雜煮
岡本かの子



 維新前江戸、諸大名の御用商人であつた私の實家は、維新後東京近郊の地主と變つたのちまでも、まへの遺風を墨守して居る部分があつた。

 いろは順で幾十戸前が建て列ねた藏々をあづかる多くの番頭、その下の小僧、はした、また奧女中の百人近い使用人へ臨んだ主人としての態度は、今でも東京の下町の問屋あたりの老主人がかたく墨守して居るそれと變りはなかつた。正月の雜煮を當代の主人も今の召使達と一つ大釜から盛つて据えられた。主人はその膳の前に紋付の羽織の襟を正しうやうやしく座つて白木の箸を取り上げた。長坊も長孃も、次男も末娘もそれに添つて居並び主人の父親の通りにした。雜煮は中位な四角の餅の燒いたのを大根、里芋、小松菜を浮かべたすまし汁のなかへ浸したものである。あつさりとしたこの味が幼い時から舌にならされてしまつた。私達は二の膳につく鯛の吸ひものを閑却して、この雜煮を幾椀も換へた。お椀はたしか主人達だけ光琳の繪模樣のある大きな雜煮椀だつたと覺えて居る。

 後年、市中に嫁いでからも、私はこの雜煮を年毎に欲しがつた。この家の主人の生家は都會であつても關西の或藩から出た祖先からのならはしは、鴫雜煮、或ひは白味噌雜煮であつた。前者は私に生嗅かつた。後者は私にしつこかつた。強性な私が勝つて主人は苦笑しながら私の欲しがるその雜煮を喰べた。やがて主人もすつかりそれに馴れた。幾年かたつた或年の暮れであつた。私達の家に山陰の名門に育てられた男の兒兄弟が預けられた。丁度學校が休みになつたので、暮れのうちから兄弟は賑かに正月の趣向を語り合つて居た。

『そんな雜煮はつまらないなあ。』

 兄弟達は私の雜煮をくさすのだつた。兄弟達は私の不服を淡白な笑ひに紛らしてしまひ、結局、山陰雜煮なるものを私達の家庭に紹介しやふと云ふのである。

 大晦の晩に、山陰道の家から、兄弟達の云つて遣つた丸餅が、蜜柑箱に一ぱい詰まつて屆いた。一つ一つ出して見ると、大きな蜜柑程にかためて浮き粉をふつたものである。練つて練り拔いて眞綿の密精の樣な粘着力と艷を持ち、味はただ燒いたくらゐで喰べるとあまりに濃やかに過ぎるのであつた。が、雜煮へは釜の湯で茹でて用ひるのであつた。質の好い鰹ぶしを濃かにかいて煮だし汁をとり、それよりもなほ一層濃やかに細い花瓣を盛つた樣にかき重ねた鰹魚ぶしをその煮だし汁に一つまんまるく落した餅の上に積む。行儀よく揃えた芹か小松菜の青味に絹糸の樣に細く打つた燒玉子の黄味としやつきりした照の好い蒲鉾の白味を添える。視た眼も舌の味ひも、あつさりと品のよい、みやびやかで、どこか鄙びた珍らしい雜煮の椀を手にとりあげた。山陰道の優雅な野趣が眼に浮んで來た。澄んで居ても重く湛えた水、山々が松のみどりを押畫のやうに厚く疊んだ素朴なしかも濃艷な風景を思ひ浮べた。

 男の兒の兄は瀟洒とした明るい寂しい風貌を備え弟はやや鈍角なる短面に温和と鋭氣をただよはす。二人とも馴れても決して狎れぬ程度の親しみがさすが名門の育ちを見せて奥床しい。その年の元日の朝陽はさはやかであつた。障子を隈なく明け放した座敷に悠々と流れ入つた朝陽の色が疊一ぱいに擴がつて床の大花瓶に插されてあつた眞赤な南天の實が冴え冴えと一粒一粒ひかつた。

底本:「日本の名随筆17 春」作品社

   1984(昭和59)年325日第1刷発行

   1997(平成9)年220日第20刷発行

底本の親本:「岡本かの子全集第十四巻」冬樹社

   1977(昭和52)年5月第1刷発行

※底本に見る新字の「奥」は、ママとしました。

入力:門田裕志

校正:林 幸雄

2002年124日作成

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