半七捕物帳
蝶合戦
岡本綺堂



     一


 江戸っ子は他国の土を踏まないのを一種の誇りとしているので、大体に旅嫌いであるが、半七老人もやはりその一人で、若い時からよんどころない場合のほかには、めったに旅をしたことが無いそうである。それがめずらしく旅行したということで、わたしが訪ねたときは留守であった。老婢ばあやの話によると、宇都宮のざいにいる老人の甥の娘とかが今度むこを取るについて、わざわざ呼ばれて行ったということであった。それから十日ほど経つと、老人から老婢を使によこして、先日は留守で失礼をしたが、きのう帰宅しました、これはめずらしくもない物だが御土産のおしるしでございますと云って、日光羊羹と乾瓢かんぴょうとを届けてくれた。

 その挨拶ながら私が赤坂の家をたずねたのは、あくる日のゆう方で、六月なかばの梅雨つゆらしい細雨こさめがしとしとと降っていた。襟に落ちる雨だれに首をすくめながら、入口の格子をあけると、老人がすぐに顔を出した。

「はは、ばあやにしてはちっと早い。きっとあなただろうと思いました」

 いつもの笑顔に迎えられて、わたしは奥の横六畳の座敷へ通った。ばあやは近所へ買物に行ったということで、老人は自身に茶をれたり、菓子を出したりした。ひと通りの挨拶が済んで、老人は機嫌よく話し出した。

「あなたは義理が堅い。この降るのによくお出かけでしたね。あっちにいるあいだも、とかく降られ勝ちで困りましたよ」

「なにか面白いことはありませんでしたか」と、わたしは茶を飲みながら訊いた。

「いや、もう」と、老人は顔をしかめながらかぶりをふってみせた。「なにしろ、宇都宮から三里あまりも引っ込んでいる田舎ですからね。いや、それでもわたしの行っている間に、雀合戦があるというのが大評判で、わたくしも一度見物に出かけましたよ。何万びきとかいう評判ほどではありませんでしたが、それでも五六百羽ぐらいは入りみだれて合戦をする。あれはどういう訳でしょうかね」

「東京でもかつてそんな噂を聴いたことがありましたね」

「雀合戦、蛙合戦、江戸時代にはよくあったものです。この頃そんな噂の絶えたのは、雀や蛙がだんだんに減って来たせいでしょう。あいつらも大勢いると、自然縄張り争いか何かで仲間喧嘩をするようになるのかも知れません。人間と同じことでしょうよ。ははははは」

 それから枝がさいて、江戸時代の蛙やすずめの合戦話が始まった頃に、ばあやが帰って来た。雨の音が又ひとしきり強くきこえた。

「よく降りますね」と、老人は雨の音に耳をかたむけながら又云い出した。「今もお話し申した雀合戦、蛙合戦のほかに螢合戦、蝶合戦などというのもあります。螢合戦もわたくしは一度、落合おちあいの方で見たことがあります。それから蝶合戦……。いや、その蝶合戦について一つのお話がありますが、まだお聴かせ申しませんでしたかね」

「まだ伺いません。聴かしてください」と、私は一と膝のり出した。「その蝶合戦が何か捕物に関係があるんですか」

「大ありで、それが妙なんですよ」

 これが口切りで、わたしは今夜もひとつの新らしい話を聴き出すことが出来た。


 万延元年六月の末頃から本所ほんじょう竪川たてかわ通りを中心として、その附近にたくさんの白い蝶が群がって来た。はじめは千匹か二千匹、それでも可なりに諸人の注意をひいて、近所の子ども等は竹竿や箒などを持ち出して、面白半分に追いまわしていると、それが日ましにえて来て、六月晦日みそかにはその数が実に幾万の多きに達した。なにしろ雪のように白い蝶の群れが幾万となく乱れて飛ぶのであるから、まったく一種の奇観であったに相違ない。

「蝶々合戦だ」と、みな口々に云った。

 むらがる蝶は狂っているのか戦っているのか能く判らなかったが、ともかくも入りみだれて追いつ追われつ、あるいは高く、あるいは低く、もつれ合って飛んでいる。疲れたのか傷ついたのか、水の上にはらはらと舞い落ちるのもある。風に吹きやられて大空にひらひらと高く舞いあがるのもある。そこらは時ならぬ花吹雪とも見られる景色であるので、屋敷の者も町屋まちやの者も総出になって、この不思議なありさまを見物しているうちに、誰が云い出すともなく、こんな噂がそれからそれへとささやかれた。

「やっぱり善昌さんの云うのはほんとうだ。弁天さまのお告げに嘘はない。これは何かのお知らせに相違あるまい」

 気の早いのは松坂町まつざかちょうの弁天堂へ駈けつけて、おうかがいを立てるのもあった。松坂町はかの吉良上野介の屋敷のあった跡で、今はおおかた町屋となっている。その露路の奥に善昌という尼が住んでいる。以前は小鶴といって、そこらを托鉢の比丘尼びくにであったが、六、七年前から自分の家に弁財天を祭って諸人に参拝させることにした。本所にはいわやの弁天、藁づと弁天、なた作り弁天など、弁天のやしろはなかなか多いのであるが、かれがまつっているのは光明弁天というのであった。かれ自身の云うところによれば、ある夜更けに下谷したや御成道おなりみちを通ると、路ばたの町屋の雨戸の隙間からただならぬ光りが洩れているので、不思議に思って覗いてみると、それは古道具屋で、店先にかざってある木彫きぼりの弁天の像から赫灼かくやくたる光明を放っていた。いよいよ不思議を感じて帰って来ると、その夜の夢にかの弁財天が小鶴の枕もとにあらわれて、我を祀って信仰すれば、諸人の災厄をはらい、諸人に福運を授けると告げたので、かれは翌朝早々に下谷へ行ってその尊像を買い求めて来たのである。その話が世間に伝わって、それを拝みに来る者がだんだんに殖えて来た。

 小鶴はその名を善昌とあらためた。今までは長屋同様の小さい家であったのを建て換えて、一つの弁天堂のように作りあげた。かれは托鉢をやめて、堂守どうもりのような形でそこに住んでいたが、参詣者の頼みにっては一種の祈祷のようなこともした。身の上判断もした。彼女がこうして諸人の信仰や尊敬をうけるようになったのは、弁財天の霊験あらたかなるにること勿論で、二、三年前にもこういう実例があった。ある日の午後、独身者ひとりものの善昌が近所へ用達しに出ると、その留守へやはり近所のお国という女が参詣に来た。

 ここでお国をおどろかしたのは、一人の若い男が仏前に倒れ苦しんでいることであった。男は口からおびただしい血を吐いて、虫の息で倒れている。お国はびっくりして声をあげると、近所の人たちも駈け集まって来て、一体どうしたことかと詮議したが、男はもう口を利くことが出来なかった。彼はそこにころげている餅や菓子を指さしたままで息が絶えた。それからだんだん調べてみると、かれは賽銭箱の錠をこじあけて賽銭をぬすみ出したのである。そればかりでなく、仏具のなかでも金目かねめになりそうな物を手あたり次第にぬすみ取り、風呂敷につつんで背負い出そうとしたが、それでもまだ飽き足らないで、仏前にそなえてある餅や菓子を食い、水を飲んだ。そうして何かの毒にあたって死んだらしいということが判った。

 取りあえずそれを善昌の出先きへ報らせてやると、かれも驚いて帰って来た。かの男はどうして死んだのか判らないが、仏前の餅や菓子に毒のはいっている筈はないと善昌は云った。かれは諸人のうたがいを解くために、かれらの見ている前でその餅や菓子を食ってみせたが、別になんにも変ったことはなかった。そんならかの男はなぜ死んだか。かれは盗人で、賽銭をぬすみ、仏具をぬすみ、あまつさえ仏前の供物くもつまで盗みくらったので、たちまちその罰を蒙って供物が毒に変じたのであろうと、諸人は判断した。かれらは今更のように弁財天の霊験あらたかなるに驚嘆して、信心いよいよきもに銘じた。その噂がまた世間にひろまって、信者は以前に幾倍するようになった。諸方からの寄進も多分にあつまって、弁天堂は再び改築されたので、狭い露路の奥にありながらも、その赫灼たる燈明のひかりは往来からも拝まれて、まことに光明弁天の名にそむかないように尊く見られた。

 その善昌が今年の三月、弁財天のお告げであると称して、一種の予言めいたことを信者たちに云い聞かせた。今年はおそるべき厄年であって、井伊大老の死ぐらいは愚かなことであり、五年前の大地震、四年前の大風雨おおあらし、二年前の大コロリ、それにも増したる大きいわざわいが江戸中に襲いかかって来るに相違ない。但しそれには必ず何かの前兆があるから、いずれも用心を怠ってはならぬというのであった。付近の信者はみなそれを信じた。大地震、大風雨、大コロリ、黒船騒ぎ、大老邀撃ようげき、それからそれへと変災椿事が打ちつづいて、人の心が落ち着かないところへ、又もやこの恐ろしい御託宣を聴かされたのであるから、かれらの胸に動悸の高まるのも無理はなかった。

 かならず何かの前兆があると善昌は云った。その警告におびえている彼等の眼のまえに、不思議の蝶合戦が起ったのである。気の早い者はあわてて弁天堂へかけ着けると、仏前の燈明はすべて消えていた。幾匹かの白い蝶がどこからか飛んで来て、燈明の火を片端から消してしまったのであると、善昌は不思議そうに話した。


     二


 蝶の最も出盛ったのは、朝の四ツ時(午前十時)頃から昼の八ツ時(午後二時)頃までで、八ツを過ぎるころから無数の蝶の群れもだんだんに崩れ出して、鐘撞堂のゆう七ツ(午後四時)がきこえる頃には、消えるように何処へか散り失せてしまった。水に落ちたものは流れもあえずに、夏の日の暮れ果てるまで竪川を白く埋めて、涼みがてらの見物を騒がせていたが、あくる朝は一匹もその姿をとどめなかった。

「弁天さまのお告げに嘘はない。おそろしいことでござります」

 善昌は再び信者たちに云い聞かせた。信者たちももう疑う余地はないので、善昌と相談の上で、七月の朔日ついたちから盂蘭盆うらぼんの十五日まで半月の間、弁天堂で大護摩おおごまを焚くことになった。護摩料や燈明料は云うまでもなく、そのほかにもいろいろの奉納物が山のように積まれた。

 こうして、はじめの七日は無事に済んだが、たなばた祭りもきのうと過ぎた八日の朝になって、善昌は突然に仏前の御戸帳みとちょうをおろした。今までは何人なんぴとにも拝ませていた光明弁天の尊像をむらさきのとばりの奥に隠してしまったのである。これは夢枕に立った弁財天のお告げで、今後百日のあいだは我が姿を人に見せるな、その間にわざわいの日は過ぎてしまうとのことであったと、善昌は説明した。そうして引きつづいて護摩を焚き、祈祷を行なっていたのであるが、それから三日と過ぎ、四日と経つうちに、誰が云うともなしにこんな噂がまた伝わった。

「御戸帳のなかはからだ。弁天様はなくなってしまったらしい」

 信者のなかでも有力の三、四人がその噂を気に病んで、諸人のうたがいを解くために、たとい一と目でもいいから御戸帳の奥を覗かせてくれと交渉したが、善昌は頑としてかなかった。本尊の秘仏を厨子ずしに納めて、何人にも直接に拝むことを許さない例は幾らもある。おまえ方のうちに浅草観世音の御本体を見た者があるか、それでも諸人は渇仰かつごう参拝するではないか。百日のあいだは我が姿を人にみせるなというお告げにそむいて、みだりに奥をうかがう時は、仏罰によって眼が潰れるか、気が狂うか、どんなわざわいを蒙らないとも限らない。おまえ方はおそろしい禍いを避けるために、護摩を焚き、祈祷を行なっていながら、却って仏罰を蒙るようなことを仕出かして、どうする積りか。尊像のあるか無いかは百日を過ぎれば自然に判ることである。それを疑うものは参拝を止めたらよかろうと、彼女はきっぱりと云い切った。

 こう云われると一言もないので、誰も彼もみな黙ってしまった。そうして、日々の祈祷は今までの通りに続けられたが、尊像紛失のうたがいはまだ全く消えないで、信者のあいだにはいろいろの噂が伝えられているうちに、いよいよ盂蘭盆の十五日が来た。祈祷はこの日限りでとどこおりなく終った。

 あくる十六日の朝になっても、弁天堂のはあかなかった。日々の祈祷の疲れで、きょうは善昌さんも朝寝坊をしているのであろうと、近所の者も初めのうちは怪しまなかったが、やがてひるごろになっても扉があかないので、不思議に思って裏口へまわって窺うと、水口みずぐちの戸には錠がおろしてないとみえて、自由にさらりとあいた。幾たびか声をかけても返事がないので、近所の二、三人が思い切って薄暗い奥へはいると、どこにも善昌のすがたが見えなかった。かれは六畳の小座敷に寝起きしている筈であるが、そこには蚊帳さえも釣ってなかった。

 ひとり者であるから、今までにも家をあけて出ることは珍らしくなかったが、午頃までも表の扉をあけないというのは不思議である。それを聞き伝えて、信者の誰かれも集まって来て、大勢が立ち会いの上で堂内をあらためたが、どこも綺麗に片付いていて、別に怪しむべき形跡もなかった。そのうちに一人が云い出した。

「善昌さんはもしや駈け落ちをしたのではあるまいか」

 弁財天の尊像紛失はやはり事実で、かれはその申し訳なさに、十五日間の祈祷料や賽銭のたぐいを掻きあつめて、どこへか駈け落ちしたのではあるまいかというのである。或いはそんなことが無いとも云えない。それでなくとも、このあいだから諸人の疑問になっているので、大勢は立ち寄って恐る恐るそのとばりをあけると、かの尊像のおん姿は常のごとく拝まれたので、一同は案に相違した。善昌の云ったのは嘘でなかった。その疑いが解けると同時に、それならばなぜ善昌はその姿をかくしたかという新らしい疑いが更に深くなった。

 弁天堂は信者の寄進によって善昌が作りあげたのであるが、こういう事件が起った以上、この露路のなかを差配している家主にも一応ことわって置かなければならないというので、誰かがそれを届けにゆくと、家主もとりあえず出て来た。そこで相談の上あらためて家捜やさがしをすることになって、念のために床下までもあらためると、台所の揚板の下には炭俵が二、三俵押し込んである。その一つのあき俵のなかに首を突っ込んで、善昌がうつむきに倒れているのを発見したときは、大勢は思わず驚きの声をあげた。善昌は手足をあら縄で厳重にくくられていた。

 それだけでも諸人をおどろかすに十分であるのに、更に人々をおどろかしたのは、二、三人がそのからだを抱き起そうとすると、あき俵をかぶせられている善昌には首がなかった。かれは首を斬り落されているのであった。今度は誰も声を出す者がない、いずれもおしのように眼を見あわせているばかりであった。

「善昌さんの首がない」

 その噂が隣りちょうまで伝わって、他の信者たちもおどろいて駈けつけた。見物の弥次馬も続々あつまって来た。狭い露路のなかは人を以って埋められた。おくれ馳せに来た者は往来にあふれ出して、唯いたずらにがやがやと罵りさわいでいるのであった。

 善昌の死──その仔細は誰にも容易に想像された。この十五日間、やくよけの祈祷をおこなって、護摩料や祈祷料や賽銭が多分にあつまっているので、それを知っている何者かが忍び込んで彼女を殺害したのであろう。善昌は抵抗したために殺されたのか、あるいは先ず善昌を殺して置いて、それから仕事に取りかかったのか、その順序はよく判らなかったが、いずれにしても其の首を斬り落すのは余りに残酷である。床板を引きめくって縁の下をくまなくあらためたが、その首はどうしても見付からなかった。

 首のない尼の死骸は六畳の間に横たえられて、役人の検視をうけることになった。本所は朝五郎という男の縄張りであったが、朝五郎は千葉の親類に不幸があって、あいにくきのうの午すぎから旅に出ているので、半七が神田から呼び出された。半七はちょうど来あわせている子分の熊蔵を連れて駈けつけた。地獄の釜のふたがあくという盂蘭盆の十六日は朝から晴れて、八ツ(午後二時)ごろの日ざかりはけるように暑かった。ふたりは眼にしみる汗をふきながら両国橋をいそいで渡ると、回向院えこういんの近所には藪入りの小僧らが押し合うように群がっていた。

「ここの閻魔えんまさまは相変らずはやるね」と、熊蔵は云った。

「はやるのは結構だが、閻魔さまもちっと睨みを利かしてくれねえじゃあ困る。盆ちゅうにも人殺しをするような奴があるんだからな」

 こんなことを云いながら二人は弁天堂にゆき着くと、露路の内そとには大勢の見物人がいっぱいに集まっている。それを掻きわけてはいってゆくと、検視のまち役人ももう出張っていた。

「どうも遅くなりました。皆さん、御苦労さまでございます」

 半七は一応の挨拶をして、まず善昌の死骸を丁寧にあらためた。死骸の手足はあら縄で厳重にくくられていたが、殆ど無抵抗で縄にかかったらしいことは、多年の経験ですぐに覚られた。そこらの畳には血の痕らしいものは見えなかった。もしや綺麗に拭き取ったのかと、半七は犬のように腹這って畳の上をかいでみた。

「尼さんは酒を飲みますかえ」と、半七はそこに控えていた信者の一人に訊いた。

 当人は飲まないと云っていた。身分柄としてもそう云わなければならないのであろうが、内証では時々に少しぐらい飲んでいたこともあるらしいという信者の答えを聴いて、半七はうなずいた。畳には新らしい酒の香が残っていた。なにか紛失物はないかと訊くと、それはよく判らないが、尼が大切にしている革文庫がみえない。そのなかに金のしまってあるのを知って盗み出したのではあるまいかというのであった。半七は又うなずいた。

 型の通りの検視が済んで、そのあと調べを半七にまかせて、役人たちは引き揚げた。ちょう役人や家主も一旦帰った。あとに残されたのは町内の薪屋まきやの亭主五兵衛と小間物屋の亭主伊助で、この二人は信者のうちの有力者と見なされ、いわゆる講親こうおやとか先達せんだつとかいう格で万事の胆煎きもいりをしていたのである。半七はこの二人を残しておいて、善昌の身もと詮議をはじめた。

「善昌は幾つですね」

「自分でもはっきり云ったことはありませんが、なんでも三十二三か、それとも五六ぐらいになっていましょうか。見かけは若々しい人でございました」と、五兵衛は答えた。

「独り者で、ほかに身寄りらしい者もないんですね」

「自分は孤児みなしごで、天にも地にもまったくの独り者だと、ふだんから云っていました」と、伊助は答えた。

「よそへ泊まって来たことがありますかえ」

「祈祷などを頼まれて、夜も昼も出あるくことはありましたが、遅くもきっと帰って来まして、家をあけたことは一と晩もなかったようです」と、伊助はまた答えた。

 これを口切りに善昌がふだんの行状から先頃の蝶合戦のこと、それから続いて今度の祈祷のことを、半七は残らず聞きただした。それが済んでからの問題の尊像というのを一応あらためると、木彫りの弁財天は高さ三尺ばかりで、かなりに古びたものであった。半七はその木像を撫でまわして、更に二、三ヵ所いでみた。そうして、小声で熊蔵に云った。

「熊や、おめえも嗅いでみろ」


     三


「尼さんには用のねえ商売だが、男か女の髪結いで、ここのうちへ心安く出這入りをする者がありますかえ」と、半七は訊いた。

 伊助は小間物屋であるだけに、その人をよく識っていた。それは隣り町に住んでいるお国という女髪結で、善昌とは古いなじみでもあり、もちろん信者の一人でもあるので、ふだんから近しく出入りをしている。これも独り者で、年頃は四十を一つ二つ越しているかも知れないと云った。

「それじゃあすぐに呼んでください」

「かしこまりました」

 伊助は怱々出て行ったが、やがて引っ返して来て、お国はゆうべからうちへ帰らないと云った。独り者であるから、いつも朝から家を閉めて商売に出歩いている。親類の家へ泊まるとか云って、夜も帰らないことがしばしばある。きのうも夕方に帰って来て、湯に入ってから何処へか出かけたぎりで帰らない。大かた親類へでも泊まりに行って、きょうは藪入りで商売は休みであるから、どこかを遊び歩いているのであろうとのことであった。

「それじゃあ、いつ帰るか判らねえ」

 思案しながら半七は、再び善昌の死骸に眼をやると、首のない尼は白い麻の法衣ころもを着て横たわっていた。半七はその冷たい手を握ってみた。

 もしもお国が帰って来たらば、そっと自分のところまで知らせてくれと頼んで置いて、半七はひと先ずここを引き揚げることになった。暑い時分のことであるから、信者たちがあつまってすぐに死骸の始末をすると五兵衛は云っていた。

「勿論このまま打っちゃっても置かれめえが、火葬にするのはお見合わせなさい。この死骸について、後日ごにち又どんなお調べがないとも限りませんから」と、半七は注意した。

「では、土葬にいたして置きます」

 五兵衛と伊助に見送られて、半七はここを出た。

 さっきから余ほどの時間が経ったようであるが、七月なかばの日はまだ沈みそうもなかった。片蔭のない竪川の通りをふたりは再び汗になって歩いた。

「蝶合戦のあったというのはここらだな」

「そうでしょう」と、熊蔵は云った。「わっしは見なかったが、なんでも大変な評判でしたよ」

「むむ。評判だけは俺も聴いている」と、半七は立ちどまって川の水をながめていたが、やがて子分にささやいた。「おい、おめえはさっきあの木像を嗅いで、どんな匂いがした」

「なんだか髪の油臭いような匂いがしましたよ」

「むむ」と、半七はうなずいた。「善昌は尼だ。髪の油に用はねえ筈だ。なんでも油いじりをする奴があの木像に手をつけたに相違ねえ」

「すると、そのお国とかいう女髪結がいじくったかも知れませんね」

「おめえはあの死骸を誰だと思う」

「え」と、熊蔵は親分の顔をながめた。

「おれの鑑定では、あれがお国という女髪結だな」

「そうでしょうか」と、熊蔵は眼を見はった。「どうしてわかりました」

「あの死骸の手にも油の匂いがしている。き油や鬢付びんつけの匂いだ。元結もっといを始終あつかっていることは、その指をみても知れる。善昌は三十二三だというのに、あの肉や肌の具合が、どうも四十以上の女らしい。足の裏も随分堅いから、毎日出あるく女に相違ねえ」

「それじゃあお国の首を斬って、その胴に善昌の法衣ころもを着せて置いたんでしょうか」

「まずそうらしいな。お国はゆうべから帰らねえというが、おそらく来年の盆までは娑婆しゃばへ帰っちゃあ来ねえだろうよ」と、半七はにが笑いをした。「それにしても、なぜお国を殺したかが詮議物だ。お国を自分の替え玉にして残して置いて、本人の善昌はどこにか隠れているに相違ねえ。おめえはこれから引っ返して、お国という女の身許や、ふだんの行状をよく洗って来てくれ。そうしたら何かの手がかりが付くだろう」

「ようがす。すぐに行って来ます」

「いや、待ってくれ。おれも一緒に行こう。こんなことは早く埒をあける方がいい」

 ふたりは連れ立って又引っ返した。

 お国の家は弁天堂の隣りちょうで、これも狭い露路の奥の長屋であった。近所でだんだん聞きあわせると、お国の評判はどうもよくない。若いときから二、三人の亭主をかえて、今では独身ひとりみで暮らしているが、絶えず一人ふたりの男にかかり合っているらしく、親類の家へ泊まりにゆくというのも嘘かほんとうか判らない。その菩提寺の住職が去年死んで、その後は若い住職に変ったが、その僧とも何かの係り合いが出来て、ときどきにそっと泊まり込みにゆくらしいという噂もある。それらの事実を探り出して、ふたりはここを立ち去った。

「さあ、もうひと息だ」

 半七は先に立って歩いた。お国の菩提寺は、中の郷の普在寺であると聞いたのを頼りに訪ねてゆくと、その寺はすぐに知れた。小さい寺ではあるが、門内の掃除は綺麗に行きとどいて、白い百日紅さるすべりの大樹が眼についた。入口の花屋で要りもしない線香としきみを買って、半七はそこの小娘にそっと訊いた。

「ここのお住持はなんという人だえ」

「覚光さんといいます」

「本所からお国さんという髪結さんが時々来るかえ」

「ええ」と、娘はうなずいた。

「泊まって行くこともあるかえ」

 娘はだまっていた。

「それから、やっぱり本所の方から尼さんが来やあしないかえ」

「ええ」と、娘は又うなずいた。

「なんという人だえ」

 娘はなにか云おうとする時に、婆さんが手桶をさげて帰って来た。かれは娘を眼で制しながら、半七らに向ってひと通りの世辞などを云い出した。そのうちに又ひと組の参詣人が花や線香を買いに来たので、半七は思い切って店を出た。

「この線香をどうしますえ」と、熊蔵は小声で訊いた。

「捨てるわけにも行くめえ。無縁の仏にでも供えて置こう」

 残暑の強い此の頃ではあるが、墓場にはもう秋らしい虫が鳴いていた。半七は何物かをたずねるように石塔のあいだを根気よく縫い歩いていると、墓場の奥の方に紫苑しおんが五、六本ひょろひょろ高く伸びていて、そのそばに新らしい卒堵婆そとばが立っているのを見つけた。卒堵婆は唯一本で、それには俗名も戒名も書いてなかったが、きのう今日に掘り返された新らしい墓であることはひと目に覚られた。

「ここに新ぼとけがある。ここらへ供えて置きましょうか」と、熊蔵は手に持っている樒と線香とを見せた。

「馬鹿。飛んでもねえことをするな」と、半七は叱った。「それほど邪魔になるなら、どこへでも打っちゃってしまえ。手前のようなどじはねえ。そんなものはこっちへよこせ」

 熊蔵の手から樒と線香とを引ったくって、半七はすたすた歩き出した。


     四


「これからの道行みちゆき下手へたに長々と講釈していると、却って御退屈でしょうから、もうここらで種明かしをしましょうよ」と半七老人は云った。「今の人はみんな頭がいいから、ここまでお話をすれば、もう大抵お判りになったでしょうが、弁天堂で死んでいたのはやっぱり髪結のお国で、善昌は生きていたんです」

「善昌が殺したんですか」と、わたしは訊いた。

「そうです。善昌という尼はひどい奴で、当人は一々白状しませんでしたけれど、前にもいろいろの悪いことをしていたらしいんです。勿論、お国という女も無事には済まない身の上で、こうなるのも心柄です。初めにお話し申した通り、弁天堂のお賽銭や仏具をぬすみ出そうとして菓子や餅の毒にあたって死んだ若い男がある。あれは仏の罰でも何でもない、善昌とお国が共謀して殺したんです。誰もそれに気がつかないで、可哀そうにその男は身許不詳の明巣あきすねらいにされて、近所の寺へ投げ込まれてしまったんですが、実は善昌のむかしの亭主の弟だそうです。善昌は越中富山の生まれで、早く亭主に死に別れて江戸へ出て来て、本所で托鉢の比丘尼をしているうちに、どこからか弁天様を見つけ出して来て、いい加減の出鱈目でたらめを吹聴すると、その山がうまくあたって、だんだんにお有難連の信者がふえて来た。ところへ、ひょっくりと出て来たのがせんの亭主の弟で与次郎という、堀川の猿廻し見たような名前の男で、これがどうして善昌の居どこを知ったのか、だしぬけに訪ねて来て何とか世話をしてくれという。よんどころなしに幾らか恵んで追っ払ったのですが、こいつもおとなしくない奴とみえて、なんとか因縁をつけて無心に来る。断われば何か忌がらせを云う。こんな者が繁々しげしげ入り込んでは、ほかの信者の手前もあり、もう一つには善昌の方にも何かうしろ暗いことがあって……これは当人がどうしても白状せず、なにぶん遠い国のことでよく判りませんでしたが、善昌はせんの亭主を殺して江戸へ逃げて来たのを、弟の与次郎が薄々知っていて、それを種にして善昌を強請ゆすっていたのではないかとも思われます。……そんなわけで、この与次郎を生かして置いては為にならないと思ったので、ふだんから仲のいいお国と相談して、与次郎を殺す段取りになったんです。善昌の申し立てによると、自分は殺すほどの気はなかったが、お国がいっそ後腹あとばらの病めないように殺してしまえと勧めたのだということです。いずれにしても与次郎を亡き者にすることに決めたが、勿論、むやみに殺すことは出来ない。そこで、善昌は与次郎に向ってこういう相談を持ちかけたんです。

 わたしも出来るだけはお前の世話をしてあげたいが、今の身分ではなかなか思うようには行かない。就いてはお前の方でこの弁天様をもっと流行らせてくれまいか。信者がふえれば賽銭もふえる。寄進もふえる。したがってお前の為にもなるというわけであるから、その積りで一つ芝居を打ってくれということになったのです。その芝居というのは、与次郎が泥坊の振りをして弁天堂へ忍び込んで、賽銭や仏具をぬすみ出そうとすると、からだがすくんで動かれなくなる。そこへお国が来て騒ぎ立てる。近所の者も集まって来る。いい頃を見計らって善昌が帰って来て、これも弁天様の御罰だと云って何かの御祈祷をすると、与次郎のからだが元の通りになる。ほかの者が縛って突き出そうと云っても善昌がなだめてゆるしてやる。さあ、こうなれば諸人の信仰は愈々増して、弁天様の霊験あらたかであるという評判がいよいよ高くなる。信者が俄かにふえる。収入みいりも多くなる。

 この相談を持ちかけられて、与次郎という奴は馬鹿か、ずうずうしいのか、それは面白いと受け合って、とうとうその芝居を実地にやってみることになったんです。そこで筋書の通りに運んで行って、賽銭を袂に入れる。金目になりそうな仏具を背負い出すという段になると、留守のはずの善昌が奥から出て来て、からだが竦むというだけではいけない、これを食って苦しむ真似をしてくれと云って、仏前に供えてある菓子と餅とをとって与次郎の口へ押し込んだので、なに心なくむしゃむしゃ食うと、さあ大変、与次郎はほんとうに苦しみ出して、口や鼻から血を吐くという騒ぎ。お国も奥で様子を窺っていて、与次郎がもう虫の息になった頃をみすまして、善昌は裏からそっと出て行く。お国は表口へ廻って来て、今初めてそれを見つけたように騒ぎ立てる。与次郎は一杯食わされて、さぞ口惜くやしかったでしょうが、もう口を利く元気もない。餅と菓子とを指さしただけで、苦しみじにに死んでしまったのです。遠国の者ではあり、下谷あたりの木賃宿きちんやどにころがっている宿無し同様の人間ですから、死ねば死に損で誰も詮議する者もない。心柄とは云いながら、ずいぶん可哀そうな終りでした。

 禍いを転じて福となすとかいうのは此の事でしょう。善昌の方ではこの芝居が大あたりで、邪魔な与次郎をやすめてしまった上、案の通りに信者はますます殖えてくる。万事がとんとん拍子に行って、弁天堂を立派に再建さいこんするほどの景気になったんですが、与次郎の代りにお国というものが出来て、これが時々無心に来る。しかしこれは女のことでもあり、自分も与次郎毒殺の一味徒党であるから、そんなに暴っぽいことは云わない。それで二人は先ず仲よく附き合っていたんですが、さらに一つの捫著もんちゃく出来しゅったいしたんです」

 ここまで話して来て、老人は息つぎの茶をひと口飲んだ。普在寺の覚光という若い住職を中心にして、尼と女髪結とのあいだに色情問題の葛藤が起ったらしいことを、私はひそかに想像していると、老人の説明も果たしてその通りであった。

「お国は勿論ですが、善昌も行儀のよくない奴で、うわべは殊勝しゅしょうらしく見せかけて、かげへ廻っては茶碗酒をあおるという始末。仲のいいお国は飲み友達で、夜が更けてからお国が酒や肴をこっそりと運び込んで、六畳の小座敷で飲んでいる。そればかりでなく、ふたりは花を引く。これは三人でないとどうも面白くないので、お国が善昌を誘い出して時々かの普在寺へ遊びにゆく。この寺の覚光という青坊主がまたお話にならない堕落坊主で、酒は飲む、博奕は打つ、女狂いはするという奴だから堪まらない。同気相求むる三人があつまって、酒を飲んだり、花をひいたりして遊んでいるうちに、善昌の金廻りのいいのを見て、色と慾とで覚光は係り合いを付けてしまった。覚光というのはまったく悪い奴で、尼と女髪結とを両手にあやなして、双方から絞り取った金で吉原通いをしている。このよし原通いのことはお国も善昌も知らなかったが、おたがい同士の秘密はいつか露顕したので、自然両方がつの突き合いになったんですが、なにぶんにも善昌の方が、お国よりは女振りが少しいい上に、年も若い。おまけに金廻りもいいと来ているので、お国の方ではけて妬けてたまらない。善昌をつかまえて、さあ、覚光と手を切るか、さもなければお前がふだんの行状を残らず信者に触れて歩くぞと云って、うるさく責め付けるというわけです。

 しかし善昌も堕落坊主を思い切ることは出来ない。お国はいよいよ躍起やっきとなって、どうしても男と手を切らなければ与次郎殺しの一件を訴人するから覚悟しろという、おそろしい手詰めの談判になって来たので善昌もいよいよ困った。勿論、お国も与次郎殺しの徒党ですから、迂濶にそれを口走れば自分の身が危いので、ただ嚇かすばかりで思い切ったことも出来ない。それを知って、善昌もいい加減にあしらっているので、お国はますます焦れ込んで、何がなしに善昌を困らせてやろうと思って、祈祷の中日なかびの前夜に押し掛けて行って、大事の弁天様を無理無体にかつぎ出してしまったのです。これには善昌もまったく困って、信者にはいい加減の出たらめを云って、誤魔化しておいて、お国の方へいろいろに泣きを入れると、お国もようよう納得して、きっと覚光と手を切るならば戻してやると云って、十五日の夜ふけにかの木像を返しに来たんです。

 それから先のことは、なにぶん一方のお国が死んでいるので、善昌の片口だけではよく判りませんが、ともかくも二人が酒を飲むことになって、お国が油断して酔ってしまったところを、善昌が不意に絞め殺したらしいのです。本人は一時の出来心だと云っていましたが、どうも前から巧んだことらしい。善昌はどうしても覚光のことが思い切れない、さりとて打っちゃって置けば何を云い出すか判らないという懸念があるので、とうとうこんなことになってしまったんです。お国の死骸には自分の法衣ころもを着せかえて、わざと手足を縛って、台所の揚板の下へ引き摺って行って、まだ少し息の通っている女の首を……。いやどうも残酷な奴です。

 こうして、自分が強盗に殺されたように仕組んだ以上、うかうかしてはいられないので、有り金は勿論、目ぼしい物は一と包みにして弁天堂を逃げ出すことになりました。お国の首は滅多なところへ隠されないので、これも抱え込んで行ったのです。ゆく先は普在寺で、覚光に一切のことを打ち明けて、当分はここに隠まってくれと云われた時には、さすがの覚光も顔の色を変えて驚いたが、迂濶に善昌を突き出すと、自分の女犯にょぼんその他の不行跡が残らず露顕するおそれがあるので、迷惑ながらともかくも隠まうことにして、お国の首は墓地の隅に埋めて置いたというわけです。わたくしも新らしい卒堵婆をたてた墓がどうもおかしい、そこを掘ったらばお国の首が出るだろうと思ったんですが、むかしでも墓荒しは非常にやかましいのですから、そのときは一旦無事に引き揚げて、町方まちかたからあらためて寺社奉行へ届けた上で、わたくし共が捕り方に出向きました」

「善昌は素直につかまりましたか」

「わたくしが先ず住職の覚光に逢って光明弁天堂の善昌という尼がこの寺内にいる筈だから引き渡してくれと云うと、坊主も最初はしらを切っていましたが、そんなら墓地の新らしい墓を掘らせてくれと云うと、坊主ももう真っ蒼になりました。善昌も覚悟したとみえて、この掛け合いのあいだに裏口からぬけ出そうとするところを、そこに張り込んでいた熊蔵に取り押えられました。こいつも強情で、最初はなんとか彼とか云い抜けようとしていました。木像に油の匂いがする、死骸の手にも油の匂いがする。墓地からはお国の首が出るというのですから、もう逃がれようはありません。とうとう恐れ入って白状しました。善昌は無論に獄門です。覚光も一旦は入牢じゅろう申し付けられ、日本橋にさらしの上で追放になりました。

 そこで、問題の蝶合戦ですが、善昌も覚光という相手が出来て、それに入れ揚げる金が要るので、なにか金儲けの種をこしらえようと思っているところへ、井伊大老の桜田事件などが出来しゅったいして、世間がなんだかざわ付いているので、そこへ付け込んで今年もまた大騒動があるなどと触れ散らかし、祈祷料でも巻きあげる算段をしていると、丁度かの蝶合戦があったので、お有難連はすっかりけむにまかれて、これはきっと何かの前兆だということになったので、善昌は万事思う壺にはまって内心大喜びでいると、それがお国には面白くない。善昌が金儲けをすれば、きっと覚光のところへ運んで行くだろうと思うと、いよいよ妬けて堪まらないので、本尊の木像をかつぎ出すやら、坊主と手を切れと責めるやら、大騒ぎをやった挙げ句の果てが、更にこんな大騒ぎを仕出かしてしまったんです」

「その弁天様はどうなりました」と、わたしは訊いた。

「善昌の仕置がきまると、弁天堂は取り毀されましたが、始末に困ったのはその木像で、かりにも弁天様と名の付くものをどうすることも出来ない。さりとて引き取る者もないので、とうとう評議の上で川へ流すことになりました。それが流れて行くときに一匹の白い蛇が巻き付いていたという評判で、それは善昌の魂だなどと云い触らす者もありましたが、なに、それはみんな嘘の皮で、むかしの人はややもすると斯ういうことを云い触らす。又すぐにそれを信用する。畢竟ひっきょうそれだから善昌の尼などの食いものになったのでしょうね。おや、雨の音がいつの間にか止んだようです」

 老人は起って縁側の雨戸をあけると、わたしがこの長い話に聴き惚れているあいだに、雨はとうに晴れたとみえて、小さい庭にはびっくりするような明るい月の光りがさし込んでいた。

底本:「時代推理小説 半七捕物帳(二)」光文社文庫、光文社

   1986(昭和61)年320日初版1刷発行

入力:tat_suki

校正:ごまごま

1999年829日公開

2005年127日修正

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