは両手を附き、首をれ、

ま「わたくし親父おやじが家出を致して、いまだに帰りませんから、親父が帰った上、母とも相談致さなければ亭主は持たない身の上でございますから、そんな事はいけません、そばへおでなすってはいけませんよ」

清「なんだなア、いけませんでは困るじゃないか、冗談云っちゃアいけねえぜ」

ま「誠に棟梁さん相済みませんが、下の伯母さんに三円お金のかりがございまして、そのお金の抵当かたに、身に取りまして大事な観音様をお厨子ずしぐるみに取られ、母は眼病でございまして、其の観音様を信じ、又親父がのこしてまいりました遺物かたみ同様の大事な品でございますから、是を取られては神仏かみほとけにも見離されたかと申して泣き倒れて居りまして、あんまり泣きましては又眼にも身体にもさわろうかと存じまして、子の身として何うも見てはられませんから、実は旦那を取りますからお厨子を返して下さいと伯母さんには済みませんが嘘をつき、五円いたゞいた内で、三円伯母さんにお返し申し、お厨子を返して貰いましたから、弐円の金子は棟梁さんにお返し申しますから、あと三円のところは、何卒どうぞお慈悲に親子三人不憫ふびん思召おぼしめし、来年の正月までお貸しなすって下さる訳には参りますまいか、申し何うぞお願いでございます」

清「えゝ、それは誠にお気の毒だ、お前の云うことを聞いて胸が一杯になった、三円の金に困って、おとっさんの遺物かたみの守りを婆さんに取られ、旦那取だんなどりをすると云わなければおっかさんがなげくと云って、正直に二円返すから、あとの三円は貸して呉れろと、そう云われては貸さずにはられない、色気も恋もめてしまった、あんま実地過じっちすぎるが、それじゃアばゞあう五円くすねたな、ふてえ奴だなア、それはいゝが、その大事な観音様と云うのはどんな観音様だえ、お見せ」

ま「はい、親父おやじ繁昌はんじょうの時分にらせたものでございます」

 と云いながら差出す。

清「結構なお厨子だ、艶消つやけしで鍍金金物めっきがなものたいしたものだ」

 とひらいて見れば、金無垢きんむくの観音の立像りつぞうでございます。裏を返して見れば、天民てんみんつゝしんでこくすとあり、厨子の裏に朱漆しゅうるしにて清水助右衞門としるして有りますを見て、清次は小首を傾け。

清「此の観音さまは見た事があるが、たし持主もちぬしは上州前橋の清水という御用達ごようたしで、助右衞門様のであったが、何うしてこれがお前の手にはいったえ」

ま「はい、わたくしは其の清水助右衞門の娘でございます」

 と云われ清次はおおいに驚きましたが、此の者は何者でございますか、次にくわしく申上げましょう。


     五


 家根屋やねやの棟梁清次は、おまきが清水助右衞門の娘だと申しましたにびっくりいたしまして、

清「えゝ、清水のお嬢様じょうさんですか、これはまアどうも面目次第もねえ」

 とおど〳〵しながら、

清「まア、お嬢様じょうさま、おまえさんはおちいさい時分でありましたから、顔も忘れてしまいましたが、今年で丁度十四年あとわっちが前橋にくすぶっていた時、清水の旦那には一通ひととおりならねえ御恩を戴いた事がありましたが、あれだけの御身代のお娘子むすめごが、うして裏長家うらながやへ入っていらっしゃいます、その眼の悪いのはお内儀かみさんでございやすか」

ま「はい〳〵七年以来このかた微禄びろくしまして、此様こんな裏長屋に入りまして、身上しんしょうの事や何かに心配して居りますのも、七年まえに父が東京へ買出しに出ましたぎり、今だに帰りませず、音も沙汰もございません故、母は案じて泣いてばかり居りましたのが、眼病のもとで、昨年から段々重くなり、此の頃はばったり見えなくなりましたから、おとゝわたくしと内職を致して稼ぎましても勝手が知れませんから、何をしても損ばかりいたし、お恥かしい事でございますが、お米さえも買う事が出来ません所から、お金の抵当ていとう此処こゝの伯母さんに此の観音様を取られましたから、母は神仏かみほとけにも見離されたかと申して泣き続けて居りますから、どうか母の気を休めようと思い、旦那を取ると申しまして、実は伯母さんから観音様を取返したのでございます」

清「どうも誠にどうも思いがけねえ事で、水の流れと人の行末ゆくすえとは申しますが、あれ程な御大家ごたいけ其様そんなにお成りなさろうとは思わなかった、お父様とっさまは七年あと国を出て、へいどうも、何しろおっかさんにお目にかゝり、くわしいお話もうかゞいますが、わっちは家根屋の清次と云って、お母さんは御存じでございやすが、此様こんな三尺に広袖ひろそでではきまりが悪いから、明日あしたでも参ってお目にかゝりましょう」

ま「いゝえ、母は目が見えませんから知れません、お馴染なじみならば母に逢って、どうぞ力になって下さいまし」

清「そんなら一緒に参りましょう、とんでもねえ話だが、此処こゝばゞアがお前さんに金を拾円上げましたかえ」

ま「いゝえ、五円戴きました、三円お金の借りを返しまして弐円残って居りますから、あなたへ弐円お返し申したのでございます」

清「ふてえ婆だ十円取って五円くすねたのだ仕様のねえ狡猾婆こうかつばゞあだ、そんなら御一緒にお前さんのうちきましょう」

 とこれから二人連立って外へ出ると、一軒置いて隣は清水重二郎のうちでございます。

ま「おっかさん只今帰りました」

母「何処どこへ往ったのだえ」

ま「はい桂庵けいあんのお虎さんの所へ参りました」

 と云いながら清次に向い。

ま「あなた、此方こちらへお入り遊ばしまし」

清「えい御免なせえ」

 とあがって見ると、九尺二間くしゃくにけん棟割長屋むねわりながやゆえ、戸棚もなく、かたえの方へ襤褸夜具ぼろやぐを積み上げ、此方こちらに建ってあります二枚折にまいおり屏風びょうぶは、破れて取れた蝶番ちょうつがいの所を紙捻かんぜよりで結びてありますから、まいへもうしろへも廻る重宝ちょうほうな屏風で、反古張ほごばり行灯あんどんそば火鉢ひばちを置き、土の五徳ごとくふた後家ごけになってつまみの取れている土瓶どびんをかけ、番茶だか湯だかぐら〳〵煮立って居りまして、重二郎というおとなしいおとゝが母の看病をして居ります。

清「えゝ、おふくろさん〳〵」

母「はい、何方どなたでがんすか」

ま「あの此の方はお虎さんのうちに来ていらっしゃった家根屋の棟梁さんで、おっかさんを知っていらっしゃいまして、何うしてこんな姿におなりだお気の毒な事だと云って、見舞に来て下すった、前橋にいた時分のお馴染なじみだという事でございます」

母「はい、わしは眼がわるくなりやんして、お顔を見ることも出来ませんが、何方どなたでございましたか」

清「えゝ、お内室かみさんあんたはまアどうして此様こんなにお成りなさいました、十四年あとお宅で御厄介になりやした家根屋の清次でございやす」

母「おゝ、清次か、おゝ〳〵まアどうもまア、思いがけない懐かしい事だなア、此様こんな零落おちぶれやしたよ、恥かしくってあわす顔はございやせんよ」

清「えゝ御尤ごもっともでございやす、あれだけの御身代が東京へ来て、裏家住うらやずまいをなさろうとは夢にもわっちは存じやせんでした、お嬢様もちいさかったから私も気が付かなかったが、観音様のお厨子に旦那のお名前があって分りましたが、承われば旦那には七年あとお国を出たぎり帰らないとの事、とんだ訳でございやす、忘れもしやせん、私が道楽をして江戸を喰詰くいつめ前橋へまいってって、棟梁の処から弁当をげて、あなたの処へ仕事に往った時、わっちアあのくらいな土庇どびしはねえと、いまだに眼に附いています、さわらの十二枚八分足はちぶあしで、たいしたものだ、いまだに貴方あなたのお暮しの話をして居りますが、あの時わっちア道楽のばちかさをかいて、医者も見放し、棟梁の処に雑用がたまり、薬代やくだいも払えず、何うしたらよかろうと思ってると、旦那が手前てめえの病気は薬や医者では治らねえから、れからすぐ湯治とうじけ、おれが二十両るとおっしゃってお金を下すった、其の時分の弐拾両はたいしたものだ、其の金を貰って草津へき、すっかり湯治をして帰りに沢渡さわたりへ廻り、身体を洗ってけえって来た時、旦那が、清次、手前てめえの病気の治るように此の観音様を信心してったから拝めと、お前様まえさんもそう云って他人の私を子か何かのように親切にして下さいやして、誠に有難いと思い、其の時の御恩は死んでも忘れやせん、わっちゃアこれから東京へけえったが、此の時節に成りやしたから大阪へ往ったり、又ちっとばかり知る者があって長崎の方へ往って、くすぶって居て、存じながら手紙も上げず、御無沙汰をしやしたが、漸々よう〳〵此方こっちけえり、今では鉄砲洲の新湊町に居り、棟梁の端くれをいたし、仕手方してかたを使う身分に成りましたから、前橋の方へ御機嫌伺いにまいりましょうと思って居りやす所へ、嬉しい一生懸命で拝んだ観音様だから忘れは仕ません、その観音様から清水様のお嬢さんという事が分り、誠に不思議な事でございます、たいした事も出来ませんが、是から先は及ばずながら力になります心持こゝろもちでございます、気を落してはいけません、しっかりしておいでなさい、旦那は七年あと東京へお出でなされ、お帰りのないのに捜しもしなさらないのかね」

母「はい、くまア恩を忘れず尋ねておくんなさいました、今までなさけを掛けた者はあっても、此方こっち落目おちめになれば尋ねる者は有りませんが貴方あんたも知ってる通り、段々世の中が変って来て、お屋敷がなくなったから御用がない所から、せばえゝに、種々いろ〳〵はア旦那どんも手を出したがみんな損ばかりして、段々身代しんでいを悪くしたんだア、するともう一旗揚げねえばなんねえと云って、田地でんじいえも蔵も抵当とやらにして三千円の金を借り、其の金を持って唐物屋とうぶつやとか洋物屋ようぶつやとかを始めると云って横浜から東京へえ出しに出たんだよ、ところが他に馴染なじみの宿屋がねえと云って、春見丈助様は前橋様めえばしさまの御重役で、神田の佐久間町へ宿屋を出したと云うから、其処そこに泊っていてえ出しをすると云って、うちを出たぎりけえらず、あんまり案じられてたまんねえから、重二郎を捜しにやった所が、此方こっちへ来た事は来たが、ぐ横浜へ往ったが、まアけえらねえかと云われ、せがれも驚いてけえり、手分てわけをして諸方を捜したが、一向に知れず、七年以来このかた手紙もねえからひょっと船でも顛覆ひっくりかえって海の中へ陥没ぶちはまってしまったか、又は沢山金を持って居りやしたから、泥坊に金をられたのではないかと、出た日を命日と思っていたが、抵当に入れた田地家蔵でんじいえくらは人に取られ、身代限りをして江戸へ来ても馴染がねえから、何をしても損をしたんだよ、貧乏の苦労をするせいか、とうとうしまいに眼はつぶれ、孝行な子供二人に苦労を掛けやんす、清次どん力になって、どうぞ子供二人を可愛かわいがっておくんなさいよ」

 と涙ながらに物語りましたから、清次も貰い泣きをして。

清「へい〳〵それはまアお気の毒な訳で、及ばずながら、何のようにもお世話を致しますが、わっちも貧乏で有りやすからたいした事も出来ますめえが、あなた方三人ぐれい喰わせるのに心配は有りません」

 と云いながら、おまきに向い。

清「お嬢さん、此処こゝにいらっしゃるのは御子息様でございやすか、始めてお目にかゝります」

重「わしは重二郎と申しやす不調法ぶちょうほうものですが、どうか何分宜しく願います」

清「へい〳〵及ばずながらお世話致しましょう、わっちはもうけえりやす、沢山たんと持合もちあわせはございませんが此処こゝに金が十円有りますから、置いてまいります、お足しには成りますめえが、又四五日の内に手間料が取れると持って来ます」

重「これはどうも戴いては済みません」

 と推返おしかえすを又押戻おしもどして。

清「あれさ取って置いて下せえ、七年あとに出た旦那がけえらねえのは不思議な訳だが、其処そこへ泊って買出しをすると云った、春見屋という宿屋が怪しいと思いますが、過去すぎさった事だから仕方がない、早くわっちが知ったらば、調べ方も有ったろうに、えゝ仕様がねえ、何しろ私はほかに用がありますから、又ちかえ内にお尋ね申しやす、時節を待っておいでなさい」

母「茶はないがお湯でも上げて、なんぞ菓子でも上げてえもんだが、貧乏世帯びんぼうじょたいだから仕方がない、どうか又四五日内におでなすって下さい」

清「又いお医者様が有ったらばお世話致します、お構いなすって下さいますな」

 と云いながら立上るから、誠に有難うございますと娘と忰は見送ります。

清「左様なら」

 と清次は表へ出て、誠にお気の毒だと、真実者ゆえ心配しながら、鉄砲洲新湊町へ帰ろうと思いますと、ちらり〳〵雪の花が降り出しまして、往来はぱったりと途絶え、も余程更けて居ります。川口町から只今の高橋のたもとへかゝりますと、穿いて居りました下駄げたを、がくりと踏みかえす途端に横鼻緒よこばなおゆるみました。

清「あゝいてえ〳〵、下駄を横に顛覆ひっくりけえすと滅法界めっぽうけえいたえもんだ、これだこれじゃア穿く事が出来ねえ」

 と独語ひとりごとを云いながら、腰をかけるものがないから、河岸かしに並んで居ります、蔵のさしかけの下で、横鼻緒をたって居りますと、ぴゅーと吹掛けて来る雪風ゆきかぜに、肌がれるばかり、ふるいあがるおりから、橋のたもとでぱた〳〵〳〵と団扇うちわの音が致しまして、皺枯しわがれ声で

商「鍋焼饂飩なべやきうどん

 と呼んで居ります所へ、ぽかり〳〵と駒下駄こまげた穿いて来る者は、立派な男でなり臘虎らっこの耳つきの帽子をかぶり、白縮緬しろちりめん襟巻えりまきを致し、藍微塵あいみじんの南部の小袖こそでに、黒羅紗くろらしゃの羽織を着て、ぱっち尻からげ、表附きの駒下駄穿き、どうも鍋焼饂飩などを喰いそうななりでは有りませんが、ずっと饂飩屋のそばへ寄り。

男「饂飩屋さん一杯おくれ」

饂「へい只今上げます」

 と云いながら顔を見合わせ、

饂「え是は」

男「おおきに待遠まちどおだったろうな、もっと早く出ようと心得たが、何分なにぶん出入でいり多人数たにんずで、奉公人の手前もあって出る事は出来なかった」

饂「待つのは長いもので、おまけに橋のたもとだからふるあがるようで、拳骨げんこつ水鼻みずッぱなこすって今まで待っていたが、雪催ゆきもよおしだから大方来なかろう、そうしたら明日あしたは君のうちく積りだった」

男「此間こないだ君がおれうちへ、まア鍋焼饂飩屋の姿で、ずか〳〵入って来たから、奉公人も驚き、僕も困ったじゃアないか」

又「なんで困る、君は今川口町四十八番地へあの位な構えをして、其の上春見と人にも知られるような身代になりながら、僕は斯様こん不体裁ふていさいだ、身装みなりが出来るくらいなら君の処へ無心にはかんが、実は身の置処おきどころがなくって饂飩屋になった又作だ、こゝで千円の資本もとでを借り、何か商法に取附とりつくのだ、君も又貸したって、よろしいじゃアねえか」

丈「それもいが、郵便をよこすにもわざと鍋焼饂飩屋又作と書かれては困るじゃねえか」

又「そうしなければ君が出てねえからだ、し来なければわざと何本も〳〵郵便をる積りだ、まアいじゃねえか、あれだけのかめえで、千円ぐらい貸しても宜い訳だ、元は一つ屋敷に居り、君は大禄たいろくを取り、僕は小身しょうしんもの、御維新ごいっしんのち、君は弁才があって誠しやかにういう商法をれば盛大に成ろうと云うから、僕が命の綱の金を君に預けた所、商法ははずれ、困ってる所へ三千円の金を持って出て来た清水助右衞門を打殺ぶちころし……」

丈「おい〳〵静かにしたまえ」

又「だから云やアしないから千円の金を貸したまえとう云うのだ」

丈「それが有るから斯うやって金を貸すほうで、足手あしてを運んで、雪の降るのに態々わざ〳〵橋のたもとまで来たのだから、本当に金貸かねかしをもって仕合しあわせではないか」

又「僕も金箱かねばこと思ってるよ、じたばたすれば巡査が聞付けて来るようにわざと大きな声をするぞ、事が破れりゃア同罪だ」

丈「静かに〳〵、生憎あいにく今日は晦日みそか金円きんえん入用いりようで、まとまった金は出来んが、此処こゝへ五十円持って来たから、是だけ請取うけとって置いてくれ、残金あときんは来月五日の晩には遅くも十二時までに相違なく君のたくまで持ってくから待って居てくれたまえ」

又「だから百円だけ持って来てくれというに、きざむなア、五十円ばかりの破れさつだが、受取って置こう、そんなら来月五日の晩の十二時までに、よろしい心得た、千円だぜ」

丈「千円の所はるめえもんでもないが、君、助右衞門を殺した時三千円の預り証書を着服したろうから、あれを返して呉れなければいかんぜ」

又「そんなものは有りゃアしねえが、又君が軽く金を持って来て、此のほかに百円か二百円るからと云えば、預り証書も出めえもんでもねえから、五日の晩には待ち受けるぜ」

丈「もううちへ帰るか」

又「五十円の金がへいったから、すぐに帰ろう、えゝ寒かった、一緒にこう」

丈「君は大きな声で呶鳴どなるから困るじゃアないか、僕は先へくよ」

又「どうせ彼方あっちへ帰るんだ、一緒にこう」

 と鍋焼饂飩と立派な男と連れ立ってきます。此方こなた最前さいぜんからはからず立聞きを致しております清次は驚きました。最も細かい事は小声ですからくは分りませんが、清水助右衞門を殺した時に三千円を、という事をたしかに聞いて、さては三千円の金を持って出た清水の旦那を殺した悪人は、彼等かれら二人ににんに相違ない、何処どこくかと、見えがくれに跡を附けてまいりますと、一人ひとりは川口町四十八番地の店蔵みせぐらで、六間間口ろっけんまぐちの立派なかまえ横町よこちょうの方にある内玄関ないげんかんの所を、ほと〳〵と叩くと、内からひらきを明け、奉公人が出迎えて中へ入る。饂飩屋は亀島橋を渡って、二丁目三十番地の裏長屋へ入るから、そっいてくと、六軒目の長屋の前へ荷をおろして、がちりっと上総戸かずさどを明けて入るから、清次は心の内で、此奴こいつ此処こゝに住んでるのか、不思議な事もあるものだ、清水重二郎様のおたくは此処から丁度四軒目しけんめで、一つ長屋に敵同志かたきどうしが住んで居ながら、れでは知れないはずだ、よし〳〵五日の晩には見現みあらわして、三千円の金を取返して、清水の旦那のあだかえさずに置くものか、と切歯はぎしりをしながら其のは帰宅致しまして、十二月五日の明店あきだなに忍んで井生森又作の様子をさぐり、旧悪きゅうあく見顕みあらわすという所はちょっと一息ひといきつきまして、ぐに申上げます。


     六


 さて重二郎は母の眼病平癒へいゆのために、暇さえあれば茅場町の薬師やくし参詣さんけいを致し、平常ふだんは細腕ながら人力車じんりきき、一生懸命に稼ぎ、わずかなぜにを取って帰りますが、雨降り風間かざまにあぶれることも多い所から歯代はだいたまりまして、どうも思うようにき立ちません所へ、清次から十円というまとまった金を恵まれましたので息を吹返し、まア〳〵これでお米を買うがよろしいとか、店賃たなちんを納めたがかろうとか、寒いから質に入れてある布子ぬのこを出して来たら宜かろうと、母子おやこ三人が旱魃かんばつに雨を得たような、心持こゝろもちになり、久し振で汚れない布子をて、重二郎が茅場町の薬師へお礼参りにまいりました。丁度十二月の三日の夕方でございます。薬師様のお堂へまいり、柏手かしわでを打ってしきりに母の眼病平癒を祈り、帰ろうといたしますと、地内じない宮松みやまつという茶屋があります。れは棒の時々飛込むような、怪しい茶屋ではありません。其処そこから出て来た女は年頃三十八九で色浅黒く、小肥こぶとりにふとり、小ざっぱりとしたなりをいたし人品じんぴんのいゝ女で、ずか〳〵と重二郎のそばへ来て、

女「もし貴方あなたはあのなんでございますか、あの清水重二郎様とおっしゃいますか」

重「はいわしは清水重二郎でございますが、あなたは何処どこのお方ですか」

女「あのお手間は取らせませんから、ちょっと此の二階までいらっしって下さいまし」

重「はい、なんでがんすか、わしア急ぎやすが、何処どこのお方でがんすえ」

女「いえ、春見のお嬢様でございますが、一寸ちょっとお目にかゝりおごとをしたいと仰しゃってゞすが、お手間は取らせませんから、ちょっと此の二階へおあがんなさいましよ」

重「先達さきだっては御恵おめぐみを受け、碌々ろく〳〵お礼も申上げやせんでしたが、今日は少々急ぎますから」

 と云いながらきにかゝるを引き留め。

女「お急ぎでもございましょうが、まアいらっしゃいまし」

 と無理に手を取って、宮松の二階へ引上げました、重二郎も三円貰った恩義がありますから、礼を云おうと思ってまいりました。

女「此方こちらへお這入はいんなさいまし」

 と云われ重二郎は奥の小座敷へ這入ると、文金ぶんきん高髷たかまげ唐土手もろこしで黄八丈きはちじょう小袖こそでで、黒縮緬くろちりめんに小さい紋の付いた羽織を着た、人品じんぴんのいゝこしらえで、美くしいと世間の評判娘、年は十八だが、世間知らずのうぶな娘が、恥かしそうにちょい〳〵と重二郎の顔を見ては下をいて居まして、

いさ「此方こちらへお這入り遊ばしまし、どうぞ〳〵此方へ」

重「此間こないだわしたくへ出やした時、あなたが可愛相かわいそうだと云って金をお恵み下され、早速さっそくお返し申そうと思いましたが、いまだにおけえし申す時節がまいりません、どうか遅くも押詰おしつまりまでには御返金致します心持ちで、お礼にも出ませんでした」

い「此間こないだは折角おで遊ばしましたが、父はあの通り無愛相ぶあいそうものですからお前さんにお気の毒な、まア素気そっけない事を申しましたからさぞお腹が立ちましたろうと、実はかげでお案じ申して居りましたが、今日は貴方あなたが薬師様へお参りにいらっしゃるという事を聞きましたから、かねと二人で、のう兼」

兼「本当でございますよ。お嬢様が貴方のことを案じて、うかして何処どこかでお目にかゝりたいもんだが、何うしたらかろうかといろ〳〵私にお聞きなさいますから、私も困りましたが、貴方のお宅の近所で聞いたら、貴方はさえあれば薬師様へお参りにいらっしゃるとの事ゆえ、今日は貴方のお参りにいらっしゃるお姿をちらりと見ましたから、駈けて帰り、うちの方はいようにして、お嬢様と一緒に先刻から此処こゝにまいって待って居りましたが、本当に宜くいらっしゃいました、嬢さまがしきりに心配なすっていらっしゃいますよ」

い「兼や、あの御膳ごぜんを」

 と云えば、おかねはまめまめしく。

兼「あなたお急ぎでございましょうが、嬢さまがくち上げて、御膳を上げたいとおっしゃいますから」

重「わしゃアおまんまはいけません、おふくろが待って居ますからぐにけえります」

兼「なんでございますねえ、本当にお堅いねえ、嬢様が余程よっぽどなんしていらっしゃいますのに、貴方お何歳いくつでいらっしゃいますえ」

重「わしゃア二十三でございます」

か「本当に御孝行ですねえ、嬢様は貴方の事ばかり云っていらっしゃいますよ、そうして嬢様はひとさわがしいがや〳〵した事はお嫌いで、余所よそねえさん達のように俳優やくしゃを大騒ぎやったりする事はお嫌いで、貴方の事ばかり云っていらっしゃいますから、本当に貴方、嬢様を可愛かわいそうだと思って、お参りにおでのたびに一寸ちょっと逢って上げて下さい、此方こっちでも首尾しゅびして待って居りますから、それも出来ずば、月に三度ずつも嬢様に逢って上げてくださるように願います」

重「とんでもない事を仰しゃいます、お嬢様は御大家ごたいけ婿取むことり前のひとり娘、わしゃいやしい身の上、たとえいやらしい事はないといっても、男女なんにょ七歳にして席を同じゅうせず、今差向さしむかいで話をしてれば、世間で可笑おかしく思います、し新聞にでも出されては私アうがんすが、あなたはお父様とっさまへ御不孝になりやんすから、そんな事の無い内に私アけえります」

兼「あなた、おやなら仕方がありませんが、嬢様なんとかおっしゃいな、何故なぜ此方こっちへお尻を向けていらっしゃいます、うちでばかりう云おう、あゝ云おうと仰しゃって本当に影弁慶かげべんけいですよ、そうして人の前では何も云えないで、わたくしにばかり代理をつとめさせて、ほんとうに困りますじゃア有りませんか、ようお嬢様」

い「誠に申しにくいけれども、どうか御膳ごぜんだけ召上ってください、しおやならばお母様っかさまはお加減が悪くていらっしゃるから、おさかなけて置いて、あのお見舞に上げたいものだねえ」

兼「あなた召上らんでも、お帰りの時重箱は面倒だから、折詰おりづめにでもして上げましょう、嬢様お話を遊ばせ、私は貴方あなたのおっかさんのお眼のなおるよう、嬢様の願いのかなうように、一寸ちょっと薬師様へお代参だいさんをして、お百度を五十度ばかりあげて帰ってまいって、まだ早い様なれば、又五十度上げて来ます、ぐに往って来ます」

 と仲働なかばたらきのお兼が気をきかし、其の場をはずして梯子はしごを降りる、跡には若い同士の差向さしむかい、心には一杯云いたい事はあるが、おぼこの口に出し兼ね、もじ〳〵して居ましたがなに思いましたか、おいさは帯のあいだへ手を入れて取出す金包かねづゝみを重二郎の前に置き。

い「重さん、これは誠にお恥かしゅうございまして、少しばかりでございますが、おっかさまが長い間お眼が悪く、貴方あなたも御苦労をなさいますと承わりましたから、おしになるようにと思いますが、思うようにも行届ゆきとゞきませんが、これでどうぞ何かお母さんのお口に合った物でも買って上げて下さいまし、ほんの少しばかりでございますが、お見舞のしるしにお持ちなすって下さいまし」

重「へい〳〵此間こないだはまア三円戴き、それでおおきにわししのぎを附けやしたが又こんなに沢山金を戴いては私済みやせんから、これを戴くのは此間の三円お返し申した上のことゝ致しましょう」

い「そんなことを仰しゃいますな、折角持って来たものですからどうか受けてください、お恥かしい事でございますが、わたくし貴方あなた心底しんそこ思って居りまして済みません、あなたのほうでは御迷惑でも、それは兼がく存じて居ります、此のあいだお別れ申した日から片時かたときも貴方の事は忘れません」

 と云いながら指環ゆびわを抜取りまして、重二郎の前へ置き。

い「これは詰らない指環でございますが、貴方あなたどうぞおめなすって、そうして貴方の指環をわたくしにくださいまし、あなたし嵌めるのがおやならしまって置いてくださいまし、私は何も知りませんが、西洋とかでは想った人の指環を持ってれば、生涯其の人に逢う事がなくても亭主と思って暮すものだと申します、私はほんとうに貴方を良人おっとと思って居りますから、どうぞこれを嵌めてください」

 と恥かしい中から一生懸命にふるえながら、重二郎の手へ指環を載せ、じっと手を握りましたが、此の手を握るのは誠に愛の深いもので、西洋では往来で交際の深い人に逢えばたがいに手を握ります、追々おい〳〵ひらけると口吸こうきゅうするようになると云いますが、是はきたないように存じますが、そうなったら圓朝などはぺろ〳〵めて歩こうと思って居ります。今おいさにじっと手を握られた時は、流石さすがに物堅き重二郎も木竹きたけでは有りませんから、心嬉しく、おいさの顔を見ますと、つぼみの花の今なかひらかんとする処へつゆを含んだ風情ふぜいで、見る影もなき重二郎をば是ほどまでに思ってくれるかと嬉しく思い、重二郎も又おいさの手をじっと握りながら、

重「おいさゝん、今おっしゃった事がほんとうなら飛立とびたつ程嬉しいが、只今も申す通り、わしは今じゃア零落おちぶれて裏家住うらやずまいして、人力をいやしい身の上、お前さんは川口町であれだけの御身代のお嬢様釣合わぬは不縁の元、とてもおとっさんが得心して女房にょうぼにくれる気遣きづかいもなければ、又私が母に話しても不釣合ふつりあいだから駄目だと云って叱られます、姉も堅いから承知しますめえ、と云って親の許さぬ事は出来ませんが、あなたそれ程まで思ってくださるならば、人は七転ななころ八起やおきのたとえで、運が向いて来て元のようになれんでも、めて元の身代の半分にでも身上しんしょうが直ったらおいささん、お前と夫婦に成りましょう、私も女房を持たずに一生懸命にかせぎやすが、貴方あなたも亭主を持たずに待って居てください」

い「本当に嬉しゅうございます、わたくし一生奉公いっしょうぼうこうをしても時節を待ちますから、お身を大事に重二郎さん、あなた私を見捨てると聴きませんよ」

 と慄声ふるえごえで申しましたが、嬉涙うれしなみだに声ふさがあとは物をも云われず、さめ〴〵とし襦袢じゅばんの袖で涙を拭いて居ります。想えば思わるゝで、重二郎も心嬉しく、せわ〳〵しながら。

重「わしはもうけえりますが、今の事をたのしみに時節の来るまでかせぎやすよ」

い「御身代の直るように私も神信心かみしんじんをして居ります、どうぞお母様っかさまにお目にはかゝりませんが、お大事になさるようにおっしゃってくださいまし」

重「此のつゝみは折角の思召おぼしめしでございますから貰ってきます」

 と云っている処へお兼が帰ってまいり、

兼「もう明けてもよろしゅうございますか、お早ければう一遍往ってまいります」

 と云いながらへだてふすまを明け、

兼「なんだかお堅い事ねえ、本当に嬢様は泣虫なきむしですよ、お気が小さくっていらっしゃいますから、あなた不憫ふびんと思って時々逢って上げて下さいまし、あのうお帰りですか、又お参りにいらっしゃって、さえあれば毎日でも首尾しゅびを見て此処こゝにいますから、時々逢って上げて下さいよ、どうも素気そっけないことねえ、表は人が通りますから、裏からいらっしゃいまし、左様なら」

 と重二郎はうちへ帰りまして、母にも姉にも打明けて云われず、と云って問われた時には困りますから、其の指環を知れないようにしまう処はあるまいかと考え、よし〳〵と云いながら紙へくるんで腹帯はらおびあいだはさんで、時節を待ち、真実なおいさと夫婦になろうと思うも道理、二十三の水の出花でばなであります。お話変って、十二月五日の日暮方ひくれがた、江戸屋の清次が重二郎の居ります裏長屋の一番奥の、小舞こまいかきの竹と申す者のたくへやってまいり、

清「竹、うちか」

竹「やア兄い、おおきに御無沙汰をして、からどうも仕様がねえ、貧乏ひまなしで、聞いておくんねえ、此間こねえだ甚太じんたッぽうがおめえさん世話アやかせやがってねえ、からどうも喧嘩けんかぱえいもんだからねえ、もっと金次きんじの野郎がわりいんでございやさアねえ、湯屋ゆうやでもってからに金次の野郎が挨拶しずにぐんとしゃがむと、おめえさん甚太っぽーの頭へ尻をせたんでごぜいやす、そうすると甚太っぽーが怒って、下から突いたからめえへのめって湯を呑んだという騒ぎで、此の野郎と云うのが喧嘩のはじまりで、甚太っぽーの顳顬こめかみを金次が喰取くいとってっぺいって吐出はきだしたのです、あとで段々聞いて見ると梅干がって有ったのだそうで、こりゃアすっぺいねえ」

清「詰らねえ事を云ってるな、少し頼みがあるが、襤褸ぼろ蒲団ふとんと小さな火鉢ひばち炭団たどんけて貸してくれねえか、それを人に知れねえ様に彼処あすこ明店あきだなへ入れて置いてくれ」

竹「なんです、火でもけるのかえ」

清「馬鹿ア云うなえ、火を放ける奴がある者か」

 小舞こまいかきの竹は勝手を知っていますから、明店あきだな上総戸かずさどを明けて中へ這入はいり、こもき、睾丸火鉢きんたまひばちを入れ、坐蒲団ざぶとんを布きましたから、其の上に清次は胡座あぐらをかき。

清「用があったら呼ぶから、もういゝや」

竹「時々茶でも持って来ようかねえ」

清「一生懸命の事だから来ちゃアいけねえ」

 と云われ、竹は其のまゝそっと出てく。隣りは又作のすまいですが、だ帰らん様子でございます、しばらくたつと、がら〳〵下駄を穿いて帰って参り、がらりとがたつきまする雨戸を明けて上へあがり、擦附木すりつけぎでランプへ火をともし、鍋焼饂飩なべやきうどんの荷の間からへりのとれかゝった広蓋ひろぶたを出し、其の上に思い付いて買って来た一升の酒にさかなを並べ、其の前に坐り、

又「何時いつまで待ってもんなア」

 と手酌てじゃくで初める所を、清次はそっと煙管きせる吸口すいくち柱際はしらぎわの壁の破れをつッつくと、穴が大きくなったから。破穴やぶれあなからのぞいていますが、これを少しも知りませんで、又作はぐい飲み、猪口ちょくで五六杯あおり附け、追々えいが廻って来た様子で、旱魃ひでりの氷屋か貧乏人が無尽むじんでも取ったというようににやり〳〵と笑いながら、懐中から捲出まきだしたは、鼠色だか皮色だか訳の分らん胴巻様どうまきよう三尺さんじゃくの中から、捻紙こよりでぎり〳〵巻いてある屋根板様やねいたようのものを取出し、捻紙を解き、中より書附かきつけを出し、ひらいてにやりと笑い、又元の通り畳んで、ぎり〳〵巻きながら、彼方あちら此方こちらへ眼を附けていますから、何をするかと清次は見ていると、饂飩粉うどんこの入っています処の箱を持出し、饂飩粉の中へ其の書附様かきつけようのものを隠し、ふたを致しまして襤褸風呂敷ぼろぶろしきにて是を包み、独楽こまひもなどぎ足した怪しい細引ほそびきで其の箱をはりつるし、紐のはし此方こっちの台所のあがり口の柱へ縛り附け、あおぬいて見たところ、屋根裏がくすぶっていますから、箱のつるして有るのが知れませんから、ずよしと云いながら、またぐび〳〵酒を呑んで居ますうちに、追々けてまいりますと、地主のうちの時計がじゃ〳〵ちんちんと鳴るのは最早もはや十二時でございます。此の長家ながやかせにんが多いゆえ、昼間の疲れで何処どこもぐっすり寝入り、一際ひときわしんといたしました。すると路地をいって、溝板どぶいたの上を抜け足で渡って来る駒下駄こまげたの音がして又作の前に立ち止り、小声で、

男「又作明けてもいか」

又「やア入りたまえ、すみやかに明けたまえ、明くよ」

男「大きな声だなア」

 と云いながら、ようや上総戸かずさどを明け、跡を締め。

男「締りを仕ようか」

又「別に締りはない、たゞ栓張棒しんばりぼうが有るばかりだが、泥坊の入る心配もない、かくの如き体裁ていさいだが、どうだ」

男「随分きたないなア」

又「実に貧窮然ひんきゅうぜんたる有様ありさまだて」

男「おおきに遅参ちさんしたよ」

又「今日君が来なければ、しょむずかしい事を云おうと思っていた」

春「大きな声だなア、隣へ聞えるぜ」

又「両隣は明店あきだなで、あとは皆かせにんばかりだから、十時を打つときに寝るものばかりだから、安心してまア一杯りたまえ、寒い時分だから」

春「さア約束の千円は君に渡すが、どうか此の金で取附とりついてどんな商法でもひらきなさい、共に力に成ろうから、なんでも身体を働いてらなくっちゃアいけんぜ、君は怠惰者なまけものだからいかん、運動にもなるから働きなさい、酒ばかり飲んでいてはいかんぜ、何でも身をくだいて取附かんではいかん」

又「それはもとよりだ、何時いつまでうやって鍋焼饂飩なべやきうどんを売ってゝも感心しないが、これでもちっとは資本もとでるねえ、古道具屋へ往って、黒い土の混炉こんろが二つ、行平鍋ゆきひらなべが六つ、泥の鍋さ、是は八丁堀の神谷通かみやどおりの角の瀬戸物屋で買うとやすいよ、四銭五厘ずつで六つ売りやす、それから中段ちゅうだんの箱の中へ菜をでて置くのだが、面倒臭めんどうくさいから洗わずに砂だらけのまゝ釜の中へ入れるのだ、それから饂飩粉うどんこを買いにゆくんだが、饂飩粉は一貫目いっかんめ三十一銭で負けてくれた、所で饂飩屋はこれを七玉なゝツたまにして売ると云うが、それは嘘だ実は九玉こゝのツたまにして売るのだが、僕は十一にして売るよ、花松魚はながつお紙袋かんぶくろへ入れて置くのだが、是も猫鰹節ねこぶしこまッかに削ったものさ、海苔のり一帖いちじょう四銭二厘にまけてくれるよ、六つに切るのを八つに切るのだ、是にはしを添えて出す、清らかにしなければならんのだが、あんまり清らかでねえことさ、これでその日を送る身の上、行灯あんどん提灯屋ちょうちんやるとぜにを取られるから僕が書いた、鍋の格好かっこうよろしくないが、うどんとばかり書いて鍋焼だけは鍋の形で見せ、醤油樽しょうゆだるの中に水を入れ、土瓶どびんつゆが入っているという、本当にくしても売れねえ、ういう訳で、あの寒い橋のたもとでこれを売って其の日を送るまでさ、旧時むかしは少々たりともろくんだものが、時節とは云いながら、残念に心得て居ります、処へ君にめぐり逢っておおきに力を得た、其の千円で取附とりつくよ」

春「千円は持って来たが、三千円の預り証書と引替に仕ようじゃないか」

又「よく預り証書〳〵と云うなア」

春「隠してもいかん、助右衞門を打殺ぶちころして旅荷にこしらえようとする時に、君が着服したに相違ない、隠さずに出したまえ」

又「有っても無くてもかくも金を見ねえうちは証文も出ない訳さ」

春「そんなら」

 と云いながらふところからずっくり取出すと。

又「有難ありがてえ、えーおー有難ありがてい、是だけが僕の命の綱だ」

春「此間こないだは何を云うにも往来中おうらいなかで、くわしい話も出来なかったが、助右衞門の死骸はどうしたえ」

又「おたくから船へ積んで深川扇橋へ持ってき、猿田船やえんだぶねへ載せ、僕が上乗うわのりをして古河の船渡ふなとからあがって、人力をあつらえ、二人乗ににんのりの車へ乗せて藤岡を離れ、都賀村へ来ると、ぶんと死骸の腐ったにおいがすると車夫がぎ附け、三十両よこせとゆするから、るかわりに口外するなと云うと、火葬にすると云って、沼縁ぬまべりへ引込んで、よしあしの茂った中で、こっくり火葬にして、沼の中へ放り込んだ上、何かの様子を知った人力車夫の嘉十、いかして置いては後日のさまたげと思い、簀蓋すぶたを取って打殺うちころし、沼へほうり込んで、それから、どろんとなって、信州で其の年を送って、石川県へ往って三年ばかりって大阪へまいった所、しっての通り芸子舞子の美人ぞろいだからたまらない、君から貰った三百円もちゃ〳〵ふうちゃさ、むを得ず立帰たちかえった所が、まアういう訳で取附く事が出来ねえから、鍋焼饂飩なべやきうどんと化けてると、川口町に春見うじとあって河岸蔵かしぐらみんな君のだとねえ、あのくれいになったら千円ぐらいはくれても当然あたりめえだ」

春「金はるから預り証書を出したまえよ」

又「無いよ、どうせ人を害せば斬罪ざんざいだ、僕が証書を持ってゝ自訴じそすれば一等は減じられるが、君はのがれられんさ、よろしいやねえ、まアいから心配したもうな」

春「出さんなら千円やらんよ」

又「だって無いよ、さア見たまえ」

 と最前さいぜん預かり証書は饂飩粉うどんこの中へ隠しましたゆえ平気になり、衣物きものをぼん〳〵取ってふるい、下帯したおび一つになって。

又「此の通り有りゃアしない、うちも狭いから何処どこでも捜して見たまえ」

 と云われ春見も不思議に思い、あの証書をほかへ預けて金をかりるような事は身が恐いから有るまいが、畳の下にでも隠して有ろうも知れぬから、表へ出してやって、あとさがそうと思い。

春「まアい、仕方がないが、家鴨しゃもばかりでは喰えねえ、向河岸むこうがしへ往って何かさかなを取って来たまえ」

 と云いながら、懐中から金を一円取出して又作の前へ置く。

又「これは御散財ごさんざいだねえ千円の金を持って来た上で肴代さかなだいを出すとは、悪事をしたむくいだ」

 と云いながら出てく、跡にて春見は家内かないを残らず探したが知れません。何処どこへ隠したか、何処へ置いて来たか、穴でも掘ってけてあるのではないか、床下ゆかしたにでも有りはしないか、何しろ彼奴あいつの手に証書を持たして置いては、千円ってもたもつ金ではない、つかい果して又後日ねだりに来るに違いない、是が人の耳になればついに悪事露顕ろけんもとだから、罪なようだが、彼奴を殺してしまい此家こゝへ火をけ、証書も共に焼いてしまうよりほかに仕様がない、又作をくびり殺し、此のうちへ火をければ、又作は酒の上で喰い倒れて、独身者ひとりものゆえ無性ぶしょうにして火事を出して焼死やけしんだと、世間の人も思うだろうから、今宵こよい又作を殺して此のへ火をけようと、悪心も増長いたしましたもので、春見は思いはかって居りますところへ、又作が酒屋の御用を連れて帰ってまいり。

又「おおきに御苦労、平常ふだんおれが借りがあるものだから、番頭めぐず〳〵云やアがったが、今日は金を見せたもんだから、ぐよこしやアがった、さかなついでに御用に持たして来たよ、大きに御苦労だった、いつもは借りるが今日は現金だ、番頭にく云ってくんな」

 と云いながら上へあがり、是から四方山よもやまの話を致しながら、春見は又作にさかずきを差し、自分は飲んだふりをして、あけては差すゆえ、又作はずぶろくにいました。

又「おおきに酩酊めいてい致した、あゝ心持こころもちだ、ひどくった」

春「君、僕も酩酊致したからう立ち帰るよ、千円の金はよろしいかえ、たしかに渡したよ」

又「宜しい、金は死んでも離さない、宜しい、大丈夫心配したもうな」

春「それじゃア締りを頼むよ」

 と云うと、又作は横に倒れるを見て、春見は煎餅せんべいのような薄っぺらな損料蒲団そんりょうぶとんを掛けてうちに、又作はぐう〳〵と巨蟒うわばみのような高鼾たかいびきで前後も知らず、寝ついた様子に、春見は四辺あたりを見廻すと、先程又作がはりつるした、細引ほそびきの残りを見附け、それを又作の首っ玉へ巻き附け、力にまかせて縊附しめつけたから、又作はウーンと云って、二つ三つ足をばた〳〵やったなり、悪事のばちで丈助のためにくびり殺されました。春見は口へ手を当て様子をうかゞうとすっかり呼吸が止った様子ゆえ、細引をき、懐中へ手を入れ、先刻渡した千円の金を取返とりかえし、たきゞ木片こっぱ死人しびとの上へ積み、縁の下から石炭油せきたんゆびんを出し、油をけ、駒下駄こまげたを片手にげ、表の戸を半分明け、身体をなかば表へ出して置いて、手らんぷを死骸の上へほうり付けますと、見る〳〵内にぽっ〳〵と燃上もえあがる、春見は上総戸かずさどてる間もなく跣足はだしまゝのめるように逃出しました。する内に火は㷔えん〳〵と燃え移り、又作のうちは一杯の火に成りましたが、此の時隣りの明店あきだなにいた清次はおおいに驚き、まご〳〵しては焼け死ぬから、兎も角も眼の悪い重二郎のおふくろ怪我けががあってはならんと、明店を飛出とびだす、是から大騒動おおそうどうのお話に相成ります。


     七


 西洋の人情話の作意さくいはどうも奥深いもので、証拠になるべき書付かきつけ焼捨やきすてようと思って火をけると、其の為に大切の書付が出るようになって居りますが、実に面白く念の入りました事で、前回に申上げました通り、春見丈助は井生森又作をくびり殺して、死骸の上に木片こっぱを積み、石炭油せきたんゆぎ掛けて火をけて逃げますと云うのは、極悪非道な奴で、火は一面に死骸へ燃え付きましたから、隣りの明店あきだなに隠れて居りました江戸屋の清次は驚きましたが、通常あたりまえの者ならば仰天ぎょうてんして逃げを失いますが、そこが家根屋やねやで火事には慣れて居りますから飛出とびだしまして、同じ長家ながやる重二郎の母をけようと思ったが、否々いや〳〵先程又作が箱の中へ入れて隠した書付が、万一ひょっとしての三千円の預り証書ではないか、それについては何卒どうか消されるものなら長家の者の手をりて消し止めたいと思い、取って返して突然いきなり又作のうちを明けると、火はぽッ〳〵と燃上もえあがりまして火の手が強く、柱に縛付しばりつけてあった細引ほそびきへ火が付きますと、もとより年数のってしょうのぬけた細引でございますから、焼け切れますると、の箱が一つべっついへ当り、其のはずみに路地へ転げ落ちましたから、清次はいや是だと手早く其の箱を抱えて、

清「竹え、長家から火事が出た、消せ〳〵」

 と云って呶鳴どなりましたから、長家の者が出てまいり揉み消しましたから、火事は漸々よう〳〵隣りの明家あきやへ付いたばかりで消えましたが、又作は真黒焦まっくろこげになってしまいましたけれども、たれあって春見丈助が火をけたとは思いませんので、どうも食倒くらいたおれの奴を長家へ置くのが悪いのだ、大方おおかた又作はくらい酔ってらんぷを顛倒ひっくりけえしたのだろう、まア仕方がないと云うので、届ける所へ届けて事済ことずみに成りました。左様そんな事と存じませんのは、親に似ません娘のおいさで、十二歳の時に清水助右衞門が三千円持って来た時、親父おやじが助右衞門を殺して其の金を奪取うばいとり、それから取付とりついてこれだけになったのは存じて居りますし、また助右衞門のうちは其の金を失ってから微禄びろくいたして、今は裏家住うらやずまいするようになったが、可愛相かあいそうにと敵同志かたきどうしでございますが、重二郎と言いかわせましたのは、悪縁で、おいさは何うかおっかさんの眼がなおればいゝがと、薬師様へ願掛がんがけをして居ります。丁度十一日の事で、娘はうちけ出して日暮方ひぐれがたからお参りにきました。此方こちらでは重二郎が約束はしませんが、おいさが一のは内の首尾がいゝと云ったこともあるし、今日往ったら娘に逢えようかと思って、薬師様へまいり、お百度を踏んで居りますと、お兼という春見の女中が出てまいりまして、まア此方こちらへと云うので、宮松の二階へ連れて往って。

兼「誠に今日はお目にかゝれるだろうと思って来ましたが、おくって、ねえお嬢様」

重「今日はわしも少しお目にかゝりたいと思っていましたが、少し長屋に騒動があって、どうも」

兼「そうですって、あなたのお長屋から火事が出ましたって、お嬢さんも御心配なさいますから、あの御近所へ出て様子を聞きましたが、それでもマアすぐに消えましたって、おおきに安心しましたよ」

重「あのわしも少しお話がしたい事がありますがあんたのお名はなんとか申しましたっけねえ」

兼「はいわたくしはかねと申しますので」

重「どうかお嬢様に少しお話がありますから、あなたは少し此処こゝへおでなさらねえように願いたいもので」

兼「今度は貴方あなたの方からそうおっしゃいますように成りましたねえ、今度は二百度を踏んで来ますよ」

 と云いながら出てきますと、あとは両人が差向さしむかいで

いさ「誠に此のあいだは失礼をいたしました、お母様っかさまのお眼は如何いかゞでございます」

重「此間こないだ貰った十円の金と指環ゆびわはあなたへお返し申しますから、お受け取りなすって下さいまし」

い「あれ、折角お母様っかさまに上げたいと思って上げたのに、お返しなさるって、そうして指環も返そうとおっしゃるのは、貴方あなたお気に入らないのでございますか」

重「此間こないだも云う通り、釣合つりあわぬは不縁ふえんもと零落果おちぶれはてた此の重二郎、が貴方あなたと釣合うような身代になるのはいつの事だか知れません、あなたがそれまで亭主を持たずにはられますめえし、わしだっても年頃になれば女房にょうぼを持たねえ訳にはいきません、此間こないだあんたが嬉しい事を云ったから女房にしようと約束はしたが、まだ同衾ひとつねをしねえのが仕合しあわせだから、どうか貴方あんたはいゝ所から婿を取って夫婦なかよくお暮しなすって、わしが事はふッつりと思い切って下さらないと困る事がありますから、何卒どうか思い切って下さい、よう〳〵」

い「はい〳〵」

 と云って重二郎の顔を見詰めて居りましたが、ぽろりと膝へなみだをこぼして、

い「重さん、わたくし不意気ぶいきものでございますから、貴方あなたに嫌われるのは当前あたりまえでございますが、たとえ十年でも二十年でも亭主はもつまい、女房にょうぼはもたないと云いかわせましたから、真実そうと思ってたのしんで居りましたのに、貴方がそうおっしゃればわたくしは死んでしまいますが、万一ひょっと許嫁いゝなずけ内儀おかみさんでも田舎から東京へ出て来てそれを女房になさるなら、それでよろしゅうございますから、私は女房になれないまでも御飯炊ごぜんたきにでもつかってあなたのお側にお置きなすって下さいまし」

重「勿体もったいない、御飯炊ごぜんたきどころではないが云うに云われない訳があって、あんたを女房にょうぼにする事は出来ません、わしもお前さんのような実意じついのあるものを女房にしたいと思って居りましたが、訳があってそう云うわけに出来ないから、どうか私が事は思い切り、い亭主を持って、死ぬのなんのと云うような心を出さないで下さい、お前さんが死ぬと云えば私も死なゝければならないから、どうか思い切って下さい」

い「お前さんの御迷惑になるような事なら思切おもいきりますけれど、お前さんの御迷惑にならないように死にさえすればようございましょう」

重「どうかそんな事を云わねえで死ぬのは事の分るまで待って下さい、あとで成程と思う事がありますから、どうか二三日にさんち待って下さい、久しくるのも親の位牌いはいに済みませんから」

 と云いながらとうとするを、

い「まア待って下さい」

 と袖にすがるのを振切ふりきってきますから、おいさは欄干らんかんに縋って重二郎を見送りしまゝ、ワッとばかりに泣き倒れました所へ、お兼が帰ってまいり、漸々よう〳〵いたわり連立つれだってうちへ帰りました。すると丁度其のくれの十四日の事で、春見は娘が病気で二三日にさんち食が少しもいかないから、種々いろ〳〵心配いたし、名人の西洋医、佐藤先生や橋本先生を頼んで見て貰ってもなんだかさっぱり病症が分らず、食が少しもいきませんから、流石さすが悪者わるものでも子を思う心は同じ事で、心配して居ります所へ。

男「えゝ新湊町の屋根屋の棟梁の清次さんという人が、あなたにお目にかゝりたいと申して参りました」

丈「なんだか知れないが病人があって取込とりこんでるから、お目にかゝる訳にはいかないから、断れよ」

男「是非お目にかゝりたいと申して居ります」

丈「なんだかねえ、此間こないだ大工の棟梁にどうも今度の家根屋やねやはよくないと云ったから、大方それで来たのだろう、どんななりをして来たえ、半纒はんてんでも着て来たかえ」

男「なアに整然ちゃんとしたなりをして羽織を着てまいりました」

丈「それではまア此方こっちへ通せ」

 と云うので下男が取次とりつぎますと、清次が重二郎を連れて這入はいって来ましたから、重二郎を見るとお兼が奥へ飛んで来まして。

兼「お嬢様、重さんが家根屋やねやさんを連れて来ましたよ、此間こないだあなたに愛憎尽あいそづかしを云ったのを悪いと思って来たのでしょう」

い「そうかえ、そんなら早く奥の六畳へでもお通し申して逢わしておくれ」

兼「そんな事をおっしゃってもいけません、わたくしが今様子を聞いて来ますから」

 と障子の外に立聞たちぎきをします時、

丈「さア此方こちらへ〳〵」

清「へい新湊町九番地にいる家根屋の清次郎と申します者で、始めてお目にかゝりました」

丈「はい始めて、私は春見丈助、少し家内に病人があって看病をしたので、疲れて居りますからこれ火を上げろ、おつれがあるならお上げなさい」

清「えゝ少し旦那様に内々ない〳〵お目にかゝってお話がしとうございまして参りましたが、おうちかたに知れちゃアよろしくありませんから、どうか人のねえ所へお通しを願いたいもので」

丈「此間こないだ大工の棟梁が来て、家根やねの事をお話したから、其の事だろうと思っていましたが、何しろお話を聞きましょう、これ胴丸どうまるの火鉢を奥の六畳へ持ってけ」

清「旦那、まアお先へ」

 ときへ立たせて跡から重二郎のいて来ることは春見は少しも知りません。

丈「これよ、茶と菓子を持って来いよ、かすてらがよいよ、これ〳〵、何か此のかた内々ない〳〵の用談があっておでになったのだから、みん彼方あちらって、此方こっちへ来ないようにするがいゝ、お連れがあるようですね」

清「重二郎さん、此方こっちへお這入はいり」

重「誠に久しくお目にかゝりませんでした」

丈「おや〳〵清水の息子さんか、此間こないだは折角おでだったが、取込とりこんでいて失敬を云って済みません、何かえ清次さんのおつれかえ」

清「旦那え、わっちが前橋にくすぶって居りましたとき、清水さんの御厄介になりました、その若旦那で、今は零落おちぶれてき亀島町におでなさるのを聞いて驚きましたから、其様そんなにぐず〳〵していないで、春見様はき此の向うにいて立派な御身代になっておいでなさるから、おとっさんがお預け申した金をけえしてお貰い申すがいゝじゃないかと云っても、若いお方ですから、ついおっくうがっておいでなさるから、今日はわっちがお連れ申しましたが、どうか七年あとの十月の二日にお預け申した三千円の金はお返しなすって下さい」

丈「なに三千円、僕が預かった覚えはないが、どう云う訳で重二郎殿が清次さんお前さんにそんな事を云ったのだえ」

清「へい、段々旦那も身代が悪くなって、商法を始めるのにいて高利を借り三千円の金を持って東京へ買出かいだしに出て来て、馴染なじみの宿屋もねえ事ですから、元前橋で御重役をなすった貴方あなたが、東京へ宿屋を出しておいでなさるから、彼方あそこへ行って金を預けて買出しをすれば大丈夫だと、うち云置いいおいて出て来たまゝ帰ってねえで、もとより家蔵いえくらを抵当にして借りた高利だから、借財方しゃくざいかたから責められ、重さんのおっかさんが心配して眼がつぶれて見る影もねえ御難渋ごなんじゅうわっちも見かねて貴方あなたへ預けた金を取りに来やした、預けたにちげえねえ三千円、元は大小をした立派な貴方、開化になっても士族さんは士族さん、ことにこれだけの身代で、預ったものを預からないと云っては御名義にも係わりますから、旦那、けえしてって下せえな」

丈「お黙んなさい、預かった覚えは毛頭ありません、何を証拠に三千円の金を、私がんで預りましょう、ことに七年あと清水さんが私の所へ参った事はありません」

重「それはとお言葉が違いましょう、わしが七年あと親父おやじを捜しに来た時、成程清水助右衞門が来たと云った事があるが、貴方あんたはお侍さんにも似合いませんねえ」

丈「成程それは来ました、さア来ましたが、すぐに横浜へくと云うから、まア一晩泊ったらかろうと云ったが聞き入れず、すぐに出てきなすって泊りはせんと云いました」

重「それだからさ」

清「まア黙っておでなせえ、旦那え、今三千円の金があれば清水の家も元のように立ちやす、そうすれば貴方あなた寝覚ねざめがいゝから、どうか返して下せえ、親子三人、うかあがります」

丈「浮び上るか沈んでしまうか知りませんが、七年あと預けたものを今まで取りに来ないはずはありますまい、ことに十円や廿円の金じゃアなし、三千円という大金ではないか」

清「旦那静かになせえ証拠のないものは取りに来ません、三千円確かに預かった、入用にゅうようの時は何時なんどきでもえそうという証書があります」

丈「なに証書がある、証書があれば見ましょう〳〵」

 と春見は心のうちに思うのに、又作を殺し、うちまで焼いてしまったから、証書のあるはずはないと思いまして、気強く、

丈「さア見ましょう〳〵」

清「旦那、これにあります」

家根板やねいたのような物に挟んである証書を出して、春見に手渡てわたしにしませんで、

清「旦那これが証拠でございます」

 と云われた時は流石さすがの春見も面色めんしょく土の如くになって、一言半句いちごんはんくも有りません。

清「旦那え、これだけ立派な証拠があるのに、年月としつきってもけえさなければ泥坊よりひどいじゃねえか、難渋なんじゅうを云って頼んでも理に違っちゃアこれ程も恵まねえ世の中じゃアありませんか、何故なぜ貴方あなた預かった覚えはないとおっしゃいました」

丈「お静かにして下さい、〳〵、実は預かったに違いないが、清水殿が金を預けて横浜へ参り、年月としつきを経っても取りに来ないところから、段々僕も微禄びろくして此の三千円があれば元の様になれるかと思い、七年経っても取りに来ないからよもやう取りにやアしまいと心得て、人間の道にあるまじき、人の預けた金をつかい、預かった覚えはないと云ったのは重々じゅう〴〵申訳もうしわけがないが、只今早速御返金に及ぶから、何卒どうか男と見掛けてお頼み申すから棟梁さん内聞ないぶんにして呉れまいか」

清「そりゃアよろしゅうございますが、しなに寄ったら訴えなければならねえが、旦那、無利息じゃアありますまい、貴方あなたも銀行や株式の株を幾許いくらか持っていなさるお身の上だから、預金あずけきん取扱とりあつかかたも御存じでしょうが、此の金を預けてから七年になるから、七しゅにしても、千四百七十円になりますが、利息を付けて貰わなけりゃアならねえぜ」

丈「至極しごく御尤ごもっともでござるから、只今ぐに上げます、少しお待ち下さい」

 とぐに立って蔵へまいり、三千円のほかに千四百七十円耳をそろえて持ってまいり、

丈「へい、どうかお受取り下さい」

 と出しましたから、かずを改めて、

清「重さんおしまいなさい」

 と云うから、重二郎はかねて用意をして来た風呂敷へ金包かねづゝみを包んで腰へしっかり縛り付けました。

清「旦那金はたしかに受取りましたから証書はお返し申しますが、金ばかりじゃア済みますめえぜ」

丈「三千円返して、証文のおもてに利子を付けるという事はないが、此方こちらの身にあやまりがあるから、利子まで付けてったが、ほかに何があるえ」

清「ほかに何も貰うものはねえが、此の金を預けた清水助右衞門さんの屍骸しがいを返してもれえてえ」

 と云われて春見はびっくりして思わずあとさがると、清次は膝を進ませて、

「お前さんが七年あとに清水さんを殺した其の白骨でも出さなけりゃア、跡に残った女房子にょうぼこが七回忌になりやしても、とむらいも出来やせん」

 と云いながら、ぐるりっと胡坐あぐらを掻きましたが、此のおさまりはう相成りましょうか、次回までお預かりにいたしましょう。


     八


 引続きまする西洋の人情噺も、此の一席で満尾まんびになりますゆえ、くだ〳〵しい所は省きまして、善人が栄え、悪人がほろび、可愛かわいゝ同志が夫婦になり、失いました宝が出るという勧善懲悪かんぜんちょうあく脚色しくみは芝居でも草双紙くさぞうしでも同じ事で、別して芝居などは早分はやわかりがいたしますが、朝幕あさまくで紛失した宝物たからものを、一日掛って詮議せんぎを致し、夕方には屹度きっと出て、めでたし〳〵と云って打出しになりますから、皆様も御安心でお帰りになりますが、何も御見物と狂言中の人と親類でもなんでもないに、そこが勧善懲悪と云って妙なもので、善人が苦しむばかりで悪人がしまいまで無事でいましては御安心が出来ません。しかし善という事はむずかしいもので、悪事には兎角とかくそまやすいものでござります。の春見丈助利秋は元八百石もりょうしておりました立派な侍でありながら、利慾りよくのため人を殺して奪いました其の金で、悪運強く霊岸島川口町でたいした身代になりましたが、悪事というものは、のように隠しても隠しおおせられないもので、どうしての人があのように金が出来たろう、なんだかおかしいねえ、此のごろこういう事を聞いたが、万一ひょっとしたらあんな奴が泥坊じゃアないか知らんと、話しますを聞いた奴は、すぐにそれを泥坊だと云い伝え、又それから聞いた奴は尾にひれをつけて、れは大泥坊で手下が三百人もあるなどと云うと、それから探索掛たんさくがゝりの耳になって、調べられると云うようになるもので、天に口なし、人をもって云わしむるというたとえの通りでございます。の春見は清水助右衞門のせがれ重二郎がいう通り、利子まで添えて三千円の金を返したのは、横着者おうちゃくものながら、どうか此の事を内聞ないぶんにして貰いたいと、それがため別に身代にさわる程の金高きんだかでもありませんから、清く出しましたが、家根屋やねやの清次が助右衞門の死骸を出せと云うに驚き内心にはうして清次がの助右衞門を殺した事を知っているかと思い、身をふるわせて面色めんしょく変り、うしろの方へ退さがりながら小声になって。

丈「せいさん、あゝ悪い事は出来ないものだ、其の申訳もうしわけは春見丈助必らず致します、どうか此処こゝでは話が出来ませんから、蔵の中でお話を致します、れんようにお話をいたしたいから、一緒におでを願います」

清「蔵の中でなくても此処こゝでもいじゃアありませんか」

丈「此処でもよろしいが、奉公人に知れんようにしたい、娘も今年十八になるから、此の事を話せばやまいにもさわろうと思って、誠に不憫ふびんでござる、是非お話申したい事がございますから、どうか蔵の中へおで下さい」

清「めえりやしょう〳〵」

丈「どうかこと静かに願います、決して逃げかくれは致しません」

 と云いながら先に立って蔵の戸をがら〳〵と開けて内へ入りましたから、清次は腹の中で思うに、春見はもと侍だから刄物三昧はものざんまいでもされて、重二郎に怪我けがでもあってはならんと思いまして、煙草盆たばこぼんの火入れを火の入ったまゝ片手にうしろへ隠して蔵の中へ入りましたから、重二郎もおそる〳〵入りますと、春見は刀箪笥かたなだんすから刀を出し、此方こちらの箪笥から紋付の着物を出して、着物を着替え、毛布けっと其処そこへ敷き延べて、

丈「只今申訳もうしわけを致します」

 と云って刄物を出したから、清次は切り付けるかと思い、覚悟をしていますと、春見は突然いきなり短刀を抜いて腹へ突き立ってがばりっと前へのめったから、清次はすぐに春見の側へこうと思ったが、此奴こいつ死んだふりをしたのではないかと思うゆえ、

清「言訳いいわけをしようと思って腹を切んなすったかえ」

丈「さゝ人を殺し多くの金を奪い取った重罪の春見丈助、縲絏なわめに掛っては、只今は廃刀はいとうの世なれども是まで捨てぬ刀の手前、申訳もうしわけのため切腹しました、臨終いまわきわに重二郎殿、清次殿御両人に頼み置きたき事がござる、悪人の丈助ゆえ、お聞き済みがなければむを得ざれど、お聞届きゝとゞけ下さればかたじけない、清次殿どうして貴殿きでんは僕が助右衞門殿を殺したことを御存じでござるな」

清「頼みと云うのはどう云う事か知れねえが、其の頼みによっては又旦那に話して聞きもしようが、言訳いいわけに困って腹を切るのは昔のことだが、どうもお前さんは太い人だねえ、清水の旦那を殺し、又作という奴に悪智あくちさずけて、屍骸しがいを旅荷に造り、佐野の在へ持ってき、始末をつけようとする途中、古河の人力車夫にぎ付けられ、沼縁ぬまべりへ持ってって火葬にした事は、わっちゃアく知ってるぜ」

丈「さゝゝそれがさ、天命とは云いながら、知れがたい事を御存じあるのは誠に不思議でござるて」

清「その又作という奴が、三千円の証書をもっているから、又作を殺して、それを取ろうとする謀計たくみわなを知って、実はお前さんが又作をくびり殺し、火をけて逃げた時、其の隣の明店あきだなで始末を残らず聞いていたのだ、んと悪い事は出来ねえものだねえ」

丈「どうももなくば知れる道理はござらぬが、それが知れると云うのは天命のががたい訳でござる」

清「その又作が火葬にして沼の中へ放り込んだ白骨を捜し出すか、出る所へ出るか、二つに一つの掛合かけあいに来たのに、腹を切ってわっちに頼むと云うのは一体どういう頼みですえ」

丈「さればでござる、御存じの通りいさと申す手前一人の娘が、如何いかなる悪縁か重二郎殿を思いめましたを、重二郎殿が親の許さぬ淫奔いたずらは出来ぬとおっしゃったから、一にのみ引籠ひきこもり、只くよ〳〵と思いこがれてついに重き病気になり、病臥やみふして居ります、かゝる次第ゆえ、此の始末を娘が聞知きゝしる時は、うれいせまやまいおもって相果あいはてるか、ねがいの成らぬに力を落し、自害をいたすも知れざるゆえ、何卒どうぞ此の事ばかりは娘へ内聞ないぶんにして下さらば、手前の此の身代は重二郎殿へ残らず差上げます、これ此の身代は助右衞門殿の三千円の金から成立なりたったものなれば、取りも直さず、皆助右衞門殿がのこされた財産で、重二郎殿が所有たるべきものでござる、諸方へ貸付けてある金子の書類は此の箪笥たんす引出ひきだしにあって、娘いさが残らず心得て居ります、かたき同志の此のうちの跡をぐのはおいやであろうが重二郎殿、わがなきのち便たよりなき娘のおいさを何とぞ不憫ふびん思召おぼしめされ、女房にょうぼに持ってはくださるまいか、いやさ敵同志の丈助の娘を女房に持たれまいが、さゝ御尤ごもっともでござるがかれわが実子じっしにあらず、わが剣道の師にて元前橋侯の御指南番ごしなんばんたりし、荒木左膳あらきさぜんと申す者の娘の子なり」

清「ふう、それを何うしてお前さんの娘にはしなすったえ」

丈「さゝ其の仔細お聞き下され」

 と苦しき息をつきまして、

丈「今を去ること十九年以前、左膳の娘はななる者が、奥向おくむきへ御奉公中、せん殿様のお手が付き懐妊の身となりしが、其の頃お上通かみどおりのお腹様はらさま嫉妬深しっとふかく、お花をにくみ、ついとがなき左膳親子は放逐ほうちく仰付おおせつけられ、浪々中ろう〳〵ちゅうお花は十月とつきの日を重ね、産落うみおとしたは女の子、母のお花は産後の悩みによって間もなく歿ぼっせしため、跡に残りし荒木左膳が老体ながらも御主君ごしゅくんのおたねと大事にかけて養育なせしが、其の左膳も病にし、死する臨終いまわわれを枕元に招き、き跡にて此の孫を其のほうの娘となし、成長ののち身柄みがらあるいえ縁付えんづけくれ、頼む、と我師わがし遺言ゆいごん、それよりいさを養女となせしが、娘と申せど主君のお胤なれば、何とぞ華族へ縁付けたく、それについても金力きんりょくなければ事かなわずと存ぜしゆえ、是まで種々しゅ〴〵の商法をいとなみしも、慣れぬ事とてな仕損じ、七年ぜんに佐久間町へ旅人宿りょじんやどひらきしおり、これ重二郎殿、きみ親御おやご助右衞門殿が尋ね来て、用心のため預けられた三千円の金を見るより、あゝ此の金があったなら我望わがのぞみの叶う事もあらんと、そゞろにおこりし悪心より人を殺した天罰覿面てんばつてきめんかゝる最後をげるというも自業自得じごうじとく我身わがみかえってこゝろよきも、只不憫ふびんな事は娘なり、血縁にあらねば重二郎どの、女房に持ってくださらば心のこさず臨終りんじゅういたす、お聞済きゝずみくだされ」

 と血にまみれたる両手をあわせ、涙ながらに頼みます恩愛のじょうせつなるに、重二郎と清次と顔を見合わせてしばら黙然もくねんといたして居りますと、蔵の外より娘のおいさが、網戸をたゝきまして、

い「申し、清次さん、此所こゝけて下さいまし」

清「おゝ誰だえ」

い「はい、いさでござります、どうぞ開けて、死目しにめに一度逢わせてください」

 というから、清次は慌てゝ戸を開けますと、おいさはころげ込んで父の膝にすがり付き、泣倒なきたおれまして、

い「もうしお父様とっさま、おなさけない事になりました、うみの親より深い御恩を受けました上、ういう事になりましたもわたくし思召おぼしめしての事でございますから、皆様みなさんどうぞ代りに私を殺して、お父様をお助けなされて下さいまし」

 となげく娘を丈助は押留おしとゞめ。

丈「あゝこれ、お前を殺すくらいなら、ような悪い事はいたさぬわい、只今も願う如く、かねてお前の望みの通り重二郎殿と末長すえなごう夫婦になって、我が亡後なきあと追善供養ついぜんくようを頼みます、申し御両君ごりょうくん如何いかゞでございます」

清「ふう、どうして重二郎さんに此のの相続が出来ますものかね」

重「それに貴方あなたが変死したあとで、おかみへの届けもむずかしゅうござりましょう」

丈「その御心配には及びませぬ、と申すは七ヶ年以前、貴君あなたの親御より十万円恩借おんしゃくありて、今年返済の期限きたり、万一延滞そろ節は所有地家蔵いえくらを娘諸共もろとも、貴殿へ差上候さしあげそろと申す文面の証書をしたゝめて、残し置き、拙者せっしゃは返金に差迫さしせまり、発狂して切腹致せしとお届けあらば、貴殿きでん御難義ごなんぎはかゝりますまい」

 と云いながら硯箱すゞりばこ引寄ひきよせますゆえ、おいさは泣々なく〳〵ふたを取り、なみだに墨をり流せば、手負ておいなれども気丈きじょうの丈助、金十万円の借用証書を認めて、印紙いんしって、実印じついんし、ほッ〳〵〳〵と息をつき、

丈「臨終りんじゅうの願いに清次殿、お媒人なこうどとなって、おいさと重二郎どのに婚礼の三々九度、此所こゝで」

 と云う声もだん〳〵と細くなりますゆえ、二人も不憫ふびんに思い、蔵前くらまえの座敷に有合ありあ違棚ちがいだな葡萄酒ぶどうしゅとコップを取出して、両人ふたりの前へ差出さしだせば、涙ながらにおいさが飲んで重二郎へしまするを見て、丈助はよろこび、にやりと笑いながら。

丈「跡方あとかたは清次どのお頼み申す早く此の場をお引取ひきとりなされ」

 と云いつゝ短刀を右手のあばらへ引き廻せば、おいさは取付とりつなげきましたが、丈助は立派に咽喉のど掻切かききり、相果てました。それより早々そう〳〵其の筋へ届けますと、証書もありますから、跡方あとかたさわりなく春見の身代は清水重二郎所有となり、前橋竪町の清水の家を起しましたゆえ、母はよろこびて眼病も全快致しましたは、な天民の作の観音と薬師如来の利益りやくであろうと、親子三人夢に夢を見たような心地こゝちで、其の悦び一方ひとかたならず、おいさを表向おもてむきに重二郎の嫁に致し、江戸屋の清次とは親類のえんを結ぶため、重二郎の姉おまきを嫁にって、鉄砲洲新湊町へ材木みせひらかせ、両家ともに富み栄え、目出たい事のみ打続うちつゞきましたが、是というも重二郎同胞はらからが孝行の徳により、天が清次の如き義気ぎきある人を導いて助けしめ、ついに悪人ほろびて善人栄えると申す段切だんぎりに至りましたので、いさゝか勧善懲悪の趣意にもかないましょうと存じ、長らく弁じまして、さぞかし御退屈でござりましたろうが、此の埋合うめあわせには、又其の内にごく面白いお話をおきゝに入れるつもりでござりますれば、相変らず御贔屓ごひいきを願い上げます。


(拠若林玵藏、伊藤新太郎筆記)

底本:「圓朝全集 巻の九」近代文芸資料複刻叢書、世界文庫

   1964(昭和39)年210日発行

底本の親本:「圓朝全集 巻の九」春陽堂

   1927(昭和2)年812日発行

※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。

ただし、話芸の速記を元にした底本の特徴を残すために、繰り返し記号はそのまま用いました。

また、総ルビの底本から、振り仮名の一部を省きました。

底本中ではばらばらに用いられている、「其の」と「其」、「此の」と「此」、「の」と「あの」は、それぞれ「其の」「此の」「彼の」に統一しました。

また、底本中では改行されていませんが、会話文の前後で段落をあらため、会話文の終わりを示す句読点は、受けのかぎ括弧にかえました。

入力:小林 繁雄

校正:かとうかおり

2001年18日公開

青空文庫作成ファイル:

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