真珠夫人
菊池寛



奇禍



 汽車が大船を離れた頃から、信一郎の心は、段々烈しくなつて行く焦燥もどかしさで、満たされてゐた。国府津迄の、まだ五つも六つもある駅毎に、汽車が小刻みに、停車せねばならぬことが、彼の心持を可なり、いら立たせてゐるのであつた。

 彼は、一刻も早く静子に、会ひたかつた。そして彼の愛撫に、かつゑてゐる彼女を、思ふさま、いたはつてやりたかつた。

 時は六月のはじめであつた。汽車の線路に添うて、潮のやうに起伏してゐる山や森の緑は、少年のやうな若々しさを失つて、むつとするやうなあくどさで車窓に迫つて来てゐた。たゞ、所々植付けられたばかりの早苗が、軽いほのぼのとした緑を、初夏の風の下に、漂はせてゐるのであつた。

 常ならば、箱根から伊豆半島の温泉へ、志ざす人々で、一杯になつてゐる筈の二等室も、春と夏との間の、湯治には半端な時節であるのと、一週間ばかり雨が、降り続いた揚句である為とで、それらしい乗客の影さへ見えなかつた。たゞ仏蘭西フランス人らしい老年の夫婦が、一人息子らしい十五六の少年を連れて、車室の一隅を占めてゐるのが、信一郎の注意を、最初から惹いてゐるだけである。彼は、若い男鹿の四肢のやうに、スラリとしなやかな少年の姿を、飽かず眺めたり、父と母とにかたみに話しかける簡単な会話に、耳を傾けたりしてゐた。此の一行の外には、洋服を着た会社員らしい二人連と、田舎娘とその母親らしい女連が、乗り合はしてゐるだけである。

 が、あの湯治階級と云つたやうな、男も女も、大島の揃か何かを着て、金や白金プラチナや宝石の装身具を身体のあらゆる部分に、燦かしてゐるやうな人達が、乗り合はしてゐないことは信一郎にとつて結局気楽だつた。彼等は、屹度きつと声高に、喋り散らしたり、何かを食べ散らしたり、無作法に振舞つたりすることに依つて、現在以上に信一郎の心持をいら〳〵させたに違ひなかつたから。

 日は、深く翳つてゐた。汽車の進むに従つて、隠見する相模灘はすゝけた銀の如く、底光をおびたまゝ澱んでゐた。先刻さつきまで、見えてゐた天城山も、何時の間にか、灰色に塗り隠されて了つてゐた。相模灘を圧してゐる水平線の腰の辺りには、雨をでも含んでゐさうな、暗鬱な雲が低迷してゐた。もう、午後四時を廻つてゐた。

『静子が待ちあぐんでゐるに違ひない。』と思ふ毎に、汽車の廻転が殊更遅くなるやうに思はれた。信一郎は、いらいらしくなつて来る心を、ぢつと抑へ付けて、湯河原の湯宿に、自分を待つてゐる若き愛妻の面影を、くうに描いて見た。何よりも先づ、その石竹色に湿うるんでゐる頬に、微笑の先駆として浮かんで来る、笑靨ゑくぼが現はれた。それに続いて、慎ましい脣、高くはないけれども穏やかな品のいゝ鼻。が、そんな目鼻立よりも、顔全体に現はれてゐる処女らしい含羞性シャイネス、それを思ひ出す毎に、信一郎自身の表情が、たるんで来て、其処には居合はさぬ妻に対する愛撫の微笑が、何時の間にか、浮かんでゐた。彼は、それを誰かに、気付かれはしないかと、恥しげに車内を見廻はした。が、例の仏蘭西フランスの少年が、その時、

お母親さんマヽン!」と声高に呼びかけた外には、乗合の人々は、銘々に何かを考へてゐるらしかつた。

 汽車は、海近い松林の間を、轟々と駆け過ぎてゐるのであつた。



 湯の宿の欄干に身をもたせて、自分を待ちあぐんでゐる愛妻の面影が、汽車の車輪の廻転に連れて消えたりかつ浮かんだりした。それほど、信一郎は新しく婚した静子に、心も身も与へてゐたのである。

 つい三月ほど前に、田舎で挙げた結婚式のことを考へても、上京の途すがら奈良や京都に足を止めた蜜月旅行らしい幾日かの事を考へても、彼は静子を獲たことが、どんなに幸福を意味してゐるかをしみ〴〵と悟ることが出来た。

 結婚の式場で示した彼女の、処女らしい羞しさと、浄らかさ、それに続いた同棲生活に於て、自分に投げて来た全身的な信頼、日が経つに連れて、埋もれてゐた宝玉のやうに、だん〳〵現はれて来る彼女のいろ〳〵な美質、さうしたことを、取とめもなく考へてゐると、信一郎は一刻も早く、目的地に着いて初々しい静子の透き通るやうなくゝり顎のあたりを、軽くパットしてやりたくて、仕様がなくなつて来た。

『僅か一週間、離れてゐると、もうそんなに逢ひたくて、堪らないのか。』と自分自身心の中で、さう反問すると、信一郎は駄々つ子か何かのやうに、じれ切つてゐる自分が気恥しくないこともなかつた。

 が、新婚後、まだ幾日にもならない信一郎に取つては、わずか一週間ばかりの短い月日が、どんなにか長く、三月も四月もに相当するやうに思はれた事だらう。静子が、急性肺炎の病後のために、医者から温泉行を、勧められた時にも、信一郎は自分の手許から、妻を半日でも一日でも、手放して置くことが、不安な淋しい事のやうに思はれて、仕方がなかつた。それかと云つて、結婚のため、半月以上も、勤先を欠勤してゐる彼には休暇を貰ふ口実などは、何も残つてゐなかつた。彼は止むなく先週の日曜日に妻と女中とを、湯河原へ伴ふと、直ぐその日に東京へ帰つて来たのである。

 今朝着いた手紙から見ると、もうスツカリ好くなつてゐるに違ひない。明日の日曜に、自分と一緒に帰つてもいゝと、云ひ出すかも知れない。軽便鉄道の駅までは、迎へに来てゐるかも知れない。いや、静子は、そんなことに気の利く女ぢやない。あれは、おとなしく慎しく待つてゐる女だ。屹度、あの湯の新築の二階の欄干にもたれて、藤木川に懸つてゐる木橋をぢつと見詰めてゐるに違ひない。そして、馬車や自動車が、あの橋板をとゞろかす毎に、静子も自分が来たのではないかと、彼女の小さい胸を轟かしてゐるに違ひない。

 信一郎の、かうした愛妻を中心とした、いろ〳〵な想像は、重く垂下がつた夕方の雲をつんざくやうな、鋭い汽笛の声で破られた。窓から首を出して見ると、一帯の松林の樹の間から、国府津に特有な、あの凄味を帯びた真蒼な海が、暮れ方の光を暗く照り返してゐた。

 秋の末か何かのやうに、見渡すかぎり、陸や海は、蕭条たる色を帯びてゐた。が、信一郎は国府津だと知ると、蘇つたやうに、座席を蹴つて立ち上つた。



 汽車がプラットホームに、横付けになると、多くもなかつた乗客は、我先きにと降りてしまつた。此の駅が止まりである列車は、見る〳〵裡に、洗はれたやうに、虚しくなつてしまつた。

 が、停車場は少しも混雑しなかつた。五十人ばかりの乗客が、改札口のところで、暫らくまだらにたゆたつただけであつた。

 信一郎は、身支度をしてゐた為に、誰よりも遅れて車室を出た。改札口を出て見ると、駅前の広場に湯本行きの電車が発車するばかりの気勢けはひを見せてゐた、が、その電車も、此の前の日曜の日の混雑とは丸切り違つて、まだ腰をかける余地さへ残つてゐた。が、信一郎はその電車を見たときにガタリガタリと停留場毎に止まる、のろ〳〵した途中の事が、直ぐ頭に浮かんだ。その上、小田原で乗り換へると行く手にはもつと難物が控へてゐる。それは、右は山左は海の、狭い崖端を、蜈蚣むかでか何かのやうにのたくつて行く軽便鉄道である。それを考へると、彼は電車に乗らうとした足を、思はず踏み止めた。湯河原まで、何うしても三時間かゝる。湯河原で降りてから、あの田舎道をガタ馬車で三十分、どうしても十時近くなつてしまふ。彼は汽車の中で感じたそれの十倍も二十倍も、いらいらしさが自分を待つてゐるのだと思ふと、何うしても電車に乗る勇気がなかつた。彼は、少しも予期しなかつた困難にでも逢つたやうに急に悄気てしまつた。丁度その時であつた。つか〳〵と彼を追ひかけて来た大男があつた。

「もし〳〵如何です。自動車にお召しになつては。」と、彼に呼びかけた。

 見ると、その男は富士屋自動車と云ふ帽子をかぶつてゐた。信一郎は、急に援け舟にでも逢つたやうに救はれたやうな気持で、立ち止まつた。が、彼は賃銭の上の掛引のことを考へたので、さうした感情を、顔へは少しも出さなかつた。

「さうだねえ。乗つてもいゝね。安ければ。」と彼は可なり余裕を以て、答へた。

「何処までいらつしやいます。」

「湯河原まで。」

「湯河原までぢや、十五円で参りませう。本当なれば、もう少し頂くのでございますけれども、此方こつちからお勧めするのですから。」

 十五円と云ふ金額を聞くと、信一郎は自動車に乗らうと云ふ心持を、スツカリ無くしてしまつた。と云つて、彼は貧しくはなかつた。一昨年法科を出て、三菱へ入つてから、今まで相当な給料を貰つてゐる。その上、郷国くににある財産からの収入を合はすれば、月額五百円近い収入を持つてゐる。が十五円と云ふ金額を、湯河原へ行く時間を、わづか二三時間縮める為に払ふことは余りに贅沢過ぎた。たとひ愛妻の静子が、いかに待ちあぐんでゐるにしても。

「まあ、よさう。電車で行けば訳はないのだから。」と、彼は心の裡で考へてゐる事とは、全く反対な理由を云ひながら、洋服を着た大男を振り捨てゝ、電車に乗らうとした。が、大男は執念しふねく彼を放さなかつた。

「まあ、一寸お待ちなさい。御相談があります。実は、熱海まで行かうと云ふ方があるのですが、その方と合乗あひのりして下さつたら、如何でせう、それならば大変格安になるのです。それならば、七円だけ出して下されば。」

 信一郎の心は可なり動かされた。彼は、電車の踏み段の棒にやらうとした手を、引つ込めながら云つた。「一体、そのお客とはどんな人なのだい?」



 洋服を着た大男は、信一郎と同乗すべき客を、迎へて来る為に、駅の真向ひにある待合所の方へ行つた。

 信一郎は、大男の後姿を見ながら思つた、どうせ、旅行中のことだから、どんな人間との合乗あひのりでもたかが三四十分の辛抱だから、介意かまはないが、それでも感じのいゝ、道伴みちづれであつて呉れゝばいゝと思つた。傲然とふんぞり返るやうな、成金風の湯治階級の男なぞであつたら、堪らないと思つた。彼はでつぷりと肥つた男が、実印を刻んだ金指輪をでも、光らせながら、大男に連れられて、やつて来るのではないかしらと思つた。それとも、意外に美しい女か何かぢやないかしらと思つた。が、まさか相当な位置の婦人が、合乗を承諾することもあるまいと、思ひ返した。

 彼は一寸した好奇心を唆られながら、暫らくの伴侶たるべき人の出て来るのを、待つてゐた。

 三分ばかり待つた後だつたらう。やつと、交渉が纏つたと見え、大男はニコ〳〵笑ひながら、先きに立つて待合所から立ち現れた。その刹那に、信一郎は大男の肩越に、チラリと角帽をかぶつた学生姿を見たのである。彼は同乗者が学生であるのを欣んだ。殊に、自分の母校──と云ふ程の親しみは持つてゐなかつたが──の学生であるのを欣んだ。

「お待たせしました。此の方です。」

 さう云ひながら、大男は学生を、信一郎に紹介した。

「御迷惑でせうが。」と、信一郎は快活に、挨拶した。学生は頭を下げた。が、なんにも物は云はなかつた。信一郎は、学生の顔を、一目見て、その高貴な容貌に打たれざるを得なかつた。恐らく貴族か、でなければ名門の子弟なのだらう。品のよい鼻と、黒く澄み渡つた眸とが、争はれない生れのけ高さを示してゐた。殊に、け高く人懐しさうな眸が、此の青年を見る人に、いゝ感じを与へずにはゐなかつた。クレイヴネットの外套を着て、一寸した手提鞄を持つた姿は、又なく瀟洒に打ち上つて見えた。

「それで貴君あなた様の方を、湯河原のお宿までお送りして、それから引き返して熱海へ行くことに、此方こちらの御承諾を得ましたから。」と、大男は信一郎に云つた。

「さうですか。それは大変御迷惑ですな。」と、信一郎は改めて学生に挨拶した。やがて、二人は大男の指し示す自動車上の人となつた。信一郎は左側に、学生は右側に席を占めた。

「湯河原までは、四十分、熱海までは、五十分で参りますから。」と、大男が云つた。

 運転手の手は、ハンドルにかゝつた。信一郎と学生とを、乗せた自動車は、今発車したばかりの電車を追ひかけるやうに、凄じい爆音を立てたかと思ふと、まつしぐらに国府津の町を疾駆した。

 信一郎は、もう四十分の後には、愛妻の許に行けるかと思ふと、汽車中で感じた焦燥もどかしさや、いらだたしさは、後なく晴れてしまつた。自動車の軽動ジャンに連れて身体が躍るやうに、心も軽く楽しい期待に躍つた。が、信一郎の同乗者たるかの青年は、自動車に乗つてゐるやうな意識は、少しもないやうに身を縮めて一隅に寄せたまゝそのひいでた眉を心持ひそめて、何かに思い耽つてゐるやうだつた。車窓に移り変る情景にさへ、一瞥をも与へようとはしなかつた。



 小田原の街に、入る迄、二人は黙々として相並んでゐた。信一郎は、心の中では、此青年に一種の親しみをさへ感じてゐたので、うにかして、話しかけたいと思つてゐたが、深い憂愁にでも、囚はれてゐるらしい青年の容子は、信一郎にさうした機会をさへ与へなかつた。

 殆ど、一尺にも足りない距離で見る青年の顔付は、いよ〳〵そのけ高さを加へてゐるやうであつた。が、その顔は何うした原因であるかは知らないが、蒼白な血色を帯びてゐる。二つの眸は、何かの悲しみのため力なく湿んでゐるやうにさへ思はれた。

 信一郎はなるべく相手の心持を擾すまいと思つた。が、一方から考へると、同じ、自動車に二人切りで乗り合はしてゐる以上、黙つたまゝ相対してゐることは、何だか窮屈で、かつは不自然であるやうにも思はれた。

「失礼ですが、今の汽車で来られたのですか。」

 と、信一郎は漸く口を切つた。会話のための会話として、判り切つたことを尋ねて見たのである。

「いや、此の前の上りで来たのです。」と、青年の答へは、少し意外だつた。

「ぢや、東京からいらつしたんぢやないんですか。」

「さうです。三保の方へ行つてゐたのです。」

 話しかけて見ると、青年は割合ハキ〳〵と、然し事務的な受け答をした。

「三保と云へば、三保の松原ですか。」

「さうです。彼処あすこに一週間ばかりゐましたが、飽きましたから。」

「やつぱり、御保養ですか。」

「いや保養と云ふ訳ではありませんが、どうも頭がわるくつて。」と云ひながら、青年の表情は暗い陰鬱な調子を帯びてゐた。

「神経衰弱ですか。」

「いやさうでもありません。」さう云ひながら、青年は力無ささうに口をつぐんだ。簡単に言葉では、現はされない原因が、存在することを暗示するかのやうに。

「学校の方は、ズーツとお休みですね。」

「さうです、もう一月ばかり。」

「尤も文科ぢや出席してもしなくつても、同じでせうから。」と、信一郎は、先刻さつき青年の襟に、Lと云ふ字を見たことを思ひ出しながら云つた。

 青年は、立入つて、いろ〳〵訊かれることに、一寸不快を感じたのであらう、又黙り込まうとしたが、法科を出たものの、少年時代からずつと文芸の方に親しんで来た信一郎は、此の青年とさうした方面の話をも、して見たいと思つた。

「失礼ですが、高等学校は。」暫らくして、信一郎はまたかう口を切つた。

「東京です。」青年は振り向きもしないで答へた。

「ぢや私と同じですが、お顔に少しも見覚えがないやうですが、何年にお出になりました。」

 青年の心に、急に信一郎に対する一脈の親しみが湧いたやうであつた。華やかな青春の時代を、同じ向陵むかうがをかの寄宿寮に過ごした者のみが、感じ合ふ特殊の親しみが、青年の心を湿うるほしたやうであつた。

「さうですか、それは失礼しました。僕は一昨年高等学校を出ました。貴君は。」

 青年は初めて微笑を洩した。淋しい微笑だつたけれども微笑には違ひなかつた。

「ぢや、高等学校は丁度僕と入れ換はりです。お顔を覚えてゐないのも無理はありません。」さう云ひながら、信一郎はポケットから紙入を出して、名刺を相手に手交した。

「あゝ渥美さんとおつしやいますか。僕は生憎名刺を持つてゐません。青木淳と云ひます。」と、云ひながら青年は信一郎の名刺をぢつと見詰めた。



 名乗り合つてからの二人は、前の二人とは別人同士であるやうな親しみを、お互に感じ合つてゐた。

 青年は羞み家であるが、その癖人一倍、人なつこい性格を持つてゐるらしかつた。単なる同乗者であつた信一郎には、冷めたい横顔を見せてゐたのが、一旦同じ学校の出身であると知ると、直ぐ先輩に対する親しみで、なついて来るやうな初心うぶな優しい性格を、持つてゐるらしかつた。

「五月の十日に、東京を出て、もう一月ばかり、当もなく宿とまり歩いてゐるのですが、何処へ行つても落着かないのです。」と、青年は訴へるやうな口調で云つた。

 信一郎は、青年のさうした心の動揺が、屹度青年時代に有勝ありがちな、人生観の上の疑惑か、でなければ恋の悶えか何かであるに違ひないと思つた。が、何う云つて、それに答へてよいか分らなかつた。

一層いつそのこと、東京へお帰りになつたら何うでせう。僕なども精神上の動揺のため、海へなり山へなり安息を求めて、旅をしたことも度々ありますが、一人になると、却つて孤独から来る淋しさ迄が加はつて、いよ〳〵堪へられなくなつて、又都会へ追ひ返されたものです。僕の考へでは、何かを紛らすには、東京生活の混乱と騒擾とが、何よりの薬ではないかと思ふのです。」と、信一郎は自分の過去の二三の経験を思ひ浮べながらさう云つた。

「が、僕の場合は少し違ふのです。東京にゐることが何うにも堪らないのです。当分東京へ帰る勇気は、トテもありません。」

 青年は、又黙つてしまつた。心の中の何処かに、可なり大きい傷を受けてゐるらしい青年の容子は信一郎の眼にもいたましく見えた。

 自動車は、もうとつくに小田原を離れてゐた。気が付いて見ると、暮れかゝる太平洋の波が、白く砕けてゐる高い崖の上を軽便鉄道の線路に添うて、疾駆してゐるのであつた。

 道は、可なり狭かつた。右手には、青葉の層々と茂つた山が、往来を圧するやうに迫つてゐた。左は、急な傾斜を作つて、直ぐ真下には、海が見えてゐた。崖がやゝ滑かな勾配になつてゐる所は蜜柑畑になつてゐた。しら〴〵と咲いてゐる蜜柑の花から湧く、高い匂が、自動車の疾駆するまゝに、車上の人のおもてを打つた。

「日暮までに、熱海に着くといゝですな。」と、信一郎は暫らくしてから、沈黙を破つた。

「いや、し遅くなれば、僕も湯河原で一泊しようと思ひます。熱海へ行かなければならぬと云ふ訳もないのですから。」

「それぢや、是非湯河原へお泊りなさい。折角お知己ちかづきになつたのですから、ゆつくりお話したいと思ひます。」

「貴方は永く御滞在ですか。」と、青年が訊いた。

「いゝえ、実は妻が行つてゐるのを迎へに行くのです。」と、信一郎は答へた。

「奥さんが!」さう云つた青年の顔は、何故だか、一寸淋しさうに見えた。青年は又黙つてしまつた。

 自動車は、風を捲いて走つた。可なり危険な道路ではあつたけれども、日に幾回となく往返ゆきかへりしてゐるらしい運転手は、東京の大路を走るよりも、邪魔物のないのを、結句気楽さうに、奔放自在にハンドルを廻した。その大胆な操縦が、信一郎達をして、時々ハツと息を呑ませることさへあつた。

「軽便かしら。」と、青年が独語ひとりごとのやうに云つた。いかにも、自動車の爆音にもまぎれない轟々と云ふ響が、山と海とに反響こだまして、段々近づいて来るのであつた。



 轟々ととゞろく軽便鉄道の汽車の音は、段々近づいて来た。自動車が、ある山鼻を廻ると、眼の前にもう真黒な車体が、見えてゐた。絶えず吐く黒い煙と、喘いでゐるやうな恰好とは、何かのろ臭い生き物のやうな感じを、見る人に与へた。信一郎の乗つてゐる自動車の運転手は、此の時代遅れの交通機関を見ると、丁度お伽噺の中で、亀に対した兎のやうに、いかにも相手を馬鹿にし切つたやうな態度を示した。彼は擦れ違ふために、少しでも速力を加減することを、肯んじなかつた。彼は速力を少しも緩めないで、軽便の軌道と、右側の崖壁の間とを、すばやく通り抜けようと、ハンドルを廻しかけたが、それは、彼として、明かな違算であつた。其処は道幅が、殊更狭くなつてゐるために、軽便の軌道は、山の崖近く敷かれてあつた、軌道と岩壁との間には、車体を容れる間隔は存在してゐないのだつた。運転手が、此の事に気が付いた時、汽車は三間と離れない間近に迫つてゐた。

「馬鹿! 危い! 気を付けろ!」と、汽車の機関士の烈しい罵声が、狼狽した運転手の耳朶を打つた。彼は周章あわてた。が、さすがに間髪を容れない瞬間に、ハンドルを反対に急転した。自動車は辛く衝突を免れて、道の左へ外れた。信一郎はホツとした。が、それはまたゝく暇もない瞬間だつた。左へ躱した自動車は、躱し方が余りに急であつた為、はづみを打つてそのまゝ、左手の岩崖を墜落しさうな勢ひを示した。道の左には、半間ばかりの熊笹が繁つてゐて、そのはづれからは十丈に近い断崖が、海へ急な角度を成してゐた。

 最初の危機には、冷静であつた運転手も、第二の危険には度を失つてしまつた。彼は、狂人のやうに意味のない言葉を発したかと思ふと、運転手台で身をもがいた。が、運転手の死物狂ひの努力は間に合つた。三人の生命を託した車台は、急廻転をして、海へ陥ることから免れた。が、その反動で五間ばかり走つたかと思ふと、今度は右手の山の岩壁に、凄じくぶつつかつたのである。

 信一郎は、恐ろしい音を耳にした。それと同時に、烈しい力で、狭い車内を、二三回左右に叩き付けられた。眼が眩んだ。しばらくは、たゞ嵐のやうな混沌たる意識の外、何も存在しなかつた。

 信一郎が、漸く気が付いた時、彼は狭い車内で、海老のやうに折り曲げられて、一方へ叩き付けられてゐる自分を見出した。彼はやつと身を起した。頭から胸のあたりを、ボンヤリ撫で廻はした彼は自分が少しも、傷付いてゐないのを知ると、まだフラ〳〵する眼を定めて、自分の横にゐる筈の、青年の姿を見ようとした。

 青年の身体は、直ぐ其処にあつた。が、彼の上半身は、半分開かれた扉から、外へはみ出してゐるのであつた。

「もし〳〵、君! 君!」と、信一郎は青年を車内に引き入れようとした。その時に、彼は異様な苦悶の声を耳にしたのである。信一郎は水を浴びたやうに、ゾツとした。

「君! 君!」彼は、必死に呼んだ。が、青年は何とも答へなかつた。たゞ、人の心を掻きむしるやうな低いうめき声が続いてゐるだけであつた。

 信一郎は、懸命の力で、青年を車内に抱き入れた。見ると、彼の美しい顔の半面は、薄気味の悪い紫赤色を呈してゐる。それよりも、信一郎の心を、脅やかしたものは、唇の右の端から、顎にかけて流れる一筋の血であつた。しかもその血は、唇から出る血とは違つて、内臓から迸つたに違ひない赤黒い血であつた。



返すべき時計



 信一郎が、青年の身体をやつと車内に引き入れたとき、運転手席から路上へ、投げ出されてゐた運転手は、漸く身を起した。額の所へ擦り傷の出来た彼の顔色は、凡ての血の色を無くしてゐた。彼はオヅ〳〵車内をのぞき込んだ。

「何処もお負傷けがはありませんか。お負傷けがはありませんか。」

「馬鹿! 負傷けがどころぢやない。大変だぞ。」と、信一郎は怒鳴りつけずにはゐられなかつた。彼は運転手の放胆な操縦が、此の惨禍の主なる原因であることを、信じたからであつた。

「はつはつ。」と運転手は恐れ入つたやうな声を出しながら、窓にかけてゐる両手をブル〳〵顫はせてゐた。

「君! 君! 気をたしかにしたまへ。」

 信一郎は懸命な声で青年の意識を呼び返さうとした。が、彼は低い、ともすれば、絶えはてさうなうめき声を続けてゐるだけであつた。

 口から流れてゐる血の筋は、何時の間にか、段々太くなつてゐた。右の頬が見る間にれふくらんで来るのだつた。信一郎は、ボンヤリつツ立つてゐる運転手を、再び叱り付けた。

「おい! 早く小田原へ引返すのだ。全速力で、早く手当をしないと助からないのだぞ。」

 運転手は、夢から醒めたやうに、運転手席に着いた。が、発動機の壊れてゐる上に、前方の車軸までが曲つてゐるらしい自動車は、一寸いつすんだつて動かなかつた。

「駄目です。とても動きません。」と、運転手は罪を待つ人のやうに顫へ声で云つた。

「ぢや、一番近くの医者を呼んで来るのだ。真鶴なら、遠くはないだらう。医者と、さうだ、警察とへ届けて来るのだ。又小田原へ電話が通ずるのなら、直ぐ自動車を寄越すやうに頼むのだ。」

 運転手は、気の抜けた人間のやうに、命ぜらるゝ儘に、フラ〳〵と駈け出した。

 青年の苦悶は、続いてゐる。半眼に開いてゐる眼は、上ずツた白眼を見せてゐるだけであるが、信一郎は、たゞ青年の上半身を抱き起してゐるだけで、うにも手の付けやうがなかつた。もう、臨終に間もないかも知れない青年の顔かたちを、たゞ茫然と見詰めてゐるだけであつた。

 信一郎は青年の奇禍を傷むのと同時に、あはよく免れた自身の幸福を、欣ばずにはゐられなかつた。それにしても、うして扉が、開いたのだらう。其処から身体が出たのだらう。上半身が、半分出た為に、衝突の時に、扉と車体との間で、強く胸部を圧し潰ぶされたのに違ひなかつた。

 信一郎は、ふと思ひついた。最初、車台が海に面する断崖へ、顛落しようとしたとき、青年は車から飛び降りるべく、咄嗟に右の窓を開けたに違ひなかつた。もし、さうだとすると、車体が最初怖れられたやうに、海中に墜落したとすれば、死ぬ者は信一郎と運転手とで、助かる者は此青年であつたかも知れなかつた。

 車体が、急転したとき、信一郎と青年の運命も咄嗟に転換したのだつた。自動車のかりそめの合乗あひのりに青年と信一郎とは、恐ろしい生死の活劇に好運悪運の両極に立つたわけだつた。

 信一郎は、さう考へると、結果の上からは、自分が助かるための犠牲になつたやうな、青年のいたましい姿を、一層あはれまずにはゐられなかつた。

 彼は、ふとウスキイの小壜がトランクの中にあることを思ひ出した。それを、飲ますことが、かうした重傷者にう云ふ結果を及ぼすかは、ハツキリと判らなかつた。が、彼としては此の場合に為し得る唯一の手当であつた。彼は青年の頭を座席の上に、ソツと下すとトランクを開けて、ウスキイの壜を取り出した。



 口中に注ぎ込まれた数滴のウスキイが、利いたのか、それとも偶然さうなつたのか、青年の白く湿うるんでゐた眸が、だん〳〵意識の光を帯び始めた。それと共に、意味のなかつたうめき声が切れ切れではあるが、言葉の形を採り始めた。

「気をたしかにしたまへ! 気を! 君! 君! 青木君!」信一郎は、力一杯に今覚えたばかりの青年の名を呼び続けた。

 青年は、ぢつと眸を凝すやうであつた。劇しい苦痛の為に、ともすれば飛び散りさうになる意識を懸命に取り蒐めようとするやうだつた。彼は、ぢいつと、信一郎の顔を、見詰めた。やつと自分を襲つたわざはひの前後を思ひ出したやうであつた。

うです。気が付きましたか。青木君! 気を確にしたまへ! 直ぐ医者が来るから。」

 青年は意識が帰つて来ると、此のかりそめの旅の道連みちづれの親切を、しみ〴〵と感じたのだらう。

「あり──ありがたう。」と、苦しさうに云ひながら、感謝の微笑を湛へようとしたが、それはしきりなく襲うて来る苦痛の為に、跡なく崩れてしまつた。はらわたをよぢるやうな、苦悶の声が、続いた。

「少しの辛抱です。直ぐ医者が来ます。」

 信一郎は、相手の苦悶のいた〳〵しさに、狼狽しながら答へた。

 青年は、それに答へようとでもするやうに、身体を心持起しかけた。その途端だつた。苦しさうに咳き込んだかと思ふと、顎から洋服の胸へかけて、流れるやうな多量の血を吐いた。それと同時に、今迄充血してゐた顔が、サツと蒼ざめてしまつた。

 青年の顔には、既に死相が読まれた。内臓が、外部からの劇しい衝動の為に、内出血をしたことが余りに明かだつた。

 医学の心得の少しもない信一郎にも、もう青年の死が、単に時の問題であることが分つた。青年の顔に血色がなかつた如く、信一郎のおもてにも、血の色がなかつた。彼は、彼と偶然知己になつて、直ぐ死に去つて行く、ホンの瞬間の友達の運命を、ぢつと見詰めてゐる外はなかつた。

 太平洋を圧してゐる、密雲に閉ざされたまゝ、日は落ちてしまつた。夕闇の迫つてゐる崖端がけばなの道には、人の影さへ見えなかつた。瀕死の負傷者を見守る信一郎は、ヒシ〳〵と、身に迫る物凄い寂寥を感じた。負傷者のうめき声の絶間には、崖下の岩を洗ふ浪の音が淋しく聞えて来た。

 吐血をしたまゝ、仰向けに倒れてゐた青年は、ふと頭を擡げて何かを求めるやうな容子をした。

「何です! 何です!」信一郎は、掩ひかぶさるやうにして訊いた。

「僕の──僕の──トランク!」

 口中の血に咽せるのであらう、青年は喘ぎ喘ぎ絶え入るやうな声で云つた。信一郎は、車中を見廻した。青年が、携へてゐた旅行用の小形のトランクは座席の下に横倒しになつてゐるのだつた。信一郎は、それを取り上げてやつた。青年は、それを受け取らうとして、両手を出さうとしたが、彼の手はもう彼の思ふやうには、動きさうにもなかつた。

「一体、此のトランクを何うするのです。」

 青年は、何か答へようとして、口を動かした。が、言葉の代りに出たものは、先刻の吐血の名残りらしい少量の血であつた。

「開けるのですか。開けるのですか。」

 青年は肯かうとした。が、それも肯かうとする意志だけを示したのに、過ぎなかつた。信一郎はトランクを開けにかゝつた。が、それには鍵がかゝつてゐると見え、容易には開かなかつた。が、此場合瀕死の重傷者に、鍵の在処を尋ねるなどは、余りに心ないことだつた。信一郎は、満身の力を振つて、捻ぢ開けた。金物に付いて、革がベリ〳〵と、二三寸引き裂かれた。



「何を出すのです。何を出すのです。」

 信一郎は、薬品をでも、取り出すのであらうと思つて訊いた。が、青年の答は意外だつた。

雑記帳ノートブックを。」青年の声は、かすかに咽喉を洩れると、云ふ程度に過ぎなかつた。

「ノート?」信一郎は、不審いぶかりながら、トランクを掻き廻した。いかにもトランクの底に、三帖綴の大学ノートを入れてあるのを見出した。

 青年は、眼で肯いた。彼は手を出して、それを取つた。彼は、それを破らうとするらしかつた。が、彼の手は、たゞノートの表紙を滑べり廻るだけで、一枚の紙さへ破れなかつた。

「捨てゝ──捨てゝ下さい! 海へ、海へ。」

 彼は、懸命に苦しげな声を、振りしぼつた。そして、哀願的な眸で、ぢいつと、信一郎を見詰めた。

 信一郎は、大きく肯いた。

「承知しました。何か、外に用がありませんか。」

 信一郎は、大声で、而も可なりの感激を以て、青年の耳許で叫んだ。本当は、何か遺言はありませんかと、云ひたい所であつた。が、さう云ひ出すことは、此のうら若い負傷者に取つて、余りに気の毒に思はれた。が、さう云つてもよいほど青年の呼吸は、迫つてゐた。

 信一郎の言葉が、青年に通じたのだらう。彼は、それに応ずるやうに、右の手首を、高く差し上げようとするらしかつた。信一郎は、不思議に思ひながら、差し上げようとする右の手首に手を触れて見た。其処に、冷めたく堅い何かを感じたのである。夕暮の光に透して見ると、青年は腕時計をはめてゐるのであつた。

「時計ですか。此時計をうするのです。」

 烈しい苦痛に、歪んでゐる青年の面に、又別な苦悶が現はれてゐた。それは肉体的な苦悶とは、又別な──肉体の苦痛にも劣らないほどの──心の、魂の苦痛であるらしかつた。彼の蒼白まつさをだつたおもては微弱ながら、俄に興奮の色を示したやうであつた。

「時計を──時計を──返して下さい。」

「誰にです、誰にです。」信一郎も、懸命になつて訊き返した。

「お願ひ──お願ひ──お願ひです。返して下さい。返して下さい。」

 もう、断末魔らしい苦悶に裡に、青年は此世に於ける、最後の力を振りしぼつて叫んだ。

「一体、誰にです? 誰にです。」

 信一郎はすがり付くやうに、訊いた。が、青年の意識は、再び彼を離れようとしてゐるらしかつた。たゞ、低い切れ切れのうなり声が、それに答へた、だけだつた。信一郎は、今此の答へを得ておかなければ永劫に得られないことを知つた。

「時計を誰に返すのです。誰に返すのです。」

 青年の四肢が、ピクリ〳〵と痙攣し始めた。もう、死期の目睫の間に迫つてゐることが判つた。

「時計を誰に返すのです。青木君! 青木君! しつかりし給へ。誰に返すのです。」

 死の苦しみに、青年は身体を、左右にもだえた。信一郎の言葉は、もう瀕死の耳に通じないやうに見えた。

「時計を誰に返すのです。名前を云つて下さい。名前を云つて下さい。名前を!」

 信一郎の声も、狂人のやうに上ずツてしまつた。その時に、青年の口が、何かを云はうとして、モグ〳〵と動いた。

「青木君、誰に返すのです?」

 永久に、消え去らうとする青年の意識が、ホンの瞬間、此世に呼び返されたのか、それとも死際の無意味な囈語うはごとであつたのだらうか、青年は、

「瑠璃子! 瑠璃子!」と、子供の片言のやうに、口走ると、それを世に残した最後の言葉として、劇しい痙攣が来たかと思ふと、それがサツと潮の引くやうに、衰へてしまつてガクリとなつたかと思ふと、もう、ピクリともしなかつた。死が、遂に来たのである。



 信一郎は、ハンカチーフを取り出して、死者の顎から咽喉にかけての、血を拭つてやつた。

 だん〳〵蝋色に、白んで行く、不幸な青年のかほをぢつと見詰めてゐると、信一郎の心も、青年の不慮の横死を悼む心で一杯になつて、ほた〳〵と、涙が流れて止まらなかつた。五年も十年も、親しんで来た友達の死顔を見てゐる心と、少しも変らなかつた。何と云ふ、不思議な運命であらうと、信一郎は思つた。親しい友達は、元より、親兄弟、いとしき妻夫愛児の臨終にさへ、いろ〳〵な事情や境遇のために、居合はさぬ事もあれば、間に合はぬ事もあるのに、ホンの三十分か四十分の知己、ホンの暫時の友人、云はゞ路傍の人に過ぎない、かりそめの旅の道伴みちづれでありながら、その死床に侍して、介抱をしたり、遺言を聞いてやると云ふことは、何と云ふ不思議な機縁であらうと、信一郎は思つた。

 が、青年の身になつて、考へて見ると、一寸した小旅行の中途で思ひがけない奇禍に逢つて、淋しい海辺の一角で、親兄弟は勿論親しい友達さへも居合はさず、他人に外ならない信一郎に、死水を──それは水でなく、数滴のウスキイだつたが──取られて、望み多い未来を、不当に予告なしに、切り取られてしまつた情なさ、淋しさは、どんなであつただらう。彼は、息を引き取るとき、親兄弟の優しい慰藉の言葉に、どんなに渇ゑたことだらう。殊に、母か姉妹か、或は恋人かの女性としての優しい愛の言葉を、どんなに欲しただらう。彼が、口走つた瑠璃子と云ふ言葉は、屹度きつと、さうした女性の名前に違ひないと思つた。

 その裡に、信一郎の心に、青年の遺した言葉が考へられ始めた。彼は、最初にかう疑つて見た。他人同然の彼に、うして時計のことを云つたのだらう。し、時計が誰かに返さるべきものなら名乗り合つたばかりの信一郎などに頼まないでも、遺族の人の手で、当然返さるべきものではなからうか。が、信一郎は、直ぐかう思ひ返した。青年はノートの内容も、時計を返すことも、遺族の人々には知られたくなかつたのだらう。親兄弟には、飽くまでも、秘密にして置きたかつたのであらう。而も秘密に時計を返すには、信一郎に頼む外には、何の手段もなかつたのだ。人間が人間を信じることが一つの美徳であるやうに、此青年も必死の場合に、心から信一郎を信頼したのだらう。いや、信頼する外には、何の手段もなかつたのだ。

 信一郎は、青年の死際の懸命の信頼を、心に深く受け入れずにはをられなかつた。名乗り合つたばかりの自分に、心からの信頼を置いてゐる。人間として、男として、此の信頼に背く訳には、行かないと思つた。

 人が、臨終の時に為す信頼は、基督正教カトリックの信徒が、死際の懺悔と同じやうに、神聖な重大なものに違ひないと思つた。縦令たとひ、三十分四十分の交際であらうとも、頼まれた以上、忠実に、その信頼に酬いねばならぬと思つた。

 さう思ひながら、信一郎は死者の右の手首から、恐る恐る時計をはづして見た。時計も、それを腕に捲く腕輪も、銀か白銅ニッケルらしい金属で出来てゐた。ガラスは、その持主の悲惨な最期に似て、微塵に砕け散つてゐた。夕暮の光の中で、透して見ると、腕輪に附いてゐる止め金が、衝突のとき、皮肉を切つたのだらう。軽い出血があつたと見え、その白つぽい時計の胴に、所々真赤な血がにじんでゐた。今までは、興奮のために夢中になつてゐた信一郎も、それを見ると、今更ながら、青年の最期の、むごたらしさに、思はず戦慄を禁じ得なかつた。



 が、時計を返すとして、一体誰に返したらいゝのだらうかと、信一郎は思つた。青年が、死際に口走つた瑠璃子と云ふ名前の女性に返せばいゝのかしら。が、瑠璃子と云つたのは、時計を返すべき相手の名前を、云つたのだらうか。時計などとは何の関係もない、青年などとは何の関係もない青年の恋人か姉か妹かの名ではないのかしら。

『時計を返して呉れ。』と云つたとき、青年の意識は、可なりたしかだつた。が、息を引き取る時には、青年の意識は、もう正気を失つてゐた。

『瑠璃子!』と、叫んだのは、たゞ狂つた心の最後の、偶然な囈語うはごとで、あつたかも知れなかつた。が、瑠璃子と云ふ名前は、青年の心に死の刹那に深く喰ひ入つた名前に違ひなかつた。丁度、腕時計が、死の刹那に彼の手首の肉に、喰ひ入つてゐたやうに。

 信一郎は、再度その小形な腕時計を、手許に迫る夕闇の中で、透して見た。ぢつと、見詰めてゐると最初銀かニッケルと思つた金属は、銀ほどは光が無くニッケルほど薄つぺらでないのに、気が付いた。彼は指先で、二三度撫でて見た。それは、紛ぎれもなく白金プラチナだつた。しかも撫でてゐる指先が、何かツブ〳〵した物に触れたので、眸を凝すと、鋭い光を放つ一顆の宝石が、鏤められてゐた。而もそれは金で象眼された小さい短剣の柄に当つてゐた。それは希臘ギリシヤ風の短剣の形だつた。復讐の女神ネメシスが、逆手に掴んでゐるやうな、短剣の形だつた。信一郎は、その特異な、不思議な象眼に、劇しい好奇心を、唆られずにはゐられなかつた。時計の元来の所有者は、女性に違ひなかつた。が、その象眼は、何と云ふ女らしからぬ、鋭い意匠だらう。

 日は、もうとつぷりと、暮れてしまつた。海上にのみ、一脈の薄明が、漂うてゐるばかりだつた。運転手は、なか〳〵帰つて来なかつた。淋しい海岸の一角に、まだ生あたゝかい死屍を、たゞ一人で見守つてゐることは、無気味な事に違ひなかつた。が、先刻から興奮し続けてゐる信一郎には、それが左程、厭はしい事にも気味の悪い事にも思はれなかつた。彼はある感激をさへ感じた。人として立派な義務を尽してゐるやうに思つた。

 信一郎は、ふとかう云ふ事に気が付いた。たとひ、青年からあゝした依託を受けたとしても、たゞ黙つて、此の高価な白金プラチナの時計を、死屍から持ち去つてもいゝだらうか。もし、臨検の巡査にでも、咎められたら、何と返事をしたらいゝだらう。死人に口なく、死に去つた青年が、自分のために、弁解して呉れる筈はない。自分は、人の死屍から、高貴な物品を、剥ぎ取る恐ろしい卑しい盗人と思はれても、何の云ひ訳もないではないか。青年の遺言を受けたと抗弁しても、果して信じられるだらうか。

 さう考へると、信一郎の心は、だん〳〵迷ひ始めた。妙ないきがかりから、他人の秘密にまで立ち入つて、返すべき人の名前さへ、判然とはしない時計などを預つて、つまらぬ心配や気苦労をするよりも、たゞ乗り合はした一個の旅の道伴みちづれとして、遺言も何も、聴かなかつたことにしようかしら。

 が、かう考へたとき、信一郎の心の耳に、『お願ひで──お願ひです。時計を返して下さい。』と云ふ青年の、血に咽ぶ断末魔の悲壮な声が、再び鳴り響いた。それに応ずるやうに、信一郎の良心が、『貴様は卑怯だぞ。貴様は卑怯だぞ。』と、低く然しながら、力強くさゝやいた。

『さうだ。さうだ。兎に角、瑠璃子と云ふ女性を探して見よう。たとひ、それが時計を返すべき人でないにしろ、その人は屹度きつと、此の青年に一番親しい人に違ひない。その人が、屹度時計を返すべき本当の人を、教へて呉れるのに違ひない。又、自分が時計を盗んだと云ふやうな、不当な疑ひを受けたとき、此人が屹度弁解して呉れるのに違ひない。』

 信一郎は、『瑠璃子』と云ふ三字を頼りにして、自分の物でない時計を、ポケット深く、おさめようとした。

 その時に、急に近よつて来る人声がした。彼は、悪い事でもしてゐたやうに、ハツと驚いて振り返つた。警察の提灯を囲んで、四五人の人が、足早に駈け付けて来るやうだつた。



 駈け付けて来たのは、オド〳〵してゐる運転手を先頭にして、年若い巡査と、医者らしい袴をつけた男と、警察の小使らしい老人との四人であつた。

 信一郎は、彼等を迎へるべく扉を開けて、路上へ降りた。

 巡査は提灯を車内に差し入れるやうにしながら、

「何うです。負傷者は?」と、訊いた。

先刻さつき息を引き取つたばかりです。何分胸部をひどく、やられたものですから、助からなかつたのです。」と、信一郎は答へた。

 暫らくは、誰もが口を利かなかつた。運転手が、ブル〳〵顫へ出したのが、ほの暗い提灯の光の中でも、それと判つた。

「兎も角、一応診て下さい。」と、巡査は医者らしい男に云つた。運転手は顫へながら、車体に取り付けてある洋燈ランプに、点火した。周囲が、急に明るくなつた。

「おつれぢやないのですね。」医者が検視をするのを見ながら、巡査は信一郎に訊いた。

「さうです。たゞ国府津から乗合はしたばかりなのです。が、名前は判つて居ます。先刻さつき名乗り合ひましたから。」

「何と云ふ名です。」巡査は手帳を開いた。

「青木淳と云ふ文科大学生です。宿所は訊かなかつたけれど、どうも名前と顔付から考へると、青木淳三と云ふ貴族院議員のお子さんに違ひないと思ふのです。無論断言は出来ませんが、持物でも調べれば直ぐ判るでせう。」

 巡査は、信一郎の云ふ事を、一々うなづいて聴いてゐたが、

「遭難の事情は、運転手から一通り、聴きましたが、貴君あなたからもお話を願ひたいのです。運転手の云ふことばかりも信ぜられませんから。」

 信一郎は言下に「運転手の過失です。」と云ひ切りたかつた。過失と云ふよりも、無責任だと云ひ切りたかつた。が、をのゝきながら、信一郎と巡査との問答を、身の一大事とばかり、聞耳を澄ましてゐる運転手の、罪を知つた容子を見ると、さう強くも云へなかつた。その上、運転手の罪を、幾何いくら声高に叫んでも、青年の甦る筈もなかつた。

「運転手の過失もありますが、どうも此方このかたが自分で扉を、開けたやうな形跡もあるのです。扉さへひらかなかつたら、死ぬやうなことはなかつたと思ひます。」

「なるほど。」と、巡査は何やら手帳に、書き付けてから云つた。「いづれ、遺族の方から起訴にでもなると、貴君にも証人になつて戴くかも知れません。御名刺を一枚戴きたいと思ひます。」

 信一郎は乞はるゝまゝに、一枚の名刺を与へた。

 丁度その時に、医者は血に塗みれた手を気にしながら、車内から出て来た。

「ひどく血を吐きましたね。あれぢや負傷後、幾何いくらも生きてゐなかつたでせう。」と、信一郎に云つた。

「さうです。三十分も生きてゐたでせうか。」

「あれぢや助かりつこはありません。」と、医者は投げるやうに云つた。

貴君あなたもとんだ災難でした。」と、巡査は信一郎に云つた。「が、死んだ方に比ぶれば、むしろ命拾ひをしたと云つてもいゝでせう。湯河原へ行らつしやるさうですね。それぢや小使に御案内させますから真鶴までお歩きなさい。死体の方は、引受けましたから、御自由にお引き取り下さい。」

 信一郎は、兎に角当座の責任と義務とから、放たれたやうに思つた。が、ポケットの底にある時計の事を考へれば、信一郎の責任は何時果されるとも分らなかつた。

 信一郎は車台に近寄つて、黙礼した。不幸な青年に最後の別れを告げたのである。

 巡査達に挨拶して、二三間行つた時、彼はふと海に捨つるべく、青年から頼まれたノートの事を思ひ出した。彼は驚いて、取つて帰した。

「忘れ物をしました。」彼は、やゝ狼狽しながら云つた。

「何です。」車内を覗き込んでゐた巡査が振り顧つた。

「ノートです。」信一郎は、やゝ上ずツた声で答へた。

「これですか。」先刻さつきから、それに気の付いてゐたらしい巡査は、座席の上から取り上げて呉れた。信一郎は、そのノートの表紙に、ペンで青木淳とかいてあるらしいのを見ると、ハツと思つた。が、光は暗かつた。その上、巡査の心にさうしたうたがひは微塵も存在しないらしかつた。彼は、やつと安心して、自分の物でない物を、自分の物にした。



 真鶴から湯河原迄の軽便の汽車の中でも、駅から湯の宿までの、田舎馬車の中でも、信一郎の頭は混乱と興奮とで、一杯になつてゐた。その上、衝突のときに、受けた打撃が現はれて来たのだらう、頭がヅキ〳〵と痛み始めた。

 青年のうめき声や、吐血の刹那や、蒼白んで行つた死顔などが、ともすれば幻覚となつて、耳や目を襲つて来た。

 静子に久し振に逢へると云つたやうな楽しい平和な期待は、偶然な血腥ちなまぐさい出来事のために、滅茶苦茶になつてしまつたのである。静子の初々しい面影を、描かうとすると、それが何時の間にか、青年の死顔になつてゐる。「静子! 静子!」と、口の中で呼んで、愛妻に対する意識を、ハツキリさせようとすると、その声が何時の間にか「瑠璃子! 瑠璃子!」と、云ふ悲痛な断末魔の声を、思ひ浮べさせたりした。

 馬車が、暗い田の中の道を、左へ曲つたと思ふと、眼の前に、山ふところにほのめく、湯の街の灯影が見え始めた。

 信一郎は、愛妻に逢ふ前に、何うかして、乱れてゐる自分の心持を、整へようとした。なるべく、穏やかな平静な顔になつて、自分の激動ショックを妻に伝染うつすまいとした。血腥い青年の最期も、出来るならば話すまいとした。それは優しい妻の胸には、鋭すぎる事実だつた。

 藤木川の左岸に添うて走つた馬車が、新しい木橋を渡ると、橋袂の湯の宿の玄関に止まつた。

「奥様がお待ち兼でございます。」と、妻に付けてある女中が、宿の女中達と一緒に玄関に出迎へた。ふと気が付くと、玄関の突き当りの、二階への階段の中段に、降りて出迎へようか(それともそれが可なりはしたない事なので)降りまいかと、躊躇ためらつてゐたらしい静子が、信一郎の顔を見ると、艶然と笑つて、はち切れさうな嬉しさを抑へて、いそ〳〵と駈け降りて来るのであつた。

「いらつしやいませ。何うして、かう遅かつたの。」静子は一寸不平らしい様子を嬉しさの裡に見せた。

「遅くなつて済まなかつたね。」

 信一郎は、いたはるやうに云ひ捨てゝ、先に立つて妻の部屋へ入つた。

 その時に、彼はふと青年から頼まれたノートを、まだ夏外套のポケットに入れてゐるのに、気が付いた。先刻真鶴まで歩いたとき、引き裂いて捨てよう〳〵と思ひながら、小使の手前、何うしても果し得なかつたのである。当惑の為に、彼の表情はやゝ曇つた。

「御気分が悪さうね。何うかしたのですか。湯衣ゆかたにお着換へなさいまし。それとも、お寒いやうなら褞袍どてらになさいますか。」

 さう云ひながら静子は甲斐々々しく信一郎の脱ぐ上衣を受け取つたり、襯衣シャツを脱ぐのを手伝つたりした。

 その中に、上衣を衣桁いかうにかけようとした妻は、ふと、

「あれ!」と、可なりけたゝましい声を出した。

「何うしたのだ。」信一郎は驚いて訊いた。

「何でせう。これは、血ぢやなくて。」

 静子は、真蒼になりながら、洋服の腕のボタンの所を、電燈の真近に持つて行つた。それは紛ぎれもなく血だつた。一寸四方ばかり、ベツトリと血がじんでゐたのである。

「さうか。やつぱり付いてゐたのか。」

 信一郎の声も、やゝ顫ひを帯びてゐた。

うかしたのですか。何うかしたのですか。」気の弱い静子の声は、可なり上ずツてゐた。

 信一郎は、妻の気を落着けようと、可なり冷静に答へた。

「いや何うもしないのだ。たゞ、自動車が崖にぶつかつてね。乗合はしてゐた大学生が負傷したのだ。」

貴君あなたは、何処もお負傷けがはなかつたのですか。」

「運がよかつたのだね。俺は、かすり傷一つ負はなかつたのだ。」

「そしてその学生の方は。」

「重傷だね。助からないかも知れないよ。まあ奇禍と云ふんだね。」

 静子は、夫が免れた危険を想像するけで、可なり激しい感動に襲はれたと見え、目をみはつたまゝ暫らくは物も云はなかつた。

 信一郎も、何だか不安になり始めた。奇禍に逢つたのは、大学生ばかりではないやうな気がした。自分も妻も、平和な気持を、滅茶々々にされた事が、可なり大きい禍であるやうに思つた。が、そればかりでなく、時計やノートを受け継いだ事に依つて、青年の恐ろしい運命をも、受け継いだやうな気がした。彼は、楽しく期待した通り静子に逢ひながら、優しい言葉一つさへ、かけてやる事が出来なかつた。

 夫と妻とは、蒼白まつさをになりながら、黙々として相対してゐた。信一郎は、ポケットに入れてある時計が、何か魔の符でもあるやうに、気味悪く感ぜられ始めた。



美しき遅参者



 青年の横死は、東京の各新聞に依つて、可なり精しく伝へられた。青年が、信一郎の想像した通り青木男爵の長子であつたことが、それに依つて証明された。が、不思議に同乗者の名前は、各新聞とも洩してゐた。信一郎は結局それを気安いことに思つた。

 信一郎が、静子を伴つて帰京した翌日に、青木家の葬儀は青山の斎場で、執り行はれることになつてゐた。

 信一郎は、自分が青年の最期を介抱した当人であると云ふ事を、名乗つて出るやうな心持は、少しもなかつた。が、自分の手を枕にしながら、息を引き取つた青年が、傷ましかつた。他人でないやうな気がした。十年の友達であるやうな気がした。その人の面影を偲ぶと、何となくなつかしい涙ぐましい気がした。

 遺族の人々とは、縁もゆかりもなかつた。が、弔はれてゐる人とは、可なり強い因縁が、纏はつてゐるやうに思つた。彼は、心からその葬ひの席に、列りたいと思つた。

 が、その上、もう一つ是非とも、列るべき必要があつた。青年の葬儀である以上、姉も妹も、瑠璃子と呼ばるゝ女性も、返すべき時計の真の持主も、(もしあれば)青年の恋人も、みんな列つてゐるのにちがひない。青年に、由縁ゆかりのある人を物色すれば、時計を返すべき持主も、案外容易に、見当が付くにちがひない。否、少くとも瑠璃子と云ふ女だけは、容易に見出し得るにちがひない、信一郎はさう考へた。

 その日は、廓然と晴れた初夏の一日だつた。もう夏らしく、白い層雲が、むく〳〵と空の一角に湧いてゐた。水色の空には、強い光が、一杯に充ち渡つて、生々の気が、空にも地にも溢れてゐた。たゞ、青山の葬場に集まつた人だけは、活々とした周囲の中に、しめつぽい静かな陰翳を、投げてゐるのだつた。

 青年の不幸な夭折が、特に多くの会葬者を、惹き付けてゐるらしかつた。信一郎が、定刻の三時前に行つたときに、早くも十幾台の自動車と百台に近い俥が、斎場の前の広い道路に乗り捨てゝあつた。控席に待合はしてゐる人々は、もう五百人に近かつた。それだのに、自動車や俥が、幾台となく後から〳〵到着するのだつた。死んだ青年の父が、貴族院のある団体の有力な幹部である為に、政界の巨頭は、大抵網羅してゐるらしかつた。貴族院議長のT公爵の顔や、軍令部長のS大将の顔が、信一郎にも直ぐそれと判つた。葉巻を横くはへにしながら、場所柄をも考へないやうに哄笑してゐる巨漢は、逓信大臣のN氏だつた。それと相手になつてゐるのは、戦後の欧洲を、廻つて来て以来、風雲を待つてゐるらしく思はれてゐるG男爵だつた。その外首相の顔も見えた。内相もゐた。陸相もゐた。実業界の名士の顔も、五六人は見覚えがあつた。が、見渡したところ信一郎の知人は一人もゐなかつた。彼は、受附へ名刺を出すと、控場の一隅へ退いて、式の始まるのを待つてゐた。

 誰も彼に、話しかけて呉れる人はなかつた。接待をしてゐる人達も、名士達の前には、頭を幾度も下げて、その会葬を感謝しながら、信一郎には、たゞ儀礼的な一揖を酬いただけだつた。

 誰からも、顧みられなかつたけれども、信一郎の心には、自信があつた。千に近い会葬者が、集まらうとも、青年の臨終に侍したのは、自分一人ではないか。青年の最期を、見届けてゐるのは、自分一人ではないか。青年の信頼を受けてゐるのは自分一人ではないか。その死床に侍して介抱してやつたのは、自分一人ではないか。もし、死者にして霊あらば、大臣や実業家や名士達の社交上の会葬よりも、自分の心からな会葬を、どんなに欣ぶかも知れない。さう思ふと、信一郎は自分の会葬が、他の何人なんぴとの会葬よりも、意義があるやうに思つた。彼はさうした感激に耽りながら、ぢつと会葬者の群を眺めてゐた。急に、皆が静かになつたかと思ふと、戞々かつ〳〵たる馬蹄の響がして、霊柩を載せた馬車が遺族達に守られて、斎場へ近づいて来るのだつた。



 霊柩を載せた馬車を先頭に、一門の人々を載せた馬車が、七八台も続いた。信一郎は、群衆を擦り脱けて、馬車の止まつた方へ近づいた。次ぎ〳〵に、馬車を降りる一門の人々を、仔細に注視しようとしたのである。

 霊柩の直ぐ後の馬車から、降り立つたのは、今日の葬式の喪主であるらしい青年であつた。一目見ると、横死した青年の肉親の弟である事が、直ぐ判つた。それほど、二人はよく似てゐた。たゞ学習院の制服を着てゐる此青年の背丈が、国府津で見たその人の兄よりも、一二寸高いやうに思はれた。

 その次ぎの馬車からは、二人の女性が現はれた。信一郎は、そのいづれかゞ瑠璃子と呼ばれはしないかと、熱心に見詰めた。二人とも、死んだ青年の妹であることが、直ぐ判つた。兄に似て二人とも端正な美しさを持つてゐた。年の上の方も、まだ二十を越してゐないだらう。その美しい眼を心持泣き脹して、雪のやうな喪服を纏うて、俯きがちに、しほたれて歩む姉妹の姿は、悲しくも亦美しかつた。

 それに、続いてどの馬車からも、一門の夫人達であらう、白無垢を着た貴婦人が、一人二人宛降り立つた。信一郎は、その裡の誰かゞ、屹度きつと瑠璃子に違ひないと思ひながら、一人から他へと、あわたゞしい眼を移した。が、たゞいら〳〵するだけで、ハツキリと確める術は、少しもなかつた。

 霊柩が式場の正面に安置せられると、会葬者も銘々に、式場へ雪崩なだれ入つた。手狭な式場は見る見る、一杯になつた。

 式が始まる前の静けさが、其処に在つた。会葬者達は、銘々慎しみの心を、表に現はして紫や緋の衣を着た老僧達の、居並ぶ祭壇を一斉に注視してゐるのであつた。

 式場が静粛に緊張して、今にも読経の第一声が、この静けさを破らうとする時だつた。突如として式場の空気などを、少しも顧慮しないやうなけたゝましい、自動車の響が場外に近づいた。祭壇に近い人々は、さすがに振向きもしなかつた。が、会葬者の殆ど過半が、此無遠慮な闖入者に対して叱責に近い注視を投げたのである。

 自動車は、式場の入口に横附けにされた。伊太利イタリー製らしい、優雅な自動車の扉が、運転手に依つて排せられた。

 会葬者の注視を引いた事などには、何の恐れ気もないやうに、翼を拡げた白孔雀のやうな、け高さと上品さとで、その踏段から地上へと、スツクと降り立つたのは、まだうら若い一個の女性だつた。降りざまに、そのおもてを掩うてゐた黒い薄絹のヴェールを、かなぐり捨てゝ、無造作に自動車の中へ投げ入れた。人々の環視の裡に、微笑とも嬌羞とも付かぬ表情を、湛へたおもては、くつきりとしろく輝いた。

 白襟紋付の瀟洒なきぬは、そのスラリとした姿を一層気高く見せてゐた。彼女は、何の悪怯わるびれた容子も見せなかつた。打ち並ぶ名士達の間に、細く残された通路を、足早に通り抜けて、祭壇の右の婦人達の居並ぶ席に就いた。

 会葬者達は、場所柄の許す範囲で、銘々熱心な眼で、此の美しい無遠慮な遅参者の姿を追つた。が、さうした眼の中でも、信一郎のそれが、一番熱心で一番輝いてゐたのである。

 彼は、何よりも先きに、此女性の美しさに打たれた。年は二十はたちを多くは出てゐなかつたゞらう。が、さうした若い美しさにも拘はらず、人を圧するやうな威厳が、何処かに備はつてゐた。

 信一郎は、頭の中で自分の知つてゐる、あらゆる女性の顔を浮べて見た。が、そのどれもが、此婦人の美しさを、少しでも冒すことは出来なかつた。

 泰西の名画の中からでも、抜け出して来たやうな女性を、信一郎は驚異に似た心持で暫らくは、茫然と会衆の頭越しに見詰めてゐたのである。



 信一郎が、その美しき女性に、釘付けにされたやうに、会葬者の眸も、一時は此の女性の身辺に注がれた。が、その裡に、衆僧が一斉に始めた読経の朗々たる声は、皆の心持を死者に対する敬虔な哀悼に引きべてしまつた。

 が、此女性が、信一郎の心の裡に起した動揺は、お経の声などに依つて却々なか〳〵静まりさうにも見えなかつた。

 彼は、直覚的に此女性が、死んだ青年に対して、特殊な関係を持つてゐることを信じた。此女性の美しいけれども颯爽たる容姿が、あの返すべき時計に鏤刻るこくされてゐる、鋭い短剣の形を想ひ起さしめた。彼は、読経の声などには、殆ど耳も傾けずに、群衆の頭越しに、女性の姿を、懸命に見詰めたのである。

 が、見詰めてゐるうちに、信一郎の心は、それが瑠璃子であるか、時計の持主であるかなどと云ふ疑問よりも、此の女性の美しさに、段々囚はれて行くのだつた。

 此の女性の顔形は、美しいと云つても、昔からある日本婦人の美しさではなかつた。それは、日本の近代文明が、はじめて生み出したやうな美しさと表情を持つてゐた。明治時代の美人のやうに、個性のない、人形のやうな美しさではなかつた。その眸は、飽くまでも、理智に輝いてゐた。顔全体には、爛熟した文明の婦人に特有な、智的な輝きがあつた。

 婦人席で多くの婦人の中に立つてゐながら、此の女性の背後だけには、ほの〴〵と明るい後光が、射してゐるやうに思はれた。

 年頃から云へば娘とも思はれた。が、何処かに備はつてゐる冒しがたい威厳は、名門の夫人であることを示してゐるやうに思はれた。

 信一郎が、此の女性の美貌に対する耽美に溺れてゐる裡に、葬式のプログラムはだん〳〵進んで行つた。死者の兄弟を先に一門の焼香が終りかけると、此の女性もしとやかに席を離れて死者の為に一抹の香を焚いた。

 やがて式は了つた。会葬者に対する挨拶があると、会葬者達は、我先にと帰途を急いだ。式場の前には俥と自動車とが暫くは右往左往に、入り擾れた。

 信一郎は、急いで退場する群衆に、わざと取残された。彼は群衆に押されながら、意識して、彼の女性に近づいた。

 女性が、式場を出外ではづれると、彼女はそこで、四人の大学生に取り捲かれた。大学生達は皆死んだ青年の学友であるらしかつた。彼女は何か二言三言言葉を換すと乗るべき自動車に片手をかけて、華やかな微笑を四人の中の、誰に投げるともなく投げて、そのしなやかな身を飜して忽ち車上の人となつたが、つと上半身を出したかと思ふと、

「本当にさう考へて下さつては、わたくし困りますのよ。」と、嫣然えんぜんと云ひ捨てると、ドアをハタと閉ぢたが自動車はそれを合図に散りかゝる群衆の間を縫うて、徐ろに動き始めた。

 大学生達は、自動車の後を、暫らく立ち止つて見送ると、その儘肩を揃へて歩き出した。信一郎も学生達の後を追つた。学生達に話しかけて、此女性の本体を知ることが時計の持主を知る、唯一の機会であるやうに思つたからである。

 学生達は、電車に乗るつもりだらう。式場の前の道を、青山三丁目の方へと歩き出したのであつた。信一郎は、それと悟られぬやう一間ばかり、間隔を以て歩いてゐた。が、学生達の声は、可なり高かつた。彼等の会話が、切れ切れに信一郎にも聞えて来た。

「青木の変死は、偶然だと云へばそれまでだが、僕は死んだと聞いたとき、直ぐ自殺ぢやないかと思つたよ。」と、一番肥つてゐる男が云つた。

「僕もさうだよ。青木の奴、やつたな! と思つたよ。」と、他の背の高い男は直ぐ賛成した。



「僕の所へ三保から寄越した手紙なんか、全く変だつたよ。」と、たゞ一人夏外套を着てゐる男が云つた。

 信一郎は、さうした学生の会話に、好奇心を唆られて、思はず間近く接近した。

「兎に角、ヒドく悄気しよげてゐたことは、事実なんだ。誰かに、失恋したのかも知れない。が、彼奴の事だから誰にも打ち明けないし、相手の見当は、サツパリ付かないね。」と、肥つた男が云つた。

 さう聞いて見ると、信一郎は、自動車に同乗したときの、青年の態度を直ぐ思ひ出した。その悲しみに閉された面影がアリ〳〵と頭に浮んだ。

「相手つて、まさか我々の荘田しやうだ夫人ぢやあるまいね。」と、一人が云ふと、皆高々と笑つた。

「まさか。まさか。」と皆は口々に打ち消した。

 其処は、もう三丁目の停留場だつた。四人連の内の三人は、其処に停車してゐる電車に、無理に押し入るやうにして乗つた。たゞ、後に残つた一人だけ、眼鏡をかけた、皆の話を黙つて聴いてゐた一人だけ、友達と別れて、電車の線路に沿うて、青山一丁目の方へ歩き出した。信一郎は、その男の後を追つた。相手が、一人の方が、話しかけることが、容易であると思つたからである。

 半町ばかり、付いて歩いたが、うしても話しかけられなかつた。突然、話しかけることが、不自然で突飛であるやうに思はれた。彼は、幾度も中止しようとした。が、此機会を失しては、時計を返すべきいとぐちが、永久に見付け得られないやうにも思つた。信一郎は到頭思ひ切つた。先方が、一寸振り返るやうにしたのを機会に、つか〳〵と傍へ歩き寄つたのである。

「失礼ですが、貴君あなたも青木さんのお葬ひに?」

「さうです。」先方は突然な問を、意外に思つたらしかつたが、不愉快な容子は、見せなかつた。

「やつぱりお友達でいらつしやいますか。」信一郎はやゝ安心して訊いた。

「さうです。ずつと、小さい時からの友達です。小学時代からの竹馬の友です。」

「なるほど。それぢや、さぞお力落しでしたらう。」と云つてから、信一郎は少し躊躇してゐたが、「つかぬ事を、承はるやうですが、今貴君あなた方と話してゐた婦人の方ですね。」と云ふと、青年は直ぐ訊き返した。

「あの自動車で、帰つた人ですか。あの人が何うかしたのですか。」

 信一郎は少しドギマギした。が、彼は訊き続けた。

「いや、うもしないのですが、あの方は何とおつしやる方でせう。」

 学生は、一寸信一郎を憫れむやうな微笑を浮べた。ホンの瞬間だつたけれども、それは知るべきものを知つてゐない者に見せる憫れみの微笑だつた。

「あれが、有名な荘田夫人ですよ。御存じなかつたのですか。かつて司法大臣をした事のある唐沢男爵の娘ですよ。唐沢さんと云へば、青木君のお父様と、同じ団体に属してゐる貴族院の老政治家ですよ。お父様同士の関係で、青木君とは近しかつたんです。」

 さう云はれて見ると、信一郎も、荘田夫人なるものゝ写真や消息を婦人雑誌や新聞の婦人欄で幾度も見たことを思ひ出した。が、それに対して、何の注意も払つてゐなかつたので、その名前は何うしても想ひ浮ばなかつた。が、此の場合名前まで訊くことが、可なり変に思はれたが、信一郎は思ひ切つて訊ねた。

「お名前は、確か何とか云はれたですね。」

「瑠璃子ですよ、我々は、玉桂たまかつらの瑠璃子夫人と云つてゐますよ。ハヽヽヽ。」と、学生は事もなげに答へた。



 葬場に於ける遅参者が、信一郎の直覚してゐたとほり、瑠璃子と呼ばるゝ女性であることが、此大学生に依つて確められると、彼はその女性に就いて、もつといろ〳〵な事が知りたくなつた。

「それぢや、青木君とあの瑠璃子夫人とは、さう大したお交際つきあひでもなかつたのですね。」

「いやそんな事もありませんよ。此半年ばかりは、可なり親しくしてゐたやうです。尤もあの奥さんは、大変お交際つきあひの広い方で、僕なども、青木君同様可なり親しく、交際してゐる方です。」

 大学生は、美貌の貴婦人を、知己の中に数へ得ることが、可なり得意らしく、誇らしげにさう答へた。

「ぢや、可なり自由な御家庭ですね。」

「自由ですとも、夫の勝平氏を失つてからは、思ふまゝに、自由に振舞つてをられるのです。」

「あ! ぢや、あの方は未亡人ですか。」信一郎は、可なり意外に思ひながら訊いた。

「さうです。結婚してから半年か其処らで、夫に死に別れたのです。それに続いて、先妻のお子さんの長男が気が狂つたのです。今では、荘田家はあの奥さんと、美奈子と云ふ十九の娘さんだけです。それで、奥さんは離縁にもならず、娘さんの親権者として荘田家を切廻してゐるのです。」

「なるほど。それぢや、後妻に来られたわけですね。あの美しさで、あの若さで。」と、信一郎は事毎に意外に感じながらさう呟いた。

 大学生は、それに対して、何か説明しようとした。が、もう二人は青山一丁目の、停留場に来てゐた。学生は、今発車しようとしてゐる塩町行の電車に、乗りたさうな容子を見せた。

 信一郎は、最後の瞬間を利用して、もう一歩進めて見た。

「突然ですが、ある用事で、あの奥さんに、一度お目にかゝりたいと思ふのですが、紹介して下さる訳には……」と、言葉を切つた。

 大学生は、信一郎のさうしたやゝ不自然な、ぶつきら棒な願ひを、美貌の女性の知己になりたいと云ふ、世間普通な色好みの男性の願と、同じものだと思つたらしく、一寸嘲笑に似た笑ひを洩さうとしたが、直ぐそれを噛み殺して、

「貴君の御身分や、御希望を精しく承らないと、僕として一寸紹介して差上げることは出来ません。尤も、荘田夫人は普通の奥さん方とは違ひますから、突然尋ねて行かれても、屹度きつと逢つて呉れるでせう。御宅は、麹町の五番町です。」

 さう云ひ捨てると、その青年は身体をすばしこく動かしながら、将に動き出さうとする電車に巧に飛び乗つてしまつた。

 信一郎は、一寸おいてきぼりを喰つたやうな、稍々やゝ不快な感情を持ちながら、暫らく其処に佇立した。大学生に話しかけた自分の態度が、下等な新聞記者か何かのやうであつたのが、恥しかつた。どんなに、あの女性の本名が知りたくてももつと上品な態度が取れたのにと思つた。

 が、さうした不愉快さが、段々消えて行つた後に、瑠璃子と云ふ女性の本体を掴み得た満足が其処にあつた。而も、瑠璃子と云ふ女性が、今も尚ハンカチーフに包んで、ポケットの底深く潜ませて、持つて来た時計の持主らしい。凡ての資格を備へてゐることが何よりも嬉しかつた。短剣を鏤めた白金プラチナの時計と、今日見た瑠璃子夫人の姿とは、ピツタリと合ひすぎるほど、合つてゐた。今日にでも夫人を訪ねれば、夫人は屹度、死んだ青年に対する哀悼の涙を浮べながら、あの時計を受取つて呉れるにちがひない。そして、自分と青年との不思議な因縁に、感激の言葉を発するにちがひない。さう思ふと、信一郎の瞳にあざやかな夫人の姿が、歴々あり〳〵と浮かんで来た。彼は一刻も早く、夫人に逢ひたくなつた。其処へ、彼のさうした決心を促すやうに、九段両国行きの電車が、きしつて来た。此電車に乗れば、麹町五番町迄は、一回の乗換さへなかつた。



 電車が、赤坂見附から三宅坂通り、五番町に近づくに従つて、信一郎の眼には、葬場で見た美しい女性の姿が、いろいろな姿勢ポーズを取つて、現れて来た。返すべき時計のことなどよりも、美しき夫人の面影の方が、より多く彼の心を占めてゐるのに気が付いた。彼は自分の心持の中に、不純なものが交りかけてゐるのを感じた。『お前は時計を返す為に、あの夫人に逢ひたがつてゐるのではない。時計を返すのを口実として、あの美しい夫人に逢ひたがつてゐるのではないか。』と云ふ叱責に似た声を、彼は自分の心持の中に感じた。それほど、瑠璃子と呼ばれる女性の美しさが、彼の心を悩まし惑はしたが、信一郎は懸命にそれから逃れようとした。自分の責任は、たゞ青年の遺言どほりに、時計を真の持主に返せばいゝのだ。荘田瑠璃子が、どんな女性であらうとあるまいと、そんな事は何の問題でもないのだ。たゞ、夫人が本当に時計の持主であるかどうかゞ、問題なのだ。自分はそれを確めて、時計を返しさへすれば、責任は尽きるのだ。信一郎は、さう強く思ひ切らうとした。が、幾何いくら強く思ひ切らうとしても、白孔雀を見るやうな、﨟たけた若き夫人の姿は、彼が思ふまいとすればするほど、いよ〳〵鮮明に彼の眼底を去らうとはしなかつた。

 青い葉桜の林に、キラ〳〵と夏の風が光る英国大使館の前を過ぎ、青草が美しく茂つたお濠のどてに沿うて、電車が止まると、彼は急いで電車を降りた。彼の眼の前に五番町の広いとほりが、午後の太陽の光の下に白く輝いてゐた。彼は、一寸した興奮を感じながらも、暫くは其処に立ち止まつた。紳士として、突然訪ねて行くことが、余りにはしたないやうにも思はれた。手紙位で、一応面会の承諾を得る方が、自然で、かつは礼儀ではないかと思つたりした。が、さうした順序を踏んで相手が、会はないと云へば、それ切りになつてしまふ。少しは不自然でも、直截に訪問した方が、却つて容易に会見し得るかも知れない。殊に、今は死んだ青年の葬儀から帰つたばかりであるから、此の夫人も、きつと青年のことを考へてゐるにちがひない。其処へ、自分が青年の名に依つて尋ねて行けば、案外快く引見するに違ひない。さう考へると信一郎は崩れかゝつた勇気を振ひ興して、五番町の表通と横町とを軒並に、物色して歩いた。彼は、五番町の総てをあさつた。が、何処にも、荘田と云ふ表札は、見出さなかつた。三十分近く無駄に歩き廻つた末、彼は到頭通り合はした御用聴らしい小僧に尋ねた。

「荘田さんですか。それぢやあの停留場の直ぐ前の、白煉瓦の洋館の、お屋敷がそれです。」と、小僧は言下に教へて呉れた。

 その家は、信一郎にも最初から判つてゐた。信一郎は、電車から降りたとき、直ぐその家に眼をつたのであるが、花崗岩らしい大きな石門から、楓の並樹の間を、爪先上りになつてゐる玄関への道の奥深く、青い若葉の蔭に聳ゆる宏壮な西洋館が──大きい邸宅の揃つてゐる此界隈でも、他の建物を圧倒してゐるやうな西洋館が荘田夫人の家であらうとは夢にも思はなかつた。

 彼は、予想以上に立派な邸宅に気圧けおされながら、暫らくはその門前に佇立した。玄関への青い芝生の中の道が、曲線をしてゐる為に車寄せの様子などは、見えなかつたが、ゴシック風の白煉瓦の建物は瀟洒に而も荘重な感じを見る者に与へた。開け放した二階の窓にそよいでゐる青色の窓掩ひが、如何にも清々しく見えた。二階の縁側ヴェランダに置いてある籐椅子には、燃ゆるやうな蒲団クションが敷いてあつて、此家の主人公が、美しい夫人であることを、示してゐるやうだ。

 入らうか、入るまいかと、信一郎は幾度も思ひ悩んだ。手紙で訊き合して見ようか、それでも事は足りるのだと思つたりした。彼が、宏壮な邸宅に圧迫されながら思はずきびすかへさうとした時だつた。噴泉の湧くやうに、突如として樹の間から洩れ始めた朗々たるピアノの音が信一郎の心をしつかと掴んだのである。



 樹の間を洩れて来るピアノの曲は、信一郎にも聞き覚えのあるショパンの夜曲ノクチュルンだつた。彼は、かへさうとしたきびすを、釘付けにされて、暫らくはその哀艶な響に、心を奪はれずにはゐられなかつた。嫋々たるピアノの音は、高く低く緩やかに劇しく、時には若葉の梢を馳け抜ける五月の風のやうに囁き、時には青い月光の下に、俄に迸り出でたる泉のやうに、激した。その絶えんとして、又続く快い旋律が、目に見えない紫の糸となつて、信一郎の心に、後から後から投げられた。それは美しい女郎蜘蛛の吐き出す糸のやうに、蠱惑的に彼の心を囚へた。

 彼の心に、鍵盤キイの上ををさのやうに馳けめぐつてゐる白い手が、一番に浮かんだ。それに続いて葬場でヴェールを取り去つた刹那の白い輝かしい顔が浮んだ。

 彼は時計を返すなどと云ふことより、兎に角も、夫人に逢ひたかつた。たゞ、訳もなく、惹き付けられた。たゞ、会ふことが出来さへすれば、その事だけでも、非常に大きな欣びであるやうに思つた。

 躊躇してゐた足を、踏み返した。思ひ切つて門を潜つた。ピアノの音に連れて、浮れ出した若き舞踏者のやうに、彼の心もあやしき興奮で、ときめいた。白い大理石の柱の並んでゐる車寄せで、彼は一寸躊躇した。が、その次の瞬間に、彼の指はもうドアの横に取付けてある呼鈴に触れてゐた。

 茲まで来ると、ピアノの音は、いよ〳〵間近く聞えた。その冴えた触鍵タッチが、彼の心を強く囚へた。

 呼鈴を押した後で、彼は妙な息苦しい不安の裡に、一分ばかり待つてゐた。その時、小さい靴の足音がしたかと思ふとドアが静かに押し開けられた。名刺受の銀の盆を手にした美しい少年が、微笑を含みながら、頭を下げた。

「奥さまに、一寸お目にかゝりたいと思ひますが、御都合は如何でございませうか。」

 彼は、さう云ひながら、一枚の名刺を渡した。

「一寸お待ち下さいませ。」

 少年は丁寧に再び頭を下げながら、玄関の突き当りの二階を、栗鼠りすのやうに、すばしこく馳け上つた。

 信一郎は少年の後を、ぢつと見送つてゐた。骰子さいは投げられたのだと云つたやうな、思ひ詰めた心持で、その二階に消える足音を聞いてゐた。

 忽ちピアノの音が、ぱつたりと止んだ。信一郎は、その刹那に劇しい胸騒ぎを感じたのである。その美しき夫人が、彼の姓名を初めて知つたと云ふことが、彼の心を騒がしたのである。彼は、再びピアノが鳴り出しはしないかと、息をこらしてゐた。が、ピアノの鳴る代りに、少年の小さい足音が、聞え始めた。愛嬌のよい微笑わらひを浮べた少年は、トン〳〵と飛ぶやうに階段を馳け降りて来た。

「一体、何う云ふ御用で厶いませうか。一寸聞かしていたゞくやうに、仰しやいました。」

 信一郎は、それを聞くと、もう夫人に会ふ確な望みを得た。

「今日、お葬式がありました青木淳氏のことで、一寸お目にかゝりたいのですが……」と、云つた。少年は、又勢ひよく階段を馳け上つて行つた。今度は、以前のやうに早くは、馳け降りて来なかつた。会はうか会ふまいかと、夫人が思案してゐる様子が、あり〳〵と感ぜられた。五分近くも経つた頃だらう。少年はやつと、二階から馳け降りて来た。

「御紹介状のない方には、何方どなたにもお目にかゝらないことにしてあるのですが、貴君あなた様を御信用申上げて、特別にお目にかゝるやうに仰しやいました。どうぞ、此方へ。」と、少年は信一郎を案内した。玄関を上つた処は、広間だつた。その広間の左の壁には、ゴヤの描いた『踊り子』の絵の、可なり精緻な模写が掲げてあつた。



女王蜘蛛



 信一郎の案内せられた応接室は、青葉の庭に面してゐる広い明るい部屋だつた。花模様の青い絨氈の敷かれた床の上には、桃花心木マホガニイ卓子テーブルを囲んで、水色の蒲団クションの取り附けてある腕椅子アームチェイアが五六脚置かれてゐる。壁に添うて横はつてゐる安楽椅子の蒲団クションも水色だつた。窓掩ひも水色だつた。それが純白の布で張られてゐる周囲の壁と映じて、夏らしい清新な気が部屋一杯に充ちてゐた。信一郎は勧められるまゝに、ドアを後にして、椅子に腰を下すと、落着いて部屋の装飾を見廻した。三方の壁には、それ〴〵新しい油絵が懸つてゐた。左手ゆんでの壁にかゝつてゐるのは、去年の二科の展覧会にかなり世評を騒がした新帰朝のある洋画家の水浴する少女の裸体画だつた。此家の女主人公が、裸体画を応接室に掲げるほど、社会上の因襲に囚はれてゐないことを示してゐるやうに、画中の少女は、一糸も纏つてゐない肉体を、冷たさうな泉の中に、その両膝の所迄、オヅ〳〵と浸してゐるのであつた。その他卓子テーブルの上に置いてある灰皿にも、炉棚マンテルピースの上の時計にも、草花を投げ入れてある花瓶にも、此家の女主人公の繊細な鋭い趣味が、一々現はれてゐるやうに思はれた。

 杜絶えたピアノの音は、再び続かなかつた。が、その音の主は、なか〳〵姿を現はさなかつた。少年が茶を運んで来た後は、暫らくの間、近づいて来る人の気勢けはひもなかつた。三分経ち、五分経ち、十分経つた。信一郎の心は、段々不安になり、段々いら〳〵して来た。自分が、余りに奇を好んで紹介もなく顔を見たばかりの夫人を、訪ねて来たことが、軽率であつたやうに、悔いられた。

 その裡に、ふと気が付くと、正面の炉棚マンテルピースの上の姿見に、自分の顔が映つてゐた。彼が何気なく自分の顔を見詰めてゐた時だつた。ふと、サラ〳〵と云ふ衣擦れの音がしたかと思ふと、背後うしろドアが音もなく開かれた。信一郎が、周章あわてて立ち上がらうとした時だつた。正面の姿見に早くも映つた白い美しい顔が、鏡の中で信一郎に、嫣然えんぜんたる微笑の会釈を投げたのである。

「お待たせしましたこと。でも、御葬式から帰つて、まだ着替へも致してゐなかつたのですもの。」

 長い間の友達にでも云ふやうな、男を男とも思つてゐないやうな夫人の声は、媚羞と狎々なれ〳〵しさに充ちてゐた。しかも、その声は、何と云ふ美しい響と魅力とを持つてゐただらう。信一郎は、意外な親しさを投げ付けられて最初はドギマギしてしまつた。

「いや突然伺ひまして……」と、彼は立ち上りながら答へた。声が、妙に上ずツて、少年か何かのやうに、赤くなつてしまつた。

 深海色にぼかした模様の錦紗縮緬の着物に、黒と緑の飛燕模様の帯を締めた夫人は、そのスラリと高い身体を、くねらせるやうに、椅子に落着けた。

「本当に、盛んなお葬式でしたこと。でも淳さんのやうに、あんなに不意に、死んでは堪りませんわ。あんまり、突然で丸切り夢のやうでございますもの。」

 初対面の客に、ロク〳〵挨拶もしないうちに、夫人は何のこだはりもないやうに、自由に喋べり続けた。信一郎は、夫人からスツカリ先手を打たれてしまつて、暫らくはなんにも云ひ出せなかつた。彼は我にもあらず、十分受け答もなし得ないで、たゞモヂ〳〵してゐた。夫人は、相手のさうした躊躇などは、眼中にないやうに、自由で快活だつた。

「淳さんは、たしかまだ二十四でございましたよ。確か五黄でございましたよ。五黄のさるでございませうかしら。わたしと同じに、よく新聞の九星を気にする方でございましたのよ。オホヽヽヽヽ。」

 信一郎は、美しい蜘蛛の精の繰り出す糸にでも、懸つたやうに、話手の美しさにひながら、暫らくは茫然としてゐた。



 夫人は、口でこそ青年の死を悼んでゐるものゝ、その華やかな容子や、表情の何処にも、それらしい翳さへ見えなかつた。たゞ一寸した知己の死を、死んでは少し淋しいが、然し大したことのない知己の死を、話してゐるのに過ぎなかつた。信一郎は、可なり拍子抜けがした。瑠璃子と云ふ名が、青年の臨終の床で叫ばれた以上、如何なる意味かで、青年と深い交渉があるだらうと思つたのは、自分の思ひ違ひかしら。夫人の容子や態度が、示してゐる通り、死んでは少し淋しいが、然し大したことのない知己に、過ぎないのかしら。さう、疑つて来ると、信一郎は、青年の死際の囈語うはごとに過ぎなかつたかも知れない言葉や、自分の想像を頼りにして、突然訪ねて来た自分の軽率な、芝居がかつた態度が気恥しくて堪らなくなつて来た。彼は、夫人に会へば、かう云はうあゝ云はうと思つてゐた言葉が、咽喉にからんでしまつて、たゞモヂ〳〵興奮するばかりだつた。

わたくし、今日すつかり時間を間違へてゐましてね。気が付くと、三時過ぎでございませう。驚いて、自動車で馳せ付けましたのよ。あんなに遅く行つて、本当にきまりが悪うございましたわ。」

 その癖、夫人はきまりが悪かつたやうな表情は少しも見せなかつた。あの葬場でも、それを思ひ出してゐる今も。若い美しい夫人の何処に、さうした大胆な、人を人とも思はないやうな強い所があるのかと、信一郎はたゞ呆気に取られてゐるだけであつた。先刻からの容子を見ると、信一郎が何のために、訪ねて来てゐるかなどと云ふことは、丸切り夫人の念頭にないやうだつた。信一郎の方も、訪ねて来た用向をどう切り出してよいか、途方にくれた。が、彼は漸く心を定めて、オヅ〳〵話し出した。

「実は、今日伺ひましたのは、死んだ青木君の事に就てでございますが……」

 さう云つて、彼は改めて夫人の顔を見直した。夫人が、それに対してどんな表情をするかゞ、見たかつたのである。が、夫人は無雑作だつた。

「さう〳〵取次の者が、そんなことを申してをりました。青木さんの事つて、何でございますの?」

 帝劇で見た芝居の噂話をでもしてゐるやうに夫人の態度は平静だつた。

「実は、貴女あなたさまにこんなことをお話しすべき筋であるかどうか、それさへ私には分らないのです、もし、人違ひとちがひだつたら、うか御免下さい。」

 信一郎は、女王の前に出た騎士のやうに慇懃だつた。が、夫人は卓上に置いてあつた支那製の団扇うちわを取つて、煽ぐともなく動かしながら、

「ホヽヽ何のお話か知りませんが大層面白くなりさうでございますのね。まあ話して下さいまし。人違ひでございましたにしろ、お聞きいたしただけ聞き徳でございますから。」と、微笑を含みながら云つた。

 信一郎は、夫人の真面目とも不真面目とも付かぬ態度に揶揄れたやうに、まごつきながら云つた。

「実は、私は青木君のお友達ではありません。只偶然、同じ自動車に乗り合はしたものです。そして青木君の臨終に居合せたものです。」

「ほゝう貴君あなたさまが……」

 さう云つた夫人の顔は、さすがに緊張した。が、夫人は自分で、それに気が付くと、直ぐ身をかはすやうに、以前の無関心な態度に帰らうとした。

「さう! まあ何と云ふ奇縁でございませう。」

 その美しい眼を大きくひらきながら、努めて何気なく云はうとしたが、その言葉には、何となく、あるこだはりがあるやうに思はれた。

「それで、実は青木君の死際の遺言を聴いたのです。」

 信一郎は、夫人の示した僅かばかりの動揺に力を得て突つ込むやうにさう言つた。

「遺言を貴君あなたさまが、ほゝう。」

 さう云つた夫人のけだかい顔にも、隠し切れぬ不安がアリ〳〵と読まれた。



 今迄は、秋の湖のやうに澄み切つてゐた夫人の容子が、青年の遺言と云ふ言葉を聴くと、急にわづかではあるが、擾れ始めた。信一郎は手答へがあつたのを欣んだ。此の様子では、自分の想像も、必ずしも的が外れてゐるとは限らないと、心強く思つた。

「衝突の模様は、新聞にもあるとほりですが、それでも負傷から臨終までは、先づ三十分も間がありましたでせう。その間、運転手は医者を呼びに行つてゐましたし、通りかゝる人はなし、私一人が臨終に居合はしたと云ふわけですが、丁度息を引き取る五分位前でしたらう、青木君は、ふと右の手首に入れてゐた腕時計のことを言ひ出したのです。」

 信一郎が、茲まで話したとき、夫人のおもては、急に緊張した。さうした緊張を、現すまいとしてゐる夫人の努力が、アリ〳〵と分つた。

「その時計をうしようと、云はれたのでございますか。その時計を!」

 夫人の言葉は、可なり急き込んでゐた。其の美しい白い顔が、サツと赤くなつた。

「その時計を返して呉れと云はれるのです。是非返して呉れと云はれるのです。」信一郎も、やゝ興奮しながら答へた。

誰方どなたにでございませうか。誰方に返して呉れと云はれたのでございませうか。」

 夫人の言葉は、更にき込んでゐた。一度赤くなつた顔が、白く冷たい色を帯びた。美しい瞳までが鋭い光を放つて、信一郎の答へいかにと、見詰めてゐるのだつた。

 信一郎は、夫人の鋭い視線を避けるやうにして云つた。

「それが誰にとも分らないのです。」

 夫人の顔に現れてゐた緊張が、又サツと緩んだ。暫らく杜絶えてゐた微笑が、ほのかながら、その口辺に現はれた。

「ぢや、誰方に返して呉れとも仰しやらなかつたのですの。」夫人は、ホツと安堵したやうに、何時の間にか、以前の落着を、取り返してゐた。

「いやそれがです。幾度も、返すべき相手の名前を訊いたのですが、もう臨終が迫つてゐたのでせう、私の問には、何とも答へなかつたのです。たゞ臨終に貴女あなたのお名前を囈語うはごとのやうに二度繰り返したのです。それで、万一貴女あなたに、お心当りがないかと思つて参上したのですが。」

 信一郎は、肝腎な来意を云つてしまつたので、ホツとしながら、彼は夫人が何う答へるかと、ぢつと相手の顔を見詰めてゐた。

「ホヽヽヽヽ。」先づ美しいその唇から、快活な微笑が洩れた。

「淳さんは、本当に頼もしい方でいらつしやいましたわ。そんな時にまで私を覚えてゐて下さるのですもの。でも、わたくし、腕時計などには少しも覚えがございませんの。お持ちなら、一寸拝見させていたゞけませんかしら。」

 もう、夫人の顔に少しの不安も見えなかつた。澄み切つた以前の美しさが、帰つて来てゐた。信一郎は、求めらるゝまゝに、ポケットの底から、ハンカチーフにくるんだ謎の時計を取り出した。

「確か女持には違ひないのです。少し、象眼の意匠が、女持としては奇抜過ぎますが。」

「妹さんのものぢやございませんのでせうか。」夫人は無造作に云ひながら、信一郎の差し出す時計を受取つた。

 信一郎は断るやうに附け加へた。

「血が少し附いてゐますが、わざと拭いてありません。衝突の時に、腕環の止金が肉に喰ひ入つたのです。」

 さう信一郎が云つた刹那、夫人の美しい眉が曇つた。時計を持つてゐる象牙のやうに白い手が、思ひしか、かすかにブル〳〵と顫へ出した。



 時計を持つてゐる手が、微かに顫へるのと一緒に、夫人の顔も蒼白く緊張したやうだつた。ほんのもう、痕跡しか残つてゐない血が、夫人の心を可なり、脅かしたやうにも思はれた。

 一分ばかり、無言に時計をいぢくり廻してゐた夫人は、何かを深く決心したやうに、そのひそめた眉を開いて、急に快活な様子を取つた。その快活さには、可なりギゴチない、不自然なところが交つてゐたけれども。

「あゝ判りました。やつと思ひ付きました。」夫人は突然云ひ出した。

わたくし此時計に心覚えがございますの。持主の方も存じてをりますの。お名前は、一寸申上げ兼ますが、ある子爵の令嬢でいらつしやいますわ。でも、私あの方と青木さんとが、かうした物を、お取りかはしになつてゐようとは、夢にも思ひませんでしたわ。屹度きつと、誰方にも秘密にしていらしつたのでございませう。だから青木さんは臨終の時にも、遺族の方には知られたくなかつたのでございませう。道理で見ず知らずの貴方あなたにお頼みになつたのでございますわ。その令嬢と、愛の印としてお取り換しになつたものを、遺品かたみとしてお返しになりたかつたのでは、ございませんかしら。」

 夫人は、明瞭に流暢に、何のよどみもなく云つた。が、何処となく力なく空々しいところがあつたが、信一郎は夫人の云ふことを疑ふたしかな証拠は、少しもなかつた。

「私も、多分さうした品物だらうとは思つてゐたのです。それでは、早速その令嬢にお返ししたいと思ひますが、御名前を教へていたゞけませんでせうか。」

「左様でございますね。」と、夫人は首をかしげたが、直ぐ「私を信用していたゞけませんでせうか、私が、女同士で、そつと返して上げたいと思ひますのよ。男の方の手からだと、どんなに恥しくお思ひになるか分らないと、存じますのよ。いかゞ?」と、承諾を求めるやうに、ニツコリと笑つた。華やかな艶美な微笑だつた。さう云はれると、信一郎はそれ以上、かれこれ言ふことは出来なかつた。兎に角、謎の品物が思つたより容易に、持主に返されることを、欣ぶより外はなかつた。

「ぢや、貴女あなたさまのお手でお返し下さいませ。が、その方のお名前だけは、承ることが出来ませんでせうか。貴方さまを、お疑ひ申す訳では決してないのでございますが。」と、信一郎はオヅ〳〵云つた。

「ホヽヽヽ貴方様も、他人の秘密を聴くことが、お好きだと見えますこと。」夫人は、忽ち信一郎を突き放すやうに云つた。その癖、顔一杯に微笑を湛へながら、「恋人を突然奪はれたその令嬢に、同情して、黙つて私に委して下さいませ。私が責任を以て、青木さんのたましひが、満足遊ばすやうにお計ひいたしますわ。」

 信一郎は、もう一歩も前へ出ることは出来なかつた。さうした令嬢が、本当にゐるか何うかは疑はれた。が、夫人が時計の持主を、知つてゐることは確かだつた。それが、夫人の云ふとほり、子爵の令嬢であるか何うかは分らないとしても。

「それでは、お委せいたしますから、何うかよろしくお願ひいたします。」

 さう引き退るより外はなかつた。

たしかにお引き受けいたしましたわ。貴方さまのお名前は、その方にも申上げて置きますわ。屹度、その方も感謝なさるだらうと存じますわ。」

 さう云ひながら、夫人はその血の附いた時計を、懐から出した白い絹のハンカチーフに包んだ。

 信一郎は、時計が案外容易に片づいたことが、嬉しいやうな、同時に呆気ないやうな気持がした。少年が紅茶を運んで来たのを合図のやうに立ち上つた。

 信一郎が、勧められるのを振切つて、将に玄関を出ようとしたときだつた。夫人は、何かを思ひ付いたやうに云つた。

「あ、一寸お待ち下さいまし。差上げるものがございますのよ。」と、呼び止めた。



 信一郎が、暇を告げたときには何とも引き止めなかつた夫人が、玄関のところで、急に後から呼び止めたので、信一郎は一寸意外に思ひながら、振り顧つた。

「つまらないものでございますけれども、これをお持ち下さいまし。」

 さう云ひながら、夫人は何時の間に、手にしてゐたのだらう、プログラムらしいものを、信一郎に呉れた。一寸開いて見ると、それは夫人の属するある貴婦人の団体で、催される慈善音楽会の入場券とプログラムであつた。

「御親切に対する御礼は、わたくしから、致さうと存じてをりますけれど、これはホンのお知己ちかづきになつたお印に差し上げますのよ。」

 さう云ひながら、夫人は信一郎に、最後の魅するやうな微笑を与へた。

「いたゞいて置きます。」辞退するほどの物でもないので信一郎はその儘ポケットに入れた。

「御迷惑でございませうが、是非お出で下さいませ、それでは、その節またお目にかゝります。」

 さう云ひながら、夫人は玄関のドアの外へ出て暫らくは信一郎の歩み去るのを見送つてゐるやうであつた。

 電車に乗つてから、暫らくの間信一郎は夫人に対するゑひから、醒めなかつた。それは確かに酔心地ゑひごゝちとでも云ふべきものだつた。夫人と会つて話してゐる間、信一郎はそのキビ〳〵した表情や、優しいけれども、のしかゝつて来るやうな言葉に、云ひ知れぬ魅力をさへ感じてゐた。男を男とも思はないやうな夫人に、もつとグン〳〵引きずられたいやうな、不思議な慾望をさへ感じてゐたのである。

 が、さうした酔が、だん〳〵醒めかゝるに連れ、冷たい反省が信一郎の心を占めた。彼は、今日の夫人の態度が、何となく気にかゝり始めた。夫人の態度か、言葉かの何処かに、嘘偽りがあるやうに思はれてならなかつた。最初冷静だつた夫人が、遺言と云ふ言葉を聞くと、急に緊張したり、時計を暫らく見詰めてから、急に持主を知つてゐると云ひ出したりしたことが、今更のやうに、疑念の的になつた。疑つてかゝると、信一郎は大事な青年の遺品かたみを、夫人から体よく捲き上げられたやうにさへ思はれた。従つて、夫人の手に依つて、時計が本当の持主に帰るかどうかさへが、可なり不安に思はれ出した。

 その時に、信一郎の頭の中に、青年の最後の言葉が、アリ〳〵と甦つて来た。『時計を返して呉れ』と云ふ言葉の、語調までが、ハツキリと甦つて来た。その叫びは、恋人に恋の遺品かたみを返すことを、頼む言葉としては、余りに悲痛だつた。その叫びの裡には、もつと鋭い骨を刺すやうな何物かゞ、混じつてゐたやうに思はれた。『返して呉れ』と云ふ言葉の中に『突つ返して呉れ』と云ふやうな凄い語気を含んでゐたことを思ひ出した。たとひ、死際であらうとも、恋人に物を返すことを、あれほど悲痛に頼むことはない筈だと思はれた。

 さう考へて来ると、瑠璃子夫人の云つた子爵令嬢と青年との恋愛関係は、烟のやうに頼りない事のやうにも思はれた。夫人はあゝした口実で、あの時計を体よく取返したのではあるまいか。本当は、自分のものであるのを、他人のものらしく、体よく取返したのではあるまいか。

 が、さう疑つて見たものゝ、それを確める証拠は何もなかつた。それを確めるために、もう一度夫人に会つて見ても、あの夫人の美しい容貌と、溌剌な会話とで、もう一度体よく追ひ返されることは余りに判り切つてゐる。

 信一郎は、夫人の張る蜘蛛の網にかゝつた蝶か何かのやうに、手もなく丸め込まれ、肝心な時計を体よく、捲き上げられたやうに思はれた。彼は、自分の腑甲斐なさが、口惜しく思はれて来た。

 彼の手を離れても、謎の時計は、やつぱり謎の尾を引いてゐる。彼は何うかして、その謎を解きたいと思つた。

 その時にふと、彼は青年が海に捨つるべく彼に委託したノートのことを思ひ出したのである。



 青年から、海へ捨てるやうに頼まれたノートを、信一郎はまだトランクの裡に、持つてゐた。海に捨てる機会をなくしたので、焼かうか裂かうかと思ひながら、ついその儘になつてゐたのである。

 それを、今になつて披いて見ることは、死者に済まないことにはちがひなかつた。が、時計の謎を知るためには、──それと同時に瑠璃子夫人の態度の謎を解くためには、ノートを見ることより外に、何の手段も思ひ浮ばなかつた。あんな秘密な時計をさへ、自分には託したのだ、その時計の本当の持主を知るために、ノートを見る位は、許して呉れるだらうと、信一郎は思つた。

 でも家に帰つて、まだ旅行から帰つたまゝに、放り出してあつたトランクを開いたとき、信一郎は可なり良心の苛責を感じた。

 が、彼が時計の謎を知らうと云ふ慾望は、もつと強かつた。美しい瑠璃子夫人の謎を解かうと云ふ慾望は、もつと強かつた。

 彼は、恐る恐るノートを取り出した。秘密の封印を解くやうな興奮と恐怖とで、オヅ〳〵表紙を開いて見た。彼の緊張した予期は外れて、最初の二三枚は、白紙だつた。その次ぎの五六枚も、白紙だつた。彼は、裏切られたやうなイラ〳〵しさで、全体を手早くめくつて見た。が、何のページも、真白な汚れないページだつた。彼が、妙な失望を感じながら、最後までめくつて行つたとき、やつと其処に、インキの匂のまだ新しい青年の手記を見たのである。それは、ノートの最後から、逆にかき出されたものだつた。

 信一郎は胸を躍らしながら、貪るやうにその一行々々を読んだのである。可なり興奮して書いたと見え、字体がすさんでゐる上に、字の書きちがひなどが、彼処かしこにも此処にもあつた。


 ──彼女は、蜘蛛だ。恐ろしく、美しい蜘蛛だ。自分が彼女に捧げた愛も熱情も、たゞ彼女の網にかゝつた蝶の身悶えに、過ぎなかつたのだ。彼女は、彼女の犠牲の悶えを、冷やかに楽しんで見てゐたのだ。

 今年の二月、彼女は自分に、愛の印だと云つて、一個の腕時計を呉れた。それを、彼女の白い肌から、直ぐ自分の手首へと、移して呉れた。彼女は、それをかけ替のない秘蔵の時計であるやうなことを云つた。彼女を、純真な女性であると信じてゐた自分は、さうした賜物を、どんなに欣んだかも知れなかつた。彼女を囲んでゐる多くの男性の中で、自分こそ選ばれたる唯一人であると思つた。勝利者であると思つた。自分は、人知れず、得々としてれを手首に入れてゐた。彼女の愛の把握が其処にあるやうに思つてゐた。彼女の真実の愛が、自分一人にあるやうに思つてゐた。

 が、自分のさうした自惚は、さうした陶酔は滅茶苦茶に、蹂み潰されてしまつたのだ。皮肉に残酷に。

 昨日自分は、村上海軍大尉と共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待つてゐた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕を捲り上げて、腕時計を出して見てゐるのに気が附いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似してゐるのである。自分はそれとなく、一見を願つた。自分が、その時計を、大尉の頑丈な手首から、取り外した時のおどろきは、何んなであつたらう。し、大尉が其処に居合せなかつたら、自分は思はず叫声を挙げたにちがひない。自分が、それを持つてゐる手は思はず、顫へたのである。

 自分はき込んで訊いた。

「これは、何処からお買ひになつたのです。」

「いや、買つたのではありません。ある人から貰つたのです。」

 大尉の答は、憎々しいほど、落着いてゐた。しかも、その落着の中に、得意の色がアリ〳〵と見えてゐるではないか。



 ──その時計は、自分の時計と、寸分違つてはゐなかつた。象眼の模様から、鏤めてあるダイヤモンドの大きさまで。それは、彼女に取つてかけ替のない、たつた一つの時計ではなかつたのか。自分は自分の手中にある大尉の時計を、庭の敷石に、叩き付けてやりたいほど興奮した。が、大尉は自分の興奮などには気の付かないやうに、

「何うです。仲々奇抜な意匠でせう。一寸類のない品物でせう。」と、その男性的な顔に得意な微笑を続けてゐた。自分は、自分の右の手首に入れてゐるそれと、寸分違はぬ時計を、大尉の眼に突き付けて大尉のプライドを叩き潰してやりたかつた。が、大尉に何の罪があらう。自分達立派な男子二人に、こんな皮肉な残酷な喜劇を演ぜしめるのは、皆彼女ではないか。彼女が操る蜘蛛の糸の為ではないか。自分は、彼女が帰り次第、真向から時計を叩き返してやりたいと思つた。

 が、彼女と面と向つて、不信を詰責しようとしたとき、自分は却つて、彼女から忍びがたい恥かしめを受けた。自分は小児の如く、飜弄され、奴隷の如く卑しめられた。而も、美しい彼女の前に出ると、唖のやうにたわいもなく、黙り込む自分だつた。自分はいきどほりうらみとの為に、わな〳〵顫へながら而も指一本彼女に触れることが出来なかつた。自分は力と勇気とが、欲しかつた。彼女の華奢な心臓を、一思ひに突き刺し得るだけの勇気と力とを。

 が、二つとも自分には欠けてゐた。彼女を刺す勇気のない自分は、彼女を忘れようとして、都を離れた。が、彼女を忘れようとすればするほど、彼女の面影は自分を追ひ、自分を悩ませる。


 手記は茲で中断してゐる。が、半ページばかり飛んでから、前よりももつと乱暴な字体で始まつてゐる。


 何うしても、彼女の面影が忘れられない。それが蝮のやうに、自分の心を噛み裂く。彼女を心から憎みながら、しかも片時も忘れることが出来ない。彼女が彼女のサロンで多くの異性に取囲まれながら、あの悩ましき媚態を惜しげもなく、示してゐるかと思ふと、自分の心は、夜の如く暗くなつてしまふ。自分が彼女を忘れるためには、彼女の存在を無くするか、自分の存在を無くするか、二つに一つだと思ふ。


 又一寸中断されてから、


 さうだ、一層死んでやらうかしら。純真な男性の感情を弄ぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思ひ知らせてやるために。さうだ。自分の真実の血で、彼女のいつはりの贈物を、真赤に染めてやるのだ。そして、彼女の僅に残つてゐる良心を、はづかしめてやるのだ。


 手記は、茲で終つてゐる。信一郎は、深い感激の中に読み了つた。これで見ると、青年の死は、形は奇禍であるけれども、心持は自殺であると云つてもよかつたのだ。青年は死場所を求めて、箱根から豆相づさうの間を逍遥さまよつてゐたのだつた。彼の奇禍は、彼の望みどほりに、偽りの贈り物を、彼の純真な血で真赤に染めたのだ。が、その血潮が、彼女の心に僅かに残つてゐる良心を、はづかしめ得るだらうか。『返して呉れ』と云つたのは『叩き返して呉れ』と云ふ意味だつた。信一郎は果して叩き返しただらうか。

 彼女が、瑠璃子夫人であるか何うかは、手記を読んだ後も、判然とは判らなかつた。が、たゞ生易しい平和の裡に、返すべき時計でないことはあきらかだつた。その時計の中に含まれてゐる青年の恨みを、相手の女性に、十分思ひ知らさなければならない時計だつたのだ。たゞ、ボンヤリと返しただけでは青年の心は永久に慰められてゐないのだ。信一郎はもう一度瑠璃子夫人の手から取り返して、青年の手記の中の所謂『彼女』に突き返してやらねばならぬ責任を感じたのである。

 が、『彼女』とは一体誰であらう。



そのかみの事



「あら! お危うございますわ。」と赤い前垂掛の女中姿をした芸者達に、追ひ纏はれながら、荘田勝平は庭の丁度中央まんなかにある丘の上へ、登つて行つた。飲み過ごした三鞭酒シャンペンしゆのために、可なり危かしい足付をしながら。

 丘の上には、数本の大きい八重桜が、爛漫と咲乱れて、移り逝く春の名残りを止めてゐた。其処から見渡される広い庭園には、晩春の日が、うら〳〵と射してゐる。五万坪に近い庭には、幾つもの小山があり芝生があり、芝生が緩やかな勾配を作つて、落ち込んで行つたところには、美しい水の湧く泉水があつた。

 その小山の上にも、麓にも、芝生の上にも、泉水のほとりにも、数奇を凝らした四阿あづまやの中にも、モーニングやフロックを着た紳士や、華美な裾模様を着た夫人や令嬢が、三々伍々打ち集うてゐるのだつた。

 人の心を浮き立たすやうな笛や鼓の音が、楓の林の中から聞えてゐる。小松の植込の中からは、其処に陣取つてゐる、三越の少年音楽隊の華やかな奏楽が、絶え間なく続いてゐる。拍子木が鳴つてゐるのは、市村座の若手俳優の手踊りが始まる合図だつた。それに吸ひ付けられるやうに、裾模様や振袖の夫人達が、その方へゾロ〳〵と動いて行くのだつた。

 勝平は、さうした光景や、物音を聞いてゐると、得意と満足との微笑が後から後から湧いて来た。自分の名前に依つて帝都の上流社会がこんなに集まつてゐる。自分の名に依つて、大臣も来てゐる。大銀行の総裁や頭取も来てゐる。侯爵や伯爵の華族達も見えてゐる。いろ〳〵な方面の名士を、一堂の下に蒐めてゐる。自分の名に依つて、自分の社会的位置で。

 さう考へるに付けても、彼は此の三年以来自分に降りかゝつて来た夢のやうな華やかな幸運が、振り顧みられた。

 戦争が始まる前は、神戸の微々たる貿易商であつたのが、偶々持つてゐた一隻の汽船が、幸運の緒を紡いで極端な遣繰りをして、一隻一隻と買ひ占めて行つた船が、お伽噺の中の白鳥のやうに、黄金の卵を、次ぎ次ぎに産んで、わづか三年後の今は、千万円を越す長者になつてゐる。

 しかも、金が出来るに従つて、彼は自分の世界が、だん〳〵拡がつて行くのを感じた。今までは、『其処にゐるか』とも声をかけて呉れなかつた人々が、何時の間にか自分の周囲に蒐まつて来てゐる。近づき難いと思つてゐた一流の政治家や実業家達が、何時の間にか、自分と同じ食卓に就くやうになつてゐる。自分を招待したり、自分に招待されたりするやうになつてゐる。その他、彼の金力が物を云ふところは、到る処にあつた。緑酒紅燈の巷でも、彼は自分の金の力が万能であつたのを知つた。彼は、金さへあれば、何でも出来ると思つた。現に、此の庭園なども、都下で屈指の名園を彼が五十万円に近い金を投じて買つたのである。現に、今日の園遊会も、一人宛百金に近い巨費を投じて、新邸披露として、都下の名士達を招んだのである。

 聞えて来る笛の音も、鼓の音も奏楽の響も、模擬店でビールの満を引いてゐる人達の哄笑も、勝平の耳には、彼の金力に対する讃美の声のやうに聞えた。『さうだ。凡ては金だ。金の力さへあればどんな事でも出来る』と、心の裡で呟きながら、彼が日頃の確信を、一層強めたときだつた。

「いや、どうも盛会ですな。」と、ビールのコップを右の手に高く翳しながら、蹌踉ひよろ〳〵と近づいて来る男があつた。それは、勝平とは同郷の代議士だつた。その男の選挙費用も、悉く勝平のポケットから、出てゐるのだつた。

「やあ! お蔭さまで。」と、勝平は傲然と答へた。『こゝにも俺の金の力で動いてゐる男が一人ゐる。』と、心の中で思ひながら。



「よく集まつたものですね。随分珍しい顔が見えますね。松田老侯までが見えてゐますね。我輩一昨日は、英国大使館の園遊会ガードンパーティに行きましたがね。とても、本日の盛況には及びませんね。尤も、此名園を見るだけでも、来る価値は十分ありますからね。ハヽヽヽ。」

 代議士の沢田は真正面からお世辞を云ふのであつた。

「いゝ天気で、何よりですよ。ハヽヽヽヽ。」と、勝平は鷹揚に答へたが、内心の得意は、包隠つゝみかくすことが出来なかつた。

「素晴らしい庭ですな。彼処あすこの杉林から泉水の裏手へかけての幽邃な趣は、とても市内ぢや見られませんね。五十万円でも、これぢや高くはありませんね。」

 さう云ひながら、澤田は持つてゐたビールのコップを、またグイと飲み乾した。色の白い肥つた顔が、咽喉の処まで赤くなつてゐる。彼は、転げかゝるやうに、勝平に近づいて右の二の腕を捕へた。

「主人公が、こんな所に、逃げ込んでゐては困りますね。さあ、彼方あつちへ行きませう。先刻も我党の総裁が、貴方あなたを探してゐた。まだ挨拶をしてゐないと云つて。」

 澤田は、勝平をグン〳〵麓の方へ、園遊会の賑ひと混雑の方へ引きずり込まうとした。

「いや、もう少しこの儘にして置いて下さい。今日一時から、門の処で一時間半も立ち続けてゐた上に、先刻三鞭酒シャンペンしゆを、六七杯も重ねたものだから。もう暫らく捨てゝ置いて下さい。直ぐ行きますよ、後から直ぐ。」

 さう云つて、捕へられてゐた腕を、スラリと抜くと、澤田はそのはづみで、一間ばかりひよろひよろと下へ滑つて行つたが、其処で一寸踏み止まると、

「それぢや後ほど。」と云つたまゝ空になつたコップを、右の手で振り廻すやうにしながら、ふら〳〵丘の麓にある模擬店の方へ行つてしまつた。

 園内の数ヶ所で始まつてゐる余興は、それ〴〵に来会した人々を、分け取りにしてゐるのだらう。勝平の立つてゐる此の広い丘の上にも五六人の人影しか、残つてゐなかつた。勝平に付き纏つてゐた芸妓達も、先刻さつき踊りが始まる拍子木が鳴ると、皆その方へ馳け出してしまつた。

 が、勝平は四辺あたりに人のゐないのが、結局気楽だつた。彼は、其処に置いてある白い陶製の腰掛に腰を下しながら、快い休息を貪つてゐた。心の中は、燃ゆるやうな得意さで一杯になりながら。

 彼が、暫らく、ぼんやりと咲き乱れてゐる八重桜の梢越しに、薄青く澄んでゐる空を、見詰めてゐる時だつた。

「茲は静かですよ。早く上つていらつしやい。」と、近くで若い青年の声がした。ふと、その方を見ると、スラリとした長身に、学校の制服を着けた青年が、丘の麓を見下しながら、誰かをさしまねいてゐる所だつた。

 青年は、今日招待した誰かゞ伴つて来た家族の一人であらう。勝平には、少しも見覚えがなかつた。青年も、此の家の主人公が、こんな淋しい処に、一人ゐようなどとは、夢にも気付いてゐないらしく、麓の方を麾いてしまふと、ハンカチーフを出して、其処にある陶製の腰掛の埃を払つてゐるのだつた。

 急に、丘の中腹で、うら若い女の声がした。

「まあ、ひどい混雑ですこと。わたしいやになりましたわ。」

「どうせ、園遊会なんてかうですよ。あの模擬店の雑沓は、何うです。見てゐる丈でも、あさましくなるぢやありませんか。」と、青年は丘の中腹を、見下しながら、答へた。

 それには何とも答へないで、昇つて来るらしい人の気勢けはひがした。青年の言葉に、一寸傷つけられた勝平は、ぢつと其方を、睨むやうに見た。最初、前髪を左右に分けた束髪の頭の形が見えた。それに続いて、細面の透き通るほど白い女の顔が現れた。



 やがて、女は丘の上に全身を現した。年は十八か九であらう。その気高い美しさは、彼女の頭上に咲き乱れてゐる八重桜の、絢爛たる美しさをも奪つてゐた。目も醒むるやうな藤納戸色の着物の胸のあたりには、五色の色糸のかすみ模様のぬひが鮮かだつた。そのぼかされた裾には、さくら草が一面に散り乱れてゐた。白地に孔雀を浮織にした唐織の帯には、帯止めの大きい真珠が光つてゐた。

「疲れたでせう。お掛けなさい。」

 青年は、埃を払つた腰掛を、女に勧めた。彼女は進められるまゝに、腰を下しながら、横に立つてゐる青年を見上げるやうにして云つた。

わたし来なければよかつたわ。でも、お父様が一緒に行かう〳〵云つて、お勧めになるものですから。」

「僕も、妹のお伴で来たのですが、かう混雑しちや厭ですね。それに、此の庭だつて、都下の名園ださうですけれども、ちつともよくないぢやありませんか。少しも、自然な素直な所がありやしない。いやにコセ〳〵してゐて、人工的な小刀細工が多すぎるぢやありませんか。殊に、あの四阿あづまやの建て方なんか厭ですね。」

 年の若い二人は、此日の園遊会の主催者なる勝平が、たゞ一人こんな淋しい処にゐようなどとは夢にも考へ及ばないらしく、勝平の方などは、見向きもしないで話し続けた。

「お金さへかければいゝと思つてゐるのでせうか。」

 美しい令嬢は、その美しさに似合はないやうな皮肉な、口の利き方をした。

「どうせ、さうでせう。成金と云つたやうな連中は、金額と云ふ事より外には、何にも趣味がないのでせう。凡ての事を金の物差で計らうとする。金さへかければ、何でもいゝものだと考へる。今日の園遊会なんか、一人宛五十円とか百円とかを、入れるとか何とか云つてゐるさうですが、あの俗悪な趣向を御覧なさい。」

 青年は、何かに激してゐるやうに、吐き出すやうに云つた。

 先刻から、聞くともなしに、聞いてゐた勝平は、烈しいいかりで胸の中が、煮えくり返るやうに思つた。彼は、立ち上りざま、悪口を云つてゐる青年の細首を捕へて、邸の外へ放り出してやりたいとさへ思つた。彼は若い時、東京に出たときに労働をやつた時の名残りに、残つてゐる二の腕の力瘤を思はず撫でた。が、さすがに彼の位置が、つい三四分前まで、あんなに誇らしく思つてゐた彼の社会的位置が彼のさうした怒を制して呉れた。彼は、ムラ〳〵と湧いて来る心を抑へながら、青年の云ふことを、ぢつと聞き澄してゐた。

「成金だとか、何とかよく新聞などに、彼等の豪奢な生活を、謳歌してゐるやうですが、金でかちうる彼等の生活は、んなに単純で平凡でせう。金が出来ると、女色を漁る、自動車を買ふ、邸を買ふ、家を新築する、分りもしない骨董を買ふ、それ切りですね。中に、よつぽど心掛のいゝ男が、寄附をする。物質上の生活などは、いくら金をかけても、直ぐ尽きるのだ。金で、自由になる芸妓などを、弄んでゐて、よく飽きないものですね。」

 青年は、成金全体に、何か烈しい恨みでもあるやうに、罵りつゞけた。

「飽きるつて。そりやどうだか、分りませんね。貴方のやうに、敏感な方なら、直ぐに飽きるでせうが、彼等のやうに鈍い感じしか持つてゐない人達は、何時迄同じことをやつてゐても飽きないのぢやなくつて!」女は、美しい然し冷めたい微笑を浮べながら云つた。

「貴方は、悪口は僕より一枚上ですね。ハヽヽヽヽヽ。」

 二人は相顧みて、会心の笑ひを笑ひ合つた。

 黙つて聞いてゐた勝平の顔は、憤怒のため紫色になつた。



 まだ年の若い元気な二人は、自分達の会話が、傍に居合す此邸の主人の勝平にどんな影響を与へてゐるかと云ふ事は、夢にも気の付いてゐないやうに、無遠慮に自由に話し進んだ。

「でも、おばれを受けてゐて、悪口を云ふのは悪いことよ。さうぢやなくつて。」

 令嬢は、右の手に持つてゐる華奢な象牙骨の扇を、まさぐりながら、青年の顔を見上げながら、さすがに女らしく云つた。

「いや、もつと云つてやつてもいゝのですよ。」と、青年はその浅黒い男性的な凜々しい顔を、一層引き緊めながら、「第一華族階級の人達が、成金に対する態度なども、可なり卑しいと思つてゐるのですよ。平生門閥だとか身分だとか云ふ愚にも付かないものを、自慢にして、平民だとか町人だとか云つて、軽蔑してゐる癖に、相手が金があると、平民だらうが、成金だらうが、此方こつちからペコ〳〵して接近するのですからね。僕の父なんかも、何時の間にか、あんな連中と知己しりあひになつてゐるのですよ。此間も、あんな連中に担がれて、何とか云ふ新設会社の重役になるとか云つて、騒いでゐるものですから、僕はウンと云つてやつたのですよ。」

「おや! 今度は、お父様にお鉢が廻つたのですか。」女は、青年の顔を見上げて、ニツコリ笑つた。

「其処へ来ると、貴女のお父様なんか立派なものだ。何処へ出しても恥かしくない。いつでも、清貧に安んじていらつしやる。」青年は靴の先で散り布いてゐる落花を踏み躙りながら云つた。

「父のは病気ですのよ。」女は、一寸美しい眉を落し「あんなに年が寄つても、道楽が止められないのですもの。」さう云つた声は、一寸淋しかつた。

「道楽ぢやありませんよ。男子として、立派な仕事ぢやありませんか。三十年来貴族院の闘将として藩閥政府と戦つて来られたのですもの。」

 青年は、女を慰めるやうに云つた。が、先刻成金を攻撃したときほどの元気はなかつた。二人は話が何時か、理に落ちて来た為だらう。ちらからともなく、黙つてしまつた。青年は、他の一つの腰掛を、二三尺動かして来て、女と並んで腰をかけた。なまあたゝかい晩春の微風が、襲つて来た為だらう。花が頻りに散り始めた。

 勝平は先刻から、幾度此の場を立ち去らうと思つたか、分らなかつた。が、自分に対する悪評を怖れて、コソ〳〵と逃げ去ることは、傲岸な彼の気性が許さなかつた。張り裂けるやうな憤怒を、胸に抑へて、ぢつと青年の攻撃を聞いてゐたのであつた。

 彼は、つい十分ほど前まで、今日の園遊会に集まつてゐる、凡ての人々は自分の金力に対する讃美者であると思つてゐた。讃美者ではなくとも、少くとも羨望者であると思つてゐた。否少くとも、自分の持つてゐる金の力だけは、認めて呉れる人達だと思つてゐた。今日集まつてゐる首相を初め、いろ〳〵な方面の高官も、M公爵を筆頭に多くの華族連中も、海軍や陸軍の将官達も、銀行や会社の重役達も、学者や宗教家や、角力や俳優達も、自分の持つてゐる金力の価値だけは認めて呉れる人だと思つてゐた。認めてゐて呉れゝばこそやつて来たのだと思つてゐた。それだのに、歯牙にもかけたくない、生若い男女の学生が、たとひ貴族の子女であるにしろ、今日の会場の中央で、たとひ自分の顔を見知らぬにせよ、自分の目前で、自分の生活を罵るばかりでなく、自分が命綱いのちづなとも思ふ金の力を、頭から否定してゐる。金を持つてゐる自分達の生活を、否人格まで、散々に辱めてゐる。さう考へて来ると、先刻まで晴やかに華やかに、昂ぶつてゐた勝平の心は、苦いにらを喰つたやうに、不快な暗いものになつてしまつた。彼は、かすり傷を負つた豹のやうな、凄い表情をしながら、二人の後姿を睨んでゐた。もう一言何とか言つて見ろ。そのまゝには済まさないぞ。彼の激昂した心がさうしたうめきを洩して居た。



 さうした恐ろしい豹が、彼等の背後に蹲まつてゐようとは、気の付いてゐない二人は、今度は四辺あたりを憚るやうに、しめやかに何やら話し始めた。

 もう一言、学生が何か云つたら、飛び出して、面と向つて云つてやらうと、はやつてゐた勝平も、相手が急にしづかになつたので、拍子抜がしながら、而もその儘立ち去ることも、業腹なので、二人の容子を、ぢつと睨み詰めてゐた。

 自分に対する罵詈のために、カツとなつてしまつて、青年の顔も少女の顔も、十分眼に入らなかつたが、今は少し心が落着いたので、二人の顔を、更めて見直した。

 気が付いて見れば見るほど、青年は男らしく、美しく、女は女らしく美しかつた。殊に、少女の顔に見る浄い美しさは、勝平などが夢にも接したことのない美しさだつた。彼は、心の中で、金で購つた新橋や赤坂の、名高い美妓の面影と比較して見た。何と云ふ格段な相違が其処にあつただらう。彼等の美しさは、造花の美しさであつた。偽真珠の美しさであつた。一目だけは、ごまかしが利くが二目見るともう鼻に付く美しさであつた。が、この少女は、夜毎に下る白露に育まれた自然の花のやうな生きた新鮮な美しさを持つてゐた。人間の手の及ばない海底に、自然と造り上げらるゝ、天然真珠の如き輝きを持つてゐた。一目見て美しく、二目見て美しく、見直せば見直す毎に蘇つて来る美しさを持つてゐた。

 勝平が、今迄金で買ひ得た女性の美しさは、此少女の前では、皆偽物だつた。金で買ひ得るものと思つてゐたものは、皆贋物だつたのだ。勝平は此少女の美しさからも、今迄のプライドを可なり傷けられてしまつた。

 それだけではなかつた。此二人が、恋人同士であることが、勝平にもすぐそれと判つた。二人の交してゐる言葉は、低くて聞えなかつたが、時々お互に投げ合つてゐる微笑には、愛情が籠もつてゐた。愛情に燃えてゐながら、而も浄く美しい微笑だつた。

 二人の睦じい容子を見てゐる裡に、勝平の心の中の憤怒は何時の間にか、嫉妬をさへ交へてゐた。『凡ての事は金だ。金さへあればどんな事でも出来る。』と思つてゐた彼の誇は、根柢から揺り動かされてゐた。此の二人の恋人が、今感じ合つてゐるやうな幸福は、勝平の全財産を、投じても得られるか、うか分らなかつた。少女の顔に浮ぶ、浄いしかも愛に溢れた微笑の一つでさへ、購ふことが出来るだらうか。いかにも、新橋や赤坂には、彼に対して、千の媚を呈し、万の微笑を贈る女は、幾何いくらでもゐる。が、その媚や微笑の底には、袖乞ひのやうな卑しさや、狼のやうな貪慾さが隠されてゐた。此の若い男女が交してゐるやうな微笑とは、金剛石と木炭のやうに違つてゐた。同じ炭素から成つてゐても、金剛石が木炭と違ふやうに、同じ笑でも質が違つてゐたのだ。

 青年が、勝平の金力をあんなに、罵倒するのも無理はなかつた。実際彼は、金力で得られない幸福があることを、勝平の前で示してゐるのだつた。

 青年の罵倒が単なる悪口でなく、勝平に取つては、苦い真理であるだけに、勝平の恨みは骨に入つた。また、罵倒した後で、罵倒する権利のあることを、勝平にマザ〳〵と見せ付けただけに、勝平のいきどほりは、肝に銘じた。彼は、一突き刺された闘牛のやうに、怒つてゐた。もう、自制もなかつた。彼が、先刻まで誇つてゐた社会的位置に対する遠慮もなかつた。彼は樫の木に出来る木瘤のやうな拳を握りしめながら、今にも青年に飛びかゝるやうな身構へをしてゐた。

 その時に、蹲まつてゐた青年がつと立ち上つた。女も続いて立ち上りながら云つた。

「でも、何か召し上つたらう。折角いらしつたのですもの。」

「僕は、成金輩のぞくむをいさぎよしとしないのです。ハヽヽヽ。」

 青年は、半分冗談で云つたのだつた。が、憤怒に心の狂ひかけてゐた勝平にとつては、最後の通牒だつた。彼は、寝そべつてゐた獅子のやうに、猛然と腰掛から離れた。



 勝平の激怒には、まだ気の付かない青年は、連の女を促して、丘を下らうとしてゐるのだつた。

「もし、もし、暫らく。」勝平の太い声も、さすがに顫へた。

 青年は、何気ないやうに振返つた。

「何か御用ですか。」落着いた、しかも気品のある声だつた。それと同時に、連の女も振返つた。その美しい眉に、一寸勝平の突然の態度を咎めるやうな色が動いた。

「いや、お呼び止めいたして済みません。一寸御挨拶がしたかつたのです。」と、云つて勝平は、息を切つた。昂奮の為に、言葉が自由でなかつた。二人の相手は、勝平の昂奮した様子を、不思議さうにジロ〳〵と見てゐた。

「先刻、皆様に御挨拶した筈ですが、貴方あなた方は遅くいらしつたと見えて、まだ御挨拶をしなかつたやうです。私が、此家の主人の荘田勝平です。」

 さう云ひながら、勝平はわざと丁寧に、頭を下げた。が、両方の手は、激怒のために、ブル〳〵と顫へてゐた。

 さすがに、青年の顔も、彼に寄り添うてゐる少女の顔もサツと変つた。が、二人とも少しも悪怯わるびれたところはなかつた。

「あゝさうですか。いや、今日はお招きにあづかつて有難うございます。僕は、御存じの杉野たゞしの息子です。こゝに、いらつしやるのは、唐澤男爵のお嬢さんです。」

 青年の顔色は、青白くなつてゐたが、少しも狼狽した容子は見せなかつた。昂然とした立派な態度だつた。青年に紹介されて、しとやかに頭を下げた令嬢の容子にも、微塵狼狽うろたへた様子はなかつた。

「いや、先刻から貴君の御議論を拝聴してゐました。いろ〳〵我々には、参考になりました。ハヽヽ。」

 勝平は、高飛車に自分の優越を示すために、哄笑しようとした。が、彼の笑ひ声は、咽喉にからんだまゝ、調子外れの叫び声になつた。

 自分の罵倒が、その的の本人に聴かれたと云ふことが、明かになると、青年もさすがに当惑の容子を見せた。が、彼は冷静に落着いて答へた。

「それはとんだ失礼を致しました。が、つい平生の持論が出たものですから、何とも止むを得ません。僕の不謹慎はお詫びします。が、持論は持論です。」

 さう云ひながら、青年は冷めたい微笑を浮べた。

 自分が飛び出して出さへすれば、周章狼狽して、一溜りもなく参つてしまふだらうと思つてゐた勝平は、当が外れた。彼は、相手が思ひの外に、強いのでタヂ〳〵となつた。が、それだけ彼の憤怒は胸の裡に湧き立つた。

「いや、お若いときは、金なんかと云つて、よく軽蔑したがるものです。私なども、その覚えがあります。が、今にお判りになりますよ。金が、人生に於てどんなに大切であるかが。」

 勝平は、出来るだけ高飛車に、上から出ようとした。が、青年は少しも屈しなかつた。

「僕などは、さうは思ひません。世の中で、高尚な仕事の出来ない人が、金でも溜めて見ようと云ふことに、なるのぢやありませんか。僕は事業を事業として、楽しんでゐる実業家は好きです。が、事業を金を得る手段と心得たり、又得た金の力を他人に、見せびらかさうとするやうな人は嫌ひです。」

 もう、其処に何等の儀礼もなかつた。それは、言葉で行はれてゐる格闘だつた。青年の顔も蒼ざめてゐた。勝平の顔も蒼ざめてゐた。

「いや、何とでも仰しやるがよい。が、理窟ぢやありません。世の中のことは、お坊ちやんの理想どほりに行くものではありません。貴君にも金の力がどんなに恐ろしいかが、お判りになるときが来ますよ。いや、屹度きつと来ますよ。」

 勝平は、その大きい口を、きつと結びながら青年を睨みすゑた。が、青年の直ぐ傍に、立ち竦んだまゝ、黙つてゐる彫像のやうな姿に目を転じたとき、勝平の心は、再びタヂ〳〵となつた。その美しい顔は勝平に対する憎悪に燃えてゐたからである。



 青年が、何かを答へようとしたとき、女は突如いきなり彼を遮ぎつた。

「もういゝぢやございませんか。私達が、参つたのがいけなかつたのでございますもの。御主人には御主人の主義があり貴君あなたには貴君の主義があるのですもの。その孰れが正しいかは、銘々一生を通じて試して見る外はありませんわ。さあ、失礼をしておいとましようぢやありませんか。」

 少女は、青年より以上に強かつた。其処には火花が漏れるやうな堅さがあつた。それ丈、勝平に対する侮辱も、甚だしかつた。こんな男と言葉を交へるのさへ、馬鹿々々しいと、云つた表情が、彼女の何処かに漂つてゐた。孔雀のやうに美しい彼女は、孔雀のやうな態度を持つてゐるのだつた。

 青年も、自分の態度を、余り大人気ないと思ひ返したのだらう。女の言葉を、戈を収める機会にした。

「いや、飛んだ失礼を申上げました。」

 さう云ひ捨てたまゝ、青年は女と並んで足早に丘を下つて行つた。敵に、素早く身をかはされたやうに、勝平は心の憤怒を、少しも晴さない中に、やみ〳〵と物別れになつたのが、口惜しかつた。もつと、何とか云へばよかつた、もつと、青年を恥しめてやればよかつたと、口惜しがつた。むつまじさうに並んで、遠ざかつて行く二人を見てゐると、勝平は自分の敗れたことが、マザ〳〵と判つて来た。青年の罵倒に口惜しがつて、思はず飛び出したところを、手もなく扱はれて、うまく肩透しを喰つたのだつた。どんな点から、考へて見ても、自分にいゝ所はなかつた。敗戦だつた。醜い敗戦だつた。さう思ふと、わざ〳〵五万を越す大金をつかつて、園遊会をやつたことまでが、馬鹿らしくなつた。大臣や総裁や公爵などの挨拶を受けて、有頂天にまで行つた心持が、生若い男女のために地の底へまで引きずり込まれたのだ。

 彼のいきどほりと恨みとが、胸の中で煮えくり返つた時だつた。その憤りと恨みとの嵐の中に、徐々に鎌首を擡げて来た一念があつた。それは、云ふまでもなく、復讐の一念だつた。さうだ、俺の金力を、あれほどまで、侮辱した青年を、金の力で、骨までも思ひ知らしてやるのだ。青年に味方して、俺にあんな憎悪の眼を投げた少女を、金の力で髄までも、思ひ知らしてやるのだ。さう思ふと、彼の胸に、新しい力が起つた。

 青年の父の杉野直と云ふ子爵も、少女の父の唐澤男爵も、共に聞えた貧乏華族である。黄金の戈の前に、黄金の剣の前には、何の力もない人達だつた。

 が、何うして戦つたらいゝだらう。彼等の父を苛めることは何でもないことに違ひない。が、単なる学生である彼等を、苛める方法は容易に浮かんで、来なかつた。その時に、勝平の心に先刻の二人の様子が浮かんだ。睦じく語つてゐる恋人同士としての二人が浮かんだ。それと同時に、いなづまのやうに、彼の心にある悪魔的な考へが思ひ浮かんだ。その考へは、電のやうに消えないで、徐々に彼の頭に喰ひ入つた。

 まだ、春の日は高かつた。彼が招いた人達は園内の各所に散つて、春の半日を楽しく遊び暮してゐる。が、その人達を招いた彼だけは、たゞ一人怏々たる心を懐いて、長閑のどかな春の日に、悪魔のやうな考へを、考へてゐる。

「あら、まだこゝにいらしつたの、方々探したのよ。」

 突如、後に騒がしい女の声がした。先刻の芸妓達が帰つて来たのである。

「さあ! 彼方あつちへいらつしやい。お客様が皆、探してゐるのよ。」二三人彼のモーニングコートの腕に縋つた。

「あゝ行くよ行くよ。行つて酒でも飲むのだ。」彼は、気の抜けたやうに、呟きながら、芸妓達に引きずられながら、もう何の興味も無くなつた来客達の集まつてゐる方へらつせられた。



父と子



『またお父様と兄様の争ひが始まつてゐる。』さう思ひながら、瑠璃子は読みかけてゐたツルゲネフの『父と子』の英訳のページを、閉ぢながら、段々高まつて行く父の声に耳を傾けた。

『父と子』の争ひ、もつと広い言葉で云へば旧時代と新時代との争ひ、旧思想と新思想との争ひ、それは十九世紀後半の露西亜ロシアや西欧諸国だけの悩みではなかつた。それは、一種の伝染病として、何時の間にか、日本の上下の家庭にも、侵入してゐるのだつた。

 五六十になる老人の生活目標と、二十年代の青年の生活目標とは、雪と炭のやうに違つてゐる。一方が北を指せば、一方は西を指してゐる。老人が『山』と云つても、青年は『川』とは答へない。それだのに、老人は自分の握つてゐる権力で、父としての権力や、支配者としての権力や、上長者としての権力で、青年を束縛しようとする。西へ行きたがつてゐる者を、自分と同じ方向の、北へ連れて行かうとする。其処から、色々な家庭悲劇が生れる。

 瑠璃子は、父の心持も判つた。兄の心持も判つた。父の時代に生れ、父のやうな境遇に育つたものが、父のやうな心持になり、父のやうな目的のために戦ふのは、当然であるやうに想はれた。が、兄のやうな時代に生れ、兄のやうな境遇に育つたものが、兄のやうに考へるのも亦当然であるやうに思はれた。父も兄も間違つてはゐなかつた。お互に、間違つてゐないものが、争つてゐる丈に、その争ひは何時が来ても、止むことはなかつた。何時が来ても、一致しがたい平行線の争ひだつた。

 母が、昨年死んでから、淋しくなつた家庭は、取り残された人々が、その淋しさを償ふために、以前よりも、もつと睦まじくなるべき筈だのに、実際はそれと反対だつた。調和者ピイスメイカアとしての母がゐなくなつた為、兄と父との争ひは、前よりも激しくなり、露骨になつた。

「馬鹿を云へ! 馬鹿を云へ!」

 父のしはがれた張り裂けるやうな声が、聞えた。それに続いて、何かをなげうつやうな物音が、聞えて来た。

 瑠璃子は、その音をきくと、何時も心が暗くなつた。また父が兄の絵具を見付けて、擲つてゐるのだ。

 さう思つてゐると、又カンバスを引き裂いてゐるらしい、きぬを裂く激しい音が聞えた。瑠璃子は、思はず両手で、顔を掩うたまゝかすかに顫へてゐた。

 芸術と云つたやうなものに、粟粒ほどの理解も持つてゐない父が悲しかつた。絵を描くことを、ペンキ屋が看板を描くのと同じ位に卑しく見貶みくだしてゐる父の心が悲しかつた。それと同じやうに、芸術をいろ〳〵な人間の仕事の中で、一番たつといものだと思つてゐる、兄の心も悲しかつた。父から、描けば勘当だと厳禁されてゐるにも拘はらず、コソ〳〵と父の眼を盗んで、写生に行つたり、そつと研究所に通つたりする兄の心が、悲しかつた。が、何よりも悲劇であることは、さうしたお互に何の共鳴も持つてゐない人間同士が、父と子であることだつた。父が、卑しみ抜いてゐることに、子が生涯を捧げてゐることだつた。父の理想には、子が少しも同感せず、子の理想には父が少しも同感しないことだつた。

 カンバスが、引き裂かれる音がした後は、暫らくは何も聞えて来なかつた。争ひの言葉が聞えて来る裡は、それに依つて、争ひの経過が判つた。が、急にしづかになつてしまふと、却つて妙な不安が、聞いてゐる者の心に起つて来る。瑠璃子はまた父が、興奮の余り心悸が昂進して、物も云へなくなつてゐるのではないかと思ふと、急に不安になつて来て、争ひの舞台シーンたる兄の書斎の方へ、足音を忍ばせながらそつと近づいて行つた。



 瑠璃子は、そつと足音を立てないやうに、縁側ヴェランダを伝うて兄の書斎へ歩み寄つた。とゞろく胸を押へながら縁側ヴェランダに向いてゐる窓の硝子ガラス越しに、そつと室内をのぞき込んだ。彼女が予期した通りの光景が其処にあつた。長身の父は威丈高に、無言のまゝ、兄を睨み付けて立つてゐた。痩せた面長な顔は、白く冷めたく光つてゐる。腰の所へやつてゐる手は、ブル〳〵顫へてゐる。兄は兄で、昂然とそれに対してゐた。たゞさへ、蒼白い顔が、激しい興奮のために、血の気を失つて、死人のやうに蒼ざめてゐる。

 父と子とは、思想も感情もスツカリ違つてゐたが、負けぬ気の剛情なところだけが、お互に似てゐた。父子おやこの争ひは、それだけ激しかつた。

 二人の間には、絵具のチューブが、滅茶苦茶に散つてゐた。父の足下には、三十号の画布カンバスが、枠に入つたまゝ、ナイフで横に切られてゐた。その上に描かれてゐる女の肖像も、無残にも頬の下から胸へかけて、一太刀浴びてゐるのだつた。

 さうした光景を見ただけで、瑠璃子の胸が一杯になつた。父が、此上兄をはづかしめないやうに、兄が大人しく出て呉れるやうにと、心ひそかに祈つてゐた。

 が、父と兄との沈黙は、それは戦ひの後の沈黙でなくして、これからもつと怖しい戦ひに入る前の沈黙だつた。

 画布カンバスまでも、引き裂いた暴君のやうな父の前に、真面目な芸術家として兄の血は、熱湯のやうに、沸いたのに違ひなかつた。いつもは、父に対して、冷然たる反抗を示す兄だつたが、今日は心の底から、憤つてゐるらしかつた。憤怒の色が、アリ〳〵とその秀でた眉のあたりに動いてゐた。

「考へて見るがいゝ。堂々たる男子が、画筆などを弄んでゐてうするのだ。」父は、今迄張り詰めてゐた姿勢を、少しく崩しながら、苦い物をでも吐き出すやうに云つた。

「考へて、見る迄もありません。男子として、立派な仕事です。」兄の答へも冷たく鋭かつた。

「馬鹿を云へ! 馬鹿を?」父は、又カツとなつてしまつた。「画などと云ふものは、男子が一生を捧げてやる仕事では決してないのだ。云はゞ余戯なのだ。なぐさみなのだ。お前が唐沢の家の嗣子でなければ、どんな事でも好き勝手にするがいゝ。が、わしの子であり、唐沢の家の嗣子である以上、お前の好き勝手にはならないのだ。唐沢の家には、画描きなどは出したくないのだ。俺の子は、画描きなどにはなつて貰ひたくないのだ!」

 父は、さう叫びながら、手近にあるデスクの端を力委せに二三度打つた。瑠璃子には、父が貴族院の演壇で獅子吼する有様が、何処となく偲ばれた。が、相手が現在の子であることが、父の姿を可なり淋しいものにした。

「お前は、父が三十年来の苦闘を察しないのか。お前は、わしの子として、父の志を継ぐことを、名誉だとは思はないのか、俺の志を継いで、俺が年来の望みを、果させて呉れようとは思はないのか。お前は、唐澤の家の歴史を忘れたのか、お前にいつも話してゐる、お祖父様の御無念を忘れたのか。」

 それは、父が少し昂奮すれば、まつて出る口癖だつた。父は、それを常に感激を以て語つた。が、子はそれを感激を以て聞くことが、出来なかつた。唐澤の家が、三万石の小大名ではあつたが、足利時代以来の名家であるとか、維新の際には祖父が勤王の志が、厚かつたにも拘はらず、薩長に売られて、朝敵の汚名を取り、悶々の裡に憤死したことや、その死床で洩した『かたきを取つて呉れ。』といふ遺言を体して、父が三十年来貴族院で、藩閥政府と戦つて来たことなど、それは父にとつて重大な一生を支配する生活の刺戟だつたかも知れない。が、子に取つては、彼の画題となる一茎の草花に現はれてゐる、自然の美しさほどの、刺戟も持つてゐなかつた。時代が違つてゐ、人間が違つてゐた。何の共通点もない人間同士が、血縁でつながつてゐることが、何より大きい悲劇だつた。

「黙つてゐては分らない。何とか返事をなさい!」日本の大正のキングリアは、かう云つて石のやうに黙つてゐる子に挑んだ。



「お父さん!」兄はしづかに頭をげた。平素は、黙々として反抗を示すだけの兄だつたが、今日は徹底的に云つて見ようといふ決心が、その口の辺に動いてゐた。「貴方あなたが、幾何いくらおつしやつても、僕は政治などには、興味が向かないのです。殊に現在のやうな議会政治には、何の興味も持つてゐないのです。僕は、お父さんのおつしやるやうに、法科を出て政治家になるなどと云ふことには、何の興味もないのです。」兄の言葉は、針のやうに鋭く澄んで来た。

「もう少し待つて下さい。もう少し、気長に私のすることを見て居て下さい。その中に、画を描くことが、人間としてどんなに立派な仕事であるか、堂々たる男子の事業として恥かしくないかを、お父さんにも、お目にかけ得る時が来るだらうと思ふのです。」

「あゝよして呉れ!」父ははらひ退けるやうに云つた。「そんな事は聞きたくない。馬鹿な! 画描きなどが、画を描くことなどが、……」父は苦々しげに言葉を切つた。

「お父さんには、幾何いくら云つても解らないのだ。」兄も投げ捨てるやうに云つた。

「解つてたまるものか。」父の手がまたかすかに顫へた。

 二人が、かたき同士のやうに黙つて相対峙して居る裡に、二三分過ぎた。

「光一!」父は改まつたやうに呼びかけた。

「何です!」兄も、それに応ずるやうに答へた。

「お前は、今年の正月わしが云つた言葉を、まさか忘れはしまいな。」

「覚えてゐます。」

「覚えてゐるか、それぢやお前は、此の家にはをられない訳だらう。」

 兄の顔は、憤怒のために、見る〳〵中に真赤になり、それが再び蒼ざめて行くに従つて、悲壮な顔付になつた。

「分りました。出て行けとおつしやるのですか。」怒のために、兄はわな〳〵顫へてゐた。

「二度と、画を描くと、家には置かないと、あの時云つて置いた筈だ。お前が、わしの干渉を受けたくないのなら、此家を出て行く外はないだらう。」父の言葉は鉄のやうに堅かつた。

 瑠璃子は、胸が張り裂けるやうに悲しかつた。一徹な父は、一度云ひ出すと、後へは引かない性質たちだつた。それに対する兄が、父に劣らない意地張だつた。彼女が、常々心配してゐた大破裂カタストロフがたうとう目前に迫つて来たのだつた。

 父の言葉に、カツと逆上してしまつたらしい兄は、前後の分別もないらしかつた。

「いや承知しました。」

 さう云ふかと思ふと、彼は俯きながら、狂人のやうに其処に落ち散つてゐる絵具のチューブを拾ひ始めた。それを拾つてしまふと、机の引き出しを、滅茶苦茶に掻き廻し始めた。机の上に在つた二三冊のノートのやうなものを、風呂敷に包んでしまふと、彼は父に一寸目礼して、飛鳥のやうにへやから駈け出さうとした。

 父が、おどろいて引き止めようとする前に、狂気のやうに室内に飛び込んだ瑠璃子は、早くも兄の左手ゆんでに縋つてゐた。

「兄さん! 待つて下さい!」

「お放しよ。瑠璃ちやん!」

 兄は、荒々しく叱するやうに、瑠璃子の手をもぎ放した。

 瑠璃子が、再び取り縋らうとしたときに、兄は下へ行く階段を、激しい音をさせながら、電光の如く馳け下つてゐた。

「兄さん! 待つて下さい!」

 瑠璃子が、声をしぼりながら、後から馳け下つたとき、帽子も被らずに、玄関から門の方へ足早に走つてゐる兄の後姿が、チラリと見えた。



 兄の後姿が見えなくなると、瑠璃子はよゝと泣き崩れた。張り詰めてゐた気が砕けて、涙はとめどもなく、双頬を湿うるほした。

 母が亡くなつてからは、父子三人の淋しい家であつた。段々差し迫つて来る窮迫に、召使の数も減つて、たゞ忠実な老婢と、その連合の老僕とがゐるだけだつた。

 それだのに、僅かしか残つてゐない歯の中から、またその目ぼしい一本が、抜け落ちるやうに、兄がゐなくなる。父と兄とは、水火のやうに、何処まで行つても、調和するやうには見えなかつたけれども、兄と瑠璃子とは、仲のよい兄妹だつた。母が亡くなつてからは、更に二人は親しみ合つた。兄はたゞ一人の妹を愛した。殊に父と不和になつてから、肉親の愛を換し得るのはたゞ妹だけだつた。妹もたゞ一人の兄を頼つた。父からは、得られない理解や同情を兄から仰いでゐた。瑠璃子には父の一徹も悲しかつた。兄の一徹も悲しかつた。

 が、何よりも気遣はれたのは、着のみ着の儘で、飛び出して行つた兄の身の上である。理性の勝つた兄に、万一の間違があらうとは思はれなかつた。が、貧乏はしてゐても、華族の家に生れた兄は、独立して口をすごして行く手段を知つてゐる訳はなかつた。が、一時の激昂のために、カツと飛び出したものゝ屹度きつと帰つて来て下さるにちがひない。或は麻布の叔母さんの家にでも、行くにちがひない。やつと、さう気休めを考へながら、瑠璃子は涙を拭ひ拭ひ、階段を上つて行つた。二階にゐる父の事も、気がかりになつたからである。

 父はやつぱり兄の書斎にゐた。先刻と寸分違はない位置にゐた。たゞ、傍にあつた椅子を引き寄せて、腰を下したまゝぢつとうつむいてゐるのだつた。たつた一人の男の子に、背き去られた父の顔を見ると、瑠璃子の眼には新しい涙が、また一時に湧いて来るのであつた。此の頃、交じりかけた白髪が急に眼に立つやうに思つた。

『歯が脱けて演説の時に声が洩れて困まる』と、此頃口癖のやうに云ふとほり、口のあたりが淋しく凋びてゐるのが、急に眼に付くやうに思つた。

 一生を通じて、やつて来た仕事が、自分の子から理解せられない、それほど淋しいことが、世の中にあるだらうかと思ふと、瑠璃子は、父に言葉をかける力もなくなつて、その儘床の上に、再び泣き崩れた。

 最愛の娘の涙に誘はれたのであらう。老いた政治家の頬にも、一条の涙の痕が印せられた。

「瑠璃子!」父の声には、先刻さつきのやうな元気はなかつた。

「はい!」瑠璃子は、涙声でかすかに答へた。

「出て行つたかい! あれは?」さすがに何処となく恩愛の情が纏はつてゐる声だつた。

「はい!」彼女の声は前よりも、力がなかつた。

「いやいゝ。出て行くがいゝ。志を異にすれば親でない、子でない、血縁は続いてゐても路傍の人だ。瑠璃子! お前には、父さんの心持は解るだらう。お前だけは、わしの心持は解るだらう。お前が男であつたら、屹度お父さんの志を継いで呉れるだらうとは、平生思つてゐるのだが。」父は元気に云つた。が、声にも口調にも力がなかつた。

 瑠璃子は、それには何とも答へなかつた。が、瑠璃子の胸に、一味焼くやうな激しい気性と、父にも兄にも勝るやうな強い意志があることは、彼女の平生の動作が示してゐた。それと同じやうに、貴族的な気品があつた。昔気質の父が時々瑠璃子を捕へて『男なりせば』の嘆を漏すのも無理ではなかつた。

 まだ父が、何か云はうとする時であつた。邸前の坂道を疾駆して馳け上る自動車の爆音が聞えたかと思ふと、やがてそれが門前で緩んで、低い警笛アラームと共に、一輛の自動車が、唐沢家の古びた黒い木の門の中に滑り入つた。



 父子の悲しい淋しい緊張は、自動車の音で端なく破られた。瑠璃子は、もつとかうしてゐたかつた。父の気持も訊き、兄に対する善後策も講じたかつた。彼女は、自分の家の恐ろしい悲劇を知らず顔に、自動車で騒々しく、飛び込んで来る客に、軽い憎悪をさへ感じたのである。

 老婢ばあやは、何かに取り紛れてゐるのだらう、容易に取次ぎには出て来ないやうだつた。

「老婢はゐないかしら!」さう呟くと、瑠璃子は自分で、取次ぎするために、階段を下りかけた。

「大抵の人だつたら、会へないと断るのだよ。いゝかい。」

 さう言葉をかけた父を振り顧つて見ると、相変らず蒼い顫へてゐるやうな顔色をしてゐた。

 瑠璃子が、階段を下りて、玄関の扉を開けたとき、彼女は訪問者が、一寸意外な人だつたのに駭いた。それは、彼女の恋人の父の杉野子爵であつたからである。

「おや入らつしやいまし。」さう云ひながら、彼女は心の中で可なり当惑した。杉野子爵は、彼女にとつては懐しい恋人の父だつた。が、父と子爵とは、決して親しい仲ではなかつた。同じ政治団体に属してゐたけれども、二人は少しも親しんでゐなかつた。父は、内心子爵を賤しんでゐた。政商達と結託して、私利を追うてゐるらしい子爵の態度を、可なり不快に思つてゐるらしかつた。公開の席で、二三度可なり激しい議論をしたと云ふ噂なども、瑠璃子は何時となく聴いてゐた。

 さうした人を、こんな場合、父に取次ぐことは、心苦しかつた。それかと云つて、自分の恋人の父を、すげなく返す気にもなれなかつた。彼女が躊躇してゐるのを見ると、子爵は不審いぶかしさうに訊いた。

「いらつしやらないのですか。」

「いゝえ!」彼女は、さう答へるより外はなかつた。

「杉野です。一寸お取次を願ひます。」

 さう云はれると、瑠璃子は一も二もなく取次がずにはゐられなかつた。が、階段を上るとき、彼女の心にふとある動揺どよめきが起つた。『まさか』と、彼女は幾度も打ち消した。が、打ち消さうとすればするほど、その動揺は大きくなつた。

 杉野子爵の長男直也は、父に似ぬ立派な青年だつた。音楽会で知り合つてから、瑠璃子は知らず識らずその人に惹き付けられて行つた。男らしい顔立と、彼の火のやうな熱情とが、彼女に対する大きな魅惑だつた。二人の愛は、激しく而も清浄だつた。

 二人は将来を誓ひ合つた。学校を出れば、正式に求婚します。青年は口癖のやうに繰返した。

 青年は今年の四月学習院の高等科を出てゐる。『学校を出ると云ふことが、学習院を出ることを、意味するなら。』さう考へると瑠璃子は踏んでゐる足が、階段に着かぬやうに、そは〳〵した。まだ一度も、尋ねて来たことのない子爵が、わざ〳〵尋ねて来る。さう考へて来ると、瑠璃子の小さい胸は取り止めもなく掻き擾されてしまつた。

 が、つい此間青年と園遊会で会つたとき、彼はおくびにも、そんなことは云はなかつた。正式に突然求婚して、自分を駭かさうと云ふ悪戯かしら。彼女は、そんなことまで、咄嗟の間に空想した。

 が、苦り切つてゐる、父の顔を見たとき彼女の心は、急に暗くなつた。縦令たとひ、それが瑠璃子の思ふ通りの求婚であつたにしろ、父がオイソレと許すだらうか。心の中で、賤しんでゐる者の子息に、最愛の娘を与へるだらうか。子は子である。父は父である。れ位の事理の分らない父ではない。が、兄が突然家出して、さなきだに淋しい今、自分を手離して、他家よそへやるだらうか。さう思ふと、瑠璃子の心に伸びた空想の翼は、また忽ちなかば以上切り取られてしまつた。が、万一さうなら、又万一父が容易に承諾したら?

「あの! 杉野子爵がお見えになりました。」彼女の息は可なりはづんでゐた。



 父は娘の心を知らなかつた。杉野子爵の突然の来訪を、迷惑がる表情があり〳〵と動いた。

「杉野! ふーむ。」父は苦り切つたまゝ容易に立たうとはしなかつた。

 父が、杉野子爵に対してかうした感情を持つてゐる以上、又兄の家出と云ふ傷ましい事件が起つてゐる以上、縦令たとひ子爵の来訪が、瑠璃子の夢見てゐるとほりの意味を持つてゐたにしろ、容易に纏まる筈はなかつた。さう考へると、彼女の心は、墨を流したやうに暗くなつてしまつた。

「仕方がない! お通しなさい!」さう云つたまゝ、父は羽織を着るためだらう、階下したの部屋へ下りて行つた。

 瑠璃子は、恋人の父と自分の父との間に、まつはる不快な感情を悲しみながら、玄関へ再び降りて行つた。

「お待たせいたしました。何うぞお上り下さいませ。」

「いや、どうも突然伺ひまして。」と、子爵は如才なく挨拶しながら先に立つて、応接室に通つた。

 古いガランとした応接室には、何の装飾もなかつた。明治十幾年に建てたと云ふ洋館は、間取りも様式も古臭く旧式だつた。瑠璃子は、客を案内する毎に、旧式の椅子の蒲団クションが、破れかけてゐることなどが気になつた。

 父は、直ぐ応接室へ入つた。心の中の感情は可なり隔たつてゐたが、面と向ふと、さすがに打ち解けたやうな挨拶をした。瑠璃子は、茶を運んだり、菓子を運んだりしながらも、主客の話が気にかゝつた。が、話は時候の挨拶から、政界の時事などに進んだまゝ用向きらしい話には、容易に触れなかつた。

 立ち聞きをするやうな、はしたない事は、思ひも付かなかつた。瑠璃子は、来客が気になりながらも、自分の部屋に退いて、不安な、それかと云つて、不快ではない心配を続けてゐた。

 恋人の顔が、絶えず心に浮かんで来た。過ぎ去つた一年間の、恋人とのいろ〳〵な会合が、心の中に蘇へつて来た。どの一つを考へても、それは楽しい清浄な幸福な思出だつた。二人は火のやうな愛に燃えてゐた。が、お互に個性を認め合ひ、尊敬し合つた。上野の音楽会の帰途に、ガスの光が、ほのじろく湿うるんでゐる公園の木下暗このしたやみを、ベエトーフェンの『月光曲』を聴いた感激を、語り合ひながら、辿つた秋の一夜の事も思ひ出した。新緑の戸山ヶ原のとちの林の中で、その頃読んだトルストイの「復活」を批評し合つた初夏の日曜の事なども思ひ出した。恋人であると共に、得難い友人であつた。彼女の趣味や知識の生活に於ける大事な指導者だつた。

 恋人の凜々しい性格や、その男性的な容貌や、その他いろ〳〵な美点が、それからそれと、彼女の頭の中に浮かんで来た。し子爵の来訪の用向きが、自分の想像した通りであつたら、(それが何と云ふ子供らしい想像であらう)とは、打消しながらも、瑠璃子の真珠のやうに白い頬は、見る人もない部屋の中にありながら、ほのかに赤らんで来るのだつた。

 が、来客の話は、さう永くは続かなかつた。瑠璃子の夢のやうな想像を破るやうに、応接室のドアが、父に依つて荒々しく開かれた。瑠璃子は、客を送り出すため、急いで玄関へ出て行つた。

 見ると父は、兄の家出を見送つた時以上に、蒼い苦り切つた顔をしてゐた。杉野子爵はと見ると、その如才のないニコニコした顔に、微笑の影も見せず、周章として追はれるやうに玄関に出て、ロクロク挨拶もしないで、車上の人となると、運転手を促し立てゝ、あわたゞしく去つてしまつた。

 父は、自動車の後影を憎悪と軽蔑との交つた眼付で、しばらくの間見詰めてゐた。

「お父様どうか遊ばしたのですか。」瑠璃子は、おそる〳〵父に訊いた。

「馬鹿な奴だ。華族の面汚しだ。」父は、唾でも吐きかけるやうに罵つた。



 杉野子爵に対する、父の燃ゆるやうな憎悪の声を聞くと、瑠璃子は自分の事のやうに、オドオドしてしまつた。胸の中に、ひそかに懐いてゐた子供らしい想像は、跡形もなく踏み躙られてゐた。踏んでゐた床が、崩れ落ちて、其儘底知れぬ深い淵へ、落ち込んで行くやうな、暗い頼りない心持がした。之迄これまででさへ、父と父との感情に、暗い翳のあることは、恋する二人の心を、どんなにいたましめたか分らない。それだのに、今日はその暗い翳が、明らさまに火を放つて、爆発を来したらしいのである。

「一体うしたのでございます。そんなにお腹立ち遊ばして。」

 瑠璃子は、父の顔を見上げながら、オヅ〳〵訊いた。父は口にするさへ、忌々いま〳〵しさうに、

「訊くな。訊くな。汚らはしい。わし達を侮辱してゐる。わしばかりではない、お前までも侮辱してゐるのだ。」と、歯噛はがみをしないばかりに激昂してゐるのだつた。

 自分までもと、云はれると、瑠璃子は更に不安になつた。自分のことを、一体う云つたのだらう。自分に就いて、一体何を云つたのだらう。恋人の父は、自分のことを、一体う侮辱したのだらう。さう考へて来ると、瑠璃子は父の機嫌を恐れながらも、黙つてゐる訳には行かなかつた。

「一体どんなお話が、ございましたの。わたくしの事を、杉野さんはおつしやるのでございますか。」

「訊くな。訊くな。訊かぬ方がいゝ。聞くと却つて気を悪くするから。あんな賤しい人間の云ふことは、一切耳に入れぬことぢや。」

 やゝ興奮の去りかけた父は、却つて娘をなだめるやうに優しく云ひながら、二階の居間へ行くために階段を上りかけた。父は、杉野子爵を賤しい人間として捨てゝ置くことが出来た。が、瑠璃子には、それは出来なかつた。どんなに、子爵が賤しくても、自分の恋人の父にちがひなかつた。その人が、自分のことを、う云つたかは、瑠璃子に取つては是非にも訊きたい大事な事だつた。

「でも、何とおつしやつたか知りたいと思ひますの。わたくしのことを何とおつしやつたか、気がかりでございますもの。」

 瑠璃子は、父を追ひながら、甘えるやうな口調で云つた。娘の前には、目も鼻もない父だつた。母のない娘のためには、何物も惜しまない父だつた。瑠璃子が執拗に二三度訊くと、どんな秘密でも、明しかねない父だつた。

「なにも、お前の悪口を云つたのぢやない。」

 父は憤怒を顔に現しながらも、娘に対する言葉だけは、優しかつた。

「ぢや、何うして侮辱になりますの、あの方から、侮辱を受ける覚えがないのでございますもの。」

「それを侮辱するからしからないのだ。俺を侮辱するばかりでなく、清浄潔白なお前までも侮辱してかゝるのだ。」

 父は、又杉野子爵の態度か言葉かを思ひ出したのだらう、その人が、前にでもゐるやうに、拳を握りしめながら、激しい口調で云つた。

うしたと云ふのでございます、お父様、ハツキリとおつしやつて下さいまし、一体どんなお話で、あの方が、私の事を何う仰しやつたのです。一体どんな用事で、らしつたのでございます。」

 瑠璃子も、可なり興奮しながら、本当のことを知りたがつて、畳みかけて訊いた。

「彼の男は、お前の縁談があると云つて来たのだ。」父の言葉は意外だつた。

わたくしの縁談!」瑠璃子は、さう云つたまゝ、二の句が次げなかつた。彼女は化石したやうに、父の書斎の入口に立ち止まつた。父は、瑠璃子のおどろきに、深い意味があらうとは、夢にも知らずに、興奮に疲れた身体を、安楽椅子に投げるのであつた。



買ひ得るか



 父から、杉野子爵の来訪が、縁談の為であると、聞かされると、瑠璃子は電火にでも、打たれたやうに、ハツとおどろいた。

 やつぱり、自分の子供らしい想像は当つたのだ。杉野子爵は子のために、直接話を進めに来たのだ。その話の中に、子爵の不用意な言葉か、不遜の態度かが、潔癖な父を怒らしたにちがひない。さう思ふと、瑠璃子はあまりに潔癖過ぎる父が急に恨めしくなつた。少しも妥協性のない、一徹な父が恨めしかつた。自分の一生の運命を狂はすかも知れない、父の態度が恨めしかつた。瑠璃子は父に抗議するやうに云つた。

「縁談のお話が、うしてわたくしを、侮辱することになりますの。またそんなお話なら、一応わたくしにも、話して下さつてから、お断りになつても、遅くはないと思ひますわ。」

 瑠璃子は、誰に対しても、自己を主張し得る女だつた。彼女は、父にでも兄にでも恋人にでも、自己を主張せずには、ゐられない女だつた。

 瑠璃子の抗議を、父は憫むやうに笑つた。

「縁談! ハヽヽヽヽ。普通の縁談なら、無論瑠璃さんにも、よく相談する。が、あの男の縁談は、縁談と云ふ名目で、貴女あなたを買ひに来たのぢや。金を積んで、貴女を買ひに来たのぢや。怪しからん! わしの娘を!」

 父の眼は、激怒のために、狂はしいまでに、輝いた。さう云はれると、瑠璃子は、一言もなかつたが、さうした縁談の相手は、一体誰だらうかと、思つた。

の男が来て娘をやらんかと云ふ。平素から、快く思つてゐない男ぢやが、折角来て呉れたものだから、無碍むげに断るのもと、思つたから、らんこともないと云ふと、段々相手の男のことを話すのぢや。人を馬鹿にして居る。四十五で、先妻の子が、二人まであると云ふのぢや。わしは、頭から怒鳴り付けてやつたのぢや。すると、の男が、オヅ〳〵何を云ひ出すかと思ふと、支度金は三十万円まで出すと、云ふのぢや。俺は憤然と立ち上つて、の男を応接室の外へ引きずり出したのだ。」父の声は、わな〳〵顫へた。

「此年になるまで、こんな侮辱を受けたことはない。貧乏はしてゐる。政戦三十年、家も邸も抵当に入つてゐる。が、三十万円は愚か、千万一億の金を積んでも、娘を金のために、売るものか。」

 父は、はたの見る眼も、傷ましいほど、激昂してをる。年老いた肉体は、余りに激しい憤怒のために今にも砕けさうに、緊張してゐる。瑠璃子も、胸が一杯になつた。父の怒を、尤もだと思つた。が、そのいかりなだむべき何の言葉も、思ひ浮ばなかつた。

 が、それに付けても、杉野子爵は、何のうらみがあつて、かうした侮辱を、年老いた父に与へるのだらう。さう思ふと、瑠璃子の胸にも、張り裂けるやうな怒りが、湧いて来た。が、それが恋人の父であると、思ひ返すと、身も世もないやうな悲しみが伴つた。

の男は、金のために、あんなに賤しくなつてしまつたのだ。政商連と結託して、金のためにばかり、動いてゐるらしいのだ。今日の縁談なども、纏まれば幾何いくらと云ふ、口銭が取れる仕事だらう。ハヽヽヽヽ。」父は、怒をあざけりに換へながら、蔑むやうに哄笑した。

「何でも、今日の縁談の申込み手と云ふのが、ホラ瑠璃さんも行つたゞらう、此間園遊会をやつた荘田と云ふ男らしいのだ。」

 父は何気なく云つた。が、荘田と云ふ名を聞くと、瑠璃子は直ぐ、豹の眼のやうに恐ろしい執拗なその男の眼付を思ひ出した。冷静な、勝気な、瑠璃子ではあつたけれども、悪魔に頬を、舐められたやうな気味悪さが、全身をゾク〳〵と襲つて来た。



 荘田と云ふ名前を聴くと、瑠璃子が気味悪く思つたのも、無理ではなかつた。彼女は、その人の催した園遊会で、妙なはづみから、激しい言葉を交して以来、その男の顔付や容子が、悪夢の名残りのやうに、彼女の頭から離れなかつた。

 太いガサツな眉、二段に畳まれてゐる鼻、厚い唇、いかにも自我の強さうな表情、その顔付を思ひ出して見るだけでも、イヤな気がした。そんな男と、云ひ争ひをしたことが、執念深い蛇とでも、恨を結び合つたやうに、何となく不安だつた。処が、その男が意外にも自分に婚を求めてゐる。さう思ふ丈でも、彼女は妙な悪寒を感じた。よく伝説の中にある、白蛇などに見込まれた美少女のやうに。

 瑠璃子は、相手の心持が、容易には分らなかつた。容易に、その事を信ずることが出来なかつた。

「本当でございますの? 杉野さんが、本当に荘田と仰しやつたのでございますの?」

「確かに、あの男だと云はないが、うも彼奴あいつの事らしい。杉野はお前の話を始める前に、それとなく荘田の事を賞めてゐるのだ。何うも彼奴らしい。金が出来たのに、付け上つて、華族の娘をでも貰ひたい肚らしいが、俺の娘を貰ひに来るなんて狂人の沙汰だ!」

 父は相手の無礼を怒つたものゝ、先方に深い悪意があらうとは思はないらしく、先刻から見ると余程機嫌が直つてゐるらしかつた。

 が、瑠璃子はさうではなかつた。此の求婚を、気紛れだとか、冗談だとか、華族の娘を貰ひたいと云ふやうな単なる虚栄心だとは、うしても思はれなかつた。父の一喝に逢つて、這々はふ〳〵の体で、逃げ帰つた杉野子爵は、ほんの傀儡で、その背後に怖ろしい悪魔の手が、動いてゐることを感ぜずにはゐられなかつた。さう思つて来ると、八重桜の下で、自分達二人を、睨み付けた恐ろしい眼が、アリアリと浮んで来た。さう思つて来ると、自分の恋人の父を、自分に対する求婚の使者にした相手のやり方に、悪魔のやうな意地悪さを、感ぜずにはゐられなかつた。

 瑠璃子は思つた。自分が傷つけた蛇は、ホンの僅な恨を酬いるために猛然と、襲ひかゝつてゐるのだと。が、さう思ふと、瑠璃子は却つて、必死になつた。来るならば来て見よ。あんな男に、指一つ触れさせてなるものか。彼女は心のうちでさう決心した。

「いや、杉野の奴一喝してやつたら、一縮みになつて帰つたよ。あゝ云つて置けば、二度と顔向けは出来ないよ。」

 父は、もう凡てが済んでしまつたやうに、何気なく云つた。が、瑠璃子にはさうは思はれなかつた。一度飛び付き損つた蛇は、二度目の飛躍の準備をしてゐるのだ。いや、二度目どころではない。三度目四度目五度目十度目の準備まで整つてゐるのかも知れない。さう思ふと、瑠璃子は又更に自分の胸の処女の誇が、烈火のやうに激しく燃えるのを感じた。

「本当に口惜しうございます。あんな男がわたくしを。それに杉野さんが、そんな話をお取次ぎになるなんて、本当にひどいと思ひますわ。」

 瑠璃子は、興奮して、涙をポロ〳〵落しながら云つた。それは口惜しさの涙であり、いかりの涙だつた。

「だから、聴かない方が、いゝと云つたのだ。さうだ! 杉野が怪しからんのだ。あんな馬鹿な話を取次ぐなんて、彼奴が怪しからんのだ。が、あんな堕落した人間の云ふことは、気に止めぬ方がいゝ。縁談どころか、瑠璃さんには、何時までも、こゝにゐて貰ひたいのだ。殊に、光一があゝなつてしまへば、お父様の子はお前だけなのだ。百万円はおろか、お父様の首が飛んでも、お前を手離しはしないぞ。ハヽヽヽ。」

 父は、瑠璃子を慰めるやうに、快活に笑つた。瑠璃子の心も、父に対する愛で、一杯になつてゐた。何時までも、父の傍にゐて、父の理解者であり、慰安者であらうと思つた。

わたくしもさう思つてゐますの。何時までも、お父様のおそばにゐたいと思つてゐますの。」

 さう云つて瑠璃子は初めてニツコリ笑つた。嵐の過ぎ去つた後の平和を思はせるやうな、寂しいけれども静かな美しい微笑だつた。



 二つの忌はしい事件が、渦を捲いて起つた日から、瑠璃子の家は、暴風雨の吹き過ぎた後のやうな寂しさに、包まれてしまつた。

 家出した兄からは、ハガキ一つ来なかつた。父は父でおくびにも兄の事は云はなかつた。人を頼んで、兄の行方を探すとか、警察に捜索願を出すなどと云ふことを、父は夢にも思つてゐないらしかつた。自分を捨てた子の為には、指一つ動かすことも、父としての自尊心が許さないらしかつた。

 かうした父と兄との間に挟まつて、たゞ一人、心を傷めるのは瑠璃子だつた。彼女は、父に隠れて兄の行方をそれとなく探つて見た。兄が、その以前父に隠れて通つたことのある、小石川の洋画研究所も尋ねて見た。兄が、予てから私淑してゐる二科会の幹部のN氏をも訪ねて見た。が、何処でも兄の消息は判らなかつた。

 兄の友達の二三にも、手紙で訊き合して見た。が、どの返事も定まつたやうに、兄に暫らく会つたことがないと云ふやうな、頼りない返事だつた。縦令たとひ父とは不和になつても、自分丈には安否位は、知らせて呉れてもよいものと、彼女は兄の気強さが恨めしかつた。が、彼女の心を傷ましめることは外にもう一つあつた。それは、これまで感情の疎隔してゐた父と杉野子爵との間が、到頭最後の破裂に達したことである。あんな事件が起つた以上、再び元通りになることは、殆ど絶望のやうに思はれた。従つて、自分達の恋が、正式に認められるやうなをりは、永久に来ないやうに思はれた。自分が、恋を達するときは、やつぱり兄と同じやうに、父に背かなければならぬ時だと思ふと、彼女の心は暗かつた。

 突然な非礼な求婚が、斥けられてから、それに就いては何事も起らなかつた。十日経ち二十日経つた、父は、その事をもうスツカリ忘れてしまつたやうだつた。が、瑠璃子にはそれが中断された悪夢のやうに、何となく気がかりだつたが、一度ぎりで何の音沙汰もないところを見ると、その求婚を、恐ろしい復讐の企てでもあるやうに思つたのは、自分の邪推であつたやうにさへ、瑠璃子は思つた。

 その裡に五月が過ぎ六月が来た。政治季節の外は、何の用事もない父は、毎日のやうに書斎にばかり、閉ぢ籠もつてゐた。瑠璃子は何うかして、父を慰めたいと思ひながらも、父の暗い眉や凋びた口のあたりを見ると、たゞ涙ぐましい気持が先に立つて、話しかける言葉さへ、容易に口に浮ばなかつた。兄がゐる裡は、父と時々争ひが起つたものゝ、それでも家の中が、何となく華やかだつた。父娘二人になつて見ると、ガランとした洋館が修道院か何かのやうに、ジメ〳〵と淋しかつた。

 六月のある晴れた朝だつた。兄が家出した悲しみも、不快な求婚に擾された心も、だん〳〵薄らいで行く頃だつた。瑠璃子は、その朝、顔を洗つてしまふと平素いつもの通り、老婢が自分の室の机の上に置いてある郵便物を、取り上げて見た。

 父宛に来た書状も、一通り目を通すのが、彼女の役だつた。その朝は、父宛の書留が一通じつてゐた。それは内容証明の書留だつた。裏を返すと、見覚えのある川上万吉と云ふ金貸業者の名前だつた。

『あゝまた督促かしら。』と、瑠璃子は思つた。さうした書状を見る毎に、平素いつもは感じない家の窮状が彼女にもヒシ〳〵感ぜられるのであつた。

 彼女は、何気なく封を破つた。が、それは平素いつもの督促状とは、違つてゐた。簡単な書式のやうなものだつた。一寸意外に思ひながら読んで見た。最初の『債権譲渡通知書』と云ふ五字から、先づ名状しがたい不快な感じを受けた。


   債権譲渡通知書


通知人川上万吉は被通知人に対して有する金弐万五千円の債権を今般都合に依り荘田勝平殿に譲渡し候に付き通知候也

  大正六年六月十五日

通知人    川上万吉

被通知人  唐沢光徳殿


 荘田勝平と云ふ名前が、目に入つたとき、その書式を持つてゐる瑠璃子の手は、その儘しびれてしまふやうな、厭な重くるしい衝動ショックを受けずにはゐられなかつた。

 悪魔は、その爪を現し始めたのである。



 相手が、あの儘思ひ切つたと思つたのは、やつぱり自分の早合点だつたと瑠璃子は思つた。求婚が一時の気紛れだと思つたのは、相手を善人に解し過ぎてゐたのだ。相手はその二つの眼が示してゐる通り、やつぱり恐ろしい相手だつたのだ。

 が、それにしても何と云ふ執念ぶかい男だらう。父が負うてゐる借財の証書を買入れて、父に対する債権者となつてから、一体何うしようと云ふ積りなのかしら。卑怯にも陋劣にも、金の力であの清廉な父を苦しめようとするのかしら。さう思ふと、瑠璃子は、女ながらにその小さい胸に、相手の卑怯を憤る熱い血が、沸々と声を立てゝ、煮え立つやうに思つた。

 父の借財は多かつた。藩閥内閣打破の運動が、起る度に、父はなけ無しの私財を投じて惜しまなかつた。藩閥打破を口にする志士達に、なけ無しの私財を散じて惜しまなかつた。父が持つて生れた任侠の性質は、頼まるゝ毎に連帯の判も捺した。手形の裏書もした、取れる見込のない金も貸した。さうした父の、金に対する豪快な遣り口は、最初から多くはなかつた財産を、何時の間にか無一物にしてしまつた。が、財産は無くなつても、父の気質は無くならなかつた。初めは親類縁者から金を借りた。親類縁者が、見放してしまふと、高利貸の手からさへ、借ることを敢てした。住んでゐる家も、手入は届いてゐないが、可なりだゞつ広い邸地も、一番も二番もの抵当に入つてゐることを、瑠璃子さへよく知つてゐる。

 金力と云つたものが、丸切り奪はれてゐる父が、黄金魔と云つてもよいやうな相手から、赤児の手を捻ぢるやうに、苛責いぢめられる。さう思つて来ると、瑠璃子はやるせない憤りと悲しみとで、胸が一杯になつて来た。金さへあれば、どんな卑しい者でもが、得手勝手なことをする世の中全体が、憤ろしく呪はしく思はれた。

 瑠璃子は、今の場合、かうした不快な通知書を、父に見せることが、一番厭なことだつた。父が、どんなに怒り、どんなに口惜しがるかが余りに見え透いてゐたから。

 でも、かうした重要な郵便物を、父に隠し通すことは出来なかつた。瑠璃子は、重い足を運びながら、父の寝室へ行つて見た。が、父はまだ起きてはゐなかつた。スヤ〳〵と安らかな呼吸をしながら名残りの夢を貪つてゐる父のやつれた寝顔を見ると、瑠璃子は出来る丈かうした不快な物を父の眼には触れさせたくはなかつた。彼女は、そつと忍び足に枕元に寄り添つて、枕元の小さい卓子テーブルの上に置いてある、父の手文庫の中にその呪はれた紙片を、そつと音を立てずに入れた。何時までも、父の眼には触れずにあれ、瑠璃子は心の中で、さう祈らずにはゐられなかつた。

 その日、食事の度毎に顔を合せても、父は何とも云はなかつた。夜の八時頃、一人で棊譜を開いて盤上に石を並べてゐる父に、紅茶を運んで行つたときにも、父は二言三言瑠璃子に言葉をかけたけれど、書状のことは、何も云はなかつた。

 願はくは、何時までも、父の眼に触れずにあれ、瑠璃子は更にさう祈つた。どうせ、一度は触れるにしても、一日でも二日でも先きへ、延ばしたかつた。

 が、翌日眼を覚まして、瑠璃子が前の日の朝の、不快な記憶を想ひ浮べながら、その朝の郵便物に眼をやつたとき、彼女は思はず、口の裡で、小さい悲鳴を挙げずにはゐられなかつた。其処に、昨日と同じ内容証明の郵便物が、三通まで重ねられてゐたのである。

 それを取り上げた彼女の手は、思はずかすかに顫へた。もう、父に隠すとか隠さないとか云ふ余裕は、彼女になかつた。彼女はそれを取り上げると、救ひを求むる少女のやうに、父の寝室に駈け込んだ。

 父は起きてはゐなかつたが、床の中で眼を覚してゐた。

「お父様! こんな手紙が参りました。」瑠璃子の声は、何時になく上ずツてゐた。

「昨日のと同じものだらう。いや心配せいでもえゝ、お前が心配せいでもえゝ。」

 父は、静かにさう云つた。昨日の書状も、父は何時の間にか、見てゐたのである。

 瑠璃子は、今更ながら、自分の父を頼もしく思はずにはゐられなかつた。



 唐沢の家を呪咀するやうな、その不快な通知状は、その翌日もその又翌日も、無心な配達夫に依つて運ばれて来た。

 はじめほどの驚駭ショックは、受けなかつたけれども、その一葉々々に、名状しがたい不快と不安とが、見る人の胸を衝いた。

「なに、捨てゝ置くさ。同一人に債権の蒐まつた方が、弁済をするにしても、督促を受くるにしても手数が省けていゝ。」

 父は何気ないやうに、済ましてゐるやうだつたが、然し内心の苦悶は、表面うはべへ出ずにはゐなかつた。殊に、父は相手の真意を測りかねてゐるやうだつた。何のために、相手がこれほど、執念深く、自分を追窮して来るのか、判りかねてゐるやうだつた。

 が、瑠璃子には相手の心持が、判つてゐる丈、わづかばかりの恨を根に持つて、何処までも何処までも、付き纏つて来る相手の心根の恐ろしさが、しみ〴〵と身に浸みた。通知状を見る度に、相手に対する憎悪で、彼女の心は一杯になつた。彼の金力を罵つた自分達丈を苦しめる丈なら、まだいゝ、罪も酬いもない老いた父を、苦しめる相手の非道を、心の底より憎まずにはゐられなかつた。

 かうして、父が負うてゐる総額二十万円に近い負債に対する数多い証書が、たつた一つの黒い堅い冷たい手に、握られてしまつた頃であつた。

 ある朝、彼女は平生いつものやうに郵便物を見た。──かうした通知状の来ない前は、それは楽しい仕事に違ひなかつた。其処には恋人からの手紙や、親しい友達の消息が見出されたから──。が、今では不安な、いやな仕事になつてしまつた。

 彼女は、その朝もオヅ〳〵郵便物に目を通した。幾通かの手紙の一番最後に置かれてゐた鳥の子の立派な封筒を取り上げて、ふと差出人の名前に、目を触れたとき、彼女の視線はそこに、筆太に書かれてゐる四字に、釘付けにされずにはゐなかつた。それは紛れもなく荘田勝平の四字だつたのである。

 黒手組の脅迫状を受けたやうに、悪魔からの挑戦状を受けたやうに、瑠璃子の心は打たれた。反感と、憎悪とある恐怖とが、ごつちやになつて、わく〳〵と胸にこみ上げて来た。

 彼女は、その封筒の端をソツと、醜い蠑螺ゐもりの尻尾をでも握るやうに、摘み上げながら、父の部屋へ持つて行つた。

 父は差出人の名前を、一目見ると、苦々しげに眉をひそめた。暫らくは開いて見ようとはしなかつた。

「何と申して参つたのでございませう。」瑠璃子は、気になつて、かすやうに訊いた。

 父は、荒々しく封筒を引き破つた。

「何だ!」父の声は、初から興奮してゐた。

「──此度小生に於て、買占め置き候貴下に対する債権に就て、御懇談いたしたきこと有之これあり、且つ先日杉野子爵を介して、申上げたる件に付きても、重々の行違ゆきちがひ有之これあり、右釈明旁々かた〴〵近日参邸いたし度く──あゝ何と云ふ図々しさだ。何と云ふ! 獣のやうな図々しさだ。よし、やつて来い。やつて来るがいゝ。来れば、面と向つて、あの男の面皮を引き剥いて呉れるから。」

 父は、さう云ひながら、奉書の巻紙を微塵に引き裂いた。老いしなんだ手が、いかりのために、ブル〳〵顫へるのが、瑠璃子の眼には、いたましくかなしかつた。



 父も瑠璃子も、心の中に戦ひの準備を整へて、荘田勝平の来るのを遅しと待つてゐた。

 手紙が来た日の翌日の午前十時頃、瑠璃子が、二階の窓から、邸前の坂道を、見下してゐると、はるかに続いてゐるプラタヌスの並樹の間から、水色に塗られた大形の自動車が、初夏の日光をキラ〳〵と反射しながら、眩しいほどの速力で、坂を馳け上つたかと思ふと、急に速力を緩めて、低いうめくやうな警笛の音を立てながら、門前に止まるのを見たのである。覚悟をしてゐたことながら、瑠璃子は今更のやうに、不快な、悪魔の正体をでも、見たやうな憎悪に、囚はれずにはゐられなかつた。

 自動車の扉は、開かれた。ハンカチーフで顔を拭きながら、ぬつとその巨きい頭を出したのは、紛れもないあの男だつた。何が嬉しいのか、ニコ〳〵と得体の知れぬ微笑を浮べながら、玄関の方へ歩いて来るのだつた。

 瑠璃子は、取次ぎに出ようか出まいかと、考へ迷つた。顔を合はしたり、一寸でも言葉を交すのが厭でならなかつた。が、それかと云つて、平素気が付けば取次ぎに出る自分が、此の人に限つて出ないのは、何だか相手を怖れてゐるやうで彼女自身の勝気が、それを許さなかつた。さうだ! あんな卑しい人間に怯れてなるものか。彼の男こそ、自分の清浄な処女の誇の前に、愧ぢ怯れていゝのだ。さう思ふと、瑠璃子は処女をとめにふさはしい勇気を振ひ興して、孔雀のやうな誇と美しさとを、そのスラリとした全身に湛へながら、落着いた冷たい態度で、玄関に現れた。

 勝平は、瑠璃子の姿を見ると、此間会つた時とは別人ででもあるやうに、頭を叮嚀に下げた。

「お嬢さまでございますか、先日は大変失礼を致しまして、申訳もございません。今日は、あのう! お父様はお在宅いででございませうか。」

 かうも白々しく、──あゝした非道なことをしながら、かうも白々しく出られるものかと、瑠璃子が呆れたほど、相手は何事もなかつたやうに、平和で叮嚀であつた。

 瑠璃子は、一寸拍子抜けを感じながらも、冷たく引き緊めた顔を、少しも緩めなかつた。

在宅ゐますことは、在宅ゐますが、お目にかゝれますかどうか一寸伺つて参ります。」

 瑠璃子は、さう高飛車に云ひながら、二階の父の居間に取つて返した。

「やつて来たな。よし、下の応接室に通して置け。」

 瑠璃子の顔を見ると、父は簡単にさう云つた。

 応接室に案内する間も、勝平は叮嚀に而も馴々しげに、瑠璃子に話しかけようとした。が、彼女は冷たい切口上で、相手を傍へ寄せ付けもしなかつた。

「やあ!」挨拶とも付かず、懸声とも付かぬ声を立てながら、父は応接室に入つて来た。父は相手と初対面ではないらしかつた。二三度は会つてゐるらしかつた。が、苦り切つたまゝ時候の挨拶さへしなかつた。瑠璃子は、茶を運んだ後も、はしたないとは知りながら、一家の浮沈に係る話なので、応接室に沿ふ縁側の椅子に、主客には見えないやうに、そつと腰をかけながら、一語も洩さないやうに相手の話に耳を聳てた。

「此の間から、一度伺はう〳〵と思ひながら、つい失礼いたしてをりました。今度、閣下に対する債権を、私が買ひ占めましたことに就ても、屹度私をしからん奴だと、お考へになつたゞらうと思ひましたので、今日はお詫びかた〴〵、私の志のある所を、申述べに参つたのです。」

 勝平は、いかにも鄭重に、恐縮したやうな口調で、ボツリ〳〵話し始めたのであつた。丁度暴風雨の来る前に吹く微風のやうに、気味の悪い生あたゝかさを持つた口調だつた。

「うむ。志! 借金の証書を買ひ蒐めるのに、志があるのか。ハヽヽヽヽヽヽ。」父は、頭から嘲るやうになじつた。

「ございますとも。」相手は強い口調で、而も下手から、さう云ひ返した。



はじめから申上げねば分りませんが、実は私は閣下の崇拝者です。閣下の清節を、平生から崇拝致してゐる者であります。」

 さう云つて、勝平は叮嚀に言葉を切つた。老狐が化さうと思ふ人間の前で、木の葉を頭から被つてゐるやうな白々しさであつた。人を馬鹿にしてゐる癖に、態度だけはいやに、真剣に大真面目であるやうだつた。

「殊に近頃になつて、所謂政界の名士達なるものと、お知己ちかづきになるに従つて、大抵の方には、殆ど愛想をつかしてしまひました。お口だけは立派なことを云つていらしつても、一歩裏へ廻ると、我々町人風情よりも、抜目がありませんからな。口幅くちはゞつたいことを、申す様でございますが、金で動かせない方と云つたら、数へるだけしかありませんからね。」

 父は黙々として、一言も発しなかつた。いざと云ふ時が来たら、一太刀に切つて捨てようとする気勢けはひが、あり〳〵と感ぜられた。が、勝平は相手の容子などには、一切頓着しないやうに、臆面もなく話し続けた。

「いつか、日本倶楽部で、初めて閣下の崇高なお姿に接して以来、益々ます〳〵閣下に対する私の敬慕の念が高くなつたのです。多年の間、利慾権勢に目もくれず、たゞ国家のために、一意奮闘していらつしやる。かう云ふお方こそ、本当の国士本当の政治家だと思つたのです。」

 父が、面と向つてのお世辞に、苦り切つてゐる有様が、室外にゐる瑠璃子にもマザ〳〵と感ぜられた。

「御存じの通り、私は外に能のある人間でありません。たゞ、二三年来の幸運で、金だけは相当儲けました。私は、今何に使つても心残りのない金を、五百万円ばかり現金で持つてゐます。あゝ使へ、かう寄附しろと云つて呉れる人もありますが、私は閣下のやうなお方に、後顧の憂ひなからしめ、国家のために思ひ切り奮闘していたゞけるやうにする事も、可なり意義のある立派な仕事だと思つたのです。それには、是非ともお交際を願つて、いろ〳〵な立ち入つた御相談にも、あづからせて戴きたいと、それで実はあんな突然なお申込を……」

 さう云つて、言葉を切つた、がいかにも恐縮に堪へないと云ふ口調で、

「ところが、その申込が杉野さんの思ひちがひで、と云ふよりも、あの方の軽率から、私がお嬢さまをお望み致したなどととんでもない。ハヽヽヽ。御立腹遊ばすのは当然です。五十に近い私が、お嬢さまに求婚するなどと笑ひ話にもなりません。実は、当人と申すのは私の倅、今年二十五になります。亡妻の遺児わすれがたみです。」

 一寸殊勝らしく声を落しながら、

「その倅とても、年こそお嬢様に似合ひでございますが、いやもう一向下らない人物です。が、し万一お嬢様を下さるやうな事がありましたら、これほど有難い──私の財産を半分無くしても惜しくはない──仕合せだと思ひますのですが。が、そのお話は、兎も角、閣下の御債務は凡て、私に払はせていたゞきたいと思ひましたから、一月あまりも心掛けて、もう大抵は買ひ蒐めた積りでございますが、縁談のお話などとは別に、これ丈は私の寸志です。どうか御心置きなく、お受取り下さるやうに。」さう云ひながら、父の負うてゐる借財の証書の全部を一つの袋に収めて父の前に差し出したらしかつた。

 虚心平気に、勝平の云ひ分を聴けば、無躾なところは、あるにせよ、成金らしい傲岸な無遠慮なところはあるにせよ、それほど、悪意のあるものとは思はれなかつた。が、瑠璃子にはさうではなかつた。瑠璃子と、その恋人とを思ひ知らせるために、悪魔は、瑠璃子を奪つて、自分の妻に──名前だけは妻でも、本当はその金力を示すための装飾品に──しようとした。が、瑠璃子の父が、予想以上に激怒したのと、年齢の余りな相違から来る世間の非難とをおもんぱかつて、自分の名義で買ふ代りに、息子の名義で買はうとする、瑠璃子を商品と見てゐる点に於ては、何の相違もない。瑠璃子と彼女の恋人とを思ひ知らせようとする、蛇のやうな執念には何の相違もない。正面から飛びかゝつて父から、手ひどく跳付はねつけられた悪魔は、今度は横合から、そつとたぶらかさうと掛つてゐるのだつた。



 瑠璃子には、相手の心が十分に見透かされてゐる。が、相手の本心を知らない父は、その空々しい上部うはべの理由だけに、うか〳〵と乗せられて、もしや相手の無躾な贈り物を、受け取りはしないかと、瑠璃子はひそかに心を痛めた。縁談などとは別にと、口で美しく云ふものゝ、父が相手の差し出す餌にふれた以上、それをしほに、否応なしに自分を、浚つて行かうとする相手の本心が、彼女には余りに明かであつた。

 父をうにかだまして娘を浚つて行く、それで娘にも、彼女の恋人にも、苦痛を与へればよいのだと相手がたくらんでゐるらしいのが、瑠璃子には、余りに判り過ぎてゐるやうに思へた。

 が、瑠璃子の心配は無駄だつた。父は相手が長々としやべり続けたのを聞いた後で、二三分ばかり黙つてゐたらしいが、急にゐずまひを正したらしく、厳格な一分も緩みのない声で云つた。

「いや、大きに有難う。あなたの好意は感謝する。が、考ふる所あつて、お受けすることは出来ない。借財は証文の期限どほりに、ちやんと弁済する。それから、縁談の事ぢやが、本人が貴方あなたであらうが御子息であらうが、お断りすることには変りがない。何うか悪しからず。」

 父は激せず熱せず、毅然とした立派な調子で云ひ放つた。父の立派な男らしい態度を、瑠璃子は蔭ながら、伏し拝まずにはゐられなかつた。何と云ふ凜々しい態度であらう。どんなに此の先苦しまうとも、あゝした父を、父としてゐることは、何といふ幸福であらうかと思ふと、熱い涙が知らず識らず、頬を伝つて流れた。

 真向から平手でピシヤツと、なぐるやうな父の返事に、相手は暫らくは、二の句が、げないらしかつた。が、暫らくすると、太い渋い不快な声が聞え始めた。

「ふゝむ。これほど申し上げても、私の好意を汲んで下さらない。これほど申上げても、私の心がお分りになりませんのですか。」

 相手の言葉付は、一眸の裡に変つてゐた。豹だ、一太刀受けて、後退あとじさりしながら、低くうなつてゐるやうな無気味な調子だつた。

「はゝゝゝ、好意! はゝゝゝ、お前さんは、こんなことを好意だと、云ひ張るのですか。人の顔に唾を吐きかけて置いて、好意であるもないものだ。はゝゝゝゝゝゝ。」父は、相手を蔑すみ切つたやうに嘲笑あざわらつた。

「はゝゝ、閣下も、貧乏をお続けになつたために、何時の間にか、僻んでおしまひになつたと見える。此の荘田が、誠意誠心申上げてゐることが、お分りにならない。」

 相手も、負けてはゐなかつた。豹が、その本性を現して、猛然と立ち上つたのだつた。

「はゝゝゝゝ、誠意誠心か! 人の娘を、金で買ふと云ふ恥知らずに、誠意などがあつて、堪るものか。出直してお出なさい!」父は、低い力強い声で、さう罵つた。

「よろしい! 出直して参りませう。閣下、覚えて置いて下さい! 此の荘田は、好意を持つてをりますと同時に、悪意も人並に持つてゐるものでございますから。お言葉に従つて、いづれ出直して参りますから。」さう云ひ捨てると、相手は荒々しくドアを排して、玄関へ出て行つた。

 瑠璃子が、急いで応接室に駈け込んだとき、父はそこに、昂然と立つてゐた。半白の髪が、逆立つてゐるやうにさへ見えた。

「お父様!」瑠璃子は、胸が一杯になりながら、駈け寄つた。

「あゝ瑠璃子か。聞いてゐたのか。さあ! お前もしつかりして、飽くまでも戦ふのだ。強くあれ、さうだ飽くまでも強くあることだ!」

 さう云ひながら父は、彼の痩せた胸懐むなぶところに顔を埋めてゐる娘の美しい撫肩なでがたを、軽く二三度叩いた。





 羊の皮を被つて来た狼の面皮を、真正面から、引き剥いだのであるから、その次ぎの問題は、狼が本性を現して、飛びかゝつて来る鋭い歯牙を、どんなに防ぎ、どんなに避くるかにあつた。

 が、その狼の毒牙は、法律に依つて、保護されてゐる毒牙だつた。今の世の中では、国家の公正な意志であるべき法律までが、富める者の味方をした。

 勝平に買ひ占められた証書の一部分の期限はもう十日と間のない六月の末であつた。今までは、期限が来る毎に、幾度も幾度も証書の書換をした。そのために、証書の金額は、年一年増えて行つたものゝ、うにか遣繰やりくりは付いてゐた。が、それが悪意のある相手の手に帰して、こちらを苛責いぢめるための道具に使はれてゐる以上、相手が書換や猶予の相談に応ずべき筈はなかつた。

 六月の末日が、段々近づいて来るに従つて、父は毎日のやうに金策に奔走した。が、三万を越してゐる巨額の金が、現在の父に依つて容易に、才覚さるべき筈もなかつた。

 朝起きると、父は蒼ざめながらも、まなこだけます〳〵鋭くなつた顔を、曇らせながら、黙々として出て行つた。玄関へ送つて出る瑠璃子も、

「お早くお帰りなさいまし。」と、挨拶する外は何の言葉もなかつた。が、送り出す時は、まだよかつた。其処に、僅でも希望があつた。が、夕方、その日の奔走が全く空に帰して、悄然と帰つて来る父を迎へるのは、何うにも堪らなかつた。父と娘とは、黙つて一言も、交はさなかつた。お互の苦しみを、お互に知つてゐた。

 今迄は、元気であつた父も、折々は嗟嘆の声を出すやうになつた。夕方の食事が済んで、父娘が向ひ合つてゐる時などに、父は娘に詫びるやうに云つた。

「皆、お父様が悪かつたのだ。自分の志ばかりに、気を取られて、最愛の子供のことまで忘れてゐたのぢや。わしの家を治めることを忘れたために、お前までがこんな苦しい思ひをするのだ。」

 父の耿々かう〳〵の気が──三十年火のやうに燃えた野心が、かうした金の苦労のために、砕かれさうに見えるのが、一番瑠璃子には悲しかつた。

 父の友人や知己は、大抵は、父のために、三度も四度も、迷惑をかけさせられてゐた。父が、金策の話をしても、彼等は体よく断つた。断られると、潔癖な父は、二度と頼まうとはしなかつた。

 六月が二十五日となり、二十七日となつた。連日の奔走が無駄になると、父はもう自棄やけを起したのであらう。もう、ふツつりと出なくなつた。幡随院長兵衛が、水野の邸に行くやうに、父はわるびれもせず、悪魔が、下す毒手を、待ち受けてゐるやうだつた。

 今年の春やつと、学校を出たばかりの瑠璃子には、父が連日の苦悶を見ても、何うしようと云ふ術もなかつた。彼女は、たゞオロ〳〵して、一人心を苦しめるだけだつた。

 彼女の小さい胸の苦しみを、打ち明けるべき相手としては、たゞ恋人の直也がある丈だつた。が、彼女は恋人に、まだ何も云つてゐなかつた。

 家の窮状を訴へるためには、いろ〳〵な事情を云はなければならない。荘田の恨みの原因が、直也の罵倒であることも云はなければならない。直也の父が、不倫な求婚の賤しい使者を務めたことも云はなければならない。それでは、恋人に訴へるのではなくして、恋人を責めるやうな結果になる。潔癖な恋人が、父の非行を聴いて、どんなに悲嘆するかは、瑠璃子にもよく分つてゐた。自分のふとした罵倒が、瑠璃子父娘に、どんなにわざはひしてゐるかと云ふことを聴けば、熱情な恋人は、どんな必死なことをやり出すかも分らない。さう思ふと、瑠璃子は、出来る丈は、自分の胸一つに収めて、恋人にも知らすまいと思つた。

 父や瑠璃子の苦しみなどとは、没交渉に、否凡ての人間の喜怒哀愁とは、何のかゝはりもなく、六月は暮れて行つた。



 もう、明日が最後の日といふ六月二十九日の朝だつた。荘田勝平の代理人と云ふ男が、瑠璃子の家を訪づれた。鷲のくちばしのやうな鼻をした四十前後の男だつた。詰襟の麻の洋服を着て、胸のあたりに太い金の鎖を、仰々しくきらめかしてゐた。

 父は、頭から面会を拒絶した。瑠璃子が、その旨を相手に伝へると、相手は薄気味の悪い微笑をニヤリと浮べながら、

「いや、お会ひ下さらなくつても、結構です。それでは、お嬢様から、よろしくお伝へ下さい。外の事ではございませんが、今度手前共の主人が、ん所ない事情から、買入れました、此方こちらの御主人に対する証文の中、一部の期限が明日に当つてゐますから、是非ともお間違なくお払ひ下さるやうに、当方にも事情がございまして、何分御猶予いたすことが出来ませんから、そのお積りで、お間違のないやう。もし、万一お間違がありますと、手前共の方では、直ぐ相当な法律上の手段に訴へるやうな手筈に致してをりますから。後でお怨みなさらないやうに。」と、云つたが、此の冷たさうな男の胸にも、美しい瑠璃子に対する一片の同情が浮んだのであらう。彼は急に、口調を和げながら、

「どうかお嬢様、こんなことを申上げる私の苦しい立場もお察し下さい。うらみむくいもない御当家へ参つて、こんなことを申上げる私は可なり苦しい思ひを致してゐるのでございます。然し、これも全く、使はれてゐます主人の命令でございますから。それでは、いづれ明日改めて伺ひますから。」

 瑠璃子が、大理石で作つた女神の像のやうに、冷たく化石したやうな美しい顔の、眉一つ動かさず黙つて聞いてゐるために、男はある威圧を感じたのであらう。さう云つてしまふと、コソコソと、逃ぐるやうに去つてしまつた。

 父に、この督促を伝へようかしら。が伝へたつてなんにもならない。何万と云ふ金が、今日明日に迫つて、父に依つて作られる筈がなかつた。が、もし払はないとすると、向うでは直ぐ相当な法律上の手段に、訴へると云ふ。一体それはどんなことをするのだらう。さう考へて来ると、瑠璃子は自分の胸一つには、収め切れない不安が湧いて来て、進まないながら、父の部屋へ、上つて行かずにはゐられなかつた。

「うむ! 直ぐ法律上の手段に訴へる!」

 父はさう云つて、腕をこまぬいて、さすがに抑へ切れない憂慮の色が、アリ〳〵と眉の間に溢れた。

「執達吏を寄越すと云ふのだな。あはゝゝゝゝ、まかり違つたら、競売にすると云ふのかな。それもいゝ、こんなボロ屋敷なんか、ない方が結句気楽だ! はゝゝゝゝ。」

 父は、元気らしく笑はうとした。が、それは空しい努力だつた。瑠璃子の眼には、笑はうとする父の顔が、今にも泣き出すやうに力なくみじめに見えた。

「何うにかならないものでございませうか、ほんたうに。」

 父の大事などには、今迄一度も口出しなどをしたことのない彼女も、恐ろしい危機に、つい平生のたしなみを忘れてしまつた。

 父も、それに釣り込まれたやうに、

「さうだ! 本多さへ早く帰つてをれば、うにかなるのだがな。八月には帰ると云ふのだから、此の一月か二月さへ、何うにか切り抜ければ──」

 父は、娘に対する虚勢も捨てたやうに、首をうな垂れた。さうだ、父の莫逆の友たる本多男爵さへ日本にをればと、瑠璃子も考へた。が、その人は、宮内省の調度頭をしてゐる男爵は、内親王の御降嫁の御調度買入れのために、欧洲へ行つてゐて、此の八月下旬でなければ、日本へは帰らないのだつた。

 住んでゐる家に、執達吏が、ドヤ〳〵と踏み込んで来て家財道具に、封印をベタ〳〵と付ける。さうした光景を、頭の中に思ひ浮べると、瑠璃子は生きてゐることが、味気ないやうにさへ思つた。

 父も娘も、無言のまゝに、三十分も一時間も坐つてゐた。いつまで、坐つてゐても父娘おやこの胸の中の、黒いいやな塊が、少しもほぐれては行かなかつた。

 その時である。また唐沢家を訪ふ一人の来客があつた。悪魔の使であるか、神の使であるかは分らなかつたけれど。



 父ととが、差し迫まる難関に、やるせない当惑の眉をひそめて、向ひ合つて坐つてゐる時に、尋ねて来た客は、木下と云ふ父の旧知だつた。政治上の乾分こぶんとも云ふべき男だつた。父が、日本ではじめての政党内閣に、法相の椅子を、ホンの一月半ばかり占めた時、秘書官に使つて以来、ズツと目をかけて来た男だつた。長い間、父の手足のやうに働いてゐた。父も、いろ〳〵な世話を焼いた。が、二三年来父の財力が、尽きてしまつて、乾分の面倒などは、少しも見てゐられなくなつてから、此の男も段々、父から遠ざかつて行つたのだ。

 が、父は久しぶりに、旧知の尋ねて来たことを欣んだ。溺るゝ者は、藁をでも掴むやうに、窮し切つてゐる父は、何処かに救ひの光を見付けようと、焦つてゐるのだつた。その男は、今年の五月来た時とは、別人のやうな立派な服装なりをしてゐた。

「何うだい! 面白い事でもあるかい!」

 父は、心のうちの苦悶を、此の来客に依つて、少しは紛ぎらされたやうに、淋しい微笑を、浮べながら応接室へ入つて行つた。

「お蔭さまで此の頃は、何うにかかうにか、一本立で食つて行けるやうになりました。もう、二年お待ち下さい! そのうちには、閣下への御恩報じも、万分の一の御恩報じも、出来るやうな自信もありますから。」

 さう云ひながら、得意らしく哄笑した。此の場合の父には、さうした相手のお世辞さへ嬉しかつた。

「さうかい! それは、結構だな、俺は、相変らず貧乏でなう。年頃になつた娘にさへ、いろ〳〵の苦労をかけてゐる始末でなう。」

 父はさう云ひながら、茶を運んで行つた瑠璃子の方を、詫びるやうに見た。

「いや、今に閣下にも、御運が向いて来る時代が参りますよ。此の頃ポツ〳〵新聞などに噂が出ますやうに、若し××会中心の貴族院内閣でもが、出来るやうな事がありましたら、閣下などは、誰を差し措いても、第一番の入閣候補者ですから、本当に、今暫くの御辛抱です。三十年近い間の、閣下の御清節が、報はれないで了ると云ふことは、余りに不当なことですから。……いやどうも、閣下のお顔を見ると、思はずかうした愚痴が出て困ります。いや、実は本日参つたのは、一寸お願ひがあるのです。」

 さう云ひながら、その男は立ち上つて、応接室の入口に、立てかけてあつた風呂敷包を、テーブルの上に持つて来た。その長方形な恰好から推して、中が軸物であることが分つてゐた。

「実は、これを閣下に御鑑定していたゞきたいのです。友人に頼まれましたのですが、書画屋などには安心して頼まれませんものですから。是非一つ閣下にお願ひしたいと思うたものですから。」

 瑠璃子の父は、素人鑑定家として、堂に入つてゐた。殊に北宗画南宗画に於ては、その道の権威だつた。

「うむ! 品物はなんなのだな。」父は余り興味がないやうに云つた。書画を鑑定すると云つたやうな、落着いた気分は、彼の心の何処にも残つてゐなかつたのである。

夏珪かけいの山水図です。」

「馬鹿な。」父は頭から嘲るやうに云つた。「そんな品物が、君達の手にヒヨコ〳〵あるものかね。それに、見れば、大幅ぢやないか。まあ黙つて持つて帰つた方がいゝだらう。見なくつても分つてゐるやうなものだ。ハヽヽヽヽヽ。」

 父は、丸切まるきりり相手にしようとはしなかつた。相手は、父にさう云はれると、恐縮したやうに、頭をかきながら、

「閣下に、さう手厳しく出られると、一言もありません。が、諦めのために見て戴きたいのです。贋物は覚悟の前ですから。持つてゐる当人になると、怪しいと思ひながら、諦められないものですから。ハヽヽヽヽヽヽ。」



 久し振で、訪ねて来た旧知の熱心な頼みを聞くと、父は素気すげなく、断りかねたのであらう、それかと云つて、書画を鑑定すると云つたやうな、静かな穏かな気持は、今の場合、少しも残つてはゐないのだつた。

「見ないことはないが、今日は困るね、日を改めて、出直して来て貰ひたいね。」父は余儀なささうに云つた。

「いや決して、直ぐ只今見て下さいなどと、そんな御無理をお願ひいたすのではありません。お手許へおいて置きますから、一月でも二月でも、お預けしておきますから、何うかお暇な時に、お気が向いたときに。」相手は、叮嚀に懇願こんぐわんした。

「だが、夏珪の山水なんて、大した品物を預つておいて、しもの事があると困るからね。尤も、君などが、さうヒヨツクリ本物を持つて来ようなどとは、思はないけれども、ハヽヽヽヽ。」

 父は、品物が贋物であることに、何の疑ひもないやうに笑つた。

「いやそんな御心配は、御無用です。閣下のお手許に置いて置けば、日本銀行へ供託して置くより安全です。ハヽヽヽ。閣下のお口から、贋だと一言仰しやつて下さると当人も諦めが、付くものですから。」

 相手に、さう如才なく云はれると、父も断りかねたのであらう。口では、承諾の旨を答へなかつたけれども、有耶無耶うやむやの裡に、預ることになつてしまつた。

 その用事が、片付くと客は、取つて付けたやうに、政局の話などを始めた、父は暫らくの間、興味の乗らないやうな合槌を打つてゐた。

 客が、帰つて行くとき、父は玄関へ送つて出ながら、

「凡そ何時取りに来る?」と訊いた。やつぱり、軸物のことが少しは気になつてゐるのだつた。

「御覧になつたら、ハガキででも、御一報を願へませんか、本当にお気に向いた時でよろしいのですから。当方は、少しも急ぎませんのですから。」

 客は幾度も繰返しながら、帰つて行つた。応接室へ引き返した父は、瑠璃子を呼びながら、

これしまつて置け、わしの居間の押入へ。」と、命じた。が、瑠璃子が、父の云ひつけに従つて、その長方形の風呂敷包を、取り上げようとした時だつた。父の心が、急にふと変つたのだらう。

「あ、さう。やつぱり一寸見て置くかな。どうせ贋にきまつてゐるのだが。」

 さう云ひながら、父は瑠璃子の手から、その包みを取り返した。父は包みを解いて、箱を開くとさすがに丁寧に、中の一軸を取り出した。幅三尺に近い大幅だつた。

「瑠璃さん! 一寸掛けて御覧。その軸の上へ重ねてもいゝから。」

 瑠璃子は父の命ずるまゝに、応接室の壁に古くから懸つて居る、父が好きな維新の志士雲井龍雄の書の上へ、夏珪の山水を展開した。

 先づ初め、層々と聳えてゐる峰巒ほうらんすがたが現れた。その山が尽きる辺から、落葉し尽くした疎林が淡々と、浮かんでゐる。疎林の間には一筋の小径が、遥々と遠く続いてゐる。その小径を横ぎつて、水のれた小流さながれが走つてゐる。その水上に架する小さい橋には、牛に騎した牧童が牧笛を吹きながら、通り過ぎてゐる。夕暮が近いのであらう、蒼茫たる薄靄が、ほのかに山や森を掩うてゐる。その寂寞を僅かに破るものは、牧童の吹き鳴らす哀切なる牧笛の音であるのだらう。

 父は、軸が拡げられるのと共に、一言も言葉を出さなかつた。が、ぢつと見詰めてゐる眸には感激の色がアリ〳〵と動いてゐた。五分ばかりも黙つてゐただらう。父は感に堪へたやうに、もう黙つてはゐられないやうに云つた。

「逸品だ。素晴らしい逸品だ。此間、伊達侯爵家の売立に出た夏珪の『李白観瀑』以上の逸品だ!」

 父は熱に浮かされたやうに云つてゐた。夏珪の『李白観瀑』は、つい此間行はれた伊達家の大売立に九万五千円と云ふ途方もない高値を附せられた品物だつた。



「不思議だ! 木下などが、こんな物を持つて来る!」父は暫らくの間は魅せられたやうに、その山水図に対して、立つてゐた。

「そんなに、此絵がいゝのでございますか。」瑠璃子も、つい父の感激に感染して、かう訊いた。

「いゝとも。徽宗きそう皇帝、梁楷りやうかい、馬遠、牧渓ぼくけい、それから、この夏珪、みんな北宗画の巨頭なのだ。どんな小幅だつて五千円もする。この幅などは、お父様が、今迄見た中での傑作だ。北宗画と云ふのは、南宗画とはまた違つた、柔かい佳い味のあるものだ。」

 父は、名画を見た欣びに、つい明日に迫る一家の窮境を忘れたやうに、瑠璃子に教へた。

「さうだ。早く木下に知らせてやらなければいけない。贋物だからいくら預つてゐても、心配ないと思つて預つたが、本物だと分ると急に心配になつた。さうだ瑠璃さん! 二階の押入れへ、大切にしまつて置いておくれ!」

 父は十分もの間、近くから遠くから、つくづくと見尽した後、さう云つた。

 瑠璃子は、それを持つて、二階への階段を上りながら思つた。自分の手中には、一幅十万円に近い名画がある。此の一幅さへあれば一家の窮状は何の苦もなく脱することが出来る。何んなに名画であらうとも、長さ一丈を超えず、幅五尺に足らぬ布片に、五万十万の大金を投じて惜しまない人さへある。それと同時に、同じ金額のために、いろ〳〵な侮辱や迫害を受けてゐる自分達父娘もある。さう思ふと、手中にあるその一幅が、人生の不当な、不公平な状態を皮肉に示してゐるやうに思はれて、その品物に対して、妙な反感をさへ感じた。

 その日の午後、二階の居間に閉ぢ籠つた父は、うしたのであらう。平素いつもに似ず、檻に入れられた熊のやうに、部屋中を絶間なしに歩き廻つてゐた。瑠璃子は、階下の自分の居間にゐながら、天井に絶間なく続く父の足音に不安な眸を向けずには、ゐられなかつた。常には、軽い足音さへ立てない父だつた。今日は異常に昂奮してゐる様子が、瑠璃子にもそれと分つた。暫らく音が、絶えたかと思ふと、又立ち上つて、ドシ〳〵と可なり激しい音を立てながら、部屋中を歩き廻るのだつた。瑠璃子はふと、父が若い時に何かに激昂すると、直ぐ日本刀を抜いて、ビユウビユウと、部屋の中で振り廻すのが癖だつたと、亡き母から聞いたことを思ひ出した。

 あんなに、父が昂奮してゐるとすると、若し明日荘田の代理人が、父に侮辱に近い言葉でも吐くと短慮な父は、どんな椿事を惹き起さないとも限らないと思ふと、瑠璃子は心配の上に、又新しい心配が、重なつて来るやうで、こんな時家出した兄でも、ゐて呉れゝばと、取止めもない愚痴さへ、心の裡に浮んだ。

 その日、五時を廻つた時だつた。父は、瑠璃子を呼んで、外出をするから、車を呼べと云つた。もう、金策のあてなどが残つてゐる筈はないと思ふと、彼女は父が突然出かけて行くことが、可なり不安に思はれた。

「何処へ行らつしやるのでございますか。もう直ぐ御飯でございますのに。」瑠璃子は、それとなく引き止めるやうに云つた。

「いや、木下から預つた軸物が急に心配になつてね。これから行つて、届けてやらうと思ふのだ。向うでは、あゝした高価なものだとは思はずに、預けたのだらうから。」父の答へは、何だか曖昧だつた。

「それなら、直ぐ手紙でもお出しになつて、取りに参るやうに申したら、如何でございませう。別に御自身でお出かけにならなくても。」瑠璃子は、妙に父の行動が不安だつた。

「いや、一寸行つて来よう。殊に此家は、何時差押へになるかも知れないのだから。預つて置いて差押へられたりすると、面倒だから。」父は声低く、弁解するやうに云つた。さう云へば、父が直ぐ返しに行かうと云ふのにも、訳がないことはなかつた。

 が、父が車に乗つて、その軸物の箱を肩にもたせながら、何処ともなく出て行く後姿を見た時、瑠璃子の心の中の妙な不安は極点に達してゐた。



 到頭呪はれた六月の三十日が来た。梅雨時には、珍らしいカラリとした朗かな朝だつた。明るい日光の降り注いでゐる庭の樹立では、朝早くから蝉がさん〳〵と鳴きしきつてゐた。

 が、早くから起きた瑠璃子の心には、暗い不安と心配とが、泥のやうに澱んでゐた。父が、昨夜遅く、十二時に近く、酒気を帯びて帰つて来たことが、彼女の新しい心配の種だつた。還暦の年に禁酒してから、数年間一度も、酒杯を手にしたことのない父だつたのだ。あれほど、気性の激しい父も、不快な執拗な圧迫のために、自棄になつたのではないかと思ふと、その事が一番彼女には心苦しかつた。

 つい此間来た、鷲の嘴のやうな鼻をした男が、今にも玄関に現れて来さうな気がして、瑠璃子は自分の居間に、ぢつと坐つてゐることさへ、出来なかつた。あの男が、父に直接会つて、弁済を求める。父が、素気すげなく拒絶する。相手が父を侮辱するやうな言葉を放つ。いら〳〵し切つて居る父が激怒する。恐ろしい格闘が起る。父が、秘蔵の貞宗の刀を持ち出して来る。さうした厭な空想が、ひつきりなしに瑠璃子の頭を悩ました。が、午前中は無事だつた。一度玄関におとなふ声がするので驚いて出て見ると、得体の知れぬ売薬を売り付ける偽癈兵だつた。午後になつてからも、却々なか〳〵来る様子はなかつた。瑠璃子は絶えずいら〳〵しながら厭な呪はしい来客を待つてゐた。

 父は、朝食事の時に、瑠璃子と顔を合はせたときにも、苦り切つたまゝ一言も云はなかつた。昨日きのふよりも色が蒼く、眼が物狂はしいやうな、不気味な色を帯びてゐた。瑠璃子もなるべく父の顔を見ないやうに、俯いたまゝ食事をした。それほど、父の顔はいたましくみじめに見えた。昼の食事に顔を合した時にも、親子は言葉らしい言葉は、交さなかつた。まして、今日が呪はれた六月三十日であると云つたやうな言葉は、どちらからも、おくびにも出さなかつた。その癖、二人の心には六月三十日と云ふ字が、毒々しくき付けられてゐるのだつた。

 が、長い初夏の日が、漸く暮れかけて、夕日の光が、遥かに見える山王台の青葉を、あか〳〵と照し出す頃になつても、あの男は来なかつた。あんなに、心配した今日が、何事も起らずに済むのだと思ふと、瑠璃子は妙に拍子抜けをしたやうな、心持にさへならうとした。

 が、然し悪魔に手抜かりのある筈はなかつた。その犠牲いけにへが、十分苦しむのを見すまして、最後に飛びかゝる猫のやうに瑠璃子父子が、一日を不安な期待の裡に、苦しみ抜いて、やつと一時逃れの安心に入らうとした間隙に、かの悪魔の使者は護謨輪ごむわの車に、音も立てず、そつと玄関に忍び寄つたのだつた。

「いや、大変遅くなりまして相済みません。が、遅く伺ひました方が、御都合が、およろしからうと思ひましたのですから、お父様は御在宅でせうか。」

 瑠璃子が、出迎へると、その男は妙な薄笑ひをしながら、言葉だけはいやに、鄭重だつた。

 来る者が、到頭来たのだと思ひながらも、瑠璃子はその男の顔を見た瞬間から、憎悪と不快とで、小さい胸が、ムカムカと湧き立つて来るのだつた。

「お父様! 荘田の使が参りました。」

 さう父に取り次いだ瑠璃子の声は、かすかに顫へを帯びるのを、何うともする事が出来なかつた。

「よし、応接室に通して置け。」

 さう云ひながら、父は傍の手文庫を無造作に開いた、部屋の中は可なり暗かつたが、その開かれた手文庫の中には、薄紫の百円紙幣の束が、──さうだ一寸にも近い束が、二つ三つ入れられてあるのが、アリ〳〵と見えた。

 瑠璃子は、思はず『アツ!』と声を立てようとした。



 父の手文庫に思ひがけなくも、ほのかな薄紫の紙幣の厚い束を、発見したのであるから、瑠璃子が声を立てるばかりに、おどろいたのも無理ではなかつた。駭くのと一緒に、有頂天になつて、躍り上つて、欣ぶべき筈であつた。が、実際は、その紙幣を見た瞬間に云ひ知れぬ不安が、潮の如くヒタ〳〵と彼女の胸を充した。

 瑠璃子は、父がその札束を、無造作に取り上げるのを、恐ろしいものを見るやうに、無言のまゝぢつと見詰めて居た。

 父が、応接室へ出て行くと、鷲鼻の男は、やんごとない高貴の方の前にでも出たやうに、ペコ〳〵した。

「これは、これは男爵様でございますか。私はあの、荘田に使はれてをりまする矢野と申しますものでございます。今日は止むを得ません主命で、主人も少々現金の必要に迫られましたものですから止むを得ず期限通りにお願ひ致しまする次第で、何の御猶予も致しませんで、誠に恐縮致してをる次第でござります。」父は、さうした挨拶に返事さへしなかつた。

「証文を出して呉れたまへ。」父の言葉は、匕首のやうに鋭く短かつた。

「はあ! はあ!」

 相手は、周章あわてたやうに、ドギマギしながら、折鞄の中から、三葉の証書を出した。

 父は、ぢつと、それに目を通してから、右の手に、鷲掴みにしてゐた札束を、相手の面前に、突き付けた。

 相手は、父の鋭い態度に、オド〳〵しながら、それでも一枚々々かぞへ出した。

「荘田に言伝をしておいて呉れたまへ、いゝか。俺の云ふことをよく覚えて、言伝をして、おいて呉れ給へ。此の唐沢は貧乏はしてゐる。家も邸も抵当に入つてゐるが、金銭のために首の骨を曲げるやうな腰抜けではないぞ。日本中の金の力で、圧迫されても、横に振るべき首は、決して縦には動かさないぞ。といゝか。帰つて、さう云ふのだ! 五万や十万の債務は、期限どほり何時でも払つてやるからと。」

 父は、犬猫をでも叱咤するやうに、低く投げ捨てるやうな調子で云つた。相手は何と、罵られても、兎に角厭な役目を満足に果し得たことを、もつけの幸と思つてゐるらしく、一層丁寧に慇懃だつた。

「はあ! はあ! 畏まりました。主人に、さう申し聞けますでござります。どうも、私の口からは、申し上げられませんが、成り上り者などと云ふ者は、金ばかりありましても、人格などと云ふものは皆目持つてゐない者が、多うございまして、私の主人なども、使はれてゐる者の方が、愛想を尽かすやうな、卑しい事を時々、やりますので。いや、閣下のお腹立はらだちは、全く御尤もです。私からも、主人に反省を促すやうに、申します事でございます。それでは、これでおいとま致します。」

 丁度烏賊いかが、敵を怖れて、逃げるときに厭な墨汁を吐き出すやうに、この男も出鱈目な、その場限りの、遁辞を並べながら、匇卒として帰つて行つた。

 さうだ! 父は最初の悪魔の突撃を物の見事に一蹴したのだつた。この次ぎの期限までには、半年の余裕がある。その間には、父の親友たる本多男爵も帰つて来る。さう思ふと、瑠璃子はホツと一息ついて安心しなければならない筈だつた。が、彼女の心は、一つの不安が去ると共に、又別な、もつと性質たちのよくない不安が、何時の間にか入れ換つてゐた。

「瑠璃さん! お前にも心配をかけて済まなかつたなう。もう安心するがいゝ。これで何事もないのだ。」

 父は、客が帰つた後で、瑠璃子の肩に手をかけながら慰め顔にさう云つた。

 が、瑠璃子の心は、怏々として楽しまなかつた。

『お父様! あなたは、あの大金を何うして才覚なさつたのです。』

 さう云ふ不安な、不快な、疑ひが咽喉まで出かゝるのを、瑠璃子は、やつと抑へ付けた。



ユーヂット



 一家の危機は過ぎた。六月は暮れて、七月は来た。が、父の手文庫の中に奇蹟のやうに見出された、三万円以上の、巨額な紙幣に対する、瑠璃子の心の新しい不安は、日の経つに連れても、容易には薄れて行かなかつた。

 七月もなかばになつた。庭先に敷き詰めた、白い砂利の上には、瑠璃子の好きな松葉牡丹が、咲き始めた。真紅や、白や、琥珀のやうな黄や、いろ〳〵変つた色の、少女のやうな優しい花の姿が、荒れた庭園の夏を彩る唯一の色彩だつた。

 荘田の、思ひ出すだけでも、いきどほろしい面影も、だん〳〵思ひ出す回数が、少くなつた。鷲鼻の男の顔などは、もう何時の間にか、忘れてしまつた。凡てが、一場の悪夢のやうに、その厭な苦い後感も何時しか消えて行くのではないかと思はれた。

 が、それは瑠璃子の空しい思違おもひちがひだつた。悪魔は、その最後の毒矢を、もう既に放つてゐたのだつた。

 七月の末だつた。父は、突然警視総監のT氏から、急用があると云つて、会見を申し込まれた。父は、T氏とは公開の席で、二三度顔を合せただけで、私交のある間ではなかつた。殊に、父は政府当局からは常に、白眼を以て見られてゐたのだから。

「何の用事だらう?」

 父は、一寸不審さうに首を傾けた。警視総監と云つたやうな言葉だけでも、瑠璃子には妙に不安の種だつた。

 が、父は何か考へ当る事があつたのだらう、割合気軽に出かけて行つた。が、掻き乱された瑠璃子の胸は、父の車を見送つた後も、暫らくは静まらなかつた。

 父は、一時間も経たぬ間に帰つて来た。瑠璃子は、ホツと安心して、いそ〳〵と玄関に出迎へた。

 が、父の顔を一目見たとき、彼女はハツと立竦んでしまつた。容易ならぬ大事が、父の身辺に起つたことが、直ぐそれと分つた。父の顔は、土のやうに暗く蒼ざめてゐた。血の色が少しもないと云つてよかつた。眼だけは、平素のやうに爛々と、光つてゐたが、その光り方は、狂人の眼のやうに、物凄く而も、ドロンとして力がなかつた。

「お帰りなさいまし。」と、云ふ瑠璃子の言葉も、しはがれたやうに、咽喉にからんでしまつた。瑠璃子が、父の顔を見上げると、父は子に顔を見られるのが、恥しさうに、コソ〳〵と二階へ上つて行かうとした。

 父の狼狽したやうな、血迷つたやうな姿を見ると、瑠璃子の胸は、暗い憂慮で一杯になつてしまつた。彼女は、父を慰めよう、訳を訊かうと思ひながら、オヅ〳〵父の後から、いて行つた。

 が、父は自分の居間へ入ると、後から随いて行つた瑠璃子を振り返りながら云つた。

「瑠璃さん! どうか、お父様を、暫らく一人にして置いて呉れ!」

 父の言葉は、云ひ付けと云ふよりも哀願だつた。父としての力も、権威もなかつた。

 それにふと気が付くと、さう云つた刹那、父の二つの眼には、抑へかねた涙が、ほた〳〵と湧き出してゐるのだつた。

 父が涙を流すのを見たのは、彼女が生れて十八になる今日まで、父が母の死床に、最後の言葉をかけた時、たつた一度だつた。

 瑠璃子は、父にさう云はれると、止むなく自分の部屋に帰つたが、一人自分の部屋にゐると、墨のやうな不安が、胸の中を一杯に塗り潰してしまふのだつた。

 夕食の案内をすると、父は、『喰べたくない』と云つたまゝ、午後四時から、夜の十時頃まで、カタと云ふ物音一つさせなかつた。

 十時が来ると、寝室へ移るのが、例だつた。瑠璃子は、十時が鳴ると父の部屋へ上つて行つた。そして、オヅ〳〵ドアを開けながら云つた。

「もう、十時でございます。お休み遊ばしませ。」黙然としてゐた父は、手を拱ねいたまゝ、振向きもしないで答へた。

「俺は、もう少し起きてゐるから、瑠璃子さんは先きへお寝なさい!」

 さう云はれると、瑠璃子は、いよ〳〵不安になつて来た。寝室へ退くことなどは愚か、父の部屋を遠く離れることさへが、心配で堪らなくなつて来た。瑠璃子は、階段を中途まで降りかけたが、烈しい胸騒ぎがして、何うしても足が、進まなかつた。彼女は、足音を忍ばせながら、そつと、引き返した。彼女は、灯もない廊下の壁に、寄り添ひながら立つてゐた。父が、寝室へ入るまでは、何うにも父の傍を離れられないやうに思つた。



 二十分経ち三十分経つても、父は寝室へ行くやうな様子を見せなかつた。そればかりではなく、部屋の中からは、身動きをするやうな物音一つ聞えて来なかつた。瑠璃子も、息を凝しながら、ずつとほの暗い廊下のやみに立つてゐた。一時間余りも、立ち尽したけれども、疲労も眠気も少しも感じなかつた。それほど、彼女の神経は、異常に緊張してゐるのだつた。ぢぢと鳴く庭前の、虫の声さへ手に取るやうに聞えて来た。

 十二時を打つ時計の音が、階下の闇から聞えて来ても、父は部屋から出て来る様子はなかつた。

 夜が、深くなつて行くのと一緒に、瑠璃子の不安も、だん〳〵深くなつて行つた。十二時を打つのを聞くと、もうぢつと、廊下で待つてゐられないほど、彼女の心は不安な動揺に苛まれた。彼女は、無理にも父を寝させようと決心した。云ひ争つてでも、父を寝室へ連れて行かうと決心した。彼女が、さう決心して、ドアの白い瀬戸物の取手に、手を触れたときだつた。何時もは、訳もなくグルリと廻転する取手が、ガチリと音を立てたまゝ、彼女の手に逆ふやうにビクリともしなかつた。

内部うちから鍵をかけたのだ!』

 さう思つた瞬間に、瑠璃子は鉄槌で叩かれたやうに、激しい衝動ショックを受けた。気味の悪い悪寒が、全身を水のやうに流れた。

「お父様!」彼女は、我を忘れて叫んだ。その声は、悲鳴に近い声だつた。が、瑠璃子が、さう声をかけた瞬間、今迄しづかであつた父が、俄に立ち上つて、何かをしてゐるらしい様子が、アリ〳〵と感ぜられた。

「お父様! お開けなすつて下さい! お父様!」

 瑠璃子が、続けざまに、呼びかけても、父は返事をしなかつた。父が、何とも返事をしないことが彼女の心を、スツカリ動顛させてしまつた。恐ろしい不安が、彼女の胸に、充ち溢れた。彼女は、ドアを力一杯押した。その細い、華奢な両腕が、折れるばかりに打ち叩いた。

「お父様! お父様! お開けなすつて下さい!」

 彼女の声は、狂女のそれのやうに、物凄かつた。魔物に、その可憐な弟を奪はれて、鉄のドアの前で、狂乱するタンタヂールの姉のやうに、命掛の声を振搾ふりしぼつた。

「お父様! 何うして茲をお閉めになるのです。茲をお閉めになつて何う遊ばさうとなさるのです。お開け下さい! お開け下さい。」

 が、父は何とも返事をしなかつた。父が返事をしない事に依つて、瑠璃子は、目が眩むほど恐ろしい不安に打たれた。彼女は、ふと気が付いて、窓から入らうと、いなづまのやうに、ヴェランダへ走つて出た。が、ヴェランダに面した窓には、丈夫な鎧戸が掩はれてゐた。彼女は、死物狂ひになつて、再びドアの所へ帰つて来た。そして、必死に、そのかよわいしなやかな身体を、思ひ切りドアに投げ付けて見た。が、ドアは無慈悲に、傲然と彼女の身体を突き返した。

 彼女は、血を吐かんばかりに叫んだ。

「お父様! なぜ、開けて下さらないのです。何う遊ばさうと云ふのです。此瑠璃を捨てゝ置いて何う遊ばさうと云ふのです。万一の事をなさいますと、瑠璃も生きてゐないつもりでございますよ。お父様! お恨みでございます。どんな事情がございませうとも、私に一応話して下さいましても、およろしいぢやございませんか。お父様の外に、誰一人頼る者もない瑠璃ではございませんか。お開け下さいませ。兎に角、お開け下さいませ。万一の事でもなさいますと、瑠璃はお父様をお恨みいたしますよ。」

 狂つたやうに、ドアを掻き、打ち、押し、叩いた後、彼女はドアに、顔を当てたまゝよゝと泣き崩れた。

 その悲壮な泣き声が、古い洋館の夜更の暗を物凄く顫はせるのだつた。



 よゝと泣き崩れた瑠璃子は、再び自分自身を凜々しく奮ひ起して、女々しく泣き崩れてゐるべき時ではないと思つた。彼女は、最後の力、その繊細な身体にあるけの力を、両方の腕にこめて、砕けよ裂けよとばかりに、堅い、鉄のやうに堅いドアを乱打した後、身体全体を、烈しい音を立てゝ、それに向つて、打ち付けた。その時に、何かの奇蹟が起つたやうに、今迄はガタリとも動かなかつたドアが軽々と音もなく口を開いた。はづみを喰つた彼女の身体からだは、つゝと一間ばかりも流れて、危く倒れようとした。その時、父の老いてはゐるけれども、尚力強い双腕が、彼女の身体を力強く支へたのである。

「お父様!」と、上ずツた言葉が、彼女の唇を洩れると共に、彼女は暫らくは失神したやうに、父のふところに顔を埋めたまゝ烈しい動悸を整へようと、苦しさにあへいでゐた。

 気が付いて見ると、父の顔は涙で一杯だつた。テーブルの上には、遺書かきおきらしく思はれる書状が、数通重ねられてゐる。

「瑠璃さん! あはれんでお呉れ! お父さんは死に損つてしまつたのだ! 死ぬことさへ出来ないやうな臆病者になつてしまつたのだ! お前の声を聞くと、私の決心が訳もなく崩されてしまつたのだ! お前に恨まれると思ふと、お父様は死ぬことさへ出来ないのだ。」

 父は、瑠璃子の昂奮が、漸く静まりかけるのを見ると、呟くやうに語り始めた。

「まあ、何をおつしやるのでございます、死ぬなどと。まあ何を仰しやるのでございます。一体何うしたと云つて、そんな事を仰しやるのでございます。」

「あゝ恥しい。それを訊いて呉れるな! わしはお前にも顔向けが出来ないのだ! 彼奴あいつの恐ろしい罠に、手もなくかゝつたのだ。あんな卑しい人間のかけた罠に、狐か狸かのやうに、手もなくかゝつたのだ。恥しい! 自分で自分が厭になる!」

 父は、座にも堪へないやうに、身悶えして口惜しがつた。握つてゐる拳がブル〳〵と顫へた。

「彼奴とおつしやりますと、やつぱり荘田でございますか。荘田が、何をいたしましたのでございますか。」

 瑠璃子も烈しい昂奮に、眼の色を変へながら、父に詰め寄つて訊いた。

「今から考へると、見え透いた罠だつたのだ。が、木下までが、わしを売つたかと思ふとわしは此の胸が張り裂けるやうになつて来るのだ!」

 父は、木下が眼前めのまえにでもゐるやうに、前方を、きつと睨みながら、声はわな〳〵と顫へた。

「へえ! あの木下が、あの木下が。」と、瑠璃子も暫らくは茫然となつた。

かねは、人の心を腐らすものだ。彼奴までが、十何年と云ふ長い間、目をかけて使つてやつた彼奴迄が、金のためにわしを売つたのだ。金のために、十数年来の旧知を捨てゝ、敵の犬になつたのだ。それを思ふと、わしは坐つても立つてもをられないのだ!」

「木下が、うしたと云ふのでございます。」

 瑠璃子も、父の激昂に誘はれて桜色に充血した美しい顔を、極度に緊張させながら、問ひ詰めた。

「此間、彼奴が持つて来た軸物を、何だと思ふ、あれが、わしを陥れる罠だつたのだ。あれは一体誰のものだと思ふ。友達のものだと云ふ、その友達は誰だつたと思ふ。」

 父は、眼を熱病患者のそれのやうに光らせながら、ぢつと瑠璃子を見下した。

「あれは誰のものでもない、あの荘田のものなのだ。荘田のものを、空々しくわしの所へ持つて来たのだ。」

「何の為でございましたらう。何だつてそんなことを致したのでございませう。でも、お父様はあの晩、直ぐお返しになつたではございませんか。」

 瑠璃子が、さう云ふと父の顔は、見る〳〵曇つてしまつた。彼は、崩れるやうに後の腕椅子に身を落した。

「瑠璃さん! 許しておくれ! 罠をかける者も卑しい。が、それにかゝる者もやつぱり卑しかつたのだ。」

 父は、さう云ふと肉親の娘の視線をも避けるやうに、おもてを伏せた。



 暫らくは、強い緊張の裡に、父も子も黙つてゐた。が、父はその緊張に堪へられないやうに、おもてを俯けたまゝ、呟くやうに云つた。

「瑠璃さん! お前にスツカリ云つてしまはう。わしはな、浅墓にも、相手の罠にかゝつて飛んでもないことをしてしまつたのだ。あの木下の奴! 彼奴迄が、荘田の犬になつてゐようとは夢にも悟らなかつたのだ。お前に云ふのも恥しいが、わしは木下が、あの軸物を預けて行つたとき、フラ〳〵と魔がさしたのだ。一月でも二月でも何時まででも預けて置くと云ふ、此方こつちが通知しない中は、取りに来ないと云ふ。わしは、さう聴いたときに、此の一軸で一時の窮境を逃れようと思つたのだ。素晴らしい逸品だ、殊にわしの手から持つて行けば、三万や五万は、直ぐ融通が出来ると思つたのだ。果して融通は出来た。が、それは罠の中の餌に、わしが喰ひ付いたのと、丁度同じだつたのだ。彼奴は、わしを散々かつゑさした揚句、わしの旧知を買収して、わしに罠をかけたのだ。飢ゑてゐたわしは、不覚にも罠の中の肉に喰ひ付いたのだ。罠をかける奴の卑しさは、論外だが、かゝつたわしの卑しさも笑つて呉れ。三十年の清節も、清貧もあつたものではない。」

 父は、のたうつやうに、椅子の中で、身を悶えた。れを聞いてゐる瑠璃子も、身体中が、猛火の中に入つたやうに、烈しい憤怒のために燃え狂ふのを感じた。

「それで、それで、何うなつたと云ふのでございます。」

 彼女は、身を顫はしながら訊いた。卓の上にかけてゐる白い蝋のやうな手も、烈しい顫へを帯びてゐた。

「あの軸物の本当の所有者は荘田なのだ。彼奴は、わしに対して横領の告訴を出してゐるのだ。」

 父は吐くやうに云つた。蒼白い頬が烈しく痙攣した。

「そんな事が罪になるのでございますか。」

 瑠璃子の眼も血走つてしまつた。

「なるのだ! 逆に取つて、逆に出るのだから、堪らないのだ。預つてゐる他人の品物は、売つても質入してもいけないのだ。」

「でも、そんなことは、世間に幾何いくらもあるではございませんか。」

「さうだ! そんなことは幾何でもある、わしもさう思つてやつたのだ。が、向うでははじめから謀つてやつた仕事だ。わしが少しでも、つまづくのを待つてゐたのだ。蹉けば後から飛び付かうと待つてゐたのだ。」

 瑠璃子の胸は、荘田に対する恐ろしいいかりで、火を発するばかりであつた。

「人非人! 人非人奴! どれほどまで執念しふね妾達わたしたちを、苦しめるのでございませう。あゝ口惜しい! 口惜しい!」

 彼女は、平生のたしなみも忘れたやうに、身を悶えて、口惜しがつた。

「お前が、さう思ふのは無理はない。お父様だつて、昔であつたら、そのまゝにはして置かないのだが。」

 父の顔はます〳〵凄愴な色を帯びてゐた。

「あゝ、男でしたら、男に生れてゐましたら。残念でございます。」

 さう云ひながら、瑠璃子は卓の上に、泣き伏した。

 何処かで、一時を打つ音がした、騒がしい都の夏の夜も、静寂に更け切つて、遠くから響いて来る電車の音さへ、絶えてしまつた。瑠璃子の泣き声が絶えると、深夜の静けさが、しん〳〵と迫つて来た。

「それで、その告訴はうなるのでございますか。まさか取上げにはなりませんでせうね。」

 瑠璃子は泣き顔を擡げながら、心配さうに訊いた。

 涙に洗はれた顔は、一種の光沢を帯びて、凄艶な美しさに輝いてゐるのであつた。



「さあ! 其処なのだ! 今日警視総監が、個人としてわしに会見を求めたのは、その問題なのだ。総監が云ふのには、この位なことで、貴方あなたを社会的に葬つてしまふことは、何とも遺憾なことなので告訴を取り下げるやうに懇々云つて見たが、頑として聴かない。そして唐沢氏本人がやつて来て、手を突いて謝まるならば告訴を取り下げようと云ふのだ。何うも先方では貴方あなたに対して何か意趣を含んで居るらしい。貴方も快くはあるまいが、此際先方に詫を入れて、内済にして貰つたら何うかと云ふのだ。貴方もあんな男に詫びるのは、不愉快だらうが、然し、貴方の社会的地位や名誉には換へられないから、此際思ひ切つて謝罪して見たら何うかと云つて呉れるのだ。先方が告訴を取り下げさへすれば、検事局では微罪として不起訴にしようと云つてゐると云ふのだ。」

 父は低くうめくやうに云つて来たが、茲まで来ると急に烈しい調子に変りながら、

「だが、瑠璃子考へておくれ。あんな男に、あんな卑しい人間に、謝罪はおろか、頭一つ下げることさへ、わしに取つてどんな恥辱であるか。わしは、それよりも寧ろ死を選みたいのだ。然し謝罪しないとなると、何うしても起訴を免れないのだ。起訴されると、お前此罪は破廉恥罪なのだ! 爵位も返上を命ぜられるばかりでなく、俺の社会的位置は、滅茶苦茶だ! あれ見い! 貴族院第一の硬骨と云はれた唐沢が、あのザマだと、世間から嘲笑されることを考へておくれ。死以上の恥辱だ。何の道を選んでも、死ぬより以上の恥辱なのだ。瑠璃子、わしが死なうと決心した心の裡を、お前は察して呉れるだらう。」

 瑠璃子は、父の苦しい告白を、石像のやうに黙つて聴いてゐた。火のやうに熱した身体中の血が今は却つて、氷のやうに冷たくなつてゐた。

わしが死ねば、彼奴の迫害の手も緩むだらうし、それに依つて、汚名を流さずして済む。つまり、わしは悪魔の手に買ひ取られたわしの社会的名誉を、血を以て買ひ戻さうと思つたのだ。お前のことを、思はないではない。父の外には頼る者もないお前のことを思はないではない。が、破廉恥の罪人になることを考へると、泥棒と同じ汚名を被ることを考へると、何も考へてをられなくなつたのだ。」

 父は、さう云ひながら、心の裡の苦しさに堪へられないやうに、頻りに身を悶えた。

「が、ドアの外でお前が突然叫び出した声を聞くと、刀を持つてゐたわしの手が、しびれてしまつたやうに、何うしてもわしの思ひどほりに、動かないのだ。未練だ! 未練だ! と、心で叱つても、手がうしても云ふことを聴かないのだ。わしは、今初めてお前に対する父としての愛が、名誉心や政治上の野心などよりも、もつと大きいことが分つたのだ。わしは、社会上の位置を失つても、お前の為に生き延びようと思つたのだ。破廉恥罪の名をても、お前の父として、生き延びようと思つたのだ。名誉や位置などは、なくなつても、お前さへあれば、まだ生き甲斐があると云ふことが、分つたのだ。いや名誉や野心のために、生きるのよりも、自分の子供のために、生きる方が人間として、どれほど立派であるかと云ふことが、今やつと分つたのだ。わしは、今光一を追出したことを後悔する。親の野心のために、子を犠牲にしようとしたことを後悔する。瑠璃子! お前のために、どんな汚名を忍んでも生き延びるのだ。お前も、罪人のお父様を見捨てないで、いつまでもわしの傍を離れて呉れるな。」

 父の顔は今、子に対する愛に燃えて、美しく輝いてゐた。彼は、子に対する愛に依つて、その苦しみの裡から、その罪の裡から、立派に救はれようとしてゐるのだつた。



 さうだ! 子の心は、凄じい憤怒と復讐の一念とに、湧き立つた。父が、子に対する愛のために、敵の与へた恥辱を忍ばうとするのに拘はらず、子の心は敵に対する反抗と憎悪とのために、狂つてしまつた。

「お父様、それでいゝのでございませうか。お父様! 金さへあれば悪人がお父様のやうな方を苦しめてもいゝのでございませうか。而も、国の法律までが、そんな悪人の味方をするなどと云ふ、そんなことが、許されることでございませうか。」

 瑠璃子は、平生のおとなしい、慎しやかな彼女とは、全く別人であるやうに、熱狂してゐた。父は子の激昂をなだめるやうに、「だが瑠璃子! 悪人がどんな卑しい手段を講じてもお父様さへ、しつかりしてゐればよかつたのだ。国の法律に触れたのはやつぱりわしの不心得だつたのだ。」

「いゝえ! わたくしは、さうは思ひません。」瑠璃子は、昂然として父の言葉を遮ぎつた。「荘田のやりましたやうな奸計を廻らしたならば、どんな人間をだつて、罪に陥すことは容易だと思ひます。お父様が信任していらつしやる木下をまで、買収してお父様を罠に陥し入れるなど、悪魔さへ恥ぢるやうな卑怯な事を致すのでございますもの。もし、国に本当の法律がございましたら、荘田こそ厳罰に処せらるべきものだと思ひます。荘田のやうな悪人の道具になるやうな法律を、わたくしは心から呪ひたいと思ひます。」

 まなじりが、裂けると云つたらいゝのだらう。美しい顔に、凄じい殺気が迸つた。父も、子の烈しい気性に、気圧されたやうに、黙々として聴いてゐた。

「お父様、あんな男に起訴されて、泣寝入りになさるやうな、腑甲斐ないことをして下さいますな。飽くまでも戦つて、相手の悪意を懲しめてやつて下さいませ。あゝわたくしが男でございましたら、……本当に男でございましたら……」

 瑠璃子は、熱に浮かされたやうに、昂奮して叫び続けた。

「が、瑠璃子! 法律と云ふものは人間の行為の形だけを、律するものなのだ。荘田が、悪魔のやうな卑しい悪事を働いても、その形が法律に触れて居なければ、大手を振つて歩けるのだ。俺は切羽詰つて一寸逃れに、知人の品物を質入れした。世間に有り触れたことで、事情止むを得なかつたのだ。が、わしの行為の形は、ちやんと法律に触れてゐるのだ。法律が罰するものは、荘田の恐ろしい心ではなくして、わしの一寸した心得ちがひの行為なのだ。行為の形なのだ!」

し、法律がそんなに、本当の正義に依つて、動かないものでしたら、わたくしは法律に依らうとは思ひません。わたくしの力で荘田を罰してやります。わたくしの力で、荘田に思ひ知らせてやります。」

 気が狂つたのではないかと思ふほど、瑠璃子の言葉は烈しくなつた。父は呆気に取られたやうに、子の口もとを見詰めてゐた。

「金の力が、万能でないと云ふことをあの男に知らせてやらねばなりません。金の力で動かないものが、世の中に在ることを知らせてやらねばなりません。このまゝで、お父様が、有罪になるやうな事がございましたら、荘田は何と思ふか分りません。世の中には、法律の力以上に、本当の正義があることを、あの男に思ひ知らせてやらねばなりません。金の力などは、本当の正義の前には土塊つちくれにも等しいことを、あの男に思ひ知らせてやりたいと思ひます。」

 さう云ひながら、瑠璃子は父の顔をぢつと見詰めてゐたが、思ひ切つたやうに云つた。

「お父様! お願ひでございます。瑠璃子を、無い者と諦めて、今後何を致しませうと、わたくしの勝手に委せて下さいませんか。」

 瑠璃子の顔に、鉄のやうに堅い決心が閃いた。父は、瑠璃子の真意を測りかねて、茫然と愛児の顔を見詰めてゐた。

「お父様? わたくしは、ユーヂットにならうと思ふのでございます。」



「ユーヂット?」老いた父には、娘の云つた言葉の意味が分らなかつた。

「左様でございます。わたくしはユーヂットにならうと思ふのでございます。ユーヂットと申しますのは猶太ユダヤの美しい娘の名でございます。」

「その娘にならうと云ふのは、どう云ふ意味なのだ!」父は、激しい興奮から覚めて、やゝ落着いた口調になつてゐた。

「ユーヂットにならうと申しますのは、わたくしの方から進んで、あの荘田勝平の妻にならうと云ふことでございます。」

 瑠璃子の言葉は、樫の如く堅く氷の如く冷やかであつた。

「えーツ。」と叫んだまゝ、父は雷火に打たれた如く茫然となつてしまつた。

「お父様! お願ひでございます。どうか、わたくしをないものと諦めて、わたくしの思ふまゝに、させて下さいませ!」

 瑠璃子は、何時の間にか再び熱狂し始めた。

「馬鹿なツ!」父は、烈しい、然し慈愛の籠つた言葉で叱責した。

「馬鹿なことを考へてはいけない! 親の難儀を救ふために子が犠牲になる。親の難儀を救ふために娘が、身売をする。そんな道徳は、古い昔の、封建時代の道徳ではないか。お前が、そんな馬鹿なことを考へる。聡明なお前が、そんな馬鹿なことを考へる。お父様とうさんを救はうとして、お前があんな豚のやうな男に身を委す。考へるだけでも汚らはしいことだ! お前を犠牲にして、自分の難儀を助からうなどと、そんなさもしいことを考へる父だと思ふのか。わしは、自分の名誉や位置を守るために、お前の指一本髪一筋も、犠牲にしようとは思はない。そんな馬鹿々々しいことを考へるとは、平生のお前にも似合はないぢやないか。」

 父は、思ひの外に、激昂して、瑠璃子をたしなめるやうに云つた。が、瑠璃子は、ビクともしなかつた。

「お父様! お考へ違ひをなさつては、困ります。お父様の身代りにならうなどと、そんな消極的な動機から、申上げてゐるのではありません。わたくしは、法律の網を潜るばかりでなく、法律を道具に使つて、善人を陥れようとする悪魔を、法律に代つて、罰してやらうと思ふのです。一家が受けた迫害に、復讐するばかりでなく、社会のために、人間全体のために、法律が罰し得ない悪魔を罰してやらうと思ふのです。お父様の身代りにならうと云ふやうな、そんな小さい考へばかりではありません。」

 瑠璃子は、昂然と現代の烈女と云つてもいゝやうに、美しく勇ましかつた。

「お前の動機は、それでもいゝ。だが、あの男と結婚することが、うしてあの男を罰することになるのだ。何うして、一家が受けた迫害を、復讐することになるのだ。」

「結婚は手段です。あの男に対する刑罰と復讐とが、それに続くのです。」瑠璃子は凜然と火花を発するやうに云つた。

「お父様、昔猶太ユダヤのベトウリヤと云ふ都市が、ホロフェルネスと云ふ恐ろしい敵の猛将に、囲まれた時がありました。ホロフェルネスは、獅子をてうちにするやうな猛将でした。ベトウリヤの運命は迫りました。破壊と虐殺とが、目前に在りました。その時に、美しい少女が、ベトウリヤ第一の美しい少女が、侍女をたつた一人連れた切りで、羅衣うすものを纏つた美しい姿を、虎のやうなホロフェルネスの陣営に運んだのです。そしてこの少女の、容色に魅せられた敵将を、閨中でたつた一突きに刺し殺したのです。美しい少女は、自分の貞操を犠牲にして、幾万の同胞の命と貞操とを救つたのです。その少女の名こそ、今申し上げたユーヂットなのでございます。」



 瑠璃子の心は、勇ましいロマンチックな火炎で包まれてゐた。牝獅子の乳で育つたと云ふ野蛮人の猛将を、細いかひなで刺し殺した猶太ユダヤ少女をとめの美しい姿が、勇ましい面影が、蝕画エッチングのやうに、彼女の心にこびりついて離れなかつた。少女に仮装して、敵将を倒した日本武尊よりも、本当の女性であるだけに、それけ勇ましい。命よりも大切な、貞操を犠牲にしてゐるだけに、限りなく悲壮であつた。

わたくしはユーヂットのやうに、戦つて見たいと思ふのです。」

 二千有余年も昔の、猶太ユダヤの少女の魂が、大正の日本に、甦つて来たやうに、瑠璃子は炎の如く熱狂した。

 が、父は冷静だつた。彼は、熱狂し過ぎてゐる娘を、なだめるやうに、言葉静かに説き諭した。

「瑠璃子! お前のやうに、さう熱しては困る。女の一番大事な貞操を、犠牲にするなどと、そんな軽率なことを考へては困る。数万の人の命に代るやうな、大事な場合は、大切な操を犠牲にすることも、立派な正しいことに違ひない。が、あんな獣のやうな卑しい男を、懲すために、お前の一身を犠牲にしては、黄金を土塊つちくれと交換するほど、馬鹿々々しいことぢやないか。」

「だが、お父様!」と、瑠璃子は直ぐ抗弁した。

「相手は、お父様のおつしやる通り、取るに足りない男には違ひありません。が、現在の社会組織では人格がどんなに下劣でも、金さへあれば、帝王のやうに強いのです。お父様は、相手を『獣のやうに卑しい男』とお蔑すみになつても、その卑しい男が、金の力で、お父様のやうな方に、こんな迫害を加へ得るのですもの。わたくしが、戦はなければならぬ相手は荘田勝平と云ふ個人ではありません。荘田勝平と云ふ人間の姿で、現れた現代の社会組織の悪です。金の力で、どんなことでも出来るやうな不正な不当な社会全体です。金さへあれば、なんでも出来ると云つたやうな、その思想です。観念です。わたくしは、それを破つて見たいと思ふのです。」

 瑠璃子は、処女らしい羞恥心を、興奮のために、全く振り捨てゝしまつたやうに、叫びつゞけた。

 父は、子の烈しい勢を、持ち扱つたやうに、黙つて聞いてゐた。

「それに、お父様! ユーヂットは、操を犠牲にしましたが、それは相手が、勇猛無比なホロフェルネス、操を捨てゝかからなければ、油断をしなかつたからです。わたくしは、妻と云ふ名前ばかりで、相手を懲し得る自信があります。何うかわたくしを無いものと、お諦めになつて、三月か半年かの間、荘田の許へやつて下さいまし。匕首あひくちで相手を刺し殺す代りに、精神的にあの男を滅ぼして御覧に入れますから。」

 其処には、もう優しい処女の姿はなかつた。相手の卑怯な執念深い迫害のために、到頭最後の堪忍を、し尽して、反抗の刃を取つて立ち上がつた彼女の姿は、復讐の女神その物の姿のやうに美しく凄愴だつた。

「瑠璃さん! あなたは、今夜はうかしてゐる。お父様とうさんも、ゆつくり考へよう。あなたも、ゆつくりお考へなさい。あなたの考へは、余り突飛だ。そんな馬鹿なことが今時……」

「でも、お父様!」瑠璃子は少しも屈しなかつた。「わたくしは、毒に報いるのには毒を以てしたいと思ひます。陰謀に報いるには、陰謀を以てしたいと思ひます。相手が悪魔でも恥ぢるやうな陰謀をたくましくするのですもの。此方こつちだつて、突飛な非常手段で、懲しめてやる必要があると思ひます。現代の社会では万能な金の力に対抗するのには、非常手段に出るより外はありません。わたくしは、自分の力を信じてゐるのでございます。あんな男一人滅ぼすのには余る位の力を、持つてゐるやうに思ひます。お父様! どうかわたくしを信じて下さいまし。瑠璃子は、一時の興奮に駆られて無謀なことを致すのではありません。ちやんと成算があるのでございます。」

 瑠璃子の興奮は何処までも、続くのだつた。父は黙々として、何も答へなくなつた。父と娘との必死な問答の裡に、幾時間も経つたのであらう、明け易い夏の夜は、ほの〴〵と白みかけて居た。



美奈子



「はゝゝゝ、唐沢の奴、面喰めんくらつてゐるだらう。はゝゝゝ。」

 荘田は、籐製の腕椅子の裡で、身体をのけ反るやうにしながら、哄笑した。

「どうも、貴方あなたも人間が悪くていけない。あんないゝ方を苛めるなんて、うも甚だ宜しくない。貴方が、持つて行けと云つたから、つい持つて行つたものゝ、どうも寝覚が悪くつていけない。私は随分唐沢さんにお世話になつたのですからね。」

 木下は、さすがに烈しい良心の苛責に堪へられないやうに、苦しげに云つた。

「あゝいゝよ。分つてゐるよ。君の苦衷も察してゐるよ。わしだつて、何も唐沢が憎くつて、やるのぢやあないんだ。つい、意地でね。妙な意地でね。一寸した意地でやり始めたのだが、やり始めるとわしの性質でね、徹底的にやり徹さないと気が済まないのだ。親を苛める気は、少しもないのだ。あの美しい娘に対する色恋からでもないんだ。はゝゝゝゝ、誤解して呉れちや困るよ。はゝゝゝゝゝ。」

 荘田は、その赤い大きい顔の相好を崩しながら、思惑が成功した投機師のやうに、得意な哄笑を笑ひ続けた。

「どうだ! 俺が云つたとほりだらう。君は、高潔な人格の唐沢さんは、決してそんな事はしないとか何とか云つて、反対したぢやないか。何うだ! 人間は、金に窮すればどんなことでもするだらう。金に依つて、保護されてゐない人格などは、要するに当にならないのだ。清廉潔白など云ふことも、本当に経済上の保証があつて出来ることだよ。貧乏人の清廉潔白なんか、当になるものか。はゝゝゝゝゝ。」

 此の世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることの無いやうに、勝平は得意だつた。

「だが、私は気になります。私は唐沢さんが自殺しやしないかと思つてゐるのです。何うもやりさうですよ。屹度きつとやりますよ。」木下は、心からさう信じてゐるやうに、眉をひそめながら云つた。

「うむ! 自殺かね。」さすがに荘田も、一寸誘はれて眉をひそめたが、直ぐ傲岸な笑ひで打ち消した。

「はゝゝゝ、大丈夫だよ。人間はさう易々とは、死なないよ。いや待つてゐたまへ。今に、泣きを入れに来るよ。なに、先方が泣きを入れさへすれば、さうはいじめないよ。もと〳〵、一寸した意地からやつてゐることだからね。」

「それでも、もしお嬢さんをよこすと云つたら御結婚になりますかね。」

「いや、それだがね、わしも考へたのだよ。いくら何だと言つても、二十五六も違ふのだらう。世間が五月蠅うるさいからね。只でさへ『成金! 成金!』と、いやなまなこで見られてゐるんだらう。それだのに、そんな不釣合な結婚でもすると、非難攻撃が、大変だからね。それで、わしが花婿になることは思ひ止まつたよ。倅の嫁にするのだ。倅の嫁にね。あれとなら、年だけは似合つてゐるからね。その事は先方へも云つて置いたよ。」

「御子息の嫁に!」

 さう云つたまゝ、木下は二の句が継げなかつた。荘田の息、勝彦と云ふその息は、二十はたちを二つ三つも越してゐながら、子供のやうにたわいもない白痴だつた。白痴に近い男だつた。さうだ! だけは似合つてゐる。が、瑠璃子の夫としては、何と云ふ不倫な、不似合な配偶だらう。金のために旧知を売つた木下にさへ、荘田の思ひ上つた暴虐が、不快に面憎く感ぜられた。

「なに、わしがあのお嬢さんと結婚する必要は、少しもないのだ。金の力が、あのお嬢さんを、左右してやればそれでいゝのだよ。金の力が、どんなに大きいかを、あのお嬢さんと、あゝさう〳〵、もう一人の人間とに、思ひ知らしてやればいいのだよ。」

 荘田は、何物も恐れないやうに、傲然と云ひ放つた。

 丁度、その時だつた。荘田の背後のドアが、ドン〳〵と、激しく打ち叩かれた。

「電報! 電報!」と、誰かゞ大声で叫んだ。



「電報! 電報!」

 ドアは、続け様に割れるやうに叩かれた。今迄、傲然と反り返つてゐた荘田は、急に悄気切つてしまつた。彼はテレ隠しに、苦笑しながら、

「おい! 勝彦! おい! よさないか、お客様がゐるのだぞ。おい! 勝彦!」

 客を憚つて、高い声も立てず、低い声で制しようとしたが、相手は聴かなかつた。

「電報! 電報!」強い力で、ドアは再び続けざまに、乱打された。

「まあ! お兄様! 何を遊ばすのです。さあ! 彼方あつちへ行らつしやい。」優しく制してゐる女の声が聞えた。

「電報だい! 電報だい! 本当に電報だよ、美奈さん。」男は抗議するやうに云つた。

「あら! 電報ぢやありません、お客様の御名刺ぢやありませんか、それなら早くお取次ぎ遊ばすのですよ。」

 さうした問答が、聞えたかと思ふと、ドアが音もなく開いて、十六──恐らく七にはなるまい少女が姿を現した。色の浅黒い、眸のいきいきとした可愛い少女だつた。彼女は、兄の恥を自分の身に背負つたやうに、顔を真赤にしてゐた。

「お父様! お客様でございます。」

 客に、丁寧に会釈をしてから、父に向つて名刺を差し出しながら、しとやかさうに云つた。傲岸な父の娘として、白痴の兄の妹として、彼女は狼に伍した羊のやうに、美しく、しとやかだつた。

「木下さん。これが娘です。」

 さう云つた荘田の顔には、娘自慢の得意な微笑が、アリ〳〵と見えた。が、彼の眼が、開かれたドアの所に立つて、キヨトンと室内を覗いてゐる長男の方へ転ずると、急にまた悄気てしまつた。

「あゝ美奈さん。兄さんを早う向うへ連れて行つてね。それから、杉野さんをお通しするやうに。」

 娘に、優しく云ひ付けると、客の方へ向きながら、

「御覧の通りの馬鹿ですからね。唐沢のお嬢さんのやうな立派な聡明な方に、来ていたゞいて、引き廻していたゞくのですね。はゝゝゝゝ。」

 馬鹿な長男が去ると、荘田は又以前のやうな得意な傲岸な態度に還つて行つた。

 其処へ、小間使に案内されて、入つて来たのは、杉野子爵だつた。

「やあ! 荘田さん! 懸賞金はやつぱり私のものですよ。到頭、先方で白旗しらはたを上げましたよ、はゝゝゝ。」

「白旗をね、なるほど。はゝゝゝゝ。」荘田は、凱旋の将軍のやうに哄笑した。

「案外脆かつたですね。」木下は傍から、合槌を打つた。

「それがね。令嬢が、案外脆かつたのですよ。お父様が、監獄へ行くかも知れないと聞いて、狼狽したらしいのです。父一人子一人の娘としては、無理はないとも思ふのです。私の所へ、今朝そつと手紙を寄越したのです。父に対する告訴を取り下げた上に、唐沢家に対する債権を放棄して呉れるのなら荘田家へ輿入れしてもいゝと云ふのです。」

「なるほど、うむ、なるほど。」

 荘田は、血の臭を嗅いだ食人鬼のやうに、満足さうな微笑を浮べながら、肯いた。

「ところが、令嬢に註文があるのです。荘田君! お欣びなさい! 私に対する懸賞金は倍増ばいましにする必要がありますよ、令嬢の註文がかうなのです。同じ荘田家へ嫁ぐのなら、息子さんよりも、やつぱりお父様のお嫁になりたい。男性的な実業家の夫人として、社交界に立つて見たいとかう云つてあるのです。手紙をお眼にかけてもいゝですが。」

 さう云ひながら、子爵はポケットから、瑠璃子の手紙を取り出した。丁度かたきから来た投降状でも出すやうに。



 凱旋の将軍が、敵の大将の首実検をでもするやうに、荘田は瑠璃子が杉野子爵宛に寄越した手紙を取り上げた。得意な、満ち足りたと云つたやうな、賤しい微笑が、その赤い顔一面に拡がつた。

「うむ! 成る程! 成る程!」

 舌鼓をでも打つやうに、一句々々を貪るやうに読み了ると、彼は腹を抱へんばかりに哄笑した。

「はゝゝゝゝ。強いやうでも、やつぱり女子おなごは弱いものぢや、はゝゝゝゝ。なにも、あのお嬢さんを嫁にしようなどとは、夢にも考へてゐなかつたが、かうなると一番若返るかな、はゝゝゝゝ。ぢや、杉野さん、どうかよろしくね。あの証文全部は、お嬢様に、結婚の進物として差しあげる。さうだ! 差し上げる期日は、結婚式の当日と云ふことにせう。それから、支度金は軽少だが、二万円差し上げよう。さう〳〵、貴君方に対するお礼もあつたけ。」

 王女のやうに、美しく気高い処女を、到頭征服し得たと云ふ欣びに、荘田は有頂天になつてゐた。彼は、呼鈴ベルを鳴らして女中を呼ぶと、

「お嬢さんに、さう云ふのだ。俺の手提金庫に小切手帳が入つてゐるから持つて来るやうに。」と命じた。

 良心を悪魔に、売り渡した木下と杉野子爵とは、自分達の良心の代価が、幾何いくらになるだらうかと銘々心の裡で、荘田の持つ筆の先に現れる数字を、貪慾に空想しながら、美奈子が小切手帳を持つて、入つて来るのを待つてゐた。

「十八の娘にしては、なか〳〵達筆だ! 文章も立派なものだ!」

 荘田は、尚飽かず瑠璃子の手紙に、魂を擾されてゐた。

 が、丁度その同じ瞬間に、瑠璃子の手紙に依つて、魂を擾されてゐたのは荘田勝平だけではなかつた。

 瑠璃子は、杉野子爵に宛てゝ、一通の手紙を書くのと同時に、その息子の杉野直也に対しても、一通の手紙を送つた。杉野子爵に対する手紙は、冷たい微笑と堅い鉄のやうな心とで書いた。直也に送つた手紙は、熱い涙と堅い鉄のやうな心とで書いた。

 荘田勝平が、一方の手紙を読んで、有頂天になつたと同じに、直也は他の一方の手紙を読んで、奈落に突落されたやうに思つた。


 父を恐ろしい恥辱より救ひ、唐沢一家を滅亡より救ふ道は、これより外にはないのでございます。……

 法律の力を悪用して、善人を苦しめる悪魔を懲しめる手段は、これより外にはないのでございます。わたくしの行動を奇嬌だとお笑ひ下さいますな。芝居気があるとお笑ひ下さいますな。現代に於ては、万能力を持つてゐる金に対抗する道は、これより外にはないのでございます。……名ばかりの妻、さうです、わたくしはありとあらゆる手段と謀計とで以て、わたくしの貞操をあの悪魔のためにけがされないやうに努力するつもりです。北海道の牧場では、よく牡牛とひぐまとが格闘するさうです。わたくしと荘田との戦ひもそれと同じです。牡牛が、羆の前足で、搏たれない裡に、その鉄のやうな角を、敵の脾腹へ突き通せば牡牛の勝利です、わたくしも、自分の操を汚されない裡に、立派にあの男を倒してやりたいと思ひます。

 わたくしの結婚は、愛の結婚でなくして、憎しみの結婚です。それに続く結婚生活は、絶えざる不断の格闘です。……

 が、どうかわたくしを信じて下さい。わたくしには自信があります。半年と経たない裡に精神的にあの男を殺してやる自信があります。

 直也様よ、わたくしのためにどうか、勝利をお祈り下さい。


 手紙は、尚続いた。



 わたくしは、勝利を確信してゐます。が、それは実質の勝利で、形から云へば、わたくしは金のために荘田に購はれる女奴隷と、等しいものかも知れません。わたくしが、自分の操を清浄に保ちながら、荘田を倒し得ても、社会的にはわたくしは、荘田の妻です。何人なんぴとわたくしの心も身体も処女であることを信じて呉れるでせう。わたくし貴君あなた丈には、それを信じて戴きたいと思ひます。が、わたくしにはそれを強ひる権利はありません。

 男性化マンリファンと言ふ言葉があります。わたくしの現在はそれです。わたくしは女性としての恋を捨て、優しさを捨て慎しやかさを捨てゝ、たゞ復讐と膺懲のために、狂奔する化物のやうな人間にならうとしてゐるのです。顧みると、自分ながら、浅ましく思はずにはゐられません。が、悪魔を倒すのには、悪魔のやうな心と謀計とが必要です。

 貴君を愛し、また貴君から愛されてゐた無垢な少女は、残酷な運命の悪戯から、凡ての女性らしさを、自分から捨ててしまふのです。凡ての女性らしさを、復讐を神に捧げてしまふのです。愛も恋も、慎しやかさもしとやかさも、その黒髪も白きはだへも。

 次ぎのことを申上げるのは、一番厭でございますが、荘田からの最初の申込みを取り継がれた方は、貴君のお父様です。従つて、求婚に対するわたくしの承諾も、順序として、貴君あなたのお父様に、取次いでいたゞかねばなりません。わたくしは、貴君に対する、この不快な恐ろしい手紙を書いた後に、貴君のお父様宛に、もう一つの、もつと不快な恐ろしい手紙を書かねばなりません。

 それを思ふと、わたくしの心が暗くなります。が、わたくしはあくまで強くなるのです。あゝ、悪魔よ! もつとわたくしの心を荒ませてお呉れ! わたくしの心から、最後の優しさと恥しさを奪つておくれ!


 一句一句鋭い匕首あひくちの切先で、抉られるやうに、読み了つた直也は最後の一章に来ると、鉄槌で横ざまに殴り付けられたやうな、恐ろしい打撃を受けた。

 最初は、縦令たとひどんな理由があるにしろ、自分を捨てゝ、荘田に嫁がうとする瑠璃子が恨めしかつた。心を喰ひ裂くやうな烈しい嫉妬を感じた。が、だん〳〵読んで行く裡に、唐沢家に対する荘田の迫害の原因が、荘田に対する自分の罵倒であつたことが、マザ〳〵と分つて来た。瑠璃子を唐沢家から奪はうとするのは、つまり自分の手から奪はうとするのだ。荘田が、自分に対する皮肉な恐ろしい復讐なのだ。意趣返しなのだ。瑠璃子は、復讐と膺懲の手段として、結婚すると云ふ。が、それを自分が漫然と見てゐられるだらうか。かよわい女性が、貞操の危険を冒してまで、戦つてゐる時に、第一の責任者たる自分が、茫然と見てゐられるだらうか。が、そんなことは兎に角直也には、自分の恋人が縦令たとひ操は許さないにしても、荘田と──豚のやうに不快な荘田と、形式的にでも夫と呼び妻と呼ぶことが、堪まらなかつた。瑠璃子は、飽くまでも、操を汚さないと云ふが、そんなことは、聡明ではあるにしろ、まだ年の若い彼女の夢想的ロマンチックな空想で、縦令たとひ彼女の決心が、どんなに堅からうとも、一旦結婚した以上、獣のやうに強い荘田の為に、ムザ〳〵と蹂み躙られてしまひはせぬか。どんなに強い精神でも、鉄のやうに強い腕には、敵せない時がある。瑠璃子の心が火のやうに烈しく、石のやうに堅くても、羅衣うすものにも堪へないやうな、その優しい肉体は、荘田の強い把握のために、押し潰されてしまひはせぬか。さう考へると、直也の心は、恐ろしい苦悶と焦燥のために、烈しく動乱した。が、それよりも、自分の父が自分の恋人を奪ふ悪魔の手下であることを知ると、彼は憤怒と恥辱とのために、逆上した。

 彼は瑠璃子の手紙を握りながら、父の部屋へかけ込んだ。父の姿は見えないで、女中が座敷を掃除してゐた。

「お父様は何うした。」

 彼は女中を叱咤するやうに云つた。

「今しがた、荘田様へ行らつしやいました。」

 瑠璃子の承諾の手紙を読むと、鬼の首でも取つたやうに、荘田の所へ馳け付けたのだと思ふと、直也の心は、恐ろしい憤怒のために燃え上つた。



 美奈子が、小切手帳を持つて来ると、荘田は、傍の小さいデスクの上にあつた金蒔絵の硯箱を取寄せて不器用な手付で墨を磨りながら、左の手で小切手帳を繰拡げた。

「はゝゝゝゝ、貴方あなたにも、お礼をうんと張り込むかな。」彼は、さう得々と哄笑しながら、最初の一葉に、金二万円也と、小学校の四五年生位の悪筆で、その癖溌剌と筆太に書いた。それは無論、支度料として、唐沢家へ送るものらしかつた。

 その次ぎの一葉を、木下も杉野も、爛々らん〳〵と眼を、ふくろふのやうに光らせて、見詰めてゐた。荘田は、無造作に壱万円也と書き入れると、その次ぎの一葉にも、同じ丈の金額を書き入れた。

うです。これで不足はないぢやらう。はゝゝゝゝ。」と、荘田は肩を揺がせながら笑つた。

 食事を与へられた犬のやうに、何の躊躇もなく、二人がその紙片に手を出さうとしてゐる時だつた。荘田の背後うしろドアが、軽く叩かれて、小間使が入つて来て、

「旦那様! あの杉野さんと云ふ方が、御面会です。」と、云つた。

「杉野!」と、荘田は首を傾げながら云つた。「杉野さんならこゝにいらつしやるぢやないか。」

「いゝえ! お若い方でございます。」

「若い方? いくつ位?」と、荘田は訊き返した。

「二十三四の方で、学生の服を着た方です。」

「うゝむ。」と、荘田は一寸考へ込んだが、ふと杉野子爵の方を振向きながら、

「杉野さん! 貴方の御子息ぢやないかね。」と、云つた。

「私の倅、私の倅がお宅へ伺ふことはない。尤も、私にでも用があるのかな。さうぢやありませんか。私に会ひたいと云ふのぢやありませんか。」

 子爵は小間使の方を振り向きながら云つた。小間使は首を振つた。

「いゝえ! 御主人にお目にかゝりたいとおつしやるのです。」

「あゝ分つた! 杉野さん! 貴君の御子息なら、僕の所へ来る理由が、大にあるのです。殊に今の場合、唐沢のお嬢さんが、私に屈服しようと云ふ今の場合、是非とも来なければならない方です。さうだ! 私も会ひたかつた。さうだ! 私も会ひたかつた! おい、お通しするのだ。主人もお待ちしてゐましたと云つてね。貴君方は、別室で待つていたゞくかね。いや、立会人があつた方が、結局いゝかな。さうだ! 早くお通しするのだ!」

 興奮した熊のやうに、荘田はテーブルに沿うて、二三歩づつ左右に歩きながら、叫んだ。

 杉野子爵には、荘田の云つた意味が、十分に判らなかつた。何の用事があつて、自分の息子が、荘田を尋ねて来るのか見当も立たなかつた。が、それは兎も角、自分が荘田から、邪しい金を受け取らうとする現場へ、肉親の子──しかも、その潔白な性格に対しては、親が三目も四目も置いてゐる子が──突然現れて来ることは、いかにも愧しいキマリの悪い事に違ひなかつた。彼は、顔には現はさなかつたが、心の裡では、可なり狼狽した。荘田が、早く気を利かして、小切手帳をしまつて呉れればいゝ、呉れるものは、早く呉れて、早く蔵つて呉れゝばいゝと、虫のいゝことを、考へてゐたけれど、荘田は妙に興奮してしまつて、小切手帳のことなどは、念頭にもないやうだつた。マザ〳〵と見えてゐる一万円也と云ふ金額が、杉野や木下等の罪悪を、歴々と語つてゐるやうに、子爵には心苦しかつた。

「一体、私の倅は何だつて、貴方をお尋ねするのです。前から御存じなのですか。何の用事があるでせう。」杉野子爵は、堪らなくなつて訊いた。

「いや、今に直ぐ判ります。やつぱり、今度の私の結婚に就てです。が、媒介の手数料コンミッションを貰ひに来るのでないことは、たしかですよ、はゝゝゝゝ。」

 と、荘田は腹を抱へるやうに哄笑した。その哄笑が終らない中に、彼の背後うしろドアが、静かに開かれて、その男性的な顔を、蒼白に緊張させてゐる、杉野直也が姿を現した。



 直也の姿を見ると、荘田の哄笑が、ピタリと中断した。相手の決死の形相が、傲岸な荘田の心にも鋭い刃物に触れたやうな、気味悪い感じを与へたのにちがひなかつた。が、彼はさり気なく、鷹揚に、徹頭徹尾勝利者であると云ふ自信で云つた。

「いやあ! 貴君あなたでしたか。いつぞやは大変失礼しました。さあ! 何うか此方こつちへお入り下さい! 丁度、貴君のお父様も来ていらつしやいますから。」

 外面うはべだけは可なり鄭重に、直也を引いた。直也は、その口を一文字にきしめたまゝ、黙々として一言も発しなかつた。彼は、父の方をなるべく見ないやうに──それは父に対する遠慮ではなくして、敬虔な基督キリスト教徒が異教徒と同席する時のやうな、憎悪と侮蔑とのために、なるべく父の方を見ないやうに、荘田の丁度向ひ側に卓を隔てゝ相対した。

「何う云ふ御用か、知りませんが、よくらつしやいまして。貴君があんなに軽蔑なさつた成金の家へも、尋ねて来て下さる必要が出来たと見えますね。はゝゝゝゝ。」

 荘田は、直也と面と向つて立つと、すぐ挑戦の第一の弾丸を送つた。

 直也は、それに対して、何かを云ひ返さうとした。が、彼は烈しい怒りで、口の周囲の筋肉が、ピク〳〵と痙攣する丈で、言葉は少しも、出て来なかつた。

う云ふ御用です。承らうぢやありませんか。何う云ふ御用です。」

 荘田はのしかゝるやうに畳かけて訊いた。直也は、心の裡に沸騰する怒りを、何う現してよいか、分らないやうに、暫らくは両手を顫はせながら、荘田の顔を睨んで立つてゐたが、突如として口を切つた。

貴君あなたは、良心を持つてゐますか。」

「良心を!」と、荘田は直ぐ受けたが、問が余りに唐突であつたため暫らくはことばに窮した。

「さうです。良心です。普通の人間には、そんなことを訊く必要はない。が、人間以下の人間には、訊く必要があるのです。貴君は良心を持つてゐますか。」

 直也は、卓を叩かんばかりに、烈しく迫つた。

「あはゝゝゝゝ。良心! うむ、そんな物はよく貧乏人が持ち合はしてゐるものだ。そして、それを金持に売り付けたがる。はゝゝゝ、私も度々買はされた覚えがある。が、私自身には生憎良心の持ち合せがない、はゝゝゝ。いつかも、貴君に云つた通り、金さへあれば、良心なんかなくても、結構世の中が渡つて行けますよ。良心は、羅針盤のやうなものだ。ちつぽけな帆前や、たかが五百トンや千トンの船には、羅針盤が必要だ。が、三万とか四万とか云ふ大軍艦になると、羅針盤も何も入りやしない、大手を振つて大海が横行出来る。はゝゝゝ。俺なども、羅針盤の入らない軍艦のやうなものぢや。はゝゝゝ。」

 荘田は、飽くまでも、自分の優越を信じてゐるやうに、出来るだけ直也を、じらすやうに、ゆつくりと答へた。

 それを聴くと、直也は堪らないやうに、わなわなと身体を顫はせた。

「貴君は、自分がやつたことを恥だとは思はないのですか。卑劣な盗人でも恥ぢるやうな手段を廻らして、唐沢家を迫害し、不倫な結婚を遂げようと云ふやうな、浅ましいやり方を、恥づかしいとは思はないのですか。貴君は、それを恥づる丈の良心を持つてゐないのですか。」

 直也は、吃々とどもりながら、威丈高に罵つた。が、荘田はビクともしなかつた。

「お黙りなさい。国家が許してある範囲で、正々堂々と行動してゐるのですよ。何を恥ぢる必要があるのです。貴方は、白昼公然と、私の金の力を、あざ嗤つた。が、御覧なさい! 貴君は、金の力で自分のお父様を買収され、あなたの恋人を、公然と奪はれてしまつたではありませんか。貴君こそ、自分の不明を恥ぢて、私の前でいつかの暴言を謝しなさい! 唐沢のお嬢さんは、もう此の通り、ちやんと前非を悔いてゐる。御覧なさい! 此の手紙を!」

 さう云ひながら、荘田は得々として、瑠璃子の手紙を直也に突き付けたとき、彼の心は火のやうないきどほりと、恋人を奪はれた墨のやうなうらみとで、狂つてしまつた。



「御覧なさい! 私は、自分の息子の嫁に、するために、お嬢さまを所望したのだが、お嬢さまの方から、却つて私の妻になりたいと望んでをられる。有力な男性的な実業家の妻として、社会的にも活動して見たい! かう書いてある。あはゝゝ。うです! お嬢様にも、ちやんと私の価値が判つたと見える。金の力が、どんなに偉大なものかが判つたと見える! あはゝゝ。」

 荘田は、得々とその大きな鼻を、うごめかしながら、言葉を切つた。

 直也は、湧き立つばかりの憤怒と、嵐のやうな嫉妬に、自分を忘れてしまつた。彼は瑠璃子の手紙を見たときに、荘田と媒介人たる自分の父とに、面と向つて、その不正と不倫とを罵り、少しでも残つてゐる荘田の良心を、呼び覚して、不当な暴虐な計画を思ひ止まらせようと決心したのだが、実際に会つて見ると、自分のさうした考へが、獣に道徳を教へるのと同じであることを知つた。そればかりでなく、荘田の逆襲的嘲弄に、直也自身まで、獣のやうに荒んでしまつた。彼の手は、いつの間にか知らず識らず、ポケットの中に入れて来た拳銃ピストルにかかつてゐた。その拳銃ピストルは、今年の夏、彼が日本アルプスの乗鞍ヶ岳から薬師ヶ岳へ縦走したときに、護身用として持つて行つて以来、つい机の引出しに入れて置いた。彼は激昂して家を出るとき、ふと此の拳銃ピストルの事が、頭に浮んだ。荘田の家へ、単身乗り込んで行く以上、召使や運転手や下男などの多数から、どんな暴力的な侮辱を受けるかも知れない。さうした場合の用意に持つて来たのだが、然し今になつて見ると、それが直也に、もつと血腥い決心の動機となつてゐた。

 暴に報ゆるには暴を以てせよ。相手が金を背景として、暴を用ゐるなら、こちらは死を背景とした暴を用ゐてやれ。憤怒と嫉妬とに狂つた直也は、さう考へてゐた。さうした考へが浮ぶと共に、直也の顔には、死そのもののやうな決死の相が浮んでゐた。

貴君あなたの、この不正な不当な結婚を、中止なさい。中止すると誓ひなさい! でなければ……でなければ……」さう云つたまゝ、直也の言葉もさすがに後が続かなかつた。

「でなければ、何うすると云ふのです。あはゝゝゝゝゝ。貴君あなたは、この荘田を脅迫するのですな。こりや面白い! 中止しなければ、何うすると云ふのです。」

 直也は、無我夢中だつた。彼は、自分も父も母も恋人も、国の法律も、何もかも忘れてしまつた。ただ眼前数尺の所にある、大きい赤ら顔を、何うにでも叩き潰したかつた。

「中止しなければ……かうするのです。」

 さう叫んだ刹那、彼の右の手は、鉄火の如くポケットを放れ、水平に突き出されてゐた。その手先には、白い光沢のある金属が鈍い光を放つてゐた。

「何! 何をするのだ。」と、荘田が、悲鳴とも怒声とも付かぬ声を挙げて、ドアの方へタジ〳〵と二三歩後ずさりした時だつた。

 直也の父は、狂気のやうに息子の右の腕に飛び付いた。

「直也! 何をするのだ! 馬鹿な。」

 その声は、泣くやうな叱るやうな悲鳴に近い声だつた。

 父の手が、子の右の手に触れた刹那だつた。轟然たる響は、室内の人々の耳をつんざいた。

 その響きに応ずるやうに、荘田も木下も子爵も「アツ。」と、叫んだ。それと同時に、どうと誰かが崩れるやうに倒れる音がした。帛を裂くやうな悲鳴が、それに続いて起つた。その悲鳴は、荘田の口から洩るゝやうな、太いあさましい悲鳴とは違つてゐた。



 父の手が直也の手に触れた丁度その刹那に、発せられた弾丸は、皮肉にも二十貫に近い荘田の巨躯を避けて、わづかに開かれたドアの隙から、主客の烈しい口論に、父の安否を気遣つて、そつと室内をのぞき込んでゐた荘田の娘美奈子の、かよわい肉体を貫ぬいたのであつた。

 荘田は娘の悲鳴を聞くと、自分の身の危さをも忘れて飛び付くやうに、娘の身体に掩ひかゝつた。

 美奈子は、二三度起き上らうとするやうに、身体を悶えた後に、ぐつたりと身体を、青い絨毯の上に横へた。絶え入るやうな悲鳴が続いて、明石縮らしい単衣ひとへの肩の辺に出来た赤黒い汚点しみが、見る見る裡に胸一面に拡がつて行くのだつた。

「美奈子! 気をたしかに持て! おい! 繃帯を持つて来い! なければ白木綿だ! 近藤さんを呼べ! さうだ! 自動車を迎へにやれ! ゐなかつたら、誰でもいゝ外科の博士を。さうだ! その前に、誰でもいゝから、近所の医者を呼んで来い! 早く、早く、早くだ!」

 狼狽して、前後左右にたゞウロ〳〵する、召使の男女を荘田は声を枯して叱咤した。彼はさう云ひながらも、右の掌で、娘の傷口を力一杯押へてゐるのだつた。

 直也は、自分の放つた弾丸が、思ひがけない結果を生んだのを見ながら、彼は魂を奪はれた人間のやうに、茫然として立つてゐた。色は土の如く蒼く、眼は死魚のそれのやうに光を失つた。彼はまだ短銃ピストルを握つたまゝ、突つ立つてゐた。直也の父も、木下も、此の犯人の手から、短銃ピストルを奪ひ取ることさへ忘れて居た。殊に、子爵の顔は子のそれよりも、血の気がなかつた。彼は自分の罪が、ヒシ〳〵と胸にこたへて来るのを感じた。自分の野卑な、狡猾な行為が、子の上に覿面てきめんに報いて来たことが、恐ろしかつた。彼は、子の短慮と暴行とを叱すべき言葉も、権威も持つてゐなかつた。彼の身体を支へてゐる足は、絶えずわな〳〵と顫へた。

 荘田は、娘の肩口を繃帯で、幾重にもクルクルと、捲いてしまふと、やつと小康を得たやうに、室内に帰つて来た。その巨きい顔は殺気を帯びて物凄い相を示した。

「お蔭で傷は浅いです。可哀さうに、あれは大層親思ひですから、あんな飛沫とばしりを喰ふのです。」

 彼は、氷のやうな薄笑ひを含んで、直也の顔をマジ〳〵と見詰めながら云つた。赤手にして一千万円を越ゆる暴富を、二三年の裡に、攫取した面魂つらたましひが躍如として、その顔に動いた。

「いや、私は暴に報いるに、暴を以つてしません。たゞ、国の公正なる法律に、あなたの処分を委せる丈です。杉野さん! お気の毒ですが、御子息は直ぐ、警察の方へお引き渡ししますから、そのおつもりでゐて下さい。おい警視庁の刑事課へ電話をかけるのだ。そして、殺人未遂の犯人があるから、直ぐ来て呉れと。いゝか。」

 荘田は、冷然として、鉄の如く堅く冷かに、商品の註文をでもするやうな口調で、小間使に命じた。

 小間使の方が恐ろしい命令に、躊躇して、ウロ〳〵してゐる時だつた。仮の繃帯が了つて、自分の部屋へ運ばれようとしてゐた美奈子が、父の烈しい言葉を、そのかすかな聴覚で、聞きわけたのであらう。彼女は、ふり搾るやうな声を立てた。

「お父様! お願ひでございます。うぞ、内済にして下さいませ! わたくしが、短銃ピストルで打たれましたなどは、外聞が悪うございますわ。どうぞ! どうぞ!」

 彼女は、哀願するやうに、力一杯の声を出した。

 荘田は、娘からの思ひがけない抗議に、狼狽うろたへながら、尚も頑然として云つた。

「お前さんの知つたことぢやない。お前さんは、そんなことは、一切考へないで、気を落着けてゐるのだ。いゝか。いゝか。」

「いゝえ! いゝえ! わたくしを打つたために、あの方が牢へ行かれるやうなことが、ございましたら、わたくしは生きては、をりません。お父様! どうぞ、どうぞ、内済にして下さいませ。」

 美奈子は、息を切らしながら、とぎれ〳〵に云つた。傲岸不屈な荘田も、さすがに黙つてしまつた。

 直也の二つの眼には、あつい湯のやうな涙が、湧くやうに溢れてゐた。初めて、顔を見たばかりの少女の、厚いなさけに対する感激の涙だつた。



心の武装



 記憶のよい人々は、或は覚えてゐるかも知れない。大正六年の九月の末に、東京大阪の各新聞紙が筆を揃へて報道した唐沢男爵の愛嬢瑠璃子の結婚を。それは近年にない大評判センセイショナルな結婚であつた。

 此の結婚が、一世の人心を湧かし、かまびすしい世評を生んだ第一の原因は、その新郎新婦の年齢が恐ろしいほど隔つてゐた為であつた。二三の新聞は、第二の小森幸子事件であると称して、世道人心に及ぼす悪影響を嘆いた。小森幸子事件とは、ついその六七年前、時の宮内大臣田中伯が、還暦を過ぎた老体を以て、まだ二十はたちを過ぎたばかりの処女──爵位と権勢に憧るゝ虚栄の女と、婚約をした為に一世の烈しい指弾と抗議とを招いた事件だつた。

 無論、新郎の荘田勝平は、当時の田中伯よりも若かつた。が、それと同時に、新婦の唐沢瑠璃子は小森幸子などとは比較にならないほど美しく、比較にならないほど名門の娘であり、比較にならないほど若かつた。

 新聞紙に並べられた新郎新婦の写真を見た者は、男性も女性も、等しく眉を顰めた。が、此の結婚がかまびすしい世評を産んだ原因は、たゞ新郎新婦の年齢の相違ばかりではなかつた。もう一つの原因は、成金、荘田勝平が、唐沢家の娘を金で買つたと云ふ噂だつた。或新聞紙は貴族院第一の硬骨を以て、称せらるゝ唐沢男爵に、さうした卑しい事のあるべき筈はないと、打消した。他の新聞紙はあたかも事件の真相を伝へる如くに云つた、曰く『荘田勝平は唐沢男に私淑してゐるのだ。彼は数十万円を投じて唐沢家の財政上の窮状を救つたのだ。唐沢男が、娘を与へたのは、その恩義に感じたからである。』と。他の新聞紙は、またこんな記事を載せた。結婚の動機は、唐沢瑠璃子の強い虚栄からである。彼女は学習院の女子部にゐた頃から、同窓の人々の眉を顰めさせるほど、虚栄心に富んだ女であつた、と。さうした記事に伴つて女子教育家や社会批評家の意見が紙面を賑はした。或者は、成金の金に委せての横暴が、世の良風美俗を破ると云つて憤慨した。或者は、米国の富豪の娘達が、欧洲の貴族と結婚して、富と爵位との交換を計るやうに、日本でも貧乏な華族と富豪が頻々として縁組を始めたことを指摘して、面白からぬ傾向である、華族の堕落であると結論した。

 が、さうした轟々たる世論を外に、荘田は結婚の準備をした、春の園遊会に、十万円を投じて惜しまなかつた彼は、晴の結婚式場には、黄金の花を敷くばかりの意気込であつた。彼は、自分の結婚に対して非難攻撃が高くなればなるほど、反抗的に公然おほぴらに華美に豪奢に、式を挙げようと決心してゐた。

 彼は、あらゆる手段で、朝野の名流を、その披露の式場に蒐めようとした。彼は、あらゆる縁故を辿つて、貴族顕官の列席を、頼み廻つた。

 九月二十九日の夕であつた。日比谷公園の樹の間に、薄紫のアーク燈が、ほのめき始めた頃から幾台も幾台もの自動車が、北から南から、西から東から、軽快な車台で夕暮の空気を切りながら、山下門の帝国ホテルを目指して集まつて来た。最新輸入の新しい型の自動車と交つては、昔ゆかしい定紋の付いた箱馬車に、栗毛の駿足を並べて、優雅に上品に、きしらせて来る堂上華族も見えた。さすがに広いホテルの玄関先も、後から後から蒐まつて来る馬車や自動車を、収め切れないではみ出された自動車や馬車は往来に沿うて一町ばかりも並んでゐた。

 祝宴が始まる前の控場の大広間には、余興の舞台が設けられてゐて、今しがた帝劇の嘉久子と浪子とが、二人道成寺を踊り始めたところだつた。



 新郎の勝平は、控室の入口に、新婦の瑠璃子と並び立つて、次ぎ次ぎに到着する人々を迎へてゐた。

 彼は嘘から出たまことと云ふ言葉を心の裡で思ひ起してゐた。本当に、彼の結婚は嘘から出た真であつた。彼は、妙にこじれてしまつた意地から、相手を苦しめる為に、申込んだ結婚が、相手が思ひの外に、脆かつた為、手軽に実現したことが少しくすぐつたいやうにも思つた。それと同時に、名門のたつた一人の令嬢をさへ、自分の金の力で、到頭買ひ得たかと思ふと、心の底からむら〳〵と湧く得意の情を押へることが出来なかつた。

 が、結婚の式場に列るまで、彼は瑠璃子を高値で購つた装飾品のやうにしか思つてゐなかつた。五万円に近い大金を投じて、落藉ひかした愛妓に対するほどの感情をも持つてゐなかつた。『此のお嬢さん屹度むづがるに違ひない。なに、むづかつたつて、高の知れた子供だ。ふゝん。』と云つたやうな気持で神聖なるべき式場に列つた。

 が、雪のやうに白い白紋綸子の振袖の上に目を覚むるやうな唐織錦の裲襠うちかけた瑠璃子の姿を見ると、彼は生れて初めて感じたやうな気高さと美しさに、打たれてしまつて、神官が朗々と唱へ上げる祝詞のりとの言葉なども耳に入らぬほど、ぢつと瑠璃子の姿に、魅せられてゐた。その輪廓の正しい顔は凄いほど澄みわたつて、神々しいと云つてもいゝやうな美しさが、勝平の不純な心持ちをさへ、浄めるやうだつた。

 式が、無事に終つて、大神宮から帝国ホテルまでの目と鼻の距離を、初めて自動車に同乗したときに云ひ知れぬ嬉しさが、勝平の胸の中に、こみ上げて来た。彼は、どうかして、最初の言葉を掛けたかつた。が、日頃傲岸不遜な、人を人とも思はない勝平であるにも拘はらず、話しかけようとする言葉が、一つ〳〵咽喉にからんでしまつて、小娘か何かのやうに、その四十男の巨きい顔が、ほんの少しではあるが、赤らんだ。彼は、唐沢家をあんなにまで、迫害したことが、後悔された。瑠璃子が、自分のことを一体う思つてゐるだらうと、云ふことが一番心配になり始めた。

 式服を着換へて、今勝平の横に立つてゐる瑠璃子は、前よりもつと美しかつた。御所解模様ごしよどきもやうを胸高に総縫にした黒縮緬の振袖が、そのスラリとした白皙の身体に、しつくりと似合つてゐた。勝平は、かうして若い美しい妻を得たことが、自分の生涯を彩る第一の幸福であるやうにさへ思はれた。今までは、彼の唯一つの誇は、金力であつた。が、今はそれよりも、もつと誇つていゝものが、得られたやうにさへ思つた。

 大臣を初め、政府の高官達が来る。実業家が来る。軍人が来る。唐沢家の関係から、貴族院に籍を置く、伯爵や子爵が殊に多かつた。大抵は、夫人を同伴してゐた。美人の妻を持つてゐるので、有名な小早川伯爵が来たとき、勝平は同伴した伯爵夫人を、自分の新妻と比べて見た。伯爵夫妻が、会釈して去つた時、勝平の顔には、得意な微笑が浮んだ。虎の門第一の美人として、謳はれたことのある勧業銀行の総裁吉村氏の令嬢が、その父に伴はれて、その美しい姿を現はしたとき、勝平はまた思はず、自分の新妻と比べて見ずにはゐられなかつた。無論、この令嬢も美しいことは美しかつた。が、その美しさは、華美な陽気な美しさで、瑠璃子のそれに見るやうな澄んだ神々しさはなかつた。

『やつぱり、育ちが育ちだから。』勝平は、口の中で、こんな風に、新しい妻を讃美しながら、日本中で、一番得意な人間として、後から後からと続いて来る客に、平素に似ない愛嬌を振り蒔いてゐた。

 来客の足が、やゝ薄らいだ頃だつた。此の結婚を纏めた殊勲者である木下が新調のフロックコートを着ながら、ニコニコと入つて来た。

「やあ! お目出度うございます。お目出度うございます!」

 彼は勝平に、ペコ〳〵と頭を下げてから、その傍の新夫人に、丁寧に頭を下げたが、今迄は凡ての来客の祝賀を、神妙に受けてゐた瑠璃子は木下の顔を見ると、その高島田に結つた頭を、昂然と高く持したまゝ、一寸は愚か一分も動かさなかつた。勝手が違つて、狼狽する木下に、一瞥も与へずに、彼女は怒れる女王の如き、冷然たる儀容を崩さなかつた。



 祝宴が開かれたのは、午後七時を廻つてゐた時分だつた。集合電燈シャンデリアの華やかな昼のやうな光の下に五百人を越す紳士とその半分に近い婦人とがしとやかに席に着いた。紳士は、大抵フロックコートか、五つ紋の紋付であつたが、婦人達は今日を晴と銘々きらびやかな盛装を競つてゐた。

 花嫁と云つたやうな心持は、少しも持たず、戦場にでも出るやうな心で、身体には錦繍を纏つてゐるものの、心には甲冑を装うてゐる瑠璃子ではあつたが、かうして沢山の紳士淑女の前に、花嫁として晒されると、必死な覚悟をしてゐる彼女にも、恥しさが一杯だつた。列席の人々は、結婚が非常な評判センセイションを起しただけ、それ丈花嫁の顔を、ジロ〳〵と見てゐるやうに、瑠璃子には思はれた。かねで操を左右されたものと思はれてゐるかも知れないことが、瑠璃子には──勝気な瑠璃子には、死に勝る恥のやうにも思はれた。が、彼女は全力を振つて、さうした恥しさと戦つた。人は何とも思へ、自分は正しい勇ましい道を辿つてゐるのだと、彼女は心の中で、ともすれば撓みがちな勇気を振ひ起した。

 が、苦しんでゐるものは、瑠璃子だけではなかつた。新郎の勝平と、一尺も離れないで、黙々と席に就いて居る父の顔を見ると、瑠璃子は自分の苦しみなどは、父の十分の一にも足りないやうに思つた。自分は、自分から進んで、かうした苦痛を買つてゐるのだ。が、父は最愛の娘を敵に与へようとしてゐる。縦令たとひ、それが娘自身の発意であるにしろ、男子として、殊に硬骨な父として、どんなに苦しい無念なことであらうかと思つた。

 が、苦しんでゐる者は、外にもあつた。それは今宵の月下氷人を勤めてゐる杉野子爵だつた。子爵は、瑠璃子が自分の息子の恋人であることを知つてから、どれほど苦しんでゐるか分らなかつた。瑠璃子に対する荘田の求婚が、本当は自分の息子に対する、復讐であつたことを知つてから、彼はその復讐の手先になつてゐた、自分のあさましさが、しみ〴〵と感ぜられた。殊に、そのために、息子が殺傷の罪を犯したことを考へると、彼は立つても坐つても、ゐられないやうな良心の苛責を受けた。

 日比谷大神宮の神前でも、彼は瑠璃子の顔を、仰ぎ見ることさへなし得なかつた。彼は、瑠璃子親子の前には、罪を待つ罪人のやうに、悄然とその頭を垂れてゐた。

 今宵の祝賀の的であるべき花嫁を初め、親や仲人が、銘々の苦しみに悶えてゐるにも拘はらず、祝賀の宴は、飽くまでも華やかだつた。あたひ高い洋酒が、次ぎから次ぎへと抜かれた。料理人が、懸命の腕を振つた珍しい料理が後から後から運ばれた。低くはあるが、華やかなさゞめきが卓から卓へ流れた。

 デザートコースになつてから、貴族院議長のT公爵が立ち上つた。公爵は、貴族院の議場の名物である、その荘重な態度を、いつもよりも、もつと荘重にして云つた。

「私は、こゝに御列席になつた皆様を代表して、荘田唐沢両家の万歳を祈り、新郎新婦の前途を祝したいと思ひます。何うか皆様新郎新婦の前途を祝うて御乾杯を願ひます。」

 公爵は、さう云ひながら、そのなみ〳〵と、つがれた三鞭酒シャンペンしゆの盃を、自分と相対して立つてゐる逓相の近藤男の盃に、カチリと触れさせた。

 それと同時に、公爵の音頭で、荘田唐沢両家の万歳が、一斉に三唱された。

 丁度その時であつた。その祝辞を受くるべく立ち上らうとした唐沢男爵の顔が、急に蒼ざめたかと思ふと、ヒヨロ〳〵とその長身の身体が後に二三歩よろめいたまゝ、枯木の倒れるやうに、力なく床の上に崩れ落ちた。



 唐沢男爵の突然な卒倒は、晴の盛宴を滅茶苦茶にしてしまつた。さすがに、心の利いた給仕人は、手早く一室に担ぎ込んだが、列席の人々の動揺は、どうともすることが出来なかつた。瑠璃子は、花嫁である身分も忘れて、父の傍に馳け付けたまゝ、晴着の振袖を気にしながら、懸命に介抱した。

 給仕人が、必死になつて最後のコーヒを運ぶのを待ち兼ねて、仲人の杉野子爵は立つて来客達に、列席の労を謝した。それを機会に、今まで浮腰になつてゐた来客は、潮の引くやうに、一時に流れ出てしまつて、煌々たる電燈の光の流れてゐる大広間には、勝平を初めとし四五人の人々が寂しく取り残された丈だつた。

 瑠璃子の父は、さひはひに軽い脳貧血であつた。呼びにやつた医者が来ない前に、もう、常態に復してゐた。が、彼は黙々として自分を取り囲んでゐる杉野や勝平には、一言も言葉をかけなかつた。

 父が、用意された自動車に、やつと恢復した身体を乗せて、今宵からは、最愛の娘と離れて、たゞ一人住むべき家へ帰つて行く後姿を見ると、鉄のやうに冷くつぼんでゐる瑠璃子の心も、底から掻き廻はされるやうな痛みを感ぜずにはゐられなかつた。

 瑠璃子は、父の自動車に身体をピツタリと附けながら、小声で云つた。

「お父様暫らく御辛抱して下さいませ。直きにお父様の許へ帰つて行きます。どうぞ、わたくしを信じて待つてゐて下さいませ。」

 さすがに彼女の眼にも、湯のやうな涙が、ほたほたと溢れた。

 父は、瑠璃子の言葉を聴くと大きく肯きながら、

「お前の決心を忘れるな。お父さんが、今宵受けた恥を忘れるな。」

 父が低く然し、力強くかう呟いた時、自動車は軽く滑り出してゐた。

 父を乗せた自動車が、出で去つた後の車寄に附けられた自動車は、荘田がつい此間、伊太利イタリーから求めた華麗なフィヤット型の大自動車であつた。新郎新婦を、その幾久しき合衾がふきんの床に送るべき目出度き乗物だつた。

 瑠璃子は、夫──それに違ひはなかつた──に招かるゝまゝ、相並んで腰を降した、が、その美しい唇は彫像のそれのやうに、堅く〳〵結ばれてゐた。

 勝平は、何うにかして、瑠璃子と言葉を交へたかつた。彼は、瑠璃子の美しさがしみ〴〵と、感ぜられゝば感ぜられる丈、たゞ黙つて、並んでゐることが、いよ〳〵苦痛になり出した。

 彼は、瑠璃子の顔色を窺ひながら、オヅ〳〵口を開いた。

「大変沈んでをられるやうぢやが、さう心配せいでもようござんすよ。わしだつて貴女あなたが思つてゐるほど、無情な人間ぢやありません。貴女のお父様を、苛めて済まんと思つてゐるのです。罪滅ぼしに、出来るだけのことはしようと思つてゐるのです。貴女も、俺をかたきのやうに思はんでな。これも縁ぢやからな。」

 勝平は、誰に対しても、使つたことのないやうな、丁寧な訛のある言葉で、哀願するやうな口調でしみ〴〵と話し出した。が、瑠璃子は、黙々として言葉を出さなかつた。二人の間に重苦しい沈黙が暫らく続いた。

「実は恥を云はねばならないのだが、今年の春、わしの家の園遊会で、貴女を見てから、年甲斐もなく、はゝゝゝゝ。それで、つい、心にもなく貴女のお父様までも、苦しめて、どうも何とも済まないことをしました。」

 勝平は、瑠璃子の心を解かうとして心にもない嘘を云ひながら、大きく頭を下げて見せた。

 その刹那に、美しい瑠璃子の顔に、皮肉な微笑が動いたかと思ふと、彼女の容子は、一瞬の裡に変つてゐた。

「そんなに云つて下さるとわたくしの方が却つて痛み入りますわ。わたくしのやうな者を、それほどまでして、望んで下さつたかと思ふと、ほゝゝゝゝ。」

 と、車内の薄暗の裡でもハツキリと判るほど、瑠璃子は勝平の方を向いて、嫣然えんぜんと笑つて見せた。勝平は、その一笑を投げられると、魂を奪はれた人間のやうに、フラ〳〵としてしまつた。



 瑠璃子の嫣然たる微笑を浴びると、勝平は三鞭酒シャンペンしゆの酔が、だん〳〵廻つて来たその巨きい顔の相好を、たわいもなく崩してしまひながら、

「あゝ、さうでがすか。貴女の心持はさうですか、それを知らんもんですから、心配したわい。」

 彼は余りのうれしさに、生れ故郷の訛りを、スツカリ丸出しにしながら、身体に似合はない優しい声を出した。

「貴女が心の中から、私のところへ、欣んで来て下さる。こんな嬉しいことはない。貴女のためならわしの財産をみんな投げ出しても惜しみはせん。あはゝゝゝゝ。」

 荘田は、恥しさうに顔を俯してゐる瑠璃子の、薄暗の中でも、くつきりと白い襟足を、貪るやうに見詰めながら、有頂天になつて云つた。

「貴女が来て下されば、俺も今迄の三倍も五倍もの精力で、働きますぞ。うんと金を儲けて、貴女の身体をダイヤモンドで埋めて上げますよ。あはゝゝゝゝゝ。」

 荘田は、何うかして、瑠璃子の微笑と歓心とをちえようと、懸命になつて話しかけた。

 十時を過ぎたお濠端の闇を、瑠璃子を乗せた自動車を先頭に、美奈子を乗せた自動車を中に、召使達の乗つた自動車を最後に、三台の自動車は、瞬く裡に、日比谷から三宅坂へ、三宅坂から五番町へと殆ど三分もかゝらなかつた。

 瑠璃子が、夫に扶けられて、自動車から宏壮な車寄に、降り立つた時、さすがにその覚悟した胸が、烈しくときめくのを感じた。単身敵の本城へ乗り込んで行く、刺客のやうな緊張と不安とを感じた。勝平に扶けられてゐる手が、かすかに顫へるのを、彼女は必死に制しようとした。

 瑠璃子が、勝平に従つて、玄関へ上がらうとした時だつた。其処に出迎へてゐる、多数の召使の前に、ヌツとつツ立つてゐる若者が、急に勝平に縋り付くやうにして云つた。

「お父さん! お土産みやげだい! お土産だい!」

 勝平は、縋り付かれようとする手を、瑠璃子の手前、きまり悪さうに、払ひ退けながら、

「あゝ分つてゐる、分つてゐる。後で、沢山やるからな。さあ! 此方へおいで。お前の新しいお母様が出来たのだからな。挨拶をするのだよ。」

 勝平は、その若者を拉しながら先に立つた。若者は、振向き〳〵瑠璃子の顔をジロ〳〵と珍らしさうに見詰めてゐた。

 勝平は先きに立つて、自分の居間に通つた。

「美奈子も、茲へおいで。」

 彼は、娘を呼び寄せてから、改めて瑠璃子に挨拶させた後、勝平はその見るからに傲岸な顔に、恥しさうな表情を浮べながら、自分の息子を紹介した。

「これがわしの息子ですよ。御覧のとほりの人間で、貴女にさぞ、御面倒をかけるだらうと思ひますが、ゼヒ、面倒を見てやつていたゞきたいのです。少し足りない人間ですが、悪気はありませんよ。極く単純で、此方こつちの云ふことは可なり聴くのです。おい勝彦! これが、お前のお母様だよ。さあ〳〵挨拶するのだ。」

 勝彦は、瑠璃子の顔を、ジロ〳〵と見詰めてゐたが、父にさう促されると急に気が付いたやうに、

「お母様ぢやないや。お母様は死んでしまつたよ。お母様は、もつときたない婆あだつたよ。此人は綺麗だよ。此人は美奈ちやんと同じやうに、綺麗だよ。お母様ぢやないや、ねえさうだらう、美奈ちやん。」彼は妹に同意を求めるやうに云つた。妹は顔を、火のやうに赤くしながら、兄を制するやうに云つた。

「お母様と申上げるのでございますよ。お父様のお嫁になつて下さるのでございますよ。」

「何んだ、お父様のお嫁! お父様は、ずるいや。俺に、お嫁を取つて呉れると云つてゐながら、取つて呉れないんだもの。」

 彼は、約束した菓子を貰へなかつた子供のやうに、すねて見せた。

 瑠璃子は、その白痴な息子の不平を聞くと、勝平が中途から、世間体を憚つて、自分を息子の嫁にと、云ひ出したことを、思ひ出した。金で以て、こんな白痴の妻──否弄び物に、自分をしようとしたのだと思ふと、勝平に対する憎悪が又新しく心の中に蒸返された。



 勝彦と美奈子とが、彼等自身の部屋へ去つた頃には、夜は十一時に近く、新郎新婦が新婚の床に入るべき時刻は、刻々に迫つてゐた。

 勝平は、先刻さつきから全力を尽くして、瑠璃子の歓心を買はうとしてゐた。彼は、急に思ひ出したやうに、

「おゝさう〳〵、貴女あなたに、結婚進物マリエイジプレゼントとして、差し上げるものがありましたつけ。」

 さう云ひながら、彼は自分の背後に据ゑ付けてある小形の金庫から、一束の証書を取り出した。

「貴女のお父様に対する債権の証文は、みんな蒐めた筈です。さあ、これを今貴女に進上しますよ。」

 彼は、その十五万円に近い証書の金額に、何の執着もないやうに、無造作に、瑠璃子の前に押しやつた。

 瑠璃子は、その一束を、チラリと見たが、さすがにその白い頬に、興奮の色が動いた。彼女は、二三分の間、それを見るともなく見詰めてゐた。

「あのマッチは、ございますまいか。」彼女は、突如さう訊いた。

「マッチ?」勝平は、瑠璃子の突然な言葉を解し得なかつた。

「あのマッチでございますの。」

「あゝマッチ! マッチなら、幾何いくらでもありますよ。」彼は、さう云ひながら、身を反らして、其処の炉棚マンテルピースの上から、マッチの小箱を取つて、瑠璃子の前へ置いた。

「マッチで、何をするのです。」勝平は不安らしく訊ねた。

 瑠璃子は、その問を無視したやうに、黙つて椅子から立ち上ると、鉄盤で掩うてあるストーヴの前に先刻三度目に着替へた江戸紫の金紗縮緬の袖を気にしながら、蹲まつた。

貴君あなた瓦斯ガスが出ますかしら。」彼女は、其処で突然勝平を、見上げながら、馴々しげな微笑を浴びせた。

 初めて、貴君あなたと呼ばれた嬉しさに、勝平は又相好を崩しながら、

「出るとも、出るとも。瓦斯ガスは止めてはない筈ですよ。」

 勝平が、さう答へ了らない裡に、瑠璃子の華奢な白い手の中に燐寸マッチは燃えて、迸り始めた瓦斯ガスに、軽い爆音を立てゝ、移つてゐた。

 瑠璃子は、その火影に白い顔をほてらせて、暫らく立つてゐたが、ふと身体を飜すと、卓の上にあつた証書を、軽く無造作に、薪をでも投ぐるやうに、漸く燃え盛りかけた火の中に投じてしまつた。

 呆気に取られてゐる勝平を、嫣然と振り向きながら、瑠璃子は云つた。

「水に流すと云ふことがございますね。わたくし達は、此の証文を火で焼いたやうに、これまでのいろいろな感情の行き違ひを、火に焼いてしまはうと思ひますの……ほゝゝゝ、火に焼く! その方がよろしうございますわ。」

「あゝさう〳〵、火に焼く、さうだ、後へ何も残さないと云ふことだな。そりや結構だ。今までの事は、スツカリ無いものにして、お互に信頼し愛し合つて行く。貴女あなたが、その気でゐて呉れゝば、こんな嬉しいことはない。」

 さう云ひながら、勝平は瑠璃子に最初の接吻をでも与へようとするやうに、その眸を異常に、輝かしながら、彼女の傍へ近よつて来た。

 さう云ふ相手の気勢を見ると、瑠璃子は何気ないやうに、元の椅子に帰りながら、端然たる様子に帰つてしまつた。

 その時に、ドアが開いた。

彼方あちらの御用意が出来ましたから。」

 女中は、しとやかにさう云つた。

 絶体絶命の時が迫つて来たのだ。

「ぢや、瑠璃さん! 彼方あちらへ行きませう。古風に盃事さかづきごとをやるさうですから、はゝゝゝゝゝ。」

 勝平が、卑しい肉に飢ゑた獣のやうに笑つたとき、さすがに瑠璃子の顔は蒼ざめた。

 が、彼女の態度は少しも乱れなかつた。

「あの、一寸電話をかけたいと思ひますの。父のその後の容体が気になりますから。」

 それは、此の場合突然ではあるが、尤もな希望だつた。



「電話なら、女中にかけさせるがいゝ。おい唐沢さんへ……」

 と、勝平が早くも、女中に命じようとするのを、瑠璃子は制した。

「いゝえ! わたくしが自身で掛けたいと思ひますの。」

「自身で、うむ、それなら、其処に卓上電話がある。」

 と、云ひながら、勝平は瑠璃子の背後を指し示した。

 いかにも、今迄気が付かなかつたが、其処の小さい桃花心木マホガニイの卓の上に、卓上電話が置かれてゐた。

 瑠璃子は、しとやかに椅子から、身を起したとき、彼女の眉宇の間には、凄じい決心の色が、アリアリと浮んでゐた。

「あのう。番町の二八九一番!」

 瑠璃子は、送話器にその紅の色の美しい唇を、間近く寄せながら、低く呟くやうに言つた。

「番町の二八九一番!」

 さう繰り返しながら、送話器を持つてゐる瑠璃子の白い手は、かすかに〳〵顫へてゐた。彼女は暫くの間、耳を傾けながら待つてゐた。やつと相手が出たやうだつた。

「あゝ唐沢ですか。わたくし瑠璃子なのよ。貴女あなたは婆や。」

 相手の言葉に聞き入るやうに、彼女は受話器にぢつと、耳を押し付けた。

「さう。あなたの方から、電話を掛けるところだつたの。それは、丁度よかつたのね。それでお父様の御容体は。」

 さう云ひ捨てると、彼女は又ぢつと聞き入つた。

「さう!……それで……入沢さんが、入らしつたの!……それで、なるほど……」

 彼女は、短い言葉で受け答をしながらも、その白いおもては、だん〳〵深い憂慮に包まれて行つた。

「えい! 重体! 今夜中が……もつと、ハツキリと言つて下さい! 聞えないから。なに、なに、お父様は帰つて来てはいけないつて! でもお医者は何と仰しやるの? えい! 呼んだ方がいゝつて! わたくし うしようかしら。あゝあゝ。」

 彼女は、もうスツカリ取りみだしてしまつたやうに、身を悶えた。

うしたのだ。何うしたのだ。」

 勝平は、遉に色を変へながら、瑠璃子の傍に、近づいた。

「あのう、お父様が、宅の玄関で二度目の卒倒を致しましてから、容体が急変してしまつたやうでございますの。妾かうしてはをられませんわ。ねえ! 一寸帰つて来ましてもようございませう。お願ひでございますわ。ねえ貴方!」

 瑠璃子は、涙に濡れた頬に、淋しい哀願の微笑を湛へた。

「あゝいゝとも、いゝとも。お父様の大事には代へられない。直ぐ自動車で行つて、しつかり介抱して上げるのだ。」

「さう言つて下さると、わたくし本当に嬉しうございますわ。」

 さう云ひながら、瑠璃子は勝平に近づいて、肥つた胸に、その美しい顔を埋めるやうな容子をした。勝平は、心の底から感激してしまつた。

「ゆつくりと行つておいで、向うへ行つたら、電話で容体を知らして呉れるのだよ。」

「直ぐお知らせしますわ。でも、此方から訊ねて下さると困りますのよ。父は、荘田へは決して知らせてはならない。大切な結婚の当夜だから、死んでも知らしてはならないと申してゐるさうでございますから。」

「うむよし〳〵。ぢや、よく介抱して上げるのだよ。出来るだけの手当をして上げるのだよ。」

 自動車の用意は、直ぐ整つた。

「容体がよろしかつたら、今晩中に帰つて参りますわ。悪かつたら、明日になりましても御免あそばしませ。」

 瑠璃子は、自動車の窓から、親しさうに勝平を見返つた。

「もう遅いから、今宵は帰つて来なくつてもいゝよ。明日は、わしが容子を見に行つて上げるから。」

 勝平は、もういつの間にか、親切な溺愛する夫になり切つてしまつてゐた。

「さう。それは有難うございますわ。」

 彼女は、爽かな声を残しながら、戸外の闇に滑り入つた。が、自動車が英国大使館前の桜並樹の樹下闇を縫うてゐる時だつた。彼女のおもてには、父の危篤を憂ふるやうな表情は、痕も止めてゐなかつた。人を思ふとほりに、弄んだ妖女ウヰッチの顔に見るやうな、必死な薄笑ひが、その高貴なおもてに宿つてゐた。



護りの騎士



 名ばかりの妻、これは瑠璃子が最初考へてゐたやうに、生易しいことではなかつた。彼女は、自分の操を守るために、あらゆる手段と謀計とをめぐらさねばならなかつた。

 結婚後暫らくは、父の容体を口実に、瑠璃子は荘田の家に帰つて行かなかつた。勝平は毎日のやうに、瑠璃子を訪れた。日に依つては、午前午後の二回に、此の花嫁の顔を見ねば気が済まぬらしかつた。

 彼は訪問の度毎に、瑠璃子の歓心を買ふために、高価な贈物を用意することを、忘れなかつた。

 それが、ある時は金剛石ダイヤ入りの指輪だつた。ある時は、白金プラチナの腕時計だつた。ある時は、真珠の頸飾だつた。瑠璃子は、さうした贈物を、子供が玩具を貰ふときのやうに、無邪気に何の感謝なしに受取つた。

 が、父の容体を口実に、いつまでも、実家に止まることは、許されなかつた。それは、事情が許さないばかりでなく、彼女の自尊心が許さなかつた。敵を避けてゐることが、勝気な彼女に心苦しかつた。もつと、身体を危険に晒して勇ましく戦はなければならぬと思つた。形式的にでも、結婚した以上、形の上だけでは飽くまでも、妻らしくしなければならないと思つた。敵の卑怯に報いるに卑怯を以てしてはならない。此方は、飽くまでも、正々堂々と戦つて勝たねばならない。さう思ひながら、彼女は勝平が迎ひの自動車に同乗した。

 久しぶりに、瑠璃子と同乗した嬉しさに、勝平は訳もなく笑ひ崩れながら、

「あはゝゝゝゝ。そんなに、実家おさとを恋しがらなくてもいゝよ。親一人子一人のお父様に別れるのは淋しいだらう。が、何も心配することはないよ。わしを恐がらなくつてもいゝよ。わしだつて、こんな顔をしてゐるが、お前さんを取つて喰はうと云ふのぢやないよ。娘! さうだ、美奈子に新しい姉が出来たと思つて、可愛がつて上げようと思ふのだ。あはゝゝゝゝ。」と、勝平はうかして、瑠璃子の警戒を解かうとして、心にもないことを云つた。

 勝平の言葉を聴くと、今迄捗々しい返事もしなかつた瑠璃子は、甦へつたやうに、快活な調子で云つた。

「おほゝゝ、ほんたうに、娘にして下さるの、わたくしのお父様になつて下さるの! わたくし本当にさうお願ひしたいのよ。ほんたうのお父様になつていたゞきたいのよ。」

 さう云ひながら、彼女はこぼるゝやうな嬌羞を、そのしなやかな身体一面に湛へた。

「あゝ、いゝとも、いゝとも。」勝平は、人の好い本当の父親のやうに肯いて見た。

「ほゝゝゝ。それは嬉しうございますわ、本当に、わたくしを娘にして下さいませ。それも、ほんの少しの間ですの。お約束しますわ。半年、本当に半年でいゝのよ。でも、さうぢやございませんか。わたくし、まだ年弱の十八でございませう。学校を出てから、まだ半年にしかなりませんのですもの。それに、今度の話でございませう、それに、いろ〳〵な事件で、興奮して、まだその興奮が続いてゐるのでございませう。結婚生活に対する何の準備も出来なかつたのでございますもの。貴君の本当の妻になるのには、もう少し心の準備が欲しいと思ひますの。貴君に対する愛情と信頼とを、もつと心の中で、準備したいと思ひますの。だから、暫らくの間、本当に美奈子さんの姉にして置いて下さいませ。『源氏物語』に、末摘花と云ふのがございませう。あれでございますの。」

 さう云ひながら、瑠璃子は嫣然と笑つた。勝平は、妖術にでもかゝつたやうに、ぼんやりと相手の美しい唇を見詰めてゐた。瑠璃子は相手を人とも思はないやうに傍若無人だつた。

「ねえ! お父様! わたくしの可愛いお父様! さうして下さいませ。」

 さう云ひながら、彼女はそのスラリとした身体を、勝平にしなだれるやうに、寄せかけながら、その白い手を、勝平の膝の上に置いてしづかに軽く叩いた。

 瑠璃子の処女の如く慎しく娼婦の如く大胆な媚態に、心を奪はれてしまつた勝平は、自分の答がう云ふことを約束してゐるかも考へずに答へた。

「あゝいゝとも、いゝとも。」



 勝平は心の裡で思つた。どうせ籠の中に入れた鳥である。その中には、自分の強い男性としての力で征服して見せる。男性の強い腕の力には、凡ての女性は、何時の間にか、掴み潰されてゐるのだ。彼女も、しばらくの間、自分の掌中で、小鳥らしい自由を楽しむがいゝ。その裡に、男性の腕の力がどんなに信頼すべきかが、だん〳〵分つて来るだらう。

 勝平はさうした余裕のある心持で、瑠璃子の請を容れた。

 が、それが勝平の違算であつたことが、直ぐ判つた。十日経ち二十日経つ裡に、瑠璃子の美しさは勝平の心を、日に夜についで悩した。若い新鮮な女性の肉体から出る香が勝平の旺盛な肉体の、あらゆる感覚を刺戟せずにはゐなかつた。

 その夜も、勝平は若い妻を、帝劇に伴つた。彼はボックスの中に瑠璃子と並んで、席を占めながら眼は舞台の方から、しば〳〵帰つて来て、愛妻の白い美しい襟足から、そのほつそりとした撫肩を伝うて、膝の上に、慎しやかに置かれた手や、その手を載せてゐるふくよかな、両膝を、貪るやうに見詰めてゐた。彼は、かうして妻と並んでゐると、身も心も溶けてしまふやうな陶酔を感じた。さうした陶酔の醒め際に、彼の烈しい情火が、ムラ〳〵と彼の身体全体を、嵐のやうに包むのだつた。

 瑠璃子は、勝平のさうした悩みなどを、少しも気が付かないやうに、雲雀ひばりのやうに快活だつた。彼女は、勝平との感情の経緯を、もうスツカリ忘れてしまつたやうに、ほんたうの娘にでも、なりきつたやうに、勝平に甘えるやうに纏はつてゐた。

「おい瑠璃さん。もう、お父様ごつこも大抵にしてよさうぢやないか、貴女あなたも、少しは私が判つただらう。はゝゝゝゝ。約束の半年を一月とか二月とかに、縮めて貰へないものかねえ!」

 勝平は、その夜、自動車での帰途、冗談のやうに、妻の柔かい肩を軽く叩きながら、囁いた。

「まあ! 貴君あなたも、性急せつかちですのねえ。わたくし達には約婚時代といふものが、なかつたのですもの。もつと、かうして楽しみたいと思ひますもの。何かが来ると云ふことの方が、何かが来たと云ふことよりも、どんなに楽しいか。それにわたくし本当はもつと処女でゐたいのよ。ねえ、いいでせう。わたくしのわが儘を、許して下さつてもいゝでせう!」

 さう云ふ言葉と容子とには、溢れるやうな媚びがあつた。さうした言葉を、聴いてゐると、勝平は、タヂ〳〵となつてしまつて、一言でも逆ふことは出来なかつた。

 が、その夜、勝平は自分一人寝室に入つてからも、若い妻のすべてが、彼の眼にも、鼻にも、耳にもこびり付いて離れなかつた。眼の中には、彼女の柔い白い肉体が、人魚のやうに、艶めかしい媚態を作つて、何時までも何時までも、浮んでゐた。鼻には、彼女の肉体の持つてゐる芳香が、ほのぼのと何時までも、漂つてゐた。耳には、さうだ! 彼女の快活な湿りのある声や、機智に富んだ言葉などが、何時までも何時までも消えなかつた。

 彼は、さうした妄想を去つて、何うかして、眠りを得ようとした。が、彼が努力すれば努力するほど、眼も耳も冴えてしまつた。おしまひには、見上げて居る天井に、幾つも〳〵妻の顔が、現れて、媚びのある微笑を送つた。

『彼女は、たゞ恥かしがつてゐるのだ。処女としての恥かしさに過ぎないのだ。それは、此方こちらから取り去つてやればそれでいゝのだ!』

 彼は、さう思ひ出すと、一刻も自分の寝台にぢつと、身体を落ち着けてゐることが出来なかつた。子供らしい処女らしい恥らひを、その儘に受け入れてゐた自分が、あまりにお人好しのやうに思はれ始めた。

 彼は、フラ〳〵として、寝台を離れて、夜更けの廊下へ出た。



 廊下へ出て見ると、家人達はみんな寝静まつてゐた。まだ十月の半ではあつたが、広い洋館の内部には、深夜の冷気が、ひや〳〵と、流れてゐた。が、烈しい情火に狂つてゐる勝平の身体には、夜の冷たさも感じられなかつた。彼は、自分の家の中を、盗人のやうに、忍びやかに、夢遊病者のやうに覚束なく、瑠璃子の部屋の方向へ歩いた。

 彼女の部屋は、階下に在つた。廊下の燈火は、大抵消されてゐたが、階段に取り付けられてゐる電燈が、階上にも階下にも、ほのかな光を送つてゐた。

 勝平は、彼女に与へた約束を男らしくもなく、取り消すことが心苦しかつた。彼女に示すべき自分の美点は、男らしいと云ふ事より、外には何もない。彼女の信頼を得るやうに、男らしく強く堂々と、行動しなければならない。それが、彼女の愛を得る唯一の方法だと勝平は心の中で思つてゐた。それだのに、彼女に一旦与へた約束を、取り消す。男らしくもなく破約する。が、さうした心苦しさも、勝平の身体全体に、今潮のやうに漲つて来る烈しい慾望を、何うすることも出来なかつた。

 階段を下りて、左へ行くと応接室があつた。右へ行くと美奈子の部屋があり、その部屋と並んで瑠璃子に与へた部屋があつた。

 瑠璃子の部屋に近づくに従つて、勝平の心にも烈しい動揺があつた。それは、年若い少年が初めて恋人の唇を知らうとする刹那のやうな、烈しい興奮だつた。彼は、さうした興奮を抑へて、ぢつと瑠璃子の部屋へ忍び寄らうとした。

 丁度、その時に、勝平は我を忘れて『アツ』と叫び声を挙げようとした。それは、今彼が近づかうとしたそのドアに、一人の人間が紛れもない一人の男性が、ピツタリと身体を寄せてゐたからである。冷たい悪寒が、勝平の身体を流れて、爪の先までをも顫はせた。彼は、電気に掛けられたやうに廊下の真中へ立ち竦んでしまつた。

 が、相手は勝平の近づくのを知つてゐる筈だのに、ピクリとも身体を動かさなかつた。ドアに彫り付けられてゐる木像か何かのやうに、闇の中にぢつと立ち尽してゐるやうだつた。

盗賊どろばう!』最初勝平は、さう叫ばうかとさへ思つたが、彼の四十男に相当した冷静が彼の口を制したが、その次ぎに、ムラ〳〵と彼の心を閉したものは、漠然たる嫉妬だつた。一人の男性が、妻の寝室のドアの前に立つてゐる。それだけで、勝平の心を狂はすのに十分だつた。

 彼は、握りしめた拳を、顫はしながら、必死になつて、一歩々々ドアに近づいた。が、相手は気味の悪いほど、冷静にピクリとも動かない。勝平が、最後の勇気を鼓して、相手の胸倉を掴みながら、低く、

「誰だ!」と、叱した時、相手は勝平の顔を見て、ニヤリと笑つた。それは紛れもなく勝彦だつたのである。

 自分の子の卑しい笑ひ顔を見たときに、剛愎な勝平も、グンと鉄槌で殴られたやうに思つた。言ひ現し方もないやうな不快な、あさましいと云つた感じが、彼の胸の裡に一杯になつた。自分の子があさましかつた。が、あさましいのは、自分の子けではなかつた。もつと、あさましいのは、自分自身であつたのだ。

「お前! 何をしてゐるのだ! こゝで。」

 勝平は、低くうめくやうに訊いた。が、それは勝彦に訊いてゐるのではなく、自分自身に訊いてゐるやうにも思はれた。

 勝彦は、離れの日本間の方で寝てゐる筈なのだ。が、それがもう夜の二時過であるのに、瑠璃子の部屋の前に立つてゐる。それは、勝平に取つては、堪へられないほど、不快なあさましい想像の種だつた。

「何をしてゐるのだ! こんな処で。こんなに遅く。」何時もは、馬鹿な息子に対し可なり寛大である父であつたが、今宵に限つては、彼は息子に対して可なり烈しい憎悪を感じたのである。

「何をしてゐたのだ! おい!」

 勝平は、鋭い眼で勝彦を睨みながら、その肩の所を、グイと小突いた。



こゝに何をしてゐたのだ、茲に!」

 父が、必死になつて責め付けてゐるのにも拘らず、勝彦はたゞニヤリ〳〵と、たわいもなく笑ひ続けた。薄気味のわるいとりとめもなき子の笑ひが、丁度自分の恥しい行為を、嘲笑あざわらつてゐるかのやうに、勝平には思はれた。

 彼は、瑠璃子やまた、直ぐ次ぎのドアの裡に眠つてゐる美奈子の夢を破らないやうにと、気を付けながらも、声がだんだん激しくなつて行くのを抑へることが出来なかつた。

「おい! こんなに遅く、こゝに何をしてゐたのだ。おい!」

 さう云ひながら、勝平は再び子の肩を突いた。父にさう突き込まれると、白痴相当に、勝彦は顔を赤めて、口ごもりながら云つた。

「姉さんの所へ来たのだ。姉さんの所へ来たのだ。」姉さん、勝彦はこの頃、瑠璃子をさう呼びならつてゐた。

「姉さん! 姉さんの所へ!」

 勝平は、さう云ひながらも、自分自身地の中へ、入つてしまひたいやうな、浅ましさと恥しさとを感じた。が、それと同時に、にらを噛むやうな嫉妬が、ホンの僅かではあるが、心の裡に萌して来るのを、何うすることも出来なかつた。が、父のさうした心持を、嘲るやうに、勝彦は又ニタリ〳〵と愚かな笑ひを、笑ひつゞけてゐる。

「姉さんの所へ何をしに来たのだ。何の用があつて来たのだ。こんなに夜遅く。」

 勝平は、心の中の不愉快さを、ぢつと抑へながら、訊く所まで、訊き質さずにはゐられなかつた。

「何も用はない。たゞ顔を見たいのだ。」

 勝彦は、平然とそれが普通な当然な事ででもあるやうに云つた。

「顔を見たい!」

 勝平は、さう口では云つたものの、眼が眩むやうに思つた。他人は、誰も居合はさない場所ではあつたが、自分の顔を、両手で掩ひ隠したいとさへ思つた。

 彼は、もう此の上、勝彦に言葉を掛ける勇気もなかつた。が、今にして、息子のかうした心を、刈り取つて置かないと、どんな恐ろしい事が起るかも知れないと思つた。彼は不快と恥しさとを制しながら云つた。

「おい! 勝彦これから、夜中などに、お姉さんの部屋へなんか来たら、いけないぞ! 二度とこんな事があると、お父様が承知しないぞ!」

 さう云ひながら、勝平は、わが子を、恐ろしい眼で睨んだ。が、子はケロリとして云つた。

「だつて、お姉さまは、来てもかまはない! と云つたよ。」勝平は、頭からグワンと殴られたやうに思つた。

「来てもかまはない! 何時、そんな事を云つた? 何時そんなことを云つた?」

 勝平は、思はず平常ふだんの大声を出してしまつた。

「何時つて、何時でも云つてゐる。部屋の前になら、何時まで立つてゐてもいゝつて、番兵になつて呉れるのならいゝつて!」

「ぢや、お前は今夜だけぢやないのか。馬鹿な奴め! 馬鹿な奴め!」

 さう云ひながらも、勝平は子に対して、可なり激しい嫉妬を懐かずにはゐられなかつた。

 それと同時に、瑠璃子に対しても、うらみに似た烈しい感情を持たずにはゐられなかつた。

「そんな事を姉さんが云つた! 馬鹿な! 瑠璃子に訊いて見よう。」

 彼は、息子を押し退けながら、その背後のドアを、右の手で開けようとした。が、それは釘付けにでもされたやうに、ピタリとして、少しも動かなかつた。彼は声を出して、叫ばうとした。

 その途端に、ガタリとドアが開く音がした。が、開いたのはそのドアではなくして、美奈子の寝室のドアであつた。

 純白の寝衣ねまきを付けた少女はまろぶやうに、父の傍に走り寄つた。

「お父様! 何と云ふことでございます。何も云はないで、お休みなさいませ。お願ひでございます。お姉様にこんなところを見せては親子の恥ではございませんか。」

 美奈子の心からの叫びに、打たれたやうに、勝平は黙つてしまつた。

 勝彦は、相変らず、ニヤリ〳〵と妹の顔を見て笑つてゐた。

 丁度此の時、ドアの彼方の寝台の上に、夢を破られた女は、親子の間の浅ましい葛藤を、聞くともなく耳にすると、其美しい顔に、凄い微笑を浮べると、雪のやうな羽蒲団を、又再び深々と、被つた。



 自分の寝室へ帰つて来てからも、勝平は悶々として、眠られぬ一夜を過してしまつた。恋する者の心が、競争者の出現に依つて、焦り出すやうに、勝平の心も、今迄の落着、冷静、剛愎の凡てを無くしてしまつた。競争者、それが何と云ふ堪らない競争者であらう。それが自分の肉親の子である。肉親の父と子が、一人の女を廻つて争つてゐる。親が女の許へ忍ぶと子が先廻りをしてゐる。それは、勝平のやうな金の外には、物質の外には、何物をも認めないやうな堕落した人格者に取つても堪らないほどあさましいことだつた。

 もし、勝彦が普通の頭脳があり、道義の何物かを知つてゐれば、罵り恥かしめて、反省させることも容易なことであるかも知れない。(尤も、勝平に自分の息子の不道徳を責め得る資格があるか何うかは疑問であつた。)が、勝彦は盲目的な本能と烈しい慾望の外は、何も持つてゐない男である。相手が父の妻であらうが、何であらうが、たゞ美しい女としか映らない男である。それに人並外れた強力がうりきを持つてゐる彼は、どんな乱暴をするかも分らなかつた。

 その上に、勝平は自分の失言に対する苦い記憶があつた。彼は、一時瑠璃子を勝彦の妻にと思つたとき、その事を冗談のやうに勝彦に、云ひ聴かせたことがある。何事をも、直ぐ忘れてしまふ勝彦ではあつたが、事柄が事柄であつた丈に、その愚な頭の何処かにこびり付かせてゐるかも知れない。さう考へると、勝平の頭は、いよ〳〵重苦しく濁つてしまつた。

『さうだ! 勝彦を遠ざけよう。葉山の別荘へでも追ひやらう。何とかすかして、東京を遠ざけよう。』勝平はわが子に対して、さうした隠謀をさへ考へ始めてゐた。

 興奮と煩悶とにつかれた勝平の頭も、四時を打つ時計の音を聴いた後は、何時しか朦朧としてしまつて、寝苦しい眠に落ちてゐた。

 眼が覚めた時、それはもう九時を廻つてゐた。朗かな十月の朝であつた。青い紗の窓掛を透した明るい日の光が、室中に快い明るさを湛へた。

 朝の爽かな心持に、勝平は昨夜の不愉快な出来事を忘れてゐた。尨大な身体を、寝台から、ムクムクと起すと、上草履を突つかけて、朝の快い空気に吸ひ付けられたやうに、縁側ヴェランダに出た。彼は自分の宏大な、広々と延びてゐる庭園を見ながら、両手を高く拡げて、快い欠伸あくびをした。が、彼が拡げた両手を下した時だつた。十間ばかり離れた若い楓の植込の中を、泉水の方へ降りて行く勝彦の姿を見た。彼に似て、尨大な立派な体格だつた。が、歩いて行くのは勝彦一人ではなかつた。勝彦の大きい身体の蔭から、時々ちら〳〵美しい色彩の着物が、見えた。勝平は、最初、それが美奈子であることを信じた。勝彦は白痴ではあつたが、美奈子だけには、やさしい大人しい兄だつた。勝平は何時もの通り兄妹の散歩であると思つてゐた。が、植込の中の道が右に折れ、勝平の視線と一直線になつたとき、その男女は相並んで、後姿を勝平に見せた。女は紛れもなき瑠璃子だつた。而も彼女の白い、遠目にも、くつきりと白い手は、勝彦の肩、さうだ、肩よりも少し低い所へ、そつと後から当てられてゐるのだつた。

 それを見たとき、勝平は煮えたぎつてゐる湯を、飲まされたやうな、凄じい気持になつてゐた。ニヤリ〳〵と悦に入つてゐるらしいわが子の顔が、アリ〳〵と目に見えるやうに思つた。彼は、縁側ヴェランダから飛び降りて、わが子の顔を思ふさま、殴り付けてやりたいやうな恐ろしい衝動を感じた。

 が、それにも増して、瑠璃子の心持が、グツと胸に堪へて来た。昨夜ゆうべの騒ぎを知らぬ筈がない、親子の間の、浅ましい情景シーンを知らぬ筈がない。隣の部屋の美奈子さへ、眼を覚してゐるのに、瑠璃子が知らない筈はない。知つてゐながら、昨夜ゆうべの今日勝彦をあんなに近づけてゐる。

 さう思ふと、勝平は、瑠璃子の敵意を感ぜずにはゐられなかつた。さうだ! 自分が小娘として、つまらない油断や、約束をしたのが悪かつたのだ。云はゞ降伏した敵将の娘を、妻にしてゐるやうなものである。美しい顔の下に、どんな害心を蔵してゐるかも知れない。

 が、さう警戒はしながら、瑠璃子を愛する心は、少しも減じなかつた。それと同時に、眼前の情景シーンに対する嫉妬の心は少しも減じなかつた。



 勝平が、縁側ヴェランダの欄干に、釘付けにされながら、二人の後姿が全く見えなくなつた若い楓の林を、ぢつと見詰めてゐる時に、その林の向うにある泉水の畔から、瑠璃子の華やかな笑ひが手に取るやうに聞えて来た。

 それは、雲雀ひばりの歌ふやうに、自由な快活な笑ひだつた。結婚して以来、もう一月以上の日が経つ内、勝平に対しては決して笑つたことのないやうな自由な快活な笑ひ声であつた。こゝからは見えない泉水のほとりで、縦令たとへ馬鹿ではあるにしろ年齢としだけは若い、身体だけは堂々と立派な勝彦が、瑠璃子と相並んで、打ち興じてゐる有様が、勝平の眼に、マザ〳〵と映つて来るのであつた。

 彼は苦々しげに、二人に向つてでも吐くやうに、唾を遥かな地上へ吐いてから、その太い眉に、深い決心の色をめながら、階下へ降りて行つた。

 勝平は、抑へ切れない不快な心持に、悩まされつゝ、罪のない召使を、叱り飛ばしながら、漸く顔を洗つてしまふと、苦り切つた顔をして、朝の食卓に就いた。いつも朝食を一緒にする筈の瑠璃子はまだ庭園から、帰つて来なかつた。

「奥さんは何うしたのだ。奥さんは!」勝平は、オド〳〵してゐる十五六の小間使を、噛み付けるやうに叱り飛した。

「お庭でございます。」

「庭から、早く帰つて来るやうに云つて来るのだ。俺が起きてゐるぢやないか。」

「ハイ。」小さい小間使は、勝平の凄じい様子に、縮み上りながら、瑠璃子を呼びに出て行つた。

 瑠璃子が、入つて来れば、此の押へ切れないいきどほりを、彼女に対しても、洩さう。白痴の子を弄んでゐるやうな、彼女の不謹慎を思ひ切り責めてやらう。勝平はさう決心しながら、瑠璃子が入つて来るのを待つてゐた。

 二三分も経たない裡に、衣ずれの音が、廊下にしたかと思ふと、瑠璃子は少女のやうにいそいそと快活に、馳け込んで来た。

「まあ! お早う! もう起きていらしつたの。わたくしちつとも、知らなかつたのよ。お寝坊の貴方あなたの事だから、どうせ十一時近くまでは大丈夫だと思つてゐたのよ。昨夜あんなに遅く帰つて来たのに、よくまあ早くお目覚になつたこと。この花美しいでせう。一番大きくて、一番色の烈しい花なのよ。わたくしこれが大好き。」

 さう云ひながら、瑠璃子は右の手に折り持つてゐた、真紅の大輪のダリヤを、食卓テーブルの上の一輪挿に投げ入れた。

 勝平は、何うかして瑠璃子をたしなめようと思ひながらも、彼女の快活な言葉と、矢継早の微笑に、面と向ふと、彼は我にもあらず、凡ての言葉が咽喉のところに、からんでしまふやうに思つた。

昨夜ゆうべ、よくお眠りになつて? わたくし芝居で疲れましたでせう、今朝まで、グツスリと寝入つてしまひましたのよ。こんなに、よく眠られたことはありませんわ、近頃。」

 昨夜の騒ぎを、親子三人のあさましい騒ぎを、知つてゐるのか知らないのか、瑠璃子はその美しい顔の筋肉を、一筋も動かさずに、華奢な指先で、軽く箸を動かしながら、勝平に話しかけた。

 勝平は、心の裡に、わだかまつてゐる気持を、瑠璃子に向つて、洩すべきいとぐちを見出すのに苦しんだ。相手が、昨夜の騒ぎを、少しも知らないと云ふのに、それを材料として、話を進めることも出来なかつた。

 彼は、瑠璃子には、一言も答へないで、そのいら〳〵しい気持を示すやうに、自棄やけに忙しく箸を動かしてゐた。

 勝平の不機嫌を、瑠璃子は少しも気に止めてゐないやうに、平然と、その美しい微笑を続けながら、

わたくし、今日三越へ行きたいと思ひますの。連れて行つて下さらない?」

 彼女は、プリ〳〵してゐる勝平に、尚小娘か何かのやうに、甘えかゝつた。

「駄目です。今日は東洋造船の臨時総会だから。」

 勝平は、瑠璃子に対して、初めて荒々しい言葉を使つた。彼女はその荒々しい語気を跳ね返すやうに云つた。

「あら、さう。それでは、勝彦さんに一緒に行つていたゞくわ。……いゝでせう。」



 勝彦の名が瑠璃子の唇を洩れると、勝平の巨きい顔は、ます〳〵苦り切つてしまつた。

 相手のさうした表情を少しも眼中に置かないやうに、瑠璃子は無邪気にしつこく云つた。

「勝彦さんに、連れて行つていたゞいたらいけませんの。一人だと何だか心細いのですもの。わたくし一人だと買物をするのに何だかきまりが付かなくつて困りますのよ。表面うはべだけでもいゝからいゝとか何とか合槌を打つて下さる方が欲しいのよ。」

「それなら、美奈子と一緒に行らつしやい。」

 勝平は、怒つた牡牛のやうにプリ〳〵しながら、それでも正面から瑠璃子をたしなめることが出来なかつた。

「美奈子さん。だつて、美奈子さんは、三時過ぎでなければ学校から、帰つて来ないのですもの。それから支度をしてゐては、遅くなつてしまひますわ。」

 瑠璃子は、大きい駄々つ子のやうな表情を見せながら、その癖顔だけは、微笑を絶たなかつた。勝平は又黙つてしまつた。瑠璃子は追撃するやうに云つた。

「何うして勝彦さんに一緒に行つていたゞいては、いけませんの。」

 勝平の顔色は、咄嗟に変つた。その顳顬こめかみの筋肉が、ピク〳〵動いたかと思ふと、彼は顫へる手で箸を降しながら、それでも声けは、平静な声を出さうと努めたらしかつたが、変に上ずツてしまつてゐた。

「勝彦! 勝彦勝彦と、貴女あなたはよく口にするが、貴女は勝彦を一体何だと思つてゐるのです。もう、一月以上此家にゐるのだから、気が付いたでせう。親の身として、口にするさへ恥かしいが、あれは白痴ですよ。白痴も白痴も、御覧のとほり東西も弁じない白痴ですよ。あゝ云ふ者を三越に連れて行く。それは此の荘田の恥、荘田一家の恥を、世間へ広告して歩くやうなものですよ。貴女も、動機は兎も角、一旦此の家の人となつた以上、かう云ふ馬鹿息子があると云ふことを、広告して下さらなくつてもいゝぢやありませんか。」

 勝平は、結婚して以来、初めて荒々しい言葉を、瑠璃子に対して吐いた。が、象牙の箸を飯椀の中に止めたまゝ、ぢつと聴いてゐた瑠璃子は、眉一つさへ動かさなかつた。勝平の言葉が終ると、彼女は駭いたやうに、眼を丸くしながら、

「まあ! あんなことを。そんな邪推してゐらつしやるの。わたくし勝彦さんを馬鹿だとか白痴だとか賤しめたことは、一度もありませんわ。あんな無邪気な純な方はありませんわ。それは、少し足りないことは足りないわ。それは、お父様の前でも申し上げねばなりません。でも、あんなに正直な方に、わたくし初めてお目にかゝりましたのよ。それにわたくしの云つたことなら、何でもして下さるのですもの。此間、お家が広いので、夜寝室の中に、一人ゐると何だか寂しく心細くなると、申しますと、勝彦さんは、それなら毎晩部屋の外で番をしてやらうとおつしやるのですよ。わたくし冗談だとばかり、思つてゐますと、一昨夜二時過ぎに、廊下に人の気勢けはひがするので、ドアを開けて見ますと、勝彦さんが立つていらつしやるぢやありませんか。それが、丁度中世紀の騎士ナイトが、貴婦人を護る時のやうに、儼然として立つていらつしやるのですもの。わたくし可笑しくもあれば、有難くも思つたわ。わたくし此の頃、智恵のある怜悧な方には、飽き〳〵してゐますの、また、その智恵を、人を苦しめたり陥れたりする事に使ふ人達に、飽き〳〵してゐますのよ。また、人が傷け合つたり陥れ合つたりする世間その物にも、愛想が尽きてゐますのよ。わたくし、勝彦さんのやうな、のんびりとした太古の心で、生きてゐる方が、大好きになりましたのよ。貴方の前でございますが、何うして勝彦さんを捨てゝ、貴方を選んだかと思ふと、後悔してゐますのよ。おほゝゝゝゝゝ。」

 爽かな五月の流が、蒼い野を走るやうに、瑠璃子は雄弁だつた。黙つて聴いてゐた勝平の顔は、いかりと嫉妬のために、黒ずんで見えた。



余りに脆き



 勝平は、冗談かそれとも真面目かは分らないが、人を馬鹿にしてゐるやうに、からかつてゐるやうに、勝彦を賞める瑠璃子の言葉を聞いてゐると、思はずカツとなつてしまつて、手に持つてゐる茶碗や箸を、彼女になげつけてやりたいやうな烈しい嫉妬と怒とを感じた。が、口先ではそんな厭がらせを云ひながらも、顔だけは此の頃の秋の空のやうに、澄み渡つた麗かな瑠璃子を見てゐると、不思議に手が竦んで、茶碗を投げ付けることは愚か、一指を触るゝことさへも、為し得なかつた。

 が、勝平は心の中で思つた。此の儘にして置けば、瑠璃子と勝彦とは、日増に親しくなつて行くに違ひない。そして自分を苦しめるのに違ひない。少くとも、当分の間、自分と瑠璃子とが本当の夫婦となるまで、何うしても二人を引き離して置く必要がある。勝平は、咄嗟にさう考へた。

「あはゝゝゝゝ。」彼は突然取つて付けたやうに笑ひ出した。「まあいゝ! 貴女あなたがそんなに馬鹿が好きなら連れて行くもよからう。貴女のやうなのは、天邪鬼と云ふのだ。あはゝゝゝゝ。」

 勝平は、嫉妬と憤怒とを心の底へと、押し込みながら、何気ないやうに笑つた。

「何うも、有難う。やつと、お許しが出ましたのね。」瑠璃子も、サラリと何事もなかつたやうに微笑した。

 その時に、勝平は急に思ひ付いたやうに云つた。

「さう〳〵。貴女あなたに話すのを忘れてゐた。此間中頭が重いので、一昨日をとゝひ、近藤に診て貰ふと、神経衰弱の気味らしいと云ふのだ。海岸へでも行つて、少し静養したら何うだと云ふのだがね、さう云はれると、俺も此の七月以来会社の創立や何かで、毎日のやうに飛び廻つてゐたものだからね、精力主義のわしも可なりグダ〳〵になつてゐるのだ。神経衰弱だなんて、大したこともあるまいと思ふが、まあ暫らく葉山へでも行つて、一月ばかり遊んで来ようかと思ふのだ。尤も、彼処からぢや、毎日東京に通つても訳はないからね。それに就いては、是非貴女に一緒に行つていたゞきたいと思ふのだがね。」勝平は、熱心に、退引ならないやうに瑠璃子に云つた。

「葉山へ!」と云つたまゝ、さすがに彼女は二の句を云ひ淀んだ。

「さうです! 葉山です。彼処に、林子爵が持つてゐた別荘を、此春譲つて貰つたのだが、此夏美奈子が避暑に行つただけで、わしはまだ二三度しか宿とまつてゐないのだ。秋の方が、しづかでよいさうだから、ゆつくり滞在したいと思ふのだが。」

 勝平は、落着いた口調で言つた。葉山へ行くことは、何の意味もないやうに云つた。が、瑠璃子には、その言葉の奥に潜んでゐる勝平のよからぬ意志を、明かに読み取ることが出来た。葉山で二人だけになる。それが何う云ふ結果になるかは瑠璃子には可なりハツキリ分るやうに思つた。が、彼女はさうした危機を、未然に避くることを、潔しとしなかつた。どんな危機に陥つても、自分自身を立派に守つて見せる。彼女には、女ながらさうした烈しい最初の意気が、ピクリとも揺いでゐなかつた。

「結構でございますわ、わたくしも、そんな所で静かな生活を送るのが大好きでございますのよ。」

 彼女は、その清麗な面に、少しの曇も見せないで、爽かに答へた。

「あゝ行つて呉れるのか。それは有難い。」

 勝平は、心から嬉しさうにさう云つた。葉山へさへ、伴つて行けば、当分勝彦と引き離すことが出来る上に、其処では召使を除いた外は、瑠璃子と二人切りの生活である。殊に、鍵のかかり得るやうな西洋室はない。瑠璃子を肉体的に支配してしまへば、高が一個の少女である。普通の処女がどんなに嫌ひ抜いてゐても、結婚してしまへば、男の腕に縋り付くやうに、彼女も一旦その肉体を征服してしまへば、余りに脆き一個の女性であるかも知れない。勝平はさう思つた。

「それなら丁度ようございますわ。三越へ行つて、彼方あちらで入用な品物を揃へて参りますわ。」

 彼女は、身に迫る危険な場合を、少しも意に介しないやうに、むしろいそ〳〵としながら云つた。



 愛し合つた夫であるならば、それは楽しい新婚旅行である筈だけれども、瑠璃子の場合は、さうではなかつた。勝平と二人きりで、東京を離れることは、彼女に取つては死地に入ることであつた。東京の邸では、人目が多いだけに、勝平も一旦与へた約束の手前、理不尽な振舞に出ることは出来なかつたが、葉山では事情が違つてゐた。今迄は敵と戦ふのに、地の利を得てゐた。小さいながらも、彼女の城廓があつた。殊に盲目的に、彼女を護つてゐる勝彦と云ふ番兵もあつた。が、葉山には、何もなかつた。彼女は赤手にして、敵と渡り合はねばならなかつた。勝敗は、天に委せて、兎に角に、最後の必死的な戦ひを、戦はねばならなかつた。

 さうした不安な期待に、心を擾されながらも、彼女はいろ〳〵と、別荘生活に必要な準備を整へた。彼女は、当座の着替や化粧道具などを、一杯に詰め込んだ大きなトランクの底深く、一口の短剣を入れることを忘れなかつた。それが、夫と二人りの別荘生活に対する第一の準備だつた。

 父の男爵が、瑠璃子の烈しい執拗な希望に、到頭動かされて、不承々々に結婚の承諾を与へて、最愛の娘を、憎み賤しんでゐた男に渡すとき、男爵は娘に最後の贈り物として、一口の短劒を手渡した。

「これは、お前のお母様が家へ来るときに持つて来た守り刀なのだ。昔の女は、常に懐刀ふところがたなを離さずに、それで自分の操を守つたものだ。貴女も普通の結婚をするのなら、こんなものは不用だが、今度のやうな結婚には、是非必要かも知れない。これで、貴女の現在の決心を、しつかりと守るやうになさい。」

 父の言葉は簡単だつた。が、意味は深かつた。彼女はその匕首あひくちを身辺から離さないで、最後の最後の用意としてゐた。さうした最後の用意が、如何なる場合にも、彼女を勇気付けた。牡牛のやうに巨きい勝平と相対してゐながら、彼女は一度だつて、怯れたことはなかつた。

 瑠璃子が暫らく東京を離れると云ふことが分ると、一番に驚いたのは勝彦だつた。彼は瑠璃子が準備をし始めると、自分も一緒に行くのだと云つて、父の大きいトランクを引つぱり出して来て、自分の着物や持物を目茶苦茶に詰め込んだ。おしまひには、自分の使つてゐる洗面器までも、詰め込んで召使達を笑はせた。彼は、瑠璃子に捨てゝ置かれないやうにと、一瞬の間も瑠璃子を見失はないやうにあとへ〳〵と付き纏つた。

 それを見ると、勝平は眉を顰めずにはゐられなかつた。

 出立の朝だつた。自分が捨てゝ置かれると云ふことが分ると、勝彦は狂人のやうに暴れ出した。毎年一度か二度は、発作的に狂人のやうになつてしまふ彼だつた。彼は瑠璃子と父とが自動車に乗るのを見ると、自分も跣足はだしで馳け降りて来ながら、ドアを無理矢理に開けようとした。執事や書生が三四人で抱き止めようとしたが、馬鹿力の強い彼は、後から抱き付かうとする男を、二三人も其処へ振り飛ばしながら、自動車に縋り付いて離れなかつた。

 白痴でありながらも、必死になつてゐる顔色を見ると、瑠璃子は可なり心を動かされた。主人に慕ひ纏はつて来る動物に対するやうないぢらしさを、此の無智な勝彦に対して、懐かずにはゐられなかつた。

「あんなに行きたがつていらつしやるのですもの。連れて行つて上げてはいけないのですか。」

 瑠璃子は夫を振返りながら云つた。その微笑が、一寸皮肉な色を帯びるのを、彼女自身制することが出来なかつた。

「馬鹿な!」

 勝平は、苦り切つて、一言に斥けると、自動車の窓から顔を出しながら云つた。

「遠慮をすることはない。グン〳〵引き離して彼方あつちへ連れて行け。暴れるやうだつたら、何時かの部屋へ監禁してしまへ。当分の間、監視人を付けて置くのだぞ、いゝか。」

 勝平は、叱り付けるやうに怒鳴ると、丁度勝彦の身体が、多勢の力で車体から引き離されたのをさひはひに、運転手に発車の合図を与へた。

 動き出した車の中で瑠璃子は一寸居ずまひを正しながら、背後に続いてゐる勝彦のあさましい怒号に耳を掩はずにはゐられなかつた。



 葉山へ移つてから、二三日の間は、麗かな秋日和が続いた。東京では、とても見られないやうな薄緑の朗かな空が、山と海とを掩うてゐた。海は毎日のやうに静かで波の立たない海面は、時々緩やかなうねりが滑かに起伏してゐた。海の色も、真夏に見るやうな濃藍の色を失つて、それだけ親しみ易い軽い藍色に、はる〴〵と続いてゐた。そのはてに、伊豆の連山が、淡くほのかに晴れ渡つてゐるのだつた。

 十月も終に近い葉山の町は、洗はれたやうに静かだつた。どの別荘も、どの別荘も堅く閉されて人の気勢けはひがしなかつた。

 御用邸に近い海岸にある荘田別荘は、裏門を出ると、もう其処の白い砂地には、崩れた波の名残りが、白い泡沫を立ててゐるのだつた。

 勝平は、葉山からも毎日のやうに、東京へ通つてゐた。夫の留守の間、瑠璃子は何人なんぴとにも煩はされない静寂の裡に、浸つてゐることが出来た。

 瑠璃子はよく、一人海岸を散歩した。人影の稀な海岸には、自分一人の影が、寂しく砂の上に映つてゐた。遥に〳〵悠々と拡がつてゐる海や、その上をかぎりなく広大に掩うてゐる秋の朗かな大空を見詰めてゐると、人間の世のあさましさが、しみ〴〵と感ぜられて来た。自分自身が、復讐に狂奔して、心にもない偽りの結婚をしてゐることが、あさましい罪悪のやうに思はれて、とりとめもなく、心を苦しめることなのであつた。

 葉山へ移つてから、三四日の間、勝平は瑠璃子を安全地帯に移し得たことに満足したのであらう。人のよい好々爺になり切つて、夕方東京から帰つて来る時には、瑠璃子の心をよろこばすやうな品物や、おいしい食物などをお土産にすることを忘れなかつた。

 葉山へ移つてから、丁度五日目の夕方だつた。其日は、午過ぎから空模様があやしくなつて、海岸へ打ち寄せる波の音が、刻一刻凄じくなつて来るのだつた。

 海に馴れない瑠璃子には、高く海岸に打ち寄せる波の音が、何となく不安だつた。別荘番の老爺は暗く澱んでゐる海の上を、低く飛んで行く雲の脚を見ながら、『今宵は時化しけかも知れないぞ。』と、幾度も〳〵口ずさんだ。

 夕刻に従つて、風は段々吹き募つて来た。暗く暗く暮れて行く海のおもてに、白い大きい浪がしらが、後から〳〵走つてゐた。瑠璃子は硝子ガラス戸の裡から、不安な眉をひそめながら、海の上を見詰めてゐた。烈しい風が砂を捲いて、パラ〳〵と硝子ガラス戸に打ち突けて来た。

「あゝ早く雨戸を閉めておくれ。」

 瑠璃子は、狼狽して、召使に命じると、ピツタリと閉ざされた部屋の中に、今宵に限つて、妙に薄暗く思はれる電燈の下に、小さく縮かまつてゐた。人間同士の争ひでは、非常に強い瑠璃子も、かうした自然の脅威の前には、普通の女らしく臆病だつた。海岸に立つてゐる、地形の脆弱な家は、時々今にも吹き飛ばされるのではないかと思はれるほど、打ち揺いだ。海岸に砕けてゐる波は、今にも此の家を呑みさうに轟々たる響を立てゝゐる。

 瑠璃子には、結婚して以来、初めて夫の帰るのが待たれた。何時もは、夫の帰るのを考へると、妙に身体が、引き緊つてムラ〳〵とした悪感が、胸を衝いて起るのであつたが、今宵に限つては、不思議に夫の帰るのが待たれた。勝平の鉄のやうな腕が何となく頼もしいやうに思へた。逗子の停車場から自動車で、危険な海岸伝ひに帰つて来ることが何となくあやぶまれ出した。

「かう荒れてゐると、鐙摺あぶずりのところなんか、危険ぢやないかしら。」と女中に対して瑠璃子は、我にもあらず、さうした心配を口に出してしまつた。

 その途端に、吹き募つた嵐は、可なり宏壮な建物を打ち揺すつた。鎖で地面へ繋がれてゐる廂が、吹きちぎられるやうにメリ〳〵と音を立てた。



「こんなに荒れると、本当に自動車はお危なうございますわ。一層こんな晩は、彼方あちらでお宿りになるとおよろしいのでございますが。」

 女中も主人の身を案ずるやうにさう云つた。が、瑠璃子は是非にも帰つて貰ひたいと思つた。何時もは、顔を見てゐる丈でも、ともすればムカ〳〵として来る勝平が、何となく頼もしく力強いやうに感ぜられるのであつた。

 日が、トツプリ暮れてしまつた頃から、嵐はます〳〵吹き募つた。海は頻りに轟々と吼え狂つた。波は岸を超え、常には干乾びた砂地を走つて、別荘の土堤どての根元まで押し寄せた。

「潮が満ちて来ると、もつと波がひどくなるかも知れねえぞ!」

 海の模様を見るために出てゐた、別荘番の老爺おやぢは、漆のやうに暗い戸外から帰つて来ると、不安らしく呟いた。

「まさか、此間のやうな大暴風雨あらしにはなりますまいね。」

 女中も、それに釣り込まれたやうに、オド〳〵しながら訊いた。皆の頭に、まだ一月にもならない十月一日の暴風雨の記憶がマザ〳〵と残つてゐた。それは、東京の深川本所に大海嘯つなみを起して、多くの人命を奪つたばかりでなく、湘南各地の別荘にも、可なりヒドイ惨害を蒙らせたのであつた。

「まさか先度のやうな大暴風雨にはなるまいかと思ふが、時刻も風の方向むきもよく似てゐるでなあ!」

 老爺は、心なしか瑠璃子達を脅すやうに、首を傾げた。

 夜に入つてから、間もなく雨戸を打つ雨の音が、ボツリ〳〵と聞え出したかと思ふと、それが忽ち盆を覆すやうな大雨となつてしまつた、天地を洗ひ流すやうな雨の音が、瑠璃子達の心を一層不安に充たしめた。

 恐ろしい風が、グラ〳〵と家を吹き揺すつたかと思ふ途端に、電燈がふつと消えてしまつた。かうした場合に、燈火の消えるほど、心細いものはない。女中は闇の中から手探りにやつと、洋燈ランプを探し当てゝ火を点じたが、ほの暗い光は、一層瑠璃子の心を滅入らしてしまつた。

 暗い燈火の下に蒐つてゐる瑠璃子と女中達を、もつと脅かすやうに、風は空を狂ひ廻り、波はしきりなしに岸を噛んで殺到した。

 風は少しも緩みを見せなかつた。雨を交へてからは、有力な味方でもが加はつたやうに、益々ます〳〵暴威を加へてゐた。風と雨と波とが、三方から人間の作つた自然の邪魔物を打ち砕かうとでもするやうに力をあはせて、此建物を強襲した。

 グワラ〳〵と、何処かで物の砕け落ちる音がしたかと思ふと、それに続いて海に面してゐる廂が吹き飛ばされたと見え、ベリ〳〵と云ふ凄じい音が、家全体を震動した。今迄は、それでも、慎しく態度の落着を失つてゐなかつた瑠璃子もつい度を失つたやうに立ち上つた。

「何うしようかしら、今の裡に避難しなくてもいゝのかしら。」

 さう云ふ彼女の顔には、恐怖の影がアリ〳〵と動いてゐた。人間同士の交渉では、烈女のやうに、強い彼女も、自然の恐ろしい現象に対しては、女らしく弱かつた。

 女中達も、色を失つてゐた。女中は声を挙げて別荘番の老爺を呼んだけれども、風雨の音に遮られて、別荘番の家までは、届かないらしかつた。

 ベリ〳〵と云ふ廂の飛ぶ音は、尚続いた。その度に、家がグラ〳〵と今にも吹き飛ばされさうに揺いだ。

 丁度、此の時であつた。瑠璃子の心が、不安と恐怖のどん底に陥つて、藁にでも縋り付きたいやうに思つてゐる時だつた。悽じい風雨の音にも紛れない、勇ましい自動車の警笛サイレンが、暗い闇を衝いてかすかに〳〵聞えて来た。

「あゝお帰りになつた!」瑠璃子は甦へつたやうに、思はず歓喜に近い声を挙げた。その声には、夫に対する妻としての信頼と愛とが籠つてゐることを否定することが出来なかつた。



 風雨の烈しい音にも消されずに、警笛サイレンの響は忽ちに近づいた。門内の闇がパツと明るく照されて、その光の裡に雨が銀糸を列ねたやうに降つてゐた。

 瑠璃子と女中達二人とは、その燦然と輝く自動車の頭光ヘッドライトに吸はれたやうに、玄関へ馳け付けた。

 微醺を帯びた勝平は、その赤い巨きい顔に、暴風雨あらしなどは、少しも心に止めてゐないやうな、悠然たる微笑を湛へながら、のつそりと車から降りた。

「お帰りなさいまし、まあ大変でございましたでせうね。お道が。」

 瑠璃子のさうした言葉は、平素のやうに形式だけのものではなく、それに相当した感情が、ピツタリと動いてゐた。

「なに、大したことはなかつたよ。それよりもね、貴女あなたが蒼くなつてゐるだらうと思つてね。此間の大暴風雨あらしで、みんなビク〳〵してゐる時だからね。いや、鎌倉まで一緒に乗り合はして来た友人にね、此の暴風雨あらしぢや道が大変だから、鎌倉で宿まつて行かないかと、云はれたけれどもね。やつぱり此方こつちが心配でね。是非葉山へ行くと云つたら、冷かされたよ。美しい若い細君を貰ふと、それだから困るのだと、はゝゝゝゝゝ。」

 凄じい風の音、烈しい雨の音を、聞き流しながら、勝平は愉快に哄笑した。自然の脅威を挑ね返してゐるやうな勝平の態度に接すると、瑠璃子は心強く頼もしく思はずにはゐられなかつた。男性の強さが、今始めて感ぜられるやうに思つた。

わたくしうしようかと思ひましたの。廂がベリベリと吹き飛ばされるのですもの。」

 瑠璃子は、まだ不安さうな眼付をしてゐた。

「なに、心配することはない。十月一日の暴風雨の時だつて、土堤どてが少しばかり、崩されただけなのだ。あんな大暴風雨が、二度も三度も続けて吹くものぢやない。」

 勝平は、瑠璃子が後から、着せかけた褞袍どてらに、くるまりながら、どつかりと腰を降ろした。

 が、勝平のさうした言葉を、裏切るやうに、風は刻々吹き募つて行つた。可なり、ピツタリと閉されてゐる雨戸迄が、今にも吹き外されさうに、バタ〳〵と鳴り響いた。

「さあ! お酒の用意をして下さらんか。かうした晩は、お酒でも飲んで、大に暴風雨と戦はなければならん、はゝゝゝ。」

 勝平は、暴風雨の音に、怯えたやうに耳を聳てゝゐる瑠璃子にさう云つた。

 酒盃の用意は、整つた。勝平は吹き荒ぶ暴風雨の音に、耳を傾けながら、チビリ〳〵と盃を重ねてゐた。

わたくし、本当に早く帰つて下さればいゝと思つてゐましたのよ。男手がないと何となく心細くつてよ。」

「はゝゝ、瑠璃子さんが、わしを心から待つたのは今宵が始めてだらうな、はゝゝゝゝ。」

 勝平は機嫌よく哄笑した。

「まあ! あんなことを、毎日心からお待ちしてゐるぢやありませんか。」

 瑠璃子は、ついさうした心易い言葉を出すやうな心持ちになつてゐた。

うだか。分りやしませんよ。老爺おやぢめ、なるべく遅く帰つて来ればいゝのに。かう思つてゐるのぢやありませんか。はゝゝゝゝ。」

 瑠璃子の今宵に限つて、温かい態度に、勝平は心から悦に入つてゐるのだつた。

「それも、無理はありません。貴女が内心わしを嫌つてゐるのも、全く無理はありません。当然です、当然です。俺も嫌がる貴女あなたを、何時までも名ばかりの妻として、束縛してゐたくはないのです。これが、どんな恐ろしい罪かと云ふことが分つてゐるのです。所がですね。初めはホンの意地から、結婚した貴女が、一旦形式だけでも同棲して見ると、……一旦貴女を傍に置いて見ると、死んでも貴女を離したくないのです。いや、死んでも貴女から離れたくないのです。」

 余程酒が進んで来たと見え、勝平は管を捲くやうにさう云つた。



 風は益々吹き荒れ雨は益々降り募つてゐた。が、勝平は戸外のさうした物音に、少しも気を取られないで、瑠璃子がいでやつた酒を、チビリ〳〵とめながら、熱心に言葉を継いだ。

「まあ、簡単に云つて見ると、スツカリ心から貴女に惚れてしまつたのです! わしは今年四十五ですが、此年まで、本当に女と云ふものに心を動かしたことはなかつたのです。勝彦や美奈子の母などとも、たゞ、在来ありきたりの結婚で、給金のらない高等な女中をでも、傭つたやうに考うて、接してゐたのです。金が出来るのに従つて、金で自由になる女とも沢山接して見ましたが、どの女もどの女も、たゞ玩具か何かのやうに、弄んでゐたのに過ぎないのです。わしは女などと云ふものは、酒や煙草などと同じに、我々男子の事業の疲れを慰めるために存在して居る者に過ぎないとまで高をくゝつてゐたのです。所がです、わしのさうした考へは貴女に会つた瞬間に、見事に打ち破られてゐたのです。男子の為に作られた女でなくして、女自身のために作られた女、わしは貴女に接してゐると、直ぐさう云ふ感じが頭に浮かんだのです。男の玩具として作られた女ではなくして、男を支配するために作られた女、わしは貴女を、さう思つてゐるのです。それと一緒に、今まで女に対して懐いてゐた侮蔑や軽視は、貴女に対してはだん〳〵無くなつて行くのです。その反対に、一種の尊敬、まあさう云つた感じが、だん〳〵胸の中に萌して来たのです。結婚した当座は、何の此の小娘が、俺を嫌ふなら嫌つて見ろ! 今に、征服してやるから。と、かう思つてゐたのです。所が、今では貴女の前でなら、どんなに頭を下げても、いいと思ひ出したのです。貴女の愛情を、得るためになら、どんなに頭を下げても、いゝと思ひ始めたのです。何うです、瑠璃子さん! わしの心が少しはお分りになりますか。」

 勝平は、さう云つて言葉を切つた。酔つてはゐたが、その顔には、一本気な真面目さが、アリ〳〵と動いてゐた。かうした心の告白をするために、故意わざ酒盃さかづきを重ねてゐるやうにさへ、瑠璃子に思はれた。

わしは、世の中に金より貴いものはないと思つてゐました。わしは金さへあれば、どんな事でも出来ると思つてゐました。実際貴女を妻にすることが、出来た時でさへ、金があればこそ、貴女のやうな美しい名門の子女を、自分の思ひどほりにすることが出来るのだと思つてゐたのです。が、わしが貴女を、金で買ふことが出来たと想つたのは、わし考違かんがへちがひでした。金でわしの買ひ得たのは、たゞ妻と云ふ名前だけです。貴女の身体をさへ、まだ自分の物に、することが出来ないで苦しんでゐるのです。まして、貴女の愛情の断片でも、わしの自由にはなつてゐないのです。わしは貴女のわしに対する態度を見て、つくづく悟つたのです。わしの全財産を投げ出しても、貴女の心の断片きれはしをも、買ふことが出来ないと云ふことを、つく〴〵悟つたのです。が、さう思ひながらも、わしは貴女を思ひ切ることが出来ないのです。わしは金で買ひ損つたものを、わしの真心で、買はうと思ひ立つたのです。いや、買ふのではない、貴女の前にひざまづいて、買ふことの出来なかつたものを哀願しようとさへ思つてゐるのです。また、さうせずにはゐられないのです。先刻さつきも申しましたとほり、もう一刻も貴女なしには生きられなくなつたのです。」

 変に言葉までが改まつた勝平は、恋人の前に跪いてゐる若い青年か、何かのやうに、激してゐた。彼の巨きい真赤な顔は、何処にも偽りの影がないやうに、真面目に緊張してゐた。彼は大きい眼をきながら、瑠璃子の顔を、ぢつと見詰めてゐた。敵意のある凝視なら、睨み返し得る瑠璃子であつたが、さうした火のやうな熱心の凝視には却つて堪へかねたのであらう、彼女は、眩しいものを避けるやうに、ぢつと顔を俯けた。

「何うです! 瑠璃子さん! 俺の心を、少しは了解して下さいますか。」

 勝平の声は、瑠璃子の心臓をくやうな力が籠つてゐた。



 酒の力を借りながら、その本心を告白してゐるらしい勝平の言葉を、聴いてゐると、今までは獣的ブルータルな、俗悪な男、精神的には救はれるところのない男だと思ひ捨てゝゐた勝平にも、人間的な善良さや弱さを、感ぜずにはゐられなかつた。

 あれ丈、傲岸で黄金の万能を、主張してゐた男が、金で買へない物が、世の中に儼として存在してゐることを、潔く認めてゐる。金では、人の心の愛情の断片かけらをさへ、買ひ得ないことを告白してゐる。彼は、今自分の非を悟つて、瑠璃子の前に平伏して彼女の愛を哀願してゐる。敵は脆くも、降つたのだ。さうだ! 敵は余りにも、脆くも降つたのだ、瑠璃子は心の裡で思はず、さう叫ばずにはゐられなかつた。

「瑠璃子さん! わしはお願ひするのだ。わしは、わしの前非を悔いて貴女に、お願ひするのぢや。貴女は、心からわしの妻になつて下さることは出来んでせうか。これまでの偽りの結婚を、わしの真心で浄めることは出来んでせうか。わしは、この結婚を浄めるために、どんなことをしてもいゝ。わしの財産を、みんな投げ出してもいゝ。いやわし身体からだ生命いのちもみんな投げ出してもいゝ。わしは、貴女から、夫として信頼され愛されさへすれば、どんな犠牲を払つてもいゝと思つてゐるのです。わしは、先刻さつき自動車から降りて、貴女と顔を見合せた時、わしは結婚して以来初めて幸福を感じたのです。今日だけは、貴女が心からわしを迎へて呉れてゐる。貴女の笑顔が心からの笑顔だと思ふと、わしは初めて結婚の幸福を感じたのです。が、それも落着いて考へて見ると、貴女がわしを喜んで迎へて呉れたのも、夫としてではない、たゞこんな恐ろしい晩に必要な男手として喜んでゐるのだと思ふと、又急に情なくなるのです。わしが貴女を、賤しい手段で、妻にしたと云ふ罪を、わしの貴女に対する現在の真心で浄めさせて下さい!」

 勝平は、酒のために、気が狂つたのではないかと思はれるほどに激昂してゐた。瑠璃子は相手の激しい情熱に咽せたやうに何時の間にか知らず〳〵、それに動かされてゐた。

「瑠璃子さん、貴女も今までの事は、心から水に流して、わしの本当の妻になつて下さい。貴女が心ならずも、わしの妻になつたことは、不幸には違ひない。が、一旦妻になつた以上、貴女が肉体的には、妻でないにしろ、世間では誰も、さうは思つてゐないのです。社会的に云へば、貴女は飽くまでも、荘田勝平の妻です。貴女も、かうした羽目に陥つたことを、不幸だと諦めて、心からわしの妻になつて下さらんでせうか。」

 勝平の眼は、熱のあるやうに輝いてゐた。瑠璃子も、相手の熱情に、ついフラ〳〵と動かされて、思はず感激の言葉を口走らうとした。が、その時に彼女の冷たい理性が、やつとそれを制した。

『相手が余りに脆いのではない! お前の方が余りに脆いのではないか。お前は、最初のあれほど烈しい決心を忘れたのか。正義のために、私憤ではなくして、むしろ公憤のために、相手を倒さうと云ふ強い決心を忘れたのか。勝平の口先だけの懺悔に動かされて、余りに脆くお前の決心を捨てゝしまふのか。お前は勝平の態度を疑はないのか。彼は、お前に降伏したやうな様子を見せながら、お前を肉体的に、征服しようとしてゐるのだ。兜を脱いだやうな風を装ひながら、お前に飛び付かうとしてゐるのだ。お前が、勝平の告白に感激して、お前の手を与へて御覧! 彼は、その手を戴くやうな風をしながら、何時の間にかお前を蹂み躙つてしまふのだ。お前は敵の暴力と戦ふばかりでなく、敵の甘言とも戦はなければならぬ。敵は、お前のプライドに媚びながら、逆にお前を征服しようとしてゐるのだ。余りに脆いのは敵でなくしてお前だ。』

 瑠璃子の冷たい理性は、覚めながらさう叫んだ。彼女は、ハツと眼が覚めたやうに、居ずまひを正しながら云つた。

「あら、あんな事を仰しやつて? 最初から、本当の妻ですわ。心からの妻ですわ。」

 さう云ひながら、彼女は冷たい、然しながら、美しい笑顔を見せた。



嵐を衝いて



 勝平は、瑠璃子の言葉だけは、打ち解けてゐても、笑顔は氷のやうに冷たいのを見ると、絶望したやうに云つた。

「あゝ貴女あなたは、何うしてもわしを理解して下さらぬのぢや。わしの最初の罪を何うしても許して下さらぬのぢや。貴女は、わしと勝彦とを、操つてわしに、畜生道の苦しみを見せようとしてゐるのぢや。よい、それならよい! それならそれでよい! 貴女が、何時までもわしかたきと見るのなら、わしも、わしかたきになつてゐてもいゝ。わしが貴女の前に、跪いてこれほどおねがひしてゐるのに、貴女はわしの真心を受け容れて下さらんのぢやから。」

 もう先刻から、一升以上も飲み乾してゐる勝平は、濁つた眸を見据ゑながら、威丈高に瑠璃子にのしかゝるやうな態度を見せた。相手が下手したでから出ると、ついホロリとしてしまふ瑠璃子であつたが相手が正面からかゝつて呉れゝば、一足だつて踏み退く彼女ではなかつた。

 相手の態度が急変すると、瑠璃子は先刻さつきの勝平の神妙な態度は、たゞ自分を説き落すための、偽りの手段であつたことが、ハツキリしたやうに思つた。

「あら、あんな事をおつしやつて、貴君の真心は、初から分つてゐるぢやありませんか。」

 瑠璃子は、相手のおどしを軽く受け流すやうに、嫣然と笑つた。

「あゝ、貴女のその笑顔ぢや。それは俺を悩ますと同時に、嘲けりはづかしめ罵しつてゐるのぢや。あゝ俺は貴女のその笑顔に堪へない。俺は貴女のその笑顔を、はじめはどんなに楽しんでゐたか分らないが、だん〳〵見てゐると、貴女のその美しい笑顔の皮一つ下には、わしに対する憎悪と嘲笑とが、一杯に充ちてゐるのだ。貴女の笑顔ほど皮肉なものはない。貴女の笑顔ほど、わしの心を突き刺すものはない。貴女は、その笑顔でわしを悩まし殺さうとしてゐるのだ。いや、わしばかりぢやない! あの馬鹿の勝彦をまで悩ましてをるのぢや。」

 勝平の態度には、愈々いよ〳〵乱酔のきざしが見えてゐた。彼の眸は、怪しい輝きを帯び、狂人か何かのやうに瑠璃子をジロ〳〵と見詰めてゐた。

 風も雨も、海岸の此一角に、その全力を蒐めたかのやうに、益々ます〳〵吹き荒び降り増つた。が瑠璃子は人と人との必死の戦ひのために、さうした暴風雨の音をも、聞き流すことが出来た。

「疑心暗鬼と云ふことがございますね。貴君のは、それですよ。わたしを疑つてかかるから、わたしの笑顔迄が、夜叉のおもてか何かのやうに見えるのでございますよ。」

 さう云ひながらも、瑠璃子はその美しい冷たい笑ひを絶たなかつた。勝平は、その巨きい身体をのたうつやうにして云つた。

「貴女は、わしを飽くまでも、馬鹿にしてをられるのぢや。貴女は人間としてのわしを信用してをられんのぢや。貴女は、わしの人格を信じてをられないのぢや。わしに人間らしい心のあることを信じてをられないのぢや。よし、貴女がわしを人間として扱つて下さらないなら、わしは獣として、貴女に向つて行くのぢや。わしは獣のやうに、貴女に迫つて行くのぢや。」

 勝平の眸は燃ゆるやうに輝やいた。

「さうだ! わしは獣として貴女に迫つて行く外はない!」

 さう云つたかと思ふと、勝平はひぐまが人間を襲ふ時のやうに、のツと立ち上つた。

 瑠璃子も弾かれたやうに、立ち上つた。

 立ち上つた勝平は、フラ〳〵とよろめいてやつと踏み堪へた。彼はその凄じい眸を、真中に据ゑながら、瑠璃子の方へヂリ〳〵と迫つて来た。

 かよわい瑠璃子の顔は、真蒼だつた。身体からだはかすかに顫へてゐたけれども、わるびれた所は少しもなかつた。その美しい眉宇は、きつと、緊きしまつて、許すまじき色が、アリ〳〵と動いた。

 丁度、その時だつた。風に煽られた大雨が一頻り沛然として降り注いで来た。



 荒るゝまゝに、夜は十二時に近かつた。

 台所にゐる筈の女中達は、眠りこけてでもゐるのだらう、話声一つ聞えて来なかつた。ただ吹きるゝ大風雨の裡に勝平と瑠璃子とだけが、取り残されたやうに、睨みながら、相対してゐた。

 空に風と雨とが、戦つてゐるやうに、地に彼等は戦つてゐるのだつた。瑠璃子は戦ふべき力もなかつた。武器も持つてはゐなかつた。たゞ彼女の態度に備る天性の美しい威厳一つが、勝平の獣的な攻撃を躊躇させてゐた。が、その躊躇も、永く続く筈はなかつた。勝平の眼が、段々狂暴な色を帯びると共に、彼はいきほひまうに瑠璃子に迫つて来た。彼女は、相手の激しい勢に圧されるやうにヂリ〳〵と後退あとずさりをせずにはゐられなかつた。

 勝平の今少し前の懺悔や告白が、かうした態度に出るまでの径路であつた──一旦下手したてから説いて見て、それで行かなければ腕力に訴へる──かと思ふと、勝平に対して、懐いてゐた一時の好感は、煙のやうになくなつて、たゞ苦い苦い憎悪の滓だけが、残つてゐた。指一つ触れさせてなるものか、さうした堅い決意が、彼女の繊細な心臓を、鉄のやうに堅くしてゐた。

 が、彼女の精神的な強さも、勝平の肉体の上の優越に打ち勝つことが出来なかつた。何時の間にか追ひ詰められたやうに、部屋の一方に、海に面した硝子ガラス戸の方へ、逃るゝ道のない硝子ガラス戸の方へ、瑠璃子は圧し付けられてゐる自分を見出した。

 其処で、追ひ詰られた牝鹿と獅子とのやうに、二人は暫らくは相対してゐた。

 暴風雨は、少しも勢ひを減じてゐなかつた。岸を噛んで殺到する波濤の響が、前よりも、もつと恐ろしく聞えて来た。が、相争つてゐる二人の耳には、波の音も風の音も聞こえては来なかつた。

「何をなさるのです。貴君あなたは?」

 勝平が、その堅肥りの巨い手を差し出さうとした時、瑠璃子は初めて声を出して叱した。

「何をしようと、わしの勝手だ。夫が妻を、いかさうが殺さうが。」

 勝平は、さう云ひながら、再び猿臂ゑんぴを延して、瑠璃子の柔かな、やさ肩を掴まうとしたが、軽捷な彼女に、ひらりと身体を避けられると、酒に酔つた足元は、ふら〳〵と二三歩よろめいて、のめりさうになつた。

「恥をお知りなさい! 恥を! 妻ではございましても奴隷ではありませんよ。暴力を振ふうなんて。」

 彼女は、汚れた者を叱するやうに、吐き捨てるやうに云つた。彼女の声は、さすがにわな〳〵と顫へてゐた。

「なに! 恥を! 恥も何もあるものか、わしはもう獣になり切つてゐるのぢや。」

 勝平は、さう云つたかと思ふと前よりももつと烈しい勢で瑠璃子に迫つた。かうしたあさましい人間の争ひを、讃美するかのやうに、風は空中に凄じい歓声を挙げ続けてゐる。

 瑠璃子は、ふとその時まもり刀のことを思ひ出した。かうした非常な場合には、それを抜き放つて自分を護る外はない。が、さう思ひ付いたものの、それはトランクの底深く、蔵つてあるので、急場の今は、何の援けにもならなかつた。

 彼女は、最後の手段として、声を振り搾つて女中を呼んだ。が、彼女の呼び声は、風雨の音に消されてしまつて、台所の方からは、物音も聞えて来なかつた。

 瑠璃子が、いよ〳〵窮したのを見ると、勝平はいよ〳〵威丈高になつた。彼は、獣そのまゝの形相を現して居た。ほの暗い洋燈ランプの光で、眼が物凄く光つた。

「あれ!」と、瑠璃子が身を避けようとした時、勝平の強い腕は、彼女の弱い二の腕を、グツと握り占めてゐた。

「何をするのです。お放しなさい!」

 彼女は必死になつて、振りほどかうとした。が、強い把握は、容易に解けさうもなかつた。

「何を! 何をするのです!」

 瑠璃子は、死者狂ひになつて突き放した。が、突き放された勝平は、前よりも二倍の狂暴さで、再び瑠璃子に飛びかゝつた。

 その時だつた。瑠璃子の背後の雨戸と硝子ガラス戸とが、バタ〳〵と音を立てゝ外れると、恐ろしい一陣の風が、サツと室の中へ吹き込んだ。

 洋燈ランプは忽ちに消えてしまつた。が、灯の消える刹那だつた。風と共に飛び込んで来た一個の黒影が今瑠璃子に飛びかゝらうとする勝平に、横合からどうと組み付くのが、灯の消ゆるたゆたひの瞬間に瞥見された。



 硝子ガラス戸の外れるのと共に、室の中へ吹き入つた風と雨とは、忽ちに、二十畳に近い大広間に渦巻いた。床の間の掛軸が、バラ〳〵と吹き捲られて、ね落ちると、ガタ〳〵と烈しい音がして、鴨居の額が落ちる、六曲の金屏風が吹き倒される。一旦吹き込んだ風は逃れ口がないために、室内の闇を縦横に馳せ廻つて、何時までも何時までも狂奔した。

 而も、此の風雨のれ狂ふ漆黒の闇の中に、勝平は飛び込んだ黒影と、必死の格闘を続けてゐたのだ。

「貴様は誰だ! 誰だ!」

 不意の襲撃に驚いたらしく勝平は、狼狽して怒号した。が、相手は黙々として返事をしなかつた。

 肉と肉とが、相搏つ音が、風雨の音にも紛れず、凄じい音を立てた。身体と身体とが、打ち合ふ音、筋肉と筋肉とが、軋み合ふ音、それは風雨の争ひにも、負けないほどに恐ろしかつた。

 其のうちどうと家中を揺がせる地響を打つて、一方が投げ出される音が聞えた、それに続いて転がり合ひながら、格闘する凄じい音が続いた。

「強盗だ! 強盗だ! 早く老爺ぢいやを呼んで来い! 瑠璃子! 瑠璃子!」

 戦ひが不利と見えて、勝平の声は悲鳴に近かつた。

 瑠璃子は、物事の烈しい変化に、気をられたやうに、ボンヤリ闇の中に立つてゐた。身に迫つた危険を、思ひがけなく脱し得た安心と、新しく突発した危険に対する不安とで、心が一種不思議な動乱の中に在つた。

 勝平の悲鳴を聴いてゐると、助けてやらねばならぬと思ひながら、一種の小気味よさを感ぜずにはゐられなかつた。自分に獣の如く迫つて来た彼が、突然の侵入者に依つて、脆くも取つて伏せられてゐる。さう思ふと瑠璃子の動乱した胸にも皮肉な快感が、ぞく〳〵とこみ上げて来る。

 格闘はなほ続いた。組み合ひながら、座敷中をのたくつてゐる恐ろしい物音が絶えなかつた。

「瑠璃子! 瑠璃子! 早く、早く。」

 援けを呼ぶ勝平の声は、だん〳〵苦しさうに喘いで来た。

 瑠璃子の心の裡に、もつと勝平を苦しませてやれ、かうした不意の出来事に依つて、もつと彼を懲してやれと云ふ、勝平に対する憎悪の心持と、平生の憎悪は兎に角、不時の災難に苦しんでゐる相手を、援けてやらうと云ふ人間的な心持とが、相争つた。

 其裡に、ゼイ〳〵と息も絶えさうに、喘ぎ始めた勝平の声が、聞え出した。

「苦しい! 苦しい! 人殺し! 人殺し!」

 勝平は、到頭最後の悲鳴を出してしまつた。さうした声を聞くと、瑠璃子の心にも、勝平に対する憐憫が湧かずには居なかつた。彼女は、始めて我に返つたやうに、台所の方に駆け出しながら、大声を出した。

老爺ぢいや! 老爺! 早く来ておくれ! 泥棒! 泥棒!」

 瑠璃子の声も、スツカリ上ずツてしまつてゐた。が、さう叫んだ時、彼女の頭の中に突然恋人の直也の事が閃いた。彼は、勝平を射たうとして誤つて、美奈子を傷つけた為、危く罪人とならうとしたのを、勝平に対する父の子爵の哀訴のために、告訴されることを免れた。が、彼はかたきの勝平からさうした恩恵を受けたことを、死ぬほど恥しがつて、学業を捨ててしまつて、遠縁の親戚が経営してゐるボルネオの護謨ゴム園に走らうとしてゐる。瑠璃子は、そんな噂を、耳にはさんでゐる。が、あの多血性な恋人は、さうした逃避的な態度を、捨てゝ、その恋のかたきを倒すために、再び風雨の夜に乗じて迫つたのであらうか。否、自分に訣別するため、よそながら自分を見ようとした時、偶然自分が危難に遭遇したため、前後の思慮もなく飛び込んだのではないだらうか。

 強盗! 泥棒! 強盗や泥棒が、あゝした襲撃を為すだらうか。もし、あれが直也だつたら、縦令たとひ、勝平を倒したにしろ、彼の一生はムザ〳〵と埋れてしまふのだ。尤も、今でも自分のために、半分埋れかけてゐるのだが。

 さう思ふと、瑠璃子は老爺ぢいやを呼ぶ声も出なくなつてしまつて、再び其処へ立ちすくんだ。

 が、瑠璃子の声に騒ぎ立つた女中は、声を振り搾つて老爺ぢいやを呼んだ。



 叫び立てる女中達の声に、別荘番の老爺ぢいやは驚いて馳け付けて来た。強盗だと聴くと、いきなり取つて返して、古い猟銃用の村田銃を持つて来た。彼は手早く台所の棚から、カンテラを取り出すと、取り乱す容子もなく、灯を点じて、戸外同様に風雨のれ狂ふ広間の方へと、勇ましく立ち向つた。もう六十を越した老人ではあつたが、根が漁師育ちであるけに、胆力はガツシリと据つてゐた。

 瑠璃子は、勝平と相搏つてゐる相手が、もしや恋人の直也でありはしないかと思ふと、此の一徹の老人が、一気に銃口を向けやしないかと思ふ心配で、心が怪しく擾れた。それかと云つて、強盗であるかも知れぬ闖入者を、庇ふやうな口は利けなかつた。台所に顫へてゐる女中を後に残しながら、固唾かたづを飲みながら、老人の後から、いて行つた。

 座敷は、風雨で滅茶苦茶になつてゐた。室の中に渦巻く風のために、硝子ガラス戸が三枚も外れてゐた。其処から吹き入る雨のために、水を流したやうに、濡れた畳が、カンテラの光に物凄く映つてゐた。今にも、天井が吹き抜かれるやうに、バリ〳〵と恐ろしい音を立てゝ、鳴り続けた。

 老人は、カンテラの光を翳しながら、

「旦那! 旦那! 喜太郎が参りましたぞ!」と次ぎの間から、先づ大声で怒鳴つた。

 が、勝平はそれに対して、何とも答へなかつた。たゞ勝平が発してゐるらしい低いうめき声が聞えるだけだつた。

「旦那! 旦那! しつかりなさい!」

 さう云ひながら、喜太郎は暗い座敷の中を、カンテラで照しながら、駈け込んだ。その光で、ほの暗く照し出された大広間の中央に、勝平は仰向に打ち倒れながら、苦しさうにうめいてゐるのだつた。

「旦那! 旦那! しつかりなさい! 喜太郎が参りましたぞ! 泥棒は何うしただ!」

 喜太郎は、勝平の耳許で勢よく叫んだ。が、勝平はたゞ低く、喘息病みか何かのやうに咽喉のところで、低くうめくだけだつた。

「旦那! 怪我をしたか。何処だ! 何処だ!」

 老人は、狼狽しながら、その太い堅い手で、勝平の身体を撫で廻した。が、何処にも傷らしい傷はなかつた。が、それにも拘はらず、半眼に開かれてゐる勝平の眼は、白く釣り上がつてゐる。

「あゝ! こりやいけねえ。奥様、こりやいけねえぞ。」

 さう云ひながら、老人は勝平の身体からだなかば抱き起すやうにした。が、巨きい身体は少しの弾力もなく石の塊か何かのやうに重かつた。

 瑠璃子は、さすがに驚いた。

「もし、貴君! もし貴君! 貴君!」

 彼女は、名ばかりの夫の胸に、縋り付くやうにして叫んだ。が、勝平の身体に残つてゐる生気は、かうしてゐる間にも、だん〳〵消えて行くやうに思はれた。

 おづ〳〵顫へながら、座敷へ近づいて来た女中を顧みながら、瑠璃子はハツキリと少しも取りみださない口調で云つた。

「ブランデーの壜を大急ぎで持つておいで。それから、吉川様へ直ぐお出下さるやうに電話をおかけなさい! 直ぐ! 主人が危篤でございますからと。」

 女中の一人は、直ぐブランデーの壜を持つて来た。瑠璃子は、それをコップに酌ぐと、甲斐甲斐しく勝平の口を割つて、口中へ注ぎ入れた。

 勝平の蒼ざめてゐた顔が、心持赤く興奮するやうに見えた。彼の釣り上つた眼が、ほんの僅かばかり、人間の眼らしい光を恢復したやうに見えた。

「旦那! 旦那! 相手はうしただ。強盗ですか。何方どちらへ逃げました。」

 老人の別荘番は、主人のかたきを取りたいやうな意気込で訊いた。

 勝平はその大きい声が、消えかゝる聴覚に聞えたのだらう、口をモグ〳〵させ初めた。

「何でございますか。何でございますか。」

 瑠璃子も、勝平を励ますために、さう叫ばずにはゐられなかつた。

 その時に、室の薄暗い一隅で、何者とも知れずカラ〳〵と悪魔の嗤ふやうに声高く笑つた。



 カンテラの光の届かない部屋の一隅から、急にカラ〳〵と頓狂に笑ひ出す声を聴くと、元気のある度胸の据つた喜太郎迄が、ハツと色を変へた。村田銃の方へ差し延した左の手が、二三度銃身を掴み損つてゐた。勝気な瑠璃子の襟元をも、気味の悪い冷たさが、ぞつと襲つて来た。

「誰だ! 誰だ!」

 喜太郎は狼狽うろたへながら、しはがれた声で闇の中の見知らぬ人間を誰何すゐかした。が、相手はまだ笑ひ声を収めたまゝ、ぢつとしてゐる。

「誰だ! 誰だ! 黙つてゐると、射ち殺すぞ!」

 相手が黙つてゐるので、勢ひを得た喜太郎は、村田銃を取り上げながら、その方へ差し向けた。

 暗い片隅に蹲まつてゐる人間の姿が、差し向けられたカンテラの灯で、朧ろげながら判つて来た。

「誰だ! 誰だ! 出て来い! 出て来い! 出て来ないと射つぞ!」

 喜太郎は、益々勢を得ながらそれでも飛び込んで行くほどの勇気もないと見えて、間を隔てながら、叫んでゐた。

 相手が、割に落着いてゐるところを見ると、それが強盗でないことは、判つてゐた。が、不意に耳を襲つた頓狂な笑ひ声に依つては、それが何人なんぴとであるかは、瑠璃子にも判らなかつた。彼女は、ぢつと眸を凝して、それが自分の怖れてゐる如く、恋人の直也ではありはしないかと、闇の中を見詰めて居た。

 丁度その時に、喜太郎の大きい怒声に依つて、朧気な意識を恢復したらしい勝平は、低くうめくやうに云つた。

「射つな、射つたらいけないぞ!」

 それは、一生懸命な必死な言葉だつた。さう云つてしまふと、勝平はまたグタリと死んだやうになつてしまつた。

 主人の言葉を聴くと、喜太郎は何かを悟つたやうに鉄砲を、投げ出すと、ぢり〳〵と見知らぬ男の方に近づいた。男は、喜太郎が近づくと、だん〳〵蹲まつたまゝで、身を退かしてゐたが、壁の所まで、追ひ詰められると、矢庭に、スツクと立ち上つた。瑠璃子は、また恐ろしい格闘の光景シーンを想像した。が、瑠璃子の想像は忽ち裏切られた。

「やあ! 若旦那ぢやねえか!」

 喜太郎は、驚駭とも何とも付かない、調子外れの声を出した。

 瑠璃子も、その刹那弾かれたやうに立ち上つた。

「奥様! 若旦那だ! 若旦那だ。」

 喜太郎は、意外なる発見に、狂つたやうに叫び続けた。瑠璃子も思はず、瀕死の勝平の傍を離れると、二人が突つ立ちながら、相対してゐる方へ近づいた。

 いかにも、その男は勝彦だつた。何時も見馴れてゐる大島の不断着が、雨でヅブ濡れに濡れてゐる。髪の毛も、雨を浴びて黒く凄く光つてゐる。日頃は、無気味グロテスクな顔ではあるが、何となく温和であるのが、今宵は殺気を帯びてゐる。それでも、瑠璃子の顔を見ると、少し顔を赤めながら、ニタリと笑つた。

 暫らくの間は、瑠璃子も言葉が出なかつた。が、凡ては明かだつた。東京の家に監禁せられてゐた彼は、瑠璃子を慕ふの余り、監禁を破つて、東京から葉山まで、風雨を衝いて、やつて来たのに違ひなかつた。

「お父様をあんなにしたのは、貴君あなたでしたか。」

 瑠璃子は、可なり厳粛な態度でさう訊いた。

 勝彦は、黙つて肯いた。

「東京から、一人で来たのですか。」

 勝彦は黙つて肯いた。

「汽車に乗つたのですか。」

 勝彦は、又黙つて肯いた。

「お父様を、何うしてあんなにしたのです。うしてあんなにしたのです。」

 瑠璃子に、さう問ひ詰められると、勝彦は顔をあからめながら、モジ〳〵してゐた。もし勝彦が、聡明な青年であつたならば、簡単に率直に、しかも貴夫人を救つた騎士ナイトのやうに勇ましく、

『貴女を救ふために。』と答へ得たのであるが。



 瑠璃子から、何と訊かれても、勝彦は何とも返事はしないで、たゞニタリ〳〵と笑ひ続けてゐる丈だつた。

 老人の喜太郎は、張り詰めてゐた勇気が、急に抜け出してしまつたやうに云つた。

「仕様のない若旦那だ。こんな晩に東京から、飛び出して来て、旦那をとつちめるなんて、理窟のねえ事をするのだから、始末に了へねえや。奥様! こんな人に介意かまつてゐるよりか旦那の容体が大事だ!」

 喜太郎は、勝彦を噛んで捨てるやうに非難しながら、座敷の真中に、生死も判らず横はり続けてゐる勝平の方へ行つた。

 が、瑠璃子は喜太郎のやうに心から勝彦を、非難する気には、なれなかつた。口では勝彦を咎めるやうなことを云ひながら、心の中では此の勇敢な救ひ主に、一味いちみ温かい感謝の心を持たずにはゐられなかつた。

 丁度、その時に、勝平のうめき声が、急に高くなつた。瑠璃子は思はず、その方に引き付けられた。

 彼の顔面の筋肉が、頻りに痙攣し、太い巨きい四肢は、最後のありたけの力を籠めたやうに、烈しく畳の上にのたうつた。

「水! 水!」

 勝平は、苦しさうな呻き声を洩した。

 女中が、転がるやうに持つて来た水を、コップのまゝ口へ注がうとしたが、思ひどほりにはならないらしい口辺の筋肉は、あてがはれたコップの水を、咽喉の辺から胸にかけてこぼしてしまつた。瑠璃子は、それを見ると、コップの水を一息飲みながら、口移しに勝平の口中へ注いでやつた。名ばかりではあるが、妻としての情であつた。

 水に依つて、湿うるほされた勝平の咽喉は、初めてハツキリした苦悶の言葉を発した。

「あゝ苦しい。胸が苦しい。切ない。」

 彼は、さう叫びながら、心臓のあたりを幾度も掻きむしつた。

「直ぐ医者が参ります。もう少しの御辛抱です。」

 瑠璃子も、オロ〳〵しながら、さう答へた。瑠璃子の言葉が、耳に通じたのだらう。彼は、空虚うつろな視線を妻の方に差し向けながら、

「瑠璃子さん、わしが悪かつた。みんな、わしが悪かつた。許して下さい!」

 彼は、身体中に残つた精力を蒐めながら、やつと切々に云つた。つい一時間前の告白を疑つた瑠璃子にも、男子のかうした瀕死の言葉は疑へなかつた。瑠璃子の冷たく閉ぢた心臓にも、それが針のやうに刺し貫いた。

「あゝ苦しい。切ない! 心臓が裂けさうだ!」

 勝平は、心臓を両手で抱くやうにしながら、畳の上を、二三回転げ廻つた。

「美奈子! 美奈子はゐないか!」

 彼は、突如苦しさうに、半身を起しながら、座敷中を見廻した。併し美奈子が其処にゐる訳はなかつた。二三秒間身体を支へ得た丈で、またどうと後へ倒れた。

「美奈子さんも直ぐ来ます。電話で呼びますから。」

 瑠璃子は、耳許に口を寄せながら、さう云つた。

「あゝ苦しい! もういけない! 苦しい! 瑠璃子さん! 頼みます、美奈子と勝彦のこと。貴女は、わしを憎んでゐても、子供達は憎みはしないでせう。貴女を頼むより外はない! わしの罪を許して子供達を見てやつて下さい! 頼みます! 勝彦! 勝彦!」

 彼は、さう云ひながら、再び身体を起さうとした。愚かなる子に、最後の言葉をかけようとしたのであらう。が、愚なる子は、父の臨終の苦しみをよそに、以前のまゝに、ケロリとして立つたまゝ、此場の異常な光景シーンを、ボンヤリと凝視してゐる丈であつた。

「あゝ苦しい! 切ない!」

 勝平は最後の苦痛に入つたやうに、何物かを掴まうとして、二三度虚空を掴んだ。瑠璃子は、その時始めて心から、夫のために、その白い二つの手を差し延べた。勝平は、瑠璃子の白い腕に触れるとそれを生命いのちの最後の力で握りしめながら、また差し延べられた手に、瑠璃子からのゆるしを感じながら、妻からのなさけを感じながら、最後の呼吸いきを引き取つてしまつたのである。



 勝平の最後の息が絶えようとしてゐる時に、医師がやつて来た。レインコートの下へまで、激しい雨が浸み入つたと見え、洋服の所々から、雫がタラ〳〵と落ちてゐた。

「車で来ようと思つたのですが、家を二間ばかり離れると、直ぐ吹き倒されさうになりましたから、徒歩で来ました。風が北へ廻つたやうですから、もう大丈夫です。まさか、先度のやうなことはありませんでせう。」

 医師は、さすがに職業的な落着を見せながら、女中達の出迎へを受けて、座敷へ通つて来た。

「お電話ぢや十分判りませんでしたが、うなさつたのです。強盗と組打ちをなさつたと云ふのは本当ですか。」

 医師は、横はつてゐる勝平のそば近く、膝行ゐざり寄りながら、瑠璃子にさう訊いた。

 瑠璃子は、さすがに落着きを失はなかつた。

「いゝえ! 女中が狼狽うろたへて、そんなことを申したのでございませう。強盗などとは嘘でございます。お恥かしいことでございますが、つい息子と……」

 さう云つたものの、後は続け得なかつた。医師は直ぐその場の事情を呑み込んだやうに、勝平の身体に手をやつて、一通ひととほりあらためた。

「何処もお負傷けがはないのですね。」

「はい! 負傷けがはないやうでございます。」瑠璃子は静かに答へた。

「御心配はありません。何処か打ち所が悪くつて気絶をなさつたのです。」

 医師は事もなげにさう云ひながら、その夜目にも白い手を脈に触れた。五秒十秒、医師はぢつと耳を傾けてゐた。それと同時に、彼の眸に、勝平の蒼ざめて行く顔色が映つたのだらう。彼は、急に狼狽したやうに前言を打ち消した。

「あゝこりやいけない!」

 さう云ひながら、彼は手早く聴診器を、鞄の中から、引きずり出しながら、勝平の肥り切つた胸の中の心臓を、探るやうに、幾度も〳〵あてがつた。

「あゝこりやいけない!」

 彼は再び絶望したやうな声を出した。

「いけませんでございませうか。」

 さう訊いた瑠璃子の声にも、深い憂慮うれひが含まれてゐた。

「こりやいけない! 心臓麻痺らしいです。何時か診察したときにも、よく御注意して置いた筈ですが、可なり酷い脂肪心だから、よく御注意なさらないと、直ぐ心臓麻痺を起し易いと、幾度も云つた筈ですが。喧嘩だとか格闘だとか、興奮するやうなことは、一切してはならないと、注意して置いたのですがね。」

 医師は、いかにも、自分の与へた注意が守られなかつたのが、遺憾に堪へないやうに、耳は聴診器にあてがひながら、幾度も繰り返した。

「心臓の周囲に、脂肪が溜ると、非常に心臓が弱くなつてしまふのです。火事の時などに、駈け出しただけで、倒れてしまふ人があるのです。それに酒を召し上つてゐたのですね。酒を飲んでゐる上に、烈しい格闘をやつちや堪りません。お子さんとなら、また何だつて早くお止めにならなかつたのです。」

 さう云はれると、瑠璃子の良心は、グイと何かで突き刺されるやうに感じた。

「もう駄目だとは思ひますが、諦めのために、カンフル注射をやつて見ませう。」

 医師は、手早くその用意をしてしまふと、今肉体を去らうとして、たゆたうてゐる魂を、呼び返すために、巧みに注射針を操つて、一筒のカンフルを体内に注いだ。

 医師は、注射の反応を待ちながらも、二三度人工呼吸を試みた。が、勝平の身体は、刻一刻、人間特有の温みと生気とを失ひつゝあつた。その巨きい顔に、死相がアリ〳〵と刻まれてゐた。

「お気の毒ですが、もう何とも仕方がありません。」

 医師は、死に対する人間の無力を現すやうに、悄然と最後の宣告を下した。



 戦は終つた。不意に突然に意外に、敵は今彼女の眼前に、何の力もなく何の意地もなく土塊の如くに横はつてゐる。

 彼女は見事に勝つた。勝つたのに違ひなかつた。傲岸な、金の力に依つて、人間の道をなみしようとした相手は倒れてゐる。さうだ! 勝利は明かだ。

 が、勝平の死顔をぢつと見詰めてゐる時に、彼女の心に湧いて来たものは、勝の欣びではなくしてむしろ勝の悲しみだつた。勝利の悲哀だつた。たしかに勝つてゐる。が、勝平の肉体に勝つた如く、彼の精神にも勝ち得ただらうか。勝平は、その瀕死の刹那に於て、精神的にも瑠璃子に破られてゐただらうか。

 否! 否! 瑠璃子自身の良心が、それを否定してゐる。愈々、死が迫つて来た時の勝平の心は、彼の一生の凡ての罪悪を償ひ得るほどに、美しく輝いて居たではないか。

 彼は、自分のゆるしを瑠璃子に乞うた上、二人の愛児の行末を、瑠璃子に頼んでゐる。彼は名ばかりの妻から、夫として堪へがたき反抗を受けながら、尚彼女に美しき信頼を置かうとしてゐる。

 それよりも、もつと瑠璃子の心を穿つたものは、彼が臨終の時に示した子供に対する、綿々たる愛だつた。格闘の相手が──従つて彼の死の原因が──勝彦であることを知りながらも、此の愚なる子の行末を、苦しき臨終の刹那に気遣つてゐる。彼の人間らしい心は、その死床に於て、燦然として輝いたではないか。

 彼を敵として結婚し、結婚してからも、彼に心身を許さないことに依つて、彼に悶々の悩みをめさせ、それが半ば偶然であるとは云へ、勝彦を操ることに依つて、畜生道の苦しみを味はせた自分を死の刹那に於て心から信頼してゐる。さうした言葉を聴いたとき、瑠璃子の良心は、可なり深い痛手を負はずにはゐられなかつた。

 悪魔だと思つて刺し殺したものは、意外にも人間の相を現してゐる。が、刺し殺した瑠璃子自身は、刺し殺す径路に於て、刺し殺した結果に於て、悪魔に近いものになつてゐる。

 自分の一生を犠牲にして、倒したものは、意外にも倒し甲斐のないものだつた。恋人を捨てゝ、処女としての誇を捨てゝ、世の悪評を買ひながら、全力を尽くして、戦つた戦ひは、戦ひばえのしない無名の戦だつた。

 負けた勝平は、負けながら、その死床に人間として救はれてゐる。が、見事に勝つた瑠璃子は、救はれなかつた。

 自分の一生を賭してかゝつた仕事が、空虚な幻影であることが、分つた時ほど、人間の心が弛緩し堕落することはない。

 彼女の心は、その時以来別人のやうに荒んだ。清浄しやうじやうなる処女時代に立ち帰ることは、その肉体は許しても、心が許さなかつた。敵と戦ふために、自分自身心に塗つた毒は、いつの間にか、心のうち深く浸み入つて消えなかつた。

 その上に、もつと悪いことには、名ばかりの妻として、ほしいまゝにした物質上の栄華が、何時の間にか、彼女の心に魅力を持ち始めてゐた。

 彼女は、荒んだ心と、処女としての新鮮さと、未亡人としての妖味とを兼ね備へた美しさと、その美を飾るあらゆる自由とを以て、何時となく、世間のあらゆる男性の間に、孔雀の如く、その双翼を拡げてゐた。

 怪頭醜貌の女怪ゴルゴンは、見る人をして悉く石に化せしめたと希臘ギリシヤ神話は伝へてゐる。

 黒髪皎歯清麗真珠の如く、艶容人魚の如き瑠璃子は、その聡明なる機智と、その奔放自由なる所作とを以て、彼女を見、彼女に近づくものを、果して何物に化せしめるであらうか。



魅惑



 奇禍のために死んだ青年の手記を見た後も、美しき瑠璃子夫人は、尚信一郎の心に、一つの謎として止まつてゐた。手記に依れば、青年を飜弄し、彼をして、形は奇禍であるが、心持の上では、自殺を遂げしめた彼女なる女性が、瑠璃子夫人であるやうにも思はれた。が、夫人その人は、信一郎の目前で、青年の最後の怨みが籠つてゐる筈の、時計の持主であることを否定してゐた。

 信一郎は、夫人の白いしなやかな手で、軽く五里霧中の裡へ、突き放されたやうに思つた。血腥い青木淳の死と、美しい夫人とを、不思議な糸が、結び付けて、その周囲を、神秘な霧が幾重にも閉ざしてゐる。その霧の中に、チラチラと時折、瞥見するものは、半面紫色になつた青年の死顔と、艶然たる微笑を含んだ夫人と皎玉かうぎよくの如き美観とであつた。

 青年から、瀕死の声で、返すことを頼まれた時計は、──青年の怨みを籠めて、返さなければならぬ時計は、あやふやな口実のもとに、謎の夫人の手に、手軽に手渡されてゐる。信一郎は、死んだ青年に対する責任感からも、此の謎を一通ひととほりは解かねばならぬと思つた。時計が、その真の持主に、青年の望んだとほりの意味で、返されることの為に、出来るだけは尽さねばならぬことを感じた。

 が、その謎を解くべき、唯一の手がかりなる時計は、既に夫人の手に渡つてゐる。たゞ、それの受取のやうに、夫人から贈られた慈善音楽会の一葉の入場券が、信一郎の紙入に、何の不思議もなく残つてゐるだけである。

 が、此の何の奇もない入場券と、『是非お出下さいませ。その節お目にかゝりますから。』と云ふ夫人の言葉とが、今の場合夫人に近づく、従つて夫人の謎を説くべき唯一の心細い頼りない手がかりだつた。夫人と信一郎とを結び付けてゐる細い〳〵蜘蛛の糸のやうな、つなぎであつた。尤も、どんなに細くとも、蜘蛛の糸には、それ相応の粘着力はあるものだが。

 音楽会の期日は、六月の最後の日曜だつた。その日の朝までも、信一郎の心には、妙に躊躇する心持もあつた。お前は、青年に対する責任感からだと、お前の行為を解釈してゐるが、本当は一度言葉を交へた瑠璃子夫人の美貌に惹き付けられてゐるのではないか。彼の心の裡で、反噬はんぜいするさうした叫びもあつた。その上、今日までは、かうした会合へ出るときは、屹度きつと新婚の静子を伴はないことはなかつた。が、今日は妻を伴ふことは、考へられないことだつた。会場で出来る丈、夫人に接近して夫人を知らうとするためには、妻を同伴することは、足手纏ひだつた。

 昼食を済ましてからも、信一郎は音楽会に行くことを、妻に打ち明けかねた。が、外出をするためには、着替をすることが、必要だつた。

「一寸散歩に。」と云つてブラリと、着流しのまま、外出する訳には行かなかつた。

「一寸音楽会に行つて来るよ。着物を出しておくれ。」

 さうした言葉が、何うしても気軽に出なかつた。それは、何でもない言葉だつた。が、信一郎に取つては、妻に対して吐かねばならぬ最初の冷たい言葉だつた。

「音楽会に行くから、お前も支度をおしなさい。」

 さうした言葉だけしか、聞かなかつた静子には、それが可なり冷たく響くことは、信一郎には余りによく判つてゐた。

 彼は、ぼんやり縁側に立つてゐるかと思ふと、また、何かを思ひ出したやうに二階へ上つた。が、机の前に坐つても、少しも落着かなかつた。彼は、思ひ切つて妻に云ふ積りで、再び階下へ降りて来た。

 が、ほどき物をしながら、階段を降りて来る夫の顔を見ると、心の裡の幸福が、自然と弾み出るやうな微笑を浮べる妻の顔を見ると、手軽に云つて退ける筈の言葉が、またグツと咽喉にからんでしまつた。

「あら! 貴君あなた先刻さつきから何をそんなに、ソハソハしていらつしやるの?」

 無邪気な妻は夫の図星を指してしまつた。指さゝれてしまふと、信一郎は却つて落着いた。

「うつかり忘れてゐたのだ。今日は専務が米国へ行くのを送つて行かなければならないのだつた!」

 彼は、咄嗟に今日出発する筈の専務のことを思ひ出したのだ。

「何時の汽車? これから行つても、間に合ふのでございますか?」

 静子は一寸心配さうに云つた。

「間に合ふかも知れない。確か二時に新橋を立つ筈だから。」

 さう云ひながら、信一郎は柱時計を見上げた。それは、一時を廻つたばかりだつた。

「ぢや、早くお支度なさいまし。」ほどき物を、掻きやつて、妻は、甲斐々々しく立ち上つた。

 信一郎は、最初の冷たい言葉を云ふ代りに、最初の嘘を云つてしまつた。その方が、ズツと悪いことだが。



 その日の音楽会は、露西亜のピアニスト若きセザレウッチ兄妹の独奏会だつた。

 去年から今年にかけて、故国の動乱を避けて、漂泊さすらひの旅に出た露西亜ロシアの音楽家達が、幾人も幾人も東京の楽壇を賑はした。其中には、ピヤノやセロやヴァイオリンの世界的名手さへ交つてゐた。セザレウッチ兄妹もやつぱり、漂泊さすらひの旅の寂しさを、背負つてゐる人だつた。殊に、妹のアンナ・セザレウッチの何処か東洋的な、日本人向きの美貌が、兄妹の天才的な演奏と共に、楽壇の人気を浚つてゐた。その日の演奏は、確か三四回目の演奏会だつた。上流社会の貴夫人達の主催にかゝる、その日の演奏会の純益は、東京にゐる亡命の露人達の窮状を救ふために、投ぜられる筈だつた。

 信一郎が、その日の会場たる上野の精養軒の階上の大広間の入口に立つた時、会場はザツと一杯だつた。が、人数は三百人にも足らなかつただらう。七円と云ふ高い会費が、今日の聴衆を、可なり貴族的に制限してゐた。極楽鳥のやうに着飾つた夫人や令嬢が、ズラリと静粛に並んでゐた。その中に諸所瀟洒なモオニングを着て、楽譜を手に持つてゐる、音楽研究の若殿様と云つたやうな紳士が、二三人宛交じつてゐた。信一郎は聴衆を一瞥した刹那に、直ぐ油に交じつた水のやうな寂しさを感じた。かうした華やかなグループの中に、女王クインのやうに立ち働いてゐる荘田夫人が、自分に──片隅に小さく控へてゐる自分に、少しでも注意を向けて呉れるかと思ふと、妻の手前を繕ろつてまで、出席した自分が、何だか心細く馬鹿々々しくなつて来た。

 信一郎が、席に着くと間もなく、妹の方のアンナが、華やかな拍手に迎へられて壇上に現はれた、スラヴ美人の典型と云つてもいゝやうな、碧い眸と、白い雪のやうな頬とを持つた美しい娘だつた。彼女は微笑を含んだ会釈で喝采に応へると、水色のスカートを飜しながら、快活にピアノに向つて腰を降した。と、思ふと、その白い蝋のやうな繊手は、直ぐ霊活な蜘蛛か何かのやうに、鍵盤の上を、駈け廻り始めた。曲は、露西亜ロシアの国民音楽家の一人として名高いボロディンの譚歌バラッドだつた。

 その素朴な、軽快な旋律に、耳を傾けながら、信一郎の注意は、半ば聴衆席の前半の方に走つてゐた。彼は、若い婦人の後姿を、それからそれと一人々々あらためた。が、たつた一度、相見ただけの女は、後姿に依つては、直ぐそれと分りかねた。

 妹の演奏が終ると、美しい花環が、幾つも幾つも、壇上へ運ばれた。露西亜ロシアの少女は、それを一々溢れるやうな感謝で受取ると、子供のやうに欣びながら、ピアノの上へ幾つも〳〵置き並べた。余り沢山置き並べるので、演奏の邪魔になりさうなので、司会者が周章あわてて取り降した。聴衆が、此の少女の無邪気さをどつと笑つた。信一郎も、少女の美しさと無邪気さとに、引きずられて、つい笑つてしまつた。

 丁度その途端、信一郎の肩を軽く軟打パットするものがあつた。彼はおどろいて、振り顧つた。そこに微笑する美しき瑠璃子夫人の顔があつた。

「よくいらつしやいましたのね。先刻からお探ししてゐましたのよ。」

 信一郎の言ふべきことを、向うで言ひながら、瑠璃子は、信一郎と並んで其処にいてゐた椅子に腰を下した。

「あまりお見えにならないものですから、いらつしやらないのかと思つてゐましたのよ。」

 信一郎の方から、改めて挨拶する機会のないほど、向うは親しく馴々しく、友達か何かのやうに言葉をかけた。

「先日は、うも失礼しました。」

 信一郎は、遅ればせに、ドギマギしながら、挨拶した。

「いゝえ! わたくしこそ。」

 彼女は、小波さゞなみ一つ立たない池のおもか何かのやうに、落着いてゐた。

 丁度、その時に兄のニコライ・セザレウッチが壇上に姿を現した。が、瑠璃子夫人は立たうとはしなかつた。

わたくし、暫らくこゝで聴かせていただきますわ。」

 彼女は、信一郎に云ふともなく独語ひとりごとのやうに呟いた。



 丁度その時、兄のセザレウッチのき初めた曲は、ショパンの前奏曲プレリュウドだつた。聴衆は、水を打つたやうな静寂しゞまの裡に、全身の注意を二つの耳に蒐めてゐた。が、その中で、信一郎の注意だけは、彼の左半身の触覚に、溢れるやうに満ち渡つてゐた。彼の左側には、瑠璃子夫人が、坐つてゐたからである。彼女は、故意にさうしてゐるのかと思はれるほどに、その華奢な身体を、信一郎の方へ寄せかけるやうに、坐つてゐた。

 信一郎は、淡彩に夏草を散らした薄葡萄色の、金紗縮緬の着物の下に、軽く波打つてゐる彼女の肉体の暖かみをさへ、感じ得るやうに思つた。

 彼女は、演奏が初まると、直ぐ独語のやうに、「雨滴レインドロップスのプレリュウドですわね。」と、軽く小声で云つた。それは、いかにもショパンの数多い前奏曲の中、『雨滴の前奏曲』として、知られたる傑作だつた。

 彼女は、演奏が進むに連れて、彼女の膝の、夏草模様に、実物剥製の蝶が、群れ飛んでゐるあたりを、其処に目に見えぬ鍵盤が、あるかのやうに、白い細い指先で、軽くしなやかに、打ち続けてゐるのだつた。而も、それと同時に、彼女の美しい横顔プロフィイルは、本当に音楽が解るものゝ感ずる恍惚たる喜悦で輝いてゐるのだつた。其処には日本の普通の女性には見られないやうな、精神的な美しさがあつた。思想的にも、感覚的にも、開発された本当に新しい女性にしか、許されてゐないやうな、神々しい美しさがあつた。

 信一郎は、時々彼女の横顔を、そのくつきりと通つた襟足を、そつと見詰めずにはゐられないほど、彼女独特の美しさに、心を惹かされずにはゐられなかつた。

 曲が、終りかけると、彼女は何人なんぴとよりも、先に慎しい拍手を送つた。

 快い緊張から夢のやうに醒めながら、彼女は信一郎を顧みた。

「妹の方が、技巧はたしかですけれども、どうも兄の方が、奔放で、自由で、それだけ天才的だと思ひますのよ。」

「僕も同感です。」信一郎も、心からさう答へた。

貴君あなた、音楽お好き? ほゝゝゝ、わざ〳〵来て下さつたのですもの、お好きにきまつてゐますわね。」

 彼女は、二度目に会つたばかりの信一郎に、少しの気兼もないやうに、話した。

「好きです。高等学校にゐたときは、音楽会の会員だつたのです。」

「ピアノおきになつて?」

「簡単なバラッドや、マーチ位はけます。はゝゝゝゝ。」

「ピアノお持ちですか。」

「いゝえ。」

「ぢや、わたくしの宅へ時々、きにいらつしやいませ。誰も気の置ける人はゐませんから。」

 彼女は、薄気味の悪いほど、馴々しかつた。その時に、壇上には、妹のアンナが立つてゐた。

「バラキレフの『イスラメイ』をるのですね。随分難しいものを。」

 さう云ひながら、彼女は立ち上つた。

「みんなが、わたくしを探してゐるやうですから、失礼いたしますわ。会が終りましたら、階下したの食堂でお茶を一緒に召上りませんか。約束して下さいますでせうね。」

「はあ! 結構です。」

 信一郎は、何かの命令をでも、受けたやうに答へた。

「それでは後ほど。」

 彼女は、軽く会釈すると、静まり返つてゐる聴衆の間の通路を、わるびれもせず遥か前方の自分の席へ帰つて行つた。信一郎は可なり熱心な眼付で、彼女を見送つた。

 彼女が、席に着かうとしたとき彼女の席の周囲にゐた、多くの男性と女性とは、彼女が席に帰つて来たのを、女王でもが、帰還したやうに、銘々に会釈した。彼女が多くの男性に囲まれてゐるのを見ると、信一郎の心は、妙な不安と動揺とを感ぜずにはゐられなかつたのである。



 それから、演奏が終つてしまふまで、信一郎は、ピアノの快い旋律と、瑠璃子夫人の残して行つた魅惑的な移り香との中に、恍惚として夢のやうな時間を過してしまつた。

 最後の演奏が終つて、華やかな拍手と共に、皆が立ち上つたとき、信一郎は夢から、さめたやうに席を立ち上つた。

 彼は、自分から先刻さつきの約束を守るために、瑠璃子夫人を探し求めるほど大胆ではなかつた。それかと云つて、その儘帰つてしまふには、彼は夫人の美しさに、支配され過ぎてゐた。彼は聴衆に先立つて階段を降りたものゝ、階段の下で誰かを待つてでもゐるやうに、躊躇してゐた。

 美しい女性の流れが、暫らくは階段を滑つてゐた。が、待つても、待つても夫人の姿は見えなかつた。

 彼が、待ちあぐんでゐる裡に、聴衆は降り切つてしまつたと見え、下足の前に佇んでゐる人の数がだん〳〵まばらになつて来た。

 彼は『一緒にお茶を飲まう。』と云ふことが、たゞ一寸した、夫人のお世辞であつたのではないかと思つた。それを金科玉条のやうに、一生懸命に守つて、待ちつゞけてゐた自分が、少し馬鹿らしくなつた。夫人は、屹度きつと混雑を避けて、別の出口から、もうとつくに帰り去つたに違ひない。さう思つて、彼が軽い失望を感じながら、きびすを返さうとした時だつた。階段の上から、軽い靴音と、やさしい衣擦きぬずれの音と、流暢な仏蘭西フランス語の会話とが聞えて来た。彼が、軽いおどろきを感じて、見上げると、階段の中途をしづかに降りかかつてゐるのは、今日の花形スタアなるアンナ・セザレウッチと瑠璃子夫人とだつた。その二人の洗ひ出したやうな鮮さが、信一郎の心を、深く深く動かした。一種敬虔な心持をさへ懐かせた。白皙な露西亜ロシア美人と並んでも、瑠璃子夫人の美しさは、その特色を立派に発揮してゐた。殊に、そのスラリとして高い長身は、凡ての日本婦人が白人の女性と並び立つた時の醜さから、彼女を救つてゐた。

 信一郎は、うつとりとして、名画の美人画をでも見るやうに、暫らくは見詰めてゐた。

 それと同じやうに、彼を駭かしたものは瑠璃子夫人の暢達な仏蘭西フランス語であつた。仏法出の法学士である信一郎は、可なり会話にも自信があつた。が、水の迸しるやうに、自然に豊富に、美しい発音を以て、語られてゐる言葉は、信一郎の心を魅し去らずにはゐなかつた。

 瑠璃子は、階段の傍に、ボンヤリ立つてゐる信一郎には、一瞥も与へないで、アンナを玄関まで送つて行つた。

 其処で、後から来た兄のセザレウッチを待ち合はすと、兄妹が自動車に乗つてしまふ迄、主催者の貴婦人達と一緒に見送つてゐた。彼女一人、兄妹を相手に、始終快活に談笑しながら。

 兄妹を乗せた自動車が、去つてしまふと、彼女は、初めて信一郎を見付けたやうに、いそいそと彼の傍へやつて来た。

「まあ! 待つてゐて下さいましたの。随分お待たせしましたわ。でも兄妹を送り出すまで、幹事として責任がございますの。」

 彼女は、さう云ひながら、帯の間から、時計を取り出して見た。それはやつぱり白金プラチナの時計だつた。それを見た刹那、不安ないやな連想が、電光いなづまのやうに、信一郎の心を走せ過ぎた。

「おやもう、六時でございますわ。お茶なんか飲んでゐますと、遅くなつてしまひますわ。如何でございます。あのお約束は、またのことにして下さいませんか。ねえ! それでいゝでございませう。」

「はあ! それで結構です。」

 信一郎は、従順なしもべのやうに答へた。

貴君あなた! お宅は何方どちら!」

「信濃町です。」

「それぢや、院線で御帰りになるのですか。」

「市電でも、院線でもどちらでゞも帰れるのです。」

「それぢや、院線で御帰りなさいませ。万世橋でお乗りになるのでせう。わたくしの自動車で万世橋までお送りいたしますわ。」

 彼女は、それが何でもないことのやうに、微笑しながら云つた。



 わづか二度しか逢つてゐない、而も確かな紹介もなく妙な事情から、知己しりあひになつてゐる男性に──その職業も位置も身分も十分分つてゐない男性に、突然自動車の同乗を勧める瑠璃子夫人の大胆さに、勧められる信一郎の方が、却つてタヂタヂとなつてしまつた。信一郎は、一寸狼狽しながら、急いでそれを断らうとした。

「いゝえ恐れ入ります。電車で帰つた方が勝手ですから。」

「あら、そんなに改まつて遠慮して下さると困りますわ。わたくし本当は、お茶でもいたゞきながら、ゆつくりお話がしたかつたのでございますよ。それだのに、ついこんなに遅くなつてしまつたのですもの。せめて、一緒に乗つていたゞいて、お話したいと思ひますの。死んだ青木さんのことなども、お話したいことがございますのよ。」

「でも御迷惑ぢやございませんか。」

 信一郎は、もう可なり、同乗する興味に、動かされながら、それでも口先ではかう云つて見た。

「あら、御冗談でございませう。御迷惑なのは、貴君あなたではございませんか。」

 夫人の言葉は、銘刀のやうに鮮かな冴を持つてゐた。信一郎が、夫人の奔放な言葉に圧せられたやうに、モヂ〳〵してゐる間に、夫人はボーイに合図した。ボーイは、玄関に立つて、声高く自動車を呼んだ。

 暮れなやむ初夏の宵の夕暗ゆふやみに、今点火したばかりの、眩しいやうな頭光ヘッドライトを輝かしながら、青山の葬場で一度見たことのある青色大型の自動車は、軽い爆音を立てながら、玄関へ横付になつた。会衆は悉く散じ去つて、供待ともまちする俥も自動車一台も残つてゐなかつた。

「さあ! 貴君あなたから。」

 信一郎の確な承諾をも聴かないのにも拘はらず、夫人はそれにきまつた事のやうに、信一郎を促した。

 さう勧められると、信一郎は不安と幸福とが、半分宛交つたやうな心持で、胸が掻き乱された。彼は、心から同乗することを欲してゐたのにも拘はらず、乗ることが何となく不安だつた。その踏み段に足をかけることが、何だか行方知らぬ運命の岐路へ、一歩を踏み出すやうに不安だつた。

「あら、何をそんなに遠慮していらつしやるの。ぢや、わたくしが御先に失礼しますわ。」

 さう云ふと、夫人は軽やかに、紫のフェルトの草履で、踏台ステップを軽く踏んで、ヒラリと車中の人になつてしまつた。

「さあ! 早くお乗りなさいませ。」

 彼女は振り顧つて、微笑と共に信一郎をさしまねいた。

 相手が、さうまで何物にも囚はれないやうに、奔放に振舞つてゐるのに、男でありながら、こだはり通しにこだはつてゐることが、信一郎自身にも、厭になつた。彼は、思ひ切つて、踏台ステップに足を踏みかけた。

 信一郎は、車中に入ると、夫人と対角線的に、前方の腰かけを、引き出しながら、腰を掛けようとした。

 夫人は駭いたやうに、それを制した。

「あら、そんなことをなさつちや、困りますわ。まあ、殿方にも似合はない、何と云ふ遠慮深い方でせう。さあ此方こちらへおかけなさい! わたくしと並んで。そんなに遠慮なさるものぢやありませんよ。」

 信一郎を、たしなめるやうに、叱るやうに、夫人の言葉は力を持つてゐた。信一郎は、今は止むを得ないと云つたやうに、夫人と擦れ〳〵に腰を降した。夫人の身体を掩うてゐる金紗縮緬のいぢりかゆいやうな触感が、衣服きもの越しに、彼の身体に浸みるやうに感ぜられた。

 給仕やボーイなどの挨拶に送られて、自動車は滑るやうに、玄関前の緩い勾配を、公園の青葉の闇へと、進み始めた。

 給仕人達の挨拶が、耳に入らないほど、信一郎は、烈しい興奮の裡に、夢みる人のやうに、恍惚としてゐた。



 つい知り合つたばかりの女性、しかも美しく高貴な女性と、たつた二度目に会つたときに、もう既に自動車に、同乗すると云ふことが、信一郎には、宛ら美しい夢のやうな、二十世紀の伝奇譚ロマンスの主人公になつたやうな、不思議な歓びを与へて呉れた。万世橋駅迄の二三分が、彼の生涯に再び得がたい貴重な三四分のやうに思はれた。彼の生涯を通じて、宝石のやうに輝く、尊い瞬間のやうに思はれた。彼は、その時間を心の底から、享け入れようと思つてゐた。が、さう決心した刹那に、もう自動車は、公園の蒼い樹下闇このしたやみを、後に残して、上野山下に拡がる初夏の夜、さうだ、ゆたかに輝ける夏の夜の描けるが如き、光と色との中に、馳け入つてゐるのだつた。時は速い翼を持つてゐる。が、此の三四分の時間は、電光その物のやうに、アツと云ふ間もなく過ぎ去らうとしてゐる。

 試験の答案を書く時などに、時間が短ければ短いほど、冷静に筆を運ばなければならないのに、時間があまりに短いと、かへつてわく〳〵して、少しも手が付かないやうに、信一郎も飛ぶが如くに、過ぎ去らうとする時間を前にして、たゞ茫然と手を拱いてゐるだけだつた。

 然るに、瑠璃子夫人は悠然と、落着いてゐた。親しい友達か、でなければ自分の夫とでも、一緒に乗つてゐるやうに、微笑を車内の薄暗うすやみに、漂はせながら、急に話しかけようともしなかつた。

 丁度、自動車が松坂屋の前にさしかゝつた時、信一郎は、やつと──と言つても、たゞ一分間ばかり黙つてゐたのに過ぎないが──会話のいとぐちを見付けた。

「先刻、一寸立ち聴きした訳ですが、大変仏蘭西フランス語が、お上手でいらつしやいますね。」

「まあ! お恥かしい。聴いていらしつたの。動詞なんか滅茶苦茶なのですよ。単語を並べる丈。でもあのアンナと云ふ方、大変感じのいゝ方よ。大抵お話が通ずるのですよ。」

「何うして滅茶苦茶なものですか。大変感心しました。」

 信一郎は心でもさう思つた。

「まあ! お賞めに与つて有難いわ。でも、本当にお恥かしいのですよ。ほんの二年ばかり、お稽古しただけなのですよ。貴君は仏法の出身でいらつしやいますか。」

「さうです。高等学校時代から、六七年もやつてゐるのですが、それで会話と来たら、丸切り駄目なのです。よく、会社へ仏蘭西フランス人が来ると、私だけ仏蘭西フランス語が出来ると云ふので、応接を命ぜられるのですが、その度毎に、閉口するのです。奥さんなんか、このまゝ直ぐ外交官夫人として、巴里パリー辺の社交界へ送り出しても、立派なものだと思ひます。」

 信一郎は、つい心からさうした讃辞を呈してしまつた。

「外交官の夫人! ほゝゝ、わたくしなどに。」

 さう云つたまゝ、夫人の顔は急に曇つてしまつた。外交官の夫人。彼女の若き日の憧れは、未来の外交官たる直也の妻として、遠く海外の社交界に、日本婦人の華として、咲きいづることではなかつたか。彼女が、仏蘭西フランス語の稽古をしたことも、みんなさうした日のための、準備ではなかつたか。それもこれも、今では煙の如く空しい過去の思出となつて了つてゐる。外交官の夫人と云はれて、彼女の華やかな表情が、急に光を失つたのも無理はなかつた。

 瞬間的な沈黙が、二人を支配した。自動車は御成街道の電車の右側の坦々たる道を、速力を加へて疾駆してゐた。万世橋迄は、もう三町もなかつた。

 信一郎は、もつとピツタリするやうな話がしたかつた。

仏蘭西フランス文学は、お好きぢやございませんか。」

 信一郎は、夫人の顔を窺ふやうに訊いた。

「あのう──好きでございますの。」

 さう云つたとき、夫人の曇つてゐた表情が、華やかな微笑で、拭ひ取られてゐた。

「大好きでございますの。」

 夫人は、再び強く肯定した。



仏蘭西フランス文学が大好きですの。」と、夫人が答へた時、信一郎は其処に夫人に親しみ近づいて行ける会話の範囲が、急に開けたやうに思つた。文学の話、芸術の話ほど、人間を本当に親しませる話はない。同じ文学なり、同じ作家なりを、両方で愛してゐると云ふことは、ある未知の二人を可なり親しみ近づける事だ。

 信一郎は、初めて夫人と交すべき会話の題目が見付かつたやうに欣びながら、勢よく訊き続けた。

「やはり近代のものをお好きですか、モウパッサンとかフローベルなどとか。」

「はい、近代のものとか、古典クラシックスとか申し上げるほど、沢山はよんでをりませんの。でも、モウパッサンなんか大嫌ひでございますわ。何うも日本の文壇などで、仏蘭西フランス文学とか露西亜ロシア文学だとか申しましても、英語の廉価版チープエヂションのある作家ばかりが、流行はやつてゐるやうでございますわね。」

 信一郎は、瑠璃子夫人の辛辣な皮肉に苦笑しながら訊いた。

「モウパッサンが、お嫌ひなのは僕も同感ですが、ぢや、どんな作家がお好きなのです?」

「一等好きなのは、メリメですわ。それからアナトール・フランス、オクターヴ・ミルボーなども嫌ひではありませんわ。」

「メリメは、どんなものがお好きです。」

「みんないゝぢやありませんか。カルメンなんか、日本では通俗な名前になつてしまひましたが、原作はほんたうにいゝぢやありませんか。」

「あの女主人公ヒロインを何うお考へになります。」

「好きでございますよ。」

 言下にさう答へながら、夫人は嫣然と笑つた。

わたくしさう思ひますのよ。女に捨てられて、女を殺すなんて、本当に男性の暴虐だと思ひますの。男性の甚だしい我儘だと思ひますの。大抵の男性は、女性から女性へと心を移してゐながら、平然と済してゐますのに、女性が反対に男性から男性へと、心を移すと、直ぐ何とか非難を受けなければなりませんのですもの。わたくし、ホセに刺し殺されるカルメンのことを考へる度毎に、男性の我儘と暴虐とを、憤らずにはゐられないのです。」

 夫人の美しい顔が、興奮してゐた。やゝ薄赤くほてつた頬が、悩しいほどに、魅惑的チャーミングであつた。

 信一郎は生れて初めて、男性と対等に話し得る、立派な女性に会つたやうに思つた。彼は、はしなくも、自分の愛妻の静子のことを考へずにはゐられなかつた。彼女は、愛らしく慎しく従順貞淑な妻には違ひない。が、趣味や思想の上では、自分の間に手の届かないやうに、広い〳〵へだゝりが横はつてゐる。天気の話や、衣類の話や、食物の話をするときには立派な話相手に違ひない。

 が、話が少しでも、高尚になり精神的になると、もう小学生と話してゐるやうな、もどかしさと頼りなさがあつた。同伴の登山者が、わづか一町か二町か、離れてゐるのなら、さしまねいてやることも出来れば、声を出して呼んでやることも出来た。が、二十町も三十町も離れてゐれば、うすることも出来ない。信一郎は、趣味や思想の生活では、静子に対してそれほどのへだたりを感ぜずにはゐられなかつた。

 が、彼は今までは、諦めてゐた。日本婦人の教養が現在の程度で止まつてゐる以上、さうしたことを、妻に求めるのは無理である。それは妻一人の責任ではなくして、日本の文化そのものの責任であると。

 が、彼は今瑠璃子夫人と会つて話してゐると、日本にも初めて新しい、趣味の上から云つても、思想の上から云つても優に男性と対抗し得るやうな女性の存在し始めたことを知つたのである。夫人と話してゐると、妻の静子に依つて充されなかつた欲求が、わづか三四分の同乗に依つて、十分に充たされたやうに思つた。

 さう思つたとき、その貴い三四分間は、過ぎてゐた。自動車は、万世橋の橋上を、やゝ速力を緩めながら、走つてゐた。

「いやどうも、大変有難うございました。」

 信一郎は、さう挨拶しながら、降りるために、腰を浮かし始めた。

 その時に、瑠璃子夫人は、突然何かを思ひ出したやうに云つた。

貴君あなた! 今晩お暇ぢやなくつて?」



「貴君! 今晩お閑暇ひまぢやなくつて。」

 と、云ふ思ひがけない問に、信一郎は立ち上らうとした腰を、つい降してしまつた。

閑暇ひまと云ひますと。」

 信一郎は、夫人の問の真意を解しかねて、ついさう訊き返さずにはゐられなかつた。

「何かお宅に御用事があるかどうか、お伺ひいたしましたのよ。」

「いゝえ! 別に。」

 信一郎は夫人が、何を云ひ出すだらうかと云ふ、軽い好奇心に胸を動かしながら、さう答へた。

「実は……」夫人は、微笑を含みながら、一寸云ひ澱んだが、「今晩、演奏が済みますと、あの兄妹の露西亜ロシア人を、晩餐かた〴〵帝劇へ案内してやらうと思つてゐましたの。それでボックスを買つて置きましたところ、向うが止むを得ない差支があると云つて、辞退しましたからわたくし一人でこれから参らうかと思つてゐるのでございますが、一人ボンヤリ見てゐるのも、何だか変でございませう。如何でございます、もし、およろしかつたら、付き合つて下さいませんか。どんなに有難いか分りませんわ。」

 夫人は、心から信一郎の同行を望んでゐるやうに、余儀ないやうに誘つた。

 信一郎の心は、さうした突然の申出を聴いた時、可なり動揺せずにはゐなかつた。今までの三四分間でさへ彼に取つてどれほど貴重な三四分間であるか分らなかつた。夫人の美しい声を聞き、その華やかな表情に接し、女性として驚くべきほど、進んだ思想や趣味を味はつてゐると、彼には今まで、閉されてゐた楽しい世界が、夫人との接触に依つて、洋々と開かれて行くやうにさへ思はれた。

 さうした夫人と、今宵一夜を十分に、語ることが出来ると云ふことは、彼にとつてどれほどな、幸福と欣びを意味してゐるか分らなかつた。

 彼は、直ぐ同行を承諾しようと思つた。が、その時に妻の静子の面影が、チラツと頭を掠め去つた。新橋へ、人を見送りに行つたと云ふ以上、二時間もすれば帰つて来るべき筈の夫を、夕餉の支度を了へて、ボンヤリと待ちあぐんでゐる妻の邪気あどけない面影が、暫らく彼の頭を支配した。その妻を、十時過ぎ、恐らく十一時過ぎ迄も待ちあぐませることが、どんなに妻の心を傷ませることであるかは、彼にもハツキリと分つてゐた。

「如何でございます。そんなにお考へなくつても、手軽にめて下さつても、およろしいぢやありませんか。」

 夫人は躊躇してゐる信一郎の心に、拍車を加へるやうに、やゝ高飛車にさう云つた。信一郎の顔をぢつと見詰めてゐる夫人の高貴ノーブルな厳かに美しいおもてが、信一郎の心の内の静子の慎しい可愛い面影を打ち消した。

「さうだ! 静子と過すべき晩は、これからの長い結婚生活に、幾夜だつてある。飽き〳〵するほど幾夜だつてある。が、こんな美しい夫人と、一緒に過すべき機会がさう幾度もあるだらうか。こんな浪漫的ロマンチックな美しい機会が、さう幾度だつてあるだらうか。生涯に再びとは得がたいたゞ一度の機会であるかも知れない。かうした機会を逸しては……」

 さう心の中で思ふと、信一郎の心は、籠を放れた鳩か何かのやうに、フハ〳〵となつてしまつた。彼は思ひ切つて云つた。

「もし貴女さへ、御迷惑でなければお伴いたしてもいゝと思ひます。」

「あらさう。付き合つて下さいますの。それぢや、直ぐ、丸の内へ。」

 夫人は、後の言葉を、運転手へ通ずるやうに声高く云つた。

 自動車は、緩みかけた爆音を、再び高く上げながら、車首を転じて、夜の須田町の混雑の中を泳ぐやうに、馳けり始めた。

 電車道の、鋪石ペーヴメントが悪くなつてゐるせゐか、車台は頻りに動揺した。信一郎の心も、それに連れて、軽い動揺を続けてゐる。

 車が、小川町の角を、急に曲つたとき、夫人は思ひ出したやうに、とぼけたやうに訊いた。

「失礼ですが、奥様おありになつて?」

「はい。」

「御心配なさらない! 黙つてらしつては?」

「いゝえ。決して。」

 信一郎は、言葉だけは強く云つた。が、その声には一種の不安が響いた。



 帝劇の南側の車寄の階段を、夫人と一緒に上るとき、信一郎の心は、再び動揺した。この晴れがましい建物の中に、其処にはどんな人々がゐるかも知れない群衆の中へ、かうした美しい、それだけ人目を惹き易い女性と、たつた二人連れ立つて、公然と入つて行くことが、可なり気になつた。

 が、信一郎のさうした心遣ひを、救けるやうに、舞台では今丁度幕が開いたと見え、廊下には、遅れた二三の観客が、急ぎ足に、座席シートへ帰つて行くところだつた。

 夫人と並んで、広い空しいボックスの一番前方に、腰を下したとき、信一郎はやつと、自分の心が落着いて来るのを感じた。舞台が、煌々と明るいのに比べて、観客席が、ほの暗いのが嬉しかつた。

 夫人は席へ着いたとき、二三分ばかり舞台を見詰めてゐたが、ふと信一郎の方を振り返ると、

「本当に御迷惑ぢやございませんでしたの。芝居はお嫌ひぢやありませんの。」

「いゝえ! 大好きです。尤も、今の歌舞伎芝居には可なり不満ですがね。」

わたくしも、さうですの。外に行く処もありませんからよく参りますが、わたくし達の実生活と歌舞伎芝居の世界とは、もう丸きり違つてゐるのでございますものね。歌舞伎に出て来る女性と云へば、みんな個性のない自我のない、古い道徳の人形のやうな女ばかりでございますのね。」

「同感です。全く同感です。」

 信一郎は、心から夫人の秀れた見識を讃嘆した。

「親や夫に臣従しないで、もつと自分本位の生活を送つてもいゝと思ひますの。古い感情や道徳に囚はれないで、もつと解放された生活を送つてもいゝと思ひますの。英国のある近代劇の女主人公が、男が雲雀スカイラークのやうに、多くの女と戯れることが出来るのなら、女だつて雲雀スカイラークのやうに、多くの男と戯れる権利があると申してをりますが、さうぢやございませんでせうか。わたくしもさう思ふことがございますのよ。」

 夫人は、周囲の静けさを擾さないやうに、出来るだけ信一郎の耳に口を寄せて語りつゞけた。夫人の温い薫るやうな呼吸が、信一郎のほてつた頬を、柔かに撫でるごとに、信一郎は身体中が、とろけてしまひさうな魅力を感じた。

「でも、貴君あなたなんか、さうした女性は、お好きぢやありませんでせうね。」さう、信一郎の耳に、あたゝかく囁いて置きながら、夫人は顔を少し離して嫣然につこりと笑つて見せた。男の心を、掻き擾してしまふやうな媚が、そのスラリとした身体全体に動いた。

 夫人の大胆な告白と、美しい媚のために、信一郎は、目が眩んだやうに、フラ〳〵としてしまつた。美しい妖精に魅せられた少年のやうに、信一郎は顔を薄赤く、ほてらせながら、たゞ茫然と黙つてゐた。

 夫人は、ひらりと身をかはすやうに、真面目なしんみりとした態度に帰つてゐた。

「でも、わたくし、こんな打ち解けたお話をするのは、貴君が初めてなのよ、文学や思想などに、理解のない方に、こんなお話をすると、直ぐ誤解されてしまふのですもの、わたくし、かねてから、貴君あなたのやうなお友達が欲しかつたの、本当にわたくしの心持を、聴いて下さるやうな男性のお友達が、欲しかつたの、二人の異性の間には、真の友情は成り立たないなどと云ふのは嘘でございますわね、異性の間の友情は、恋愛への階段だなどと云ふのは、嘘でございますわね。本当に自覚してゐる異性の間なら、立派な友情が何時までも続くと思ひますの。貴方あなたわたくしとの間で、先例を開いてもいゝと思ひますわ。ほゝゝゝ。」

 夫人は、真の友情を説きながらも、その美しい唇は、悩ましきまでに、信一郎の右の頬近く寄せられてゐた。信一郎は、うつとりとした心持で、阿片アヘン吸入者が、毒と知りながら、その恍惚たる感覚に、身体を委せるやうに、夫人の蜜のやうに甘い呼吸と、音楽のやうに美しい言葉とに全身を浸してゐた。



客間の女王



 帝劇のボックスに、夫人と肩を並べて、過した数時間は、信一郎に取つては、夢ともうつゝとも分ちがたいやうな恍惚たる時間だつた。

 夫人の身体全体から出る、馥郁たる女性の香が、彼の感覚を爛し、彼の魂を溶かしたと云つてもよかつた。

 彼は、其夜、半蔵門迄、夫人と同乗して、其処で新宿行の電車に乗るべく、彼女と別れたとき、自動車の窓から、夜目にもくつきりと白い顔を、のぞかしながら、

「それでは、此次の日曜に屹度きつとお訪ね下さいませ。」と、媚びるやうな美しい声で叫んだ夫人の声が、彼の心の底の底まで徹するやうに思つた。彼は、其処に化石した人間のやうに立ち止まつて、葉桜の樹下闇を、ほの〴〵と照し出しながら、遠く去つて行く自動車の車台の後の青色の灯を、何時までも何時までも見送つてゐた。彼の頬には、尚夫人の甘い快い呼吸いきの匂が漂うてゐた。彼の耳の底には、夫人の此世ならぬ美しい声の余韻が残つてゐた。彼の感覚も心も、夫人に酔うてゐた。

 彼の耳に囁かれた夫人の言葉が、甘い蜜のやうな言葉が、一つ〳〵記憶の裡に甦がへつて来た。『自分を理解して呉れる最初の男性』とか、『そんな女性をお好きぢやありませんの』と云つたやうな馴々しい言葉が、それが語られた刹那の夫人の美しい媚のある表情と一緒に、信一郎の頭を悩ました。

 自分が、生れて始めて会つたと思ふほどの美しい女性から、唯一人の理解者として、馴々しい信頼を受けたことが、彼の心を攪乱し、彼の心を有頂天にした。

 彼の頭の裡には、もう半面紫色になつた青木淳の顔もなかつた。謎の白金プラチナの時計もなかつた。愛してゐる妻の静子の顔までが、此の﨟たけた瑠璃子夫人の美しい面影のために、屡々掻き消されさうになつてゐた。

 十二時近く帰つて来た夫を、妻は何時ものやうに無邪気に、何の疑念もないやうに、いそいそと出迎へた。さうしたしとやかな妻の態度に接すると、信一郎は可なり、心の底に良心の苛責を感じながらも、しかも今迄は可なり美しく見えた妻の顔が、平凡に単純に、見えるのをうともすることが出来なかつた。

 その次ぎの日曜まで、彼は絶えず、美しい夫人の記憶に悩まされた。食事などをしながらも、彼の想像は美しい夫人を頭の中に描いてゐることが多かつた。

「あら、何をそんなにぼんやりしていらつしやいますの、今度の日曜は何日? と云つてお尋ねしてゐるのに、たゞ『うむ! うむ!』云つていらつしやるのですもの。何をそんなに考へていらつしやるの?」

 静子は、夫がボンヤリしてゐるのが、可笑しいと云ひながら、給仕をする手を止めて、笑ひこけたりした。夫が、他の女性のことを考へて、ボンヤリしてゐるのを、可笑しいと云つて無邪気に笑ひこける妻のいぢらしさが、分らない信一郎ではなかつたが、それでも彼は刻々に頭の中に、浮んで来る美しい面影を拭ひ去ることが出来なかつた。

 到頭夫人と約束した次ぎの日曜日が来た。その間の一週間は、信一郎に取つては、一月も二月もに相当した。彼は、自分がその日曜を待ちあぐんでゐるやうに、夫人がやつぱりその日曜を待ち望んでゐて呉れることを信じて疑はなかつた。

 夫人が、自分を唯一人の真実の友達として、選んで呉れる。夫人と自分との交情が発展して行く有様が、いろ〳〵に頭の中に描かれた。異性の間の友情は、恋愛の階段であると、夫人が云つた。もしそれがさうなつたら、何うしたらよいだらう。あの自由奔放な夫人は、屹度きつと云ふだらう。

「それが、さうなつたつて、別に差支はないのよ。」

 夫のない夫人はそれで差支がないかも知れない。が、自分はうしたらいゝだらう。妻のある自分は。結婚して間もない愛妻のある自分は。

 信一郎は、さうした取りとめもない空想に頭を悩ましながら、七月の最初の日曜の午後に、夫人を訪ねるべく家を出た。

 夫人を訪ねるのも、二度目であつた。が、妻を欺くのも二度目であつた。

「社の連中と、午後から郊外へ行く約束をしたのでね。新宿で待ち合はして、多摩川へ行く筈なのだよ。」

 帽子を持つて送つて出た静子に、彼は何気なくさう云つた。



 電車に乗つてからも、妻を欺いたと云ふ心持が、可なり信一郎を苦しめた。が、あの美しい夫人が自分を尋ねて行くのを、ぢつと待つてゐて呉れるのだと思ふと、電車の速力さへ平素いつもよりは、鈍いやうに思はれた。

 夫人と会つてからの、談話の題目などが、頭の中に次から次へと、浮んで来た。文芸や思想の話に就ても、今日はもつと、自分の考へも話して見よう。自分の平生の造詣を、十分披瀝して見よう。信一郎はさう考へながら、夫人のそれに対する溌剌たる受答うけこたへや表情を絶えず頭の中に描き出しながら何時の間にか五番町の宏壮な夫人の邸宅の前に立つてゐる自分を見出した。

 お濠のどての青草や、向う側の堤の松や、大使館前の葉桜の林などには、十日ほど前に来たときなどよりも、もつと激しい夏の色が動いてゐた。

 十日ほど前には、可なりビク〳〵と潜つた花崗石みかげいしらしい大石門を、今日は可なり自信に充ちた歩調で潜ることが出来た。

 楓を植ゑ込んである馬車廻しの中に、たゞ一本の百日紅さるすべりが、もう可なり強い日光の中に、赤く咲き乱れてゐるのが目に付いた。

 さすがに、大理石の柱が、並んでゐる車寄せに立つたとき、胸があやしく動揺するのを感じた。が、夫人が別れ際に、再び繰り返して、

「本当にお暇なとき、何時でもいらしつて下さい。誰も気の置ける人はゐませんのよ。わたくしがお山の大将をしてゐるのでございますから。」と、言つた言葉が、彼に元気を与へた。その上に、あれほど堅く約束した以上、屹度きつと心から待つてゐて呉れるにちがひない。心から、歓び迎へて呉れるにちがひない。さう思ひながら、彼は「押せプッセ!」と、仏蘭西フランス語で書いてある呼鈴に手を触れた。

 この前、来たときと同じやうに、小さい軽い靴音が、それに応じた。ドアしづかに押し開けられると、一度見たことのある少年が、名刺受の銀の盆を、手にしながら、笑靨ゑくぼのある可愛い顔を現した。

「あのう、奥様にお目にかゝりたいのですが。」

 信一郎が、さう言ふと少年は待つてゐたと云はんばかりに、

「失礼でございますが、渥美さまとおつしやいますか。」

 信一郎は軽く肯いた。

「渥美さまなら、直ぐ何うかお通り下さいませ。」

 少年は、慇懃にドアを開けて、奥をゆびさした。

「何うか此方こちらへ。今日は奥の方の客間にいらつしやいますから。」

 敷き詰めてある青い絨毯の上を、少年の後から歩む信一郎の心は、可なり激しく興奮した。自分の名前を、ちやんと玄関番へ伝へてある夫人の心遣ひが、嬉しかつた。一夜夫人と語り明したことさへ生涯に二度と得がたい幸福であると思つてゐた。それが、一夜限りの空しい夢と消えないで、実生活の上に、ちやんとした根を下して来たことが、信一郎には此上なく嬉しかつた。彼は絨毯の上を、しつかりと歩んでゐたつもりであつたが、もし傍観者があつたならば、その足付が、宛然まるきり躍つてゐるやうに見えたかも知れない。夫人と、美しい客間で二人り、何の邪魔もなしに、日曜の午後を愉快に語り暮すことが出来る。さうした楽しい予感で、信一郎の心は、はち切れさうに一杯だつた。

 長い廊下を、十間ばかり来たとき、少年は立ち止まつて、其処のドアゆびさした。

此方こちらでございます。」

 信一郎は、その中に瑠璃子夫人が、腕椅子に身体を埋ませるやうに掛けながら、自分を待つてゐるのを想像した。

 彼は、興奮の余り、かすかに顫へさうな手をドアの把手にかけた。彼が、胸一杯の幸福と歓喜とに充されて、そのドアを静かに開けたとき、部屋の中から、波の崩れるやうに、ワーツと彼を襲つて来たものは、数多い男性が一斉に笑つた笑ひ声だつた。

 彼は、不意に頭から、水をかけられたやうに、ゾツとして立ちすくんだ。



 彼がハツと立ち竦んだ時には、もう半身は客間の中に入つてゐた。

 凡てが、意外だつた。瑠璃子夫人の華奢なスラリとした、身体の代りに、其処に十人に近い男性が色々な椅子に、いろいろな姿勢で以つて陣取つてゐた。瑠璃子夫人はと見ると、これらの惑星に囲まれた太陽のやうに、客間の中央に、女王のやうな美しさと威厳とを以て、大きい、彼女の身体をうづめてしまひさうな腕椅子に、ゆつたりと腰を下してゐた。

 楽しい予想が、滅茶々々になつてしまつた信一郎は、もし事情が許すならば、一目散に逃げ出したいと思つた。が、彼が一足踏み入れた瞬間に、もうみんなの視線は、彼の上に蒐まつてゐた。

「あゝ、お前もやつて来たのだな。」と、云つたやうな表情が、薄笑ひと共に、彼等の顔の上に浮んでゐた。信一郎は、さうした表情に依つて可なり傷けられた。

 瑠璃子夫人は、さすがに目敏く彼を見ると、直ぐ立ち上つた。

「あ、よくいらつしやいました。さあ、どうぞ。お掛け下さいまし。先刻からお待ちしてゐました。」

 さう云ひながら、彼女は部屋の中を見廻して、空椅子を見付けると、その空椅子の直ぐ傍にゐた学生に、

「あゝ阿部さん一寸その椅子を!」と、云つた。

 するとその学生は、命令をでも受けたやうに、

「はい!」と、云つて気軽に立ち上ると、その椅子を、夫人の美しい眼で、命ずるまゝに、夫人の腕椅子の直ぐ傍へ持つて来た。

「さあ! お掛けなさいませ。」

 さう云つて、夫人は信一郎をさしまねいた。どちらかと云へば、小心な信一郎は、多くの先客を押し分けて、夫人の傍近く坐ることが、可なり心苦しかつた。彼は、自分の頬が、可なりほてつて来るのに気が付いた。

 信一郎が椅子に着かうとすると夫人は一寸押し止めるやうにしながら云つた。

「さう〳〵。一寸御紹介して置きますわ。この方、法学士の渥美信一郎さん。三菱へ出ていらつしやる。それから、茲にいらつしやる方は、──さう右の端から順番に起立していたゞくのですね、さあ小山さん!」

 と彼女は傍若無人と云つてもよいやうに、一番縁側の近くに坐つてゐる、若いモーニングを着た紳士をゆびさした。紳士は、柔順すなほにモヂ〳〵しながら立ち上つた。

「外務省に出ていらつしやる小山男爵。その次の方が、洋画家の永島龍太さん。其の次の方が、帝大の文科の三宅さん、作家志望でいらつしやる。その次の方が、慶応の理財科の阿部さん、第一銀行の重役の阿部保さんのお子さん。その次の方が日本生命へ出ていらつしやる深井さん、高商出身の。その次の方が、寺島さん、御存じ? 近代劇協会にゐたことのある方ですわ。其の次の方は、芳岡さん! 芳岡伯爵の長男でいらつしやる。彼処あそこに一人離れていらつしやる方が、富田さん! 政友会の少壮代議士として有名な方ですわ。みんなわたくしのお友達ですわ。」

 夫人は、夫人の眼に操られて、次から次へと立ち上る男性を、出席簿でも調べるやうに、淀みなく紹介した。

 信一郎は、可なり激しい失望と幻滅とで、夫人の言葉が、耳に入らぬ程不愉快だつた。自分一人を友達として選ぶと云つた夫人が、十人に近い男性を、友人として自分に紹介しようとは、彼は憤怒と嫉妬との入り交じつたやうな激昂で、眼がくらめくやうにさへ感じた。彼は直ぐ席を蹴つて帰りたいと思つた。が、何事もないやうに、こぼれるやうに微笑してゐる夫人の美しい顔を見てゐると、胸の中の激しい憤怒が春風に解くるやうに、何時の間にか、消えてゆくのを感じた。

 コロネーションに結つた黒髪は、夫人の長身にピツタリと似合つてゐた。黒地に目も醒めるやうな白い棒縞のお召が、夫人の若々しさを一層引立てゝゐた。白地の仏蘭西フランス縮緬の丸帯に、施された薔薇の刺繍は、匂入りと見え、人の心を魅するやうな芳香が、夫人の身辺を包んでゐる。

 信一郎の失望も憤怒も、夫人のあざやかな姿を見てゐると、何時の間にか撫でられるやうに、なごんで来るのだつた。



「渥美さん! 今大変な議論が始まつてゐるのでございますよ。明治時代第一の文豪は、誰だらうと云ふ問題なのでございますよ。貴君の御説も伺はして下さいませな。」

 夫人は、信一郎を会話の圏内に入れるやうに、取り做して呉れた。が、初めて顔を合はす未知の人々を相手にして、直ぐおいそれ! と文学談などをやる気にはなれなかつた。その上に、夫人から、帝劇のボックスで聴いた「こんなに打ち解けた話をするのは、貴君あなたが初めてなのよ。」と、云ふやうな、今となつては白々しい嘘が、彼の心を抉るやうに思ひ出された。

「だつて奥さん! 独歩には、いゝ芽があるかも知れません。が、然しあの人は先駆者だと思ふのです。本当に完成した作家ではないと思ふのです。」

 信一郎が、何も云ひ出さないのを見ると、三宅と云ふ文科の学生が、可なり熱心な口調でさう云つた。先刻から続いて、明治末期の小説家国木田独歩を論じてゐるらしかつた。

「それに、独歩のやうな作品は、外国の自然派の作家には幾何いくらでもあるのだからね。先駆者と云ふよりも、或意味では移入者だ。日本の文学に対して、ある新鮮さを寄与したことはたしかだが、それがあの人の創造であるとは云はれないね。外国文学の移植なのだ。ねえ! さうではありませんか、奥さん!」

 モーニングを着た小山男爵は、自分の見識に対する夫人の賞讃を期待してゐるやうに、自信に充ちて云つた。

「でもわたくし、可なり独歩を買つてゐますのよ。明治時代の作家で、本当に人生を見てゐた作家は、独歩の外にさう沢山はないやうに思ひますのよ。ねえ、さうぢやございませんか。渥美さん。」

 夫人は、多くの男性の中から、信一郎だけを、選んだやうに、信一郎の賛意を求めた。が、信一郎は不幸にも、独歩の作品を、余り沢山読んでゐなかつた。四五年も前に、『運命論者』や『牛肉と馬鈴薯』などを読んだことがあるが、それが何う云ふ作品であつたか、もう記憶にはなかつた。が、夫人に話しかけられて、たゞ盲従的に返答することも出来なかつた。その上、彼は周囲の人達に対する手前、何かにか自分の意見を云はねばならぬと思つた。

「さうかも知れません。が、明治文壇の第一の文豪として推すのには、少し偏してゐるやうに思ふのです。やはり、月並ですが、明治の文学は紅葉などに代表させたいと思ふのです。」

「尾崎紅葉!」小山男爵は、『クスツ』と冷笑するやうな口調で云つた。

「『金色夜叉』なんか、今読むと全然通俗小説ですね。」

 文科の学生の三宅が、その冷笑を説明するやうに、吐出すやうに云つた。

 瑠璃子夫人は、三宅の思ひ切つた断定を嘉納するやうに、ニツと微笑を洩した。信一郎は初めて、口を入れて、直ぐ横面よこつつらを叩かれたやうに思つた。瑠璃子夫人までが、微笑で以て、相手の意見を裏書したことが、更に彼の心を傷けた。彼は思はず、ムカ〳〵となつて来るのをうともすることが出来なかつた。彼は、自分の顔色が変るのを、自分で感じながら、死身になつて口を開いた。

「『金色夜叉』を通俗小説だと云ふのですか。」

 彼の口調は、詰問になつてゐた。

「無論、それは読む者の趣味の程度に依ることだが、僕には全然通俗小説だと思はれるのです。」

 若い文科大学生は、何の遠慮もしないで、彼の信念を昂然と語つた。

「それは、貴君あなたが作品と時代と云ふことを考へないからです。現在の文壇の標準から云へば、『金色夜叉』の題目テーマなんか、通俗小説にちがひないです。が、然しそれは『金色夜叉』の書かれた明治三十五年から、現在まで二十年も経過してゐることを忘れてゐるからです。現在の文壇で、貴君が芸術的小説だと信じてゐるものでも、二十年も経てば、みんな通俗小説になつてしまふのです。過去の作品を論ずるのには、時代と云ふことを考へなければ駄目です。『金色夜叉』は今読めば通俗小説かも知れませんが、明治時代の文学としては、立派な代表的作品です。」

 信一郎は、思ひの外に、スラ〳〵と出て来る自分の雄弁に興奮してゐた。

「過去の文学を論ずるには、やはり文学史的に見なければ駄目です。」

 彼は、きつぱりと断定するやうに云つた。

「それもさうですわね。」

 瑠璃子夫人は、信一郎の素人離れした主張を、感心したやうに、しみ〴〵さう云つた。信一郎は俄に勇敢になつて来た。



 瑠璃子夫人が、新来の信一郎、殊に文学などの分りさうもない会社員の信一郎の言葉に、賛成したのを見ると、今度は三宅と小山男爵との二人が、躍気になつた。

 殊に青年の三宅は、その若々しい浅黒い顔を、心持薄赤くしながら可なり興奮した調子で云つた。

「時代が経てば、どんな芸術的小説でも、通俗小説になる。そんな馬鹿な話があるものですか。芸術的小説は何時が来たつて、芸術的小説ですよ。日本の作家でも、西鶴などの小説には、何時が来ても亡びない芸術的分子がありますよ。天才的なひらめきがありますよ。それに比べると、尾崎紅葉なんか、徹頭徹尾通俗小説ですよ。紅葉の考へ方とか物の観方と云ふものは、常識の範囲を、一歩も出てゐないのですからね。たゞ、洗練された常識に過ぎないのですよ。例へば『三人妻』など云ふ作品だつて如何にも三人の妻の性格を描き分けてあるけれども、それが世間に有り触れた常識的タイプに過ぎないのですからね。紅葉を以て、明治時代の文学的常識を、代表させるのなら差支へないが、第一の文豪として、紅葉を推す位なら、むしろ露伴柳浪美妙、そんな人の方を僕は推したいね。」

 三宅の語り終るのを待ち兼ねたやうに、小山男爵は、横から口を入れた。

「第一『金色夜叉』なんか、あんなに世間で読まれてゐると云ふことが、通俗小説である第一の証拠だよ。万人向きの小説なんかに、碌なものがある訳はないからね。」

 二人の、攻撃的な挑戦的な口調を聴いてゐると、信一郎もつい、ムカ〳〵となつてしまつた。瑠璃子夫人はと見ると、その平静な顔に、けしかけるやうな微笑を湛へて、『貴君あなたも負けないで、しつかりおやりなさい。』と、云ふやうに信一郎の顔を見てゐた。

「それは可笑をかしいですな。」

 さう云ひながら、信一郎は何処か貴族的な傲慢さが、たゞようてゐる小山男爵の顔をぢつと見た。

「そんな暴論はありませんよ。広く読まれてゐるのが、通俗小説の証拠ですつて、そんな暴論はないと思ひますね。さう云ふ議論をすれば、沙翁シエクスピアの戯曲だつて、通俗戯曲だと云ふことになるぢやありませんか。ホーマアの詩だつて、ダンテの神曲だつて、みんな広く読まれてゐると云ふ点で、通俗的作品と云ふことになりさうですね。僕は、さうは思ひませんよ。それと反対に、立派な芸術的作品ほど、時代が経てば、だん〳〵通俗化して行くのだと思ふのですね。トルストイの作品が日本などでも段々通俗化して来たやうに、通俗化して行かない作品こそ、却つて何かの欠陥があると思ふのですね。御覧なさい! 馬琴でも西鶴でも、通俗化して行けばこそ、後代に伝はるのぢやありませんか。『金色夜叉』が通俗化してゐるからと云つて、あの小説の芸術的価値を否定することは出来ませんよ。僕は芸術的にすぐれてゐればこそ、民衆の教養が進むに従つて、段々通俗化して行つたのだと思ふのです。紅葉の考へ方や、観方はいかにも常識的かも知れません。が、然し作品全体の味とかその表現などにこそ、却つて芸術的な価値があるのぢやありませんか。あの作品の規模の大きさから云つても、画面的に描き出す手腕から云つても、明治時代無二の作家と云つてもよいと思ふのです。いや、あの鼈甲べつかふ牡丹のやうに、絢爛華麗な文章だけを取つても、優に明治文学の代表者として、推す価値が十分だと思ふのです。」

 信一郎は、可なり熱狂して喋つた。法科に籍を置いてゐたが、高等学校に入学の当時には、父の反対さへなければ、欣んで文科をやつた筈の信一郎は、文学に就ては自分自身の見識を持つてゐた。

 信一郎の意外な雄弁に、半可な文学通に過ぎない小山男爵は、もうとつくに圧倒されたと見え、その白い頬を、心持赤くしながら、不快さうに黙つてしまつた。

 三宅は、云ひ込められた口惜しさを、何うかして晴さうと、駁論の筋道を考へてゐるらしく口の辺りをモグ〳〵させてゐた。

「渥美さんは、本当に立派な文芸批評家でいらつしやる。わたくし全く感心してしまひましたわ。」

 瑠璃子夫人は、心から感心したやうに、賞讃の微笑を信一郎に注いだ。

 信一郎は、女王の御前仕合で、見事な勝利を獲た騎士のやうに、晴れがましい揚々たる気持になつてゐた。

「然し……」と、三宅と云ふ青年が、必死になつて駁論を初めようとした時だつた。

 廊下に面したドアを、外からコツ〳〵と叩く音がした。



誰方どなた!」

 夫人は、ドアを叩く音に応じてさう云つた。

「僕です。」

 外の人は明晰な、美しい声でさう答へた。

「あら、秋山さんなの。丁度よいところへ。」

 夫人は、さう云ひながら、いそ〳〵と椅子を離れた。信一郎が、入つて来たときは、夫人はたゞ椅子から、腰を浮かしただけだつたのに。

 夫人が、手づからドアを開けると、『僕です。』と、名乗つた男は、軽く会釈をしながら、入つて来た。信一郎は、一目見たときに、何処かで見覚えのある顔だと思つたが、一寸思ひ出せなかつた。が、一目見ただけで、作家か美術家であることは、直ぐ解つた。白い面長な顔に、黒い長髪を獅子の立髪か何かのやうに、振り乱してゐた。が、頭は極端に奔放であるにも拘はらず、薩摩上布の衣物きものに、鉄無地の絽の薄羽織を着た姿は、可なり瀟洒たるものだつた。夫人はその男とは、立ちながら話した。

「暫く御無沙汰致しました。」

「ほんたうに長い間お見えになりませんでしたのね。箱根へお出でになつたつて、新聞に出てゐましたが、行らつしやらなかつたの。」

「いや、何処へも行きやしません。」

「それぢや、やつぱり例の長篇で苦しんでゐらしつたの。本当に、わたくしの家へいらつしやる道を忘れておしまひになつたのかと思つてゐましたの。ねえ! 三宅さん。」

 夫人は、三宅と云ふ学生を顧みた。

「やあ!」

「やあ!」

 三宅とその男とは顔を見合して挨拶した。

「本当に、暫らくお見えになりませんでしたね。貴君あなたが、いらつしやらないと、此処の客間サロンも淋しくていけない。」

 三宅は、後輩が先輩に迎合するやうな、口の利き方をした。

「さあ! 秋山さん! 此方こつちへお掛けなさいませ。本当によい所へらしつたわ。今貴君に断定を下していたゞきたい問題が、起つてゐますのよ。」

 さう云ひながら、今度は夫人自ら、空いた椅子を、自分の傍へ、置き換へた。

「さあ! お掛けなさいませ! 貴君の御意見が、伺ひたいのよ。ねえ! 三宅さん!」

 信一郎に、説きされてゐた三宅は、援兵を得たやうに、勇み立つた。

「さあ、是非秋山さんの御意見を伺ひたいものです。ねえ! 秋山さん、今明治時代の第一の小説家は、誰かと云ふ問題が、起つてゐるのですがね、貴君あなたのお考へは、何うでせう。かう云ふ問題は、専門家でなければ駄目ですからね。」

 三宅は、最後の言葉を、信一郎に当てこするやうに云つた。瑠璃子夫人までが、その最後の言葉を説明するやうに信一郎に云つた。

「此の方、秋山正雄さん、御存じ! あの赤門派の新進作家の。」

 秋山正雄、さう云はれて見れば、最初見覚えがあると思つたのは、間違つてゐなかつたのだ。信一郎が一高の一年に入つた時、その頃三年であつた秋山氏は文科の秀才として、何時も校友会雑誌に、詩や評論を書いてゐた。それが、大学を出ると、見る間に、メキ〳〵と売り出して、今では新進作家の第一人者として文壇を圧倒するやうな盛名を馳せてゐる。その上、教養の広く多方面な点では若い小説家としては珍らしいと云はれてゐる人だつた。

 信一郎は、自分が有頂天になつて、喋べつた文学論が、かうした人に依つて、批判される結果になつたかと思ふと、可なりイヤな羞しい気がした。有頂天になつてゐた彼の心持は忽ち奈落の底へまで、引きずり落された。場合に依つては、此の教養の深い文学者──しかも先輩に当つてゐる──と、文学論を戦はせなければならぬかと思ふと、彼は思はず冷汗が背中に湧いて来るのを感じた。

 信一郎の心が、不快な動揺に悩まされてゐるのをよそに、秋山氏は、今火をけた金口の煙草をくゆらしながら、落着いた調子で云つた。

「それは、大問題ですな。僕の意見を述べる前に、兎に角皆様の御意見を承はらうぢやありませんか。」

 さう云ひながら、秋山氏は額に掩ひかかる長髪を、二三度続けざまに後へ掻き上げた。



「大分いろ〳〵な御意見が出たのですがね。ここにいらつしやる渥美君、確かさうおつしやいましたね。」三宅は、一寸信一郎の方を振り顧つた。「大変紅葉をお説きになるのです。紅葉を措いて明治時代の文豪は、外にないだらうと、かう仰しやるのです。文章だけを取つても、鼈甲べつかふ牡丹のやうな絢爛さがあるとか何とかおつしやるのです。」

 三宅が、秋山氏に信一郎の持説を伝へてゐる語調の中には、『此の素人が』と云つた語気が、ありありと動いてゐた。秋山氏は、いかにも小説家らしく澄んだ眼で、信一郎の方をジロリと一瞥したが、吸ひさしの金口の火を、鉄の灰皿で、擦り消しながら、「鼈甲牡丹の絢爛さ! なるほど、うまい形容だな。だが、まがひの鼈甲牡丹なら三四十銭で、其処らの小間物屋に売つてゐさうですね。」

 瑠璃子夫人を初め、一座の人々が、秋山氏の皮肉を、どつと笑つた。

「紅葉山人の絢爛さも、きイちやん、みイちやん的読者を欣ばせるまがひの鼈甲牡丹ぢやありませんかね。一寸見ちよつとみは、光沢つやがあつても、触つて見ると、牛の骨か何かだと云ふことが、直ぐ分りさうな。」

 秋山氏が、文壇での論戦などでも、自分自身の溢れるやうな才気に乗じて、常に相手を馬鹿にしたやうな、おひやらかしてしまふやうな態度に出ることは、信一郎も予々かね〴〵知つてゐた。それが、妙な羽目から、自分一人に向けられてゐるのだと思ふと、信一郎は不愉快とも憤怒とも付かぬ気持で、胸が一杯だつた。が、かうした文学者を相手に、議論を戦はす勇気も自信もなかつた。相手の辛辣な皮肉を黙々として、聴いてゐる外はなかつた。たゞ、文壇の花形ともある秋山氏が、自分などの素人を捕へて、真向から皮肉を浴びせてゐるのが、可なり大人気ないやうにも思はれて、それが恨めしくも、憤ろしくもあつた。

「第一『金色夜叉』なんか、今読んで見ると全然通俗小説ですね。」

 秋山氏は、一刀の下に、何かを両断するやうに云つた。

 瑠璃子夫人は、『おや。』と云つたやうな軽い叫びを挙げながら云つた。

「三宅さんも、先刻さつきそんなことを云つたのよ。あ、分つた! 三宅さんのは秋山さんの受売だつたのね。」

 三宅は、赤面したやうに、頭を掻いた。一座は、信一郎を除いて、皆ドツと笑つた。

 秋山氏は、皮肉な微笑を浮べながら、

「いや、三宅君と期せずして意見を同じくしたのは、光栄ですね。」

 一座は、秋山氏の皮肉を、又ドツと笑つた。その笑が静まるのを待ち兼ねて、三宅が云つた。

「今僕が、その『金色夜叉』通俗小説論を持ち出したのです。すると、渥美さんが云はれるのです。現在の我々の標準で律すれば、『金色夜叉』は通俗小説かも知れない。が、作品を論ずるには、その時代を考へなければならない。文学史的に見なけばならない。かう仰しやるのです。」

「文学史的に見る。それは卓見だ。」秋山氏は、ニヤ〳〵と冷笑とも微笑とも付かぬ笑ひを浮べながら云つた。

「だが、紅葉山人と同時代の人間が、みんな我々の眼から見て、通俗小説を書いてゐるのなら、『金色夜叉』が通俗小説であつても、一向差支ないが、紅葉山人と同時代に生きてゐて、我々の眼から見ても、立派な芸術小説をかいてゐる人が外にあるのですからね。幾何いくら文学史的に見ても、紅葉を第一の小説家として、許すことは僕には出来ませんね。文学史的に見れば、紅葉山人などは、明治文学の代表者と云ふよりも、徳川時代文学の殿将ですね。あの人の考へ方にも、観方にも描き方にも、徳川時代文学の殼が、こびりついてゐるぢやありませんか。」

 さすがの信一郎も、黙つてゐることは出来なかつた。

「さう云ふ観方をすれば、明治時代の文学は、全体として徳川時代の文学の伝統を引いてゐるぢやありませんか。何も、紅葉一人だけぢやないと思ひますね。」

「いや、徳川時代文学の糟粕などを、少しも嘗めないで、明治時代独特の小説をかいてゐる作家がありますよ。」

「そんな作家が、本当にありますか。」

 信一郎も可なり激した。

「ありますとも。」

 秋山氏は、水の如く冷たく云ひ放つた。



汝妖婦よ



「誰です。一体その人は。」

 信一郎は、可なり急き込んで訊いた。

 が、秋山氏は落着いたまゝ、冷然として云つた。

「然し、かう云ふ問題は、銘々の主観の問題です。僕が、此の人がかうだと云つても、貴君あなたにそれが分らなければ、それまでの話ですが、兎に角云つて見ませう。それは、誰でもありません。あの樋口一葉です。」

 秋山氏は、それに少しの疑問もないやうに、ハツキリと云ひ切つた。

 瑠璃子夫人は、それを聴くと、躍り上るやうにして欣んだ。

「一葉! わたくしスツカリ忘れてゐましたわ。さう〳〵一葉がゐますね。わたくしが、今まで読んだ小説の女主人公の中で、あの『たけくらべ』の中の美登利ほど好きな女性はないのですもの。」

「御尤もです。勝気で意地つ張なところが貴女あなたに似てゐるぢやありませんか。」

 秋山氏は、夫人を揶揄するやうに云つた。

「まさか。」

 と、夫人は打ち消したが、其の比較が、彼女の心持に媚び得たことは明かだつた。

「一葉! さう〳〵あれは天才だ、夭折した天才だ! 一葉に比べると、紅葉なんか才気のある凡人に過ぎませんよ。」

 小山男爵は、信一郎に云ひ伏せられた腹癒はらいせがやつと出来たやうに、得々として口を挟んだ。

「さうだ! 『たけくらべ』と『金色夜叉』とを比べて見ると、どちらが通俗小説で、どちらが芸術小説だか、ハツキリと分りますね。渥美さんの御意見ぢや、『金色夜叉』よりも六七年も早く書かれた『たけくらべ』の方が、もつと早く通俗小説になつて居る筈だが、我々が今読んでも『たけくらべ』は通俗小説ぢやありませんね。決してありませんね。」

 三宅も、信一郎の方を意地悪く見ながら、さう云つた。

 其処にゐた多くの人々も、銘々に口を出した。

「『たけくらべ』! ありや明治文学第一の傑作ですね。」

「ありや、僕も昔読んだことがある。ありやたしかにいゝ。」

「あゝさう〳〵、吉原の附近が、光景になつてゐる小説ですか、それなら私も読んだことがある。坊さんの息子か何かがゐたぢやありませんか。」

「女主人公が、それをひそかに恋してゐる。が、勝気なので、口には云ひ出せない。その中に、一寸した意地から不和になつてしまふ。」

「信如とか何とか云ふ坊さんの子が、下駄の緒を切らして困つてゐると、美登利が、紅入友禅か何かの布片きれを出してやるのを、信如が妙な意地と遠慮とで使はない。あの光景なんか今でもハツキリと思ひ出せる。」

 代議士の富田氏までが、そんなことを云ひ出した。かうした一座の迎合を、秋山氏は冷然と、聴き流しながら、最後の断案を下すやうに云つた。

「兎に角、明治の作家のうちで、本当に人間の心を描いた作家は、一葉の外にはありませんからね。硯友社の作家が、文章などに浮身を窶して、本当に人間が描けなかつた中で、一葉丈は嶄然として独自の位置を占めてゐますからね。一代の驕児高山樗牛が、一葉だけには頭を下げたのも無理はありませんよ。僕は明治時代第一の文豪として一葉を推しますね。」

 秋山氏は、如何にも芸術家らしい冷静と力とを以て、昂然とさう云ひ放つた。

 信一郎は、もう先刻からぢり〳〵と湧いて来る不愉快さのために、一刻もぢつとしてはゐられないやうな心持だつた。凡てが不愉快だつた。凡てが、癪に触つた。樫の棒をでも持つて、一座の人間を片ツ端から、殴り付けてやりたいやうにいら〳〵してゐた。

 さうした信一郎の心持を、知つてか知らずにか、夫人は何気ないやうに微笑しながら、

「渥美さん! しつかり遊ばしませ。大変お旗色が悪いやうでございますね。」



 信一郎が、フラ〳〵と立ち上るのを見ると、皆は彼が大に論じ始めるのかと思つてゐた。が、今彼の心には、樋口一葉も尾崎紅葉もなかつた。たゞ、瑠璃子夫人に対する──夫人の移り易きこと浮草の如き不信に対する憎みと、恨みとで胸の中が燃え狂つてゐたのだつた。

 彼は一刻も早く此席を脱したかつた。彼は其処に蒐まつてゐる男性に対しても、激しい憎悪と反感とを感ぜずにはゐられなかつた。

「奥さん! 僕は失礼します。僕は。」

 彼は、感情の激しい渦巻のために、何と挨拶してよいのか分らなかつた。

 彼は、吃りながら、さう云つてしまふと、泳ぐやうな手付で、並んだ椅子の間を分けながらドアの方へ急いだ。

 さすがに一座の者は固唾を飲んだ。今まで瑠璃子夫人をさしはさんで、鞘当的な論戦の花が咲いたことは幾度となくあつたが、そんな時に、形もなく打ち負された方でも、こんなにまで取り擾したものは一人もなかつた。

 真蒼な顔をして、憤然として、立ち出でて行く信一郎を、皆は呆気に取られて見送つた。

 信一郎は、もう美しい瑠璃子夫人にも何の未練もなかつた。後に残した華やかな客間を、心の中で唾棄した。夫人の艶美な微笑も蜜のやうな言葉も、今は空の空なることを知つた。否、空の空なるか、ではなくして、その中に恐ろしい毒を持つてゐることを知つた。それは、目的のための毒ではなくして、毒のための毒であることを知つた。彼女は、目的があつて、男性を翻弄してゐるのではなく、たゞ翻弄することの面白さに、翻弄してゐることを知つた。自分の男性に対する魅力を、楽しむために、無用に男性を魅してゐることを知つた。丁度、激しい毒薬の所有者が、その毒の効果を自慢してみだりに人を毒殺するやうに。

『汝妖婦よ!』

 信一郎は、心の中で、さう叫び続けた。彼は、客間から玄関までの十間に近い廊下を、電光の如くに歩んだ。

 周章あわてゝ見送らうとする玄関番の少年にも、彼は一瞥をも与へなかつた。

 彼は突き破るやうな勢ひで、玄関の扉に手をかけた。

 が、その刹那であつた。

 信一郎の興奮した耳に、冷水を注ぐやうに、

「渥美さん! 渥美さん! 一寸お待ち下さい。」と、云ふ夫人の美しい言葉が聞えて来た。信一郎はそれを船人の命を奪ふ妖魚サイレンの声として、そのまゝ聞き流して、戸外へ飛び出さうと思つた。が、彼のさうした決心にも拘はらず、彼の右の手は、しびれたやうに、ドア把手ハンドルにかゝつたまゝ動かなかつた。

「何うなすつたのです。本当にびつくりいたしましたわ。何をそんなにお腹立ち遊ばしたの。」夫人は小走りに信一郎に近づきながら、可愛い小さい息をはずませながら云つた。

 心配さうに見張つた黒い美しい眸、象牙彫のやうに気高い鼻、端正な唇、皎い艶やかな頬、かうした神々しいらふたけた夫人の顔を見てゐると、彼女に嘘、偽りが、夢にもあらうとは思はれなかつた。彼女の微笑や言葉の中に、微塵賤しい虚偽が、潜んでゐようとは思はれなかつた。

うして、そんなに早くお帰り遊ばすの。わたくし、皆さんがお帰りになつた後で、貴君とだけで、ゆつくりお話してゐたかつたの。秋山さんと云ふ方は、本当にあまんじやくよ。反対のために反対していらつしやるのですもの。それをまた、みんなが迎合するのだから、厭になつてしまひますわね。客間サロンにいらつしやるのがお厭なら、図書室ライブラリーの方へ、御案内いたしますわ。あなたのお好きな『紅葉全集』でも、お読みになつて、待つていらつしやいませ。わたくし、もう三十分もすれば、何とか口実を見付けて、皆さんに帰つていたゞきますわ。ほんの少しの間、待つてゐて下さらない?」



『ほんの少し待つてゐて下さらない?』と、云ふ夫人の言葉を聴くと、『汝妖婦よ!』と、心の中で叫んでゐた信一郎の決心も、またグラ〳〵と揺がうとした。

 が、彼は揺がうとする自分の心を、辛うじて、最後の所で、グツと引き止めることが出来た。お前はもう既に、夫人の蜜のやうな言葉に乗ぜられて、散々な目にあつたではないか。再びお前は、夫人から何を求めようとしてゐるのだ。お前が夫人の言葉を信ずれば、信ずるほど、夫人のお前に与ふるものは、幻滅と侮辱との外には、何もないのだ。男性の威厳を思へ! 今日夫人から受けた幻滅と侮辱とは、まだ夫人に対するお前の幻覚を破るのに足りなかつたのか。男性の威厳を思へ! 夫人の言葉をスツパリと突き放してしまへ! 信一郎の心の奥に、弱いながら、さう叫ぶ声があつた。

 信一郎は、心の中に夫人の美しさに、抵抗し得るだけの勇気を、やつと蒐めながら云つた。

「でも、奥さん! 私、このまゝお暇いたした方がいゝやうに思ふのです。あゝした立派な方が蒐まつてゐる客間には、私のやうな者は全く無用です。どうも、大変お邪魔しました。」

 信一郎は、可なりキツパリと断りながら、急いでくびすを返さうとした。

「まあ! 貴君あなた、何をそんなにお怒り遊ばしたの、何かわたくし貴君あなたのお気に触るやうなことをいたしましたの。折角いらして下すつて、直ぐお帰りになるなんて、あんまりぢやありませんか。客間に蒐まつていらつしやる方なんて、わたくし仕方なくお相手いたしてをりますのよ。わたくしが、わたくしの方から求めてお友達になりたいと思つたのは、本当は貴君あなたお一人なのですよ。」

 信一郎は、さう云ひながら、何事もないやうに、笑つてゐる夫人の美しさに、ある凄味をさへ感じた。夫人の口吻くちぶりから察すれば、夫人は周囲に集まつてゐる男性を、蠅同様に思つてゐるのかも知れない。もし、さうだとすると、信一郎なども、新来の初心な蠅として、たゞ一寸した珍しさに引き止められてゐるのかも知れない。さうした上部うはべけの甘言に乗つて、ウカ〳〵と夫人の掌上などに、止まつてゐる中には、あの象牙骨の華奢な扇子か何かで、ピシヤリと一打ひとうちにされるのが、当然の帰結であるかも知れないと信一郎は思つた。

「でも、今日は帰らせていたゞきたいと思ひます。又改めて伺ひたいと思ひますから。」

 信一郎は、可なり強くなつて、キツパリと云つた。

 夫人も、さすがにそれ以上は、勧めなかつた。

「あらさう。何うしてもお帰りになるのぢや仕方がありませんわ。やつぱり、わたくしの心持が、貴方あなたにはよく分らないのですね。ぢや、左様なら。」

 夫人は、淡々として、さう云ひ切ると、グルリと身体を廻らして、客間の方へ歩き出した。

 夫人から引き止められてゐる内は、それを振切つて行く勇気があつた。が、かうあつさりと軽く突き放されると、信一郎は何だか、拍子抜けがして淋しかつた。

 夫人と別れてしまふことに依つて、異常な絢爛な人生の悦楽を、味ふ機会が、永久に失はれてしまふやうにも思はれた。自分の人生に、明けかゝつた冒険ロマンスの曙が、またそのまゝ夜の方へ、逆戻りしたやうにも思はれた。

 が、危険な華やかな毒草の美しさよりも、慎しい、しをらしい花の美しさが、今彼の心の裡によみがへつた。

 淋しいしかし安心な、暗いしかし質素な心持で、彼は大理石の丸柱の立つた車寄をしづかに下つた。もう此の家を二度と訪ふことはあるまい。あの美しい夫人の面影に、再び咫尺しせきすることもあるまい。彼がそんなことを考へながら、トボ〳〵と門の方へ歩みかけた時だつた。彼はふと、門への道に添ふ植込みの間から、左に透けて見える庭園に、語り合つてゐる二人の男性を見たのである。彼は、その人影を見たときに、ゾツとして其処に立ち止まらずにはゐられなかつた。



 信一郎が、駭いて立ち竦んだのも、無理ではなかつた。玄関から門への道に添ふ植込の間から、透けて見える、キチンと整つた庭園の丁度真中に、庭石に腰かけながら、語り合つてゐる二人の男を見たのである。

 二人の男を見たことに、不思議はなかつた。が、その二人の男が、両方とも、彼の心に恐ろしい激動を与へた。

 彼の方へ面を向けて、腰を下してゐる学生姿の男を見た時に、彼は思はず『アツ!』と、声を立てようとした。品のよい鼻、白皙のおもて、それは自分の介抱を受けながら、横死した青木淳と瓜二つの顔だつた。それが、白昼の、かほど、けざやかな太陽の下の遭遇でなかつたならば、彼はそれを不慮の死を遂げた青年の亡霊と思ひ過つたかも知れなかつた。

 が、彼の理性が働いた。彼は一時は、駭いたものの直ぐその青年が、いつかの葬場で見たことのある青木淳の弟であることに、気が付いた。

 然し、彼が最初の駭きから、やつと恢復した時、今度は第二の駭きが彼を待つてゐた。青年と相対して語つてゐる男は、紛れもなく海軍士官の軍服を着けてゐる。海軍士官の軍服に気が付いたとき、信一郎の頭に、電光のやうに閃いたものは、村上海軍大尉といふ名前であつた。青年が、遺して行つた手記の中に出て来る村上海軍大尉と云ふ名前だつた。

 青木淳が、烈しい忿恨を以て、ノートに書き付けた文句が、信一郎の心に、アリ〳〵と甦つて来た。


『昨日自分は、村上海軍大尉と共に、彼女の家の庭園で、彼女の帰宅するのを待つてゐた。その時に、自分はふと、大尉がその軍服の腕を捲り上げて、腕時計を出して見てゐるのに気が付いた。よく見ると、その時計は、自分の時計に酷似してゐるのである。自分はそれとなく、一見を願つた。自分が、その時計を、大尉の頑丈な手首から、取り外したときの駭きは、んなであつたらう。し、大尉が其処に居合せなかつたら、自分は思はず叫声を挙げたにちがひない。』


 信一郎は、青木淳の弟と語つてゐる軍服姿の男を見たときに、それが手記の中の村上大尉であることに、もう何のうたがひもなかつた。もし、それが、村上海軍大尉であるとしたならば、青木淳と大尉との双方に、同じ白金プラチナの時計を与へて、『これは、わたくし貴君あなたに対する愛の印として、貴君に差し上げますのよ。本当は、かけ替のない秘蔵の品物ですけれど。』と、云ひながら二人を翻弄し去つた女性が、果して何人なんぴとであるかが、信一郎にはもうハツキリと分つてしまつた。

『汝妖婦よ!』

 彼は心のうちで再びさう声高く、叫ばずにはゐられなかつた。

 が、信一郎の心を、もつと痛めたことは、兄が恐ろしく美しい蜘蛛の糸に操られて、悲惨な横死を──形は奇禍であるが、心は自殺を──遂げたと云ふことを夢にも知らないで、その肉親の弟が、又同じ蜘蛛の網に、ウカ〳〵とかゝりさうになつてゐることだつた。いや恐らくかゝつてゐるのかも知れない。いや、兄と同じやうに、もう白金プラチナの時計を貰つてゐるのかも知れない。あゝして、話してゐるうちに、相手の海軍大尉の腕時計に、気が付くのかも知れない。兄の血と同じ血を持つてゐる筈の弟は、それを見て兄と同じやうに激昂する。兄と同じやうに自殺を決心する。

 さう考へて来ると、信一郎は、烈々と輝いてゐる七月の太陽の下に、尚周囲あたりが暗くなるやうに思つた。兄が陥つた深淵へ又、弟が陥ちかかつてゐる。それほど、悲惨なことはない。さう思ふと、信一郎は、

『おい! 君!』と、高声に注意してやりたい希望に動かされた。が、それと同時に、血を分けた兄弟を、兄に悲惨な死を遂げしめた上に、更に弟をも近づけて、翻弄しようとする毒婦を憎まずにはゐられなかつた。

『汝妖婦よ!』彼は、心のうちでもう一度さう叫んだ。が、信一郎が、これほど心を痛めてゐるにも拘らず、当の青年は、何が可笑をかしいのか、軽く上品に笑つてゐるのが、手に取るやうに聞えて来た。

 信一郎は、見るべからざるものを見たやうに、おもてを背けて足早に門を駈けでたのである。



 新宿行の電車に乗つてからも、信一郎の心は憤怒や憎悪の烈しい渦巻で一杯だつた。

 瑠璃子夫人こそ、白金プラチナの時計を返すべき当の本人であることが解ると、夫人の美しさや気高さに対する讃嘆の心は、影もなくなつて、憎悪と軽い恐怖とが、信一郎の心に湧いた。

 青木淳の死の原因が、直接ではなくても、間接な原因が、自分であることを知りながら、嫣然として時計を受け取つた夫人の態度が、空恐しいやうに思ひ返された。『わたくしが預つて本当の持主に返して上げます。』と、事もなげに云ひ放つた夫人の美しい面影が、空恐ろしいやうに想ひ返された。


『が、彼女と面と向つて、不信を詰責しようとしたとき、自分は却つて、彼女から忍びがたい恥かしめを受けた。自分は小児の如く、翻弄され、奴隷の如く卑しめられた。而も美しい彼女の前に出ると、唖のやうにたわいもなく、黙り込む自分だつた。自分はいきどほりうらみとの為にわな〳〵顫へながら而も指一本彼女に触れることが出来なかつた。自分は力と勇気とが、欲しかつた。彼女の華奢な心臓を、一思ひに突き刺し得るだけの力と勇気とを。……彼女を心から憎みながら、しかも片時も忘れることが出来ない。彼女が彼女のサロンで多くの異性に取囲まれながら、あの悩ましき媚態を惜しげもなく、示してゐるかと思ふと、自分の心は、夜の如く暗くなつてしまふ。自分が彼女を忘れるためには、彼女の存在を無くするか、自分の存在を無くするか二つに一つだと思ふ。……さうだ、一層いつそ死んでやらうかしら。純真な男性の感情を弄ぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思ひ知らせてやるために。さうだ、自分の真実の血で、彼女のいつはりの贈物を、真赤に染めてやるのだ。そして、彼女の僅に残つてゐる良心を、はづかしめてやるのだ。』


 青木淳の遺して逝つた手記の言葉が、太陽の光に晒されたやうに、何の疑点もなくハツキリと解つて来た。彼女が、瑠璃子夫人であることに、もう何の疑ひもなかつた。純真な青年の感情を弄んで彼を死に導いた彼女が、瑠璃子夫人であることに、もう何の疑ひもなかつた。

『汝妖婦よ!』

 信一郎は、十分な確信を以て、心の中でさう叫んだ。青年は、彼女に対して、綿々のうらみを呑んで死んだのである。白金プラチナの時計を『返して呉れ。』と云ふことは、『叩き返して呉れ。』と云ふことだつたのだ。彼女の僅に残つてゐる良心を恥かしめてやるために、叩き返して呉れと云ふことだつた。

 さうだ! それを信一郎は、瑠璃子夫人のために、不得要領に捲き上げられてしまつたのである。

『取り返せ。もう一度取り返せ! 取り返してから、叩き返してやれ!』

 信一郎の心に、さう叫ぶ声が起つた。『それで彼女の僅に残つてゐる良心を恥かしめてやれ。お前は死者の神聖な遺託に背いてはならない。これから取つて返して、お前の義務を尽さねばならない。あれほど青年のうらみの籠つた時計を、不得要領に、返すなどと云ふことがあるものか。もう一度やり直せ。そしてお前の当然な義務を尽せ。』

 信一郎の心の中の或る者が、さう叫び続けた。が、心のうちの他の者は、かう呟いた。

『危きに近寄るな。お前は、あの美しい夫人と太刀打が出来ると思ふのか。お前は、今の今迄危く夫人に翻弄されかけてゐたではないか。夫人の張る網から、やつと逃れ得たばかりではないか。お前が血相を変へて駈付けても、また夫人の美しい魅力のために、手もなく丸められてしまふのだ。』

 かうした硬軟二様の心持の争ひの裡に、信一郎は何時の間にか、自分の家近く帰つてゐた。停留場からは、一町とはなかつた。

 電車通を、右に折れたとき、半町ばかり彼方の自分の家の前あたりに、一台の自動車が、止つてゐるのに気が付いた。



 信一郎の興奮してゐた眸には、最初その自動車が、漠然と映つてゐるだけだつた。それよりも、彼は自分の家が、近づくに従つて、『社の連中と多摩川へ行く。』などと云ふ口実で、家を飛び出しながら、二時間も経たない裡に、早くも帰つて行くことが、心配になり出した。また早く、帰宅したことに就いて、妻を納得させるだけの、口実を考へ出すことが、可なり心苦しかつた。彼は、電車の中でも、何処か外で、ゆつくり時間を潰して、夕方になつてから、帰らうかとさへ思つた。が、彼の本当の心持は、一刻も早く家に帰りたかつた。妻の静子の優しい温順な面影に、一刻も早く接したかつた。危険な冒険を経た者が、平和な休息を、只管ひたすら欲するやうに、他人との軋轢や争ひに胸を傷つけられ、瑠璃子夫人に対する幻滅で心を痛めた信一郎は、家庭の持つてゐる平和や、妻の持つてゐる温味の裡に、一刻も早く、浴したかつたのである。縦令たとひ、もう一度妻を欺く口実を考へても、一刻も早く家に帰りたかつたのである。

 が、彼が一歩々々、家に近づくに従つて、自分の家の前に停つてゐる自動車が、気になり出した。勿論、此の近所に自動車が、停つてゐることは、珍らしいことではなかつた。彼の家から、つい五六軒向うに、ある実業家の愛妾が、住つてゐるために、三日にあげず、自動車がその家の前に、永く長く停まつてゐた。今日の自動車も、やつぱり何時もの自動車ではないかと、信一郎は最初思つてゐた。が、近づくに従つて、何時もとは、可なり停車の位置が違つてゐるのに気が付いた。何うしても、彼の家を訪ねて来た訪客が、乗り捨てたものとしか見えなかつた。

 が、段々家に近づくに従つて、恐ろしい事実が、漸く分つて来た。何だか見たことのある車台だと云ふ気がしたのも、無理ではなかつた。それは、紛れもなくあの青色大型の、伊太利イタリー製の自動車だつた。信一郎も一度乗つたことのある、あの自動車だつた。さうだ、此の前の日曜の夜に、荘田夫人と同乗した自動車に、寸分も違つてゐなかつた。

 夫人が、訪ねて来たのだ! さう思つたときに、信一郎の心は、激しく打ち叩かれた。当惑と、ある恐怖とが、胸一杯に充ち満ちた。

 出先で、妖怪に逢ひ這々はふ〳〵の体で自分の家に逃げ帰ると、その恐ろしい魔物が、先廻りして、自分の家に這入り込んでゐる。昔の怪譚にでもありさうな、絶望的な出来事が、信一郎の心を、底から覆してしまつた。瑠璃子夫人の美しい脅威に戦いて、家庭の平和の裡に隠れようとすると、相手は、先廻りして、その家庭の平和をまで、掻きみださうとしてゐる。静かな慎しい家庭と、温和な妻の心をまでも掻き擾さうとしてゐる。

 信一郎は、当惑と恐怖とのために、暫くは、道の真中に立ち竦んだまゝ、何うしてよいか分らなかつた。その裡に、信一郎の絶望と、恐怖とは、夫人に対する激しい反抗に、変つて行つた。

 温和おとなしい妻が、美しい、溌剌たる夫人の突然な訪問を受けて狼狽してゐる有様が、あり〳〵と浮んで来た。自分が、妻に内密で、ああした美しい夫人と、交りを結んでゐたと云ふことが、どんなに彼女を痛ましめたであらうかと思ふと、信一郎は一刻も、ぢつとしてはゐられなかつた。温和しい妻が夫人のために、どんなに云ひくるめられ、どんなに飜弄されてゐるかも知れぬと思ふと、一刻も逡巡してゐるときではないと思つた。自分の彼女に対する不信は、後でどんなにでも、許しを乞へばいゝ。今は妻を、美しい夫人の圧迫から救つてやるのが第一の急務だと思つた。

 それにしても、夫人は何の恨みがあつて、これほどまで、執拗に自分を悩ますのであらう。自分を欺いて、客間へ招んで恥を掻かせた上に、自分の家庭をまで、掻き擾さうとするのであらうか。今は夫人の美しさに、怖れてゐるときではない。戦へ! 戦つて、彼女の僅に残つてゐるかも知れぬ良心を恥しめてやる時だ! さうだ! 死んだ青木淳のためにも、弔合戦を戦つてやる時だ! さう思ひながら、信一郎は必死の勇を振つて、敵の城の中へでも飛び込むやうな勢で、自分の家へ飛び込んだのである。



 玄関先に立つてゐる、もしくは客間に上り込んでゐる妖艶な夫人の姿を、想像しながら、それに必死に突つかゝつて行く覚悟のほぞを固めながら、信一郎は自分の家の門を、潜つた。

 見覚えのある運転手と助手とが、玄関に腰を下してゐるのが先づ眼に入つた。信一郎は、彼等を悪魔の手先か何かを見るやうに、憎悪と反感とで睨み付けた。が、夫人の姿は見えなかつた。手早く眼をやつた玄関の敷石の上にも、夫人の履物らしい履物は脱ぎ捨てゝはなかつた。信一郎は、少しは救はれたやうに、ホツとしながら、玄関へ入らうとした。

 運転手は素早く彼の姿を見付けた。

「いやあ。お帰りなさいまし。先刻さつきからお待ちしてゐたのです。」

 彼は、馴れ〳〵しげに、話しかけた。信一郎はそれが、可なり不愉快だつた。が、運転手は信一郎を、もつと不愉快にした。彼は、無遠慮に大きい声で、奥の方へ呼びかけた。

「奥さん! やつぱり、お帰りになりましたよ。何処へもお廻りにならないで、直ぐお帰りになるだらうと思つてゐたのです。」

 運転手は、いかにも自分の予想が当つたやうに、得意らしく云つた。運転手が、さう云ふのを聴いて、信一郎は冷汗を流した。運転手と妻とが、どんな会話をしたかが、彼には明かに判つた。

「御主人はお帰りになりましたか。」

 運転手は、最初さう訊ねたに違ひない。

「いゝえ、まだ帰りません。」

 妻は、自身しくは女中をしてさう答へさせたに違ひない。

「それぢや、お帰りになるのをお待ちしてゐませう。」

 運転手は、さう云つたに違ひない。

「あの、会社の人達と一緒に、多摩川へ行きましたのですから、帰りは夕方になるだらうと思ひます。」

 何も知らない、信一郎を信じ切つてゐる妻は、さう答へたに違ひない。それに対して、この無遠慮な運転手はかう言ひ切つたに違ひない。

「いゝえ、直ぐお帰りになります。只今私の宅からお帰りになつたのですから、よそへお廻りにならなければ三十分もしない裡に、お帰りになります。」

 初めて会つた他人から、夫の背信を教へられて、妻は可なり心を傷けられながら赤面して黙つたに違ひない。さう思ふと、突然運転手などを寄越す瑠璃子夫人に、彼は心からなる憤怒を感ぜずにはゐられなかつた。

 信一郎は、可なり激しい、叱責するやうな調子で運転手に云つた。

「一体何の用事があるのです?」

 運転手は、ニヤ〳〵気味悪く笑ひながら、

「宅の奥様のお手紙を持つて参つたのです。何の御用事があるか私には分りません。返事を承はつて来い! かへりになるまで、おまちして返事を承はつて来い! と、申し付けられましたので。」

 運転手は、待つてゐることを、云ひ訳するやうに云つた。

 手紙を持つて来たと聴くと、信一郎は可なり狼狽した。妻に、内密ないしよで、ある女性を訪問したことが露顕してゐる上に、その女性から急な手紙を貰つてゐる。さうしたことが、どんなに妻の幼い純な心を傷けるかと思ふと、信一郎は顔の色が蒼くなるまで当惑した。彼は、妻に知られないやうに、手早く手紙を受け取らうと思つた。

「手紙! 手紙なら、早く出したまへ!」

 信一郎は、低く可なり狼狽した調子でさう云つた。

 運転手が、何か云はうとする時に、夫の帰りを知つた妻が、急いで玄関へ出て来た。彼女は、夫の顔を見ると、ニコニコと嬉しさうに笑ひながら、

「お手紙なら、此方こちらにお預りしてありますのよ。」と、云ひながら、薄桃色の瀟洒な封筒の手紙を差し出した。暢達な女文字が、半ば血迷つてゐる信一郎の眼にも美しく映つた。



面罵



 妻から、荘田夫人の手紙を差し出されて見ると、信一郎は激しい羞恥と当惑とのために、顔がほてるやうに熱くなつた。平素は、何の隔てもない妻の顔が、眩しいもののやうに、真面まともから見ることが出来なかつた。

 が、静子の顔は、平素いつもと寸分違はぬやうに穏かだつた。春のやうに穏かだつた。夫の不信を咎めてゐるやうな顔色は、少しも浮んでゐなかつた。見知らぬ女性から、夫へ突然舞ひ込んで来た手紙を、疑つてゐるやうな容子は、少しも見えなかつた。夫の帰宅を、いそ〳〵と出迎へてゐる平素の優しい静子だつた。

 信一郎は、妻の神々しい迄に、慎しやかな容子を見ると、却つて心が咎められた。これほどまでに自分を信じ切つてゐる妻を欺いて、他の女性に、好奇心を、懐いたことを、後悔し心の中で懺悔した。

 妻が差出した夫人の手紙が、悪魔からの呪符か何かのやうに、厭はしく感ぜられた。もし、人が見てゐなかつたら、それを、封も切らないで、寸断することも出来た。が、妻が見て居る以上、さうすることは却つて彼女に疑惑を起させる所以ゆゑんだつた。信一郎は、おづ〳〵と封を開いた。

 手紙と共に封じ込められたらしい、高貴な香水の匂が、信一郎の鼻を魅するやうに襲つた。が、もうそんなことに依つて、魅惑せらるゝ信一郎ではなかつた。

 彼は敵からの手紙を見るやうに警戒と憎悪とで、あわたゞしく貪るやうに読んだ。


先刻さつき貴君あなたを試したのよ。わたくしの客間へ、わたくし戯恋フラートしに来る多くの男性と貴君が、違つてゐるかうかを試したのですわ。わたくし戯恋フラートすることには倦き〳〵しましたのよ。本当の情熱がなしに、恋をしてゐるやうな真似をする。擬似恋愛フラーテイション わたくしは、それに倦き〳〵しましたのよ。身体や心は、少しも動かさないで、手先だけで、恋をしてゐるやうな真似をする。恋をしてゐるやうな所作だけをする。恋をしてゐるやうな姿勢だけを取る。わたくしは、わたくしの周囲に蒐まつてゐる、さうした戯恋者のお相手をすることには、本当に倦き〳〵しましたのよ。わたくしは真剣な方が、欲しいのよ。男らしく真剣に振舞ふ方が欲しいのよ。凡ての動作を手先丈でなく心の底から、行ふかたが欲しいのよ。

貴君あなたが忿然として座を立たれたとき、わたくしが止めるのも、肯かず、憤然として、お帰り遊ばす後姿うしろすがたを見たとき、このかたこそ、何事をも真剣になさるかただと思ひましたの! 何事をなさるにも手先や口先でなく、心をも身をも、打ち込む方だと思ひましたの。わたくしが長い間、たづねあぐんでゐた本当の男性だと思ひましたの。

信一郎様!

貴方あなたわたくしテストに、立派に及第遊ばしたのよ。

今度は、わたくしが試される番ですわ、わたくしは進んで貴方あなたに試されたいと思ひますの。わたくしが、貴方あなたのために、どんなことをしたか、どんなことをするか、それをお試しになるために、直ぐ此の自動車でいらしつて下さい!

瑠璃子』


 手紙の文句を読んでゐるうちに、瑠璃子夫人のあやしきまでに、美しい記憶が、殺されそこなつた蛇か何かのやうに、また信一郎の頭の中に、ムク〳〵と動いて来た。

 夫人の手紙を、読んで見ると、夫人の心持が、満更虚偽ばかりでもないやうに、思はれた。あの美しい夫人は、彼女を囲む阿諛や追従や甘言や、戯恋に倦き〳〵してゐるのかも知れない。実際彼女は純真な男性を、心から求めてゐるかも知れない。さう思つてゐると、夫人の真紅の唇や、白き透き通るやうな頬が、信一郎の眼前に髣髴した。

 が、次ぎの瞬間には青木淳の紫色の死顔や、今先刻さつき見たばかりの、青木淳の弟の姿などが、アリアリと浮んで来た。



 手紙を読んだ刹那の陶酔から、醒めるに従つて、夫人に対するいきどほろしい心持が、また信一郎の心に甦つて来た。かうした、人の心に喰ひ込んで行くやうな誘惑で、青木淳を深淵へ誘つたのだ。否青木淳ばかりではない、青木淳の弟も、あの海軍大尉も、否彼女の周囲に蒐まる凡ての男性を、人生の真面目な行路から踏み外させてゐるのだ。彼女を早くも嫌つて恐れて、逃れて来た自分にさへ、尚執念深く、その蜘蛛の糸を投げようとしてゐる。恐ろしい妖婦だ! 男性の血を吸ふ吸血鬼ヴァンパイアだ。さう思つて来ると、信一郎の心に、半面血に塗れながら、

『時計を返して呉れ。』

 と絶叫した青年の面影が、又歴々あり〳〵と浮かんで来た。さうだ! あの時計は、不得要領に捲上げらるべき性質の時計ではなかつたのだ! 青年の恨みを、十分に籠めて叩き返さなければならぬ時計だつたのだ! 殊に、青年の手記のうちの彼女が、瑠璃子夫人であることが、ハツキリと分つてしまつた以上、自分にその責任が、儼として存在してゐるのだ。恐ろしいものだからと云つて、おもてを背けて逃げてはならないのだ! 青年に代つて、彼が綿々の恨みを、代言してやる必要があるのだ! 青年に代つて、彼女の僅かしか残つてゐぬかも知れぬ良心を恥かしめてやる必要があるのだ! さうだ! 一身の安全ばかりを計つて逃げてばかりゐる時ではないのだ! さうだ! 彼女がもう一度の面会を望むのこそ、勿怪もつけの幸である。その機会を利用して、青年の魂を慰めるために、青年の弟を、彼女の危険から救ふために、否凡ての男性を彼女の危険から救ふために、彼女の高慢な心を、取りひしいでやる必要があるのだ。

 信一郎の心が、かうした義憤的な興奮で、充された時だつた。妻の静子は、──神の如く何事をも疑はない静子は、信一郎を促すやうに云つた。

「急な御用でしたら、直ぐいらしつては、如何でございます。」

 妻のさうした純な、少しの疑惑をも、さしはさまない言葉に、接するに付けても、信一郎は夫人に叩き返したいものが、もう一つ殖えたことに気が付いた。それは、夫人から受けた此の誘惑の手紙である。妻に対する自分の愛を、陰ながら、妻に誓ふため、夫人のおもてに、この誘惑の手紙を、投げ返してやらねばならない。

 信一郎の心は、今最後の決心に到達した。彼は、その白いおもてを、薄赤く興奮させながら、妻に云ふともなく、運転手に命ずるともなく叫んだ。

「ぢや直ぐ引返すことにせう。早くやつてお呉れ!」

 彼は、自分自身興奮のために、身体が軽く顫へるのを感じた。

「畏まりました、七分もかゝりません。」

 さう云ひながら、運転手と助手とは、軽快に飛び乗つた。

「ぢや、静子、行つて来るからね。ホンの一寸だ! 直ぐ帰つて来るからね。」

 信一郎は、小声で云ひ訳のやうに云ひながら、妻の顔を、なるべく見ないやうに、車中の人となつた。

 が、ガソリンが爆発を始めて、将に動き出さうとする時だつた。信一郎は、周章あわてて窓から、首を出した。

「おい! 静子! おれの本箱の下の引き出しの、確か右だつたと思ふが、ノートが入つてる。それを持つて来ておくれ!」

「はい。」と云つて気軽に、立ち上つた妻は、二階から大急ぎで、そのノートを持つて降りて来た。

『これが、武器だ!』信一郎は、妻の手からそれを受けとりながら、心の中でさう叫んだ。

 爪黒つまぐろの鹿の血と、疑着の相ある女の生血とを塗つた横笛が、入鹿いるかを亡ぼす手段の一つであるやうに、瑠璃子夫人の急所を突くものは、青木淳の残した此のノートの外にはないと、信一郎は思つた。



 五番町までは、一瞬の間だつた。

 かうした行動に出たことが、いゝか悪いか迷ふ暇さへなかつた。信一郎の頭の中には、瑠璃子夫人の顔や、妻の静子の顔や、非業に死んだその男の顔や、今日客間サロンで見たいろ〳〵な人々の顔が、嵐のやうに渦巻いてゐる丈だつた。が、その渦巻の中で彼は自ら強く決心した。『彼女の誘惑を粉砕せよ!』と。

 もう再びは潜るまいと決心した花崗岩の石門に、自動車は速力を僅に緩めながら進み入つた。もう再びは、足を踏むまいと思つた車寄せの石段を、彼は再び昇つた。が、先刻は夫人に対する讃美と憧れの心で、胸を躍らしながら、が、今は夫人に対する反感と憤怒とで、心を狂はせながら。

 取次ぎに出たものは、あの可愛い少年の代りに、十七ばかりの少女だつた。

「奥様がお待ちかねでございます。さあ、どうかお上り下さいませ。」

 信一郎は、それに会釈するだけの心の余裕もなかつた。彼は黙々として、少女の後に従つた。

 少女は先刻の客間サロンの方へ導かないで、玄関の広間ホールから、直ぐ二階へ導く階段を上つて行つた。

「あの、お部屋の方にお通し申すやうに仰しやつてゐましたから。」

 信一郎が一寸躊躇するのを見ると、少女は振り返つてさう言つた。

 階段を昇り切つた取つ付きの部屋が、夫人の居間だつた。少女は軽くノックしたが、内から応ずる気勢けはひがしなかつた。

「あら! いらつしやらないのかしら。それではどうか、お入りになつて、お待ち下さいませ。屹度きつと、お化粧部屋の方にいらつしやるのですから。」

 さう云つて、少女はドアを開けた。

 信一郎は、おそる〳〵その華麗な室内に足を踏み入れた。部屋の中には、夫人の繊細な洗煉された趣味が、隅から隅まで、行き渡つてゐた。敷詰めてある薄桃色の絨毯にも、水色の窓掩ひにも、ピアノの上に載せてある一輪挿の花瓶にも、桃花心木マホガニイの小さい書架に、並べてある美しい装幀の仏蘭西フランスの小説にも、雪のやうに白い絹で張りつめられた壁にかゝつてゐるクールベエらしい風景画にも炉棚マンテルピースの上の少女の青銅像ブロンズにも、夫人の高雅な趣味が光つてゐた。凡ての装飾が、金で光つてゐる丈ではなく、その洗煉された趣味で光つてゐるのだつた。

 信一郎は、部屋の装飾に、現はれてゐる夫人の教養と趣味とに、接すると、昂めよう〳〵としてゐる反感が、何時の間にか、その鋭さを減じて行くやうな危険を、感ぜずにはゐられなかつた。

 が、かうした美しい部屋も、彼女の毒の花園なのだ。彼女が、異性を惑はす魅力の一つなのだ。信一郎は、さう云ふ風に考へ直しながら、青色の羽蒲団の敷いてある籐椅子に、腰をおろしてゐた。窓からは、宏大な庭園が、七月の太陽に輝いてゐるのが見えた。

 夫人は、なか〳〵姿を見せなかつた。小間使が氷の入つた果実汁シロップを持つて来た後も、なかなか姿を見せなかつた。

 彼は、所在なさに、室内の装飾をあれからこれへと、見直してゐた。その裡に、ふと三尺とは離れてゐないデスクの上に、眼が付いた。其処には、先刻信一郎が受け取つたのと同じ色のレタアペイパアと、金飾の華やかな婦人持の万年筆とが、置かれてゐた。先刻の手紙は、恐らくこの桃花心木マホガニイの小さい卓で書いたのに違ひない。さう思つて見てゐる中に、ふと一枚のレタアペイパアに、英語か仏蘭西語かが書かれてゐるのに気が付いた。彼の好奇心は、動いた。彼は、少し上体を、その方に延ばしながら、それを読んだ。

  (Shinichiro)

 彼は、自分の名前が書かれてゐるのに驚いた。が、その次ぎの二字を見たときに、彼の駭きは十倍した。

  (Shinichiro, my love !)

『信一郎、わが恋人マイラヴよ!』

 而も、その同じ句がそのレタアペイパアの上に、鮮かな筆触で幾つも〳〵走り書きされてゐるのだつた。



『信一郎、わが恋人マイラヴよ!』

 信一郎の頭は、この短い文句でスツカリ掻きみだされてしまつた。彼は十七八の少年か何かのやうに、我にも非ず、頬が熱くほてるのを感じた。夫人に対して、張り詰めてゐた心持が、ともすれば揺ぎ始めようとする。

 彼は、心の中で幾度も叫んだ。夫人の技巧の一つだ。誘惑の技巧の一つだ。自分の眼に入るやうに、わざとこんな文句を、書き散して置いたのだ。見え透いた技巧なのだ! が、さう云ふ考への後から、又別な考へが浮んで来た。あの悧口な聡明な夫人が、こんな露骨な趣味の悪い技巧を弄する訳はない! やつぱり、夫人の本心から出た自然の書き散しに違ひない。信一郎の心の中の男性に共通な自惚うぬぼれが、ムク〳〵と頭を擡げようとする。あの先刻受け取つた手紙も、かうして見ると、夫人の本心を語つてゐるのかも知れない。夫人を妖婦のやうに思ふのも、みんな自分の邪推かも知れない。彼女は、男性との恋愛ごつこに飽き〳〵してゐるのだ。彼女の周囲に、蒐まる胡蝶のやうな戯恋者に、飽き〳〵してゐるのだ。本当に、心をも身をも捨てゝかゝる、真剣な異性の愛に飢ゑてゐるのかも知れない。世馴れた色男ダンディ風の男性に、あきたらない彼女は、自分のやうな初心うぶな生真面目な男性を求めてゐたのかも知れない。

 夫人に対する信一郎の敵意がもうなかば崩れかけてゐる時だつた。

「御免下さいまし。」

 銀鈴に触れるやうな爽かな声と共に、夫人は静かにドアをあけて入つて来た。

 湯上りらしく、その顔は、白絹か何かのやうに艶々しく輝いてゐた。縮緬の桔梗の模様の浴衣が、そのスツキリとした身体の輪廓を、艶美に描き出してゐた。

 わづか四五尺の間隔で、ぢつとその美しい眸を投げられると、信一郎の心は、催眠術にでもかゝつたやうな、陶酔を感ずるのを、うともすることが出来なかつた。

「まあ! 本当によくいらつしやいましたこと。わたくし、もうあれ切りかと思ひましたの。もう、あれ切り来て下さらないのかと思つてゐましたよ。」

 信一郎が、彼女の入つて来たのを見て、立ち上らうとするのを、制しながら、信一郎と向きあつて小さい卓を隔てながら、腰を下した。

 信一郎は、ともすれば後退あとじさりしさうな自分の決心に、頻りに拍車を与へながら、それでも最初の目的どほり、夫人と戦つて見ようと決心した。

先刻さつきは大変失礼しましたこと。あの方達を帰してしまつた後で、ゆつくり貴君あなたとお話がしたかつたのよ。差し上げました御手紙御覧下すつて?」

「見ました。」

 信一郎は、自分の決心を、動かすまいと、しつかりと云ひ放つた。

「何うお考へ遊ばして?」

 夫人は、追窮するやうに、美しく笑ひながら訊いた。信一郎は、可なりハツキリした口調で云つた。

貴女あなたの本当のお心持が、分らないものですから、何うお答へしてよいか当惑するだけです。」

「あれでお分りにならないの。あれで、十分分つて下すつてもいゝと思ひますの。わたくしが、貴君のことを何う考へてゐますか。」

 夫人の顔に可なり、真剣な色が動いた。信一郎も、ある丈の力を以て云つた。

「奥さん! 何うか記憶して置いて下さい! 僕には妻がありますから、家庭がありますから、貴女の危険なお戯れのお相手は出来ませんから。」

 信一郎は、妻の静子の面影や、青木淳の死相を心の味方として、この強敵に向つてハツキリと断言した。



 その刹那、夫人の顔が、さすがに鋭く緊張した。

「あら、貴君あなたまでが、そんなことを考へていらつしやるの。わたくしが貴君の家庭を擾すやうな女だと思つていらつしやるの。貴君にも、やつぱりわたくしの真意が分つて下さらないのですわね。わたくしが、何を求めてゐるかが、やつぱり分つて下さらないのですわね。わたくしは、わたくしの周囲の戯恋者には飽き〳〵したと申してゐるではありませんか。わたくしは戯恋の相手ではなく、本当のお友達が欲しいのです。本当の男性らしい男性のお友達が欲しいのです。わたくしが、この方こそと思つてお選みした貴君からそんな誤解を受けるなんて、わたくしには忍びがたい恥辱ですわ。」

 さう云つてゐる夫人の顔には、もうあの美しい微笑は浮んでゐなかつた。少しく、忿怒を帯びた顔は、振ひ付きたいやうな美しさで、輝いてゐた。

 美しい夫人の顔に、忿怒の色が浮ぶのを見ると、信一郎は心の中で、可なりタヂ〳〵となつた。が、彼は自分のため、青木淳のため、また夫人その人のためにも、夫人の妖婦的な魂と、戦はねばならぬと決心した。彼は、夫人の美しい顔から、出来るだけおもてを背けながら云つた。

「いや! 貴女あなたのお心が、分らないのではありません。僕を、真のお友達として、多くの男性から選んで下さる。それは僕として、光栄です。が、奥さん! 僕は貴女から選まれると云ふことが可なり危険なことであるやうな気がするのです。僕は、安穏な家庭の幸福で、満足してゐる平凡な人間です。何うか僕を、このままに残して置いて下さい!」

 信一郎の語気は、可なり強かつた。

「まあ! 何と云ふことを仰しやるのです。わたくしを、爆弾か何かのやうに、触ることさへ、お嫌ひだと云ふのですね。」

 夫人は、半ば冗談のやうに、云はうとしたが、信一郎の心の中の敵意を、アリ〳〵と感じたと見え、先刻までの夫人とは、丸切まるきり違つたやうな鋭さが、その美しさの裏に、潜み初めてゐた。

「いや! 奥さん、こんなことを申し上げては、失礼かも知れませんが、僕は貴女に選まれて飛んだ目にあつたある男性のことを知つてゐるのです。その男も、真面目な初心うぶな男でしたから、僕が貴女に選まれたのと、同じやうな意味で、貴女に選まれたのではないかと思ふのです。し、同じやうな意味で選まれたとすると、その男が飛んだ目に逢つたやうに、僕も何時かは、飛んだ目に逢ひさうです。はゝゝゝ。」

 信一郎は、懸命な勇気を以て、云ひ終ると調子外れの笑ひ方をした。彼は烈しい興奮のために、妙に上ずツてしまつてゐたのである。

 夫人の顔色が、一寸変つた。が、少しも取り擾す容子はなかつた。彼女は、信一郎の顔を、ぢつと見詰めて居たが、憫笑するやうな笑ひを、頬のあたりに浮べると、一寸腰を浮かして、傍の卓の上の呼鈴を押しながら云つた。

貴君あなたわたくしとは、やつぱり縁なき衆生だつたのですわね。やつぱりあれつ切りにして置けばよかつたのですわね。わたくしの思ひ違ひよ。貴君あなたを、スツカリ見損つてゐたのですわね。貴君あなたの躊躇や、臆病を、わたくし反対に解釈してゐたのですわ。わたくし男性の中で臆病な方が、一等嫌ひなのですわ。差し出された女の唇に、接吻を与へるほどの勇気さへないやうな男性が、一等嫌ひなのでございますよ。おほゝゝゝゝ。わたくし自身、御覧のとほりのお転婆でございますから、やつぱり強い男性の方が、一等好きなのでございますよ。」

 信一郎の攻撃に対する夫人の反撃は、烈しかつた。信一郎は夫人の真向からの侮辱に、目が眩んだ。彼は屈辱と忿怒とのために、胸がくらくらするやうに煮えた。信一郎が口籠りながら何か云はうとしたときに、呼鈴に応じて先刻の小間使が顔を出した。夫人は冷静な口調で、ハツキリと云つた。

「お客様がお帰りになるさうだから、自動車の支度をするやうに。」



 西洋では、厭な来客を追ひ帰すとき、又来客と喧嘩したとき、『ドアを指さし示す』ことが、習慣である。直ぐ出て行つて呉れと云ふ意味である。客に対する絶大の侮辱であり、挑戦である。

 が、来客の前で、勝手に帰り支度を、整へてやることも、『ドアを指さし示す』ことと同じ程度の侮辱に違ひない。

 夫人は、自分の好意を、相手が跳ね返したと知ると、それを十倍もの烈しさで、跳ね返し得る女であつた。

 信一郎は、平手で真向から顔を、ピシヤリと、叩かれたやうな侮辱を感じた。もし、相手が女性でなかつたら、立ち上りざま殴り付けてでもやりたいやうな激怒を感じた。それと同時に、突き放されたやうな淋しさが、激怒の陰に潜んでゐることをも、感ぜずにはゐられなかつた。

 信一郎の顔が、激怒のために、真赤に興奮してゐるのにも拘はらず、夫人はその白い面が、心持あをんでゐる丈で、冷然として彫像か何かのやうに動かなかつた。

 信一郎も、相手から受けた、余りに思ひがけない侮辱の為に、暫らくは、口さへ利けなかつた。

 夫人も、黙々として一語も洩らさなかつた。その中に、バタ〳〵と廊下に軽い足音がしたかと思ふと、先刻の女中が、顔を出した。

「あの、お支度が出来ましてございます。」

「さう」と、夫人は軽く会釈して、女中を去らせると、静かに信一郎の方を振向きながら、彼女の最後の通牒を送つた。

「それでは、どうかお帰り下さいませ。わたくしがお呼び立ていたした罪は、幾重にもお詫いたしますわ。でも、お互に理解しない者同士が、何時まで向ひ会つてゐても、全く無意味だとも思ひますわ。何うか安穏な御家庭で何時までも平和にお暮し遊ばせ!」

 夫人は、一寸皮肉な微笑を浮べると、しづかに立つて信一郎に、ドアの方を指さし示した。

 信一郎の心は、激しい恥辱のために、裂けんばかりに、張り詰めてゐた。このまゝ、帰つてしまへば、徹頭徹尾全敗である。どんなに、相手が美しい夫人であるとは云へ、男性たるものが、かうも手軽に、人形か何かのやうに飜弄せられることは、何うにも堪らないことだと思つた。今こそ全力を尽して彼女と、戦ふべき日であると思つた。激怒のために、波立つ胸を、彼はぢつと抑へ付けながら云つた。

「奥さん! 折角ですが、僕にはまだ帰られない用事があります。」

 信一郎の言葉は、可なり顫へを帯びてゐた。

「おや! 御用事。それぢや直ぐ承はらうぢやありませんか。わたくし、またこんな部屋には、一刻もお止まりになるお心はなくなつたのだらうと思つてゐました。」

 夫人は、凄いほどに、落着いてゐた。

 信一郎は、蒼白まつさをになりながら、懸命に冷静な態度を失ふまいとした。

「奥さん! 帰るときが来れば、お指図を待たなくつても帰ります。が、只今伺つたのは、貴女のお手紙の為ばかりぢやないのです。僕がどんなに軽薄な人間でも、一度席を蹴つて帰つた以上、貴女のお召状だけで、ノメ〳〵とやつては来ません。」

「おや! それでは、わたくしはその点でも飛んだ思違ひをしてゐましたのね。」

 夫人は、針のやうな皮肉を含みながら、冷やかに笑つた。信一郎はいらだつた。

「貴女に申し上ぐべきこと、当然お願ひすべき用事があればこそ参つたのです。それが済むまでは、貴女が幾ら帰れと仰しやつたつて、帰れません。貴女も一度僕と会つた以上、自分の用事丈が、済んだと云つて、さう手軽に僕を追ひ返す権利はありません。」

「大変御尤もな仰せです。それではその用事とかを承はらうぢやありませんか。」

 夫人の皮肉な態度は突き刺すやうなトゲ〳〵しさを帯び初めた。



 夫人の皮肉なトゲに、突き刺されながらも、信一郎は、やつと自分自身を支へることが出来た。

「用事と云つて、外ではありませんが、いつか貴女にお預けして置いたあの白金プラチナの時計を、返していたゞきたいと思ふのです。死んだ青木君から遺託を受けたあの時計をです。」

 信一郎は、一生懸命だつた。彼は、身体が激昂のために、わなゝかうとするのをやつと、抑へながら喋べつた。が、その声は変に咽喉にからんでしまつた。

 夫人の冷たさは、愈々いよ〳〵加はつた。その美しい面は、象牙で彫んだ仮面か何かのやうに、冷たく光つてゐた。『何を!』と、云つたやうな利かぬ気の表情が、その小さい真赤な唇のあたりに動いてゐた。

「あら、あれはわたくしにお預けして下さつたのぢやないのですか。一旦お預けして下さつた以上、男らしくもないぢやありませんか。また返せなどと仰しやるのは。」

 信一郎を揶揄からかつてゐるやうに、冷かしてゐるやうに、夫人の語気は、ます〳〵辛辣になつて行つた。

「いや、お預けしたことは、お預けしました。が、それは返すべき相手が分らなかつたからです。また、う云ふ心持で返すのかが、分らなかつたからです。今こそ、返すべき女性がハツキリと分つたのです。また、何う云ふ態度で、あの時計を返すべきかも、ハツキリと分つたのです。僕は、あの時計を貴女から返していたゞいて、その本当の持主に、一番適当な態度で、返さねばならぬ責任を青木君に対して、感じてゐるのです。どうか直ぐお返しを願ひたいと思ひます。」

 夫人の顔は、さすがに少しく動揺した。が、信一郎が予想してゐたやうに、狼狽の容子は露ほども見せなかつた。

「そんなに、面倒臭い時計なのですか、それぢや、お預りするのではなかつたわ。それぢや只今直ぐお返しいたしますわ。」

 夫人は、手軽に、借りてゐたマッチをでも返すやうに、手近の呼鈴ベルを押した。

 二人は、黙々として、暫らく相対してゐる裡に、以前の小間使が、ドアしづかに開けた。

「あのね。応接室の、確か炉棚マンテルピースの上の手文庫の中だつたと思ふのだがね。壊れた時計がある筈だから持つて来て下さいね。若し手文庫の中になかつたら、あの辺を探して御覧! 確かあの近所に放り散かして置いた筈だから。」

 信一郎が、あれほどまでに、心を労してゐた時計を、夫人は壊れた玩具か何かのやうに、放りぱなしにしてゐたのだつた。青木淳が臨終にあれほどのうらみを籠めた筈の時計は、夫人に依つて、意味のない一箇の壊れ時計として、炉棚マンテルピースの上に、信一郎から預かつた時以来忘れられてゐたのである。

 夫人から、そんなにまで手軽く扱はれてゐる品物に就いて、返すとか返さないとか、躍起になつてゐることが、信一郎には一寸気恥しいことのやうに思はれた。

 が、夫人のあゝした言葉や態度は、心にもない豪語であり、擬勢である、口先でこそあんなことを云ひながらも、彼女にも人間らしい心が、少しでも残つてゐる以上、心の中では可なり良心の苛責を受けてゐるのにちがひない。信一郎は、やつとさう思ひ返した。


 小間使は、探すのに手間が取れたと見え、暫らくしてから帰つて来た。そのふつくらとした小さい手の裡には、信一郎には忘れられない時計が、薄気味のわるい光を放つてゐた。

 夫人は小間使から、無造作にそれを受取ると、信一郎の卓の上に軽く置きながら、

「さあ! どうぞ。よくあらためてお受取り下さいませ! お預りしたときと、寸分違つてゐない筈ですから。」

 夫人は、毒をくらはゞ皿までと云つたやうに、飽くまでも皮肉であり冷淡であつた。



 信一郎は、差し出されたその時計を見たときに、その時計の胴にうすく残つてゐる血痕を見たときに、弄ばれて非業の死方をした青年に対する義憤の情が、旺然として胸に湧いた。それと同時に、青年を弄んで、間接に彼を殺しながら而も平然として彼の死を冷視してゐる──神聖な遺品かたみの時計をさへ、蔑み切つてゐる夫人に対して、燃ゆるやうな憎しみを、感ぜずにはゐられなかつた。

 信一郎は、かすかに顫へる手で、その時計を拾ひ上げながら、夫人のおもてを真向から見詰めた。

「いや、たしかにお受取りしました。お預けした品物に相違ありません。」

 彼の言葉も、いつの間にか、敵意のある切口上に変つてゐた。

「ところが、奥さん!」信一郎は、満身の勇気を振ひながら云つた。

「一旦お返し下さつた此時計を──改めて、さうです、青木君の意志として──私は、改めて貴女に受取つていたゞきたいのです。」

 さう云つて、信一郎は、夫人の顔をぢつと見た。どんなに厚顔な夫人でも、少しは狼狽するだらうと予期しながら。が、夫人の顔は、やゝ殺気を帯びてゐるものゝ、その整つた顔の筋肉一つさへ動かさなかつた。

「何だか手数のかゝるお話でございますのね。子供のお客様ごつこぢやありますまいし、お返ししたものを、また返していただくなんて、もう一度お預かりした丈で、懲々こり〴〵いたしましたわ。」

 夫人は噛んで捨てるやうに云つた。

 信一郎は、夫人の白々しい態度に、心の底まで、憎みと憤怒とで、煮え立つてゐた。

「いや、此度はお預けするのではないのです。いや、最初から此の時計は貴女にお預けすべきでなくお返ししなければならぬ時計だつたのです。時計の元の持主として、貴女に受取つていたゞくのです。貴女は、此の品物を当然受取るべきお心覚えがあるでせう。ないとは、まさか仰しやれないでせう。」

 信一郎も、女性に対する凡ての遠慮を捨てゝゐた。二人は男女の性別を超えて、格闘者として、相対してゐた。

 信一郎に、さう云ひ切られると、夫人は暫らく黙つてゐた。白いひさごの種のやうな綺麗な歯で、下唇を二三度噛んだがやがて気を換へたやうに、

「それでは、貴君あなたは此時計の元の持主を、わたくしだと仰しやるのですか。」

「さうです。それを確信してもよい理由があるのです。」信一郎は凜としてさう云ひ放つた。

「おやさう!」夫人は事もなげにけながら、「貴君が、さうお考へになりたければ、さうお考へになつても、別に差支はございませんよ。それでは、この時計もお受取りして置かうぢやありませんか。どうせ一度は、お預かりした品物ですもの。」

 夫人の態度は、いよ〳〵逆になり、愈々いよ〳〵毒を含んでゐた。

「それで、御用事と仰しやるのはこれだけ!」

 夫人は信一郎と一刻でも長く同席することが不快で堪らないやうに急き立てるやうに附け加へた。

 信一郎は、夫人の自分に対する烈しい憎悪に傷きながら、しかも勇敢に彼の陣地を支へた。

「いや、大変お手間を取らして相済みません。が、もう一言、さうです、青木君の言伝があるのです。時計の元の持主にかう伝へて呉れと頼まれたのです。」

 信一郎は、さう云つて言葉を切つた。

 夫人はさすがに、緊張した。やさしく烟つてゐる眉を、一寸しかめながら、信一郎が何を云ひ出すかを待つてゐるやうだつた。



彼女の云分



 遺言と云つても、信一郎は青木淳の口づから受けてゐるのではない。が、彼は青木淳の死前のうらみの籠つたノートを受け継いでゐる。

『彼女の僅かに残つてゐる良心を恥かしめてやる』べき、以心伝心の遺託を、受けてゐるのだつた。

「いや、遺言と云つても、外ではありません。この時計を返すときに元の持主にかう云つて呉れと頼まれたのです。青木君が瀕死の重傷に苦しみながら、途切れ〳〵に云つたことですから、ハツキリとは分りませんが、何でもかう云ふ意味だつたと思ふのです。純真な男性の感情を弄ぶことがどんなに危険であるかを伝へて呉れ。弄ぶ女に取つては、それは一時の戯れであるかも知れぬが、弄ばれる男に取つては、それが死であると。奥さん! 貴女あなたは、かう云ふ話を御存じですか。池の中に多くの蛙が浮んでゐると、子供達が来て石を投げ付ける、その時に蛙が何て云つたか御存じですか。蛙はかう云つたのです。貴君あなた方に取つて遊戯であることが、我々に取つては死である、と。青木君の死際の云分も、つまりそれなのです。貴女あなたは、青木君の死を単なる奇禍だと思つてはいけません。形は奇禍ですが、心持に於いては立派な自殺です。たゞ自動車の偶然の衝突があの人の死を、二三日早めたのに過ぎないのです。貴女は青木君の死を奇禍だと考へることに依つて、貴女の良心を欺いてはなりません。まさしく自殺です。而も池の中の蛙が、子供が戯れに投げた石に当つて死んだやうに、貴女が戯れに与へた白金プラチナの時計に依つて死んだのです。蛙がし人間としての働きがあつたならば、その石を子供に投げ返すやうに、僕は青木君に代つて、此の時計を貴女に投げ返すのです。さうです、貴女の良心に向つて投げ返すのです。貴女の心に僅かにでも、良心が残つてゐるのなら、貴女はそれで此の時計を受け止めて下さい。さうしてその受け止めた痛みに依つて、貴女の心を浄めていたゞきたいと思ふのです。さうして、男性に対する貴女の危険な戯れを、今日限りしていたゞきたいと思ふのです。それが青木君の死に対する貴女のせめてもの償ひです。僕が、先刻貴女のお戯れの相手をするのは危険だと云つたのはかう云ふ意味です。青木君の場合はまだ独身ですから、貴女の戯れの犠牲になるものは一人で済むのですが、僕のやうな既婚者の場合は被害者が複数ですからね。」

 信一郎の興奮は、彼を可なりな雄弁家にしてしまつた。夫人はと見ると、さすがに彼の言葉が一々肺腑を衝いてゐると見えて、うなだれ気味に、黙々と聴いてゐた。信一郎は、自分の心が、少しでも夫人の心を悔い改めしめてゐるかと思ふと、内心ある感激を感ぜずにはゐられなかつた。さうだ! 此の美しき女性をたゞ恥かしめるだけが、能ではない。自分の言葉に依つて、夫人の心を、少しでも浄くし改めてやりたいと思つた。

「いや! 奥さん。僕は何も貴女あなたに恩怨があるのではありません。恩怨がないばかりでなく、ある点では貴女を敬慕してゐるものです。貴女のその秀れた美しさと、貴女の教養や趣味に対して、心から敬慕してゐるものです。が、僕は貴女がさうした天分や教養を邪道に使つてゐるのを見ると、本当に心が暗くなるのです。僕は青木君の為にばかりでなく、貴女自身のために、僕の云つたことをよく玩味していたゞきたいと思ふのです。」

 かう信一郎が、述べ来つた時、今まで傾聴してゐるやうな態度をしてゐた夫人は、つと頭を上げた。

「あの、お言葉中で恐れ入りますが、御忠告なら、御免を蒙りたいと思ひます。御用事だけを承はる筈であつたのでございますから。」

 鋼鉄のやうな凜とした冷たさが、その澄んだ声の内に響いてゐた。



『御忠告ならば、御免を蒙る。』と、夫人がきつぱりと云ひ放つのを聴くと、信一郎は夫人に対して、最後の望みを絶つた。青木淳は、『僅に残つてゐる良心』と、書いてゐる。が、僅に残つてゐる良心どころか良心らしいものは、かけらさへ残つてゐない。女らしい、つゝましい心の代りに、そこに翼を拡げてゐるものは、恐ろしい吸血鬼ヴァンパイヤである。純真な男性の血を好んで嗜なむ怪物である。夫人の良心に訴へて、少しでも彼女を、いゝ方に改めさせてやらうと思つたのは、悪魔に基督キリストの教を説くやうなものであると思つた。

 信一郎は外面如菩薩と云ふ古い言葉を、今更らしく感心しながら、暫らくは夫人の顔を、ぢつと見詰めてゐたが、

「いや、これは飛んだ失礼をしました。青木君の遺言だけを伝へれば、僕の責任は尽きてゐたのでした。」

 彼は、さう云つて潔く此部屋から出ようとした。が、その時に、彼は青木淳の弟の姿を思ひ浮べた。さうだ! あの青年を、夫人の危険から救つてやることは、自分の責任だと思つた。

「だが、奥さん! 僕は僕の責任として、貴女にもう一言云はなければならぬことがあるのです。これは貴女に対するおせつかいな忠告ぢやないのです。青木君に対する僕の責任の一部として、申し上げるのです。畢竟は青木君の遺言の延長として申上げるのです。それは、外でもありません。貴女が如何なる男性の感情を、どんなに弄ばうが、それは貴女の御勝手です。いや御勝手と云ふことにして置きませう。だが、青木君の弟の感情を、弄ぶことだけは、僕が青木君に代つて、断然お断りして置きます。まさか、貴女も少しでも、人情がお有りでしたら、兄を深淵へ突き陥した後で、その肉親の弟をも、同じ処へ突き陥すやうな残酷なことはなさるまいとは思ひますけれども、念のためにお願して置くのです。いやどうもお邪魔しました。」

 夫人の顔が、さすがに蒼白に転ずるのを尻目にかけながら、信一郎は、素早く部屋を出ようとした。が、それを見ると、夫人は屹となつて呼び止めた。

「渥美さん! お待ちなさい!」

 その凜とした声には、女王のやうな威厳が備はつてゐた。

貴君あなたは、自分の仰しやることさへ仰しやつてしまへば、それでお帰りになつてもいゝとお考へになるのですか。貴君が、わたくしに御用事がある中は、貴君あなたに帰る権利が、わたくしになかつたやうに、わたくしが貴君に申上げることが残つてゐる以上貴君あなたはお帰りになる権利はありません。わたくしは一言だけ貴君あなたに申上げることが残つてゐます。」

 美しい眉は吊り上り、黒い眸は、血走つてゐた。信一郎を、屹と見詰めて立つてゐる姿は、『怒れる天女』と云つたやうな、美しさと神々しさとがあつた。

貴君あなたは、今青木さんの遺言とやらを、長々しく仰しやいましたが、それをわたくしが受けると思つていらつしやるのですか。時計こそ、お受けしましたが、そんな御遺言なんか、一言半句だつて、お受けする覚えはありません。そんなお言伝を、青木さんから承はるやうな覚えは、さら〳〵ありません。今承はつたお言葉全部を、そのまゝ御返上します。」

 夫人の声にも、憎みと怒りとが、燃えてゐた。が、信一郎はたぢろがなかつた。

「死人に口がないと思つて、そんなことを仰しやつては困ります。貴女を、今日訪問した客に村上と云ふ海軍大尉があつた筈です。まさか、ないとは仰しやいますまいね。」

「よく御存じですね。」

 夫人は、平然として答へた。

「それなら、青木君の遺言を受ける責任と義務とがあります。貴女に、もし少しでも良心が残つていらつしやるのなら、今貴君にお目にかけるものを、平然と読めるかどうか試して御覧なさい!」

 さう云ひながら、信一郎はポケットに曲げて入れてゐたノートを夫人の眼前に突き付けた。



 信一郎が、眼の前に突き付けたノートを、夫人は事もなげに受取つた。ノートの重さにも堪へないやうな華奢な手で、それを無造作に受け取つた。

 鋼鉄の如き心と云ふのは、恐らく今の場合の夫人の心を云ふのだらう。鬼が出るか蛇が出るか分らないそのノートを、受け取りながら、一糸みだれたところも、ひるんだところも見せなかつた。

「おや、青木さんのノートでございますのね。」

 夫人は、平然と云ひながら、最初のページから繰り初めた。繰つてゐるその白い手は、落着きかへつてゐる。

 が、信一郎は思つた。今に見ろ、どんなに白々しい夫人でも、血で書いた青木淳の忿恨の文字に接すると、屹度良心の苛責に打たれて、女らしい悲鳴を挙げる。彼女の孔雀の如き虚飾の驕りを擾されて、女らしく悔恨に打たれるに違ひない。さう思ひながら、ページを繰る夫人の手許と、やゝ蒼んでゐる美しい面から、一瞬も眼を放たず、ぢつと見詰めてゐた。

 その裡に、夫人はハタと、青木淳が書き遺した文字を見付けたらしい。さすがに美しい眸は、卓の上に開かれたノートのページの上に、釘付にされたやうに、止つてしまつた。

 美しい面が、最初薄赤く興奮して行つた。が、それがだん〳〵蒼白になり、唇の辺りが軽く痙攣するやうに動いてゐた。

 夫人が、深い感動を受けたことは、明かだつた。信一郎は、今にも夫人が、ノートの上に瓦破ぐわばと泣き伏すことを予期してゐた。泣き伏しながら、非業に死んだ青年の許しを乞ふことを想像した。彼女の美しい目から、真珠のやうな涙が、ハラ〳〵と迸しることを待つてゐた。悔恨と懺悔との美しい涙が。

 が、信一郎の予期は途方もなく裏切られてしまつた。一時動揺したらしい夫人の表情は、直ぐ恢復した。涙などは、一滴だつて彼女の長い睫をさへ湿うるほさなかつた。

 彼女は、一言も云はずに、ノートを信一郎の方へ押しやつた。

 信一郎は、夫人の必死的デスペレートな態度に圧せられて、此の上何か云ふ勇気をさへ挫かれた。

 二人は、二三分の間、黙々として相対してゐた。信一郎は、その険しい重くるしい沈黙に堪へかねた。

「如何です。此のノートを読んで、貴女は何ともお考へにならないのですか。」

 信一郎の声の方が、却つてあやしい顫へをさへ帯びてゐた。

 夫人は、黙して答へなかつた。

 信一郎は、畳みかけて訊いた。

「貴女は、青木君が血を以て書いた、此のノートを読んで、何ともお考へにならないのですか。青木君の云ひ草ぢやないが、貴女の少しでも残つてゐる良心は、此のノートを読んで、顫ひ戦かないのですか。貴女の戯れの作つた恐ろしい結果に戦慄しないのですか。」

 信一郎は、可なり興奮して突きかゝつた。

 が、夫人は冷然として、氷の如く冷かに黙つてゐた。

「奥さん! 黙つていらしつては分りません。貴女は! 貴女は此ノートを読んで何ともお考へにならないのですか。」

 信一郎は、いらだつて叫んだ。

「考へないことはありませんわ。」

 彼女の沈黙が冷かな如く言葉そのものも冷かであつた。

「お考へになるのなら、そのお考へを承はらうぢやありませんか。」

 信一郎は益々いらだつた。

「でも、死んだ方に悪いのですもの。」

「死んだ方に悪い! 貴女はまだ死者を蔑まうとなさるのですか。死者をひようとなさるのですか。」

 信一郎は火の如く激昂した。

 その激昂に、水を浴びせるやうに夫人は云つた。

「でも、わたくし、此ノートを読んで考へましたことは、青木さんも普通の男性と同じやうに、自惚れが強くて我儘であると云ふことだけですもの。」



 夫人の言葉は、信一郎を唖然たらしめた。彼は呆気に取られて、夫人の美しい冷かな顔を見詰めてゐた。どんな妖婦でも、昔の毒婦伝に出て来るやうな恐ろしい女でも、自分を恨んで死んだ男の遺書かきおきを、かうまで冷酷に評し去る勇気はないだらう。自分を恨んでゐる、血に滲んだ言葉を自惚れと我儘だと云つて評し去る女はないだらう。

 が、一時の驚きが去ると共に、信一郎の心に残つたものは、夫人に対する激しい憎悪だつた。女ではない。人間ではない。女らしさと、人間らしさとを失つた美しい怪物である。その人を少しでも人間らしく考へた自分が、間違つてゐたのだ。彼は心の中で憎悪を吐き捨てるやうに云つた。

「いやもう、なにも言ひたくありません。貴女は、貴女のお考へで、男性を弄ぶことをおつゞけなさい! その中に、純真な男性のいかりが、貴女を粉微塵に砕く日が来るでせう。」

 信一郎は、床を踏み鳴らさんばかりに、激昂しながら、叫んだ。

 が、信一郎が激すれば、激するほど、夫人は冷静になつて行つた。彼女は、冷たい冷笑をさへ頬の辺りに、浮べながら、落着き返つて云つた。

「男性を弄ぶ! 貴君あなたは、女性が男性を弄ぶことを、そんなに恐ろしい罪悪のやうに考へていらつしやるのですか。だから、わたくしが男性の我儘だと云ふのですわ。し、男性を弄ぶ女性を、純真な男性の怒りが、粉微塵に砕くとしたなら、今の世間の大抵の男性は、純真な女性の怒りに依つて、粉微塵に砕かれる資格があるでせう、貴君あなただつて、貴君あなたの純真な奥さんのお心の前に、少しも、恥かしいと思ふことはありませんか、貴君あなたわたくしの良心にお訴へになつたやうに、わたくし貴君あなたの良心に、それを伺ひたいと思ひますの。」

 夫人の態度は、あきらかに熱してゐた。赤く熱すると云ふよりも、白く冷たく而も極度に熱してゐた。

「女性が男性を弄ぶと貴君あなた方男性は、直ぐ妖婦だとか毒婦だとか、あらん限りの悪名を浴びせかける。貴君などは、眼の色を変へてまで、叱責なさらうとする。が、御覧なさい! 世間の男性がどんなに女性を弄んでゐるかを。女性が男性を弄ぶに致しましたところで、それは男性の浮動し易い心を、弄ぶのに過ぎないぢやありませんか。男性が女性を弄ぶ場合は、心も肉体も、名誉も節操も、蹂躙し尽すぢやありませんか。眼にこそ見えませんが、この世間には男性に弄ばれた女性の生きたむごたらしい死骸が、幾つ転がつてゐるかも分りません。貴君あなたの眼の前にゐる女性なども、案外にもさうした生きた死骸の一つだか分りませんよ。」

 夫人の美しい眸は爛々と輝いた。その美しい声は、烈しい熱のために、顫へてゐた。

「男性は女性を弄んでよいもの、女性は男性を弄んでは悪いもの、そんな間違つた男性本位の道徳に、わたくしは一身を賭しても、反抗したいと思つてゐますの。今の世の中では、国家までが、国家の法律までが、社会のいろ〳〵な組織までが、さうした間違つた考へ方を、助けてゐるのでございますもの。御覧なさい! 世の中には、お女郎屋だとか待合だとかお茶屋だとか、男性が女性を公然と弄ぶ機関が存在してゐるのですもの。さう云ふものを国家が許し、法律が認めてゐるのですもの。また、さう云ふものが存在してゐる世の中に、住みながら、教育家とか思想家などと云ふ人達が、晏然として手をこまぬいてゐるのですもの。女性ばかりに、貞淑であれ! 節操を守れ! 男性を弄ぶな! そんなことを、幾何いくら口を酸くして説いても、わたくしはそれを男性の得手勝手だと思ひますの。男性の我儘だと思ひます。丁度此の青木さんのノートが、男性の我儘を示してゐるやうに。」

 虐げられたる女性全体の、反抗の化身であるやうに、夫人の態度は、跳ね返る竹の如き鋭さを持つてゐた。



 夫人は、心の中に抑へに抑へてゐた女性としての平生の鬱憤を、一時に晴してしまふやうに、烈しく迸る火花のやうに喋べり続けた。

「人が虎を殺すと狩猟と云ひ、紳士的な高尚な娯楽としながら、虎が偶々人を殺すと、兇暴とか残酷とかあらゆる悪名を負はせるのは、人間の得手勝手です。我儘です。丁度それと同じやうに、男性が女性を弄ぶことを、当然な普通なことにしながら、社会的にもめかけだとか、芸妓げいしやだとか、女優だとか娼婦だとか、弄ぶための特殊な女性を作りながら、反対に偶々一人か二人かの女性が男性を弄ぶと妖婦だとか毒婦だとか、あらゆる悪名を負はせようとする。それは男性の得手勝手です。我儘です。わたくしは、さうした男性の我儘に、一身を賭して反抗してやらうと思つてゐますの。」

 彼女は、一寸言葉を途切らせてから、

「青木さんとの事だつて、さうでございますわ。貴君あなたなどは、凡ての責任をわたくしに負はせようと遊ばす。わたくしが、清浄無垢な青木さんを迷はしたやうなことをお云ひになる。が、あの時計だつて、わたくしが青木さんに、どうかお受け取りになつて下さいと云つて、差し出したものぢやあございませんわ。青木さんが、幾度も呉れ〳〵と仰しやつたから差し上げたのよ。自分がおねだりなすつたことなどは、ちつとも書いておありにならないのですもの。だから、自惚うぬぼれが強くつて我儘だと申したのですわ。またあの方が、幾何いくら自殺をすると書いておありになつても、それはあの方の詠嘆に過ぎませんわ。もし、自動車が転覆しなかつたら、あの方は今日あたりは、わたくし客間サロンへお見えになつたかも知れませんよ。また縦令たとひ自殺の決心が、本当でおありになつたとしても、それをわたくし一人の責任のやうに、御解釈なさることは、御免蒙りたいと思ひますわ。だつて、あの方の性格の弱さに対してまで、わたくしは責任を持ちたくありませんもの。わたくしとの戯恋フラアテイションの一寸した幻滅で、自殺をなさるやうな方は、男子としての生存的意志を、持つてゐないと申上げてもいゝのですもの。わたくしとのいきさつで、自殺なさらなくつても、又なにか別なことで、直ぐ自殺してしまふ方ですもの。」

 信一郎は、夫人の言葉を聴いてゐる中に、それを夫人の捨鉢な不貞腐ふてくされの言葉ばかりだとは、聞きながされなかつた。彼は、その美しい夫人の裡に、如何なる男性にも劣らないやうな、鋭い理智と批判とを持つた一個の新しい女性、如何なる男性とも、精神的に戦ひ得るやうな新しい強い女性を認めたのである。

 彼の夫人に対する憎悪は、三度四度目に、又ある尊敬に変つてゐた。旧道徳の殻を踏み躙つてゐる夫人を、古い道徳の立場から、非難してゐた自分が、可なり馬鹿らしいことに気が付いた。

 夫人の男性に対する態度は、彼女の淫蕩な動機からでもなく、彼女の妖婦的な性格からでもなく、もつと根本的な主義から思想から、萌してゐるのだと思つた。

わたくし、男性がしてもよいことは、女性がしてもよいと云ふことを、男性に思ひ知らしてやりたいと思ひますの。男性が平気で女性を弄ぶのなら、女性も平気で男性を弄び得ることを示してやりたいと思ひますの。わたくし一身を賭して男性の暴虐と我儘とをこらしてやりたいと思ひますの。男性に弄ばれて、綿々の恨みを懐いてゐる女性の生きた死骸のために復讐をしてやりたいと思ひますの。本当にわたくしだつて、生きた死骸のお仲間かも知れませんですもの。」

 さう云ひながら、夫人は一寸頭をうなだれた。緊張し切つてゐた夫人の顔に、悲しみの色が、サツと流れた。



 物凄いと云つてよいか、死身と云つてよいか、兎に角、烈々たる夫人の態度は、信一郎の心を可なり振盪した。

 これほどまで、深い根拠から根ざしてゐる夫人の生活を、慣習的な道徳の立場から、非難しようとした自分の愚かさを、信一郎はしみじみと悟ることが出来た。夫人をして彼女の道を行かしめる外はない。縦令たとひ、その道が彼女を、どんな深淵に導かうとも、それは彼女に取つて覚悟の前の事に違ひない。多くの男性を飜弄した報いのために、縦令彼女自身を亡ぼすとも、それは、彼女としては、主義に殉ずることであり、男性に対する女性の反抗の犠牲となることなのだ。

「いや! 奥さん、僕は貴女のお心が、始めて解つたやうに思ひます。僕はそのお心に賛成することは出来ませんが、理解することは出来ます。貴女に忠告がましいことを言つたのを、おわびします。貴女が、一身を賭して、貴女の思ひ通り、生活なさることを、他からかれこれ云ふことの愚さに気が付きました。が、奥さん、僕は、今お暇する前に、たつた一つ丈お願ひがあるのです。聴いて下さるでせうか。」

「どんなお願ひでございませうか。わたくしにも出来ることでございましたら。」

 信一郎が夫人の本心を知つてから、可なり妥協的な心持になつてゐるのにも拘はらず、夫人の態度の険しさは、少しも緩んでゐなかつた。

「外でもありません。先刻も申しました通り、青木君の弟だけを、貴女の目指す男性から除外していたゞきたいと思ふのです。青木君の死をまざ〳〵と知つてゐるだけ、あの方の弟までが、貴女の客間サロンに出入することは、僕の心を暗くするのです。青木君の死の責任がどちらにありませうとも、青木君が貴女あなたを恨んで死んだ以上、青木君の弟に対してだけは、慎んでいたゞきたいと思ふのです。」

貴君あなたは、御忠告をなさらないと云ふ口の下から、またさう云ふことを仰しやつていらつしやるのですね。」さう云ひながら、さすがに夫人は一寸苦笑ともなく微笑ともなく笑つた。「自分の生活だけを自分の思ひどほりにしようとするものは、利己主義ではない、他人の生活をまで、自分の思ひどほりにしようとするものこそ、本当の利己主義だと、ある人が申しましたが、貴君などこそ、本当の利己主義でいらつしやいますわね。青木さんの弟がわたくしを慕つていらつしやるとする。さう仮定したとしても、それがあの方としては、一番本当の生活ぢやございませんでせうかしら。それが、あの方として一番本当の生き方ぢやございませんかしら。さう云ふ他人の真剣な生活を、貴君がはたから心配なさることは少しもないと思ひますわ。わたくしのために、あの方が、一身を犠牲にするやうな事があつたとしても、あの方としては一番本当の生き方をしたと云ふ事になりは致しませんでせうか。」

 夫人の考へ方は、凡ての妥協と慣習とを踏み躙つてゐた。

「果してそんなものでせうか。僕は断じてさうは思ひません。」

 信一郎は可なり激しく、抗議せずにはゐられなかつた。

「それは、銘々の考へ方のちがひですわ。わたくしは、わたくしの考へ方に依つて生きる自由を持つてゐます。」

 夫人は、この長い激論を打ち切るやうに云つた。

「さうです。それはさうかも知れません。が、貴女あなたが貴女の考へに依つて生きる自由があるやうに、僕も僕の考へを実行する自由を主張するのです。奥さん! 青木君の弟を、あなたの脅威から救ふことに、僕は相当の力を尽すつもりです。それは死んだ青木君に対する僕の神聖な義務だと思ふのです。」

「どうか、御随意に。」夫人は、冷然と云つた。

「青木さんの弟に取つては、本当に有難迷惑だとは思ひますが、然し止むを得ませんわ。貴君が躍起になつた御忠告が、あの方のわたくしに対するお心を、どの位醒させるか、ゆつくり拝見したいと思ひますわ。」

 夫人は、最後の止めを刺すやうに、高飛車に冷然と笑ひながら、云ひ放つた。



初恋



 瑠璃子夫人は、あの太陽に向つて、豪然と咲き誇つてゐる向日葵ひまはりに譬へたならば、それとは全く反対に、鉢の中の尺寸の地の上に、楚々として慎やかに花を付けるあの可憐な雛罌粟ひなげしの花のやうな女性が、夫人の手近にゐることを、人々は忘れはしまい。それは云ふまでもなく、彼の美奈子である。

 父の勝平が死んだとき十七であつた美奈子は、今年十九になつてゐた。その丸顔の色白のおもては、処女そのものの象徴のやうな、浄さと無邪気あどけなさとを以て輝いてゐた。

 男性に対しては、何の真情をも残してゐないやうな瑠璃子夫人ではあつたが、彼女は美奈子に対しては母のやうな慈愛と姉のやうな親しさとを持つてゐた。

 美奈子も亦、彼女の若き母を慕つてゐた。殊に、兄の勝彦が父に対する暴行の結果として、警察の注意のため、葉山の別荘の一室に閉ぢ込められた為に、彼女の親しい肉親の人々を凡て彼女の周囲から、奪はれてしまつた寂しい美奈子の心は、自然若い義母に向つてゐた。若き母も、美奈子を心の底から愛した。

 二人は、過去の苦い記憶を悉く忘れて、本当の姉妹のやうに愛し合つた。瑠璃子が、勝平の死んだ後も、荘田家に止まつてゐるのは、一つは、美奈子に対する愛のためであると云つてもよかつた。この可憐な少女と、その少女の当然受け継ぐべき財産とを、守つてやらうと云ふ心も、無意識の裡に働いてゐたと云つてもよかつた。

 従つて瑠璃子は、美奈子を処女らしく、女らしく慎しやかに育てゝ行くために、可なり心を砕いてゐた。彼女は彼女自身の放縦な生活には、決して美奈子を近づけなかつた。

 彼女を追ふ男性が、蠅のやうに蒐まつて来る客間サロンには、決して美奈子を近づけなかつた。

 従つて、美奈子は母の客間に、どんな男性が蒐まつて来るのか、顔だけも知らなかつた。無論紹介されたことなどは、一度もなかつた。たゞ門の出入などに、さうした男性と、擦れ違ふことなどはあつたが、たゞ軽い黙礼の外は口一つ利かなかつた。

 母が日曜の午後を、華麗な客間サロンで、多くの男性に囲まれて、女王のやうに振舞つてゐるのをよそに、美奈子は自分の離れの居間に、日本室の居間に、気に入りの女中を相手に、お琴や挿花のお復習さらひに静かな半日を送るのが常だつた。

 時々は、客間に於ける男性の華やかな笑ひ声が、遠く彼女の居間にまで、響いて来ることがあつたが、彼女の心は、そのために微動だにもしなかつた。さうした折など、女中達が、瑠璃子夫人の奔放な、放恣な生活を非難するやうに、

「まあ! 大変お賑かでございますわね。奥様もお若くていらつしやいますから。」

 などと、美奈子の心を察するやうに、忠勤ぶつた蔭口を利く時などには、美奈子は、その女中をそれとなくたしなめるのが常だつた。

 が、日曜の午後を、彼女はもつと有意義に過すこともあつた。それは、青山に在る父と母とのお墓にお参りすることであつた。

 彼女は、女中を一人連れて、晴れた日曜の午後などを、わざと自動車などに乗らないで、青山に父母の墓を訪ねた。

 彼女は夢のやうな幼い時の思出などに耽りながら、一時間にも近い間、父母の墓石のあたりに低徊してゐることがあつた。

 六月の終りの日曜の午後だつた。その日は死んだ母の命日に当つてゐた。彼女は、女中を伴つて、何時ものやうにお墓参りをした。

 墓地には、初夏の日光が、やゝ暑くるしいと思はれるほど、輝かしく照つてゐた。墓地をしきつてゐる生籬いけがきの若葉が、スイ〳〵と勢ひよく延びてゐた。美奈子は裏の庭園で、切つて来た美しい白百合の花を、右手めてに持ちながら、懐しい人にでも会ふやうな心持で、墓地の中の小道を幾度も折れながら、父母の墓の方へ近づいて行つた。



 晴れた日曜の午後の青山墓地は、其処の墓石の辺にも、彼処かしこの生籬の裡にも、お墓詣りの人影が、チラホラ見えた。

 清々しく水が注がれて、線香の煙が、白くかすかに立ち昇つてゐるお墓なども多かつた。

 小さい子供を連れて、亡き夫のお墓に詣るらしい若い未亡人や、珠数を手にかけた大家の老夫人らしい人にも、行き違つた。

 荘田家の墓地は、あの有名なN大将の墓から十間と離れてゐないところにあつた。美奈子の母が死んだ時、父は貧乏時代を世帯の苦労に苦しみ抜いて、碌々夫の栄華の日にも会はずに、死んで行つた糟糠の妻に対する、せめてもの心やりとして、此処に広大な墓地を営んだ。無論、自分自身も、妻の後を追うて、直ぐ其処に埋められると云ふことは夢にも知らないで。

 亡き父の豪奢は、周囲を巡つてゐる鉄柵にも、四辺あたりの墓石を圧してゐるやうな、一丈に近い墓石にも偲ばれた。

 美奈子は、女中が水を汲みに行つてゐる間、父母の墓の前に、ぢつと蹲りながら、心の裡で父母の懐しい面影を描き出してゐた。世間からは、いろ〳〵に悪評も立てられ、成金に対する攻撃を、一身に受けてゐたやうな父ではあつたが、自分に対しては、世にかけ替のない優しい父であつたことを思ひ出すと、何時ものやうに、追慕の涙が、ホロ〳〵と止めどもなく、二つの頬を流れ落ちるのだつた。

 女中が、水を汲んで来ると、美奈子は、その花筒の古い汚れた水を、浚乾かへほしてから、新しい水を、なみなみと注ぎ入れて、剪り取つたまゝに、まだかほりの高い白百合の花を、挿入れた。かうしたことをしてゐると、何時の間にか、心が清浄しやうじやうに澄んで来て、父母の霊が、遠い〳〵天の一角から、自分のしてゐることを、微笑みながら、見てゐて呉れるやうな、頼もしいやうな懐しいやうな、清々しい気持になつてゐた。

 美奈子は、花を供へた後も、ぢつと蹲まつたまゝ、心の中で父母の冥福を祈つてゐた。微風が、そよ〳〵と、向うの杉垣の間から吹いて来た。

「ほんたうに、よく晴れた日ね。」

 美奈子は、やつと立ち上りながら、女中を見返つてさう云つた。

「左様でございます。ほんたうに、雲のかけ一つだつてございませんわ。」

 さう云ひながら、女中は眩しさうに、晴れ渡つた夏の大空を仰いでゐた。

「そんなことないわ。ほら、彼処あすこにかすつたやうな白い雲があるでせう。」

 美奈子も、空を仰ぎながら、晴々しい気持になつてさう云つた。が、美奈子の見附けたその白いかすかな雲の一片を除いた外は、空はほがらかに何処までも晴れ続いてゐた。

「今日は余りいゝお天気だから直ぐ帰るのは惜しいわ。ぶら〳〵散歩しながら、帰りませう。」

 さう云ひながら、美奈子は女中を促して、懐しい父母の墓を離れた。

 何時もは、歩き馴れた道を、青山三丁目の停留場に出るのであつたが、其日は清い墓地内を、当もなくぶら〳〵歩くために、わざと道を別な方向に選んだ。

 自分の家の墓地から、三十間ばかり来たときに、美奈子はふと、美しく刈り込まれた生籬いけがきに囲まれた墓地の中に、若い二人の兄妹きやうだいらしい男女が、お詣りしてゐるのに気が付いた。

 美奈子は、軽い好奇心から、二人の容子を可なり注意して見た。兄の方は、二十三四だらう。銘仙らしい白い飛白かすりに、袴を穿いて麦藁の帽子を被つた、スラリとした姿が、何処となく上品な気品を持つてゐた。妹はと見ると、まだ十五か十六だらう、青味がかつた棒縞のお召にカシミヤの袴を穿いた姿が、質素な周囲と反映してあざやかに美しかつた。

 美奈子達が、段々近づいてその墓地の前を通り過ぎようとしたとき、ふと振り返つた妹は、美奈子の顔を見ると、微笑を含みながら軽く会釈した。



 妹らしい方から会釈されて、美奈子も周章あわてながら、それに応じた。が、相手が誰だか、容易に思ひ出せなかつた。長い睫に掩はれたその黒い眸を、何処かで見たことのあるやうに思つた。が、それがうしても美奈子には思ひ出せなかつた。

「人違ひぢやないのかしら。」

 さう思つて、美奈子は一寸顔を赤くした。

 が、美奈子がその墓地の前を通り過ぎようとして、二度ふたたびその兄妹らしい男女を見返つたとき、今度は兄の方が、美奈子の方を振り返つてゐた。恐らく妹が、挨拶したので、一寸した興味を持つた為だらう。美奈子の眸は、当然その青年の顔を、正面から見た。その刹那美奈子は、若い男性と、咄嗟に顔を見合はした恥かしさに、弾かれたやうに、顔を元に返した。

 それはホンの一瞬の間だつた。が、その一瞬の間に一目見た青年の顔は、美奈子の心に、名工が鑿を振つたかのやうに、ハツキリと刻み付けられてしまつた。

 彼女は、今まで異性の顔に、自分から注意を向けたことなどは、殆どなかつた。が、今見た青年の顔は、彼女の注意の凡てを、支配するやうな不思議な魅力を持つてゐた。

 白いくつきりとした顔、妹によく似た黒い眸、凜々しく引きしまつた唇、顔全体を包んでゐる上品なにほひ

 お墓参りの後の、澄み渡つたやうな美奈子の心持は、忽ち掻きみだされてしまつた。彼女ののんびりとしてゐた歩調は、急に早くなつた。彼女の心は、強い力で後へ引かれながら、身体けは、彼女の意志とは反対に、前へ〳〵と急いでゐた。丁度、恐ろしいものからでも逃れるやうに。

 彼女の擾れてゐた心が、だん〳〵和んで来るのに従つて、先刻妹の方から受けた挨拶のことを、考へてゐた。先方は、自分を知つてゐるにちがひない。少くとも、妹の方だけは、自分を知つてゐて呉れるに違ない。が、さうは思つて見るものの、妹が誰であるか何うしても思ひ出されなかつた。

 が、通り過ぎた時に、チラと見た所に依ると、二人が、つい近く失つたばかりの肉親のお墓詣りをしてゐたことだけは、明かだつた。幾本も立つてゐる卒都婆が、どれもこれも墨の匂が新しかつた。

 美奈子は、知人の家で、最近に不幸のあつた家を、それからそれと数へて見た。が、うしても兄妹の所属は判らなかつた。

 妹の方が、人違をしたのかも知れない。さう思ふことは美奈子は、何だか淋しかつた。やつぱり、此方こちらが思ひ出せないのだ。そのなかには、また屹度きつとあの人達と顔を合せる機会があるに違ひない。屹度機会が来るに違ひない。

「お嬢様! 何方どつちらつしやるのでございます?」

 さう云つて呼び止める女中の声に驚いて、美奈子が我に帰ると、美奈子は右に折れるべき道を、ズン〳〵前へ、出口のない小径の方へと、進んでゐるところだつた。

其方そちらへいらつしやいますと突き当りでございますよ。」

 さう言ひながら、女中は笑つた。

「おや! おや! わたしぼんやりしてゐたわ。」

 美奈子も、てれかくしに笑つた。

 二人は何時の間にか霞町の方へ近づいてゐた。

「霞町から乗つて、青山一丁目で乗換へすることにいたしませうか。」

 女中の発議に委したやうに、美奈子は黙つて霞町の方へ、だら〳〵した坂を降つてゐた。心の中では、まだ一心に、その妹の顔と兄の顔とを等分に考へながら。

 塩町行の電車の昇降台の棒に、美奈子が手をかけたとき、彼女は低く、

「あゝさう〳〵!」と、自分自身に言つた。

 彼女は、やつと妹を思ひ出した。お茶の水で確か三年か二年か下の級にゐた人だ。さうさう! 先刻さつき見たときバンドをしてゐたのをスツカリ忘れてゐた。向うでは此方こつちの顔だけを覚えてゐて呉れたのだ。さう思ふと、美奈子は兄妹に対して一入ひとしほなつかしい心が湧いて来た。



 少女の顔だけは、やつと思ひ出したけれども、名前はうしても思ひ出せなかつた。家へ帰つてからも、美奈子は、お茶の水にゐた頃の校友会雑誌の『校報』などを拡げて、それらしい名前を、思ひ出さうとしたけれども、やつぱり徒爾むだだつた。

 自分ながら、何うしてあの兄妹に、不思議に心を惹かされるのか、美奈子には分らなかつた。が、兄の方の白い横顔や、妹の会釈した時の微笑などが何うしても忘れられなかつた。自分にも、あんなに親しい兄があつたら、兄の勝彦が、もう少し普通の人間であつたら、などと取り止めもないことを、考へながら、やつぱり忘れられないのは、一目顔を見合はせただけの兄妹だつた。否、本当に忘れられないのは、兄の方一人だけだつたかも知れない。たゞ兄を想ひ出すごとに、妹は影の形に伴ふごとく、彼女の記憶の裡に、甦つて来るのかも知れなかつた。異性の兄の方だけを考へることは、彼女の慎しい処女性が、彼女自身にそれを許さなかつた。彼女は、自身でも兄妹のことを考へてゐるやうに、言訳しながら、本当に兄だけのことを考へてゐたのかも知れなかつた。

 美奈子は、兄の方の美しい凜々しい姿を、心の裡で、ぢつと噛みしめるやうに、想ひ出してゐるとほの〴〵と夜の明けるやうに、心の裡に新しいのぞみや、新しい世界が開けて行くやうに思つた。今まで夢にも知らなかつたやうな、美しい世界が開けて行くやうに思つた。

 が、それと一緒に、兄妹の名前が、ハツキリと知れないことが、寂しかつた。あの時に、偶然逢つたばかりで、今後永く〳〵、否一生逢はずに終るのではないかと思つたりすると、淡い掴みどころのないやうな寂しさが、彼女の心を暗くしてしまふのだつた。

 彼女は、新しい望みと、寂しさとを一緒に知つたと云つてもよかつた。否彼女の心の少女らしい平和は、永久に破られたと云つてもよかつた。

 美奈子は、以前よりも温和おとなしい、以前よりも慎しい少女になつてゐた。

 その裡に、彼女の心にも、少女らしい計画プランが考へられてゐた。さうだ! 此の次の日曜にも、お墓詣りをして見よう。もし、あの新しい墓の主が、兄妹に取つて親しい父か母かであつたならば、此次の日曜にも二人は屹度、お詣りをしてゐるのにちがひない。

 さう考へて来ると、美奈子には次の日曜が廻つて来るのが、一日千秋のやうに、もどかしく待たれた。

 が、待たれたその日曜が来て見ると、昨夜ゆうべからの梅雨らしい雨が、じめ〳〵と降つてゐるのだつた。

「今日はお墓詣りに行かうと思つてゐたのですけれども。」

 美奈子は、朝母と顔を見合すと、運動会の日を雨に降られた少女か何かのやうに、こぼすやうに言つた。瑠璃子には美奈子の失望が分らなかつた。

「だつて! 美奈さんは、前の日曜にもお参りしたのぢやないの。」

「でも、今日も何だか行きたかつたの。わたくし楽しみにしてゐたのです。」

「さう! ぢや、自動車くるまで行つて来てはどう。自動車を降りてから、三十間も歩けばいゝのですもの。」

 瑠璃子は、優しく言つた。

「でも!」さう言つて、美奈子は口籠つた。

 雨を衝いてでも、風を衝いてでも、自分は行つてもいゝ。が、先方むかうは? さう思ふと、美奈子は寂しかつた。普通にお墓詣りをする人が、こんな雨降りの日に出かけて来る訳はない。さう思つて来ると、雨降りにでも行かうと云ふ自分の心、否お墓詣りと云ふことを、ダシに使はうとしてゐる自分の心が、美奈子は急に恥かしくなつた。彼女は、われにも非ず顔を赤くした。

「おや! 美奈さん。何がそんなに恥しいの。お墓詣りするのが、そんなに恥しいの?」

 明敏な瑠璃子は、美奈子の表情を見逃さなかつた。

「あら! さうではありませんわ。」

 と、美奈子は周章あわてゝ、打ち消したが、彼女の素絹しらぎぬのやうに白い頬は、耳の附根まで赤くなつてゐた。



 その次の日曜は、珍らしい快晴だつた。洗ひ出したやうな紺青色ウルトラマリンの空に、眩しい夏の太陽が輝かしい光を、一杯に漲らしてゐた。

 美奈子は、朝眼が覚めると、寝床ベッドの白いシーツの上に、緑色の窓掩カーテンを透して、朝の朗かな光が、戯れてゐるのを見ると、急に幸福な感じで、胸が一杯になつた。今日は何だか、楽しい嬉しい出来事に出逢ひさうな気がした。彼女は、いそ〳〵として、床を離れた。

 午前中は、いろ〳〵な事が手に付かなかつた。母に勧められて、母のピアノにヴァイオリンを合せたけれども、美奈子は何時になく幾度も幾度も弾き違へた。

「美奈さんは、今日はうかしてゐるぢやないの?」と、母から心の裡の動揺を、見透されると、美奈子の心は、愈々掻きみだされて、到頭中途で合奏を止めてしまつた。

 午後になるのを待ち兼ねたやうに、美奈子はお墓詣りに行くための許しを、母に乞うた。何時もはあんなに気軽に、口に出せることが、今日は何だか、云ひにくかつた。

 墓地は、何時ものやうに静かだつた。時候がもうスツカリ夏になつた為か、此の前来たときのやうに、お墓詣りの人達は多くはなかつた。が、周囲は、静寂であるのにも拘はらず、墓地に一歩踏み入れると同時に、美奈子の心は、ときめいた。何だか、そは〳〵として、足が地に付かなかつた。恐いやうな怖ろしいやうな、それでゐて浮き立つやうな唆られるやうな心地がした。

 父母のお墓の前に、ぢつと蹲まつたけれども、心持はいつものやうに、しんみりとはしなかつた。こんな心持で、お墓に向つてはならないと、心で咎めながらも、妙に心が落着かなかつた。

 彼女は、平素いつもとは違つて、何かに周章あわてたやうに、父母の墓前から立ち上つた。

すみや、今日も霞町の方へ出て見ない!」

 美奈子は、一寸顔を赤めながら何気ないやうに女中に云つた。女中は黙つていて来た。

 美奈子の心は、一歩毎にその動揺を増して行つた。彼女は墓石と墓石との間から、今にも麦藁帽の端か、妹の方のあざやかな着物が、チラリとでも見えはせぬかと、幾度も透して見た。が、そのあたりは妙に静まり返つて、人気さへしなかつた。

 彼女が、決心して足を早めて、心覚えの墓地に近づいて行つたとき、彼女の希望は、今朝からの興奮と幸福とは、煙のやうにムザ〳〵と、夏の大空に消えてしまつた。

 心覚えの墓地は、空しかつた。新しい墓の前には、燃え尽きた線香の灰が残つてゐるだけであつた。供へた花が、凋れてゐるだけであつた。美奈子の心を、寂しい失望が一面にとざしてしまつた。

 せめて墓に彫り付けてある姓名から、兄妹の姓名を知りたいと思つた。が、生籬越に見た丈では、それが何うしても、確められなかつた。それかと云つて、女中を連れてゐる手前、それを確かめるために、墓地の廻りを歩いたりすることも出来なかつた。

 美奈子は、満されざる空虚を、心の裡に残しながら、寂しくその墓地の前を通り過ぎた。

 彼女は、その途端ふと学校で習つた『くひぜを守つて兎を待つ』と、云ふ熟語を思ひ出した。約束もしない人が、何うして一定の時日に、一定の場所に来ることがあるだらう。さう思つて来ると、自分の子供らしさが、恥しいと同時に、寂しい頼りない気がした。或は、あれ切りもう一生逢はれない人かも知れない。

 彼女は、怏々として、暗いむすぼれた心持で電車に乗つた。今までは楽しく明るい世の中が、何だか急に翳つて来たやうにさへ思はれた。

 が、美奈子の乗つた九段両国行の電車が、三宅坂に止まつたとき、運転手台の方から、乗つて来る人を見たとき、美奈子は思はずその美しい目をみはつた。



 美奈子が、おどろいて目をみはつたのも、無理ではなかつた。車内へツカ〳〵と、這入つて来て、彼女の直ぐ斜前へ腰を降ろしたのは、紛れもない、墓地で見た彼の青年であつた。美奈子が二週間もの間、よそながらもう一度見たいと思つてゐたあの青年であつた。彼女は、一目見たばかりではあつたが、上品なその目鼻立を見ると、直ぐそれと気が付いた。

 その青年に、つい目と鼻の位置に坐られると、美奈子は顔を赧めて、ぢつと俯むいてしまふ女だつた。が、心の裡では思つた、何と云ふ不思議な偶然チャンスだらう。その人に逢へると思つた場所では、逢へないで、悄然と帰つて来る電車の中で、ヒヨツクリ乗り合はす。何と云ふ不思議な偶然チャンスだらう。さう思ふと同時に、不思議な偶然チャンスの向うには、思ひがけない幸福でもが、潜んでゐるやうに思はれて、先刻まで凋れかへつてゐた美奈子の心は、別人のやうに晴れやかに、弾んで来た。が、美奈子は顔を上げて、相手の顔を、ぢつと見詰めるだけの勇気はなかつた。車台の床に投げられてゐる彼女の視線には、青年が持つてゐる細身の籐のステッキの尖端はしだけしか映つてゐなかつた。

 あの方は、自分の顔を覚えてゐて呉れるかしら。美奈子はそんなことを、わく〳〵する胸で、取り止めもなく考へてゐた。兎に角、妹が挨拶をした以上、自分の顔だけぐらゐは、覚えてゐて呉れるかしら。覚えてゐて呉れゝば、どんなに幸福であらうかなどと思つたりした。

 電車は、直ぐ半蔵門で止つた。もう、自分の家までは二分か三分かの間である。動き出せば直ぐ止る、わづかの距離であつた。美奈子は、もつと〳〵此の電車に乗つてゐたかつた。さうだ! 青年の乗つてゐる限り、此の電車に乗つてゐたいと思つた。

 彼女は、女中をそれとなく先へ降して、神田辺に買物があると云つて、此のまゝずつと乗り続けてゐようかと思つたりした。が、さうした大胆な計画をなすべく、彼女はあまりに純だつた。

 その内に、電車はもう半蔵門の停留場を離れてゐた。英国大使館の前の桜青葉の間を、勢よく走つてゐた。美奈子は電車が、平素いつもの二倍もの速力で走つてゐるやうに思つた。彼女は、最後の一瞥を得ようとして、思ひ切つて顔を持ち上げた。青年は、此の前見たときと同じやうな白い飛白かすりの着物に絽セルらしい袴を穿いてゐた。近く見れば見るほど、貴公子らしい凜々しい面影が、美奈子の小さい胸を圧し付けるやうに、迫つて来るのだつた。美奈子は、此の青年と向ひ合つて坐りながら、もつともつと九段までも両国までも、いな〳〵もつと遥かに遥かに遠い処まで、一緒に乗つて行きたいやうな、切ない情熱が、胸に湧いて来るのを何うすることも出来なかつた。このまゝ別れてしまふと、また何時会はれるか分らない。二年も三年も、いな一生もう二度と会はれないのではあるまいかなどと思つたりすると、美奈子は、何うしても座席が離れられなかつた。が、女中のすみやは、そんなことは少しも頓着しなかつた。

 五番町の停留場の赤い柱が見え出すと、主人よりも先きに立ち上つた。

「参りましたよ。」

 彼女は主人を促すやうに云つた。美奈子がそれに促されて、不承々々に席を離れようとしたときだつた。降りさうな気勢けはひなどは、少しも見せなかつた青年が、突然立ち上ると男らしい活溌さで、素早く車掌台へ出ると、まだ惰力で動いてゐる電車から、軽くヒラリと飛び降りた。

「おや!」女中が、そばにゐなかつたら、彼女は駭いて声を出したかも知れなかつた。

「御近所の方かしら。」さう思つた美奈子は、電車を降りながら美しい眸を凝して、その後姿を見失ふまいと、眼も放たず見詰めてゐた。



 美奈子より先に、電車を飛び降りた青年は、その後姿を、ぢつと彼女から見詰められてゐるとは少しも気が付かないやうに、籐の細身のステッキを、眩しい日の光の裡に、軽く打ち振りながら、グン〳〵急ぎ足で歩いた。

 美奈子は、一体此の青年が、近所のどの家に入るのかと、わざと自分の歩調を緩めながら、青年の後姿を眼で追つてゐた。

 その時に、彼女を駭かすやうな思ひがけないことが、起つた。

「おや! あの方、家へいらつしやるのぢやないかしら。」

 美奈子は、思はずさう口走らずにはゐられなかつた。

 九段の方へグン〳〵歩いて行くやうに見えた青年は、美奈子の家の前まで行くと、だん〳〵その門に吸ひ付けられるやうに歩み寄るのであつた。

 青年は、門の前で、ホンの一瞬の間、佇立した。美奈子は、やつぱり通りがかりに、一寸邸内の容子を軽い好奇心から覗くのではないかと思つた。が、佇ずんで一寸何か考へたらしい青年は、思ひ切つたやうに、グン〳〵家の中へ入つて行つた。ステッキを元気に打ち振りながら。

「お客様ですわ、奥様の。」

 女中は、美奈子の前の言葉に答へるやうに言つた。

 いかにも、女中の言ふとほり、母の客間サロンを訪ふ青年の一人に違ひないことが美奈子にも、もう明かだつた。

「お前、あの方知つてゐるの?」

 美奈子は、心の裡の動揺を押しかくすやうにしながら、何気なく訊いた。

「いゝえ! 存じませんわ。わたくしはお客間の方の御用をしたことが、一度もないのでございますもの。きくやなら、きつと存じてをりますわ。」

 きくやと云ふのは、母にいてゐる小間使の一人だつた。

 美奈子は、兎に角その青年が、自分の家に出入りしてゐると云ふことを知つたことが、可なり大きい欣びだつた。自分の家に出入りしてゐる以上、会ふ機会、知己しりあひになる機会が、幾何いくらでも得られると思ふと、彼女の小さい胸は、歓喜のために烈しく波立つて行くのだつた。が、それと同時に、母が前から、その青年と知り合つてゐること、その青年とお友達であることが、不思議に気になり出した。今までは、母が幾何いくら若い男性を、その周囲に惹き付けてゐようとも、それは美奈子に取つて、何の関係もないことだつた。が、この青年までが、母の周囲に惹き付けられてゐるのを知ると、美奈子は平気ではゐられなかつた。かすかではあるが、母に対する美奈子の純な濁らない心持が、揺ぎ初めた。

 美奈子が、心持足を早めて、玄関の方へ近づいて見ると、青年は取次が帰つて来るのを待つてゐるのだらう。其処に、ボンヤリ立つてゐた。

 彼は不思議さうに、美奈子をジロ〳〵と見たが、美奈子が此の家の家人であることに、やつと気が付いたと見え、少し周章あわて気味に会釈した。

 美奈子も周章て、頭を下げた。彼女の白いふつくりとした頬は、見る〳〵染めたやうに真赤になつた。その時に丁度、取次の少年が帰つて来た。青年は待ち兼ねたやうにその後にいて入つた。

 美奈子が、玄関から上つて、奥の離れへ行かうとして客間の前を通つたとき、一頻り賑かな笑ひ声が、美奈子の耳を衝いて起つた。今までは、さうした笑ひ声が、美奈子の心をかすりもしなかつた。本当に平気に聞き流すことが出来た。が、今日はさうではなかつた。その笑ひ声が、妙に美奈子の神経を衝き刺した。美奈子の心を不安にし、悩ました。あの青年と、自由に談笑してゐる母に対して、羨望に似た心持が、彼女の心に起つて来るのをうともすることも出来なかつた。



 その日曜の残りを、美奈子はそは〳〵した少しも落着かない気持の裡に過さねばならなかつた。かの青年が、自分の家の一室にゐることが、彼女の心を掻き擾してしまつたのだ。

 今までは、一度も心に止めたことのない客間サロンの方が、絶えず心にかゝつた。青年が母に対してどんな話をしてゐるのか、母が青年にどんな答をしてゐるかと云つたやうなことを、想像することが、彼女を益々不安にさせ、いら〳〵させた。

 彼女は、到頭部屋の中に、ぢつと坐つてゐられないやうになつて、広い庭へ降りて行つた。気を紛らすために、庭の中を歩いて見たい為だつた。が、庭の中を彼方此方と歩いてゐる裡に、彼女の足は何時の間にか、だん〳〵洋館の方へ吸ひ付けられて行くのだつた。彼女の眸は、時々我にもあらず、客間サロン縁側ヴェランダの方へ走るのを、何うともすることが出来なかつた。その縁側ヴェランダからは、時々思ひ出したやうに、華やかな笑ひ声が外へ洩れた。若い男性の影が、チラホラ動くのが見えた。が、その人らしい姿は、到頭見えなかつた。

 大抵は、その日の訪問客を引き止めて、華美はでに晩餐を振舞ふ瑠璃子であつたが、その日は何うしたのか、夕方が近づくと皆客を帰してしまつて、美奈子とたつた二人り、小さい食堂で、平日のやうに差し向ひに食卓に就いた。

 その夜の瑠璃子は、これまでの通り、美奈子に取つて母のやうな優しさと姉のやうな親しみとを持つてゐた。が、美奈子は母に、ホンのかすかではあるが、今までに持たなかつたやうな感情を持ち初めてゐた。母の若々しい神々しいほどの美貌が、何となく羨ましかつた。母が男性と、殊にあの青年と、自由に交際つきあつてゐるのが、何となく羨ましいやうに、妬ましいやうに思はれて仕方がなかつた。が、美奈子はさうしたはしたない感情を、グツと抑へ付けることが出来た。彼女は平素いつもの初々しい温和おとなしい美奈子だつた。

 順々に運ばれる皿数コーセスの最後に出た独活アスパラガスを、瑠璃子夫人がその白魚のやうな華奢な指先で、つまみ上げたとき、彼女は思ひ出したやうに美奈子に云つた。

「あゝさう〳〵! 美奈さんに相談しようと思つてゐたの。貴女此夏は何処へ行きませうね。四五日の裡に、何処かへ行かうと思つてゐるの。今日なんかもう可なり暑いのですもの。」

わたし、何処だつていゝわ。貴女あなたのお好きなところなら何処だつていゝわ。」美奈子は、慎ましくさう云つた。

「軽井沢は去年行つたし、わたし今年は箱根へ行かうかしらと思つてゐるの、今年は電車が強羅まで開通したさうだし、便利でいゝわ。」

わたし箱根へはまだ行つたことがありませんの。」

「それだと尚いゝわ。わたし温泉では箱根が一番いゝと思ふの。東京には近いし景色はいゝし。ぢややつぱり箱根にしませうね。明日でも、富士屋ホテルへ電話をかけて部屋の都合を訊き合せませうね。」

 さう云つて、瑠璃子は言葉を切つたが、直ぐ何か思ひ出したやうに、

「さう〳〵、まだ貴女あなたにお許しを願はなければならぬことがあるの。女手ばかりだと何かに付けて心細いから、男のお友達の方に、一人一緒に行つていたゞかうと思ふの。貴女、介意かまはなくつて?」

「介意ひませんとも。」美奈子はさう答へた。もし、昨日の美奈子であつたら、それをもつと自由に快活に答へることが出来たであらう。が、今の美奈子はさう答へると共に、胸が怪しく擾れるのを、うともすることが出来なかつた。

温和おとなしい学生の方なの。いろ〳〵な用事をして貰ふのにいゝわ。」

 瑠璃子は、いかにもその学生を子供扱ひにでもしてゐるやうな口調で云つた。

 学生と聴くと、美奈子の胸は更に烈しく波立つた。押へ切れぬ希望と妙な不安とが、胸一杯に充ち満ちた。



箱根行



「御機嫌よく行つてらつしやいませ。」

 玄関に並んだ召使達が、口を揃へて見送りの言葉を述べるのを後にして、美奈子達の乗つた自動車は、門の中から街頭へ、滑かにすべり出した。

 乾燥した暑い日が、四五日も続いた七月の十日の朝だつた。自動車の窓に吹き入つて来る風は、それでもやゝ涼しかつたが、空には午後からの暑気を思はせるやうな白い雲が、彼方此方にムク〳〵と湧き出してゐた。

 美奈子は、母と並んで腰をかけてゐた。前には、母の気に入りの小間使と自分の附添の女中とが、窮屈さうに腰をかけてゐた。

 美奈子は、母から箱根行のことを聴かされてから、母が一緒に伴つて行くと云ふ青年のことが、絶えず心にかゝつてゐた。が、母の方からはそれ以来、青年のことは何とも口に出さなかつた。母が口に出さない以上、美奈子の方から切り出して訊くことは、内気な彼女には出来なかつた。

 出立の朝になつても、青年の姿は見えなかつた。美奈子は、母が青年を連れて行くことを中止したのではないかとさへ思つた。さう思ふと美奈子は、失望したやうな、何となく物足りないやうな心持になつた。

 自動車が、日比谷公園の傍のお濠端を走つてゐる時だつた。美奈子は、やつと思ひ切つて母に訊いて見た。

「あの、学生の方とかをお連れするのぢやなかつたの?」

 瑠璃子は、初めて気が付いたやうに云つた。

「さう〳〵。あの方を美奈さんに紹介して置くのだつたわ。貴女あなたまだ御存じないのでせう。」

「はい! 存じませんわ。」

「学習院の方よ。時々制服を着ていらつしやることがあつてよ。気が付かない!」

「いゝえ! 一度もお目にかゝつたことありませんわ。」

「青木さんと云ふ方よ。」

 母は何気ないやうに云つた。

「青木さん!」美奈子は一寸おどろいたやうに云つた。「その方は此間、亡くなられたのではございませんの。」

 美奈子も、母の男性のお友達の一人なる青木なにがしが、横死したと云ふことは、薄々知つてゐた。

「いゝえ! あの方の弟さんよ。おあにいさんは、帝大の文科にいらしつたのよ。」

 こゝまで聴いたとき美奈子にはもう凡てが、判つてゐた。此の旅行の同伴者が、何人なんぴとであるかがもうハツキリと判つた。新しく兄を失つた青木と云ふ青年が、彼女が青山墓地で見たその人であることに、もう何のうたがひも残つてゐなかつた。

 美奈子の心は、嵐の下の海のやうに乱れ立つた。かの青年と、少くとも向う一箇月間一緒に暮すと云ふことが、彼女の心を、取り乱させるのに十分だつた。それは嬉しいことだつた。が、それは同時に怖しいことだつた。それは、楽しいことだつた。が、それは同時に烈しい不安をともなつた。

 美奈子の心の大きな動揺を、夢にも知らない瑠璃子夫人は、この真白な腕首に喰ひ入つてゐる時計を、チラリと見ながら独言のやうに呟いた。

「もう、九時だから、青木さんは屹度きつと来ていらつしやるに違ひないわ。」

 さうだ! 青年は、停車場で待ち合はせる約束だつたのだ。もう、二三分の後にその人と面と向つて立たねばならぬかと思ふと、美奈子の心は、とりとめもなく乱れて行くのだつた。

 が、美奈子は少女らしい勇気を振ひ起して、自分の心持を纏めようとした。あの青年と会つても、取り乱すことのないやうに、出来るだけ自分の心持を纏めて置かうと思つた。美奈子の心持などに、何の容赦もない自動車は、彼女の心が少しも纏まらない内に、もう彼女を東京駅の赤煉瓦の大きい建物の前におろしてゐた。



 美奈子等の自動車の着くのを、先刻さつきから待ち受けてゐたかのやうに、駅の群集の間から、五六人の青年紳士が、自動車から降り立つたばかりの、瑠璃子夫人の周囲を取り囲むのであつた。

「お見送りに来たのですよ。」

 皆は、口を揃へて云つた。

 夫人は軽い快いおどろきを、顔に表しながら云つた。

「おや! うして御存じ?」

「はゝゝ、お駭きになつたでせう。お隠しになつたつて駄目ですよ。我々の諜報局には、奥さんのなさることは、スツカリ判つてゐるのですからね。」

 外交官らしい、霜降りのモーニングを着た三十に近い紳士が、冗談半分にさう云つた。

「それは驚きましたね、小山さん! 貴君あなた間諜スパイでも使つてゐるのぢやないの? おツほゝゝ。」

 夫人も華やかに笑つた。

「使つてをりますとも。女中さんなんかにも、気を許しちやいけませんよ。」

「ぢや! 行先も判つて?」

「判つてゐますとも。箱根でせう。而も、お泊りになる宿屋まで、ちやんと判つてゐるのです。」

 今度は、長髪に黒のアルパカの上着を着て、ボヘミアンネクタイをした、画家らしい男が、さう附け加へた。

「おや! おや! 誰が内通したのかしら?」

 夫人は、当惑したらしい、その実は少しも当惑しないらしい表情でさう答へた。

 若い男性に囲まれながら、彼等を軽くあしらつてゐる夫人の今日の姿は、又なく鮮かだつた。青磁色の洋装が、そのスラリとした長身に、ピツタリ合つてゐた。極楽鳥の翼で飾つた帽子が、その漆のやうに匂ふ黒髪を掩うてゐた。大粒の真珠の頸飾りが、彼女自身の象徴シンボルのやうに、その白い滑らかな豊かな胸に、垂れ下つてゐた。

 平素いつも見馴れてゐる美奈子にさへ、今日の母の姿は一段と美しく見えた。駅の広間ホールに渦巻いてゐる群衆の眼も、一度は必ず夫人の上に注がれて、彼等が切符を買つたり手荷物を預けたりする忙がしい手を緩めさせた。

 美奈子は、母を囲む若い男性を避けて、一間ばかりも離れて立つてゐた。彼女は、最初その男達の間に、あの青年のゐないのを知つた。一寸期待がはづれたやうな、安心したやうな気持になつてゐた。その内に、母を見送りの男性は、一人増え二人加つた。が、かの青年は何時まで待つても見えなかつた。その男性達は、美奈子の方には、殆ど注意を向けなかつた。たゞ美奈子の顔を、よそながら知つてゐる二三人が軽く会釈しただけだつた。

「奥さん! まだ判つてゐることがあるのですがね。」

 暫くしてから、紺の背広を着た会社員らしい男が、おづ〳〵さう云つた。

「何です? 仰しやつて御覧なさい。」

 夫人は、微笑しながら、しかも言葉だけは、命令するやうに云つた。

「云つても介意かまひませんか。」

「介意ひませんとも。」

 夫人は、ニコ〳〵と絶えず、微笑を絶たなかつた。

「ぢや申上げますがね。」彼は、夫人の顔色を窺ひながら云つた。「青木君を、お連れになると云ふぢやありませんか。」

 それに附け加へて、皆は口を揃へるやうに云つた。

「何です、奥さん。当つたでせう。」

 皆の顔には、六分の冗談と四分の嫉妬が混じつてゐた。

「奥さん、いけませんね。貴女は、皆に機会均等だと云ひながら、青木君兄弟にばかり、いやに好意を持ち過ぎますね。」

 小山と云ふ外交官らしい男が、冗談半分に抗議を云つた。

 美奈子は、母が何と答へるか、ぢつと聞耳を立てゝゐた。



「まあ! 青木さんを連れて行くつて。嘘ばつかり。青木さんなんか、まだ兄さんのいみも明けてゐない位ぢやありませんか。」

 瑠璃子夫人は、事もなげに打消した。美奈子は、母が先刻自分に肯定したことを、かうも安々と、打ち消してゐるのを聴いたとき、内心少からず驚いた。自分に対しては可なり親切な、誠意のある母が、かうも男性に向つては白々しく出来ることが、可なり異様に聞えた。

いみもまだ明けないだらうつて。奥さんにも似合はない旧弊なことをおつしやるのですね。忌ぐらゐ明けなくつたつて、いゝぢやありませんか。殊に、奥さんと一緒に行くんだつたら、死んだ兄さんだつて、冥土で満足してゐるかも知れませんよ。死んだ青木淳君の瑠璃子夫人崇拝は人一倍だつたのですからね。あの男の貴女あなたに対する態度は、狂信に近かつたのですからね。」

 長髪の画家が、一寸皮肉らしく言つた。

 夫人は、美しい顔を、少し曇らせたやうだつたが、直ぐ元の微笑に帰つて、

「まあ! 何とでもおつしやいよ。でも青木さんのいらつしやらないのは本当よ。論より証拠青木さんは、お見えにならないぢやありませんか。」

「奥さん! そんなことは、証拠になりませんよ。発車間際に姿を現して、我々がアツと言つてゐる間に、汽笛一声発車してしまふのぢやありませんか。貴女あなたのなさることは、大抵そんなことですからね。」

 此の内で、一番年配らしい三十二三の夏の外套を着た紳士が、始めて口を入れた。

「御冗談でございませう! 富田さん。青木さんをお連れするのだつたら、さうコソ〳〵とはいたしませんよ。まさか、貴君が赤坂の誰かを湯治に連れていらつしやるのとは違つてゐますから。」

 瑠璃子夫人の巧みな逆襲に、みんなは声を揃へて哄笑した。富田と呼ばれた紳士は苦笑しながら言つた。

「まあ、青木君の問題は、別として、僕も、近々箱根へ行かうと思つてゐるのですが、彼方あちらでお訪ねしても、介意かまひませんか。」

 瑠璃子夫人は、微笑を含みながら、而も乱麻を断つやうに答へた。

「いゝえ! いけませんよ。此の夏は男禁制! 誰かの歌に、こんなのが、あるぢやありませんか。『大方の恋をば追はず此の夏は真白草花白きこそよけれ』わたくしも、さうなのよ、此の夏は、本当に対人間の生活から、少し離れてゐたいと思ひますの。」

「ところが、奥さん。その真白草花と云ふのが、案外にも青木ジュニヨルだつたりするのぢやありませんか。」

 小山と呼ばれた外交官らしい紳士が、突込んだ。

「まあ! 執念深い! 発車するまでに、青木さんが、お見えになつたら、そのつぐなひとして、皆さんを箱根へ御招待しますわ。御覧なさい、もう切符を切りかけたのに、青木さんはお見えにならないぢやありませんか。」

 夫人はさう言ひながら、美奈子達を促して改札口の方へ進んだ。若い紳士達は、蟻の甘きに従くやうに、夫人の後から、ゾロ〳〵と続いた。

 夫人が、汽車に乗つた後も、青木と呼ばれる青年は姿を現さなかつた。若い男達は、やつと夫人の言葉を信じ初めた。

「向うから、お呼び寄せになるかうかは別として、今日同行なさらないことだけは、信じましたよ。はゝゝゝゝ。」

 小山と云ふ男が、発車間際になつて、さう言つた。

「まだそんな負惜しみを、言つていらつしやるの!」

 夫人は、さう言ひながら、嫣然につこりと笑つて見せた。

 美奈子は、何が何だつたか、判らなくなつた。母の自動車の中の言葉では、青木と云ふ青年が──墓地で逢つた彼の人に相違ない青年が──東京駅で待つてゐるやうだつた。而も母は、今そのことをきつぱり打ち消してゐる。

 美奈子は安心したやうな、而も失望したやうな妙な心持の混乱に悩んでゐた。

 汽車が出るまで、到頭青木は姿を、見せなかつた。



 汽車が動き初めても、青木の姿は、到頭見えなかつた。

「それ御覧なさい! 疑ひはお晴れになつたでせう!」

 夫人は、車窓から、その繊細な上半身を現しながら、見送つてゐる人達に、さうした捨台辞すてぜりふを投げた。

 男性達が、銘々いろ〳〵な別辞を返してゐる裡に、汽車は見る〳〵駅頭を離れてしまつた。

「まあ! うるさいたらありはしないわ。こんな小旅行トリップの出発を、わざ〳〵見送つて呉れたりなどして。」

 夫人は美奈子に対する言ひ訳のやうに呟きながら席に着いた。

 母を囲む男性達が、青木の同行を気にかけてゐる以上に、もつと気にかけてゐたのは美奈子だつた。その人と一緒に汽車に乗つたり、一緒に宿屋に宿つたり、同じ食卓に着いたりすることを考へると、彼女の小さい心は、戦いてゐたと云つてもよかつた。それは恐ろしいことであり、同時に、限りなき歓喜でもあつたのだ。が、その人は到頭姿を現はさない。母も前言を打ち消すやうな事を言つてゐる。美奈子の心配はなくなつた。それと同時に、彼女の歓喜も消えた。たゞ白々しい寂しさだけが、彼女の胸に残つてゐた。

 美奈子の心持を少しも知らない瑠璃子は、美奈子が沈んだ顔をしてゐるのを慰めるやうに言つた。

「美奈さんなんか、何うお考へになつて。妾達わたしたち女性を追うてゐるあゝ云ふ男性を。あゝ云ふ女性追求者と云つたやうな人達を。」

 美奈子は黙つて答をしなかつた。母が交際つきあつてゐる人達を、厭だとも言へなかつた。それかと言つて、決して好きではなかつた。

「あんな人達と結婚しようなどとは、夢にも考へないでせうね。男性は男性らしく、女性なんかに屈服しないでゐる人が、頼もしいわね。」

 美奈子も、ついそれに賛成したかつた。が、青木と呼ばれるらしい青年も、やつぱりさうして男性らしくない女性追求者の一人かと思ふと、美奈子はやつぱり黙つてゐる外はなかつた。

妾達わたしたちを、追うて来る人でも、身体と心との凡てを投じて、来る人はまだいゝのよ。あの人達なんか遊び半分なのですもの。狼の散歩旁々かた〴〵人の後からいて行くやうなものなのよ。つい、つまづいたら、飛びかゝつてやらう位にしか思つてゐないのですもの。」

 美奈子は、母の辛辣な思ひ切つた言葉に、つい笑つてしまつた。男性のことを話すと、敵か何かのやうに罵倒する母が、何故多くの男性を近づけてゐるかが、美奈子にはたゞ一つの疑問だつた。

「青木さんと云ふ方、一緒にいらつしやるのぢやないの?」

 美奈子は、やつと、心に懸つてゐたことを訊いてみた。母は、意味ありげに笑ひながら言つた。

「いらつしやるのよ。」

「後からいらつしやるの?」

「いゝえ!」母は笑ひながら、打ち消した。

「ぢや、先にいらつしやつたの?」

「いゝえ!」母は、やつぱり笑ひながら打ち消した。

「ぢや何時?」

 母は笑つたまゝ返事をしなかつた。

 丁度その時に、汽車が品川駅に停車した。四五人の乗客が、ドヤ〳〵と入つて来た。

 丁度その乗客の一番後から、麻の背広を着た長身白皙の美青年が、姿を現はした。瑠璃子夫人の姿を見ると、ニツコリ笑ひながら、近づいた。右の手には旅行用のトランクを持つてゐた。

「おや! いらつしやい!」

 夫人は、溢れる微笑を青年に浴びせながら言つた。

「さあ! おかけなさい!」

 夫人はその青年のために、座席シートを取つて置いたかのやうに、自分の右に置いてあつた小さなトランクを取り除けた。



 美奈子は、おどろきに目をみはりながら、それでもそつと青年の顔をぬすみ見た。それは、紛れもなく彼の青年であつた。墓地で見、電車に乗り合はし、自分の家を訪ねるのを見た彼の青年に違ひなかつた。

 美奈子は、胸を不意に打たれたやうに、息苦しくなつて、ぢつとおもてを伏せてゐた。

 が、美奈子のさうした態度を、処女に普通な羞恥だと、解釈したらしい瑠璃子は、事もなげに云つた。

「これが先刻さつきお話した青木さんなの。」

 紹介された青年は、美奈子の方を見ながら、丁寧に頭を下げた。

「お嬢様でしたか。いつか一度、お目にかゝつたことがありましたね。」

 さう云はれて、『はい。』と答へることも、美奈子には出来なかつた。彼女はそれを肯定するやうに、丁寧に頭を下げた丈けだつたが、青年が自分を覚えてゐて呉れたことが、彼女をどんなに欣ばしたか分らなかつた。

 青年は、瑠璃子の右側近く腰を降した。

貴君あなた、大変だつたのよ。今東京駅でね。皆知つていらつしやるのよ。わたしが今日立つと云ふことを。そればかりでなく貴君が一緒だと云ふこと迄知つていらつしやるのよ。だから、極力打ち消して置いたのよ。若し青木さんが一緒だつたら、その償ひとして皆さんを箱根へ御招待しますつて。それでも皆善人ばかりなのよ、おしまひにはわたしの云ふことを信じてしまつたのですもの。だから、わたしが云はないことぢやないでせう。品川か新橋かどちらかでお乗りなさいと。わたし、貴君がわたしの云ふことを聴かないで、ひよつくり東京駅へ来やしないかと思つて、ビク〳〵してゐましたの。」

 夫人は、弟にでも話すやうに、馴々しかつた。青年は姉の言葉をでも、聴いてゐるやうに、一言一句に、微笑しながら肯いた。

 それを、黙つて聴いてゐる美奈子の心の中に、不思議な不愉快さが、ムラ〳〵と湧いて来た。それは彼女自身にも、一度も経験したことのないやうな、不快な気持だつた。彼女は、母に対して、不快を感じてゐるのでなく、青年に対して、不快を感じてゐるのでなく、たゞ母と青年とが、馴々しく話しあつてゐることが、不思議に、彼女の心に苦い滓を掻き乱すのであつた。殊に青年が人目を忍ぶやうに、品川からたゞ一人、コツソリと乗つたことが、美奈子の心を、可なりきずつけた。母と青年との間に、何か後暗い翳でもがあるやうに、思はれて仕方がなかつた。

うして、僕が奥さんと一緒に行くことが分つたのでせう。僕は誰にも云つたことはないのですがね。」

 青年は一寸云ひ訳のやうに云つた。

「何わかつてゐてもいゝのですよ。薄々分つてゐる位が、丁度いゝのですよ。貴君となら、分つてゐてもいゝのですよ。」

 夫人は、軽いこびを含みながら云つた。

「光栄です。本当に光栄です。」

 青年は冗談でなく、本当に心から感激してゐるやうに云つた。

 母と青年との会話は、自由に快活に馴々しく進んで行つた。美奈子は、なるべくそれを聴くまいとした。が、母が声を低めて云つてゐることまでが、神経のいらだつてゐる美奈子の耳には、轟々たる車輪の、響にも消されずに、ハツキリと響いて来るのだつた。

 母と青年との一問一答に、小さい美奈子の胸は、益々傷けられて行くのだつた。時々母が、

「美奈さん! 貴女あなたは何う思つて?」

 などと黙つてゐる彼女を、会談の圏内に入れようとする毎に、美奈子は淋しい微笑を洩すだけだつた。

 美奈子は、青年の姿を見ない前までは、青年の同行することは、恐ろしいが同時に限りない歓喜がその中に潜んでゐるやうに思はれた。が、それが実現して見ると、それは恐ろしく、寂しく、苦しいだけであることが、ハツキリと分つた。此先一月も、かうした寂しさ苦しさを、味はつてゐなければならぬかと思ふと、美奈子の心は、墨を流したやうに真暗になつてしまつた。



 汽車は、美奈子の心の、恋を知り初めた処女の苦しみと悩みとを運びながら、グン〳〵東京を離れて行つた。

 夫人と青年との親しさうな、しめやかな、会話は続いた。夫人は久しぶりに逢つた弟をでも、愛撫するやうに、耳近く口を寄せて囁いたり、軽く叱するやうに言つたりした。青年は青年で、姉にでも甘えるやうに、姉から引き廻されるのを欣ぶやうに、柔順に温和に夫人の言葉を、一々微笑しながらいてゐた。

 美奈子は、母と青年との会話を、余りに気にしてゐる自分が、何だか恥しくなつて来た。彼女は、成るべく聞くまい見まいと思つた。が、さう努めれば努めるほど、青年の言葉やその白皙のおもてに浮ぶ微笑が、悩ましく耳に付いたり、眼についたりした。

 青年の面には、歓喜と満足とが充ち溢れてゐるのが、美奈子にも感ぜられた。彼の眼中には、瑠璃子夫人以外のものが、何も映つてゐないことが、美奈子にもあり〳〵と感ぜられた。母のそばにゐる自分などは、恐らく青年の眼には、塵ほどにも、芥ほどにも、感ぜられてはゐまいと思ふと、美奈子は烈しい淋しさで胸が掻きみだされた。

 が、それよりも、もつと美奈子を寂しくしたことは、今迄愛情の唯一の拠り処としてゐた母が、たとひ一時ではあらうとも、自分よりも青年の方へ、親しんでゐることだつた。

 大船を汽車が出たとき、美奈子は何うにも、堪らなくなつて、向う側の座席が空いたのをさひはひに、景色を見るやうな風をして、其処へ席を移した。

 母と青年との会話は、もう聞えて来なくなつた。が、一度掻き擾された胸は、たやすく元のやうには癒えなかつた。

 彼女は、かうした苦しみを味はひながら、此先一月も過さねばならぬかと思ふと、どうにも堪らないやうに思はれ出した。さうだ! 箱根へ着いて二三日したら、何か口実を見付けて自分け帰つて来よう。美奈子は、小さい胸の中でさう決心した。

 丁度、さう考へてゐたときに、

「美奈子さん! 一寸いらつしやい!」

 と、母から何気なく呼ばれた。美奈子は淋しい心を、ぢつと抑へながら、元の座席へ帰つて行つた。顔だけには、強ひて微笑を浮べながら。

貴女あなた! 青木さんと、青山墓地で、会つたことがあるでせう!」

 母は、美奈子が坐るのを待つてさう言つた。青年の顔を、チラリと見ると、彼もニコ〳〵笑つてゐた。美奈子は、何か秘密にしてゐたことを母に見付けられたかのやうに、顔を真赤にした。

貴女あなたは覚えてゐないの?」

 母は、美奈子をもつとドギマギさせるやうに言つた、

「いゝえ! 覚えてゐますの。」

 美奈子は周章あわててさう言つた。

 美奈子は、青年が自分を覚えてゐて呉れたことが、何よりも嬉しかつた。

「青木さんの妹さんが、よく貴女を知つていらつしやるのですつて。ねえ! 青木さん。」

 夫人は賛成を求めるやうに、青木の方を振り顧つた。

「さうです。たしか美奈子さんより三四年下なのですが、お顔なんかよく知つてゐるのです。此間も『あれが荘田さんのお嬢さんだ』と言ふものですから一寸驚いたのです。僕の妹を御存じありませんか。」

 青年は、初めて親しさうに、美奈子に口を利いた。

「はい、お顔だけは存じてゐますの。」

 美奈子は、口の裡で呟くやうに答へた。が、青年から親しく口を利かれて見ると、美奈子の寂しく傷いてゐた心は、緩和薬バルサムをでも、塗られたやうになごんでゐた。今まで、恐ろしく寂しく考へられてゐた避暑地生活に、一道の微光が漂つて来たやうに思はれた。



 それから汽車が、国府津へ着くまで、青年は美奈子に、幾度も言葉をかけた。平素いつも妹を相手にしてゐると見えて、その言葉には、女性──殊に年下の女性に対する親しみが、自然に籠つてゐた。青年の一言々々は、美奈子のこじれかからうとした胸を春風のやうに、撫でさするのであつた。美奈子は最初陥つてゐた不快な感情から、いつの間にか、救はれてゐた。自分が、妙にひがんで、嫉妬に似た感情を持つてゐたことを、はしたないとさへ思ひ始めてゐた。

 国府津へ着いたとき、もう美奈子は、また元の処女らしい、感情と表情とを取り返してゐた。

 国府津のプラットフォームに降り立つた時、瑠璃子は駆け寄つた赤帽の一人に、命令した。

「あの、自動車を用意させておくれ!──さう、一台ぢや、窮屈だから──二台ね、宮の下まで行つて呉れるやうに。」

 赤帽が命を受けて馳け去つたときだつた。今まで他の赤帽を指図して手荷物を下させてゐた青年が驚いて瑠璃子の方を振り顧つた。

「奥さん! 自動車ですか。」

 青年の語気は可なり真面目だつた。

「さうです。いけないのですか。」

 瑠璃子は、軽く揶揄するやうに反問した。

「あんなにお願ひしてあつたのに聴いて下さらないのですか。」

 温和おとなしい青年は、可なり当惑したやうに、暗い表情をした。

 瑠璃子は、華やかに笑つた。

「あら! まだ、あんなことを気にしていらつしやるの。わたし貴君が冗談に云つていらしつたのかと思つたのですよ。兄さんが、自動車で死なれたからと云つて、自動車を恐がるなんて、迷信ぢやありませんか。男らしくもない。自動車が衝突するなんて、一年に一度あるかないかの事件ぢやありませんか。そんなことを恐れて、自動車に乗らないなんて。」

 夫人は、子供の臆病をでも叱するやうに云つた。

「でも、奥さん。」青年は、可なり懸命になつて云つた。「兄が、やつぱり此の国府津から自動車に乗つてやられたのでせう。それからまだ一月も経つてゐないのです。殊に、今度箱根へ行くと云ふと、父と母とが可なり止めるのです。で、やつと、説破せつぱして、自動車には乗らないと云ふ条件で、許しが出たのです。だから、奥さんにも、自動車には乗らないと云つてあれほど申上げて置いたぢやありませんか。」

「お父様やお母様が、さうした御心配をなさるのは、もつともと思ひますわ。でも貴君迄が、それに感化かぶれると云ふことはないぢやありませんか。縁起などと、云ふ言葉は、現代人の辞書にはない字ですわね。」

「でも、奥さん! 肉親の者が、命をおとした殆ど同じ自動車に、まだ一月も経つか経たないかに乗ると云ふことは、縁起だとか何とか云ふ問題以上ですね。貴女だつて、もし近しい方が、自動車であゝした奇禍にお逢ひになると、屹度きつと自動車がお嫌ひになりますよ。」

「さうかしら。わたしは、さうは思ひませんわ。だつてお兄さんだつてわたしには可なり近しい方だつたのですもの。」

 さう云つて夫人は淋しく笑つた。

「でも、いゝぢやありませんか。わたしと一緒ですもの。それでもお嫌ですか。」

 さう云つて、嫣然えんぜんと笑ひながら、青年の顔を覗き込む瑠璃子夫人の顔には、女王のやうな威厳と娼婦のやうなこびとが、二つながら交つてゐた。

 瑠璃子の前には、小姓か何かのやうに、力のないらしい青年は、極度の当惑に口を噤んだまま、その秀でた眉を、ふかく顰めてゐた。背丈こそ高く、容子こそ大人びてゐるが、名門に育つた此の青年が対人的にはホンの子供であることが、瑠璃子にも、マザ〳〵と分つた。



ある三角関係



 その裡に、美奈子達の一行は改札口を出てゐた。駅前の広場には、赤帽が命じたらしい自動車が二台、美奈子達の一行を待つてゐた。

 青年は、瑠璃子夫人の力に、グイ〳〵引きずられながらも、自動車に乗ることは、可なり気が進んでゐないらしかつた。

 彼は哀願するやうに、オヅ〳〵と夫人に云つた。

「何うです? 奥さん。僕お願ひなのですが、電車で行つて下さることは出来ないでせうか。兄の惨死の記憶が、僕にはまだマザ〳〵と残つてゐるのです。兄を襲つた運命が、肉親の僕に、何だか糸を引いてゐるやうに、不吉な胸騒ぎがするのです。何だか、兄と同じ惨禍に僕が知らず識らず近づいてゐるやうな、不安な心持がするのです。」

 青年は、可なり一生懸命らしかつた。が、瑠璃子は青年の哀願に耳を傾けるやうな容子も見せなかつた。彼女は、意志の弱い男性を、グン〳〵自分の思ひどほりに、引き廻すことが、彼女の快楽の一つであるかのやうに云つた。

「まあ! 貴君のやうに、さうセンチメンタルになると、いやになつてしまひますよ。わたしは運命だとか胸騒ぎだとか云ふやうな言葉は、大嫌ひですよ。わたしは徹底した物質主義者マテリアリストです。電車なんか、あんなに混んでゐるぢやございませんか。さあ、乗りませう。いゝぢやございませんの。自動車が崖からおつこちても、死なば諸共ですわ。貴君あなたわたしと一緒なら、死んでも本望ぢやなくて? おほゝゝゝゝゝ。」

 夫人は、奔放にさう云ひ放つと、青年がう返事するかも待たないで、美奈子を促しながら、一台の自動車に、ズンズン乗つてしまつた。

 此の時の青年は、可なりみじめだつた。瑠璃子夫人の前では、手も足も出ない青年の容子が、美奈子にも、可なりみじめに、寧ろ気の毒に思はれた。

 彼は屠所の羊のやうに、泣き出しさうな硬ばつた微笑を、強ひて作りながら、美奈子達の後から乗つた。

「そんなにクヨ〳〵なさるのなら、連れて行つて上げませんよ。」

 夫人は、子供をでも叱るやうに、愛撫の微笑を目元に湛へながら云つた。

 青年は、黙つてゐた。彼は、夫人の至上命令のため、止むなく自動車に乗つたものの、内心の不安と苦痛と嫌悪とは、その蒼白い顔にハツキリと現はれてゐた。臆病などと云ふことではなくして、兄の自動車での惨死が、善良な純な彼の心に、自動車に対する、殊に箱根の──唱歌にもある嶮しい山や、たにの間を縫ふ自動車に対する不安を、植ゑ付けてゐるのであつた。

 美奈子は、心の中から青年が、気の毒だつた。

 母が故意に、青年の心持に、逆らつてゐることが、可なり気の毒に思はれた。

 自動車が、小田原の町を出はづれた時だつた。美奈子は何気ないやうに云つた。

「お母様。湯本から登山電車に乗つて御覧にならない。此間の新聞に、日本には始めての登山電車で瑞西スヰツルの登山鉄道に乗つてゐるやうな感じがするとか云つて、出てゐましたのよ。」

 美奈子には、優しい母だつた。

「さうですね。でも、荷物なんかが邪魔ぢやない?」

「荷物は、このまま自動車で届けさへすればいいわ。特等室へ乗れば自動車よりも、楽だと思ひますわ。」

「さうね。ぢや、乗り換へて見ませうか。青木さんは、無論御賛成でせうね。」

 瑠璃子は、青年の顔を見て、皮肉に笑つた。青年は、黙つて苦笑した。が、チラリと美奈子の顔を見た眼には美奈子の少女らしい優しい好意に対する感謝の情が、歴々あり〳〵と動いてゐた。



 富士屋ホテルの華麗な家庭部屋の一つの裡で、美奈子達の避暑地生活は始まつた。

『暮したし木賀きが底倉そこくらに夏三月』それは昔の人々の、夏の箱根に対する憧憬あこがれであつた。関所は廃れ、街道には草蒸し、交通の要衝としての箱根には、昔の面影はなかつたけれども、温泉いでゆ滾々こん〳〵として湧いて尽きなかつた。青葉に掩はれた谿壑けいがくから吹き起る涼風は、昔ながらに水の如き冷たさを帯びてゐた。

 殊に、美奈子達の占めた一室は、ホテルの建物の右の翼のはづれにあつた。開け放たれた窓には、早川の対岸明神岳明星岳の翠微が、手に取るごとく迫つてゐた。東方、早川の谿谷が、群峰の間にたゞ一筋、開かれてゐるすゑはるかに、地平線に雲のゐぬ晴れた日の折節には、いぶした銀の如く、ほのかに、雲とも付かず空とも付かず、光つてゐる相模灘が見えた。

 設備の整つたホテル生活に、女中達が不用なため、東京へ帰してからは、美奈子達三人の生活は、もつと密接になつた。

 美奈子は、最初青年に対して、口も碌々利けなかつた。たゞ、折々母を介して簡単な二言三言を交へるだけだつた。

 母が青年と話してゐるときには、よく自分一人その場を外して、縁側ヴェランダに出て、其処にある籐椅子に何時までも何時までも、坐つてゐることが、多かつた。

 又何かの拍子で、青年とたゞ二人、部屋の中に取り残されると、美奈子はまた、ぢつとしてゐることが出来なかつた。青年の存在が、息苦しいほどに、身体全体に感ぜられた。

 さうした折にも、美奈子は、やつぱりそつと部屋を外して、縁側ヴェランダに出るのが常だつた。とにかく、彼女の小さい胸は、やすらいとまもない水鳥の脚のやうに動いてゐた。

 彼女に一番楽しいのは、夕暮の散歩かも知れなかつた。晩餐が終つてから、美奈子は母と青年との三人で、よく散歩した。早川の断崖に添うた道を、底倉から木賀へ、時には宮城野まで、岩に咽ぶ早川の水声に、夏を忘れながら。

 箱根へ来てから、五日ばかり経つたある日の夕方だつた。美奈子達が、晩餐が終つてから、食堂を出ようとしたとき、瑠璃子はふとその入口で、その日来たばかりの知合の仏蘭西フランス大使の令嬢と出会つた。日本ずきの此の令嬢は、瑠璃子とは可なり親しい間柄だつた。彼女は思ひがけない処で、瑠璃子に会つたのを可なり欣んだ。瑠璃子は誘はれるまゝに、大使令嬢の部屋を訪ねて行つた。

 美奈子と、青年とは部屋に帰つたものの、手持無沙汰に、ボンヤリとして、暮れて行く夕暮の空に対してゐた。

 二人は、心の中では銘々に、瑠璃子の帰るのを待つてゐた。が、二十分経つても三十分経つても、瑠璃子は帰りさうにも見えなかつた。

 青年は平素いつものやうに、散歩に出たいと見え、ステツキを持つたり、帽子を手にしたりしながら、瑠璃子の帰るのを待つてゐるらしかつた。が、瑠璃子は却々なか〳〵帰つて来なかつた。

 青年はやゝ待ちあぐみかけたらしかつた。彼はもう明るく電燈の点いた部屋の中を、四五歩宛行つたり来たりしてゐたが、なかば独語のやうに美奈子に云つた。

「お母様は、却々お帰りになりませんね。」

「はい。」

 窓に倚つて輝き初めた星の光をボンヤリ見詰めてゐた美奈子は、低い声で聞えるか聞えないかのやうに答へた。青年は、自分一人で出て行きたいらしかつたが、美奈子を一人ぼつちにして置くことが、気が咎めるらしかつた。彼は、到頭云ひ憎くさうに云つた。

「美奈子さん。如何です、一緒に散歩をなさいませんか。お母様をお待ちしてゐても、なかなかお帰りになりさうぢやありませんから。」

 青年は、口籠りながらさう云つた。

「えゝつ!」

 美奈子は彼女自身の耳を疑つてゐるかのやうに、つぶらなる目をみはつた。



 美奈子に取つては、青年から散歩に誘はれたことが、可なり大きなおどろきであつた。四五日一緒に生活して来たと云ふものの、二人向ひ合つては、短い会話一つ交したことがなかつた。

 その相手から、突然散歩に誘はれたのであるから、彼女がおどろきの目を刮つたまゝ、わく〳〵する胸を抑へたまゝ、何とも返事が出来なかつたのも、無理ではなかつた。

 青年は、美奈子の返事が遅いのを、彼女が内心当惑してゐる為だと思つたのであらう。彼は、自分の突然な申出の無躾さを恥ぢるやうに云つた。

「いらつしやいませんですか。ぢや、僕一人行つて来ますから。僕は、日の暮方には、どうも室の中にぢつとしてゐられないのです。」

 青年は、弁解のやうに、さう云ひながら室を出て行かうとした。

 美奈子は、胸の内で、青年の勧誘に、どれほど心を躍らしたか分らなかつた。青年とたつた二人切りで、散歩すると云ふことが、彼女にとつてどんな駭きであり欣びであつただらう。彼女は、駭きの余りに、青年の初めの勧誘に、つい返事をし損じたのであつた。彼女は、どんなに青年が、もう一度勧めて呉れるのを待つたであらう。もう一度、勧めてさへ呉れゝば、美奈子は心も空に、青年の後からいて行くのであつたのだ。

 が、青年には美奈子の心は、分らなかつた。彼には、美奈子が返事をしないのが、処女らしい恥しさと後退しりごみのためだとより、思はれなかつた。彼は、最初から誘はなければよかつたと思ひながら、一寸気まづい思ひで、部屋を出た。

 青年が、部屋を出る後姿を見ると、美奈子は取返しの付かないことをしたやうに思つた。もう再びとは、得がたい黄金の如き機会を、永久に失ふやうな心持がした。その上、青年の勧めに、返事さへしなかつたことが、彼女の心を咎め初めた。それに依つて、相手の心を少しでも傷けはしなかつたかと思ふと、彼女は立つても坐つても、ゐられないやうな心持がし初めた。

 一二分、考へた末、彼女は到頭堪らなくなつて部屋を出た。長い廊下を急ぎ足に馳けすぎた。ホテルの玄関で、草履を穿くと、夏の宵闇の戸外へ、走り出でた。

 玄関前の広場にある噴水のほとりを、透して見たけれども、その人らしい影は見えなかつた。彼女は、到頭宮の下のとほりに出た。

 青年の行く道は、分つてゐた。彼女は、胸を躍らしながら、底倉の方へと急いだ。

 温泉町いでゆまちの夏の夕は、可なり人通が多かつた。その人かと思つて近づいて行くと、見知らない若い人であつたりした。

 が、美奈子が宮の下の賑やかなとほりを出はづれて、段々淋しい崖上の道へ来かゝつたとき、丁度道の左側にある理髪店の軒端に佇みながら、若い衆が指してゐる将棋を見てゐる青年の横顔を見付けたのである。

 青年に近づく前に、彼女の小さい胸は、どんなに顫へたか分らなかつた。でも、彼女はありだけの勇気で、近づいて行つた。

ここにいらつしたのですか。わたくしも、散歩にお伴いたしますわ。母は、帰りさうにもありませんですから。」

 彼女は、低い小さい声で、途切れ〳〵に言つた。青年は、おどろいて彼女を振り返つた。投げたつぶてが忘れた頃に激しい水音を立てたやうに、青年は自分の一寸した勧誘が、少女の心を、こんなに動かしてゐることに、駭いた。が、それは決して不快な駭きではなかつた。

「ぢや、お伴しませうか。」

 さう言ひながら、青年は歩き初めた。美奈子は、二三尺も間隔を置きながら従つた。夢のやうな幸福な感じが、彼女の胸に充ち満ちて、踏む足も地に付かないやうに思つた。



 初め、連れ立つてから、半町ばかりの間、二人とも一言も、口を利かなかつた。初めて、若い男性、しかも心の奥深く想つてゐる若い男性とたゞ二人、歩いてゐる美奈子の心には、散歩をしてゐると云つたやうな、のんきな心持は少しもなかつた。胸が絶えず、わく〳〵して、息は抑へても〳〵弾むのであつた。

 青年も、黙つてゐた。たゞ、黙つてグン〳〵歩いてゐた。二人は、散歩とは思はれないほどの早さで、歩いてゐた。何処へ行くと云ふ当もなしに。

 早川の谿谷の底はるかに、岩に激してゐる水は、夕闇を透してほのじろく見えてゐた。その水から湧き上つて来る涼気は、浴衣ゆかたを着てゐる美奈子には、肌寒く感ぜられるほどだつた。

 青年が、何時までも黙つてゐるので、美奈子の心は、妙に不安になつた。美奈子は自分が後を追つて来たはしたなさを、相手が不愉快に思つてゐるのではないかと、心配し始めた。自分が思ひ切つて後を追つて来たことが、軽率ではなかつたかと、後悔し初めた。

 が、二人が丁度、底倉と木賀との間を流れてゐる、蛇骨川じやこつがはの橋の上まで、来たときに、青年は初めて口を利いた。立ち止つて空を仰ぎながら、

「御覧なさい! 月が、出かゝつてゐます。」

 さう云はれて、今迄俯きがちに歩いて来た美奈子も、立ち止つて空を振り仰いだ。

 早川の対岸に、空をくぎつて聳えてゐる、連山の輪廓を、ほの〴〵とした月魄つきしろが、くつきりと浮き立たせてゐるのであつた。

 相模灘を、渡つて来た月の光が今丁度箱根の山々を、照し初めようとしてゐる所だつた。

「まあ! 綺麗ですこと。」

 美奈子もつい感嘆の声を洩した。

「旧の十六日ですね、きつと。いゝ月でせう。空が、あんなによく晴れてゐます。東京の、濁つたやうな空と比べるとうです。これが本当に緑玉エメラルドと云ふ空ですね。」

 青年は、心ゆくやうに空を見ながら云つた。美奈子も、青年の眸を追うて、大空を見た。夏の宵の箱根の空は、磨いたやうに澄み切つてゐた。

「本当に美しい空でございますこと。」

 美奈子も、しみ〴〵とした気持でさう云つた。丁度、今までかけられてゐた沈黙の呪が解かれたやうに。

「やつぱり空気がいゝのですね。東京の空と違つて、塵埃じんあいや煤煙がないのですね。」

「山の緑が映つてゐるやうな空でございますこと。」

 美奈子も、つい気軽になつてさう云つた。

「さうです。本当に山の緑が映つてゐるやうな空です。」

 青年は、美奈子の云つた言葉を噛みしめるやうに繰り返した。

 二人は、また暫らく黙つて歩いた。が、もう先刻さつきのやうなギゴチなさは、取り除かれてゐた。美しい自然に対する讃美の心持が、二人の間の、心の垣を、ある程度まで取り除けてゐた。美奈子は、青年ともつと親しい話が出来ると云ふ自信を得た。青年も、美奈子に対してある親しみを感じ初めたやうだつた。

 四五尺も離れて歩いてゐた二人は、何時の間にか、どちらからともなく寄添うて歩いてゐた。

 美奈子は、相手に話したいことが、山ほどもあるやうで、しかもそれを考へに纏めようとすると、何も纏まらなかつた。唖が、大切な機会に喋べらうとするやうに、たゞいら〳〵焦り立つてゐるばかりだつた。

「さう〳〵、貴女あなたに申上げたいことがあつたのです。つい、此間中から機会がなくて。」

 青年は、大切なことをでも、話すやうに言葉を改めた。動き易い少女の心は、そんなことにまで烈しく波立つのだつた。



 相手がどんなことを云ひ出すのかと、美奈子は、胸を躍らしながら待つてゐた。

 青年は、一寸云ひ憎さうに、口籠つてゐたが、やつと思ひ切つたやうに云つた。

「此間中から、お礼を申上げよう申上げようと思ひながら、ついその儘になつてゐたのです。此間はどうも有難うございました。」

 夕闇に透いて見える彼の白い頬が、思ひ做しか少し赤らんでゐるやうに思はれた。美奈子も相手から、思ひがけもない感謝の言葉を受けて、我にもあらず、顔がほてるやうに熱くなつた。彼女は、青年から礼を云はれるやうな心覚えが、少しもなかつたのである。

「まあ! 何でございますの! わたくし!」

 美奈子は、当惑の目をみはつた。

「お忘れになつたのですか。お忘れになつてゐるとすれば、僕は愈々いよ〳〵感謝しなければならぬ必要があるのです。お忘れになりましたですか。来る道で僕があんなに自動車に乗ることを厭がつたのを。はゝゝゝゝゝ。自分ながら、今から考へると、余り臆病になり過ぎてゐたやうです。お母様から後で散々冷かされたのも無理はありません。が、あの時は本当に恐かつたのです。妙に気になつてしまつたのです。ベソを掻きさうな顔をしてゐたと、後でお母様に冷かされたのですが、本当にあの時は、そんな気持がしてゐたのです。それに、荘田夫人と来ては、極端に意地がわるいのですからね。僕が恐がれば恐がるほど、しつこく苛めようとするのですからね。本当にあの時の、貴女あなたのお言葉は地獄に仏だつたのです。はゝゝゝ。考へて見れば、僕も余り臆病すぎたな。とんだ所を貴女方に見せてしまつた!」

 青年は、冗談のやうに云ひながらも、美奈子に対する感謝の心だけは、可なり真面目であるらしかつた。

「まあ! あんなことなんか。わたくし、本当に電車に乗りたかつたのでございますわ。」

 美奈子は、顔を真赤にしながら、青年の言葉を打ち消した。が、心の中はこみ上げて来る嬉しさで一杯だつた。

「あの時、僕は本当に貴女の態度に、感心したのです。あの時、露骨に僕の味方をして下さると、僕も恥しいし、お母様も意地になつて、あゝうまくは行かなかつたのでせうが、貴女の自然な無邪気な申出には、さすがの荘田夫人も、直ぐ賛成しましたからね。僕は、今まで荘田夫人を、女性の中で最も聡明な人だと思つてゐましたが、貴女のあの時の態度を見て、世の中には荘田夫人の聡明さとは又別な本当に女性らしい聡明さを持つた方があるのを知りました。」

「まあ! あんなことを。わたくしお恥かしうございますわ。」

 さう云つて、美奈子は本当に浴衣の袖で顔を掩うた。処女らしい嬌羞が、その身体全体に溢れてゐた。が、彼女の心は、憎からず思つてゐる青年からの讃辞を聴いて、張り裂けるばかりの歓びで躍つてゐた。

 山の端を離れた月は、此の峡谷に添うてゐる道へも、その朗かな光を投げてゐた。美奈子はつい二三尺離れて、月光の中に匂うてゐる青年の白皙のおもてを見ることが出来た。青年の黒い眸が、時々自分の方へ向つて輝くのを見た。

 二人は、もう一時間前の二人ではなかつた。今まで、遠く離れてゐた二人の心は、今可なり強い速力で、相求め合つてゐるのは確かだつた。

 二人は、また黙つたまゝ、歩いた。が、前のやうな固くるしい沈黙ではなかつた。黙つてゐても心持だけは通つてゐた。

「もつと歩いても、大丈夫ですか。」

 木賀が過ぎて宮城野近くなつたとき、青年は再び沈黙を破つた。

「はい。」

 美奈子は、慎しく答へた。が、心の裡では、『何処までも〳〵』と云ふつもりであつたのだ。



 木賀から、宮城野まで、六七町の間、早川の谿谷に沿うた道を歩いてゐる裡に、二人は漸く打ち解けて、いろ〳〵な問を訊いたり訊かれたりした。

 美奈子の処女らしい無邪気な慎しやかさが、青年の心を可なり動かしたやうだつた。それと同時に青年の上品な素直な優しい態度が、美奈子の心に、深く〳〵喰ひ入つてしまつた。

 宮城野の橋まで来ると、谿は段々浅くなつてゐる。橋下の水には水車が懸つてゐて、しろがねの月光を砕きながら、コト〳〵と廻り続けてゐた。

 月は、もう可なり高くのぼつてゐた。水のやうに澄んだ光は、山や水や森や樹木を、しつとり濡してゐた。二人は、夏の夜の清浄しやうじやうな箱根に酔ひながら、可なり長い間橋の欄干に寄り添ひながら、佇んでゐた。

 美奈子の心の中には、青年に対する熱情が、刻一刻潮のやうに満ちわたつて来るのだつた。今までは、どんな男性に対しても感じたことのないやうな、信頼と愛慕との心が、胸一杯にヒシ〳〵とこみ上げて来るのだつた。

 話は、何時の間にか、美奈子の一身の上にも及んでゐた。美奈子は到頭、兄の悲しい状態まで話してしまつた。

「さう〳〵、そんな噂は、薄々聴いてゐましたが、おあにいさんがそんなぢや、貴女あなたには本当の肉親と云つたやうなものは、一人もないのと同じですね。」

 青年は悵然ちやうぜんとしてさう云つた。心の中の同情が、言葉の端々に溢れてゐた。さう云はれると、美奈子も、自分の寂しい孤独の身の上が顧みられて、涙ぐましくなる心持を、抑へることが出来なかつた。

「母が、本当によくして呉れますの。実の母のやうに、実の姉のやうに、本当によくして呉れますの。でも、やつぱり本当の兄か姉かが一人あれば、どんなに頼もしいか分らないと思ひますの。」

 美奈子は、つい誰にも云はなかつた本心を云つてしまつた。

「御尤もです」青年は可なり感動したやうに答へた。「僕なども、兄弟の愛などは、今までそんなに感じなかつたのですが、兄を不慮に失つてから、肉親と云ふものの尊さが、分つたやうに思ふのです。でも、貴女なんか……」さう云つて、青年は一寸云ひ淀んだが、

「今に御結婚でもなされば、今のやうな寂しさは、自然無くなるだらうと思ひます。」

「あら、あんなことを、結婚なんて、まだ考へて見たこともございませんわ。」

 美奈子は、恥かしさうに周章あわてて打ち消した。

「ぢや、当分御結婚はなさらない訳ですね。」

 青年は、何故だか執拗に再びさう訊いた。

「まだ、本当に考へて見たこともございませんの。」

 美奈子は、益々狼狽しながらも、ハツキリと口では、打ち消した。が、青年が何うしてさうした問題を繰り返して訊くのかと思ふと、彼女の顔は焼けるやうに熱くなつた。胸が何とも云へず、わくわくした。彼女は、相手が何うして自分の結婚をそんなに気にするのか分らなかつた。が、彼女がある原因を想像したとき、彼女の頭は狂ふやうに熱した。

 彼女は、熱にでも浮されたやうに、平生のつゝしみも忘れて云つた。

「結婚なんて申しましても、わたくしのやうなものと、わたくしのやうな、何の取りどころもないやうなものと。」

 彼女の声は、恥かしさに顫へてゐた。彼女の身体も恥かしさに顫へてゐた。



 美奈子の声は、恥かしさに打ち顫へてゐたけれども、青年は可なり落着いてゐた。余裕のある声だつた。

「貴女なんかが、そんな謙遜をなさつては困りますね。貴女のやうな方が結婚の資格がないとすれば、誰が、どんな女性が結婚の資格があるでせう。貴女ほど──さう貴女ほどの……」

 さう云ひかけて、青年は口を噤んでしまつた。が、口の中では、美奈子の慎ましさや美しさに対する讃美の言葉を、噛み潰したのに違ひなかつた。

 美奈子は、青年が此の次に、何を言ひ出すかと云ふ期待で、身体全体が焼けるやうであつた。心が波濤のやうに動揺した。小説で読んだ若い男女の恋の場ラヴ・シーンが、熱病患者の見る幻覚のやうに、頭の中に頻りに浮んで来た。

 が、美奈子のもしやと云ふ期待を裏切るやうに、青年は黙つてゐた。月の光に透いて見える白い頬が、やゝ興奮してゐるやうには見えるけれども、美奈子の半分も熱してゐないことは明かだつた。

 美奈子も裏切られたやうに、かすかな失望を感じながら、黙つてしまつた。

 沈黙が五分ばかりも続いた。

「もう、そろ〳〵帰りませうか。まるで秋のやうな冷気を感じますね。着物が、しつとりして来たやうな気がします。」

 青年は、さう言ひながら欄干を離れた。青年の態度は、平生の通りだつた。優しいけれども、冷静だつた。

 美奈子は夢から覚めたやうに、続いて欄干を離れた。自分だけが、興奮したことが、恥しくて堪らなかつた。自分の独合点ひとりがてんの興奮を、相手が気付かなかつたかと思ふと、恥しさで地の中へでも隠れたいやうな気がした。

 が、丁度二三町を帰りかけたときだつた。青年は思ひ出したやうに訊いた。

「お母様は何時まで、あゝして未亡人でいらつしやるのでせうか。」

 青年の問は、美奈子が何と答へてよいか分らないほど、唐突だしぬけだつた。彼女は、一寸こたへに窮した。

「いや、実はこんな噂があるのです。荘田夫人は、本当はまだ処女なのだ。そして、将来は屹度きつと再婚せられる。屹度再婚せられる。僕の死んだ兄などは、夫人の口から直接聴いたらしいのです。が、世間にはいろ〳〵な噂があるものですから、貴女にでも伺つて見れば本当の事が分りやしないかと思つたのです。」

わたくし、ちつとも存じませんわ。」

 美奈子はさう答へるより外はなかつた。

「こんなことを言つてゐる者もあるのです。夫人が結婚しないのは、荘田家の令嬢に対して母としての責任を尽したいからなのだ。だから、令嬢が結婚すれば、夫人も当然再婚せられるだらう。かう言つてゐる者もあるのです。」

 青年は、ホンの噂話のやうにさう言つた。が、青年の言葉を、噛しめてゐる中に、美奈子はかたはらの渓間へでも突落されたやうな烈しい打撃を感ぜずにはゐられなかつた。

 青年が、自分の結婚のことなどを、訊いた原因が、今ハツキリと分つた。自分の結婚などは、青年にはどうでもよかつたのだ。たゞ、自分が結婚した後に起る筈の、母の再婚を確めるために、自分の結婚を、口にしたのに過ぎないのだ。それとは知らずに、興奮した自分が、恥しくて恥しくて堪らなかつた。彼女の処女らしい興奮と羞恥とは、物の見事に裏切られてしまつたのだ。

 彼女は、照つてゐる月が、忽ち暗くなつてしまつたやうなおもひがした。青年と並んで歩くことが堪らなかつた。彼女の幸福の夢は、忽ちにして恐ろしい悪夢と変じてゐた。

 彼女はそれでも、砕かれた心をやつと纏めながら返事だけした。

わたくし、母のことはちつとも存じませんわ。」

 彼女の低い声には、綿々たるうらみが籠つてゐた。



夜の密語



 青年との散歩が、悲しい幻滅に終つてから、避暑地生活は、美奈子に取つて、喰はねばならぬ苦い苦いにらになつた。

 開きかけた蕾が、さうだ! 周囲の暖かさを信じて開きかけた蕾が、周囲から裏切られて思ひがけない寒気に逢つたやうに、傷つき易い少女の心は、深い〳〵傷を負つてしまつた。

 それでも、温和おとなしい彼女は、東京へ一人で帰るとは云はなかつた。自分ばかり、何の理由も示さずに、先きへ帰ることなどは、温和しい彼女には思ひも及ばないことだつた。

 彼女はとゞまつて、さうして忍ぶべく決心した。彼女の苦しい辛い境遇に堪へようと決心した。

 青年の心が、美奈子にハツキリと解つてからは、彼女は同じ部屋に住みながら、自分一人いつも片隅にかくれるやうな生活をした。

 青年と母とが、向ひ合つてゐるときなどは、彼女は、そつと席を外した。その人から、想はれてゐない以上、せめてその人の恋の邪魔になるまいと思ふ、美奈子の心は悲しかつた。

 さう気が付いて見ると、青年の母に対する眸が、日一日輝きを増して来るのが、美奈子にもありありと判つた。母の一顰一笑に、青年が欣んだり悲しんだりすることが、美奈子にもありありと判つた。

 が、それが判れば判るほど、美奈子は悲しかつた。寂しかつた。苦しかつた。

 一人の男に、二人の女、或は一人の女に、二人の男、恋愛に於ける三角関係の悲劇は、昔から今まで、数限りもなく、人生に演ぜられたかも判らない。が、瑠璃子と青年と美奈子との三人が作る三角関係では、美奈子だけが一番苦しかつた。可憐な優しい美奈子だけが苦しんでゐた。

「美奈さん! うかしたのぢやないの?」

 美奈子が、黙つたまゝ、露台バルコニーの欄干に、長く長く倚つてゐるときなど、母は心配さうに、やさしく訊ねた。が、そんなとき、

「いゝえ! どうもしないの。」

 寂しく笑ひながら答へる、小さい胸の内に、堪へられない、苦しみがあることは、明敏な瑠璃子にさへ判らなかつた。

 青年も、美奈子が、──一度あんなに彼に親しくした美奈子が、又掌をかへすやうに、急に再び疎々うと〳〵しくなつたことが、彼の責任であることに、彼も気が付いてゐなかつた。

 夕暮の楽しみにしてゐた散歩にも、もう美奈子は楽しんでは、行かなかつた。少くとも、青年は美奈子が同行することを、厭がつてはゐないまでも、決して欣んではゐないだらうと思ふと、彼女はいつも二の足を踏んだ。が、そんなとき、母はどうしても、美奈子一人残しては行かなかつた。彼女が二度も断ると母は屹度きつと云つた。

「ぢや、わたし達も行くのをしませうね。」

 さう云はれると、美奈子も不承々々に、承諾した。

「まあ! そんなに、おつしやるのなら参りますわ。」

 美奈子は口だけは機嫌よく云つて、重い〳〵鉛のやうな心を、持ちながら、母の後から、いて行くのだつた。

 が、ある晩、それは丁度箱根へ来てから、半月も経つた頃だが、美奈子の心は、何時になく滅入つてしまつてゐた。

 母が、どんなに云つても、美奈子は一緒に出る気にはならなかつた。その上、平素いつもは、青年も口先だけでは、母と一緒に勧めて呉れるのが、その晩に限つて、たつた一言も勧めて呉れなかつた。

わたくし、今夜はお友達に手紙を書かうと思つてゐますの。」

 美奈子は、到頭そんな口実を考へた。

「まあ! 手紙なんか、明日の朝書くといゝわ。ね、いらつしやい。二人だけぢやつまらないのですもの! ねえ、青木さん!」

 さう云はれて、青年は不服さうに肯いた。青年のさうした表情を見ると、美奈子は何うしても断らうと決心した。



「でも、わたくし、今晩だけは失礼させて、いたゞきますわ。一人でゆつくり、お手紙をかきたいと思ひますの。」

 美奈子が、可なり思ひ切つて、断るのを見ると、母はさまでとは、云ひ兼ねたらしかつた。

「ぢや、美奈さんを残して置きませうか。」

 母は青年に相談するやうに云つた。

 さう聴いた青年のおもてに、ある喜悦の表情が、浮んでゐるのが、美奈子は気が付かずにはゐられなかつた。その表情が、美奈子の心を、むごたらしく傷けてしまつた。

「ぢや、美奈さん! 一寸行つて来ますわ。寂しくない?」

 母は、平素いつものやうに、優しい母だつた。

「いゝえ、大丈夫ですわ。」

 口だけは、元気らしく答へたが、彼女の心には、口とは丸切り反対に、大きい大きい寂しさが、暗い翼を拡げて、一杯にわだかまつてゐたのだ。

 母と青年との姿が、廊下のはづれに消えたとき、ドアの所に立つて見送つてゐた美奈子は、自分の部屋へ駈け込むと、床に崩れるやうに、蹲まつて、安楽椅子の蒲団に顔を埋めたまゝ、暫らくは顔を上げなかつた。熱い〳〵涙が、止め度もなく流れた。自分けが、此世の中に、生き甲斐のないみじめな人間のやうに、思はれた。誰からも見捨てられたと云つたやうな寂しさが、心の隅々を掻き乱した。

 友達にでも、手紙を書けば、少しでも寂しさが紛らせるかと思つて、机の前に坐つて見たけれども纏つた文句は、一行だつて、ペンの先には、出て来なかつた。母と青年とが、いつもの散歩路を、寄り添ひながら、親しさうに歩いてゐる姿だけが、頭の中にこびり付いて離れなかつた。

 その中に、寂しさと、彼女自身には気が付いてゐなかつたが、人間の心に免れがたい嫉妬とが、彼女を立つても坐つても、ゐられないやうに、さいなみ初めてゐた。彼女は、高い山の頂きにでも立つて、思ふさま泣きたかつた。彼女は、到頭ぢつとしてはゐられないやうな、いら〳〵した気持になつてゐた。彼女は、フラ〳〵と自分の部屋を出た。的もなしに、戸外に出たかつた。暗い道を何処までも何処までも、歩いて行きたいやうな心持になつてゐた。が、母に対して、散歩に出ないと云つた以上、ホテルの外へ出ることは出来なかつた。彼女は、ふとホテルの裏庭へ、出て見ようと思つた。其処は可なり広い庭園で、昼ならば、遥に相模灘を見渡す美しい眺望を持つてゐた。

 美奈子が、廊下から、そつとその庭へ降り立つたとき、西洋人の夫妻が、腕を組合ひながら、芝生の小路を、逍遥してゐる外は、人影は更に見えなかつた。

 美奈子は、ホテルの部屋々々からの灯影ほかげで、明るく照し出された明るい方を避けて出来るだけ、庭の奥の闇の方へと進んでゐた。

 樹木の茂つた蔭にある椅子ベンチを、探し当てゝ、美奈子は腰を降した。

 部屋々々の窓から洩れる灯影も、こゝまでは届いて来なかつた。周囲は人里離れた山林のやうに、静かだつた。止宿してゐる西洋の婦人の手すさびらしい、ヴァイオリンの弾奏が、ほのかにほのかに聞えて来る外は、人声も聞えて来なかつた。

 闇の中に、たつた一人坐つてゐると、いらいらした、寂しみも、だん〳〵落着いて来るやうに思つた。殊にヴァイオリンのほのかな音が、彼女のきずついた胸を、撫でるやうに、かすかにかすかに聞えて来るのだつた。それに、耳を澄してゐる中に、彼女の心持は、だん〳〵和らいで行つた。

 母が帰らない中に、早く帰つてゐなければならぬと思ひながらも、美奈子は腰を上げかねた。三十分、四十分、一時間近くも、美奈子は、其処に坐り続けてゐた。その時、彼女は、ふと近づいて来る人の足音を聴いたのである。



 美奈子は、最初その足音をあまり気にかけなかつた。先刻ちらりと見た西洋人の夫妻たちが通り過ぎてゐるのだらうと思つた。

 が、その足音は不思議に、だん〳〵近づいて来た。二言三言、話声さへ聞えて来た。それはまさしく、外国語でなく日本語であつた。しかも、何だか聞きなれたやうな声だつた。彼女は『オヤ!』と思ひながら、振り返つて闇の中を透して見た。

 闇の中に、人影が動いた。一人でなく二人連だつた。二人とも、白い浴衣ゆかたを着てゐるために、闇の中でも、割合ハツキリと見えた。美奈子は、ぢつと二人が近よつて来るのを見詰めてゐた。十秒、二十秒、その裡にそれが何人なんぴとであるかが分ると、彼女は全身に、水を浴びせられたやうに、ゾツとなつた。それは、夜の目にも紛れなく青年と母の瑠璃子とであつたからである。而も、二人は、彼等が恋人同志であることを、明かに示すやうに、身体が触れ合はんばかりに、寄り添うて歩いてゐるのである。闇の中で、しかとは判らないが、母の左の手と、青年の右の手とが、堅く握り合せられてゐるやうに、美奈子には感ぜられた。

 美奈子は、恐ろしいものを見たやうに、身体がゾク〳〵と顫へた。彼女は、地が口を開いて、自分の身体を此のまゝ呑んで呉れゝばいゝとさへ思つた。悲鳴を揚げながら、逃げ出したいやうな気持だつた。が、身体を動かすと母達に気付かれはしないかと思ふと、彼女は、動くことさへ出来なかつた。彼女は、そのまゝ椅子に凍り付いたやうに、身体を小さくしながら、息を潜めて、母達が行き過ぎるのを待つてゐようと思つた。が、あゝそれが何と云ふ悪魔の悪戯いたづらだらう! 母達は、だん〳〵美奈子のゐる方へ歩み寄つて来るのであつた。彼女の心は当惑のために張り裂けるやうだつた。母と青年とが、し自分を見付けたらと思ふと、彼女の身体全体は、益々顫へ立つて来た。

 が、母と青年とは、闇の中の樹蔭の椅子ベンチに、美奈子がたつた一人蹲まつてゐようとは、夢にも思はないと見え、美奈子のゐる方へ、益々近づいて来た。美奈子は、絶体絶命だつた。母達が気の付かない内に、自分の方から声をかけようと思つたが、声が咽喉にからんでしまつて、何うしても出て来なかつた。が、美奈子の当惑が、最後の所まで行つた時だつた。今まで、美奈子の方へ真直に進んで来てゐた母達は、つと右の方へ外れたかと思ふと、其処に茂つてゐる樹木の向う側に、樹木を隔てゝ美奈子とは、背中合せの椅子ベンチに、腰を下してしまつた。

 美奈子は、苦しい境遇から、一歩を逃れてホツと一息した。が、また直ぐ、母と青年とが、話し初める会話を、何うしても立聞かねばならぬかと思ふと、彼女はまた新しい当惑に陥ちてゐた。彼女は母と青年とが、話し初めることを聞きたくなかつた。それは、彼女にとつて余りに恐ろしいことだつた。殊に、母と青年とが、ああまで寄り添うて歩いてゐるところを見ると、それが世間並の話でないことは、余りに判りすぎた。彼女は、自分の母の秘密を知りたくなかつた。今まで、信頼し愛してゐる母の秘密を知りたくなかつた。美奈子は、自分の眼が直ぐ盲になり、耳が直ぐ聾することを、どれほど望んでゐたか判らなかつた。若し、それが出来なければ、一目散に逃げたかつた。若し、それが出来なかつたら、両手で二つの耳を堅く〳〵掩うてゐたかつた。

 が、彼女がどんなに聴くことを、厭がつても、聞えて来るものは、聞えて来ずには、ゐなかつたのである。夜の静かなる闇には、彼等の話声を妨げる少しの物音もなかつたのである。



 夜はしづかだつた。母と青年との話声は、二間ばかり隔つてゐたけれども、手に取るごとく美奈子の耳──その話声を、毒のやうに嫌つてゐる美奈子の耳に、ハツキリと聞えて来た。

「稔さん! 一体何なの? 改まつて、話したいことがあるなんて、わたしをわざ〳〵こんな暗い処へ連れて来て?」

 さう言つてゐる母の言葉や、アクセントは、平生の母とは思へないほど、下卑てゐて娼婦か何かのやうになまめかしかつた。而も、美奈子のゐるところでは、一度も呼んだことのない青年の名を、馴々しく呼んでゐるのだつた。かうした母の言葉を聞いたとき、美奈子の心は、とゞめの一太刀を受けたと云つてもよかつた。今まで、あんなに信頼してゐた母にまで裏切られた寂しさと不快とが、彼女の心を滅茶々々に引き裂いた。

 瑠璃子に、さう言はれても、青年は却々なか〳〵話し出さうとはしなかつた。沈黙が、二三分間彼等の間に在つた。

 母は、もどかしげに青年を促した。

「早く、おつしやいよ! 何をそんなに考へていらつしやるの。早く帰らないといけませんわ。美奈子が、淋しがつてゐるのですもの。歩きながらでは、話せないなんて、一体どんな話なの! 早く言つて御覧なさい! まあ、自烈じれつたい人ですこと。」

 美奈子は、自分の名を呼ばれて、ヒヤリとした。それと同時に、母の言葉が、蓮葉はすはに乱暴なのを聴いて、益々心が暗くなつた。

 青年は、それでも却々話し出さうとはしなかつた。が、母の気持が可なり浮いてゐるのにも拘はらず、青年が一生懸命であることが、美奈子にも、それとなく感ぜられた。

「さあ! 早くおつしやいよ。一体何の話なの?」

 母は、子供をでも、すかすやうに、なまめいた口調で、三度催促した。

「ぢや、申上げますが、いつものやうに、はぐらかして下さつては困りますよ。僕は真面目で申しあげるのです。」

 青年の口調は、可なり重々しい口調だつた。一生懸命な態度が、美奈子にさへ、アリ〳〵と感ぜられた。

「まあ! 憎らしい。わたしが、何時貴君あなたを、はぐらかしたのです。厭な稔さんだこと。何時だつて、貴方あなたのおつしやることは、真面目で聴いてゐるではありませんか。」

 さう言つてゐる母の言葉に、娼婦のやうな技巧があることが、美奈子にも感ぜられた。

貴女あなたは、何時もさうなのです。貴女は、何時も僕にさうした態度しか見せて下さらないのです。僕が一生懸命に言ふことを、何時もそんな風にはぐらかしてしまふのです。」

 青年は、恨みがましくさう言つた。

「まあ、そんなに怒らなくつてもいゝわ。ぢや、わたし貴君の好きなやうに、聴いて上げるから言つて御覧なさい!」

 母は、子供を操るやうに言つた。

 母の態度は、心にもない立聞をしてゐる美奈子にさへ恥しかつた。

 青年は、また黙つてしまつた。

「さあ! 早くおつしやいよ。わたしこんなに待つてゐるのよ。」

 母が、青年の頬近く口を寄せて、促してゐる有様が、美奈子にも直ぐ感ぜられた。

「瑠璃子さん! 貴女には、僕の今申し上げようと思つてゐることが、大抵お解りになつてはゐませんか。」

 青年は、到頭必死な声でさう云つた。美奈子は、予期したものを、到頭聴いたやうに思ふと、今までの緊張が緩むのと同時に、暗い絶望の気持が、心の裡一杯になつた。それでも彼女は母が、一体どう答へるかと、ぢつと耳を澄してゐた。



 瑠璃子は青年をじらすやうに、落着いた言葉で云つた。

「解つてゐるかつて? 何がです。」

 ある空々しさが、美奈子にさへ感ぜられた。瑠璃子の言葉を聴くと、青年は、可なり激してしまつた。烈しい熱情が、彼の言葉を、顫はした。

「お解りになりませんか。お解りにならないと云ふのですか。僕の心持、僕の貴女に対する心持が、僕が貴女をこんなに慕つてゐる心持が。」

 青年は、もどかしげに、叫ぶやうに云ふのだつた。陰で聞いてゐる美奈子は、胸を発矢はつしと打たれたやうに思つた。青年の本当の心持ちが、自分が心ひそかに思つてゐた青年の心が、母の方へ向つてゐることを知ると、彼女は死刑囚が、その最後の判決を聴いた時のやうに、身体も心も、ブル〳〵顫へるのを、抑へることが出来なかつた。が、母が青年の言葉に何と答へるかが、彼女には、もつと大事なことだつた。彼女は、砕かれた胸を抑へて、母が何と云ひ出すかを、一心に耳を澄せてゐた。

 が、母は容易に返事をしなかつた。母が、返事をしない内に、青年の方がき立つてしまつた。

「お解りになりませんか。僕の心持が、お解りにならない筈はないと思ふのですが、僕がどんなに貴女を思つてゐるか。貴女のためには、何物をも犠牲にしようと思つてゐる僕の心持を。」

 青年は、必死に母に迫つてゐるらしかつた。顫へる声が、変に途切れて、傍聞わきぎきしてゐる美奈子までが、胸に迫るやうな声だつた。

 が、母は平素いつものやうに落着いた声で云つた。

「解つてゐますわ。」

 母の冷静な答に、青年が満足してゐないことは明かだつた。

「解つてゐます。さうです、貴女は何時でも、さう云はれるのです。僕が、何時か貴女に申上げたときにも、貴女は解つてゐると仰しやつたのです。が、貴女が解つてゐると仰しやるのと、解つてゐないと仰しやるのと、何処が違ふのです。恐らく、貴女は、貴女の周囲に集まつてゐる多くの男性に、皆一様に『解つてゐる』『解つてゐる』と仰しやつてゐるのではありませんか。『解つてゐる』程度のお返事なら、お返事していたゞかなくても、同じ事です。解つてゐるのなら、本当に解つてゐるやうに、していたゞきたいと思ふのです。」

 青年が、一句一語に、興奮して行く有様が、目を閉ぢて、ぢつと聴きすましてゐる美奈子にさへ、アリ〳〵と感ぜられた。

 が、母は、何と云ふ冷静さだらうと美奈子でさへ、青年の言葉を、陰で聴いてゐる美奈子でさへ、胸が裂けるやうな息苦しさを感じてゐるのに、面と向つて聴いてゐる当人の母は、息一つ弾ませてもゐないのだつた。青年が、興奮すればするほど、興奮して行く有様を、ぢつと楽しんででもゐるかのやうに、落着いてゐる母だつた。

「解つてゐるやうにするなんて? うすればいゝの?」

 言葉だけはなまめかしく馴々しかつた。

 母の取り済した言葉を、聴くと、青年は火のやうに激してしまつた。

「何うすればいゝの? なんて、そんなことを、貴女は僕にお聞きになるのですか。」青年は、恨めし気に云つた。「貴女は僕を、最初から、僕を玩具にしていらつしやるのですか。僕の感情を、最初から弄んでいらつしやるのですか。僕が折に触れ、事に臨んで、貴女に申上げたことを、貴女は何と聴いていらつしやるのです。」

 青年の若い熱情が──、恋の炎が、今烈々と迸つてゐるのであつた。



 青年が、段々激して来るのを、聴いてゐると、美奈子はもう此の上、隠れて聴いてゐるのが、堪らなかつた。

 彼女の小さい胸は、いろ〳〵な烈しい感情で、張り裂けるやうに一杯だつた。青年の心を知つたための大きい絶望もあつた。が、それと同時に、青年の烈しい恋に対する優しい同情もあつた。母の不誠意な、薄情な態度を悲しむ心も交つてゐた。どの一つの感情でも、彼女の心を底から覆へすのに十分だつた。

 その上、他人の秘密、他人ひとの一生懸命な秘密を、窃み聴きしてゐることが、一番彼女の心を苦しめた。彼女は、もう一刻も、坐つてゐることが出来なかつた。その椅子ベンチが針の蓆か、何かでもあるやうに、幾度も腰を上げようとした。が、距離は、わづかに二間位しかない。草を踏む音でも聞えるかも知れない。殊に樹木の蔭を離れると、如何なるはづみで母達の眼に触れるかも知れない。母達が、自分がゐたことに気が付いたときの、駭きと当惑とを思ふと、美奈子の立ち上らうとする足は、そのまゝすくんでしまふのだつた。

 美奈子が、退つ引きならぬ境遇に苦しんでゐることを、夢にも知らない瑠璃子は、前のやうに落着いた声でしづかに云つた。

「だから、解つてゐると云つてゐるのぢやないの。貴君のお心は、よく解つてゐると云つてゐるのぢやないの。」

 青年の声は、前よりももつと迫つてゐた。

「本当ですか。本当ですか。本心でさうおつしやつてゐるのですか。まさか、口先だけで云つていらつしやるのぢやありますまいね。」

 青年が、さう訊き詰めても母は、黙つてゐた。青年は、愈々焦つた。

「本心ならば、証拠を見せて下さい。貴女のお言葉けは、もう幾度聴いたか分らない。貴女は、それと同じやうな言葉を、僕に幾度繰返したか分らない。僕は言葉だけではなく、証拠を見せて貰ひたいのです。本心ならば、本心らしい証拠を見せていたゞきたいのです。」

 青年が、あせつても激しても、動かない母だつた。

「証拠なんて! わたくしの言葉を信じて下さらなければ、それまでよ。お女郎ぢやあるまいし、まさか、起請きしやうを書くわけにも行かないぢやないの。」

 母の貴婦人レディらしからぬ言葉遣ひが、美奈子の心を傷ましめた。

「証拠と云つて、品物を下さいと云ふのぢやありません。僕が、先日云つたことに、ハツキリと返事をしていたゞきたいのです。たゞ『待つてゐろ』ばかりぢや僕はもう堪らないのです。」

「先日云つたことつて、何?」

 母は、相手を益々じらすやうに、しかもなまめかしい口調で云つた。

「あれを、お忘れになつたのですか、貴女あなたは?」

 青年は憤然としたらしかつた。

「あんな重大なことを、僕があんなに一生懸命にお願ひしたのを、貴女はもう忘れて、いらつしやるのですか。ぢや、繰り返してもう一度、申上げませう。瑠璃子さん、貴女は僕と結婚して下さいませんか。」

 結婚と云ふ思ひがけない言葉を聴くと、美奈子は、最後の打撃を受けたやうに思つた。青年の母に対する決心が、これほど堅く進んでゐようとは夢にも思つてゐないことだつた。

「あのお話! あれには貴君あなた、ハツキリとお答へしてあるぢやないの。」

 母は、青年の必死な言葉を軽く受け流すやうに答へた。

「あのお答へには、もう満足出来なくなつたのです。」

 母のハツキリとした答へと云ふのは、どんな内容だらうと思ふと、美奈子は悪い〳〵と思ひながらぢつと耳を澄まさずにはゐられなかつた。



「あんなお答には、僕はもう満足出来なくなつたのです。あんな生ぬるいお答には、もう満足出来なくなつたのです。貴女あなたは、美奈子さんが、結婚してしまふまで、この返事は待つて呉れとおつしやる。が、貴女のお心だけをおめになるのなら、美奈子さんの結婚などは、何の関係もないことではありませんか。僕に約束をして下さつて、たゞ、時期を待てと仰しやるのなら僕は何時までも待ちます。五年でも十年でも、二十年でも、否生涯待ち続けても僕は悔いないつもりです。貴女あなたのはたゞ『返事を待て』とおつしやるのです、お返事だけならば、美奈子さんが結婚しようがしまいが、それとは少しも関係なしに、貴女のお心一つで、何うともおめになることが、出来ることぢやありませんか。僕に約束さへして下されば、僕は欣んで五年でも七年でも待つてゐる積りです。」

 青年の声は、だん〳〵低くなつて来た。が、その声に含まれてゐる熱情は、だん〳〵高くなつて行くらしかつた。しんみりとした調子の中に、人の心に触れる力が籠つてゐた。自分の名が、青年の口に上る度に、美奈子は胸をとゞろかせながら、息を潜めて聞いてゐた。

 母が何とも答へないので、青年は又言葉を続けた。

「返事を待て、返事を待つて呉れと、仰しやる。が、その返事がいゝ返事にまつてゐれば、五年七年でも待ちます。が、もし五年も七年も待つて、その返事が悪い返事だつたら、一体うなるのです。僕は青春の感情を、貴女に散々弄ばれて、揚句のはてに、突き離されることになるのぢやありませんか。貴女は、僕をちらとも付かない迷ひの裡に、釣つて置いて、何時までも何時まで、僕の感情を弄ばうとするのではありませんか。僕は、貴女のなさることから考へると、さう思ふより外はないのです。」

「まさか、わたしそんな悪人ではないわ。貴君あなたのお心は、十分お受けしてゐるのよ。でも、結婚となるとわたし考へるわ。一度あゝ云ふ恐ろしい結婚をしてゐるのでせう。わたし結婚となると、何か恐ろしい淵の前にでも立つてゐるやうで、足が竦んでしまふのです。無論、美奈子が結婚してしまへば、わたしの責任は無くなつてしまふのよ。結婚しようと思へば、出来ないことはないわ。が、その時になつて、本当に結婚したいと思ふか、したくないか、今のわたしには分らないのよ。」

 母は、初めて本心の一部を打ち明けたやうに云つた。

「が、それは貴女あなたの結婚に対するお考へです。僕が訊きたいと思ふのは、僕に対する貴女のお考へです。貴女が結婚するかしないかよりも、貴女が僕と結婚するかしないかが、僕には大問題なのです。言葉を換へて云へば、僕を、結婚してもいゝと思ふほど、愛してゐて下さるか何うかが、僕には大問題なのです。」

 青年の言葉は、一句々々一生懸命だつた。

「つまり、かう云ふことをお尋ねしたのです。貴女が、もし、将来結婚なさらないで終るのなら、是非もないことです。が、もし結婚なさるならば、何人なんぴとを措いても、僕と結婚して下さるかどうかを訊いてゐるのです。時期などは、何時でもいゝ、五年後でも、十年後でも、介意かまはないのです、たゞ、し貴女が結婚しようと決心なさつたときに、夫として僕を選んで下さるか何うかをお訊ねしてゐるのです。」

 青年の静かな言葉の裡には、彼の熾烈な恋が、火花を発してゐると云つてもよかつた。

 事理の徹つた退引のつぴきならぬ青年の問に、母が何と答へるか、美奈子は胸を顫はしながら待つてゐた。

 母は、暫らく返事をしなかつた。夜は、もう十時に近かつた。やゝ欠けた月が、箱根の山々に、青白い夢のやうな光を落してゐた。



約束の夜に



「そのお返事は、出来ないことはないと思ふのです。否か応か、どちらかの返事をして下さればいゝのです。貴女あなたが、今まで僕に示して下さつたいろ〳〵な愛の表情に、たゞ裏書をさへして下さればいゝのです。貴女の将来のお心を訊いてゐるのではないのです。現在の、貴女のお心を訊いてゐるのです。現在の、貴女自身のお心が、貴女に分らない筈はないと思ふのです。たゞ、現在の貴女のお心をハツキリお返事して下さればいゝのです。将来、結婚と云ふ問題が貴女のお考への裡に起つたときには、僕を夫として選ばうと現在思つてゐるかどうかを訊かしていたゞきたいのです。」

 青年の問には、ハツキリとした条理が立つてゐた。詭弁を弄しがちな瑠璃子にも、もう云ひ逃れる術は、ないやうに見えた。

わたし貴君あなたを愛してゐることは愛してゐるわ。わたしが、此間中から云つてゐることは、決して嘘ではないわ。が、貴君を愛してゐると云ふことは、必ずしも貴君と結婚したいと云ふことを意味してゐないわ。けれど、貴君に、結婚したいと云ふ希望が、本当におありになるのなら、わたしは又別に考へて見たいと思ふの。」

 瑠璃子の、少しも熱しない返事を訊くと、青年は又激してしまつた。

「考へて見るなんて、貴女のさう云ふお返事はもう沢山です。『考へて見る』『解つてゐる』さう云ふ一時逃れのお返事には、もうあき〳〵しました。僕は、全かしくは無を欲するのです。徹底的なお返事が欲しいのです。貴女が、若し『否』とおつしやれば、僕も男です。失恋の苦しみと男らしく戦つて、貴女に決して未練がましいことは云はないつもりです、僕は貴女に、承諾して呉れとは云はないのです。どちらでも、ハツキリとしたお返事が欲しいのです。こんな中途半端な気持のうちに、いつまでも苦しんでゐたくないのです。僕は、貴女の全部を掴みたいのです。でなければ僕はむしろ、貴女の全部を失ひたいのです、恋は暴君です、相手の占有を望んで止まないのです。」

 青年は、男らしく強くは云つてゐるものの、彼が瑠璃子に対して、どんなに微弱であるかは、その顫へてゐる語気で明かに分つた。

「一体考へて見るなんて、何時まで考へて御覧になるのです。五六年も考へて見るおつもりなのですか。」

 青年は、うらみがましくやゝ皮肉らしく、さう云つた。

「いゝえ。明後日まで。」

 瑠璃子の答は、一生懸命に突つ掛つて来た相手を、軽く外したやうな意地悪さと軽快さとを持つてゐた。

 青年は、手軽く外されたために、ムツとして黙つたらしかつたが、然し、答そのものは、手答があるので、彼は暫くしてから、口を開いた。

「明後日! 本当に明後日までですか。」

「嘘は云ひませんわ。」

 瑠璃子の返事は、殊勝だつた。

「ぢや、そのお返事は何時聴けるのです。」

 青年の言葉に、やつと嬉しさうな響きがあつた。

「明後日の晩ですわ。」

 瑠璃子の本心は知らず、言葉けにはある誠意があつた。

「明後日の晩、やつぱり二人切りで、散歩に出て下さいますか。貴女は、何時でも、美奈子さんをお誘ひになる。美奈子さんが、進まれない時でも、貴女は美奈子さんを、いろ〳〵勧めてお連れになる。僕がどんなに貴女と二人きりの時間を持ちたいと思つてゐる時でも、貴女は美奈子さんを無理にお勧めになるのですもの。」

 聴いてゐる美奈子は、もう立つ瀬がなかつた。彼女の頬には、涙がほろ〳〵と流れ出した。



 美奈子さんを連れ過ぎると、青年が母に対して恨んでゐるのを聴くと、もう美奈子は、一刻も辛抱が出来なかつた。口惜しさと、恨めしさと、絶望との涙が、止めどもなく頬を伝つて流れ落ちた。自分が、心ひそかにおもひを寄せてゐた青年から、邪魔物扱ひされてゐたことは、彼女の魂をにじつてしまふのに、十分だつた。もう一刻も、止まつてゐることは出来なかつた。逃げ出すために、母達に、見付けられようが、見付けられまいが、もうそんなことは問題ではなかつた。そんなことは、もう気にならないほど、彼女の心は狂つてゐた。彼女は、どんなことがあらうとも、もう一秒も止まつてゐることは出来なかつた。

 彼女は、それでも物音を立てないやうに、そつと椅子から、立ち上つた。立ち上つた刹那から、脚がわな〳〵と顫へた。一歩踏み出さうとすると、全身の血が、悉く逆流を初めたやうに、身体がフラ〳〵とした。倒れようとするのをやつと支へた。最後の力を、振ひ起した。わなゝく足を支へて、芝生の上を、しづかに〳〵踏み占め、椅子から、十間ばかり離れた。彼女は、そこまでは、這ふやうに、身体を沈ませながら辿つたが、其処に茂つてゐる、夜の目には何とも付かない若い樹木の疎林へまで、辿り付くと、もう最後の辛抱をし尽したやうに、疎林の中を縫ふやうに、母達のゐる位置を、遠廻りしながら、ホテルの建物の方へと足を早めた。否馳け始めた。恐ろしい悪夢から逃げるやうに。恐ろしい罪と恥とから逃げるやうに。彼女は、凡てを忘れて、若い牝鹿のやうに、逃げた。

 夢中に、庭園を馳けぬけ、夢中に階段を馳け上り、夢中に廊下を走つて、自分の寝室へ馳け込むと彼女は寝台へ身体を瓦破ぐわばと投げ付けたまゝ、泣き伏した。

 涙は、幾何いくら流れても尽きなかつた。悲しみは、幾何泣いても、薄らがなかつた。

 凡ては失はれた。凡ては、彼女の心から奪はれた。新しく得ようとした恋人と一緒に、古くから持つてゐたたゞ一人の母を。彼女の愛情生活の唯一の相手であつた母を。

 春の花園のやうに、光と愛と美しさとに、充ちてゐた美奈子の心は、此の嵐のために、吹き荒されて、跡には荒寥たる暗黒と悲哀の外は、何も残つてゐなかつた。

 恋人から、邪魔物扱ひされてゐることが、悲しかつた。が、それと同じに、母が──あれほど、自分には優しく、清浄しやうじやうである母が、男に対して、娼婦のやうに、なまめかしく、不誠実であることが、一番悲しかつた。自分の頼み切つた母が、夜そつと眼を覚して見ると、自分の傍には、ゐないで、有明の行燈を嘗めてゐるのを発見した古い怪譚の中の少女のやうに、美奈子の心は、あさましい駭きで一杯だつた。

 自分に、優しい母を考へると、彼女は母を恨むことは出来なかつた。が、あさましかつた。恥かしかつた。恨めしかつた。

 母と青年とから、逃れて来たものの、美奈子は本当に逃れてゐるのではなかつた。山中で、怪物に会つて、馳け込んだ家が、丁度怪物の棲家であるやうに、母と青年とから逃れて来ても、彼等に相つづいて、同じ此の部屋に帰つて来るのだつた。

 さう思ふと、いつそ美奈子は、此の部屋から逃げ出したかつた。遠く〳〵何人なんぴとにも見出されない、山の中へ入つて、此の悲しみを何時までも何時までも泣き明したかつた。いな、少くとも此夜けでも、母と青年との顔を見たくなかつた。母と青年とが、並んで帰つて来るのを見たくなかつた。いな、青年から邪魔物扱ひされてゐる以上、もう部屋に止まりたくなかつた。が、此の部屋を離れて、いな母を離れて、彼女は一人何処へ行くところがあらう。たゞ一人、縋り付く由縁よすがとした母を離れて何処いづこへ行くところがあらう。さう思ふと、美奈子の頭には、死んだ父母の面影が、アリ〳〵と浮んで来た。



 死んだ父母の面影が、浮んで来ると、美奈子は懐しさで、胸がピツタリと閉された。

 今の彼女の悲しみと、苦しみを、撫でさすつて呉れる者は、死んだ父母の外には、広い世の中に誰一人ないやうに思はれた。

 さう思ふと、亡き父が、あの強いかひなを差し伸べて、自分を招いてゐて呉れるやうに思はれた。その手は世の人々には、どんなに薄情に働いたかも知れないが、自分に対しては限りない慈愛が含まれてゐた。美奈子は、父の腕が、恋しかつた。父の、その強い腕に抱かれたかつた。さう思ふと、自分一人世の中に取り残されて、悲しく情ない目に会つてゐることが、味気あぢきなかつた。

 が、それよりも、彼女はこの部屋に止まつてゐて、母と青年とが、何知らぬ顔をして、帰つて来るのを迎へるのに堪へなかつた。何処でもいゝ、山でもいゝ、海でもいゝ、母と青年とのゐないところへ逃れたかつた。彼女は、泣き伏してゐた顔を、上げた。フラ〳〵と寝台を離れた。浴衣ゆかたを脱いで、明石縮の単衣ひとへに換へた。手提を取り上げた。彼女の小さい心は、今狂つてゐた。もう何の思慮も、分別も残つてゐなかつた。たゞ、突き詰めた一途な少女心をとめごゝろが、張り切つてゐただけである。

 彼女が、着物を着換へてしまふ間、さひはひに母と青年とは帰つて来なかつた。

 彼女は、部屋を馳け出さうとしたとき、咄嗟に兄のことを考へた。兄は、白痴の身を、監禁同様に葉山の別荘に閉ぢ込められてゐる。が、他の世間の人々に対しては、愚かなあさましい兄であるが、その愚かさの裡にも、肉親に対する愛だけは、残つてゐる。彼女は、彼女が時々兄を訪ふときに、兄がどんなに嬉しさうな表情をするかを、覚えてゐる。縦令たとひ、自分の現在の苦しみや、悲しみを理解し得る兄ではないにしろ、兄の愚かな、然しながら純な態度は、屹度きつと自分を慰めて呉れるにちがひない。少くとも、あの愚かな兄だけは、何時行つても屹度、自分に、あの人のよい、愚かしいが然し浄い親愛の情を表して呉れるにちがひない。さう思ふと、美奈子は急に、兄に会ひたくなつた。夜は十時に近かつたがまだ湯本行の電車はあるやうに思つた。もし、横須賀行の汽車に間に合はなかつたら、国府津か小田原かで、一泊してもいゝとさへ思つた。

 部屋のドアを、そつと開けて、彼女は廊下をうかがつた。西洋人の少年少女が二人連れ立つて、自分の部屋へ、帰つて行くらしいのを除いた外には人影はなかつた。

 彼女は、廊下を左へ取つた。その廊下を突き当つて左へ降りると、ホテルの玄関を通らないで、広場へ出ることを知つてゐた。

 彼女は、廊下を馳け過ぎた。階段を、一気に馳け降りた。そして、階段の突き当りにある、ドアを押し開いて、夜の戸外へ、走り出ようとした。

 が、そのドアを押し開いた刹那であつた。

「おや!」戸外に、叫ぶ声がした。戸外からも、ドアを開けようとした人が、思はず内部から開いたので、おどろいて発した声だつた。美奈子は、直ぐ、さう叫んだ人と、顔を面して立たなければならなかつた。それは、まさしく母だつた。母の後に、寄り添ふやうに立つてゐるのは、もとより彼の青年だつた。

「美奈さんぢやないの!」

 母は、可なり駭いてゐた。狼狽してゐたと云つてもよかつた。美奈子は、全身の血が、凍つてしまつたやうに、ぢつと身体を縮ませながら、立つてゐた。

「何うしたの? こんなに遅く?」

 青年との会話には、あんな冷静を保つてゐた母が、別人ではないかと思ふほど、色を変へてゐた。

 美奈子が、黙つてゐると、母は益々気遣はしげに云つた。

「一体うしたの。こんなに遅く、着物を着換へて、手提なんか持つて。」



 母に問ひ詰められて、美奈子は、漸くその重い唇を開いた。

「あの、手紙を出しに、郵便局まで行かうと思つてゐましたの。」

 彼女は、生れて最初の嘘を、ついてしまつた。彼女の、蒼い顫ひを帯びた顔色を見れば、誰が彼女が郵便局へ行くことを、信ずることが出来よう。

「郵便局!」瑠璃子は、反射的にさう繰返したが、その美しい眉は、深い憂慮のために、暗くなつてしまつた。「こんなに遅く郵便局へ!」

 瑠璃子は、呟くやうに云つた。が、それは美奈子を咎めてゐると云ふよりも、自分自身を咎めてゐるやうな声だつた。

 母子おやこの間に、暫らくは沈黙が在つた。美奈子は、屠所に引かれた羊のやうに、たゞ黙つて立つてゐる外は、何うすることも出来なかつた。

「郵便局! 郵便局なら、僕が行つて来て上げませう。」

 母の後に立つてゐた青年は、此の沈黙を救はうとしてさう云つた。

 美奈子は、一寸狼狽した。託すべき手紙などは持つてゐなかつたからである。

「いゝえ。結構でございますの。」

 美奈子は、平素いつもに似ず、きつぱりと答へた。その拒絶には、彼女の、芽にして、蹂み躙られた恋の千万無量の恨が、籠つてゐたと云つてもよかつた。

 聡明な瑠璃子には、美奈子の心持が、可なり判つたらしかつた。彼女は、涙がにじんではゐぬかと思はれるほどの、やさしい眸で、美奈子を、ぢつと見詰めながら云つた。

「ねえ! 美奈さん。今晩は、よして呉れない。もう十時ですもの、あした早く入れに行くといゝわ。ねえ美奈さん! いゝでせう。」

 彼女は、美奈子を抱きしめるやうに、掩ひながら、耳許近く、子供でもすかすやうに云つた。

 平素いつもなら、母の一言半句にも背かない美奈子であるが、その夜の彼女の心は、妙にこじれてゐた。彼女は、黙つて返事をしなかつた。

「何うしても、行くのなら、わたしも一緒に行くわ。青木さんは、部屋で待つてゐて下さいね。ねえ! 美奈さん、それでいいでせう。」

 さう云ひながら、瑠璃子は早くも、先に立つて歩まうとした。

 美奈子は、一寸進退に窮した。母と一緒に郵便局へ行つても、出すべき手紙がなかつた。それかと云つて、今まで黙つてゐながら、今更行くことをよすとも、言ひ出しかねた。

 その裡に、青年は此の場を避けることが、彼にとつて、一番適当なことだと思つたのだらう。何の挨拶もしないで、建物の中へ入ると、階段を勢よく馳け上つてしまつた。

 母一人になると、美奈子の張り詰めてゐた心は、弛んでしまつて、新しい涙が、頬を伝ひ出したかと思ふと、どんなに止めようとしても止まらなかつた。到頭、しく〳〵と声を立てゝしまつた。

 美奈子が泣き始めるのを見ると、瑠璃子は、心からおどろいたらしかつた。美奈子の身体を抱へながら叫ぶやうに云つた。

「美奈さん! 何うしたの、一体何うしたの。何が悲しいの。貴女一人残して置いて済まなかつたわ。御免なさいね、御免なさいね。」

 青年に対しては、あれほど冷静であつた母が、本当に二十前後の若い女に帰つたやうに、狼狽うろたへてゐるのであつた。

「貴女、泣いたりなんかしたら、厭ですわ。今迄貴女の泣き顔は、一度だつて、見たことがないのですもの。わたし、貴女の泣き顔を見るのが、何よりも辛いわ。一体何うしたの。わたしが、悪かつたのなら、どんなにでもあやまるわ。ねえ、後生だから、訳を云つて下さいね。」

 さう云つてゐる母の声に、烈しい愛と熱情とが、籠つてゐることを、疑ふことは出来なかつた。



 その夜は、美奈子も強ひて争ひかねて、重い足を返しながら、部屋へ帰つて来た。

 翌日になると、夜が明けるのを待ち兼ねてゐたやうに、美奈子は母に云つた。

「お母様、わたし葉山へ行つて来ようかと思つてゐるの。兄さんにも、随分会はないから、どんな容子だか、わたし見て来たいと思ふの。」

 が、母は許さなかつた。美奈子の容子が、何となく気にかゝつてゐるらしかつた。

「もう二三日してから行つて下さいね。それだと、わたしも一緒に行くかも知れないわ。箱根もわたし何だか飽き〳〵して来たから。」

 その日一杯、平素は快活な瑠璃子は、妙に沈んでしまつてゐた。青年には、口一つ利かなかつた。美奈子にも、用事の外は、殆ど口を利かなかつた。たゞ一人、縁側ヴェランダにある籐椅子に、腰を降しながら、一時間も二時間も、石のやうに黙つてゐた。

 瑠璃子の態度が、直ぐ青年に反射してゐた。瑠璃子から、口一つ利かれない青年は、所在なささうに、主人から嫌はれた犬のやうに、部屋の中をウロ〳〵歩いてゐた。彼のオド〳〵した眼は、燃ゆるやうな熱を帯びながら、瑠璃子の上に、注がれてゐた。美奈子は、青年の容子に、抑へ切れぬ嫉妬を感じながらも、然し何となく気の毒であつた。犬のやうに、母を追うてゐる、母の一挙一動に悲しんだり欣んだりする青年の容子が、気の毒であつた。

 その日は、事もなく暮れた。平素いつものやうに、夕方の散歩にも行かなかつた。食堂から帰つて来ると三人は気まづく三十分ばかり向ひ合つてゐた後に、銘々自分の寝室に、まだ九時にもならない内に、退いてしまつた。

 翌る日が来ても、瑠璃子の容子は前日と少しも変らなかつた。美奈子には、時々優しい言葉をかけたけれども、青年には一言も言はなかつた。青年の顔に、絶望の色が、段々濃くなつて行つた。彼の眼は、恨めしげに光り初めた。

 到頭、夜が来た。瑠璃子と青年との間に、交された約束の夜が来た。

 美奈子は、夜が近づくに従つて、青年が自分の存在を、どんなに呪つてゐるかも知れないと思ふと部屋にゐることが、何うにも苦痛になつて来た。

 晩餐の食堂から、帰るときに、美奈子は、そつと母達から離れて、自分一人ホテルの図書室へでも行かうと思つた。さうすれば、青年は彼の希望通り、母とたつた二人りで、散歩に行くことが出来るだらう。母も、自分に何の気兼なしに青年とたつた二人、散歩に出ることが出来るだらう。

 美奈子は、さう思ひながら、そつと母達から離れる機会を待つてゐた。が、母は故意にやつてゐると思はれるほど、美奈子から眼を離さなかつた。美奈子は、仕方なしに、一緒に部屋へ帰つて来た。

 部屋に帰つてから、暫くの間、瑠璃子は黙つてゐた。五分十分経つに連れて、青年がぢりぢりし初めたことが、美奈子の眼にも、ハツキリと判つた。而も、青年がいら〳〵してゐることが、自分がゐるためであると思ふと、美奈子はうにも、辛抱が出来なかつた。自分が、青年の大事な大事な機会の邪魔をしてゐると思ふと、美奈子は何うにも、辛抱が出来なかつた。

わたくし、お母様、図書室へ行つて来ますわ。一寸本が読みたくなりましたから。」

 美奈子は、さう云つて、母の返事をも待たず、つか〳〵と部屋を出ようとした。

 母は、駭いたやうに呼び止めた。

「図書室へ行くのなんかおよしなさいね。昨夕ゆうべは出なかつたから、今日は散歩に出ようぢやありませんか。」

 美奈子は、一寸駭いて足を止めた。ふと気が付くと、青年の顔は烈しい怒りのために、黒くなつてゐた。



 美奈子は、母の真意を測りかねた。

 母も、たしかに青年とたつた二人きり、散歩する約束をした筈である。そして、あの大切な返事を青年に与へる約束をした筈である。それだのに、なぜ自分を呼び止めるのであらう。さうした機会を、彼等に与へようとして、席を外さうとする、自分を呼び止めるとは。

「えゝつ!」美奈子は、つい返事とも、駭きとも何とも付かぬ言葉を出してしまつた。

「ねえ! 図書室なんか、明日いらつしやればいゝのに。今夜は強羅公園へ行かうと思ふの。ねえ! いゝでせう。」

 母はいつもよりも、もつと熱心に美奈子に勧めた。

「でも。」

 美奈子は、躊躇した。彼女は、さうためらひながらも、青年の顔を見ずにはゐられなかつたのである。彼は、部屋の一隅の籐椅子に腰を下してゐたが、その白い顔は、烈しい憤怒のために、充血してゐた。彼は、爛々たる眸を、恨めしげに母の上に投げてゐたのである。美奈子は、さうした青年の容子を見ることが、心苦しかつた。彼女は、青年のために、心の動顛してゐる青年のためにも、母の勧めに、おいそれと従ふことは出来なかつた。

「いゝぢやありませんの。図書室なんか、今晩に限つたことはないのでせう。ねえ! いらつしやい。わたしお願ひしますから。」

 母は、余儀ないやうに云つた。さう云はれゝば、美奈子は、同行を強ひて断るほどの口実は何もなかつた。たゞ彼女には、自分を極力同行せしめようとする母の真意が、何うしても分らなかつた。

「ねえ! 青木さん! 美奈さんと、三人でなければ面白くありませんわねえ。二人きりぢや淋しいし張合がありませんわねえ!」

 母は、青年に同意を求めた。

 何もかも知つてゐる美奈子は、母のやり方が、恐ろしかつた。青年が、嫌ひだと云ふものを、グングン咽喉に押し込むやうな、母の意地の悪い逆な態度が、恐ろしかつた。美奈子は、ハラハラした。青年が、母の言葉を、何う取るかと思ふと、ハラ〳〵せずにはゐられなかつた。青年は、果してカツとなつたらしかつた。それかと云つて、美奈子の前では、何の抗議を云ふことも出来ないらしかつた。

「僕! 僕! 僕は、今日は散歩に行きたくありません。失礼します、失礼します。」

 それが、青年の精一杯の反抗であつた。青年の顔は、今蒼白に変じ、彼の言葉は、激昂のために、顫へた。

「何故?」瑠璃子は詰問するやうに云つた。

「何故いらつしやらない。だつて、貴君は先刻さつき食堂で、今夜は強羅まで行かうと仰しやつたのぢやないの。今になつて、よさうなんて、それぢや故意に、わたし達の感情を害しようとなさつてゐるのだわ。」

 青年は、唇をブル〳〵顫はした。が、美奈子の前では、彼は一言も、本当の抗議は云へなかつた。

『貴女は約束と違ふぢやありませんか。なぜ、美奈子さんをお連れになるのです。』それが、青年の心に、沸々ふつ〳〵と湧き立つてゐる云ひ分であつた。が、それを、何うして美奈子の前で口にすることが出来るだらう。

 青年の、籐椅子の腕に置いてゐる手が、わなわな顫へるのに、美奈子は、先刻から気が付いてゐた。

 母の皮肉な逆な態度が、どんなに青年の心を虐げてゐるかが、美奈子にもよく判つた。美奈子は、もう一度、青年を救つてやりたいと思つた。

わたくしやつぱり、図書室へ参りますわ。今日急に、お関所の歴史が知りたくなりましたの。」



「お関所の歴史なんか、今夜ぢやなくてもいゝぢやないの。」

 瑠璃子は、美奈子が、再度図書室へ行かうと云ふのを聴くと、少しじれたやうに、さう云つた。

「何うしてわたしと一緒に行くのが、お嫌ひなの。美奈さんも、青木さんも、今夜に限つて何うしてそんなに煮え切らないの。」

 瑠璃子は、青年の火のやうな憤怒も、美奈子の苦衷も、何も分らないやうに、平然と云つた。

「ねえ! 美奈さん、お願ひだから行つて下さいね。貴女が、行きたがらないものだから、青木さんまでが、出渋るのですわ。ねえ! さうでせう、青木さん!」

 弱い兎を、苛責いぢめる牝豹か何かのやうに、瑠璃子は何処までも、皮肉に逆に逆に出るのであつた。美奈子は、青年の顔を見るのに堪へなかつた。青年がどんなに怒つてゐるか、また美奈子がゐるために、そのいかりを少しも洩すことが出来ない苦しさを察すると、美奈子は気の毒で、顔を背けずにはゐられなかつた。

 瑠璃子には、青年の憤怒などは、眼中にないやうだつた。それでも、暫くしてから、青年をなだめるやうに云つた。

「さあ! 三人で機嫌よく行かうぢやありませんか。ねえ! 青木さん。何をそんなに、気にかけていらつしやるの。」

 さう、可なり優しく云つてから、彼女は意味ありげに附け加へた。

わたし此間中から、考へてゐることがあつて、くさ〳〵してしまつたの。散歩でもして、気を晴らしてから、もつとよく考へて見たいと思ふの。」

 それは、暗に青年に対する云ひ訳のやうであつた。まだ、十分に考へが纏つてゐないこと、従つて今夜の返事を待つて呉れと云ふ意味が、言外に含まれてゐるやうだつた。

 それを聴くと、青年の怒りは幾分、解けたらしかつた。彼は不承々々に椅子から、腰を離した。

 美奈子も、やつと安心した。やつぱり、母は、真面目に、此二三日口も利かずに、青年の申出を、考へたに違ひない。それが、到頭纏りが付かないために、返事の延期を、青年にそれとなく求めたに違ひない。それを、青年が不承々々ではあるが、承諾した以上、今夜の約束を延ばされたのだ。さう思ふと、自分が母達に同伴することが、必ずしも青年の恋の機会の邪魔をすることではないと思ふと彼女は漸く同伴する気になつた。

 三人は、それ〴〵に、いつもよりは、少しく身拵みごしらへを丁寧にした。

「往きと帰りは、電車にしませうね。歩くと大変だから。」

 瑠璃子は、さう云ひながら、一番に部屋を出た。青年も美奈子も、黙つてそれに続いた。

 三人が、ホテルの玄関に出て、ボーイに送られながら、その階段を降りようとしたときだつた。暮れなやむ夏の夕暮のまだほの明るいやみを、煌々たる頭光ヘッドライトで、照し分けながら、一台の自動車が、烈しい勢で駈け込んで来た。

 美奈子は、塔の沢か湯本あたりから、上つて来た外人客であらうと思つたので、あまり注意もしなかつた。

 が、美奈子と一緒に歩いてゐた母は、自動車の中から、立ち現はれた人を見ると、急に立ち竦んだやうに目をみはつた。いつもは、冷然と澄してゐる母の態度に、明かな狼狽が見えてゐた。夕暗の中ではあつたが、美しい眼が、異様に光つてゐるのが、美奈子にも気が付いた。

 美奈子も、駭いて相手を見た。母をこんなに駭かせる相手は、一体何だらうかと思ひながら。



一条の光



 相手は、まだ三十になるかならない紳士だつた。金縁の眼鏡が、その色白のおもてに光つてゐた。純白な背広が、可なりよく似合つてゐた。彼は一人ではなかつた。直ぐその後から、丸顔の可愛い二十はたちばかりの夫人らしい女が、自動車から降りた。

 美奈子は、夫婦とも全然見覚えがなかつた。

 瑠璃子が、相手の顔を見ると、ハツと駭いたやうに、紳士も瑠璃子の顔を見ると、ハツと顔色を変へながら、立竦んでしまつた。

 紳士と瑠璃子とは、互に敵意のある眼付を交しながら、十秒二十秒三十秒ばかり、相対して立つてゐた。それでも、紳士の方は、挨拶しようかしまいかと、一寸躊躇ためらつてゐるらしかつたが、瑠璃子が黙つて顔を背けてしまふと、それに対抗するやうに、また黙つて顔を背けてしまつた。

 が、瑠璃子から顔を背けた相手は、彼女の右に立つてゐる青年の顔を見ずにはゐなかつた。青年の顔を見たときに、紳士の顔は、前よりも、もつと動揺した。彼の駭きは、前よりも、もつと烈しかつた。彼は、声こそ出さなかつたが、殆んど叫び出しでもするやうな表情をした。

 彼は、狼狽あわてたやうに瑠璃子の顔を見直した。再び青年の顔を見た。そして、青年の顔と瑠璃子の顔とを見比べると、何か汚らはしいものをでも見たやうな表情をしながら、妻を促して、足早に階段を上つてしまつた。

 美奈子は、何だかその不知人ストレンジャーが、気になつたが、母に訊くことが、悪いやうに思つて、何うしても口に出せなかつた。すると、ホテルの門を出た頃に、先刻から黙つてゐた青年が初めて瑠璃子に口を利いた。

「一体今の人は誰です。御存じぢやありませんか。」

「いゝえ! ちつとも、心当りのない方ですわ。でも、可笑しな人ですわね。わたし達を、ぢつと見詰めたりなんかして。」

 瑠璃子は、何気なく云つたらしかつた。が、声が平素いつものやうに、澄んだ自信の充ち満ちた声ではなかつた。

「さうですか、御存じないのですか。でも、先方は、僕達のことをよく知つてゐるやうですねえ。」

 青年は、不審いぶかしげにさう云つた。が、瑠璃子は、聞えないやうに返事をしなかつた。

 三人は、底気味の悪い沈黙を、お互の間にかもしながら、宮の下の停留場から、強羅行の電車に乗つた。

 が、電車に乗つても、三人は散歩に行くと云つたやうな気持は少しもなかつた。美奈子は、人身御供にでもなつたやうな心持で、たゞ母の意志に従つてゐると云ふのに過ぎなかつた。

 青年は、無論最初から滅入つてゐた。大事な返事を体よく延ばされたことが、彼にとつては、何よりの打撃であつたのだ。彼が楽しんでゐる筈はなかつた。

 瑠璃子も、最初は二人を促して、散歩に出たのであつたが、玄関で紳士に逢つてからは、隠し切れぬ暗い翳が、彼女の美しい顔の何処かに潜んでゐるやうだつた。

 夜の箱根の緑のやみを、明るい頭光ヘッドライトを照しながら、電車は静かな山腹の空気をふるはして、轟々と走りつゞけたかと思ふと直ぐ終点の強羅に着いてゐた。

 電車を去つてから、可なり勾配の急な坂を二三町上ると、もう強羅公園の表門に来た。

 電車が、強羅まで開通してからは、急に別荘の数が増し、今年の避暑客は可なり多いらしかつた。

 公園の表門の突き当りにある西洋料理店レストランの窓から、明るい光が洩れ、玉を突いてゐるらしい避暑客の高笑ひが、絶え間なく聞えてゐた。

 夜の公園にも、涼を求めてゐるらしい人影が、彼方かなたにも此方こなたにもチラホラ見えた。



 三人は、西洋料理店レストランの左から、コンクリートで堅めた水泳場のかたはらを通つて、段々上の方に登つて行つた。

 公園は、山の傾斜に作られた洋風の庭園であつた。箱根の山の大自然の中に、こゝばかり一寸人間が細工をしたと云つたやうな、こましやくれた、しかし、厭味のない小公園だつた。

 園の中央には、山上から引いたらしい水が、噴水となつて迸つて、肌寒いほどの涼味を放つてゐた。

 三人は、黙つたまゝ園内を、彼方此方あちらこちらと歩いた。誰も口を利かなかつた。皆が、舌を封ぜられたかのやうに、黙々としてたゞ歩き廻つてゐた。

 三人が、少し歩き疲れて、片陰の大きい楢の樹の下の自然石の上に、腰を降した時だつた。先刻から一言も、口を利かなかつた瑠璃子が、突然青年に向つて話し出した。しかも可なり真剣な声で。

「青木さん! 此間のお話ね。」

 青年は、瑠璃子が何を云つてゐるのか、丸切まるきり見当が付かないらしかつた。

「えつ! えつ!」彼は可なり狼狽したやうに焦つてゐた。

「此間のお話ね。」

 瑠璃子は、再びさう繰り返した。彼女の言葉には、鋼鉄のやうな冷たさと堅さがあつた。

「此間の話?」

 青年は、如何にも腑に落ちないと云つたやうに、首を傾げた。

 丁度その時、美奈子は母と青年との真中に坐つてゐた。自分を、中央にして、自分を隔てゝ母と青年とが、何だかわだかまりのある話をし始めたので、彼女は可なり当惑した。が、彼女にも母が、一体何を話し出すのか皆目見当が付かなかつた。

「お忘れになつたの。先夜のお話ですよ。」

 瑠璃子の声は、冗談などを少しも意味してゐないやうな真面目だつた。

「先夜つて、何時のことです。」青年の声が、だん〳〵緊張した。

「お忘れになつたの? 一昨日をとゝひの晩のことですよ。」

 青年が色を変へて駭いたことが、美奈子にもハツキリと感ぜられた。美奈子でさへ、あまりの駭きのために、胸が潰れてしまつた。母は、果して一昨日の夜のことを、美奈子の前で話さうとしてゐるのかしら、さう思つただけで、美奈子の心はをのゝいた。

「一昨日の晩!」青年の声は、必死であつた。彼は一生懸命の努力で続けて云つた。

「一昨日の晩? 何か特別に貴女あなたとお話をしたでせうか。」

 必死に、逃路にげみちを求めてゐるやうな青年の様子が、可なり悲惨だつた。美奈子は、他人事ならず、胸が張り裂けるばかりに、母が何と云ひ出すかと待つてゐた。

「お忘れになつたの。」

 瑠璃子は、しづかに冷たく云つた。冗談を云つてゐるのでもなければ、揶揄からかつてゐるのでもなければ、じらしてゐるのでもなかつた。彼女も、今夜は別人のやうに真面目であつた。

「忘れる? 一昨日の晩!」青年は首を傾げる様子をした。が、彼の態度は如何にも苦しさうであつた。「僕には、ちつとも解りません。一昨日の晩、僕が何か申上げたでせうか。」

 青年の声は、わな〳〵と顫へた。彼はその言葉を、瑠璃子に投げ付けるやうに云つた。

 が、その投げ付けたつもりの言葉の裡に、みじめな哀願の調子が、アリ〳〵と響いてゐた。

 青年の哀願の調子を跳ね付けるやうに、瑠璃子の言葉は、冷たく無情だつた。

「一昨日の晩のお話のお返事を、わたし今夜致さうと思ひますの。」

 風が、少し出たせゐだらう、冷たい噴水の飛沫が三人の上に降りかゝつて来た。



 瑠璃子の言葉は、これから判決文を読み上げようとする裁判長の言葉のやうに、峻厳であつた。

 青年は瑠璃子の言葉を聴くと、もう黙つてはゐられなかつた。『抜く抜く』と云ふ冗談が、本当の白刃になつたやうに、彼はもうそれを真正面から受止める外はなかつた。

「奥さん、貴女あなたは何を仰しやるのです。貴女は、お約束をお忘れになつたのですか。あれほど僕がお願ひしたお約束をお忘れになつたのですか。」

 美奈子が、真中にゐることも、もうスツカリ忘れたやうに、青年は我を忘れて激昂した。興奮に湧き立つた温かい呼吸いきが、美奈子の冷い頬に、吐き付けられた。

「お約束? お約束を忘れないからこそ、今夜お返事すると云つてゐるのぢやありませんか。」

「何! 何! 何と仰しやるのです。」

 青年はスツクと立ち上つた。もう美奈子を隔てゝ、話をするほどの余裕もなくなつたのであらう、彼は、烈しく瑠璃子の前に詰めよつた。

 美奈子は、浅ましい恐ろしい物を見たやうに、おもてを伏せてしまつた。

「奥さん! 貴女あなたは、貴女は何を仰しやるのです。僕! 僕! 僕が、一昨夜申上げたこと、あのお返事を今、なさらうとするのですか。あの、あのお返事を!」

 激しい興奮のために、彼の身体は顫へ、彼の声は裂け、彼の言葉は咽喉にからんで、容易には出て来なかつた。

「まあ! お坐りなさい! さう、貴君あなたのやうに興奮なさつては、話が、ちつとも分らなくなりますわ。まあ! 坐つてお話しなさいませ。わたし、今夜はよくお話したいと思ひますから。」

 瑠璃子の態度は、水の如く冷たく澄んでゐた。たしなめられて、青年は不承々々に元の席に復したが、彼の興奮は容易には去らない。彼は火のやうに、熱い息を吐いてゐた。

「坐ります。坐ります。が、あのお話を、今こゝでなさるなんて、あんまりではありませんか。あれは、僕だけの私事です。私事的プライヴェートな事です。それを今茲でお話しになるなんて、あんまりではありませんか。あの晩、僕が何と申上げたのです。あの晩申上げた事を、貴女は覚えてゐて下さらないのですか。」

 青年は、美奈子が聴いてゐることなどは、もう介意かまつてゐられないやうに、熱狂して来た。

 美奈子は、真中でぢつと聴いてゐるのに堪へられなくなつて来た。彼女は、勇気を鼓舞しながら、口を開いた。

「あのう、お母様! わたくしは一寸失礼させていたゞきたいと思ひますわ。お話が、お済みになつた頃に帰つて参りますから。」

 美奈子は、皮肉でなく真面目にさう云はずにはゐられなかつた。

 溺れる者は、藁をでも掴むやうに、青年はもう夢中だつた。

「さうです。奥さん! もし貴女あなたが、あの晩の話のお返事をして下さるのなら、失礼ですが、美奈子さんに、一寸失礼させていたゞきたいのです。あれは、僕の私事です。あのお返事なら、僕一人の時に承はりたいのです。」

 興奮した青年に、水を浴せるやうに、瑠璃子は云つた。

「いゝえ! わたし、美奈さんにも、是非とも聴いていたゞきたいのですわ。一昨夜も、あんなお話なら美奈さんに立ち合つていたゞきたいと思つたのです。あんなお話は、二人切りで、すべきものではないと思ひますもの。たゞさへ、わたし色々な風評の的になつて、困つてゐるのですもの。あゝいふお話はなるべく陰翳の残らないやうに、ハツキリと片を付けて置きたいと思ひますの。ねえ、美奈さん、貴女このお話の、証人ウイットネスになつて下さるでせうねえ。」

「あ! 奥さん! 貴女あなたは! 貴女は!」

 青年は、狂したやうに叫びながら立ち上ると、続けざまに、地を踏み鳴らした。



 青年が、狂気したやうに、叫び出したのにも拘はらず、瑠璃子は、冷然として、語りつゞけた。

「美奈さん、貴女あなたには、おはなししなかつたけれども、わたし青木さんから、一昨日の晩、突然結婚の申込を受けたのです。さうして、それに対する諾否のお返事を、今晩しようと云ふお約束をしたのです。結婚の申込を直接受けたことを、わたし本当に心苦しく思つてゐるのです。せめて、お返事をするときだけでも貴女あなたに立ち合つていただきたいと思ひましたの。」

 美奈子は、何と返事をしてよいか、皆目分らなかつた。たゞ、彼女にも、ボンヤリ分つたことは、美奈子が母と青年の密語を、立ち聴きしたことを、母が気付いてゐると云ふことだつた。美奈子が、居堪ゐたゝまれなくなつて逃げ出したときの後姿を、母が気付いたに違ひないと云ふことだつた。

 さう思ふと、自分の心持が、明敏な母に、すつかり悟られてゐるやうに思はれて、美奈子は一言も返事をすることさへ出来なかつた。

 青年の顔は、真蒼になつてゐた。眼ばかりが、爛々とやみの中に光つてゐた。

「ねえ! 青木さん。それでは、よく心を落ち着けて聴いて下さいませ! わたし、あの、大変お気の毒ではございますけれども、よく〳〵考へて見ましたところ、貴君あなたのお申出まうしいでに応ずることが出来ないのでございます。」

 瑠璃子の言葉に、闘牛が、とゞめの一撃を受けたやうに、青年の細長い身体が、タヂ〳〵と後へよろめいた。

 彼は、両手で頭を抱へた。身体を左右に悶えた。呟きとも呻きとも付かないものが口から洩れた。

 美奈子は、見てゐるのに堪へなかつた。もし、母が傍にゐなかつたら、走り寄つて、青年の身体を抱へて、思ふさま慰めてやりたかつた。

 二分ばかり、青年の苦悶が続いた。が、彼はやつと、その苦悶から這ひ上つて来た。

 母から受けた恥辱のために、彼の眼は血走り、彼のまなじりは裂けてゐた。

「あなたのは、お断りになるのではなくて、僕を恥しめるのです。僕がそつとお願ひしたことを、美奈子さんの前で、貴女あなたにはお子さんかも知れないが、僕には他人です、その方の前で、恥しめるのです。拒絶ではなくして、侮辱です。僕は生れてから、こんな辱しめを受けたことはありません。」

 青年は、血を吐くやうに叫んだ。青年の言葉は、恨みと忿いかりのために狂ひ始めてゐた。

「貴女は、妖婦です、僕は敢て、さう申上げるのです。貴女を、貴婦人だと思つて、近づいたのは、僕の誤りでした。僕に、下さつた貴女あなたの愛の言葉を、貴女の真実だと思つたのが、僕の誤りでした。真実の愛を以て、貴女の真実な愛を購ふことが出来ると思つたのは、僕の間違まちがひでした。奥さん! 貴女は、あらゆる手段や甘言で、僕を誘惑して置きながら、僕が堪らなくなつて、結婚を申し込むと、それを恐ろしい侮辱で、突き返したのです。此恨みは、屹度きつと晴らしますから、覚えてゐて下さい。覚えてゐて下さい。」

 青年は、狂つたやうに、瑠璃子を罵りつゞけた。

 瑠璃子は、青年の罵倒を、冷然と聞き流してゐたが、青年の声が、漸く絶えた頃に、やつと口を開いた。

「青木さん! 貴君あなたのやうに、さう怒るものぢやなくつてよ。わたしの貴君に対する愛が、丸切り嘘だと云ふのは、余りヒドいと思ひますわ。わたしが、貴君を愛してゐることは本当ですわ。たゞ、その愛は夫に対するやうな愛ではなくて、弟に対するやうな愛なのです。わたし、昨日今日考へて、やつとそれが分つたのです。わたし、貴君を弟に持ちたいと思ふわ。が、貴君を夫にしようとは、夢にも思つたことはないわ。が、夫以外の一番親しいものとして、わたし貴君に何時までも、何時までも、交際つきあつていたゞきたいと思ふのよ。ねえ! 美奈さん。貴女にわたしの心持は分らない!」

 瑠璃子は、意味ありげに、美奈子を顧みた。今まで少しも、分らなかつた今夜の瑠璃子の心持が、闇の中に、一条の光が生れたやうに、美奈子にもほの〴〵と分つて来たやうに思へた。



 美奈子には、母の心持が、朝霧の野に、日の昇るやうに、やうやく明かになつて来た。

 母は自分の心持をスツカリ気付いたのだ。青年に対する自分の心持をスツカリ知つて了つたのだ。

 母が、自分の面前で、何のにべもないやうに、青年を斥けたのも、みんな自分に対する義理なのだ。自分に対する母の好意なのだ。自分に対する母の心づくしなのだ。さう思ふと、烈しい恥かしさを感じながら、母に対する感謝の心が、しみ〴〵と、胸の底深くにじんで出た。

 母は、やつぱり自分を愛して呉れる、自分のためには、どんなことでも、しかねないのだ。さう思ふと、美奈子は、母に対して昨日今日、少しでも慊らなく思つたことが、深く悔いられた。

 母の心持は、もつと露骨になつて来た。

「青木さん。貴君あなたが、わたしと結婚なさらうなんて、それは一時の迷ひです。貴君のお若い心の一時の出来心ウィムです。貴君にはわたしの心が少しも分つてゐないのです。いゝえ、わたしの本体が少しも分つてゐないのです。わたしの心が、どんなにすさんでゐるかそれが貴君には、少しも分つてゐないのです。わたしが、貴君を本当に愛してゐるかどうかさへ、貴君には分らないのです。さう〳〵、ワイルドの警句に、『結婚の適当なる基礎は相方さうはうの誤解なり。』と云ふ皮肉な言葉がありますが、貴君のわたしに対する、結婚申込なんか、本当に貴君の誤解から出てゐるのです。」

 青年には、瑠璃子の言葉などは、少しも耳に入つてゐないやうだつた。彼は、烈しいいかりのために、口が利けなくなつたやうに、たゞ身体を顫はせてゐるだけだつた。

 が、そんなことは少しも意に介せないやうに、瑠璃子は落着いた口調で、話しつゞけた。

貴君あなたは、わたしの心持が分らないばかりでなく、貴君に対する誰の心持も分つてゐないのです。貴君には、まだ、本当に人の心が分らないのです。真珠のやうな美しい──いゝえ、どんな宝石にも換へがたいやうな、美しい心を持つた処女が、貴君に恋しても、貴君には、それが分らないのです。貴君はもつと足を地上に降して、しつかり物を見なければならないと思ひます。」

 美奈子は、母の言葉を聴くと、地の中へでも消えてしまひたいやうな恥かしさと、母の自分に対する真剣な心づくしに対する有難さとで、心の中が一杯になつてしまつた。

 が、こゝまで黙つて聴いてゐた青年は、憤然として、立ち上つた。

「奥さん! もう沢山です。貴女は、僕を散々恥しめて置きながら、此の上何を仰しやらうと云ふのです。男として、堪へられないやうな恥辱を僕に与へて置きながら、此上何を云はうと仰しやるのです。貴女に対する僕の要求は、全か無かです。弟に対する愛、そんな子供だましのやうなお言葉で、いつまで僕を操らうとなさるのです。奥さん、僕はこれで失礼します。二度と貴女には、お目にかゝらない心算つもりです。男性に対する貴女の態度が、何時まで天罰を受けずにゐるかよそながら拝見してゐるつもりです。僕の貴女に対する恋、それは、僕に取つては初恋です。大切な懸命な初恋でした、凡てを犠牲にしてもいゝと思つた初恋です。が、それが……」

 青年は、こゝまで云ふと、自分自身で、こみ上げて来る口惜しさに堪へ切れなくなつたやうに、ハラ〳〵と涙を落した。

「……それが貴女のために、ムザ〳〵と蹂み躙られてしまつたのだ。覚えていらつしやい! 奥さん。」

 彼は、自分の感情を抑へ切れなくなつたやうに、かう叫んだ。

 立つてゐる華奢な長身が、いたましくわなわなと顫へて、男泣きの涙が、幾条いくすぢとなく地に落ちた。先刻さつきから美奈子は、青年の容子を見てゐるのに、堪へないやうに、目を伏せてゐたが何と思つたのか此時ふと顔を上げた。

「お母様!」

 彼女はかすれたやうな声で、初めて口を開いた。



「お母様!」

 さう叫んだ美奈子の言葉には、思ひ切つた処女の真剣さが、籠つてゐた。

「お母様、あのう、もう一度、どうぞもう一度、ゆつくりお考へ下さいませ。青木さんがう仰しやつたのか知りませんが、もう一度考へ直して下さいませ。わたくし、妾……」

 美奈子は、もつと何か云ひたさうだつたが、烈しい興奮のために、胸が迫つたのだらう、そのまゝ口籠つてしまつた。

 去りかけようとした青年は、美奈子の言葉を聴くと、一寸ためらひながら、美奈子の方を振り返つた。

「美奈子さん。貴女の御厚意は、大変有難うございます。が、もう凡ては終つたのです。僕の心は、蹂み躙られたのです。僕の心には、今悲みと怨みとがあるばかりです。さやうなら、貴女には、いろ〳〵失礼しました。」

 さう云ひ捨てると、青年は弾かれたやうに、身体を飜すと、緩い勾配の芝生の道を、一気に二十間ばかり、馳け降りると、その白い浴衣ゆかたを着た長身で、公園の闇を切る姿を見せてゐたが、直ぐ樹立の蔭に見えずなつた。

 美奈子は、淋しみとも悲しみとも、あきらめとも付かぬ心で、消えて行く青年の姿を追うてゐた。

 瑠璃子も、一寸青年の後姿を見てゐたやうだつたが、直ぐ思ひ返したやうに立ち上ると、美奈子の傍に寄つて来て、すれ〳〵に腰をかけた。

「美奈子さん! 駭いて?」

 軽く左の手を、美奈子の肩にかけながら、優しく訊いた。

「はい。青木さんが、お気の毒でございますわ。」

 美奈子は、消え入るやうな声で云つた。彼女は暫く考へてゐたが、

「青木さんなんかよりも、わたし美奈さんに済まないと思つてゐますの。どうぞ、堪忍して下さい。どうぞ。」

 母の声には、深い本心が、アリ〳〵と動いてゐた。美奈子でさへ、一度も聴いたことのないやうなしんみりとした、心の底からにじみ出たやうな声だつた。

「美奈さん。間違つてゐたら、御免なさい。わたし、貴女のお心が分つたの。青木さんに対する貴女のお心が。」

 さう、心の底を見抜かれると、美奈子は、サツと色を変へながら、うつ伏してしまつた。

「美奈さん、貴女あなたは、一昨日の晩、わたしと青木さんとが、話したことをすつかり、お聴きになつたのでせう。いゝえ、貴女がお聴きになつたのではなく、貴女がいらつしやるとは知らずに、わたし達がいろ〳〵なことを話しましたでせう。わたし、あの晩部屋へ帰らうとして、外出なさらうとする貴女のお顔を見たときに、もう凡てが分つたやうな気がしたのです。絶望その物のやうな貴女のお顔を見て、わたしは、凡てが分つたやうな気がしたのです。わたしは、それまでにもしやと思つたことが、一二度あつたのです。そのもしやが、本当だと云ふことが分ると、わたしは、大変なことが起つたと思つたのです。わたしの犯した失策が、取り返しのつかないものだと云ふことを知つたのです。」

 母の言葉が、ます〳〵真剣な悲痛な響を帯びて来た。

 美奈子は、俎上に上つたやうな心持で、母の言葉をぢつと聴いてゐる外はなかつた。恥かしさと悲しさとで、裂けるやうな胸を持ちながら。

わたし、今度のことで、わたしの生活が全然破産したことを知つたのです。男性に向つて吐いた唾が、自分に飛び返つて来たことを知つたのです。どうか、美奈さん。わたしの懺悔を聴いて下さい。」

 快活な、泣き言などは、ちつとも云つたことのない母の声が、悲しみに湿うるんでゐた。



「青木さんなんかに、わたし初めから、何の興味も持つてゐなかつたのです。青木さんを箱根へ連れて来たのなども、わたしのホンの意地からなのです。ある別な男の方に対するわたしの意地からなのです。ある男の方が、わたしに、青木さんけは、誘惑して呉れては困ると言つたやうな、おせつかいなことを言つたものですから、わたしはつい反抗的に、意地であの方を箱根へ連れて来たくなつたのです。よそながら、そのおせつかいな人に思ひ知らせて、やりたくなつたのです。美奈子さん、それがわたしの性分なのです。今までのわたしの生活、貴女のお家へ来たことなども、みんなわたしのさう云つた性分が、わたしを動かしたのです。」

 母は何時になく、しんみりとした沈んだ調子になつてゐた。短い沈黙の後で、母は再び口を開いた。

「それは、自分でも何うともすることが出来ない性分です。誰かから抑へられると、その二倍も三倍もの烈しさで、はね返したいやうな気になるのです。それが、わたしの性格の致命的フェータルな欠陥かも知れません。わたしは自分のさうした性分のために、自分の一生を犠牲にしたのではないかとさへ、此頃考へてゐるのです。」

 母は、かう言つて悵然ちやうぜんとしたが、また直ぐ言葉を続けた。

「子供が、触つてはいけないと言はれた草花に、却つて触りたくなるやうな心持で、青木さんを、わざと箱根へ連れて来たのです。あの人に何の興味があつたと云ふ訳でもないのです、おせつかいなことを言つた人に対する意地で、ついそんなことをしてしまつたのです。それから、恐ろしい罰を受けようとは夢にも知らなかつたのです。」

 母の言葉は、沈み切つてゐた。強いくいが、彼女の心を苛んでゐることを示してゐた。

わたしの想像が違つたら、御免下さい。貴女の清浄しやうじやうな純な心に映つた男性をわたしが奪ふと云ふ恐ろしいことをしてゐたのです。美奈さん! 許して下さい。美奈さん。」

 涙などは、今まで一度も流したことのない母の声が、湿うるんでゐた。

「貴女に対して、何とお詑びしていゝか分らないのです。貴女の心に萌んだ美しいおもひの芽をわたしが蹂躙してゐようとは、わたしが! 貴女を何物よりも愛してゐるわたしが。」

 瑠璃子の眼に、始めて涙が光つた。

「取り返しの付かない、恐ろしいことです。わたしが、たゞホンの悪戯いたづらのために、ホンの意地の為めに、宝石にも換へがたい貴女の純な感情を蹂み躙つてゐようとは、思ひ出すだけでも、わたしの心は張り裂けるやうです。美奈さん! 許して下さい。どうぞ、わたしの罪を許して下さい!」

 瑠璃子は苛責に堪へないやうに、おもてを伏せて終つた。

「まあ! お母様、何を仰しやるのです。許して呉れなんて、わたし、何も……」

 美奈子は、烈しい恥しさに堪へながら、母を慰めようとした。

「こんなことは、許しを願へるやうなものではないかも知れません。本当に、許しがたいことです。『許し難いことイントレランス』です。貴女あなたが許して下さつても、わたしの心は何時までも、何時までも苦しむのです。わたしが、世の中で一番愛してゐる貴女に、恐ろしい不幸を浴びせてゐようとは恐ろしいことです。恐ろしいことです。」

 冷静な母の態度も、心の烈しい其の苛責の為めに、だん〳〵乱れて行つた。

 美奈子は、最初自分の心を母からマザ〳〵と指摘された恥しさで、動乱してゐたが、それが静まるに連れて、母の自分に対する愛、誠意にだん〳〵動かされ初めた。



わたしが、男性に対する意地と反感とでしたことが、男性をきずつけないで、却つて女性、しかもわたしには、一番親しい、一番愛してゐる貴女を傷けようとは、夢にも思はなかつたのです。何と云ふ皮肉でせう。何と云ふ恐ろしい皮肉でせう。」

 母の心の悶えは、益々烈しくなつて行くやうだつた。

わたしの生活が、破産する日が、到頭来たのです。わたしの生活の罰が、わたしの最も愛する貴女の上に振りかかつて来ようとは。」

 瑠璃子の声はかすかに顫へてゐた。

わたしは、今までどんな人から、どんなにわたしの生活を非難されても、ビクともしなかつたのです。わたしの生活態度のために、犠牲者が出ようとも、ビクともしなかつたのです。わたしは、孔雀のやうに勝ち誇つてゐたのです。凡ての男性を蹂み躙つてゐたのです。が、男性ばかりを蹂み躙つてゐるつもりで、得意になつてゐると、その男性に交つて、女性! しかもわたしには一番親しい女性を蹂み躙つてゐたのです。」

 瑠璃子は、さう云ひ切ると、ぢつとおもてを垂れたまゝ黙つてしまつた。

 美奈子は、母の真剣な言葉に依つて、胸をヒタ〳〵と打たれるやうに思つた。母が、自分のために何物をも犠牲にしようと云ふ心持、自分を傷けたために、母が感じてゐる苦悶、さうしたものが美奈子に、ヒシ〳〵と感ぜられた、自分をこれほど迄、愛して呉れる母には、自分も凡てを犠牲にしてもいゝと思つた。

「お母様! もう何も、仰しやつて下さいますな、わたし、青木さんのことなんか、ほんたうに何でもないのでございます。」

 美奈子は、白い頬を夜目にも、分るほど真赤にしながら、恥かしげにさう云つた。

「いゝえ! 何でもないことはありません。処女の初恋は、もう二度とは得がたい宝玉です。初恋を破られた処女は、人生のなかばを蹂み潰されたのです。美奈さん、わたしにはその覚えがあります。その覚えがあります。」

 さう云つたかと思ふと、あれほど気丈な凜々しい瑠璃子も、顔に袖を掩うたまゝ、しばらくむせび入つてしまつた。

わたしには、その覚えがありますから、貴女のお心が分るのです。身に比べてしみ〴〵と分るのです。」

 母にさう云はれると、今まで抑へてゐた美奈子の悲しみは、堤を切られた水のやうに、彼女の身体を浸した。彼女の烈しいすゝり泣きが、瑠璃子の低いそれを圧してしまつた。

 瑠璃子までが、昔の彼女に帰つたやうに、二人はいつまでも〳〵泣いてゐた。

 が、先に涙を拭つたのは、美奈子だつた。

「お母様! 貴女は、決してわたくしにお詫をなさるには、当りませんわ。本当に悪いのは、お母様ではありません。わたくしの父です。お母様の初恋を蹂躙した父の罪が、わたくしに報いて来たのです。父の犯した罪が子のわたくしに報いて来たのです。お母様のせゐでは決してありませんわ。」さう云ひながら、美奈子はしく〳〵と泣きつゞけてゐたが、「が、わたくし今晩、お母様のわたくしに対するお心を知つてつくづく思つたのです。お母様さへ、それほどわたくしを愛して下されば、世の中の凡ての人を失つてもわたくしは淋しくありませんわ。」

 さう云ひながら、美奈子は母に対する本当の愛で燃えながら、母の傍にすり寄つた。瑠璃子は、彼女の柔かいふつくりとした撫肩を、白い手で抱きながら云つた。

「本当にさう思つて下さるの。美奈さん! わたしもさうなのよ。美奈さんさへ、わたしを愛して下されば、世の中の凡ての人を敵にしても、わたしは寂しくないのです。」

 二人は浄い愛の火に焼かれながら、夏の夜の宵闇に、その白い頬と白い頬とを触れ合せた。



火を煽る者



 青年の身体は、燃えた。

 烈しい憤怒と恨みとのために、火の如く燃え狂つた。

 彼は、その燃え狂ふ身体を、何物かに打ち突けたいやうな気持で走つた。闇の中を、滅茶苦茶に走つた。闇の中を、つぶてのやうに走つた。滅茶苦茶に、走りでもする外、彼の嵐のやうな心を抑へる方法は何もなかつた。樹にでも、石にでも、当れば当れ、川にでもたににでも陥らば陥れ、彼はさうした必死的デスペレエトな気持で、獣のやうに風のやうに、たゞ走りに走つた。

 強羅の電車停留所まで、一気に馳け降りたけれども、其処には電車の影は、なかつた。彼は、そこに二三分間待つたが、心の底から沸々ふつ〳〵と湧き上つてゐる感情の嵐は、彼を一分もぢつとさせてゐなかつた。電車を待つてゐるやうな心の落着は、少しもなかつた。彼は、宮の下まで、走りつゞけようと決心した。さう決心すると、前よりは、もつと烈しい勢で、別荘が両方に立ち並んだ道を、一散に馳け始めた。

 初め馳けてゐる間、彼の頭には、何もなかつた。たゞ、彼をあんなにはづかしめた瑠璃子の顔が、彼の頭の中で、大きくなつたり、小さくなつたり、幾つにも分れて、ともゑのやうに渦巻いたりした。

 が、だん〳〵走りつゞけて、早川の岸に出たときには、彼の身体が、疲れるのと一緒に、疲労から来る落着が、彼の狂ひかけてゐた頭を、だん〳〵冷静にしてゐた。

 彼の走る速力が緩むのと同時に、彼の頭は、だん〳〵いろ〳〵な事を考へ初めてゐた。

 彼が、死んだ兄と一緒に、荘田の家へ、出入し初めた頃のことなどが、ぼんやりと頭の中に浮んで来た。

 荘田夫人の美しい端麗な容貌や、その溌剌として華やかな動作や、その秀れた教養や趣味に、兄も自分も、若い心を、引き寄せられて行つた頃の思ひ出が、後から〳〵頭の中に浮んで来た。

 夫人が、多くの男性の友達の中から、特に自分達兄弟を愛して呉れたこと、従つて自分達も、頻りに夫人の愛を求めたこと、その中に、兄が夫人に熱狂してしまつたこと、兄が夫人の愛を独占しようとしたこと、兄が自分に対して軽い嫉妬を感じたこと、さうしたことが、とりとめもなく、彼の頭の中に浮んだ。

 実際、自分の兄が、夫人に対して、熱愛を懐いてゐることを知つたとき、彼は兄に対する遠慮から心ならずも、夫人に対する愛を抑へてゐた。

 突然な兄の死は、彼を悲しませた。が、それと同時に、彼の心の裡の兄に対する遠慮を取り去つた。彼は、兄に対する遠慮から、抑へてゐた心を、自由に夫人に向つて放つた。

 夫人は、それを待ち受けてゐたやうに、手をさし延べて呉れた。兄の偶然な死は、夫人と彼とを忽ち接近せしめてしまつた。

 彼は、夫人から、蜜のやうな甘い言葉を、幾度となく聴いた。彼は、夫人が自分を愛してゐて呉れることを、疑ふ余地は、少しもなかつた。

 彼は直截に夫人に結婚を求めた。

わたしも、ぜひさうしていたゞきたいのよ。でも、もう少し考へさせて下さいよ。貴君あなた、箱根へ一緒に行つて下さらない。わたし、此の夏は、箱根で暮さうと思つてゐますのよ。箱根へ行つてから、ゆつくり考へてお答へしますわ。」

 夫人は、美しい微笑でさう云つた。

 箱根へ同行を誘つて呉れる! それは、もう九分までの承諾であると彼は思つた。

 箱根に於ける避暑生活は、彼に取つて地上の極楽である筈であつた。

 思ひきや、其処に地獄の口が開かれてゐようとは。

「裏切者め!」

 青年は、走りながら、思はず右の手のステッキを握りしめた。



 ホテルの門に辿り着いたときにも、長い道を馳け続けたために、身体こそやゝ疲れてゐたものの、彼の憤怒は少しも緩んではゐなかつた。部屋へ飛び込めば、直ぐトランクの中へ、凡てのものを投げ込むのだ。もう、こんな土地には一分だつてゐたくない。彼女が、帰つて来ない裡に、一刻も早く去つてしまふのだ。

 彼は心の裡で、さうした決心を堅めながら、烈しい勢で、玄関へ駈け上つた。其処に立つてゐたボーイが、彼の面色めんしよくを見ると、おどろいて目をみはつた。それも、無理はなかつた。彼の眼は血走り、色は蒼ざめ、広い白い額に、一条の殺気が迸つて、温和な上品な平素の彼とは、別人のやうな、血相を示してゐたからである。が、ボーイが、駭かうが駭くまいが、そんなことはどうでもよかつた。彼は駭いたボーイを尻目にかけながら、廊下を走るやうに馳け過ぎて、廊下の端にある二階への階段を、烈しく駆け上らうとしたときだつた。彼は余りに急いだため、余りに夢中であつたため、丁度その時、上から降りようとした人に、烈しくつかつてしまつた。

 余りに強くき当つたため、彼の疲れてゐた身体は、ひよろ〳〵として、二三段よろけ落ちた。

「いやあ。失礼!」

 相手の人は、駭いて彼を支へた。が、衝突の責任は、無論此方こつちにあつた。

「いゝえ。僕こそ。」

 彼は、さう答へると、軽く会釈したまゝで、相手の顔も、碌々見ないで、そのまゝ階段を馳け上つた。

 が、彼が六七段も、馳け上つたときだつた。まだ立ち止まつて、ぢつと彼の後姿を見てゐた相手の男が、急に声をかけた。

「青木君! 青木君ぢやありませんか。」

 不意に、自分の名を呼ばれて、青年は駭いた。彼は、思はず階段の中途に、立ち竦んでしまつた。

「えゝつ!」

 青年は、返事とも駭きとも分らないやうな声を出した。

「間違つてゐたら御免下さい! 貴君は、青木君ぢやありませんか。あの、青木淳君の弟さんの。」

 相手は、階段の下から、上を見上げながら、落着いた声でさう訊いた。青年は、やゝほの暗い電燈の光で、振り上げた相手の顔を見た。意外にも、それは先刻散歩へ出るときに、玄関で逢つた、彼の見知らない紳士であつた。彼は、どうして此の男が、自分の名前を知つてゐるのだらうかと、不審に思ひながら答へた。

「さうです。青木です。ですが、貴君は……」

 青年は、一寸相手が、無作法に呼び止めたことを咎めるやうに訊き返した。

「いや、御存じないのは、尤もです。」

 さう云ひながら、紳士は階段を二三段上りながら、青年に近づいた。

「お兄さんの知人と云つても、ホンのお知合になつたと云ふけに過ぎないのですが、然しその……」

 紳士は、一寸云ひ澱んだ。

 青年は、自分がいら〳〵し切つてゐるときに、何の差し迫つた用もなささうな人から、たゞ兄の知人であると云つた理由だけで、呼び止められるのに堪へなかつた。

「さうですか。それでは、又いづれ、ゆつくりとお話しませう。一寸只今は、急いでゐますから。」

 さう云ひ捨てると、青年は振り切るやうに、残つた階段を馳け上らうとした。

 すると、紳士は意外にも、しつこく青年を呼び止めた。

「あゝ一寸お待ち下さい。私も急に、貴君にお話したいことがあるのです。」



「急に話したいことがある。」未知の男からしつこく云はれると、青年はむつとした。何と云ふ執拗な男だらう。何と云ふ無礼な男だらうと腹立たしかつた。

「いや、どんな急なお話かも知れませんが、僕はかうしてはゐられないのです。」

 青年は、さう云ひ切ると、相手を振り払ふやうに、階段を馳け上らうとした。が、相手はまだ諦めなかつた。

「青木君! 一寸お待ちなさい。貴方は、おあにいさんからの言伝ことづてを聴かうとは思はないですか。さうです、貴君に対する言伝です。特に、現在の貴君に対する言伝です。」

 さう云はれると、青年はさすがに足を止めずにはゐられなかつた。

言伝ことづて! 死んだ兄から、そんな馬鹿な話があるものですか。」

 青年は嘲るやうに、云ひ放つた。

「いや、あるのです。それがあるのです。私は、貴君のお顔の色を見ると、それを云はずにはゐられなかつたのです。貴君は、今可なり危険な深淵の前に立つてゐる。私は貴君がムザ〳〵その中へ陥るのを見るに忍びないのです。おあにいさんに対する私の義務として、どうしても一言だけ、注意をせずにはゐられないのです。」

 さう云ひながら、相手は青年と同じ階段のところまで上つて来た。

「危険な深淵! さうです。貴君のおあにいさんが、誤つて陥つた深淵へ貴君までが、同じやうに陥ちようとしてゐるのです。」

 青年は、改めて相手の顔を見直した。相手が可なり真面目で、自分に対して好意を持つてゐて呉れることが、直ぐ判つた。が、相手が妙に、意味ありげな云ひ廻しをすることが、彼のいら〳〵してゐる神経を、更にいら立たせた。

「それが一体う云ふことなのです。僕には少しも分りませんが。」

 青年は、腹立たしげに、相手を叱するやうに云つた。

「それでは、もつと具体的に云ひませう。青木君! 貴君は、一日も早く、荘田夫人から遠ざかる必要があるのです。さうです。一日も早くです。あの夫人は、貴君の身体を呑んでしまふ恐ろしい深淵です。貴君のおあにいさんは、それに呑まれてしまつたのです。」

 紳士は、さう云つて、ぢつと青年の顔を見詰めた。

「貴君は、兄さんのあやまりを再び繰り返してはなりません。これは、私の忠告ではありません、死んだ兄さんのお言伝です。よくお心に止めて置いて下さい!」

 さう云ふかと思ふと、紳士は一寸青年に会釈したまゝ、階段をスタ〳〵と降りかけた、もう云ふ丈けのことは、スツカリ云つてしまつたと云ふ風に。

 今度は、青年の方が、狼狽して呼び止めた。

「待つて下さい! 待つて下さい! そんなことを本当に兄が云つたですか。」

 紳士は顔けを振り向けた。

「文字どほりに、さう云はれたとは云ひません。が、それと同じことを私に云はれたのです。」

「何時! 何処で?」

 青年は、可なり焦つて訊いた。

「おあにいさんが死なれる直ぐ前です。」

 さう云つて、紳士は淋しい微笑を洩した。

「死ぬ直ぐ前? それでは貴君は、兄の臨終に居合したと云ふのですか。」

 青年は、可なり緊張して訊いた。

「さうです。貴君あなたのおあにいさんの臨終に居合したたつた一人の人間は私です。お兄さんの遺言を聴いたたつた一人の人間も私です。」

 紳士は落着いて、しづかに答へた。

「えゝつ! 兄の遺言を。一体兄は何と云つたのです。何と云つたのです。その遺言を貴君が、今まで遺族の者に、隠してゐるなんて!」

 青年は、相手を詰問するやうに云つた。

「いや、決して隠してはゐません、現在貴君に、その遺言を伝へてゐるぢやありませんか。」



 紳士の言葉は、もう青年の心の底まで、喰ひ入つてしまつた。

「本当に、貴君は兄の臨終に居合したのですか。それで、兄は何と云ひました。兄は死際に何と云ひました?」

 青年は、昂奮し焦つた。

「いや、それに就いて、貴君にゆつくりお話したいと思つてゐたのです。こゝぢや、どうもお話しにくいですが、いかゞです僕の部屋へ。」

 紳士は可なり落着いてゐた。

「貴君さへお差支へなけれや。」

「ぢや、僕の部屋へ来て下さい。丁度さいは、湯に入つてゐますので誰もゐませんから。」

 紳士の部屋は、階段を上つてから、左へ二番目の部屋だつた。

 紳士は、青年を自分の部屋に導くと、彼に椅子を進めて、自分も青年と二尺と隔らずに相対して腰を降した。

「申し遅れました。僕は渥美と云ふものですが。」

 さう云つて紳士は、改めて挨拶した。

「いや、実は避暑に出る前に、貴君に一度是非お目にかゝりたいと思つてゐたのです。貴君にお目にかけたいもの、貴君に申上げたいこともあつたのです。それで、それとなく貴君のお宅へ電話をかけて、貴君の在否を探つて見ると、意外にも宮の下へ来てゐられると云ふのです。それで、実は私は小湧谷の方へ行くつもりであつたのですが、貴君にお目にかかれはしないかと云ふ希望があつたものですから、二三日、此処へ宿とまつて見る気になつたのです。それが、意外にもホテルの玄関で貴君にお目にかゝらうとは、貴君ばかりでなく荘田夫人にお目にかゝらうとは。」

 紳士は一寸意味ありげな微笑を洩しながら、

「実は、おあにいさんが遭難されたとき、同乗してゐたと云ふ一人の旅客は私なのです。」

「えゝつ!」

 思はず、青年は、おどろきの目をみはつた。

「おあにいさんの死は、形は奇禍のやうですが、心持は自殺です。私は、さう断言したいのです。お兄さんは、死場所を求めて、三保から豆相づさうの間を彷徨さまよつてゐたのです。奇禍が偶然におあにいさんの自殺を早めたのです。」

 紳士の表情は、可なり厳粛であつた。彼が、いゝ加減なことを云つてゐるとは、どうしても思はれなかつた。

「自殺! 兄はそんな意志があつたのですか。」

 青年は駭きながら訊いた。

「ありましたとも。それは、貴君にも直ぐ判りますが。」

「自殺! 自殺の意志。もしあつたとすれば、それは何のための自殺でせう。」

「ある婦人のために、弄ばれたのです。」

 紳士は苦々しげに云つた。

「婦人のために、弄ばれる。」

 さう繰り返した青年の顔は、見る〳〵色を変へた。彼は、心の中で、ある恐ろしい事実にハツと思ひ当つたのである。

「それは本当でせうか。貴君は、それを断言する証拠がありますか。」

 青年の眼は、興奮のために爛々と輝いた。

「ありますとも。おあにいさんの遺言と云ふのも、お兄さんを弄んだ婦人に対して、おあにいさんの恨みを伝へて呉れと云ふことだつたのです。」

「うゝむ!」

 青年は、低くうなるやうに答へた。

「実は、私はその恨みを伝へようとしたのです。が、その婦人は、うらみを物の見事に跳ねつけてしまつたのです。そればかりでなく、死んだおあにいさんを辱めるやうなことまでも云つたのです。その婦人はおあにいさんを弄んで、間接に殺しながら、その責任までも逃れようとしてゐるのです。青木さんが、自殺の決心をしたとしても、それはわたくしせゐではありません、あの方の弱い性格のせゐだと、その婦人は云つてゐるのです。そればかりではありません……」

 紳士も、自分自身の言葉に可なり興奮してしまつた。



 紳士は興奮して叫び続けた。

「そればかりではありません。青木君を弄んで間接に殺しながらまだそれにもりないで、青木君の弟である……」

「あゝもう沢山です。」青年は、相手に縋り付くやうな手付をして云つた。「判りました、よく判りました。が、証拠がありますか? 兄が弄ばれて、自殺を決心したと云ふ証拠がありますか?」

 青年のひとみは必死の色を浮べてゐた。

「ありますとも。お見せしませう。が、さう興奮しないで、ゆつくり気を落着けて下さい。」

 さう云ひながら、紳士は椅子を離れると、部屋の片隅に置いてある大きなトランクに近づいて、それを開きながら、中から一冊のノートを取り出した。

「これです。此の筆蹟には覚えがあるでせう。」

 さう云ひながら、相手はノートを、籐の卓子テーブルの上に置いた。青年は、焼き付くやうな眼で、それをぢつと見詰めた。表紙の青木淳と云ふ字が、いかにも懐しい兄の筆蹟だつた。

「ぢや、拝見します。」

 彼はかすかに、顫へる手付で、そのノートを取り上げた。

 恐ろしい沈黙が部屋の中に在つた。ノートのページのめくられる音が、時々気味悪くその沈黙を破つた。

 二分三分、青年は、だまつて読みつゞけた。その中に、青年の腰かけてゐる椅子が、かすかな音を立て初めた。見ると、青年の身体が、いかりのために激しく顫へてゐたのである。

うです! これほど、確な証拠はないでせう。遭難当時のおあにいさんの心持が、ハツキリ解つてゐるでせう。途中で、奇禍に逢はれなかつたら、お兄さんは屹度きつと、熱海か何処かで、自殺をしてをられる筈です。」

 紳士は、ノートを覗き込むやうにしながら云つた。

 青年の顔は、恐ろしい感情の激発のために、紫色にふくらんでゐた。

 紳士は、青年の感情をもつと狂はすやうに云つた。

「其処に白金プラチナの時計のことが、書いてあるでせう。おあにいさんは、死なれる間際に、その時計を返して呉れと云はれたのです。偶然にも、その時計は、その偽りの贈物は、おあにいさんの血で、真赤に染められてゐたのです。衝突のときに、硝子ガラスが壊れたと見え、血が時計の胴に浸んでゐたのです。」

「それをうしました。それを何うしました。」

 青年は、激情のために、なかば狂つてゐた。

「無論、それを返したのです。私は、お兄さんの心持をんで、それを叩き返してやらうと思つたのです。それを返しながら、お兄さんの怨みを、知らせてやらうと思つたのです。ところが、残念にも、私はそれを、手もなく捲き上げられてしまつたのです。あの方は、妖婦です。僕達には、とても真面まともに太刀打は出来ない人です。」

「妖婦! 妖婦!」

 青年は狂つたやうに、口走つた。

「いや、その点で私はおあにいさんの、委託に背いてしまつたのです。取返しの付かないことをしてしまつたのです。が、その代り、私は貴君をうかして、救ひたいと思つたのです。おあにいさんに対する僕の責任として、貴君が同じ過ちを犯すのを、うかして救ひたいと思つたのです。私は、そのために、あの方に頼んだのです。青木君に対する貴女あなたの後悔として、青木君の弟だけは弄んで呉れるな。弟さんだけうか、誘惑して呉れるな。私は、さう云つて事を別けて頼んだのです。それだのに、彼女はそれを冷然と跳付はねつけたのです。いや、跳付けたばかりではありません。私のさうした依頼を嘲るやうに、いやそれに対する意地のやうに、わざと貴君を一緒に連れて来てゐるのです。」



 青年のおもてが、火のやうな激憤で、埋まるのを見ると、紳士はそれを宥めるやうに云つた。

「いや、貴君がお怒りになり、お駭きになるのも尤もです。が、あゝした人には、近よらないのが万全の策です。貴君が怒つて先方にぶつかつて行くと、いよ〳〵相手の術策に陥つてしまふのです。あの方の張つてゐる蜘蛛の網の中で手も足も出なくなつてしまふのです。たゞ、一刻も早くこゝを去られるのが得策です。いや、こゝばかりではありません。夫人の周囲から、絶対に去られるのが得策です。触らぬ神に祟りなしと云ふ言葉があります。まして、相手は特別、恐ろしい女神ですから。はゝゝゝゝゝゝ。」

 紳士は軽く笑つた、話が、余り緊張して来たのを、わざと緩めようとして。

「然し、兎に角私としては、これでおあにいさんに対する責任を少しは尽したやうに思ふのです。さう云ふ意味で、貴君が僕の云ふことを、よく聴いて下さつたのを有難く思ふのです。いや、私が一歩遅かつたら、貴君もどんな目に逢つてゐるかも知れなかつたのです。」

 紳士は、自分の忠告が間に合つたことを、欣ぶやうな顔色を示した。が、彼の忠告は間に合つただらうか。いな、彼の忠告は、後の祭ツーレートだつた。一時間だけ、遅れ過ぎた。

 彼の忠告は、災禍の火を未然に消す風とならずして、却つてその火を煽り立てた。彼が、夫人の危険を説いたときに、青年はもう、夫人から弄ばれてゐたのだ。否、弄ばれたと思つてゐたのだ。夫人から、弄ばれたうらみいきどほりとに、燃えてゐた青年の心を、彼はいやが上に煽つた。

『お前ばかりではない、お前の肉親の兄も、あの女に弄ばれて、身を過つたのだ! 身を亡したのだ!』と。

「いや! 御忠告ありがたう! 御忠告ありがたう!」

 青年は、さう云ひながら立ち上つた。が、あまり興奮した為だらう、彼は、眼が眩んだやうに、よろめいた。

 紳士は、周章あわてて、青年の身体を支へた。

「いや、あまりに興奮なさつては困りますよ。お心を落着けて、気を静めて!」

 が、青年はそれを振切つた。

「いや、捨てゝ置いて下さい! 大丈夫です、大丈夫です!」

 さう云ひながら、青年は廊下へよろめきながら出た。『大丈夫です!』と、口では云つたものの、彼はもう決して、大丈夫ではなかつた。

 彼の頭の中には、激情の嵐が吹き荒れた。いかりうらみとの洪水が漲つた。理性の燈火は、もうふツつりと消えてしまつてゐた。

「兄を弄んだ上に、この俺を!」

 さう思ふと、彼の全身の血は、いかりのためにぐん〳〵と煮え返つた。

「兄を弄んで間接に、殺して置きながら、まだ二月と経たない今、この俺を! 箱根まで誘ひ出して、はれのない恥辱を与へる!」

 さう考へると、彼の頭の裡は、燃えた。身体中の筋肉が、異様に痙攣した。

 もう世の中の他の凡ては、彼の頭から消え去つた。国家も社会も法律も、父も母も妹も、恐怖も羞恥も、愛も同情も。たゞ恐ろしいにくしだけが残つた。その憎みは、爆発薬のやうな烈しさが、彼の胸の裡を縦横にのたうつた。

 さうした彼の心の裡に、焼き付いたやうに残つてゐるのは、先刻さつき読んだ兄の手記中の一節だつた。

『さうだ、一層いつそ死んでやらうかしら。純真な男性の感情を弄ぶことが、どんなに危険であるかを、彼女に思ひ知らせるために。』

 が、兄が死んでも彼女は、少しも思ひ知らうとはしなかつた。兄の死を冷眼視するほど、彼女が厚顔無恥であるとしたならば、彼女を思ひ知らせるには、さうだ! 彼女を思ひ知らせるには。

 さう考へたとき、彼の全身の血は、海嘯つなみのやうに、彼の狂ひかけた頭へ逆上して来た。



破裂点



 強羅公園で、お互の心からなる浄い愛に、溶け合つた美奈子と瑠璃子とが、其処に一時間以上も費して、宮の下へ帰つて来たのは、夜の十時を廻つた頃だつた。

 二人とも、心の裡では、青年のことが気になつてゐたけれども、それを口に出すことを避け合つた。

 が、部屋へ入つたとき、瑠璃子はさすがに青年の寝室のドアに立ち寄つて、そつと容子を窺つた。

「もう、青木さんは寝たのかしら。」

 さう云つて、彼女はドアに手をかけて見た。それは平素いつもになく内部から、鍵が、かけられたと見え、ビクリとも動かなかつた。

「あゝ。もう、寝ていらつしやる!」

 瑠璃子は、やつと安堵したやうに云つた。

 美奈子と瑠璃子とが、同じ寝室に入つて、寝台ベッドの中に横はつたのは、もう十一時を廻つた頃だつた。

 電燈を消してからも、美奈子は母と暫らくの間、言葉を交へた。その裡に、十二時が鳴つた。彼女は、おどろいてねむりに入らうとした。が、その夜の烈しい経験は、──彼女が生れて以来初めて出会つたやうな複雑な、烈しい出来事は、彼女の神経を、極度に掻きみだしてゐた。彼女が、いくら眠らうとあせつても、意識は冴え返つて、先刻の恐ろしい情景が、頭の中で幾度も幾度も、繰り返された。青年の凄いほど、緊張した顔が、彼女の頭の中を、ともゑのやうに馳け廻つた。

 眠らう眠らうとあせればあせるほど、神経が益々いらだつて来た。記憶が、異常に興奮して、自分の生ひ立ちや、母の死や父の死や、兄の事などが、頭の中に次ぎ〳〵に思ひ浮んで来た。

 その裡に一時が鳴つた。

 瑠璃子も、寝台ベッドの中で、暫らくの間は、眠り悩んでゐたやうだつたが、その裡に、おだやかないびきの声が聞え初めた。

 母が、ねむりに就いたのを知ると、美奈子は益々あせつてゐた。口の中で、数を算へて見たり、深呼吸をして気持を落ち着けようと試みたりした。が、それもこれも無駄だつた。先刻聴いたばかりの青年の怨みの声が、落ち着かうとする美奈子の心の裡に、幾度も〳〵甦つて来た。

 その裡に、二時が鳴つた。

 烈しい興奮のために、頭脳あたまも眼も、疲れ切つてゐながら、それが妙にいら〳〵して、眠はうしても来なかつた。

 その裡に、到頭三時が鳴つた。

 さすがに、彼女の意識は疲れてしまつた。不快な、重くるしい眠が、彼女のぐた〳〵になつた頭脳を蝕み始めてゐた。うつゝともなく夢ともないやうな、いやな半睡半醒の状態が、暫らく続いた。彼女はとろとろとしたかと思ふと、ハツと気が付いたり、気が付いたかと思ふと、深い泥沼の中に、引きずり込まれるやうに、いやな眠りの中に、陥つて行つたりした。

 彼女が、砂を噛むやうなうつゝと、胸ぐるしい悪夢との間に、さまよつてゐたときだつた。彼女は、何者かが自分を襲つて来るやうな、無気味な感じがした。寝室のドアが、かすかに動いてゐるやうな感じがした。自分に襲ひかゝつてゐる人の足音を聴くやうな気がした。が、それが夢であるかうつゝであるか確める気にもなれないほど、彼女の意識は混沌としてゐた。

 到頭、悪夢が、彼女を囚へてしまつた。彼女は母と一緒に田舎路を歩いてゐた。それが、死んだ母のやうでもあり、現在の母であるやうにも思はれた。ふと、地平の端に白い何物かが現れた。それが矢のやうな勢ひで、彼女達の方へ向つて来た。つい、目の前の小川を飛び越したとき、それが白い牡牛であることが、判つた。狼狽してゐる美奈子達を目がけて激しい勢ひで殺到した。美奈子は悲鳴を挙げながら、逃げた。牡牛は、逃げ遅れた母に迫つた。美奈子が、アツと思ふ間もなく、牡牛の鉄のやうな角は、母の脇腹を抉つてゐた。母の、恐ろしい呻り声が美奈子の魂ををのゝかしたが、母の呻き声を聴いた途端に、悪夢はれた。が、不思議に呻き声のみは、尚続いてゐた。



 悪夢の裡に聴いた呻き声を、美奈子はゆめうつゝの間に聞き続けてゐた。

「うゝむ! うゝむ!」

 はらわたを断つやうな呻き声が、段々彼女の耳の近くに聞え初めた。彼女の意識が、醒めかゝるに連れてその呻き声は段々高くなつた。

「うゝむ! うゝむ!」

 彼女は、到頭寝台の上に醒めた。醒めたと同時に、彼女は冷水を浴びたやうな悪寒を感じた。

「うゝむ! うゝむ!」

 ひきしぼるやうな悲鳴は、彼女の身辺からマザ〳〵と起つてゐるのであつた。

「お母様!」

 それは、悲鳴だつた。

「お母様! お母様!」

 美奈子は、つゞけさまに、縋り付くやうな悲鳴を揚げた。

 母の答はなかつた。

 低い、しぼり出るやうな悲鳴が、物凄く闇の中に起つてゐるだけだつた。

「あ! お母様!」

 美奈子は、堪らなくなつて、寝台から転び落ちた。

 母の寝台は、二尺とは離れてゐなかつた。彼女が、顫へる手を、寝台の一端にかけたとき、生あたたかい液体が、彼女の手にベツトリと、触れた。

「お母様!」彼女の声は、わな〳〵と顫へてゐた。

 彼女の手は、母の胸に触れた。母の華奢な肉体が、手の下でかすかにうごめいた。

「お母様! お母様! 何う遊ばしたのです。」彼女は、懸命の声を揚げた。

 低い呻き声が、しばらく続いてゐた。

「お母様! お母様! 気をたしかになさいませ。」美奈子は、狂つたやうに叫んだ。

 母は、烈しい苦悩の下から、しぼり出すやうに答へた。

燈火あかりを! 燈火を!」

 きずつける者、死なんとする者が、第一に求めるものは光明だつた。

 美奈子は立上つて電燈を探し求めた。狼狽あわててゐるせゐか、電燈がなか〳〵手に触れなかつた。

 が、やうやくスヰッチを捻つたとき、明るい光は、痛ましい光景を、マザ〳〵と照し出した。母の白い寝衣ねまき、白いシーツ、白い毛布に、夜目には赤黒く見える血潮が、ベタ〳〵と一面に浸んでゐる。

「あつ?」

 美奈子は、一眼見ると床の上に、よろめきながら打ち倒れた。が、母を気遣ふ心が、直ぐ彼女を起ち上らせた。

「お母様! しつかりなさいませ!」

 彼女は、さう叫びながら、母に縋り付いた。致命の傷を負ひながら、彼女は少しも取り乱した様子はなかつた。右の脇腹の傷口を、両手でぢつと押へながら、全身を掻きむしるほどの苦痛を、その利かぬ気で、その凜々しい気性で、ぢつとこらへてゐるのだつた。

 彼女のかよわい肉体の血は、彼女が抑へてゐる両手の間から、惜しげもなく流れ出してゐるのだつた。

 美奈子も一生懸命だつた。自分の寝台のシーツを取ると、それを小さく引き裂いて、母の傷口を幾重にも幾重にもくゝつた。

「お母様! 気をたしかになさいませ。直ぐ医者を呼びますから。」

 彼女は、母の耳元に口を寄せて、必死に呼んだ。それが、耳に入つたのだらう、母は、かすかに頭を動かした。大理石のやうに、光沢のあつた白い頬は、蒼ざめて、美しい眼は、にぶい光を放ち、眉は釣り上がり、唇は刻一刻紫色に変つてゐた。

 美奈子が、寝室を出て、居間の方にある卓上の電話を取り上げたときだつた。彼女は、青年の寝室のドアが開かれて、其処に寝台が空しく横たはつてゐるのを知つた。

 恐しい悲劇の実相が、彼女に判然と判つた。



 医者が来るまで、瑠璃子は恐ろしい苦痛に悶えてゐた。が、彼女はその苦痛を、ぢつと堪へてゐた。華奢な身体に、致命の傷を負ひながら、彼女は悲鳴一つ揚げなかつた。たゞ抑へ切れない苦痛を、低いうめき声に洩してゐるだけであつた。

 美奈子の方が、却つて逆上してゐた。彼女は、母の胸に縋りながら、

「お母様! しつかりして下さい。しつかりして下さい!」と、おろ〳〵叫んでゐるだけだつた。

 その裡に、瑠璃子は、ふと閉してゐた眼を開いた。そして、異様な光を帯び初めた眸で、ぢつと美奈子を見詰めた。

「お母様! お母様! しつかりして下さい!」

 美奈子は、泣き声で叫んだ。

「美奈さん!」

 瑠璃子は、身体に残つてゐる力を、振りしぼつたやうな声を出した。

「わーたーし、わたし今度は、もう──駄目かも知れないわ。」

 一語二語、はらわたから、しぼり出るやうな声だつた。

「お母様! そんなことを! 大丈夫でございますわ、大丈夫でございますわ。」

「いゝえ! わたし、覚悟してゐますの。美奈さんには、すみませんわね。」

 さう云つた母の顔は、苦痛のために、ピク〳〵と痙攣した。

 美奈子は、わあつ! と泣き出さずにはゐられなかつた。

「それで、わたし貴女あなたに、お願ひがあるの。あの、電報を打つときに、神戸へも打つていたゞきたいの!」

 瑠璃子は、恐ろしい苦痛に堪へながら、途切れ〳〵に話しつゞけた。

「神戸! 神戸つて、何方どなたにです?」

 美奈子は、怪しみながら訊いた。

「あの、あの。」瑠璃子は苦痛のために、云ひ澱んだやうだつたが、「あの、杉野直也です。わたし、新聞で見たのです。月はじめに、ボルネオから帰つて、神戸の南洋貿易会社にゐる筈です。死ぬ前に一度逢へればと思ふのです。」

 瑠璃子は、やつと喘ぎながら云ひ終ると、精根が全く尽きたやうに、ガクリとくづほれてしまつた。

 二年の間、恋人のことを忘れはてたやうに見せながらも、まことは心の底深く思ひ続けてゐたのであらう。恋人の消息を、よそながら、貪り求めてゐたのであらう。

 医者が、来たのは夏の夜が、はや白々とあけ初める頃であつた。

 一時間近くもかゝつたために、瑠璃子は、多量の出血のために、昏々として人事不省の裡にあつた。

 内科専門のまだ年若い医者は、覚束ない手付で、瑠璃子の負傷を見た。

 それは、可なり鋭い洋刀ナイフで、右の脇腹を一突き突いたものだつた。傷口は小さかつたが、深さは三寸を越してゐた。

「重傷です。私は応急の手当をしますから、直ぐ東京から、専門の方をお呼び下さい。今のところ生命には、別条ないと思ひますが、然し最も余病を併発し易い個所ですから、何とも申せません。」

 医者の眉は、憂はしげに曇つた。

 いたいけな美奈子には、背負ひ切れないやうな、大切な仕事を、彼女は烈しい悲嘆と驚きとの裡に処理せねばならなかつた。その中で、一番厭だつたのは、医者が去るのと、入れ違ひに入つて来た巡査との応答だつた。

「加害者は、逃げたのですか。」

 美奈子は、何とも答へられなかつた。

「その青木と云ふ学生と、貴女のお母様は何う云ふ御関係があつたのです。」

 美奈子は、何とも答へられなかつた。

「何か兇行をするに就て、最近の動機ともなつたやうな事件がありましたでせうか。」

 美奈子は、何とも答へられなかつた。たゞ、彼女自身、恐ろしい罪の審問を受けてゐるやうに、心が千々に苛なまれた。



 夜は明け放れた。今日も真夏の、明るい太陽が、箱根の山々を輝々として、照し初めた。が、人事不省の裡に眠つてゐる瑠璃子は、昏々として覚めなかつた。生と死の間の懸崖に、彼女の細き命は一縷いちるの糸に依つて懸つてゐた。

 その日の二時過ぐる頃、美奈子の打つた急電に依つて、かねて美奈子の傷を治療したことのある外科の泰斗近藤博士が、馳け付けた。が、博士に依つて、あらゆる手当が施された後も、瑠璃子の意識は返つて来なかつた。

 その前後から、烈しい高熱に襲はれ初めた瑠璃子は、取りとめもない囈語うはごとを云ひつゞけた。その囈語の中にも、美奈子は、母が直也と呼ぶのを幾度となく聴いた。

 夕暮になつて、瑠璃子の父の老男爵が馳け付けた。瑠璃子の近来の行状を快く思つてはゐなかつた男爵は、その娘と一年近くも会つてゐなかつた。が、死相を帯びながら、瀕死の床に横はつてゐる瑠璃子を見ると、老いた男爵の眼からは、涙が、潸然さんぜんとしてはふり落ちた。娘のかうした運命が、九分までは自分の責任だと思ふと、娘の額に手をやつた男爵の手は、わな〳〵顫へずにはゐなかつた。

 美奈子は、母の兄なる光一にも、電報を打つたけれども、恐らく彼は東京を離れてゐたのだらう、夜になつても姿を見せなかつた。

 東京から急を聴いて馳け付けた女中や、執事などで、瑠璃子の床は賑やかに取巻かれた。が、母を──肉親は繋がつてゐなくとも心の内では母とも姉とも思ふ瑠璃子を、失はうとする美奈子の心細さは、時の経つと共に、段々募つて行つた。

 丁度夜の十時に近い頃だつた。母はやゝ安眠に入つたと見え、囈語が、暫らく杜絶えて、いやな静けさが、部屋の裡に、漂つてゐたときだつた。廊下に面したドアを、低く、聞えるか聞えないかに、トン〳〵と打つ音がした。女中が立つてそれを開いたが、直ぐ美奈子の所へ帰つて来た。

「あの、お嬢さま。ホテルの支配人の方が、一寸お目にかゝりたいと申してをります。」

 美奈子は、立ち上つてドアの所へ行つた。

「どうか、一寸こちらへ。」

 支配人は、美奈子に廊下へ出ることを求めた。美奈子が、一寸不安な気持に襲はれながら、続いて廊下へ出ると、支配人は声をひそめた。

「お取込みの中を、大変恐れ入りますが、今箱根町から電話がかゝつてゐるのです。実は蘆の湖で今夕水死人の死体が上つたと云ふのですが、それが二十三四の学生風の方で、舟の中に残して置いた数通の遺書で見ると、富士屋ホテルにて、青木、と書いてあつたと云ふのです。」

 そこまで、聴いたとき、美奈子は自分の立つてゐる廊下の床が、ズーツと陥込むやうな感じがしたかと思ふと、支配人が駭いて彼女の右の肩口を捕へてゐた。

「あゝ危い! しつかりして下さい!」

 彼女は、最後の力で、自分のよろめく足を支へた。が、暫らくの間、天井と床とがグル〳〵廻るやうな気がした。

「いや、おおどろかせしてすみません、たゞ青木さんの東京のお処だけが承りたかつたのです。」

 美奈子が、顫へる声で、それに答へると、支配人は幾度も詫びながら、倉卒として去つた。

 もう、美奈子の弱い心は、人生の恐ろしさに、打ち砕かれてしまつてゐた。彼女が部屋へ帰つて来たとき、彼女の顔色は、きずついてゐる瑠璃子のそれと少しも変つてゐなかつた。

 が、丁度その時に、瑠璃子は長い昏睡から覚めてゐた。美奈子の顔を見ると、彼女は懐しげな眸で物を云ひたさうにした。

「お母様! お気が付きましたか。」

 少し明るい気持になりながら、美奈子は母の耳許で叫んだ。

「あゝ、美奈さん。まだ? まだ?」



 消えかゝるともしびのやうに、瑠璃子の命は、絶えんとして、又続いた。

 翌日になつて、彼女の熱は段々下つて行つた。傷の痛みも、段々薄らいで行くやうだつた。が、衰弱が、いたましい衰弱が、彼女の凄艶なおもてに、刻一刻深く刻まれて行つた。

 彼女の枕頭に、殆ど附き切つてゐる近藤博士の顔は、それにつれて、憂はしげに曇つて行つた。

うでせう、助かりませうか。」

 父の男爵は、傍に誰もゐないのを見計みはからうて、囁くやうに訊いた。

「希望はあります。けれど……」

 さう答へたまゝ、博士の口は重くつぐまれてしまつた。

 美奈子は、さうした問を発することが、恐ろしかつた。彼女はたゞ、力一杯、心と身体との力一杯消え行かうとする母の魂に、縋り付いてゐる外はなかつた。昨夜中、眠らなかつた美奈子の身体は綿のやうに疲れてゐた。が、彼女は誰が何と勧めても母の病床を去らうとはしなかつた。

 瑠璃子は、昏睡から覚める度に、美奈子の耳許近く、同一の問を繰返してゐた。が、その人は容易に、来なかつた。電報が運よく届いてゐるかどうかさへ、判然はつきりしなかつた。

 午後三時頃だつた。瑠璃子は、その衰へた視力で、美奈子をぢつと見詰めてゐたが、ふと気が付いたやうに云つた。

「青木さんは?」

 美奈子は愕然ぎよつとした。彼女は、暫らくは返事が出来なかつた。

「青木さんは?」

 母は、繰り返した。美奈子は、顫へる声で答へた。

「何処へ行かれたか分りませんの。あの晩からずうつと分りませんの。」

 が、瑠璃子は、美奈子の表情で凡てを悟つたらしかつた。寂しい微笑らしい影が、その唇のほとりに浮んだ。

「美奈さん、本当を云つて下さい。わたし覚悟してゐますから。どうせ助からないのですから。」

 美奈子は、何とも口が利けなかつた。

「自首したの?」

 美奈子は、首を振つた。瑠璃子の衰へた顔に、絶望的な色が動いた。

「ぢや、自殺?」

 美奈子は、黙つてしまつた。彼女の舌は、釘付けられたやうに動かなかつた。

「さう! わたし、さうだと思つてゐたの。でも今度だけは、わたし悪意はなかつたの。」

 さう云ひながら、瑠璃子は目を閉ぢた。美奈子には凡てが判つてゐた。母は、美奈子に対する義理として、青年をあれほど、露骨に斥けたのだつた。美奈子に対する彼女の真心が、彼女を、この恐ろしい結果に導いたのだと云つてもよかつた。さう思ふと、美奈子は身も世もないやうな心持がした。

 日暮に近づくに従つて、瑠璃子の容態は、険悪になつた。熱が、反対にぐん〳〵下つて行つた。呼吸が──それも何の力もない──愈々いよ〳〵せはしくなつて行つた。

 博士は、到頭今夜中が危険だと云ふことを、宣言した。

 瑠璃子に対して、死の判決文が読まれたときだつた。ホテルの玄関に、横着よこづけになつた一台の自動車があつた。それは昔の恋人の危急に駭いて、瀕死の床を見舞ふべく駈け付けて来た直也だつた。熱帯地に於ける二年の奮闘は、彼の容貌をも変へてゐた。一個白面の貴公子であつた彼は、今やあかぐろい男性的な顔色と、隆々たる筋肉を持つてゐた。見るからに、颯爽たる風采と面魂つらだましひとを持つてゐた。その昔ながらに美しい眸は、自信と希望とに燃えてゐた。



 直也が瑠璃子の部屋に入つて来たとき、瑠璃子は夢ともなくうつゝともないやうに眠つてゐた。

 生命そのもの、活動そのものと云つたやうな直也の姿と、死そのもの、衰弱そのものと云つたやうな瑠璃子の蒼ざめた瀕死の姿とは、何と云ふ不思議な、しかしあはれな、対照をしただらう。青春の美しさと、希望とに輝きながら、肩をならべて歩いた二年前の恋人同士として、其処に何と云ふおそろしいへだたりが出来たことだらう。

 美奈子は、看護婦達を遠ざけた。そして、母の耳許に口を寄せて叫んだ。

「お母さま、あの、直也様がいらつしやいました。」

 段々、衰へかけてゐる瑠璃子の聴覚には、それが容易には聞えなかつた。美奈子は再び叫んだ。

「お母さま、直也様がいらつしやいました。」

 瑠璃子の土のやうに蒼いかほの筋肉が、かすかに、動いたやうに思つた。美奈子の声が漸く聞えたのである。美奈子は、三度目に力を籠めて叫んだ。

「お母様、直也様がいらつしやいました。」

 ふと母の頬が、──二日の間に青白く萎びてしまつた頬が、ほのかにではあるがうす赤く染まつて行つたかと思ふと、その落窪んだ二つの眼から、大粒の涙がほろ〳〵と、止めどもなく湧き出でた。と、今まで毅然として立つてゐた、直也の男性的な顔が、妙にひきつツたかと思ふと、彼のあかぐろい頬を、涙が、滂沱ばうだとして流れ落ちた。

 美奈子は、恋人同士に、二人りの久し振りの、やがて最後になるかも知れない会見を与へようと思つた。

「お母様! それでは、わたくしはお次ぎへ行つてをりますから。」

 さう云つて、美奈子は次ぎの部屋に去らうとした。すると、意外にも瑠璃子は、瀕死の声を揚げて云つた。

「美奈さん! あなたも──どうか〳〵ゐて下さい。」

 それは、かすかな、僅に唇を洩るゝやうな声だつた。

「お母様、わたくしもゐるのですか。妾もゐるのですか。」美奈子は、再び訊いた。母は、肯いた。いな肯くやうに、その重い頭を、動かさうとしたのだ。

 やがて、瑠璃子は、その衰へはてた眸を持ち上げながら、何かを探るやうな眼付をした。

「瑠璃さん! 僕です、僕です。分りますか。杉野ですよ。」

 直也も、激して来る感情に堪へないやうに叫びながら、瑠璃子に掩ひかぶさるやうに、そのあかぐろい顔を、瑠璃子の顔に触れるやうな近くへ持つて行つた。

 瀕死の眼にも恋人の顔が分つたのだらう、彼女の衰へた顔にも嬉しげな微笑の影が動いた。それは本当に影に過ぎなかつた。微笑むだけの力も、彼女にはもう残つてゐなかつたのだ。

「直也さん!」

 瑠璃子は、消えんとする命の最後の力を、ふりしぼつたのだらう、が、しかし、それはかすかな、うめくやうな声として、唇を洩れたのに過ぎなかつた。

「何です? 何です?」

 直也は、瑠璃子の去らんとする魂に、縋り付くやうに云つた。

「わ──た──し、あなたには何も云ひませんわ。たゞお願ひがあるのです。」

 それだけ続けるのが、彼女には精一杯だつた。

「願ひつて何です?」

「聴いてくれますか。」

「聴きますとも。」

 直也は、心の底から叫んだ。

「あの──あの──美奈さんを、貴君あなたにお頼みしたいのです。美奈さんは──美奈さんは──みなし──みなし──みなしご……」

 そこまで、云つたとき、彼女の張り詰めた気力の糸が、ぶつりと切れたやうに、彼女はぐつたりとなつてしまつた。

 母は、直也を呼んだことが、彼女自身のためではなく、母が一番信頼する直也に、自分の将来を頼む為であつたかと思ふと、美奈子は母の真心に、その死よりも強き愛に、よゝとばかり、泣き伏してしまつた。

 その夜、瑠璃子の魂は、美しかりし彼女の肉体を永久に離れた。烈々たる炎の如き感情の動くまゝに、その短生たんせいを、火花の如く散らし去つた彼女の勝気な魂は、恐らく何の悔をも懐くことなく縹渺へうべうとして天外に飛び去つたことだらう。



 母を失つた美奈子の悲嘆は、限りもなかつた。彼女は、世の中の凡てを失ふとも、母さへ永らへて呉れゝばと、嘆き悲しんだ。

 母の亡骸なきがらが、棺に納められた後、彼女は涙の裡に母の身辺のものを、片づけにかゝつてゐた。そして、最後に、母が刺されたその夜に、身に付けてゐた、白い肌襦袢に、手を触れなければならなかつた。それには、所々血がにじんでゐた。美奈子は、それに手を触れるのが恐ろしかつた。が、母が身に付けたものを、他人の手にかけるのは、厭だつた。彼女は、恐る〳〵それを手に取り上げた。そのときに、彼女はふとその襦袢の胴のところに、布類とは違つた堅い手触りを感じた。彼女はおどろいて見直した。其処には何か紙片かみきれのやうなものが、軽く裏側から別に布を掩うて、縫ひ付けられてゐた。彼女はそれを見ようか見まいかと思ひまどつた。母の秘密を、死後に暴くことになりはしまいかと恐れたが、彼女はそれが母の大切な遺書か、何かのやうにも思はれた。彼女は、思ひ切つて、おそる〳〵それを取り出して見た。意外にも、それは台紙を剥がした一葉の写真だつたのである。写真は、絶えず母の肌と触れてゐたために、薄れてはゐたけれども、まぎれもなく直也が、学生時代の姿だつた。

 美奈子は、その写真を見たときに、母の本当の心が判つたやうに思つた。母が、黄金の力のためにいつはりの結婚をしたときも、美しき妖婦として、群がる男性を飜弄してゐたときにも、彼女の心の底深く、初恋の男性に対する美しき操は、汚れなき真珠の如く燦然として輝いてゐたのであつた。いな、彼女は初恋の人に対する心と肉体との操を守りながら、初恋を蹂み躙られたうらみを、多くの男性に報いてゐたと云つてもよかつた。

 美奈子は、母に対する新しい感激の涙に咽びながら、隣室にゐた直也を呼ぶと、黙つてその写真と肌襦袢とを示した。

 暫らく、それを見詰めてゐた直也は、溢れづる涙が、美奈子の手前一寸は支へてゐたが、到頭堪へきれなくなつたと見え、男泣きに泣き出してしまつた。


       ×


 青木稔と瑠璃子との死に就いて、都下の新聞紙は、その社会部面の過半を割いて、いろ〳〵に書き立てた。が、そのどれもが、瑠璃子夫人を男の血を吸ふ、美しい吸血魔ヴァムパイアとすることに一致した。中には、夫人の死を、妖婦カルメンの死に比してゐるものもあつた。夫人の華麗奔放、放縦不羈ふきの生活を伝聞してゐた人々は、新聞の報道を少しも疑はなかつた。夫人の美しさをたゝへると同時に、夫人の態度を非難する嵐のやうな世評の中に在つて、夫人の本当の心、その本当の姿を知つてゐるものは、美奈子と直也の外にはなかつた。

 が、世の中の千万人から非難されようとも、彼女がこの世の中で愛した、たつた二人の男性と女性とから、理解されてゐることは、大輪の緋牡丹の崩るゝ如く散り去つた彼女に取つて、さぞ本望であつただらう。


       ×


 記憶のよい読者は、去年の二科会に展覧された『真珠夫人』と題した肖像画が、秋の季節シーズンを通じての傑作として、美術批評家達の讃辞を浴びたことを記憶してゐるだらう。

 それは、清麗高雅、真珠の如き美貌を持つた若き夫人の立姿であつた。而も、この肖像画の成功はその顔に巧みに現はされた自覚した近代的女性に特有な、理智的な、精神的な、表情の輝きであると云はれてゐた。その絵を親しく見た人は、画面の右の端に、K. K. と署名サインされてゐるのに気が付いただらう。それは、妹の保護のもとに、芸術の道に精進してゐた唐沢光一が、妹の横死を悼む涙の裡に完成した力作で、彼女に対する彼が、唯一の手向であつたのであらう。


       ×


 瑠璃子を失つた美奈子の運命が、此先うなつて行くか、それは未来のことであるから、此の小説の作者にも分らない。が、われ〳〵は彼女を安心して、直也の手に委せて置いてもいゝだらうと思ふ。

底本:「菊池寛全集 第五巻」高松市菊池寛記念館刊行、文藝春秋発売

   1994(平成6)年315日発行

底本の親本:「菊池寛全集 第六巻」中央公論社

   1937(昭和12)年921日刊行

初出:「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」

   1920(大正9)年69日~1222

初収単行本:「真珠夫人(前編・後編)」新潮社

   1920(大正9)年1228日刊行

※外来語に限って、片仮名に小書きを用いる本文の表記に合わせ、ルビも処理しました。(ただし「希臘ギリシヤ」には、小書きを用いませんでした。)

※旧仮名遣いから外れると思われる表記にも、注記はしませんでした。

※「唐澤」「唐沢」、「愈々いよ〳〵」「いよ〳〵」、「…だけ」「…丈」「…け」「…だけ」、「此の青年」「此青年」、「面魂つらだましひ」「面魂つらたましひ」などの混在は、底本通りです。

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:kompass

校正:松永正敏

2005年38日作成

2012年106日修正

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